第十七話
疑問の戦死者
江戸川乱歩

 この話は少し時代がかつてゐるのと、これほどの事件が、なぜ世間で問題にならなかつたのか一寸不思議にも思はれるので、私としても真偽の程は保証しがたい。けれども戦争時分といふものは、世間が戦争の話で持ち切つてゐて、他の事件などは、とかく忘れられ勝ちなために、或はこの事件も、さうした戦争当時に起つた事だけに、今まで世間に知られずにゐたのかも知れないのだ。
 さて、事件の顛末とは? ?

     

 大正元年の春、もつと厳密に云へば、明治四十五年の三月中旬、東京から大森に引越して来た一組の夫婦があつた。男は四十歳がらみの頬骨の突き出た髪の黒い、見るからに鋭い感じのする男で、名前を岸善助と云つてゐた。その又細君といふのは、善助より十四五も年下の、細面の美人で、夫婦仲は至つて円満らしく、夫は一週に一二回東京の方へ行く外は殆んど外出しなかつた。何んでも善助は以前金物の卸問屋をしてゐたのが、故〔わけ〕あつて、その商売を止めて、金物問屋時代に溜めた小金で、この大森で悠々自適してゐるとかいふことであつた。
 さうして二人が引越して来てから、何の変哲もなく、数ヶ月の月日が流れて行つた。
 善助は一風変つた人物で、近所との交際〔つきあひ〕もせず、いつも家で細君と心霊学の話をしたり、好きな易学の本を読んだり、或時は自分で、何か易をたてゝ独語〔ひとりごと〕つたりしてゐるといふ風であつたが、一方細君の方は、これも亦小さな水晶玉を持つて暇さへあれば、よくこれを見つめてゐるといふ具合で、ともかくこの夫婦は不思議な存在として近所で噂せられてゐた。
 前にも云つた通り、善助の細君といふのは珍しい程の美人で、善助も余程細君にはまゐつてゐるらしく、たまに東京に出る外は、何日〔いつ〕も家にゐて細君の嫌気づまを取ると云つた風であつた。けれどもよくしたもので、これほど善助が熱愛してゐた細君が、一人の情夫を持つてゐたといふ事である。当の男といふのは、善助よりは大分年も若いし、眉目勝れた好男子で、何んでも美術家とかで、東京に住つてゐるといふ話だつた。その男が、何日〔いつ〕も善助の不在を狙つて来ては、二人は手に手を取つて、近所の森や海岸などを散歩してゐた。云ひ忘れたが、男の名前は秋元正弘といふ事だつた。
 二人がかうした、たまの逢瀬を楽しむといふ状態が約半年ばかり続いた頃、善助は細君の素振りにをかしいところを発見して、それとなく警戒するやうになつた。それから暫く後の或る日、やはり善助が、東京に用足しに出かけて、夕方帰つてみると、家には戸締がしてあつて、誰れも居ない様子。暫く家の外で待つてみたが、日が暮れるし、腹は空いてくる〔。〕たうとう待ち切れなくて、雨戸をこぢ開けて中へ入つてみると、玄関の次ぎの間に餉台〔ちやぶだい〕が出してあつて、その上に一通の置手紙がしてあつた。
 ──悪いこととは知りながら、秋元さんと愛の巣を営みたく、駈落ちします。何卒許して下さい──。といふ意味の文面であつた。
 善助はそれを読むなり、むらむらと込み上げて来た怒りに掴んでゐた手紙を破つてしまつた。それだけではまだ気が済まないらしく、その手紙を火に投げ込んで焼いてしまふと、彼はそのまゝ家を飛び出して、近所の交際仲間の家へ駈け込んで、その一切の事情を述べたてたのだつた。
 『口惜しいの、何のつて、あんな若僧に、女房を寝取られたかと思ふと……』
 さう云つて、善助はいかにも口惜さうに憤慨したといふ事である。
 さて翌日になると、この噂が大森一円に拡まつて、善助の心情に同情する人もあつて、ともかく近所近隣の噂はこの話で持ち切つてゐた。
 ところが、このことが有つてから善助は急に引込み勝ちになつて、家には戸締をして殆んど外出する事もなく、女中もゐない家の中で、毎日占易〔えき〕のことやら、心霊学の研究に没頭してゐるらしかつた。近所の人達も善助が余り静かにしてゐるので、留守ではないかと思つて、そつと戸口にたゝずんで家の様子を覗〔うかが〕ふともなく覗つてみるとひつそりした家の中から僅な灯火〔あかり〕が洩れて、中では善助が何かを荷造りしてゐるやうな音が聞えてゐたといふ事である。それでも近所の人達は善助を変人といふだけで別段不審を抱いた人もないらしかつた。

