第十三話

怪奇と推理の作家江戸川乱歩氏

T生 

 確証の上らない応接間

 「このへんに江戸川乱歩さんのお宅はありませんでせうか?」さう云ひながら記者は、戸塚源兵衛町の界隈を尋ね廻つた。
 「一寸こゝの小母さんに聞いてみませう。」
 親切な八百屋さんが、今しがた出て来た家の小母さんに僕のいふ通りを伝へてくれた。
 「うちです。お客様なら玄関から来て下さい」
 頗る条理の立つた言葉なので、八百屋さんに別れて玄関に廻つて表札をしげしげと見ると、「平井寓」とあるだけだ。
 なるほどこれでは、このへんに住む乱歩フアンの新青年愛読者にでも出会はない限り、ドヂを踏むわけだ。
 やがて現はれた取次ぎの少女──
 「まだお寝みですが、お起きになるさうですから、少々お待ち下さい」
 僕の眼が腕時計を見ると、十時四十分、やがて十一時にもなんなんとしてゐるのだ。併し人間は正午に昼飯を食べなさいと、法律に規定されてあるわけぢやないんだから、一向構はない筈だ。
 と思つて待つほど暫し、「お通り下さいませ。」の言葉に、日本間の応接室に通つた。掃除がバカに行きとどいてゐて、黒檀の机の上にすら、小さな塵一つ浮んでゐない。そして当の乱歩氏は机の向ふに坐つてゐるのだが、部屋を一わたり見渡しても、何一つ特種として読者にお伝へするものがない。つまり完全に証拠が煙滅されてあるんだ。丸で犯跡がくらまされてゐるんだ。仕方がない。探偵小説家を探偵しようといふ大それた考へを抱いたのが運のつきなんだ。

 先づペンネーム

 「先生のペンネームの由来を伺ひたう存じます。」
 「例のエドガー・アラン・ポーです。」眼の縁のかすかに紅いところから、起きたてゞあることが明白だ。
 「ポーがお好きなのですか。僕も黄金虫やアツシヤー家の没落等は学校で習ひました。」
 「僕が一等さきよんだのは黄金虫なんですがそれですつかり、探偵小説が好きになつたんです。」
 「あれは全く恐ろしい推理ですね。日本でもあんな作品を書く人がゐるんでせうか。」
 「ゐません。」
 「先生の作品では、どんなのが評判になりましたか。」
 「心理試験や陰獣などです。陰獣なんか、エロでグロだと言ふんです。僕はそんな言葉が大嫌ひなんですが。」
 「陰獣なら私も読みました。いろいろな人物が出て来ますが、結局は一人の人間に帰納されて了ふんでしたね。」
 「さうです。あの中に大江春泥といふ探偵小説家が出て来るでせう。僕は、あんな人間なんです。」
 記者は記憶の底から、大江春泥を呼び起してみた。春泥はたしか変態性慾の女性が勝手に造り上げた架空の人物だつたこと、赤いトガツタ帽子をかぶつて、うすつきび悪く深夜を逍ふ人間であつたこと、他人の家の屋根裏にこつそり上つて寝室を覗きこんでゐる男──そんな印象が、とぎれとぎれに浮び上つて来た。こりやおだやかぢやないぞと、春泥からやつて来る強迫観念を打ち消しながら、少しぽかんとしてゐると、乱歩氏が口を開いた。
 「僕は全く変てこな人間ですよ。僕は狭い誰も中へ入れない書斎をもつてゐて、人に会ひたくない時は、鍵をかけて幾日でもその中に入つてゐます。いろいろな怪奇なものが天井からぶらさげてあるんです。尤も妻だけは飯を運ぶ必要から、中へ入るのを許してゐますがね。」
 だんだん雲行きが凄味を増して来た。そしていろいろ聞いたところを綜合してみると、人間嫌ひと、放浪癖とが、大きな乱歩氏の特徴らしい。何んでもぶらりと家を出て、まだ鉄道のひかれてない半島などを目がけて、旅行をするんださうですが、この頃は、鉄道のない処には、きつと乗合自動車があり、それにランプなどをつけてゐる所がだんだんなくなつてゆくと、慨嘆してゐました。併しそれはまだいい方で、折角田舎ぢみた静かな所におさまつてゐても、宿の亭主などが文学青年で、写真で顔みしりのために発見されて、折角の旅行が駄目になる時があるさうです。

 森の隠れ家

 「先生の趣味は何んですか。」
 「僕は趣味は何にもありません。女嫌ひで、酒嫌ひで、運動嫌ひで、碁将棋は勿論嫌ひです。こうして人に会つてゐると元気がよささうに見えますが、子供を産むことも、家庭をもつことも嫌ひなんです。まあ泥の様な夢をぼうつと見てゐるのが、性に合つてゐます。」
 「奥様はおありなのですね。」
 「えゝ妻もありますし、子供も、尋常三年になる男の子があります。家庭だつて持つて了つたんですから、支へてはゐますが、僕の趣味からいへば家庭生活なんか、趣味がありません」
 「では何か希望といつたやうなものは、ありませんか。」
 「金があつたら家を建てたいです。それも僕の趣味にかなつた勝手な家で、誰も知らない森の中なんかに建てたいんです。」
 ──つまり人体模型の列んでゐる地下室があつたり、秘密室から続いてゐる抜け路があつたり、ボタンを一つ押すと部屋の壁が廻転したりする隠れ家が欲しいと言ふのでせう。
 それから先生の経歴を尋ねました。
 「生れは伊勢で、中学は名古屋、それから親父が死んで、かせぐ必要にせまられ、活版小僧もやれば、古本屋もやり、東京パツクの編輯、新聞の広告取りもやるといふ調子で、二十何べんか転々と職業をかへました。併し小説の方は割合に苦労せずに世の中に出ました。」
 「処女作は?」
 「二銭銅貨といふ短篇です。博文館の森下雨村氏に認められたんです。」
 「探偵小説家になられたには、何か小さいときからの境遇の影響とか何かが、あつたのですか?」
 「母が涙香ものが大へん好きで、貸本屋から借りてきては、僕に読んできかせたのです。」
 「奥様のお国は?」
 「鳥羽の奥の漁師ばかりゐる島です。小学教員をやつてゐました。」
 「ご家庭をおもちになつて、何年になりますか?」
 「子供が十才ですから、十一年になります。」
 因に乱歩氏の本名を書きつけてみますと、平井太郎といふ、あまり怪奇的でないおとなしい名です。
 「この頃の珍談はありませんか?」
 「別にありませんが、よく迷宮に入つた殺人事件なんかあると、犯人は何処にゐるかといふやうな質問をもつて、新聞社の人が来ます。例へば杉憲の令嬢殺し、荒川の実子殺し、千住の醤油屋殺しの事件なんかあるとやつて来るんですが、僕にわかる筈はありません。第一新聞すらろくろく読んでゐないんですから。」
 最後に記者は勇を振つて、先生の秘密の書斎の探検を願ひましたが、これは物の見事にことわられました。探偵小説家江戸川乱歩氏にとつて、これは何よりも苦しい種明しになるからでせう。無理もないことです。
 「さやうなら。」記者は再会を約して、乱歩邸を辞しました。

(T生)


初出・底本 昭和5年(1930)/「婦女界」10月号、連載「探偵小説家の家庭巡り」第1回/p.228−230
注記 原文は総ルビ。
掲載 1999年11月24日