第十六話
乱夢譚
西秋生

     

 女を殺した。……だが、あれは本当に起きたことなのだろうか。夢の中の出来事だったのではないか。
 室内を占拠する沈んだ灰いろの闇が粗く乱雑にちらついている。粘っこい湿気がべったりとこびりついて、噎せそうであった。夜来の霧雨が烟り続けているに違いない。
 夜でもない、早暁でもない、あわいの時であった。大袈裟に膨れ上がった気持ちの底に、快楽の名残がふいと差した。
 「静香……」
 その名を小さく呟いてみる。
 切れ長の眸を閉ざし、眉根を寄せたままの静香は美しかった。長く伸ばした黒髪が奔放に乱れつつ細面の瓜実顔を取り巻いて、それはいまにも動きだしそうだが、肉叢のほうは僅かの間に感触を変えている。微妙ながら明確な、決定的なその変化。そうして凝固した静香は、この上なく美しかった。濡れた唇が微かに開いていて、蠱惑するようにさえ映る。
 ……そうだった。彼女がぼくを誘惑したのだった。
 熱い思いが疼きながら沸き立ってくる。
 一体どうして、あんな空間に潜んでいたというのだろう。暗く狭く埃っぽい、圧迫するような空間。横這いになっているのに天井は頭のすぐ上にあって、身動きをするのも楽ではない。ただ、顔を上げた先で光が細かな点ながら鋭く漏れていて、それだけを目的にして一心に進む。鼓動は意識を先取りして、既に強く高鳴っている。
 予感はまさしく的中した。
 節穴から覗いたそのすぐ先に、女がひとり、無防備な姿を晒していた。謎の空間は床に密着していて、眼前の視界を塞いで畳の上へ投げ出した素の脚がある。湯上がりに違いない、潤いを帯びた肌は桃いろに輝いて、艶やかに映える。そこへ掌が伸びてきて、慌ただしく撫で回し始めた。クリームを塗っているのだろうか。身体を捩って見ると、果たして彼女は下着しか身にまとっていない半裸体であった。
 女は一心に化粧を続けている。身体のそこここに触れ、撫で、クリームや液体を塗る一連の仕種が、いやになよなよと官能的に映る。自慰行為を連想させるせいかも知れない。すぐ傍らに男の視線があるとは想像だにしないからこそできる業に違いなかった。
 (いや……実はとうに気付いていて、その上で挑発しているのではないか)
 閃いた途端、全身がくわっと燃え立った。
 気付いたとき、ぼくはいつの間にか室内に入り込んで、女の前に屹立していた。
 そこから情景はさらに断片的になる。ただ、怯える女の表情だけが、そしてそれにそそられる劣情ばかりがどこまでも付いてくる。
 そして、
 もはや永遠に動くことのなくなった静香は美しかった。この上なく美しかった。
 それゆえ、その肉体を戸外に持ち出して展示することは正当な行為と思われた。いや、より積極的な義務感に駆られさえしたのである、その渦中にあっては。
 夜の街にはごく淡い霧が流れていた。店舗の光や街灯は封じ込められながら乱反射して、暗く渦巻く明るみがあたりを彩っている。全裸の静香は既に硬直しきって、抱きかかえる感触はマネキン人形そのままであった。裸電球の昔くさい明かりが点る石の門柱にそっと彼女を立て掛ける。人通りのないひっそりとした街の一角にそれは溶け込んで、眺めが引き締まった。
 意識に突然、断層が走った。どこか遠くでパトカーのサイレンが響いている。ぼくは緊張して身を強張らせた。
 (追ってくる!)
 甘美な思いはたちまち霧消した。代わって、激しい焦燥の念が頭を擡げる。これ見よがしにことさらに展示して残してきた屍体。あれが我が身を破滅へと追い込むときが迫っている。……
 起き上がり、固い万年布団の上に胡坐をかいて、大きく溜息をついた。このところ、こんな体験が続いている。が、一向に慣れる気配はない。暗い室内には湿気とともに酸っぱい異臭が充満していて、神経に触った。どす黒い疲労が沈殿しているのを自覚する。
 くぐもった声が微かに伝わってくるのは、ラジオの語りだろうか。このところ、単身生活の女性が相次いで消息を断つ、という噂が、一部のメディアにも乗って半ば公然と囁かれている。風聞が流れるばかりで、殺人や誘拐の実態が明るみに出たわけではないから「事件」とは断定できず、逆にその分、語り口には猟奇の色合いが濃い。警察も放送も、挙げてこちらを追い掛けているに違いない。