     

 こんな不思議な生活をしてゐた善助に、やつと近所の人達が興味を持ち初めたのは、それから間もなくのことだつた。終〔つひ〕に梅津といふ隣の人が善助を訪れたのだつた。
 『ごめん下さい』
 声をかけると、中から出て来たのは、憔悴して見る影もない善助だつた。
 『大変、お顔の色がよくないやうですが……』
 と云ひかけると、善助は弱々しく答へた。
 『え、女房が居なくなつてから、ずつと病気で寝込んでゐたのでね。』
 『それはいかん。医者には……?』
 『かゝつてゐません。』
 『そいつあいけない。それに看病する人がゐなくては、ご不自由でせうしね。』
 隣りの人が、同情するらしく云ふと、
 『いやもうそんなお心配はなさらないで下さい。このまゝ死んだつて、差支へるやうな私でもなし、あいつに出て行かれてからは、何一つ楽しみがある訳ぢやありませんしねえ……』
 と善助はさもさも頼りなささうに云ふのだつた。隣りの人もその場は何とか慰めて、帰つて行つたが、見るに見かねて医者を差し向けてやつたり、おかね婆さんといふ看病人まで世話してやつた。
 それでも善助の偏屈さは、日に増し亢進して、一室に閉ぢ籠つたまゝ、妻が遺して行つた下駄だの、着物だのを丁寧に机の上に飾つた部屋で、おかね婆さんにも入室を厳禁して、相変らず独占〔うらなひ〕をやつたり、易学の本を読んでゐるという風だつた。
 それでもおかね婆さんが来てから、三週間ぐらゐもするうちに、善助の体は大分元気になつて行つた。そこでおかね婆さんには若干の謝礼をして帰つて貰ふ事にしたが、それから又も善助の孤独な生活が始まつたのだつた。
 一方三週間ぐらゐで、善助の看病を切りあげて帰つて来たおかね婆さんは、善助のことやその生活振りを尋ねる人ごとに、平気で、自分の見たこと聞いたことを残らず饒舌〔しやべ〕つて聞かした。その話によると、おかね婆さんは、善助が入室を厳禁してゐた部屋にも内緒で入つた事があるらしく、部屋の様子だの、変つた善助の生活振りだのをかなり詳しく話して聞かせた。そして更に善助の居間の奥にもう一室部屋が有つたが、その部屋は何日〔いつ〕も締切つて、鍵がかけられてゐた。そして或る日おかね婆さんが鍵孔から覗いてみると、大きなブリキの樽が五つ、壁際に並べてあるのが見えた、といふことである。そしておかね婆さんが最後につけ加へていふには、
 『どうやら、あの人は、酒でも密造してゐるんぢやなからうか。』と語つた。
 さう云はれてみると常日頃から善助を不思議な人物と思つてゐた隣りの人達も、ときたま善助が外出して、夜遅く帰つて来るのも、或は近所に密造の工場か何かを持つてゐて、そこへ通つてゐたんぢやなからうかなどとも噂し合つた。とこの話を聞き込んだ、梅津といふ人は、わざわざ岸善助を訪れて、この話を持ち出したのだつた。すると善助は驚くかと思ひのほか、あゝは、は、は、と笑つて、
 『そいつは弱りましたな。酒を密造してゐると思はれては困りましたね。実を云ふと、先年破産しかけた友人で、石油屋をやつてゐた男から、石油を格安に譲り受けたものでしておかねさんが見たといふブリキ樽は、実は石油なんですよ。』
 と、かうした善助の弁解で、多少善助の人柄を疑つてゐた近所の人達も、善助の言葉を信じて、今までの怪しげな噂も自づと消えてしまつた。全くのところ、善助のやうな偏屈な人間は、人の疑ひを招き易いから不法な事は決して出来ないのであつた。
 それから後、善助は元気を恢復して来るにつれて、よく外出するやうになつた。殆んど毎週二回は定〔きま〕つて東京へ行つて帰つて来るのは、毎日〔いつ〕も明け方近い頃だつた。
 その日も東京へ出掛けて、午前四時頃、不入斗〔いりやまず〕の自分の住居へ帰つて来る途中、家の近くの、兼て善助の行動に不審を抱いてゐた交番の巡査が、善助を誰何して、遠廻しに種々と訊問してみたが、善助の態度には少しの不審な点もなく、つて好人物らしい善助に巡査も好意を持つたらしく、それ以来すつかり善助と仲よしになつてしまつた。そして互に往来するやうにまでなつたが、細君逃亡以来、善助と仲よしになつたのは、前記の梅津と、この巡査の二人だけであつた。

