第二十話
語りの事故現場
高原英理

     

 三島由紀夫の読者と江戸川乱歩の読者とは、どれほど重なっているものだろう。
 比較的多く見られるのは、「耽美主義」というあまり現在では褒めたものでもない奇妙な概念を支持する人々に掬いとられて両者が顔を合わせる場合だろうか。しかし、その概念自体にどれだけの意味があろう? 第一、乱歩が「耽美主義者」と言えるのかどうか。
 共通点よりは相違点の方が多そうなこの二者が、しかし、具体的に交叉した地点は確かに存在する。江戸川乱歩の原作による三島由紀夫の戯曲『黒蜥蜴』がそれである。
 かつて、たまたま演じられる場に居合せることを得たこの芝居を見終わってみると、ほぼ三島の作品と言ってよいものに思えた。ではどこが原作と同じでどこが違うのか。こうして原作との差と共通点を比べあわせてみた者が、さらに両者の方法をも比較したくなってしまったとしても仕方あるまい。
 きっかけは戯曲『黒蜥蜴』である。ただしまだその先がある。三島から乱歩へと遍歴し、その対照的な語りの機能を追ってゆくことで、語るという行為に何が可能か、それをこそ考えてみたい。

     

 三島の戯曲『黒蜥蜴』と乱歩の原作との具体的な違いのひとつは黒蜥蜴の手下である青年雨宮の来歴ならびに容貌である。戯曲では自殺しようとしていたところを黒蜥蜴に誘われ剥製にされかかったが、生かしてくれと泣きついて以来、黒蜥蜴の奴隷となった美青年、ということになっている。原作では恋敵と恋人とを手にかけてしまったところを黒蜥蜴の巧妙な手段で警察の手を逃れて以来手下となった拳闘選手のようにたくましくしかも武骨な容貌の男ということであった。
 原作にあって戯曲にないのが、捕虜の早苗(の身代り)が「大水槽」に投げ入れられるシーン。
 また、原作では大阪での事件となっている黒蜥蜴と岩瀬の取引の場面が戯曲では東京でのこととしてあるが、これ自体はあまり本質的な変更とは言えない。
 それより、戯曲の第一幕で印象深い場面を見せる、早苗と黒蜥蜴との、現世界の価値を転倒させた理想的別世界に関する対話が原作にはないこと。さらには「贋物の恋人」というような観念によって結び付く虜の二人という場面も異なる上、戯曲では早苗の身代りの女とともに檻に入るのは雨宮その人ということになっていること。
 劇場用台本が原作を大きく改変するのは常にあることだが、そういう慣例からすれば戯曲『黒蜥蜴』はむしろ随分原作に忠実であるとも言える。筋立てそのものはほぼ同じだ。ただ、売店の夫婦に渡す紙幣の数まで原作を踏襲している一方で、緑川夫人の語るユートピアや、明智の語る本物/贋物論というような、脚色のさいに付け加えられた部分になるとほとんど原作を忘れたように饒舌になっているのが目につく。
 戯曲『黒蜥蜴』全編の主眼となる場面はおよそ二か所あり、いずれも三島によって付加された台詞が最大の効果を見せる。その一方は第三幕第一場・怪船の船内(B)上甲板、明智の死を確信した黒蜥蜴が使用人の松吉(実は後に明智と知れる)に向かって次のように言う場面。

 黒蜥蜴 海をごらん。暗いだらう。
 松吉 (のぞき込んで)はあ。
 黒蜥蜴 夜光虫があんなに光ってゐる。
 松吉 …………。
 黒蜥蜴 この世界には二度と奇蹟が起らないやうになつたんだよ。

 (新潮社版・三島由紀夫全集第二十二巻より 以下同じ)

 もう一方はラスト、第三幕第三場・恐怖美術館において、死んだ黒蜥蜴を前に明智が次のように言い放つ場面。

 明智 あなたのものはみんなあなたの手に戻りました。僕の役目はこれでおしまひです。
 岩瀬 一家の幸福と繁栄は、みんな明智さん、あんたのおかげだ。この御恩は永く忘れません。
 明智 忘れて下さつて結構です。あなたの御一家はますます栄え、次から次へと、贋物の宝石を売り買ひして、この世の春を謳歌なさるでせう。それで結構です。そのために私は働らいたのです。
 岩瀬 え? 贋物の宝石だと?
 明智 ええ、本物の宝石は、(ト黒蜥蜴の屍を見下ろして)もう死んでしまつたからです。

 互いの(ただし一方は思い込みとしての)死を間に挟んでほぼ対称形に相聞が完成するわけだが、そうした、生とは相いれぬ敵同士の恋愛というプランは既に江戸川乱歩の原作にある。しかし同時にこのふたつの場面において三島と乱歩の相違もまたあきらかになっている。戯曲『黒蜥蜴』が乱歩の原作ともっとも異なるところは、その反時代主義とでもいえるような現代の世界の在り方への否定の表明である。
 第二幕第一場・岩瀬邸台所の場面で老家政婦(実は黒蜥蜴の手下)ひなは、岩瀬氏の娘早苗を黒蜥蜴の手から守るために雇われた用心棒たちと次のような会話を交わす。