 (そう。行きずりの、縁故関係のはっきりしない殺人なんか、紛れて取り沙汰されるものか)
 自らに云い聞かせるべく力を籠めた直後、ぼくは全身が痙攣を起こすくらいに愕然とした。
 (待て。あれは本当に起きたことなのか。夢の中の出来事だった筈ではなかったのか)
 何度も繰り返して見る夢。いまや夜ごとの馴染みとなって、なまなかな現実よりも存在感を備えてしまった悪夢。そう。すべては夢に過ぎなかったのだ。
 締め付けられた胸が開くような安堵の思いは、しかし、
 (違う。事ここへ至ったのは、やはり中核に犯行があったからではないか)
 自らに冷水をかける疑惑で、一気に吹き飛んでしまう。
 もう眠りなおすことはできない。起き上がって電気をつけたが、蛍光灯は汚れた上に半ば切れかかっていて、六畳一間の狭い部屋だが、隅には依然として薄闇が居座っている。
 着替えて部屋を出ると、細かい雨が一面に舞って、輪郭の曖昧な街をことさらに朦朧と包み込んでいた。水気をたっぷりと含んだ風が吹き付けてきて、噎せ返りそうになる。思わず顔を背けた視界の端、階下のブロック塀の向こうを足早に遠ざかって行く影があった。
 (う……)
 胃の腑がぎゅっと縮こまる。
 (見張られていた)
 (まさか)
 思いが同時に交錯する。
 叫びそうになるのを圧し殺して衝動的に歩きだした街、こんなときの安らぎはコンビニエンスストアでしか得られない。アパートを出てすぐの交差点でバス道に折れると、二十四時間営業の店がある。暗く寝静まった街に、赤や緑、青の原色を毒毒しく組み合わせた電飾看板で自らを飾り立てた建物はいかにも嘘らしくて、そこがかえって好ましい。自動ドアをくぐると、店内はエアコンが利いていて、気持ち悪い蒸し暑さがたちまち追い払われていく。書き割りめいて平板な客たちに混じってぴかぴか輝く商品群を物色するのは楽しかった。が、そうしていてもふとした弾みに、
 (ぼくは本当に人を殺したのか)
 責め付ける思いが脈絡なく頭を擡げてくる。そして、それは直ちに、
 (あいつさえ、余計なことを云わなければ)
 抑えていたもうひとつの昏い思いを引き出した。表情がのっぺりとしてめりはりの無い、小太りの編集者の大きい顔が思い浮かぶ。
 あの日、一年以上をかけて執筆した長篇小説をあっさりと没にしたばかりか、あいつは罵詈雑言を並べ立てたのだ。いや、声を荒げて怒鳴ったというのではない。逆に口振りはおとなしく、淡淡としたものながら、内容は聞くに耐えないものばかりであった。あいつと別れてひとり自棄酒を煽るうち、それは何度でも甦ってき、そのたびに嘲りの度合いを強めていった。こうして、酔いは怒りと溶け合い、うねりながら増幅して行って……どこからか記憶が途切れ、断片的になる。死美人凌辱の情景は、その先に揺らぎながら霞んでいる。
 あの夜ぼくは、不安定な激情に支配された異常な心理状態のなか、衝動に押されるままに人殺しの犯罪を犯してしまったのだろうか。
 それともあれは、悪酔いして潰れた中に忍び込んできた幻想に過ぎないのか。
 「静香……」
 女の名前が口を突いて出ていた。同時に、すぐ目前で見た彼女の断末魔の表情が浮かんでくる。そこには苦悶も怯えも恐怖もなく、むしろ陶然と媚びる風情が塗り込められている。が、彼女は一体、どこのどういう素性の人なのだろう。
 安アパートへ戻ると、狭い室内は霧雨の戸外よりも湿気が濃いように思われた。肌が水に侵されじわじわと膨らんでいくようで気味が悪い。のみならず、コンビニエンスストアで買ってきたカツサンドの肉が痛んでいたらしく、酸っぱい嫌な味がして吐き出してしまった。
 (何もかも、うまくいかない)
 些細なことまで神経を逆撫でして、気が滅入った。今日はあのときの編集者に逢う約束を取り付けている。手蔓はもはやかれにしか残っていなかった。考えると、とめどなく気が滅入っていった。焦りと不安、そして後悔がごっちゃに混じった落ち着かぬ意識のなか、静香の官能的な表情が時に陽炎の如く揺曳して過ぎた。