     

 大正十三年の、門松がとれてまだ間もない、一月中旬、正装した善助が、大森の海岸を散歩してゐる姿を見たといふ者があつた。しかも善助の側には、小浜縮緬のコートを重ねた下から、絹物づくめの落ちついた着物を着けた若い美人が善助に寄り添ふやうにして歩いてゐたといふのだ。
 然し之れを見た世間の人達も、妻に去られてから、長い間孤独を味つてゐた善助が、恐らくは恋人を得たものと思つて興味をこそ持つたが、露疑ひはしなかつた。
 たゞ妙な事に、その美人を見かけたのは、その時一度きりで二度とその姿を見たといふ者の無かつた事であるが、それは女が善助の恋人でも何でもなく、たゞ懇意な人で、一日大森に遊びに来たのに相違ないと云ふ事で別に問題にするほどの人も無かつた。
 ところがそれから一ヶ月ばかり経つた或る日、一人の農夫が、馬込の方へ歩いて行く途中、或る森蔭で、一組の男女が手に手を取つて仲睦げに語り歩いてゐる姿を見かけて、近寄つてみると、それが意外にも善助で、もう一人の女は、正月善助と浜を歩いてゐた女とは別な、上品な身装〔みなり〕をした、若い女であつたといふ事が伝へられた。