 用心棒原口 それはさうと、ひなさん、かういふ金持のお嬢さんは、どうしてわれわれの腕力に守られながら、われわれの腕力をまるで無視するやうな顔をしてるんだらう。
 老家政婦ひな そりやあお金で買はれた腕力だからさ。
 用心棒原口 だがね、われわれの腕力はそこらによくある奴とはちがふぜ。剣道四段、柔道五段、唐手三段、あはせて十二段、その上ボクシングの心得まである。ところがわれわれの強さを本当に崇拝してくれるのは、そこらの洟垂れ小僧ばかりと来てる。
 老家政婦ひな あんた方は生れる時をまちがへたのね。時代物の世の中にでも生れてれば……。
 用心棒富山 さうだよ、俺だつて、三好清海入道ぐらゐにはなつてたらうな。
 老家政婦ひな さうなれないわけを教へてあげようか。
 用心棒原口 えらさうに言ふね。言つてみな。
 老家政婦ひな それはあんた方が折角の腕力をいいことのために使つてるからなんだよ。ところで今の世の中ぢや、善いことといふのはみんな多少汚れてらあね。だからあんた方は汚れた善いことの味方だから、いつまでもぱつとしないんだよ。

 ここではまだ現代に「善」とされる行為の持つ「ぱっとしなさ」への軽蔑が示されたに過ぎない。しかしその軽蔑を限りなく延長し、頂点にラストの明智の言葉を置くことで、それまでに語られてきた比喩やエピソードが、同時代的価値観に敵対するための道具としてゆるぎなく定着する。
 すなわち、現代の現実原則とでもいうべき(功利主義的、またときに民主主義的な)発想・態度に対して、黒蜥蜴は犯罪という侵犯によってそれらを愚弄したのであり、そのことがすなわち今地上で得られる唯一の栄光たりうるのだ、またその犯罪性にもっとも接近できた明智のみが彼女の正当性を認識しえた、ゆえに二人は表面的には敵対しながらもこの世界に対しては隠微な共犯者であった、ということを明智の台詞は示している。
 第二幕第一場で、先に挙げたひなの台詞の続きに明智をさしてこうある。

そこへゆくと明智先生はちがふわね。あの先生はこの世で成り立たないやうな善と正義の味方らしいわ。

 このようにしてあらかじめ、明智が黒蜥蜴と同じ側の価値観の持ち主であり、もっとも蔑むべきは犯罪者ではなく、俗物の発想やら、「この世の善人」の態度やらであることが観客の誰にでもわかるように示される。
 原作における、犯罪者と探偵の恋というロマンティックなプロットは三島の手を通じてその形式を変更することのないまま意味合いが変えられ、結果、戯曲『黒蜥蜴』は恋そのもののロマンティシズムよりも、反地上的価値観の持ち主である少数派の同盟の存在とその礼賛を最終的な結論とした、いわば伝道の書となっているのだ。
 戯曲は、幕が進むにつれ、反時代的な優雅さという「真実」を知った少数者による、形而上学を知らない衆生への「説法」という様相を呈し始める。もちろんそれは誘惑と呼んでも勧誘と呼んでもよい性質のもので、この仕掛けの結果、うまくそそのかされえた観客はあたかも劇中の選良たちの語るそれと同じ「真実」を手にしたかのように超越的地点に立ち、この世界を眺め下ろし軽蔑することを許される(そのときの自尊心のくすぐりは実に快い。「わたしは、わかっている」と思うことの快楽)。
 現世界とは別の決定的(と錯覚させるような)秩序を教え込まれた観客は、そのときから現世界への完全否定をめざす、別世界の真実のための使徒となるのだ。このような否定意志と理想主義をここではグノーシス的と呼ぼう。
 この点で戯曲『黒蜥蜴』はいわば秘儀伝授の場であると言ってよい。しかもそれが実際には何の根拠もない虚構であったにせよ、多くの客に、黒蜥蜴の語る「優雅」を絶対の真実であると錯覚させおおせてしまう点で実に巧妙である。
 そこにはさまざまな仕掛けがあるが、例えば、黒蜥蜴と明智の選良性、その二人だけが見上げる架空の王国の輝かしさを際立たせるため、乱歩の原作とは異なり、戯曲では成金・岩瀬庄兵衞の俗物性が特に強調されている。
 この岩瀬が代表するような現代社会の現実原則はいかなる場合も常に三島にとっての悪意の対象であったこと、また三島にとって、そうした「現実」をより拡大させた「戦後民主主義社会」がいかに唾棄すべきものと映っていたかということ、等はいまさらここで告げるまでもあるまいが、この戯曲に関して言うなら、その敵意はすべて「現実原則」に敵対する犯罪を称揚する形で表現されている。次は第二幕第二場での黒蜥蜴の台詞。

