第十一話

献詞

天城 一 

 先生
 思えばはるかに昔のこととなってしまいましたが、戦後の混乱の時代に池袋駅に降り立って、よくも無事に先生のお宅を尋ね当てたものと、いまも感心しております。昔風の者ならば、神仏の御加護があってのことと、言わなければならないでしょう。後年、池袋駅に降り立ちましたときは、昔どう歩いたものか、見当もつかぬ有様だったことを告白します。
 剣次氏を交えての夜遅くまでの歓談は、先生と親しく話を交えた唯一度の機会になりました。半世紀近くなってしまった過去のこと、長時間に及びまして探偵小説の周辺を巡ります御抱負を伺いながら、いまとなっては再現するに由もないとは、弟子としてはまことに申し訳ないと存じます。束脩代わりにと御嘉納頂きました持参の原書がセーヤーズの著書であったことは記憶いたしますが、題名が何であったかは憶えぬ不始末です。
 当時の私は処女作《不思議の国の犯罪》を檜舞台「宝石」誌に御推挙頂きましたとはいえ、復員しての名残りをまだ留めていたにちがいない一介の青年研究者でした。未熟にして不敏な駆け出しの新人の突然の訪問にもかかわらず、快く座敷にお通しくださったばかりでなく、わざわざ剣次氏を電話でお呼び頂きました寛大なお心は肝に銘じました。大御所とも呼ばれる人の人間の大きさをお示しになったと思いました。
 そのときから、先生の門下の末席に連なるものとして、探偵小説の為に微力を尽くしたいと念願いたしました。残念ながら、日曜作家でございましたので、御存命中に十分の作品を書くに至りませんでした。「宝石」誌を御編集になられておられました頃に、先生のお役に立てなかったことは終生の痛恨事といたします。

 先生
 今生、先生を語ります最後の機会となると存じますので、受けました御恩顧について、何よりも先に語るべきであろうと存じますが、拙作についての上述の御推挙に次ぐものとして挙げますことは、皮肉になると思いますが、真実でございますので、お許しを願わなくてはなりません。
 戦前、思想の取締りが厳格であったことは、今日では想像を絶するものがありました。特高と略称される思想警察の猛威については、長く語り草になっていたものでしたが、私は特高の被害を蒙りませんでした。
 現在でも捜せば蔵書の中に特高について書かれた戦前の文書があるはずなのですから、私がその存在について知らなかったわけではありません。国禁の著書を読まなかったわけでもございません。読んでいることを特高に発見されれば、いかなる目に遭わされるかは十分に承知していました。
 1930年代には、古本屋で捜せばマルクス主義の文献はいくらでも手に入りました。よく例として挙げるのですが、私はクラウゼヴィッツの《戦争論》を実はレーニン《哲学ノート》でしか読んだことがありません。和独対訳になっていたので、半ばは原文で読むという御利益がありましたが。おかげで、戦争末期に陸軍将校として服務したとき、《戦争論》の知識の故に、部隊長から戦略に心得のある珍しい幹部候補生として、一目置かれる幸運に恵まれました。これもレーニンの御利益と言うべきでしょう。
 しかし、その私でも、特高が旧制高校の理科系のクラス雑誌まで目を通していようとは思いませんでした。よほどお暇か人員過剰かと疑いますが、知っていればまさかそこにマルクス主義的方法による《探偵小説の過去と未来》を寄稿するような無謀なことはしなかったと思います。
 拙編は標題からして当時の社会に対するプロテストでした。弾圧されていましたから、探偵小説には現在がないという皮肉で、あるのは過去と未来だけというわけです。私の歴史についての論文を書くときの二つの癖が丸出しになって、小倉金之助ゆずりの外部史として、探偵小説の発生を資本主義社会の頽廃に帰します。当然のことですが、社会が改革されて頽廃の原因がなくなれば犯罪もなくなるから、探偵小説も消滅するというまことに簡単明瞭な未来図です。癖の他の一つは、マルクス主義的分析を使うときは、マルクスのマの字も書かないということです。おかげで、このマルクス主義的探偵小説論は特高のお目にはとまりませんでした。
