第十八話
未発表日記〔1949〜1992〕
中井英夫
いのちわちぎれた糸のよおにみぢかいのに
なぜ かげわ このよおに長いのか

「命短ク影長シ」より

一九六五(昭和四〇)年

七月二十九日
 乱歩が死んだ。
 人間の中に稀れに生じた──それも日本人の中に──悪の美しさを見る眼の持主。その人は日本人のおそらくは九〇パーセントにその妖しい戦慄を教え、そしてせいぜい紫綬ホーショーなんぞというささやかな報いを得たのみで死んでしまった。
 生前、二度だけ会い、その印象は苦いものだったが、ともかくも元気なうちに『虚無』の前半だけでも読んでもらえたこと、一応ホメてもらえたことが、侘しい微笑を誘う。そして当然の約束のように、後半は読んでもらえず、それが推理小説なるものの墓標である意義をまた加えた、あの小説が出て、たちまち推理小説そのものが凋落し、そして乱歩さえ死んだことを、そのうち気づくひとがいるだろうか。

七月三十日
 乱歩の死に続いて、何という出来ごとが続いたことだろう。昨夜、澁谷駅で十八才の少年がライフルを乱射、二百四十台(全部の八割の由)のパトカーが出動し、三千人とかの警官が屯したという。大藪春彦まがいの事件、いちばんくだらない。最大のショックはけさの新聞にマリナー四号のとった冩眞十一枚めというのが発表され、火星は月と変らない死んだ天体であることが、ほぼはっきりしたことである。数百年、数千年、人間が祈りのように保ち続けてきた火星の生物はこうして消え去った。そして朝のめっぽう明るい海岸でラジオをかけっ放しにしていると、けさ谷崎潤一郎が死んだという。夕刊もテレビも、乱歩なんか比較にならないといった扱いだったのは当然なんだろうが、わたしには承服できない。それはともかく、まだ、もう一作だけ何か完璧な作品をみせてくれる──それも現代物で──と希いもし、本人も半ばそんなつもりでいたひとが、こうして墜ちてしまうと、ヨミウリではバカな、武者なぞに追悼文を書かせている。追悼どころか、これ以上かれの死を汚すものはないのに。朝・毎の丹羽もそうだ。今東光なんてのもだ。夜、NHKで、三島、円地、伊藤整でまあまあというところ。三島は正面から冩されると実にりっぱな顔に見えるが、ちょっと斜めになると、いやらしく長いモミアゲがみえ、十八世紀ぐらいのフランスの伯爵か地主──それもがまんのできない低級な色事師に変貌する。

七月三十一日
 谷崎の死に励まされて書こう。その弔い合戦として、オレの幻想をくりひろげよう。
 ついに〆切日、完成されたものは一枚もできなかった。海でみるBの裸の発育不全の子供みたいな姿態がいたいたしい。

八月一日
 ひる、サンダル穿きのまま出かけて“青山”へ寄り、薄い黒の夏服に着替へた。一時から江戸川乱歩の告別式がある。この巨人は、もう数年前から Shrinking man のやうに、だんだん背丈が縮むといふ奇病にとりつかれ、かたがた脳を病んで、常人ではなくなってゐた。斎藤茂吉の晩年に似通ふ痛ましさを感じながら、テレビの漫画とか活劇しか観なくなったときくと、それも当然のやうに思へ、つひに親しむことなく別れの刻を迎へることにも深い感動は持てない。生前、二度会って話を交したけれども、そのときは行きずりのチンピラ出版社員と大作家といふ組合はせで、私の小説を(半分)読んで貰ったあとは、却って会ふことがためらはれた。告別式に行かうとするのは、ただ弔問客の記帳に塔晶夫といふ名を殘しておきたいためで、青山斎場に飾られた大きな冩眞に手を併せ、さよならと心に呟く仕草はただの感傷といふものであらう。見知った顔の人がゐたのかも知れないが、講談社の迹見、内海両氏と立話したほかは誰に挨拶もせず、そそくさと青山に帰った。
 それにしてもこの同じ斎場で明後日は谷崎潤一郎の葬儀がある。何といふめぐり合せか、誰も二人の死を並べていふひとはゐないが、後世の史家はその暗合に吐息をつくことだらう。

掲載2000年2月29日(copyright 本多正一)
中井英夫〔なかい・ひでお〕大正11年9月17日−平成5年12月10日(1922−1993)
初出・底本平成7年(1995)/「野性時代」3月号、角川書店/p.20、p.28−29(エピグラフと1965年の全文を抜粋しました)
写真「江戸川乱歩邸を訪れる」(撮影は本多正一氏。「未発表日記〔1949〜1992〕」に掲載された写真11点のうち1点を同氏からご提供いただきました)