……私は子供の知恵と子供の残酷さで、どんな大人の裏をかくこともできるのよ。犯罪といふのはすてきな玩具箱だわ。その中では自動車が逆様になり、人形たちが屍体のやうに目を閉ぢ、積木の家はばらばらになり、獣物たちはひつそりと折を窺つてゐる。世間の秩序で考へようとする人は、決して私の心に立ち入ることはできないの。……でも、……でも、あの明智小五郎だけは……

 ここに言う「世間の秩序」がつまりは蔑むべき「現実原則」というわけだ。
 これが、明智と緑川夫人(実は黒蜥蜴)との対話では次のようにして現われる。

 緑川夫人 (あたりを見廻して)けふはいつもの夜とちがふやうだわ。夜がひしめいて息を凝らしてゐるわ。精巧な寄木細工のやうな夜。かういふ晩には、却つて体が熱くほてつて、いきいきとするやうな気がするわ。
 明智 犯罪が近づくと夜は生き物になるのです。僕はかういふ夜を沢山知つてゐます。夜が急に脈を打ちはじめ、温かい体温に充ち、……とどのつまりは、その夜が犯罪を迎へ入れ、犯罪と一緒に寝るんです。時には血を流して……。
(第一幕第五場 )

 ここでもまた、犯罪といういわば憧れを介しての相聞となっているが、それが恋愛的関係というよりは、ある真実を知った(つまり同一の神を仰ぐ)非常に希少な者同士の同志愛というべきものであることを既にはっきりと示している。

 明智 犯罪というものには何か或る資格が要るのです。いいですか。犯人自身にもしかとつかめない或る資格が。
 
(中略)
 緑川夫人 すばらしいお説だわ。私まだあなたみたいな探偵に会つたことがありません。こんなに心底から犯罪を愛し、犯罪にロマンチックな憧れを寄せてゐる探偵に。

 この二人にとって、犯罪とは不可能な神である。しかも、その犯罪に関して二人が、「或る資格」を持つ者とそれを認識できる者という選ばれた少数者だ、と観客に告げ知らせることが先の台詞の目的である。こうして明智と緑川夫人(=黒蜥蜴)という二人の司祭が誕生する。以後、二人はともに熱心な信仰者を獲得してゆくことだろう。
 さらに同じ場面で、犯罪に関するいわば教義問答が交わされる。

 明智 さうですとも。たしかにあらゆる犯罪には、絹のやうな、レエスのやうな或る優雅なものがあります。そしていくらか古くさい、大袈裟なところがあります。旧弊な伯母さんの話を聞くやうな。
 緑川夫人 自動車強盗でもさうですの? それから汚職でも? むさくるしい大男の強力犯でも?
 明智 ええ、さういへるでせうね。どんな卑俗な犯罪にも、一種の夢想がつきまとつてゐるからです。われわれの近代社会は法律で固められてゐます。こいつはまあ硝子と鉄とコンクリートでできてゐて、とても歯の立つ代物ぢやありません。レエスと絹と血の花束とは、そいつの外側に優雅に漂つてゐるのです。どんな兇器でも、兇器と名のつく以上、無害な電気洗濯器よりも優雅な形をしてゐます。非実用的な情緒を帯びてゐます。さうぢゃありませんか?

 ここで告げられた「優雅」は『豊饒の海』第一巻『春の雪』において主人公・松枝清顕が「優雅といふものは禁を犯すものだ、それも至高の禁を」と心中に独語した、その優雅と全く同じものであることを言い足しておこう。なお、三島由紀夫全集第十八巻の解題によれば『豊饒の海』は一九六〇年頃から構想されたとある。戯曲『黒蜥蜴』は一九六一年に発表されている。
 両作品に共通するのは「優雅」論にとどまらない。
 戯曲『黒蜥蜴』において、犯罪のイマージュがあるユートピア性を帯びて語られているのは先に引いた第二幕第二場での黒蜥蜴の言葉にも明らかだが、他にもさまざまに類似した表現が「のぞましい世界」を示唆するものとして現われてくる。次は第一幕第一場、緑川夫人とそれに狙われている美少女早苗との対話から。

 緑川夫人 私が考へる世界では、宝石も小鳥と一緒に空を飛び、ライオンがホテルの絨毯の上を悠々と歩き、きれいな人たちだけは決して年をとらず、国宝の壷と黄いろい魔法瓶が入れかはり、世界中のピストルが鴉の群れのやうに飛び集まつて、空はそのために暗くなる。(中略)
 早苗 すてきね! お父さまのお店が破産するわ。私は自由になる。もうわざわざ大 阪へまで連れて来られて、お見合いなんかすることもなくなるわ。乞食の青年が私に求婚するわ。
 緑川夫人 さうよ、あなたは自由になる。そればかりぢやない。永久に若さを保つて永久に美しいままでゐいられるのよ。
 早苗 本当? をばさま、本当?
 緑川夫人 私が嘘を言ふもんですか。私の夢の国にどうしてもあなたを招待したいと思つてるの。それといふのもあなたが若くてきれいだから。