 ところがこの雑誌は特高の目に留まって、ある文章がきついお叱りを蒙り、編集責任者と著者は警視庁に呼びつけられてさんざん油を絞られた末、始末書を取られました。雑誌は1号で中絶しました。この報告を聞かされたとき、何故拙文が特高の目を逃れたのか、いささか思案に苦しみました。始末書を取られた文章は素朴なもので、戦争にはありがちの兵士の粗暴な行為を本人の口から語るままに記述したまで、サーキュレーションの限られたクラス雑誌にクレームをつけるほどのことではないと、私には思えた程度のものでした。それが叱られて、マルクス主義的分析を堂々と述べた拙文がフリーパスとは、全く意外でした。
 永くかかってたどり着いた結論は、探偵小説を読むなど阿呆の証拠、特高が論ずるに足りないと、お目こぼしどころか歯牙にもかけられなかったのではないかということでした。実際、探偵小説を読んでいるからという理由で、クラスメートからも十分に馬鹿扱いされました。ポーの探偵小説をニュートン主義の宣伝文として、啓蒙主義の一形式と考えている私にとりましては、このような扱いの理解に苦しみますが。
 種々思案の末、その原因は先生の通俗探偵小説の流した害毒だと考えいたりました。この発見は決して簡単に到達できたものではありません。たぶん、軍隊での生活がなかったならば、到達不可能だったでしょう。正直に申しますと、実は誠に心外の至りの発見でした。
 誰でもそうだと言えば一部の方から叱られましょうが、先生の御著作全体のなかで、純粋探偵小説愛好者が尊崇してやまないのは初期の短編です。大正デモクラシーの余韻を響かせるばかりでなく、今は失われてしまった江戸から東京へと生き延びた世界がそこには見られます。芥川や菊池の純文学とも共鳴の音を響かせるものがあります。ところが、寛の啓吉物などは今でも読まれて良いと思われるのに、既に遠い過去に葬られてしまっていることを考えますと、先生の短編探偵小説の生命力の長さには深い感銘を受けぬわけには参りません。しかし、世間的には、先生の名声は後年の通俗長編探偵小説に負っております。

 先生
 誠に愚かな至りと自戒いたしますが、私が明白なその認識に達しましたのは遥かに後の1954年頃でございました。たまたまKTSC(関西探偵作家クラブ)の例会の席上で、島久平氏がその頃翻訳されて話題となったミッキー・スピレーンの通俗ハードボイルド小説《裁くのは俺だ》について、「スピレーンは乱歩だ!」と喝破しました。KTSCは歯に布を着せぬ発言で有名でしたから、その中の一齣、たぶん肝に銘じたのは私ひとりだったでしょう。それから40年になろうかという今日まで、島発言を巡って考え続けているといっても間違いではありません。
 島発言が私を啓発した最大のものは、探偵小説とファシズムの浅からぬ相関関係でした。なぜそれにもっと早く気がつかなかったのかと不審に思うほどです。
 どなたも、いやしくも探偵小説の歴史に関心があるものは、その《黄金時代》という期間が、戦間期と一致することを知っているはずでした。フレッチャー《ミドル・テンプルの殺人》(1919)とクロフツ《樽》(1920)に始まる長いリストは、「マスター・オブ・ミステリー」と呼ばれる輝かしい探偵作家を網羅していると申しても過言ではありません。その輝くリストはクィーン《Yの悲劇》の1933年、つまりナチスによる第三帝国の創立の年を以て、幕を閉じることもまた記憶に値することではないでしょうか。探偵小説の黄金時代はかのワイマール時代と完全に重なります。
 気がつくと、それを公のものとしなければならぬと信じる研究者の慣性が(無用の註を挿入いたしますと、その最初の犠牲者はロンブローゾが狂天才と呼んだカルダノで、3次方程式の解法がそれでしたが)《アメリカ11才に達す》という文章を同人誌に書いて出してしまいました。後の人はこれを私の愚行の最たるものの一つに数えるでしょう。