    

 雨がすべてを封じ込めていた。勢いはなく、降りみ降らずみの風情ながら、まわりを灰いろに塗り潰し、湿っぽく包み込んで、世界から生気を奪い取ることに成功している。古びたビルに入居した出版社の編集室も小暗く、机上を乱雑に占拠する書籍や書類の群れがちらついて見える。閑散とした室内に目指す編集者が一人、ぼそぼそした声で電話をしていた。
 「どうも」
 声を掛けたが、一瞬こちらを見上げただけで、何事もなかったかのように会話を続ける。所在なく立って待つ時間は長かった。ようやくそれが終ると、編集者は緩慢な仕種で堆く積み上げた書類を掻き分け、預けて置いた原稿の入った封筒を底のほうから引き出した。
 「ふうむ」
 そのまま、冒頭の一二枚を黙読する。この様子では応接室へ移る気はないらしい。隣の机から椅子を引き寄せて、ぼくは腰を下ろした。
 「いらっしゃいませ」
 アルバイトの女性がまずぼくに微笑みかけ、それから編集者に問うた。
 「お茶にしましょうか。それとも珈琲をお取りしましょうか」
 「ん?」
 小太りの大きい顔をかれは不審そうに上げた。一拍置いて、それが苦笑に変わる。
 「いや、要らない。この人はいいんだ」
 「はい」
 アルバイトは快活に答えると、一礼して去った。が、その笑顔には嘲りのいろがはっきりと浮かんだのではなかったか。メイクといい装いといい、彼女はいかにも今ふうの先端を行く演出で、テレビや街で嫌になるほどお目にかかる外観をしている。顔立ちは整っているが、眉の先を切り上げた化粧のせいか、意地が悪そうに映った。
 (編集者の反応を弁えたうえで、故意にからかいに来たのではないか)
 邪推が横切った。
 そう思って見ると、彼女は自席でパソコンに向かいながら、こちらのやりとりに聞き耳を立てる様子であった。売れない作家の醜態を面白がっているのだ。
 (こんな小娘までバカにしやがって)
 刹那、脳裡がくわっと熱くなった。そういえば、彼女は編集者と不倫の関係にあると聞いたことがある。とすれば、これは情婦の態度なのかも知れない。
 アルバイトへの憎悪が募った。
 (ふん縛って、小生意気なその顔を金槌で叩き潰してやろうか)
 激しい衝動をことさらに煽るかの如く、そのとき雨が突然強く降りしぶいて、窓硝子がばらばらと音を立てた。
 「まあ、同工異曲ですね。新鮮味がまるで感じられない」
 が、編集者の抑揚のない言葉が冷水を浴びせ掛けてきた。能面を思わせる無表情で垣根を作って、かれは例によってねちねちと独白めいた台詞を続ける。
 「虚構と虚構がぶつかって相対化されていく、なんて云ってもねぇ。何が真相か判らなければ、読者は付いて来ませんよ。こんなのは意外性じゃない。だって、基盤がしっかりしていないんだもの。そうでしょう。あれも嘘、これも現実じゃない、となれば、読んでいて途中でもうどうでも良くなってきてしまう。こんな浅薄な文学趣味は早く卒業しなければ売れませんね。読者はしっかりしたプロットに基づいた展開を望んでるんだから」
 (若造にどうしてこんな、知ったふうな口を叩かれなければならないのだ)
 腹の中は煮えたぎっているが、黙って聞くしかなかった。
 「とにかく、あなたの書くものは観念的なんですよねぇ。いくら幻想だからって、捕らえどころが無いばかりじゃ話にならない。逆に、絵空事だからこそ、それを確固と支える組み立てが必要なんですね。登場人物が恐がっているだけじゃ、ホラーとは云えない。読者は納得しなきゃ、作品の中へ入ってきてくれませんよ」
 (それはお前の読解能力の欠落を示すだけのことだと、まだ気が付かないのか。SFの疑似科学論理や、新聞の三面記事や週刊誌にこそふさわしいサイコものしか受け付けないのは、感受性が摩滅した証拠だ)
 「それだけじゃない。迫力、つまり読者を否応なくぐいぐい引きずり込んでゆく力がない。ホラーでそれが欠けてるってのは、致命的なんですよね」
 (今度は安っぽいバイオレンスを持ち出してきたか。異なる基準を持ち込んで評価するのは、言い掛かりでしかない)
 「発想も組み立ても、古めかしいんですね。これじゃ、過去の大家の遺産をなぞらえただけですからね、読者はもう飽き飽きしてますよ。霊も呪いも憑依も結構ですがね、そこに新しい切り口なり、現代の息吹なりが感じられない作品は、もう存在意義がないですよ」
 (…………)
 編集者の態度には、応対を面倒がる様子がありありと窺えた。意見も、実はかつて何度も繰り返して聞かされたものばかりだ。あるいは、今度の作品には目を通しさえしていないのかも知れない。
 (読者が面白がるものこそが面白い。それならトートロジーじゃないか。お前の云ってることこそ観念的で、説得力を持たない。第一、読者読者といちいち架空の存在を楯にして話を進めるのは、おのれの理解力の浅さを糊塗する意図が見え見えだ。それともまさか、文壇の大家とやらの寝言におもねるためのレトリックではないだろうな)
 だが、反論は控えた。喧嘩して勝っても作品が掲載されることはないばかりか、縁が切れてしまうだけだからだ。面と向かって発散できない分、思いは昏く沈んで鬱屈した。アルバイトの姿が視野の隅に入った。彼女は真顔だが、実は懸命に笑いを堪えているに違いない、との疑いを抑えきれない。
 憤怒。
 女。
 殺意。
 連想が瞬時に短絡して、夜とはいえ、街のなかに堂堂と曝け出したまま棄ててきた静香の屍体が脳裡にはっきりと再現された。
 「あっ」
 思わず声が出た。
 (あの殺人幻想を題材にして、残虐行為とオレの心境を粘っこく描写すれば、臨場感溢れる異色作になる。現実と幻想の境界を曖昧にして、あわいにのみ成り立つリアリティを言葉で確保するのだ)
 唐突な閃きに鼓動が高鳴った。着想に興奮する、こんな体験は久しぶりだ。
 編集者が何か云いかけたとき、電話のベルが鳴った。応答に出たアルバイトが怪訝な表情を作った。
 「ああ。はい、いらしてますよ。……センセイにお電話です」
 事務的に告げて近くの受話器へ転送してくる。ぼくも不思議に思いつつ、ともかくも受け取ったが、耳元では意味ありげな声が微かにするばかりで、会話は伝わってこなかった。
 「もしもし」
 無為に呼び掛けを繰り返すうち、音は雨音めく調べと化したあと、切れた。混線だろうか。いたずら電話にしては意図が判らない。困惑している間に編集者は別の電話を掛け始めた。分厚い手帳を開いてメモを取る姿は、「無駄な時間はもう使わない」と明言している。挨拶もそこそこにぼくは出版社を辞した。部屋を出るとき、背後でアルバイトが冷笑する気配を感じたが、あるいは錯覚だったろうか。