 理想世界のたわいない描写に混じって告げられる「きれいな人たちだけは決して年をとらず」という部分、「永久に若さを保つて永久に美しいままでゐいられるのよ」という箇所に注目しよう。これは言うまでもなく、後半の「恐怖美術館」における人間剥製コレクションを予告する伏線であり、またこの台詞自体は乱歩の原作にはないものの、その表わすところは原作の範囲内にあるとも言えるのだが、ただ、「きれいな人たちだけは決して年をとらず」という語に代表される肉体的美醜による差別意志と老いへの嫌悪から発生する反時間・非現実への執着、そのユートピア願望は、これも一般にはユートピア志向の作品と見られている乱歩の『パノラマ島奇談』のそれとは異質な形で発展している。

 緑川夫人 きれいな顔と体の人を見るたびに、私、急に淋しくなるの。十年たつたら、二十年たつたら、この人はどうなるだらうつて。さういふ人たちを美しいままで置きたいと心から思ふの。年をとらせるのは肉体ぢやなくつて、もしかしたら心かもしれないの。心のわづらひと衰へが、内側から体に反映して、みにくい皺やしみを作つてゆくのかもしれないの。だから心だけをそつくり抜き取つてしまへるものなら……(同右場面)

 ここにある肉体と精神の相克というモチーフは一九六九年発表の戯曲『癩王のテラス』のそれと等しいものだが、そうしたことよりも今は、この「美しい人間たちを老いさせたくない」という執着の生み出した三島的ユートピアが『豊饒の海』第三巻『暁の寺』で今西という芸術家崩れの口を借りてきわめて露悪的に語られていたのを思い起こそう。

 「ちかごろ『柘榴の国』ではどんなことが起こってゐるの?」
 「あひかはらず人口はうまく調節されてをりますよ。近親相姦が多いので、同一人が伯母さんで母親で妹で従妹などといふこんがらかつた例がめづらしくないけれど、そのせゐかして、この世ならぬ美しい児と、醜い不具者とが半々に生れます。
 美しい児は女も男も、子供のときから隔離されてしまひます。『愛される者の園』といふところにね。そこの設備のいいことは、まあこの世の天国で、いつも人工太陽で適度の紫外線がふりそそぎ、みんな裸で暮して、水泳やら何やら、運動競技に力を入れ、花が咲き乱れ、小動物や鳥が放し飼いにされ、さういふところにゐて栄養のよい食物を摂つて、しかも毎週一回の体格検査で肥満を制御されますから、いよいよ美しくならざるをえませんね。但しそこでは本を読むことは絶対に禁止されてゐます。読書は肉の美しさを何よりも損ふから当然の措置ですね。
 ところが年ごろになりますとね、週一回この園から出されて、園の外の醜い人間たちの性的玩弄の対象にされはじめ、これが二、三年つづくと、殺されてしまふんです。美しい者は若いうちに殺してやるのが人間愛といふものぢやありませんか。
 この殺し方に、国の芸術家のあらゆる独創性が発揮されるんです。といふのは、国ぢゆういたるところに性的殺人の劇場があつて、そこで肉体美の娘や肉体美の青年が、さまざまの役に扮してなぶり殺しにされるのです。若く美しいうちにむごたらしく殺された神話上歴史上のあらゆる人物が再現されるわけですが、もちろん創作物もたくさんありますよ。すばらしい官能的な衣装、すばらしい照明、すばらしい舞台装置、すばらしい音楽のなかで壮麗に殺されると、死にきらぬうちに大ぜいの観客に弄ばれ、死体は啖はれてしまふのが普通です。