 拙文は案外に好評でした。中島河太郎氏がお褒めくださいました。図に乗って、大学が出している数学教育関係の雑誌に再録を後年出したほどでしたが、私自身はアメリカがベトナムへのめりこむ機縁を含んでいることを予察した点で、分析の正しさが立証されたものと誇りました。分析の手法がやや古く、フロイト左派の上にしか立っていないということに気がつくには、まだ永い時間がかかりましたが。
 当時理解したように、ファシズムをただ権威主義的な大衆の性格に基づくとするのは誤りでしょう。サド・マゾヒズムがその標徴となることはまちがいないと思いますが、それをもって終わりとするならば、今日勝ち誇る資本主義社会の正統性にただ左袒するだけに過ぎなくなるでしょう。もっと深いものを見失っています。
 しかしそれはともかく、先生の通俗探偵小説がサド・マゾヒズムの精華を配して、戦前の日本社会を席捲した事実は、一言に驚異で片がつくものではありませんでした。黄金時代の古典的探偵小説の翻訳が僅かに二千部で止まる時代に、先生の全集は二十万部を数えたといわれます。探偵小説という概念が「乱歩」と一致してしまって、大衆どころかインテリまでそう信じてしまったということは、笑って過ごせるものではなかろうと存じます。その結果は、探偵小説愛好者とは変態の一形態とみなされ、特高の俊敏な刑事共でさえ、マルクス主義的分析をもって資本主義社会の未来を一刀の下に裁断した評論を、見咎める事なく看過することになったというべきではないでしょうか。
 しかし、拙文が先生の御感情を害したことは少なくなかったと思います。先生からは幾つかの御著書を恵与されましたが、その中で扉に御署名があるのは《続・幻影城》だけでした。
 この御本は二つの点で、私を弾劾するものであることはすぐ気がつきました。第一は、類別トリック集成の中から、私の寄与を一切抹殺されておられることです。そして第二に、中島氏の言葉を引かれて、戦前の通俗長編小説に対して、「探偵小説を大衆に普及した功績と、今なお探偵小説に対する知識階級の偏見を生んだ」罪悪を比較して、「むしろ害悪のほうが大きかった」と自己批判されておられることでした。
 私はいささか皮肉に、先生がお褒めになられた《ワイルダー家の失踪》に対する批判のため、《明日のための犯罪》を「宝石」に送り、ブリーンのトリックをお褒めになった探偵作家の中のトリッカーとしての御素質を諷しました。拙作は意外にも高く評価され、剣次氏さえ代表作の一つと見なされたのには驚きました。私は20年間筆を折りました。

 先生
 戦争直前に公にされましたレヴィットの《ヨーロッパのニヒリズム》をおそらくご覧になったことと存じます。当時この文章はかなりの反響を呼んだものでした。著者は東北大学で哲学を講じたユダヤ人の哲学者で、ハイデガーの高弟でした。ナチスに追われてドイツを去って日本に一時の憩いを求めたものの、その日本がナチス・ドイツの吹く笛に踊らされて、ファシズムの波頭に乗る気配をみて、警醒のために書かれた一文でした。残念ながら、日本の政策決定はもはや知識人の手の及ぶところにはありませんでしたから、警告は何程の効果もありませんでした。レヴィットは身を案じて翌年には日本を去り、アメリカに難を逃れねばなりませんでした。
 当時東北大学の学生だった私には、このレヴィットの文章は深刻な影響を及ぼしました。特に師のハイデガーに対する批判の激しさと厳しさは、若い学生であった私には驚異でした。その頃、学生ながら既に処女論文を公にして、一応一人前の研究者を気取っておりましたが、ある深刻な壁に直面しておりました。その壁とは、恩師の持つ恐ろしい能力でした。写真機的記憶力と表現する以外に言葉を知らないのですが、努力する事なく見たものを見たままに記憶することができました。そのような能力があることは聞き及んでいましたが、私の目の前に壁と立つとは思いませんでした。いかにして恩師と対抗するか、対抗できなければ研究者としてその未来はないも同然に思えました。