     

 雨が強まっている。大粒の水滴が糸を引きつつ幾つも折り重なって落ちてきて、視界は一面、灰いろの濡れた幕に覆い尽くされたかのようだ。それでいて、音はまったく聞こえない。あたり一帯はとうに死に絶えたかの如く、深い静謐に塗り潰されている。光もまた、急速に色褪せてきた。
 (あの野郎……)
 着想をノオトに記し終えると、にわかに怒りが籠み上げてきた。編集者は今ごろ、アルバイトを相手にぼくのことを存分に嘲笑しているに違いない。
 若いころは創作活動を多分にロマンティックに誤解していた。力作を書いている限り、それを理解してくれる読者がたとえ少数でも必ず存在する、という思い入れである。いや、そのこと自体は正しいと、いまでも思う。ところがまことに意外で、かつ心外なことには、読者との出逢いを妨げる存在が実際には厳然と立ち塞がるのだ。編集者である。かれは「売れない」「受けない」という基準でことを決裁する。これは主観的な判断だから、議論は水掛け論となって平行線をたどらざるを得ず、作家は永遠に勝てない。あんな知ったふうな若造に運命を左右されるのが悔しい。
 ひっそりとした雨の街に突然、アルバイトの笑い声が透ったかのようで、ぼくははっと身を強張らせた。
 ……錯覚だったろうか。
 (そう。二人はもう、何事もなかったかのように本来の業務に戻っているさ)
 脳裡の隅で囁くものがあって、それがさらに血を逆流させる。
 「殺してやる!」
 知らぬ間にぼくは叫んでしまっていた。
 直後、意識は鋭く凍り付く。
 あの夜、同じ編集者に長篇をあっさりと没にされた後、やはりこのような闇雲な衝動に見舞われたのではなかったか。それに駆り立てられるまま、ぼくは静香を殺したのではないのか。何度も繰り返して見る悪夢は、根底に現実の出来事が居座っているのではないか。
 熱く渦巻いていた思いはたちまち萎えた。
 のみならず、
 「!」
 咄嗟にぼくは身を大きく仰け反らせた。
 たったいま擦れ違った男が一瞬ぼくの顔を覗き込んでにんまりと笑った……気がしたのだ。慌てて振り返ったとき、街は汚れた雨の幕に閉ざされていて、人影は既に定かではなかった。しかし、
 (あれは捜査員ではないのか)
 思いが奔った。
 ずっと尾行して、犯行を立証する証拠固めを行い……いまの笑みはそれが完了したという余裕を示すものなのだろうか。そういえば、今朝未明にはアパートの塀にもたれる影を目撃した。あれも同一人物だったのか。
 「あッ」
 思わず声が漏れる。出版社にいたときに掛かってきた正体不明の電話。あれが探りを入れる目的のものだったとすれば。
 (逮捕のときは迫っている!)
 全身の血がくわっと熱くなったその裏側で、屍体の処置が急に気に掛かってきた。
 隠すどころか、これ見よがしに公衆の前に展示してきた屍体。あれがそのままになっていたら、それこそ命取りになる。早く処理を施さねば……。気持ちが逸って、居ても立ってもいられなくなる。何故なのだろう、昼間は悪夢と断じて安心していられるのに、夜が近付くにつれて不安で堪らなくなる。自らに云い聞かせる言葉さえ虚しく響くばかりなのだ。ことにも、
 (屍体が発見されたとき、ぼくは掴まる)
 その思いは強迫観念と化してぼくを脅かす。
 が、それでも何とか縋るに足るものを探して、懸命に思考を巡らせる。
 (待て。殺人が事実だとすれば、一体いつの出来事なのだ。屍体などとうに腐り果てて、もはや原型を保ってなどいる筈がない。もうとっくに見つかったに違いない。それでも逃げ果せているからには、このままで行くのではないか)
 しかし次の瞬間、思いがけなくも埋もれていた記憶が甦ってきて、ぼくは愕然とした。
 ……あのとき、静香を殺害してしまったことに気付いて放心するぼくの傍らで、何者かがてきぱきと屍に処理を施したのだった。
 「これは《プラスティネーション》といって、最新の屍体標本技術なのだ」
 大柄な男は淡淡と説明した。
 「人体の細胞に特殊な樹脂を染み込ませることで、生体の感触をそのままに保存することができる。……さあ。完璧だ。これで彼女は永遠にこの美形を保つことができる」
 揺らめくような時間の果てに、男がはっきりと宣言する言葉がいま耳元に甦ってきた。あの男は一体誰なのだろう。坊主頭の輪郭は認められるものの、表情は黒い影に塗り潰されていて定かではない。が、静香を戸外に展示したのは、男に唆されての行為だったのではないか。次第にそんな気がしてきた。
 (静香はいまも、屍体とは判別されぬまま、あの街に佇立し続けている)
 思い至ったのと同時にパトカーのサイレンが遠くから漂ってきて、強い焦燥の念を刺激する。自らの思考に囚われたくない一心で、雨の降りしぶく昏い街をぼくは闇雲に歩き回った。
 斑な闇と雨とで二重に隔たった周囲の情景には、見知らぬよそよそしさが紛れ込んでいる。視野の中にはどこといっておかしな箇所はないのに、焦点が外れた瞬間、周縁に違和感が蠢き始める。夜の街はひどく夢夢しかった。道路は土で、しかもぐちゃぐちゃにぬかるんでいるのだろうか。足元は頼りなく、半ば浮くような気さえする。
 曖昧な光景の端がにわかに鋭く切り取られて、屍体がのっと出現した。
 (静香……)
 はっとしたが、違った。
 女は下品な笑みを浮かべ素肌を大きく露出して、媚を売っている。耳に当てた左手には携帯電話を持っていた。販売促進の目的で設置された等身大の紙人形だったのだ。
 曝け出された屍体はそれだけではなかった。
 大きなポスターの中に封じ込められた数多くの女たち。そして、ショーウインドゥに麗麗しく飾り立てられたマネキンの群れ。こうして広告人形があちこちに潜んでいるところを見るとここは商店街に違いないが、あいにく店舗の内部は一様に薄墨いろに塗りたくられて、何も見えない。ただ店先ばかりが眩しく浮き立つなか、人形たちがそれぞれに蠱惑的な表情を浮かべて何事か誘いかけてくるばかりなのだ。
 「生きているかのようだ」
 陳腐な台詞を呟いたのに対して、人形たちは一斉にけらけらと笑い声をあげた。
 (生きてるのよ、ねぇ)
 (そうだわ。知ってるくせに、いやらしい)
 (あの屍体でしょ。いやだわ。夜ごと人目を盗んで街を歩いてるんですもの。しらばっくれてるのよ、絶対に)
 (中のものが違うものねぇ)
 (やぁね。その云いかた、何とかならないの)
 暗号通信めかして囁かれる秘密の会話は、ぼくが殺して置き去りにした静香のことを指しているのが明白であった。とすれば、あのときの街が近いのだろうか。まわりの光景はますますぼやけ、周囲から朦朧と溶けだしたかのようであった。酔ったかの如きふわふわした足取りで、ぼくは街の奥へとさらに彷徨い込んでゆく。