 そのころ東京市××警察署に、妙な訴へが届けられた。訴へ人は妙齢の美人で、高橋百合子といふ人であつた。その女の訴へといふのはかうである。
 百合子は、ある日新富座に芝居見物に行つてゐたが、一人の男が馴々しく話しかけて云ふには、
 『どうです。一度神田の僕の家へ来ませんか。あなたの運勢をみて差しあげますがね。どうもあなたは、今何かの悩みがお有りのやうに見受けますが……』と、親切らしく云ふ男の言葉に百合子の心は動いたのだ。事実百合子には、気のすゝまぬ縁談が持ちあがつてゐる折柄でもあつたので、男のいふまゝに、神田にある男の家に行くと、男は百合子に青白い酒のやうなものを与へていふのだつた。
 『僕のやる占は、西洋式なもので、まづこれをおのみなさい。そしてこの水晶玉を睨みつけてゐるんですよ。』
 と云ひながら、小さな水晶玉を持ち出して百合子の前にさし出した。百合子が云はれるままに、その玉を見詰めてゐると、先刻呑んだ酒の効きめであらうか、目が眩々〔くらくら〕して来たので、不図、目を外らすと、自分の斜め前に立てかけてあつた鏡に男が緑色の絹紐やうのものを持つて、自分の背後から紐の先を輪にして首を覗〔ねら〕つてゐるらしい気配に百合子は吃驚した。
 『アツ!』
 と息も塞〔つま〕らんばかりに驚いた百合子は、それから後の事は何も覚えがないといふ事だつた。気がついた時には、百合子は上野公園の桜の木の根元のベンチに横になつてゐたが、所持してゐた金も、指輪も殆んど金目のものは何も失くなつてゐたといふのである。
 此の訴へを受理した警察では、百合子の陳述に基いて、神田の家といふのを探したが、それらしい家は皆目分らなかつた。それでこの事件も謎のまゝひとまづ保留されることになつた。
 すると、この事が有つてからものゝ三週間も経たない後に奇怪なことに、前と同じ訴へを麻布××坂の警察に訴へた者があつた。訴へた人は、或る金持ちの夫人で、その述べるところを聞けば、前記の高橋百合子の場合と殆んど大同小異であつた。たゞ夫人は、クリスチヤンで、日曜の朝、赤坂霊南坂の教会へ行く途中、或る紳士と行き違つた。いやもつと正確に云へば、夫人はその紳士と、衝突したので、
 『失礼しました。』
 『ごめん下さい。』
 と挨拶したのがきつかけで、男は夫人を教会まで送りながら、自分は服部新三といふ時計貴金属商人であるが、心霊学などにも興味を持つてゐることなどを語つて、後日の交際を約して別れたといふのだ。
 ところがその後夫人は夫が、大阪へ旅行中だつたので、何日〔いつ〕かの服部といふ男の心霊学の話でも聞く心組〔つもり〕で、服部と称する紳士を自宅へ招いたのだつた。そして話の末に自分の宝石とか金属細工ものなどを、この貴金属商人に見せたりなどした。
 その夜服部は、夫人と活動写真を見物に行つたが、帰へりしなに、拙宅へお寄りなさいと言葉巧みに夫人を誘ふたのだつた。
 『奥様、あなたは御幸福でいらつしやるが、今に何か不幸が来るかも知れませんよ。一つ私が占つてあげませうかね。』
 さう云つて、男は夫人を自分の家へ連れて来たが、それから後の事は、酒のやうなものをのまされて、水晶玉を睨まされたことは、前の百合子の場合と同じであつた。
 その揚句金目のものを奪はれて、気絶した夫人が自宅の入口に倒れてゐたといふのである。
 此の二つの事件があつたゝめに、警視庁でも、同一犯人と見込みをつけて、活動を始めたが、何等の手がかりもなかつた。
 それから約二週間ばかり経つてから第三の被害者が現れたが、この女も大体、上述の二人と大差ないことを述べて、捜査を依頼して来たといふ事であつた。

 恰度その頃、欧洲戦争の幕が切つて落されて、世間の注意は、戦争の事に傾いてゐたので、この些々たる犯罪記事には余り惹きつけられなかつたかのやうに見受けられた。しかも日本は、英国との関係で、独逸に対して宣戦を布告したことが、一層日本中を熱狂させてゐた。
 間もなく日本の陸軍は、青島〔チンタオ〕へ出兵する事になつて、岸善助も召集された。善助は久留米の軍隊に属して出征する事になつたが、孤独な生活を営んでゐた善助は、いざ出発といふ前の日、急いで鍛冶屋に註文した鉄具で、家の雨戸と雨戸の間、戸口と扉とを内側から厳重に打ちつけたのだつた。恐らく出征の留守中、泥棒に入られない用心であつたのであらう。戸締りを済すと、それからひと通り近所へ挨拶に廻つたのだつた。
 『お国のためですから行つて来ます。なあに今度の戦争なんて、すぐにも片附くでせうからすぐ帰つて来ます。留守中の事は何分たのみます。』
 さうして善助は孤影悄然と、しかし勇気を眉宇に漲らせて出発したのだつた。

     

 善助が出征してから間もなく、青島の戦場から、善助の手紙が隣人梅津の許に配達された。手紙は別に大した用件があるわけでもなく、単に挨拶状と見るべきものであつたが、梅津は返事を認めて、善助へ送つたのだつた。
 ところが、不幸にもその手紙は、善助の手許には入らずに符箋つきで、再び梅津の元へ送り返された。見ると符箋には岸善助は負傷して、野戦病院へ送られたが、間もなく死亡したといふことが書いてあつた。
 妻には逃られ、孤独だつた岸善助! 彼は今又国家のために戦つて、空しく異郷の土となつたのだ! と彼を知る人達は、善助の不幸を悲しんだり、同情したりして、善助の上を弔つたのだつた。

