第十二話

書簡

萩原朔太郎 

昭和六年(四十六歳)

 四〇〇 江戸川乱歩宛

 十月十日頃(推定) 局不明 封書
 東京市外戸塚町源兵衛一七九、江戸川乱歩様、
 東京府下世田ヶ谷下北沢一〇〇九 萩原朔太郎

 拝啓
 初秋の候御健盛で大慶に存じます、貴下とは未だ面識の機会がありませんが、御創作は常に愛読してゐる次第です、
 さて一寸したことで御教示を仰ぎたいことがあるのですが、手紙ではお話し致しにくく、一度御訪ねして直接御伺ひ致したいので、勝手乍ら御都合よろしき日、時間を御知らせヒ下度御願ひ致します、尚、道筋及び貴邸への畧図御教へ下さらば幸甚に存じます、御近所の茶店などにて御持ち合せ下さるもよろしく、つまらぬ用件ですが御面会の際申しあげたく存じます、

敬具、

萩原朔太郎  

  江戸川乱歩様

 江戸川乱歩(明治二十七年十月──昭和四十年七月) 三重県生れ。本名平井太郎。推理小説界に大きな業績を残した。朔太郎は乱歩の小説を好み、アマチュア・マジッシャンズクラブを通じて交友があった。


 四〇二 江戸川乱歩宛

 十月十六日 局不明 封書
 市外戸塚町源兵衛一七九、緑館別邸、江戸川乱歩様
 府下世田ヶ谷下北沢一〇〇八、萩原朔太郎

 啓、
 昨日は始めて伺ひ、所々珍しき所を御案内下された上、とんだ御散財まで相かけ恐縮に耐えません。実はマッサーヂの家を御教示に預かりたく、その内意にて御訪ねしたる次第なるも、然に情意投合して面白く、近頃になき愉快な半日をすごしました。小生も同好趣味の友人なく、平常・寂寞に耐えざるところ、思はざる好知友を得て半生の喜悦と満足を感じました。マッサーヂの件などは何うでもよく、今後共親交御願ひ致したく切望します。昨夜のユーカリは特別に面白く、お様にて未知の猟奇趣味を満しました。稲桓君にも近く御紹介申すべく、尚、小生方へも御遊びに御出でヒ下御待ち致します。先は御礼をかね御挨拶まで。   敬具。

萩原朔太郎  

  江戸川乱歩様

 追伸、小生は自分に関して秘密主義を守り、友人等にも一切自をかくしてゐる性分ですから、成るべく他人には御内密に御願ひ致したく折入つてお願致します。

 稲桓君 稲垣足穂のこと。

昭和八年(四十八歳)

 四一九 江戸川乱歩宛

 五月二十七日 世田谷 封書
 市内芝区車町八、平井太郎様
 市内、世田谷区代田一丁目六三五、萩原朔太郎、

 御無沙汰して居りますが、御機嫌如何ですか、新しく御発見の奇もあらば御教示下され度御願ひ申上げます。
 別送の如き個人雑誌「生理」を発刊致しました。表紙の感じで内容を盛りたいと思ふのですが、小生近頃作品なく、且つ寄稿者の顔ぶれがちがふ為、表紙と内容とが、別々になつて困つて居ります。是非一つ貴下の御応援を御願ひ致したく、折入つて御願ひ申します。もとより個人雑誌の道楽仕事ですから、御執筆に対して稿料等の御礼を尽すことができませんので、甚だ申しにくい話ですが、何か特殊の御作で、普通の様式で発表されるのを好まないやうなものが御有りでしたら、組方、体裁等に意を用ゐて、充分芸術的香気を出すように致しますから、是非御願ひ致します。小生も新居落成して、少し落付きましたので、近日一度御遊びに御出でヒ下度御待ちして居ります。

敬具、

萩原朔太郎  

  江戸川乱歩様

 平井太郎 江戸川乱歩の本名。この書簡以後、乱歩宛書簡は全て本名で発信されている。


 四二〇 江戸川乱歩宛

 六月三日 世田谷 はがき
 市内芝区車町八 平井太郎様
 東京市世田谷区代田一丁目六三五 萩原朔太郎

 御返書拝見、御厚意に甘え、御寄稿を御待ちして居ります、雑誌が少しかたくなりすぎるので、軽い随筆や感想のやうなものが欲しいのですが、御気が向いた時、是非御執筆ヒ下度、〆切や紙数の制限など、一切自由にしてありますので、散歩のつもりで、是非御願ひ申しあげます、失礼乍ら御願ひまで、

敬具、

 このはがきの用件は『生理』への寄稿のことと思われるが、江戸川乱歩は同誌に一度も執筆しなかった。

昭和十年(五十歳)

 四八六 江戸川乱歩宛

 十一月十一日 世田谷 封書
 市内豊島区池袋三丁目一六二六、平井太郎様、
 市内世田谷区代田一ノ六三五、萩原朔太郎、

 久しく御無沙汰致し居りましたところ、思ひがけなく御高著御恵贈に預り御厚情まことに嬉しく深く御礼申上げます。近来久しく探偵小説を読まず、名作に渇望致し居り候ところ、文壇的に好評高き貴著に接し渇者の水を得たる如き思ひを致しました。早速拝見致したく、まことに楽しみのことに存じます。読後所感あらばまた申し述べたく、先は取り敢ず御礼まで申上げます。