     

 雨はいつか、小降りになっていた。いや、霧、もしくは靄に姿を変えて、一帯に薄く広がっていったのかも知れない。淡暗い街の底には、不定形の粘っこいものが澱んでいる。輪郭が次第に不確かに溶けだしつつある街、そのすぐ目前を影が素早く横切った。
 静香? 捜査員? それとも……
 しかし、考えるよりも先にぼくは走りだしていた。
 低い木の塀が向かい合うはざまの路地を抜け、古びた平屋が軒を連ねる土の道を折れると、突然視界が開けて無機質の光の塊が露になった。有刺鉄線の柵が張られた向こうが鋭い崖となって雪崩落ちていて、障害物のなくなった遠景を高層ビルの群れが折り重なって占拠しているのだ。五十階も六十階も縦に長く単調に伸びたビルの、窓という窓にことごとく明かりが点って、息吹くようにきらめき続けている。が、じっとりと濡れた光はなんとも空空しく、眺め全体がひどく嘘臭い。
 振り返ると、軒の低い長屋めいた家家が密度濃く建ち並ぶ古い街は仄白い茫洋とした明るみに包まれて、廃墟としか見えない。
 半ば忘れ去られながらも大都会の片隅にかろうじてひっそりと生き存えた遺跡と、あらかじめ先取りされた未来遺跡。そのはざまの領域に在って、不思議な活力がどこからか漏れてくるのをぼくは感じ取っていた。
 背後で何かが動く気配がした。怪しい影のことを憶い出して、ぼくは慌てて追跡を再開する。
 街は地震にも空襲にも区画整理にも遭わずに生き存えてきたふうで、見知らぬ土地なのに懐かしい情緒に溢れていた。密集する小さな木造家屋。ところどころに水溜まりのできた土の道。赤い円筒形の郵便ポスト。電信柱。丈高い雑草に覆い尽くされた空地。遠くの空間を黒く塗り潰すものは、曲馬団の天幕だろうか。
 影はすぐそこに潜んでいそうな気配を感じはするものの、なかなか見当らない。熱に浮かされたように彷徨い歩くうち、ふいと西洋館が現われた。その二階の窓には、分厚いカーテンの向こうに電灯が点っていた。
 (真っ赤な血のような光が、タラタラと洩れ出ている)
 そんな文章をぼくは思い浮べた。が、そこにも人がいる様子はない。
 一体、街は動きや生気をことごとく呑み込んでしまって、表面づらだけ辻褄を合わせて整えている。それだからこそ、静香はこの街にいる、と、その思いはいつか確信と化していた。
 「静香……」
 小声でふいと呟いた、それを待っていたかの如くに、影がすぐ近くを横切った。女だった。肉体ははっきりと女の輪郭を形取っている。そのことにひどく意外な思いを味わったおかげで、行動を起こすのが一拍遅れた。
 あやふやな街の情景に女はたやすく紛れ、姿を晦ましてしまう。が、慌ててまわりを見渡すと、まるで別のところで影は実体を現した。そんなことが何回か繰り返される。明らかにからかわれているのだった。蒸し暑さが体内に充満し、息が切れる。そうするうち、おかしな錯覚がにわかに頭をもたげてきた。
 (ぼくがいま懸命に追い掛けているのは、静香なのだろうか)
 それは強い衝撃を伴っていた。……どうして静香を殺してしまったのだろう。見つかる、とか、掴まる、とかいうのとはまるで次元の異なる、激しい後悔の念がぼくを支配した。
 と、けらけらと嘲る軽い笑い声がすぐ背後から聞こえてきた。静香ではない。振り返ると案の定、腹の底から面白そうに両手を叩いて笑っているのは、あのアルバイトの女であった。彼女は明白に、呻くぼくを挑発していた。
 (許せない。……殺せ)
 声が重く沈んだ。
 こんな女がどうしてこの場にしゃしゃり出てくるのか。小生意気なこの態度も、流行の最先端をなぞっただけの浅薄な風体も、この街にはことに似合わない。直ちに抹殺せねば! 思いはたちまち殺意に結晶して居座る。目の眩むような強い意思がぼくを支配した。全身が大きく身震いする。と、その気配を察したのだろう、女は踊るような足取りで逃げて行った。女が入った角を続いて折れると、ぴかぴかの下品な光が目を射た。
 「コンビニエンスストア……」
 ごくありふれた、見慣れた存在である筈なのが、ここでは何とも場違いに映った。
 店舗は赤や緑、青の原色を毒毒しく組み合わせた電飾看板で自らをけばけばしく飾り立てていて、それは自宅アパート近くのものとまったく同一であった。が、この店はかつて酒屋だったのが業態転換をしたに違いない。なぜなら、きれいに画一的に装飾した表面部分の背後にどっしりと古びた土蔵を従えている。倉庫なのだろう、その建物のほうが遥かに強い存在感を持っていた。のみならず、
 (そうだった、確かにここだった)
 内容の未だはっきりしない確信が先回りして訪れる。
 いずれにしても、アルバイトはこの店内へ駆け込んだに違いない。どこか不吉な予感を抱きながらも、ぼくはそちらへ向った。
 自動ドアが開いた瞬間、冷たい風とともに微かな腐臭が鼻を突いた。この匂いには覚えがある、と反射的に閃き、不安を増幅する。
 目指す女はいなかった。それどころか、他の客も店員の姿さえも見えなくて、白白しく明るい店内はまったくの無人であった。募る違和感、その正体を見極めようと、ぼくはゆっくりと周囲を見渡した。陳列棚やチルドケースの配列はもとよりいつもの店と変わるところはない。が、異様に毒毒しい彩りの商品がところどころに鏤められているのが注意を惹いた。
 柘榴の如く表面のささくれだった紅いろをした生ハム。鉄錆びた液体がドロッと澱んだジュース。肉マンやホットドッグといったファーストフーズにも、よく見ると生血が滲み出ている。
 (これは……人肉加工品、ではないか)
 冷たいものが背筋を上ってくる。
 決定的なのは、レジ傍の硝子瓶であった。昔の駄菓子屋店頭を飾っていたのと同じその容器いっぱいに浮んでいるものは、眼球に違いない。そう、この店は人間を解体して食品に加工し、これ見よがしに並べているのであった。
 唖然と放心する時間は、突然断たれた。微かな息遣いが聞こえてくるのだ。緊張して、耳に神経を集中させる。店内にはBGMも広告メッセージも流れていず、ひっそりと静まり返っている。そのなかを野獣めく粗い息が断続的に走る。
 (誰かがいる。こちらを監視している)
 バックヤードに何者かが潜んでいるのだろうか。見渡すと、その所在を見付けるより先に、壁ぎわのカップラーメンの棚から商品の半ばが落ち、四方に散乱しているのに気が付いた。
 (まさか……この裏に秘密の部屋が隠されている、とでも……)
 半信半疑で押してみると、それはあっさりと回転して、背中合わせに作られたもうひとつの棚が現われた。はざまにできた隙間から中へ入ると、狭い暗い室内には血腥い匂いが染み込んでいて、ひどく落ち着きを感じた。窓がひとつだけ開いている。覗いた先はレジの端に当たる見当で、店内を一望することができる。ここから見ると、店は大きな檻なのであった。ぞくぞくする快感が全身を駆け巡った。

    