 善助が戦死して間もく、大森海岸の、あの木の下から女の死骸が発掘された。地下二尺位の所から偶然出て来たのではあつたが、その女の指輪の内側に彫られた文字によつてこの女は日本橋掘留の竹内きみえといふ、ある呉服商の細君で、大正二年の七月、現金一万円を持ち出して、出奔し、京都から出奔の手紙を夫へ出した筈の女であることが分つた。しかしその女こそは、嘗て、岸善助と、海岸を散歩してゐた女であるといふことは、後に当局の調査によつて判明したが、更に驚くべきは、一月下旬に当の呉服商も殺害されてゐるといふ事である。
 更に当局は捜査の網を拡げると、こゝに埼玉県大宮の金持ちで、東京に商用で上京中、大正二年十月行方不明となつた、山田みつといふ女の捜索願ひが出て来た。特長は、左頬に赤痣あり、といふのであつたが、この女の死骸と覚しきものが、大正三年六月中に馬込の森の中から発見されてゐたがこれも同一犯人の犯行である事が、調査の結果判明したのであつた。
 けれども、この二つの死骸と、水晶玉を睨〔みつ〕めて、殺され損ねた三人の女たちの事件とを警視庁では結びつけて考へはしなかつた。

 その頃、陸軍省では、軍用の石油や、ガソリンの買入を行つてゐた。それを聞き込んだ梅津や、おかね婆さんは、岸善助が五樽の石油を貯蔵してゐることを思ひ出して、これを買ひあげて貰つたら、せめては死んだ善助の墓石位は出来るであらうと、その筋へ申告したのだつた。
 愈々その五樽の石油を買上ることになつたが、念のために、一樽だけ開けてみると、中からは女の衣裳が出て来たのだつた。『あツ!』と皆が驚いて、それを取り除けてみると、中は一枚の蓋で仕切られてゐる。なほも蓋を取り除けると、その下には、最早皮膚は白けてはゐたが、女の裸身がアルコール漬となつて入つてゐる。顔も、手足もそのまゝで、鑑別するにさほど困難とも思はれない程度のもので、女の頸筋に一条の筋が入つてゐるところをみると、疑ひもなく絞殺されたものに違ひなかつた。
 後の四樽も、その場で開かれたが、中からは各ゝ白けた一個づゝの女の屍体が現れた。それが悉く絞殺したものであることが判明した。
 たゞちに善助の住つてゐた家中をくまなく探すと、新聞広告集といふノートが現れた。新聞の切り抜きを集めたもので、例へばこんなものが少しづゝ文体を変へて張りつけてあつた。
 求婚、当方独身、四十歳、収入多、平均年二万円、結婚の意志ある教養ある婦人と交際したし。返信は中央局私書函××号へ。
 ある広告文は、求婚の代りに易占となつてゐるものもあつた。そこで更に中央局私書函××号を調べてみると、驚いたことに、廿一通の申込手紙が溜つてゐた。
 これで一切が判明した。
 善助は、新聞広告に依つて、女を釣り、交際したり、占ひをみてやるうちに、相手に金があれば、失神させて之れを奪ひ、或は殺害して、奪つてゐたのであつた。
 岸の犯行手段は、常に同一であつた。まづ被害者が声をたてないやう、縄か紐を首にかけて、扼殺したに相違なかつた。
 中でも、最も惨鼻を極めたのは、妻──秋正弘と駈落した筈の若く美しかつた妻──が、アルコール漬になつてゐるのであつた。眼球が飛び出して、歯を喰ひしばつてゐる様は二目と見られぬ形相であつた。
 駈落した筈の秋は、その頃早稲田の方へ住つてゐたので呼び出して訊問されたが、それに対して次のやうに答へてゐる。
 ──一夜密会中、突然岸が帰つて来た。そして脅迫されたので、爾来、断念して、大森には行かなかつた。従つて岸の妻が、どうなつたか、その消息は少しも知らない云々──。