 この「柘榴の国」は、特別『暁の寺』本編の筋立てと重要なかかわりを持つものではないが、しかし、ここには、作者本人の注解によれば澁澤龍彦を模したとされる人物の口をとおすという形で(そういう形をとったからこそ)、あたかも三島自身の欲望が相当切実に語られているかのようだ。
 それは徹底的な差別によって成り立つ世界である点で、戦後日本社会のめざした「民主主義」の対極を描いている。つまり、美しくない平等を嘲笑い、「人格」など無視して単純な容姿の美しさだけに奉仕する社会を、さもうるわしげに語ること。
 言うまでもなくこの「柘榴の国」は、例えば『憂国』におけるような語りようとは比べものにならず、作者の意図としては飽くまでも戯れ言の一例のつもりなのだろうが、この例示によってはっきりさせたいのは、三島の場合、ユートピアは、その語源どおり、ひとつの理念によって支えられた、それこそ全くの非現実のシチュエーションの中にしか成立しえない観念であったということだ。そこが後に語るように、同じ空想ではあっても必ず物質的・状況的妥当性から始まる乱歩のそれとは全く異質である。
 『黒蜥蜴』原作の「大水槽」の部分が戯曲で全くカットされているのは、舞台での実演が難しいという事情以上に、それがあまりに肉体の具体性によりかかった場面であって、あるべき「肉体」の観念(例えば同じ原作の中でも、不死性を得た剥製としての肉体という案ならば大いに受け入れられるわけだ)からすれば見苦しすぎると三島に感じられたことが理由であろう(ところが乱歩にとってはこの肉体の生々しさこそ魅惑的に映るのだ)。
 実際の肉体は決して一方的な観念としての美に奉仕するものではありえない。そのため、『癩王のテラス』に見るごとく、三島にとって、単なる肉体と「美しい肉体」とは質的に異なるべきものであり、その結果、倒錯的なことに「美しい肉体」は観念でしかなくなっていた。それが現実の肉体性を帯びることが彼には耐え難いのだ。
 そしてその観念を成り立たせる意識は、グノーシス的な理想主義から始まっている。
 再び戯曲『黒蜥蜴』に戻れば、第三幕を迎えるあたりから、しきりに本物・贋物という語が発されるようになる。

 早苗 好きなやうにさせてあげるわ。どうとでも好きなやうに。……もうあなたを裏切るほど好きでもないけど、望みを叶へてあげたいと思ふほどには、まだ少し好きだから……
 雨宮 (早苗を抱き)よく言つてくれたね。はじめて君が可愛いいよ。……ぼくたちは贋物の恋人だ。君は贋物の早苗。
 早苗 あなたは贋物の奴隷ね。
 雨宮 僕たちは贋物の愛で結ばれて、贋物の情死をする。ちつとも愛し合つてゐないのに、同じ朝、同じ時に殺されるんだ。
 早苗 さうして私たちは剥製にされて……
 雨宮 永久に抱き合つて暮すんだ。
 早苗 私たちの贋物の愛が、
 雨宮 男と女の不朽のよろこびの像になるんだ。
 早苗 本当の愛のよろこびの、
 雨宮 誰の目から見たつて疑ひやうのない、本物の愛の形をゑがく!

 初期作品に属する『盗賊』のモチーフがこんなところで返り咲いている。「愛」という無形のものは無視し「美しい形」だけを示すという発想は「柘榴の国」とも通ずる。それは現代において過剰に尊重されがちな「内実」や「個性」への軽蔑の意志表示ともなり、常識を反転させることによってこそ真実に触れようとする作為ともなる。つまり、いわば、ここで逆説的にせよ、登場人物たちは「真実」を手にしようとしているのだ。
 さらに、もっと権威ある「司祭」の言葉を聞こう。

 黒蜥蜴 でも心の世界では、あなたが泥棒で、私が探偵だつたわ。あなたはとつくに盗んでゐた。私はあなたの心を探したわ。探して探して探しぬいたわ。でも今やつとつかまへてみれば、冷たい石ころのやうなものだとわかつたの。
 明智 僕にはわかつたよ、君の心は本物の宝石、本物のダイヤだ、と。