 陶然とした時間が過ぎて、ふと秘密の窓から覗くと、いつの間にかアルバイトの女が客として来ていた。
 (そうだった、こいつを殺さねばならなかったんだ)
 半ば使命のように思い出す。
 女はシャワーを浴びた直後と見えて、化粧を落とし髪型もラフなままになっている。いまの容貌からは小生意気な趣が消えて、ことに顔立ちは意外なくらい幼なかった。そのことが興奮をそそる。
 殺人・屍体凌辱・人肉加工……
 猟奇の言葉が脳裡に渦巻き始めた、それを見越したかの如く、大男がアルバイトの背後に迫っていた。たった今まで、そんな姿は店内にはなかった。
 (あいつだ!)
 反射的に閃いたが、その実、誰なのか見当はつかなかった。第一、マスクを覆ったわけでもないのに男の表情はどす黒く塗り潰されていて、どうしても見えない。が、既視感はなおのこと強く募った。
 スナックの棚から商品を選ぶアルバイトのすぐ後ろに、大男はじっと立っている。と、女の動作が一瞬凍り付いた。表情を強張らせつつ振り返ろうとする、まさにその瞬間、男は襲い掛かった。左腕を胸にまわして押さえ付ける一方で、右手に持った手拭いで女の口を塞ぐ。それにはクロロホルムをたっぷり含ませてあるのだろう、女の身体からは見る間に力が抜けていった。ぐったりと失神した女を軽軽と抱きかかえると、大男はゆっくりバックヤードの向こうへ消えた。サンダルがひとつ、裏返しに落ちている。
 ふっ、と息を漏らしたとき、パンツの中が痛くてたまらぬくらい勃起しているのを自覚した。異様なこの興奮は初めてではなかった。そう。もやもやとたゆたうものが、ひとつの記憶に焦点を合わせつつある。
 ……大男の手付きはごく慣れたものであった。この秘密の仕掛け。さらには、店内に麗麗しく陳列されていた人肉加工品の群れ。ここは真っ当なコンビニエンスストアではない。それを装った囮の施設なのだ。ここを根城に、男はいままさに演じられた通りの女性拉致を繰り返しているに違いない。単身生活の女性が連続失踪しているとの風聞が脳裡を横切る。その現場にぼくは遭遇したのではないだろうか。
 のみならず、
 (静香のときもそうだった)
 確信が突然、明瞭な形を取った。
 あれはやはり悪夢ではなかった。犯行は確かに存在した。が、犯人はぼくではない。
 長い間、息苦しく締め付けてきていた胸の閊えがすっと下りた。代わって、思いは勢いよく高揚してゆく。
 (書ける!)
 歓喜の声を上げそうになった。
 (いや、ぜひとも書かねば。観念的だと。名作の焼き直しだと。抽象的だと。ふざけるな!)
 激情がぼくを支配した。
 からくり棚から一旦店内へ出てバックヤードへ入ると、奥に金属製の巨大な扉がある。僅かに開いたその隙間から中を覗いた途端、消毒薬の匂いが鼻を突いた。白いタイルを敷き詰めた部屋の中央に移動式の簡易ベッドが置かれ、ライトが三方からぎらぎらする光を浴びせ掛けたその中には、アルバイトが手脚を伸ばして「大」の字状に縛り付けられていた。
 (生体解剖が、いままさに始まろうとしている!)
 ぼくは生唾を呑み込んだ。
 衣服をすべて剥ぎ取られた女の肉体は、意外なくらい豊満であった。意識を取り戻して盛んに身悶えするものの、身体の自由はもとより取り戻せず、猿轡をはめられた口からはまともな言葉さえ発することができない。
 女の左脚の下から覗き込む格好でいる、そのはざまに白衣をまとった大男がのっと割り込んできた。くぐもった悲鳴がひときわ高まる。男は何も云わず、ただ手にしたメスを女の肌に押しつけている。やがて男はちくちくとつつき始めた。頬を、乳首を、また秘所を、時間をたっぷりかけていたぶる行為が続く。女の声が勢いを失い、途切れがちになってきた。