 これで、岸善助の罪状は明白となつたのであるが、心の犯人善助は既に戦死して、今はこの世にゐない。世間の噂もこれなりで消えてしまつた。当局でも捜索は打ち切らざるを得なかつた。

     

 大正四年の秋、警視庁刑事部の警部、○○氏は、意外な事を耳にしたのだつた。といふのは、岸善助そつくりの男を、上野駅の待合室で見たといふ人が現れたのだ。初めは○○氏も他人のそら似だらうぐらゐに思つて、本気にもしなかつたがその人が余りに熱心に主張するので、ともかく念のために調査したのであつた。
 まづ、青島の野戦病院勤務の医員について、岸善助の死と人相、年齢などについて聞き合せたのであつた。
 同医員からは、確に岸善助なる男は、戦時中当地の野戦病院で死んでゐるが、どうも人相、年齢の点に於て、相違してゐるといふ事であつた。○○氏は、不審を抱いて尚も詳しく聞き合してみると、青島で死んだ岸善助なる人は、廿四歳でとてもやさ男で、大森に住つてゐた岸善助とは似ても似つかぬ人物である事が判明した。たゞ青島で死んだ岸といふ人も別段何処に身よりが無いらしく、今だに骨が当地に預つてあるといふ事であつた。
 そこまで話が分つてみると、警視庁の○○氏も黙つてゐる訳にもゆかず、自身青島に向つて出発した。彼地に着いて見せて貰った写真は全く、大森にゐた岸善助とは相違してゐた。
 さては同名異人なのであらうか?
 異人とすれば、何故大森の岸は出征したのであらうか?
 ○○氏は空しく東京に引上げて来たのだつた。そしてもう一度、岸善助の捜索を始めなければならなかつた。
 しかし岸は今に至つて捕はれない。どうなつたのだらう?
 それは岸善助だけが知つてゐる。岸善助よ何処にゐる?
 Where is Zensuke Kisi?

【番犬追記】

 「疑問の戦死者」は代作です。代作者は判明していませんが、ミステリ評論家の山前譲先生は、『蠢く触手』(1997年、春陽文庫)の巻末解説「講説」で、次のように記していらっしゃいます。
 (井上──引用者注勝喜は鳥羽造船所時代の乱歩の同僚で、団子坂で古本屋をしていたころにはふたりで智的小説刊行会を起こしている。同じく鳥羽造船所時代からの友人本位田準一が『実話雑誌』の編集長を務めていたというから、そこに発表された女性を狙う犯罪者をめぐっての数奇な話である「疑問の戦死者」も勝喜の手によるものかもしれない。
 掲載誌「実話雑誌」は非凡閣の発行で、当該号は一巻三号。『探偵小説四十年』には、本位田準一が「非凡閣の編集長として『実話雑誌』を大いに売り」と記されていますから、創刊まもない「実話雑誌」の売り上げを伸ばす目的で、本位田が乱歩の名を利用し、井上勝喜に執筆させたものかと推測されます。昭和6年6月といえば、平凡社版乱歩全集の刊行が始まり、乱歩の盛名いよいよ高かったころです。
 山前先生が「乱歩の短編と見做されるような出来ではない」と指摘していらっしゃるとおり、乱歩らしく書こうとすることにまったく顧慮していないと見える作品ですが、井上勝喜はこの作品の一年半ほど前、乱歩名義で刊行された『変態殺人篇』(昭和5年11月、天人社)の代作を務め、「疑問の戦死者」同様の猟奇実話を執筆していることを付記しておきます。乱歩自身は、「疑問の戦死者」に関する記録をいっさい残していません。
 初出は総ルビですが、大幅に割愛しました。
 掲載にあたっては平井隆太郎先生のご承諾をいただきましたが、代作者にお心当たりの方はこちらへご一報いただければ幸甚です。

掲載2000年1月30日(copyright 平井隆太郎)
初出昭和6年(1931)/「実話雑誌」6月号/p.268−278
底本「江戸川亂歩研究」別冊2/1996年6月、江戸川亂歩研究会発行