 この後、既に挙げたラストの明智の大見得となる。最後の台詞で「本物/贋物」の観念の振幅は極限に達する。そして黒蜥蜴の「心の世界」の真実(=優雅)の決定的な正当性が殉教者の死の宣言とともに告知されて終わる。
 ちなみに乱歩の原作にはこのような本物・贋物をめぐる対話はない。
 三島の戯曲に語られるこの求道的とも言える理想主義に比較すると、乱歩は、まったく、とはいえないものの、およそグノーシス的とも理想主義的とも言い難い。もちろん乱歩に憧憬はなかったのか、と言えば決してそうではない、しかし、それは常に彼の体質とでも言うべき事実性・肉体性への執着に敗れる形で示された。しかもその執着は三島のように理念として分かり易く論理的に提示できるものではなかった。
 ポオの『アルンハイムの地所』や谷崎の『黄金の死』と並べて『パノラマ島奇談』をユートピア文学と呼ぶことはできなくはないけれども、そこにはこの世界そのものへの対抗意識が全く欠落している点で、強い否定の意志と正当への希求を持ちつつ西洋で発展したところの「ユートピア志向」、モリスに始まり、サド、フーリエまでを視野に入れたそれとは区別されるべきではないか。主人公・人見広介が人工楽園を夢想するのは、人生の何もかもが「たいしたことはない」からである。真理であるかどうかなど問題にはならず、面白いかどうか、心地よいか否かだけが重要となっている。
 それは言うならば人工的な「桃源境」ではあっても、現世への全面否定を発端とするグノーシス的な「この世の外の真実」への希求が造形した理想とは異なる。パノラマ島はきわめて地上的な欲望が織り成す素朴な願望充足へのひきこもりの結果であって、「真実」への意志も世界そのものへの否定の意志もない。
 ただしかし、乱歩の作品に常に言えるのは、結果として、だが、明確で揺るぎない役割分類・決定された遠近法による明晰な空間を忌避していることであろう。その点でパノラマ島は、ある種のテクノロジーによって正常な遠近法の裏をかくことをめざしている、とも見ることができる。
 これに対し、三島は、乱歩のような具体性を省略して、一気に理論としての反現代を提示する。三島由紀夫の作品はその多くをこの理念に負っている。そして、それが理念として語られることが彼の作品にいわば「一般性」を与える根拠となっているのだ。
 あらゆる文学作品は例外なく政治性を持つものではあるが、三島の『黒蜥蜴』はその「一般性」から、特に政治的プロパガンダや宗教勧誘のためのパンフレットの内容と等しいものとなっていると言ってよい(もちろん、政治的プロパガンダであろうと宗教勧誘であろうと、うまいそそのかしほど快楽的なものはない)。とりわけ彼の得意とした演劇での客のそそのかし方は優れているが、しかし、それは「一般的」であるがゆえに、実のところ、三島由紀夫という特異な存在による作品でなければならない理由がない。同じ理念を会得した別の作者の手になるものでも構わないのだ。
 この戯曲に見られるように、一般人には知られていなかった「真実」を教え諭すことで人の意識にひとつの特異点を植え付け、それを中心とした遠近法に従っていやおうなしに真実と非真実とを弁別させる、という方法は、言葉をかえれば「啓蒙」と等しい態度でもある。啓蒙的態度の特徴のひとつは遠近法の固定と言えよう。例えばヴィトゲンシュタインを知った現代人にとっては決して自明ではない筈の「教える/教わる」という関係が、教える側から教わる側への知識の一方通行としてしか認識されていない点にもそれは明らかである。もののよしあしと答えは初めから作者によって決定されている。
 しかし、これでは語ることの可能性は見えてこない。われわれは八百長試合のような予定調和にはもはや興味が持てないのだ。
 では乱歩の場合はどうだろう。期待できるものはあるのだろうか。

     

 乱歩にも、現実社会のそれとは異なった価値観にもとづく観念的な別世界構築への共感はありまた憧れもある。しかしそうでありながら彼には、三島のような明確な遠近法を用いることも、決定的な中心を定めた後にこの世界を眺め下ろしつつ話を始めることも遂にできない。原作『黒蜥蜴』でまず彼が描き出すのは暗黒街のカーニバル的な喧騒の中で裸体を見せつける女王黒蜥蜴のありさまであり、次には手下となるべき雨宮を殺人罪による逮捕から救おうと、彼の身代りの死体を手に入れるため入り込む大学の死体置場の場面である。終始具体的であって中心理念らしいものは出てこない。
 さらにその後、二人はホテルへおもむき、緑川夫人の名でホテルの客となった黒蜥蜴によって、そこで準備された岩瀬早苗誘拐のためのトリックがあらかじめ示されるのだが、眠らせた早苗をトランクに入れて運ぶ、というただそれだけの説明で済むところを、何の前置きもなしにまず黒蜥蜴自身がわざわざ服まで脱いでトランクに入って見せる、というこのまわりくどい展開は、それまでに語られた「探偵小説」的過程にも増してどうしようもなく乱歩的と言わざるを得ない。
 ここで乱歩的と言うのは、たとえそれがいかに不自然で幼稚な展開を見せるにしても、常に観念によらず具体的な肉体性と実践性を思い描きつつ語りを進めねばいられないという、いわば体質をさす。しかも、その描写は三島作品における観念的台詞の部分に匹敵するほど嬉々としている。

そこには、このましい曲線にふちどられた、輝くばかりに美しい桃色の肉塊が、ギョッとするほど大胆なポーズで立ちはだかっていたではないか。
 
(中略)
 彼女はあらゆる曲線と、あらゆる深い陰影とを、あからさまに見せびらかして、トランクの縁をまたぎ、その中へまるで胎内の赤ん坊みたいに手足をちぢめて、スッポリとはまりこんでしまった。
 
(中略)
 まげた脚の膝頭が、ほとんど乳房にくっつくほどで、腰部の皮膚がはりきって、お尻が異様に飛び出して見えた。後頭部に組み合わせた両手が、髪の毛をみだし、わきの下が無残に露出していた。なにかしら畸形な、丸々とした、非常に美しい桃色の生きものであった。
 
(講談社刊・一九六九年版『江戸川乱歩全集』第七巻『黒蜥蜴』より 以下同様。なお、この版の全集には編集委員として松本清張、中島河太郎とともに三島由紀夫が名を連ねている)