 と思った瞬間、いままでになく劇しい叫びが上がった。大男が遂にメスを真直ぐ突き立てたのだ。
 男の肩越しに、血飛沫が飛散するのが見えた。続いて、肋骨の下から性器に達するまで、深深と刺さったメスをかれは力を籠めて引き下ろした。首をぐっと持ち上げた女の目が裏返った。血潮はベッドの両側から滴り落ちて、だくだくとこちらにまで流れてくる。よく見るとタイルの目路はどす黒く汚れていて、血を吸うのが初めてではないことを示している。鉄錆びた匂いが立ち籠めて、気温までが一気に上昇したかのようであった。
 陶然とした気持ちのなかに、
 (影は見張っていたのではなく、逆に誘っていたのか。甘美なこの世界へ)
 感懐が横切る。
 と、あたかもそれに呼応したかの如く、大男が突然振り返った。
 「あっ!」
 思わず声を放ってしまう。男は編集者なのであった。かれは無表情な能面づらで、かぶりを振って見せる。
 「甘美な殺人幻想が何の危険負担もなく、据え膳の如くに向こうからやって来る。おかしい、とは思わないものですかねぇ。確かに人は見たい夢しか見ないものですが、作家自身がそれに酔っていてはどう仕様もないですよね」
 突然、口が大きく裂けたかのように開いて、編集者は嘲り笑った。
 「だからあなたはダメなんだ。所詮、なぞり直ししかできない。こんな経験をいくら書いたって、ろくなものにはならない。絶対に採用してやるものか」
 突然、編集者の背後でアルバイトがむっくり起き上がった。白目を剥いたまま、のろのろ猿轡を外すと、泡を吹いた口元を震わせて、振り絞るように擦れた声を出した。
 「そうよ。見っともない」
 ベッドから降り立つと、女はよろよろとこちらへ近付いてくる。縦一文字に切り裂かれた下腹部からの流血が激しくなった。のみならず、動くたびに赤黒い塊が傷口から食み出してこようとする。
 「書いたものが認められないのは、編集者の理解力不足だなんて、思い上りも甚だしいわよ。あんな小詰まらない退屈な文章、読んでもらえるだけでも感謝しなくっちゃ。なに、あの『蝶の獄』って……」
 作品の誹謗を呪咀の如く呟きながら、アルバイトはゆっくり迫ってくる。その向こうで編集者のほしいままの哄笑が響いた。
 「うるさぁいッ!」
 正気をふいと取り戻して、ぼくはアルバイトを払い除けた。彼女はたやすく倒れ込んだが、すぐにまたゆっくりと起き直る気配を見せた。立ち上がらせてはならない。衝動に押されるままぼくは駆け寄って、女に馬乗りになっていた。いつかメスを手にしている。それをめちゃくちゃに振りかざした。
 逆上のなかに正気を見失って、どれくらいの時間が経ったのだろう。荒い呼吸を繰り返すのはぼく自身のようであったが、そこに、
 「……ああ」
 微かな溜息めく声が重なった。
 眼下の女の顔は全体がささくれ立ち、血に塗れている。が、それがアルバイトのものでないことは一目で判った。いや、それどころか、
 「静香!」
 驚いてぼくは大声を上げた。それに応えて、彼女は目を微かに開いた。潤んだ眸の焦点は曖昧で、見えているのかどうか、定かではない。
 (なぜ静香を、こんなことに……)
 ぼくは放心する。彼女の生気が薄れ行くのを為す術もなく見守りながら、取り返しのつかぬ激しい後悔の念に苛まれるのに身を委ねているしかなかった。
 近くで物音がした。顔を上げると、編集者がこっそり後ずさって逃げようとしているところであった。
 「こいつか!」
 怒りが反動的に込み上げてくる。そう、そもそもこいつが長篇を没にしなければ、こんなことにはならなかったのだ。それにどの道、見られたからには生かしておくわけにはいかない。血でぬるぬる滑るメスを握りなおすと、弾みをつけて襲い掛かった。

