第十九話
翳の祭典 乱歩と私
中井英夫
影は
哀しみと同じに
どこまでも長く伸びる

一九九二・五・十一

 ことし一九九二年は芥川龍之介ほか数氏の百年祭ということだったが、これという行事も出版物もなく、空しいままに過ぎた。二年後の一九九四年は江戸川乱歩の百年祭で、必ず乱歩ブームがくるといわれ、こちらは講談社の文庫版全集の再刊とか、東京創元社の『貼雑年譜』の、現物そのままの刊行とか、そろそろ話題も盛りあがっている。映画や芝居でも何かと取沙汰されることだろう。
 しかしその映画の宣伝に「屋根裏の散歩者」を“覗き魔の犯行”などと謳っている広告があり、こうした低俗さだけはもう願い下げにしたいものだ。乱歩がしばしば嘆いていたように、こうした低劣さがすなわち世人の理解度の低さをそのまま示しているからである。
 私もことしは何かと乱歩に縁があった。まず七月二十日に初めて乱歩邸の土蔵を訪れ、その雰囲気に心を奪われ、七月二十八日の祥月命日には多磨霊園の乱歩の墓に詣でて感懐を新たにした。ついで八月十六日には、乱歩展のひらかれている本郷の弥生美術館へ行き、竹中英太郎の挿絵の数々に堪能した。しばらく順を追ってその時のことをお伝えしよう。これはいずれも新しい助手兼マネージャーの本多正一が乱歩の心酔者で、何とかして中井を連れて行こうと考えたおかげなので、東京創元社の戸川安宣氏を煩わせて実現の運びとなったものである。
 乱歩邸の土蔵の内部は、荒俣宏氏の探訪記などであるていど承知はしていたが、実際に足を踏み入れてみるとその魅惑は格別で、ほとんど酔心地となるほかなかった。のみならず思ってもみなかった完璧な密室殺人譚が心に浮かんで、何としてもこれを書き上げねばという気になった。
 それはまたいずれ、ということにして、土蔵を案内して下さったのは長男の隆太郎氏で、おびただしい書籍に埋まった内部の角を曲るたび、そこはたやすく異次元界となり、神秘の迷路に変った。乱歩その人の香をまだ色濃く留めているそこで、私は明らかに乱歩の囁きを聞いた。
 池袋の乱歩邸自体は、氏の生前に訪れて話を交したこともあるのだが、その時はただ松本清張・有馬頼義氏らを幹事とする“影の会”世話人という立場だったから、おずおずと口もろくに利けない有り様だった。私が本当に乱歩と話を交したといえるのは『虚無への供物』前半を第八回乱歩賞に応募した時で、“その人々に”の筆頭は、むろん乱歩その人に他ならない。
 そしてこの日、さらに嬉しかったのは『貼雑年譜』の最終巻、つまり乱歩が手ずから貼った第九巻の最終ページに、私の出版記念会の案内状が残されていると教えられたことであった。このことは「ヤナセライフ」という雑誌の五月号に、平井隆太郎氏の「記録魔だった江戸川乱歩」という一文として残されているが、この出版記念会は一九六四年五月の“塔晶夫を励ます会”のことで、乱歩に三島由紀夫、木々高太郎、高橋義孝、荒正人、有馬頼義氏らが発起人として名を連ねてい、まったく無名の新人によくもこれらのというほど分に過ぎたもので、早速見せて欲しかったが、あいにく現物は弥生美術館に出品中ということで、これも後日の娯しみとなった。
 乱歩の墓には、これまで何度か詣でているが、むろん一人で行った訳ではない。いつものとおり本多君に車で連れて行かれたが、この時も戸川氏と一緒だった。前に行った時とは場所も形も違っているような気がしたけれども、むろんこれは錯覚である。あまり暑いので半ズボンにサンダル穿きという礼を失したなりで、人に会うと困ると思ったが、しんかんと人の気配はなかった。
 弥生美術館はひどく判りにくいところにあったが、故郷ともいうべき本郷だし、弥生時代という名の発祥地でもある。それに暗闇坂という坂の下にあるのも、いかさま乱歩展にふさわしい。七月二日から九月二十七日までの会期は、それゆえ尚更貴重なものに思われた。それにここは高畠華宵や蕗谷虹児、川路柳虹ら、美少年・美少女を描く画家のコレクションでも知られており、なぜ現代にはこうした画風の持主がいなくなって了ったのか、私には不可解でならない。愛好家はまだ世の中に溢れ返っているというのに。
 竹中英太郎の原画には圧倒された。『孤島の鬼』の無気味な老爺は、乱歩の小説のページから脱け出てきたかのようだし、『盲獣』のトリミングの旨さは、それだけでとびぬけた画才を偲ばせる。私の作品集第一巻の口絵に飾らせていただいた一九八六年のころは、その名を知る人はまだ特殊な愛好家の域に留まっていたし、折角の作品集は編者に人を得ず、がっかりさせられた。
 そして不思議なのは乱歩が、英太郎第三の名作ともいえる「大江春泥画譜」に激怒し、絶交状態のような拒否の態度を示したことで、ちょっと待って下さいよ乱歩さん、そりゃ勝手に「屋根裏の遊戯」とか「狂ふ一寸法師」とか、勝手に名作の題を変えたのは御不快でしょうが、あれはあれで乱歩の内面を抉り出した凄さがあるじゃありませんか。ビアズレエの「サロメ」の例もあることだし、お願いです、天上で再会されたらまた仲よく、この退屈むざんな地上に悪の落し子をどうやって届けるか、おふたりで相談なすって下さいと祈らずにいられない。
 英太郎に堪能したあと、お目当ての『貼雑年譜』第九巻の最終ページを、特別に頼んで見せてもらい、写真に撮らせてもらう。思えば昭和四年、小学一年生の時に『孤島の鬼』を貪り読んでから六十年、いま残りなく乱歩への敬愛の念は嘉納されたといっていい。講談社文庫版の『魔術師』の解説の時は、書きたくない、この題がいやだといった“乱歩と私”を、いまようやく私も書くことが許されたという思いでこの一文を草した。
 本多正一はこのあと三重県名張市の“乱歩生誕記念碑”を訪ねて、これも本懐を果した。こうなったらもうどんな形で乱歩ブームがこようとも、にっこり笑って手を振っていられることだろう。

(一九九二年十月)

掲載2000年2月29日(copyright 本多正一)
中井英夫〔なかい・ひでお〕大正11年9月17日−平成5年12月10日(1922−1993)
初出・底本平成5年(1993)/別冊幻想文学《中井英夫スペシャル2 虚無へ捧ぐる》1993年2月、幻想文学出版局/p.1、p.3−11(同誌巻頭のエピグラフも掲載しました)
写真「乱歩邸の前で。右は助手の本多氏」(撮影は戸川安宣氏。「翳の祭典 乱歩と私」に掲載された11点のうち1点を本多正一氏からご提供いただきました)