 師を乗り越えるには、師を厳しく批判せねばならぬと、私はレヴィットから教えられました。それがヨーロッパの独特な特性だとははじめて学びました。それは凡そ東洋の習慣に反する行為です。しかし、レヴィットによれば、師に対する批判は自己批判の始まりでした。自己の中に潜む師による制約から自由になるために乗り越えなければならぬ最初のバリアーといっても過言ではないでしょう。そこを乗り越えてこそ、本当の、東洋的な意味でも、学恩に報いる所以だと、私は今も信じております。
 これは私の門下生が最近行った武勇伝で、複数の方々からその子細を訴えられましたが、師に対する批判の一例として記して置きたいと思います。彼はある大学で助教授を務めておりますが、教授の還暦の祝賀会の席上で教授の業績について述べなければなりませんでしたが、処女論文とも言うべき学位論文を激賞して、その他は論ずるに足りないと切り捨てました。他の分野ならば助教授は席を追われかねないでしょうが、私の専攻分野では率直な批判は当然のこととされておりますから、彼が不利益処分を受けることはないでしょう。その伝統を育てたことが誇りです。
 探偵文壇が日本の慣習通りに師に対するこのような無礼さを許さないところとは、その当時まだ十分には認識しておりませんでしたし、私の差し上げた私信はたぶんそれ以上に無礼であったと後悔しておりますので、以後年賀状を交換する以外にはほとんど接触を失いましたのは仕方がないところかと存じます。だからといって、私が探偵小説について情熱を失ったわけではありません。極端に申せば、先生の提示された「一人の芭蕉の問題」は念頭を去りませんでした。
 先生の問題は1947年「ロック」誌に掲載されたもので、本来は木々高太郎の探偵小説文学論に対する反論でした。おふたりは探偵小説が文学でなければならぬと信じておられましたが、探偵小説創作の方法論の上で大きな差があるとお考えでした。
 先生の御主張は、探偵小説の創作に当たっては、何をおいてもまずトリックだということでした。トリックを考案することから、そのトリックにふさわしい(可能な限りリアルで必然的な)犯罪を囲む人間関係を生み出すべきで、その逆ではありえない。それがたとえ一般文学のリアリティに反するとしても、それは探偵小説の宿命である。この方法を否定してリアリズムの文学の道を歩むならば、それはもはや探偵小説の否定以外にないということと要約できましょう。
 科学と文学、合理と非合理、この基本的な対立矛盾を克服するためには俳諧を文学に、至高至上の芸術とし、哲学とした芭蕉の惨苦を悩む気魄がなければならぬとするものでした。
 大正から戦前の昭和時代と、探偵文壇の大御所として、実地に悩み続けられ、《心理試験》を初めとする名作を世に送られてきた実績を踏まえての発言ですから、当時探偵小説を書き始めた若者達の胸を打つものがあったのは当然でした。私もその一人でした。

 先生
 「私は少年時代から探偵小説に心酔し、かなりの素質を持っていたはずであるが、いざ書き出して見ると、二、三年で息が切れてしまった。眼高手低の劣等意識に悩まされたのである」(続・幻影城 p.270)
という御告白には胸を突かれます。誰もが人生の旅路のなかで同じような体験に震え上がった記憶を持っているでしょう。豊かな才能の持ち主が、むしろその才能の豊かさの故に、絶望に責めさいなまれて、挫折して行く姿を見ることは珍しいことではありません。青年でさえ乗り切れない絶望を、大御所が抱く恐ろしさに戦慄を禁じえません。
 上記の探偵小説についての御発言から理解すれば、先生のお悩みは単にトリックを思いつかないということにすぎないことになります。たしかにトリックについて良い着想がないことは、探偵作家として深刻なお悩みの原因にはなろうかと思いますが、失礼ながら反問させて頂きます。
 「トリックというものは、探偵小説にとってそれほど尊いものか?」
 釈迦に説教で恐縮でございますが、トリックということばは日本語で、しかも先生の御造語でした。英米の探偵小説社会ではトリックなどという英語はないことを、先生はよく御承知のはずでした。ことばがないほどですから、トリックが探偵小説のアルファでありオメガであるなどと主張する人の存在は不可能でした。