 ……ここから記憶は断片的になる。

 次に我を取り戻したのは、土蔵の二階とおぼしかった。湿けた薄闇のなか、眼前に人形仕立てにされたアルバイトと編集者の屍体が立て掛けられている。血糊はきれいに拭き取られ、傷跡もまるで見えない。ただの亡骸でないのは明白であった。
 振り返ると、生生しい屍体が一帯に陳列されていた。静香がいる。その他は見知らぬ顔だが、次次と姿を消した若い女たちに違いなかった。
 (そう。内臓を抜き取って調理したあと、外形を展示用に樹脂加工を施して……)
 考えて、愕然とした。その主体は一体誰なのか。
 「影の大男が」
 呟きはすぐに途切れた。
 影は編集者であり、その編集者はぼくが抹殺したのではなかったか。いや、そもそも大男など、本当に存在したのだろうか。小生意気なアルバイトを傷つける感触が掌に甦ってくる。
 そして、静香を亡き者にしたのは。
 多くの女性を拉致したのは。
 叫び声を抑えながらぼくは逃げた。いや、実際には大きなわめき声を放ち続けていたのかも知れないが。

 夜の街は雨がざあざあ降り続いて、しとどに濡れていた。銀いろに光った道路や建物は、明瞭な存在感を急速に取り戻した。
 突然、パトカーのサイレンがすぐ近くで鳴り響いた。驚いて交差点を折れると、そこに何台もが停まっていて、赤いライトをぐるぐる回し続けている。歩道を塞ぐ人混みの最後尾にいた男が振り返った。
 「あ、これは……」
 どこかで見た光景だと思ったら、かの出版社の入居する古びたビルなのであった。事務所で何回か見掛けたので顔だけは知っている男は編集者とアルバイトの名前をあげると、
 「いや、驚きました。心中してしまいましたよ。不倫関係の清算でしょうが、何も手を繋いで飛び降りなくってもねぇ……」
 白けたように告げた。

 熱に浮かされたように引き返したが、土蔵を控えた贋のコンビニエンスストアのある街を、ぼくは二度と訪れることができなかった。

 安アパートの自室で、割れるような凄まじい二日酔いとともにぼくは目覚める。雨はまだ細かく、半ば霧のように烟り続けている。湿気は全身をべったりと取り巻いて、あたかも水の中に浸かっているかのようだ。
 あれらは本当に起きたことなのだろうか。夢の中の出来事だったのではないか。惚けたようにぼくは繰り返し考える。それしかできなかった。

掲載2000年1月1日(copyright 西秋生)
西秋生〔にし・あきお〕生年不詳
初出書き下ろし