 陰影の美しさについてはかつて『鏡地獄』でも触れられていたし、また、どこか畸形な、(それゆえ)非常に美しい桃色の生きもの、というイマージュは『畸形の天女』をはじめ、さまざまに変奏して語られる乱歩の嗜好のひとつだが、乱歩は反世界的な価値観より先に、常にこういう、いわば人格を持たない「肉塊」としての肉体への執着を語らずにはいられないのだ(もっとも露骨な例は『芋虫』であろう)。その点で、作品冒頭の、黒蜥蜴が裸体で踊る部分も結局ここへ至る過程であるし、またそれに続けて死体置場の死体に代表されるような物体としての肉体の描写を語るのも同じ衝動による。
 さらに、先に引いた部分のすぐあとを続けてみよう。

 蓋をしめてしまえば、それはいかめしく角ばった一箇の黒い箱にすぎなかった。その中になまめかしくふくよかな桃色の肉塊がひそんでいようなどとは、どうしても想像できないのだ。古来手品師たちが、不細工なトランクと美しい女体とのきわ立った取り合わせを、好んで用いる理由がここにあった。

 乱歩が随筆等で何度もその偏愛を告げた「探偵趣味」とはいわばこういうことではないのか。猟奇、犯罪、覗き見等への興味も、結局はここに示されたような事態への偏愛ではないだろうか。ここに示された事態、とはつまり、表から見れば役割が固定され平凡でつまらなさそうなものなのにその裏側を覗くと、まるで想像もしなかったような異様な、あるいは美しい、あるいは恐ろしい何ものかが見える、という事態である。「いかめしく角ばった一箇の黒い箱」の中には、外からは「どうしても想像できない」ような「なまめかしくふくよかな桃色の肉塊がひそんで」いた。
 乱歩の想像はこうした表と裏もしくは外側と内側に極端な乖離が存在する場合、さらに言えば、ある視点と別の視点とで認識に大きな差が生じる場合に著しく昂進する。それゆえ「明晰」を嫌い、決定不能性が重要視される。しかしそうした状況、そうした想像は、都会で暮らす現代人になら常にあることではないか。アパートの隣の部屋に住む人物とはほとんど話もしたことはないが、もしその人物が殺人者だとしたら……というような、ある意味では無理のない都会人の想像力が乱歩の出発点なのだった。
 レンズ・光学機械への嗜好はその即物的な例として説明されるが、もちろんそれだけに留まらない。そのまま『湖畔亭事件』のようにストレートに覗きの欲望として描かれる場合もあれば、『一人二役』のように二重の存在として暮らすことへの願望として提示されることもある。『陰獣』で描かれたように、ある事件に関して二重三重に意味が読み取られ、奥へゆくほど曖昧さが増し怪しげなものが見えてくるといった様相は乱歩にとって何より望ましい。
 その乱歩の言う「探偵趣味」とは、だから、意識せずに見ていては何も分からないが、日常的でないある契機によって別の見方さえできればそこに異形の様相がみえてくる、という、事実の持つ意味の多重性への偏愛、さらに正確に言えば事実というきっかけから湧き起こるみだりな想像への偏愛なのである。ゆえにそれは反世界の理念を語ることはなく、いかに幻想的であっても飽くまでも事実という枠組の中から始まらねばならない。
 こうした「探偵趣味」を示す例は彼の作品には無数にあるが、例えば『黒蜥蜴』の中では次のような部分。

 それは早苗さんが大阪に帰って間もないある夜のことであったが、同じ大阪市内の盛り場S町の通りを、両側のショウ・ウインドウを眺めながら、用もなげに漫歩している一人の娘があった。
 
(中略)
 現に、彼女をその種類の女性と考えてか、さいぜんから、それとなく彼女のあとをつけている一人の人物があった。
(中略)
 娘の方でも、とっくにそれを気づいていた。だが、彼女は逃げようともしないのだ。ショウ・ウィンドウの鏡を利用して、その老人の様子を、何か興味ありげに眺めさえした。
 
(中略)娘はふと思いついたように、尾行の老紳士をちょっと振り返っておいて、その店へはいって行った。そして、シュロの鉢植えで眼かくしをした隅っこのボックスに腰掛けると、なんと人を喰った娘さんであろう、コーヒーを二つ注文したのである。一つはむろん、あとからはいってくる老紳士のためにだ。
 
(中略)
 「どうじゃな、失業の味は?」
 すると、今度は娘の方でもギョッとしたらしく、顔を赤くして、どもりどもり答えた。
 「まあ、知ってらしたの? あなた、どなたでしょうか」
 「フフフフフフ、あんたのちっともご存知ない老人じゃ。だが、わしの方では、あんたのことを少しばかり知っているのですよ。
 