 一例として、トリックの名手と見られているクロフツを挙げましょう。“Author's Handbook”1936年版に彼の《探偵小説の書き方》が掲載されています。幸いに戦前の探偵小説専門誌「ぷろふぃる」にさる方が翻訳を載せておられましたからご覧になられたと存じますが、そこにはトリックなどほとんど触れてはおりません。「幸運にも良いアイディアで書き始めることができるとするならば」それは次の五つの中の一つと列挙するとき、書き出し、クライマックス、犯罪の方法、からませるサブプロットとしての詐欺などの犯罪、舞台が挙げられますが、読者を欺くための技巧はただ証拠の提示の技術として述べられているだけです。
 具体例でも、トリックなど少しも重要性がない名作が幾つもあります。《心理試験》は代表的なものです。練習によって反射をはやくすることができるなど、誰もが承知している知識以前の知識です。それが、犯罪捜査における心理試験を打破するという御主張は、むしろ学術論文的なもので、実験をすることができない心理学者がゲダンケンエクスペリメントを行った報告書のようなものです。嘘発見機の正確度についてのチェスタートンのブラウン神父による揶揄はよく知られていますが、《心理試験》の明快さと学術性には遠く及びません。
 ここで、脱線をお許し願いますが、《心理試験》に匹敵するフィクションの形を取った「学術論文」は独多甚九《網膜物語》があるだけでしょう。戦後の混乱の中で夭折した著者は、網膜が個人をアイデンティファイする点で指紋以上に有効だと発見しました。この発見を当時の技術水準では実証することは不可能でしたが(現在では偽造できないもっとも確実な「パスカード」として実用されていますが)、探偵小説の形ならば世に残すことができました。この作品を戦後の名作に推すのは私だけではありません。鮎川哲也氏もその一人だと記しておきましょう。
 全くのフィクションでも、多くの具体例を挙げるのに困難はありません。《奇妙な足音》をチェスタートンの数ある傑作の中でも第一の傑作に推す人はたくさんいます。しかし、この作、トリックらしいトリックなどは、何一つとして含んではおりません。この作の主題は階級社会のばかばかしい風習についての風刺です。バーナード・ショウが《チョコレート兵隊》の原作《武器と人》で行ったような、当時の社会の構造的としか言い様がないばかばかしい状態を嘲るためには非常に適切な手段でした。それがなお我々の時代でも(ショウの戯曲が過去のものとなって上演されないのとは違って)生き生きとしているのは、ばかばかしさがまだ過ぎ去ってはいないからでしょう。
 密室犯罪の古典的傑作とされている《見えざる人》にしても、発想は明白なものは見えないという護教的な主張で、トリックとして提示されているものではありません。ポーの《盗まれた手紙》にしても同様でしょう。ポーはトリックなどで読者を欺くつもりなど毛頭なかったでしょう。
 探偵小説の本場の海の彼方でもないものを、なぜ先生は探偵小説の一番肝心なものに据えてしまったのでしょうか。

 先生
 この謎を解くためには長い時間が掛かりました。先生の性格とか、思考の傾向とか、芸術上の好みとかには関係がないこと、基本的には先生がこのテーゼを紡ぎ出された昭和初期の社会を視野に入れる以外に道はないと理解するためには、池田浩士《転向と探偵小説》(思想 1981年11月号)を待たなければなりませんでした。
 先程引用いたしました御告白の続きに、先生は当時の先鋭な文芸評論家平林初之輔の言葉を引かれておられます。しかし、そこで見るものはただ適切な的を射た忠告を受けたというだけのことです。戦間期、大衆社会の出現に目覚めて、ルー・メルテンの美学と同じ水準の芸術観を先取りして、その立場から先生に最も期待した平林の燃える思いは、残念ながら先生には通じなかったようです。平林の簡潔でしかもその時代背景の中での役割を明確に描いた池田氏の評伝は、私に新しい展望を開きました。