萩原朔太郎、 

  江戸川乱歩様
       侍史


 四九〇 江戸川乱歩宛

 十二月十四日 世田谷 はがき
 市内池袋三ノ一六二五、平井太郎様
 東京市世田谷区代田一丁目六三五 萩原朔太郎〔活字印刷〕

 先日は御丁寧な御礼状で恐縮致しました。年内に一度御伺ひ致したく存じますので、貴宅御道筋、御手数乍ら御教示ヒ下度御願ひ申しあげます。

昭和十一年(五十一歳)

 五二〇 江戸川乱歩宛

 七月二十日 局不明 封書
 市内、豊島区池袋三丁目一六二六 平井太郎様 親展、
 二十日、世田谷区代田一ノ六三五 萩原朔太郎

 先日御手紙いだゞいてから、すぐ御伺ひして手品拝見したく、楽しみに思つて居たのですが、連日の炎暑つづきで、とても外出が苦しく、今日までしい日を待つて居ましたが、毎日の炎天で未だに出られない末です。二十二日に旅行しますので、明日でも若ししかつたら伺へますが、暑かつたら旅行後に改めて伺ひます。貴下とはすべて気持ちが合つて、まことに愉快な話対手ですが、そちらで酒を飲まれないのと、こちらでクナーベの趣味がないのと、二つの食ひちがひで寂しいです。クナーベの同好士は、今度同行して伺ひます。「鬼の言葉」の探偵小説論は、少しく唯名論的で、あまり探偵小説といふ言語の概念にロヂックしすぎるかと思はれます。本格ならんことに執しないで、ファンタイを自由に書いものの方が、僕としては欲しいのですが、専家の方の批判がちがふのでせう。その中また。

萩原朔太郎  

  平井太郎様

 二十二日に旅行 昭和十一年七月二十三日、朔太郎は前橋に帰った。
 クナーベ ドイツ語 Knabe 少年の意味。
 『鬼の言葉』 江戸川乱歩の評論集。昭和十一年五月、春秋社刊。

昭和十五年(五十五歳)

 五九七 江戸川乱歩宛

 一月二十七日 淀橋 封書
 市内、豊嶋区池袋三丁目一六二六 平井太郎様
 一月二十七日、市内、世田谷区代田一ノ六三五、萩原朔太郎 電・松沢、二四四三、

 久しく御無音にすぎ失礼してゐます。先日御電話しましたら、御風邪中の由、その後御健康如何ですか。実は詩人の丸山薫君が、貴下に御逢ひしたく、小生に紹介してくれといふので、同行しようと思つたのでした。もし御迷惑でなかつたら、御病気全快後、御都合のよい日を知らせて下さいませんか。尚、丸山君は、稲タルホ君の友人にして、小生と同じく、貴下の小説の愛読者です。

萩原朔太郎、 

  平井太郎様


 六〇四 江戸川乱歩宛

 七月十三日 淀橋 はがき
 豊島区池袋三丁目一六二六 平井太郎様
 萩原朔太郎

 拙著への御批評、たいへん嬉しく光栄に存じました。小生このごろ、マヂシャン倶楽部へ入会して、少しばかり手品を稽古して居ります。近日御邪魔して、下手なところを見ていただきたく存じます。いつ頃御都合がよいでせうか。
 松沢 二四四三番

 拙著への御批評 未詳。江戸川乱歩の書簡による書評と思われる。
 マジシャン倶楽部 朔太郎が「東京アマチュア・マジシアンズ倶楽部」に正式に入会したのは、昭和十二年末か、十三年初めである。

昭和十六年(五十六歳)

 六一四 江戸川乱歩宛

 二月二十五日 局不明 封書
 市内豊島区池袋三丁目一六二六、平井太郎様、
 世田谷区代田一ノ六三五、萩原朔太郎

 暫らく御無沙汰して居ますが、御近況如何ですか。
 さて今度、同封プグラムの如き演劇会を、小生の方のアマチュア・マヂシャン、クラブですることになりましたので、御招待券一枚御送り申しました。当日御ひまでしたら、御出で下さい。小生は出演致しませんが、見物席には居る筈ですから、会場で御逢ひできると存じます。
   二月二十五日

萩原朔太郎  

  平井太郎様


萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう)明治19年11月1日−昭和17年5月11日(1886−1942)
初出・底本 昭和49年(1974)/伊藤信吉・佐藤房儀編集『萩原朔太郎全書簡集』1974年1月、人文書院/p.334−335、p.345−346、p.376−378、p.389−390、p.420、p.423、p.427−428
注記 底本は誤字、誤記を原文のままとし、傍点を附して「ママ」表記に代えている。ここでは傍点のかわりにアンダーラインで示した。「四〇〇」の「御持ち合せ」は「御ち合せ」、「四〇二」の「稲桓君」は「稲君」とするべきだが、底本のままとした。「ヒ下度」とあるのは、正確には「被下度」。「四八六」に見える乱歩の著書は『柘榴』(昭和10年10月、柳香書院)と思われる。
掲載 1999年11月16日