 説明のためには、ハーバーマスによる小説の社会的機能から始めるのが適切でしょう。小説が社会にとって大きな役割を担ったのは19世紀の市民社会の興隆以後のことです。パブリックが成立して、そこにおけるコードブックの任務を小説は果たしました。しかし、基盤となる社会は第一次世界大戦の結果崩壊して、替わって大衆社会が出現しました。当然のこと、小説がこの新しい社会に果たすべき役割は変動し、かってもてはやされたリアリズムを初めとして諸々の様式もまた変動を免れないと平林は予察しました。この判断は時代を抜きん出たものといえたでしょう。探偵小説が社会の成熟なしには成立不可能と看破して、読者の参与を求める点で時代の要求に添う新しい文学型式ではないかと判断したようでした。「新青年」に少なからぬ探偵小説を寄稿したことはよく知られていますが、探偵小説界にはその背後にあった期待は伝わりませんでした。
 皮肉なことですが、平林は先生の作品に科学性と文学性を止揚する可能性を、一言に要約すれば《一人の芭蕉》を夢見たようでした。平林はその夢が萎むまでは生き長らえませんでした。1931年にパリで客死しました。しかし、たとえ平林が長生きしたところで、夢が現実になることを見ることはできなかったでしょう。先生が御自身で芭蕉になる可能性は御否定になったでしょう。それどころか、読者の参加を求めるという探偵小説の当初のスローガンはまやかしでした。戦前の先生の御随筆は既に明瞭に平林の夢を裏切っています。探偵小説は読者に参加の夢を与えると称しながら、実際は読者を操作するにすぎませんでした。
 1920年代は操作が万能の時代でした。抽象代数学では操作を要素とする説明が横行していました。物理学ではブリッジマンの《現代物理学の論理》が科学の世界に操作主義を導入し量子力学を基礎づけました。操作と対をなす機能主義が建築界を風靡して、バウハウスをワイマール時代の唯一つの永続的精華だとする誤解は文化界を広く席捲しています。そして最後に、池田氏が機能主義の極致とする(いささか買いかぶられていると思いますが)ファシズムが次の15年を制覇します。
 この時代背景によって先生のテーゼは理解できます。市民社会の崩壊に替わって出現した大衆社会における新しい小説のあり方として、読者に対する作者の操作が登場したわけでした。しかし、それでは、探偵小説はファシズムの隣に席を占めることにはならないでしょうか。
 先生は《Yの悲劇》を推奨されました。読者に対する作者の見事な操作は愕然とする程のものがあります。以後現在に至るまで、この作品は探偵小説の典型として君臨し、エピゴーネンは絶え間なく生産されてきました。ところが、作者のクィーンは来日する度に称賛に当惑しています。それは、日本の読者に理解されていませんが、プロットがナチスの隣に席を占めているからです。犯罪者の先天的素質を持つ少年は抹殺されねばならぬというのであれば、アウシュビッツは正当化されるでしょう。
 先生のテーゼは時代風潮を探偵小説の分析に適用したものでした。非常な成功であったことは否定できません。抽象代数学が、量子力学が、バウハウスが成功であったように、時代を吹き抜ける風でした。しかしそれがドグマと化して、探偵小説の骨格がトリックでなければならぬということになってしまうならば、恐るべき弊害を招きます。作者と読者の知恵比べが探偵小説だと理解されてしまえば、探偵小説を書くという行為が、極めて胡散臭い行為となるでしょう。探偵小説は社会ダーウィン主義の文学化として、ファシズムそのものに転化するでしょう。

 先生
 先生の最大の失敗は明智小五郎の創造ではなかったでしょうか。将門に次ぐ日本第二の反逆者の姓を受けたこの人物は、果たして先生の意を承けた者であるか、私は疑います。いつかは抹殺すべき反逆者として生み出されたのではなかったでしょうか。闇の中に灯を点してクラリファイする人物ほど、先生の体質にそぐわぬ者はありません。
 「昼は夢のようにしか感じられない。夜の夢の中に私の本当の現実がある」とポーの言葉を引かれ、倉の中に籠もって《幻影の城主》を気取られた先生は、明智と最も反対の対極におられたのではないでしょうか。
 誰しも成功ほど人を欺くものはありません。先輩の一人は著名な成功のため、その後は万事が成功を収めた様式で捉えられると過信して、生涯を失ったように見受けられました。明智の成功は先生を「本格」探偵小説の《鬼》と化してしまいました。鬼はトリックによって人を欺きました。最も欺かれたのは先生その人であり、先生をカリスマと仰いだ戦後の推理小説界ではなかったでしょうか。その中で、先生は自ら描いた探偵小説の夢に溺れ、トリックの不毛に嘆かれました。
 先生の御本領は、平林が期待した科学性と芸術性の止揚ではなく、夜の闇に潜む美しさを描く耽美主義ではなかったでしょうか。一面の暗闇の中に美しさが潜むことを、日本人は先生から学んだといっても過言ではないのではないでしょうか。後に三島は《黒蜥蜴》を脚色して上演していますが、三島の耽美主義には先生の影響が色濃く見られるとするのは、身贔屓のせいでしょうか。三島一人でなく、戦時下の大衆を魅了したのも、同じ耽美主義だったと考えます。先生に対する、従って探偵小説全体に対する激しい弾圧は、エロティークを恋闕にしか許しえない軍部と革新官僚達には、先生が強敵であったからではないでしょうか。
 ここに先生の御生涯のイロニーがあります。先生が夜の闇を徘徊されておられたとき、明智の対極に立たれたとき、先生は大衆の強い支持を受けておられました。陸大、海大、帝大の秀才達にとって先生は最大の強敵でした。体制は先生の執筆を禁止できました。しかし、先生に公敵ナンバー・ワンの烙印を押すことはできませんでした。先生の通俗探偵小説は、戦線でもその背後でも、兵士達によってぼろぼろになるまで読み継がれていました。それにつられて、兵士達の志気を維持するために、禁断のはずの探偵小説が、印刷刊行されていたように思います。私自身大陸で部下から借りて、ステーマンの未訳のはずの作品の翻訳を読んだ記憶があります。まことに失礼な申し分ですが、先生は知者を辱めるために神に選ばれた愚者の役割を演じられました。
 戦後、先生は明智の側に立ち、昼の光を浴びられました。大御所の地位を占めて、カリスマになられました。しかし、そのとき、先生は最も苦手とするトリックの創造に行く手を阻まれました。前途を開くために内外の文献を渉猟されて《類別トリック集成》を編み、探偵小説の世界の一切の《趣味の判官》となりました。創作家として体制の敵として知者を辱められた先生が、評論家として自ら知者になったとき、来たるべきものの独創を妨げる体制にならなかったでしょうか。先生のレジームの下に、トリックが探偵小説の基本ではないという自由は失われてしまっていなかったでしょうか。
 《密室作法》は先生の御存命中に書いて「宝石」に載せたものでした。私は先生のご意向にあえて反して、密室トリックなどはさして困難なものでもなければ、驚異的なものでもない、「密室トリックを崇拝するな」と、後人に忠告しました。そのうちの一つ、一見即死風の内出血密室は、実作をKTSCの例会で読んだことがありました。残りも幾つかは直ちに書き下ろすことができましたが、当時私は本業で極端に多忙で、20年後まで探偵小説を執筆する機会がありませんでした。密室トリックなど容易に創作できると証明するためには、実作を提示する以外に道はないようです。
 ここに提示するのはほとんど1970年代に初稿が書かれたものばかりです。先生のご覧に入れて、先生のテーゼを反証することがもはやできなくなってしまったことを、深く残念としますが、先生の思い出のために、これを捧げたいと思います。

1991年立秋


天城一〔あまぎ・はじめ〕大正8年(1919)1月11日−
初出・底本 平成3年(1991)/『密室犯罪学教程』1991年11月25日、山前譲発行/p.5−17
掲載 1999年10月29日(執筆者のご承諾をいただきました)
番犬追記 執筆者のご了解を得て、底本の誤植を訂しました。なお、文中の「恋闕〔れんけつ〕」は、手許の新潮国語辞典、大辞林にも見えませんので、老婆心ながら語意を記しますと、「宮闕を恋いしたうこと。宮城を恋しく思うこと。君主を思うたとえ」(日本国語大辞典)。「闕」は宮殿の門の意です。