(中略)
 「いや、そういう品のわるい口をきいてはいけません。わしはまじめに相談しているのじゃ。あんたをお囲いものにしようなんて、へんな意味は少しもない。だが、あんたはわしに雇われてくれますか」
 「ごめんなさい、それ、ほんとうですの?」
 やっと葉子にも、老人の真意がわかりはじめた。
 「ほんとうですとも。ところで、あんたは関西商事で、失礼じゃが、いくら俸給をもらってましたね」
 「四十円ばかり……」
 「ウン、よろしい。ではわしの方は、月給二百円ということにきめましょう。そのほかに、宿所も、食事も、服装も、わしの方の負担です。それから、仕事はというと、ただ遊んでいればいいのじゃ」

 ここには都会生活の中で、あるいは起こるかも知れない奇妙な出会い、内情は知れないが何かあるらしい出来事が描かれている。それは実際にはなかなか起きないことではあっても、誰でもが想像しうる、現実よりも半歩先の空想に過ぎない。この現実の僅かな延長線上にある、意味不明なしかし興味深いできごとへと、乱歩は読者を巧妙に導いてゆく。そうすることで、一義的な「退屈な日常」がその堅固さを失うのだ。何かある、そう感じ始めたとき、人は眼に見えるだけの事実から想像のほうへと否応なく足を踏み出してしまわざるをえない。そうなれば世界はどんなことでも起こりうる場所へと変容する。
 また、その誘導の方法として、一見何気ないと思われるような会話からも語り手は執拗に何かをあぶり出そうとする。

 「お嬢さん、ちょっとあたしの部屋へお寄りになりません? きのうお話ししたお人形を、お見せしますわ」
 「まあ、ここにもってきていらっしゃいますの。拝見したいわ」
 「いつも、離したことがありませんの。可愛いあたしの奴隷ですもの」
 ああ、緑川夫人のいわゆる人形とは、いったい何者であろう。早苗さんは少しも気づかなかったけれど、「可愛い奴隷」なんて実にへんてこな形容ではないか。「奴隷」といえば、読者はただちに、潤ちゃんの山川健作氏が、やっぱり婦人の奴隷であったことを思い出しはしないだろうか。
(引用者註・潤ちゃんとは雨宮をさす)

 こうした問いかけによって、語り手は、日常と思われるものにも小さな罠が無数にあるといったような想像を読み手に促し、そこからより一層の想像の拡大を招くのだ。
 特にその語り口に注目したい。「ああ……いったい何者であろう」「……実にへんてこな形容ではないか」「思い出しはしないだろうか」といった大袈裟で見え透いた、三島とはおよそかけ離れた洗練されない口調は、ここの描写に、少しずつ手探りに前進してゆくような感触を与えている。
 こうした手探りの口調では全く啓蒙をなしえない。ほとんどの探偵小説は、作者があらかじめ結末に至るすべてを把握してから書かれるものであるから、本来ならばどこか啓蒙的な書きぶりになって当然の筈なのだが、乱歩は違う。たとえ形式的には三人称の場合でも、どこまでも遠近法の不明確な、全容の見わたしにくい一人称的語りによって、読者にも薄暗闇の中を歩ませようとするかのようである。一歩先には思いもよらない陥穽が待っているかも知れないという不安とためらいを含んで話は進む。
 それは語りによって読者に「覗き見」をさせるためなのだ。少しずつ少しずつ、手掛かりを与えてゆき、そんな馬鹿な、いや、そうではないかな、そうだろう、そうに違いない、やはり……という不安とたゆたい、そして期待の過程を体験させようという意図のもとにこの語りはある。こうした、おそるおそる、逡巡しつつ徐々に迫るような語りによらないと、見慣れていると思った日常が実は闇に埋もれ、不可解なことだらけであった、と感じさせることが難しい。薄暗い想像を育てる過程こそが大切なのだ。むしろ結末はどうでもよい場合さえある。乱歩の作品には完全な解決を回避するかのように、結末に到ってもある種の疑いが残されるものが多い。完全な決定は「退屈」しかもたらさないからだ。
 乱歩による唯一の現実への批判の表現は「退屈」である。薄暗い想像の育ちにくい所、見えるものあるべきものがあらかじめ決まった空間こそ乱歩が最も「退屈」する所だ。それは誰とも知れぬ「一般人」たちが乱歩の欲望とは無関係に作った意味空間なのだ。とても自分は参加する気になれない、その感情を乱歩は「退屈」と呼んだ。

 多分それは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田三郎は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやってみても、いっこうこの世が面白くないのでした。(『屋根裏の散歩者』)

 この口調は随筆においても同じである。

勤めはむつかしくなかった。ただ地上の城の一陣笠として、現実を楽しむがごとくよそおわなければならないのが極度に苦しかった。(『幻影の城主』)

 乱歩がどこまでも追い続けるのは、自分にはちっとも面白くない一般人たちの確固たる確信が揺らぎ、代わってみだりな想像が息づき始める場面に立ちあうことだ。

 私は今でも、それを考えると、青空が夕立雲で一ぱいになって、耳の底でドロンドロンと太鼓の音みたいなものが鳴り出す、そんなふうに眼の前が暗くなり、この世が変なものに思われてくるのだ。(『陰獣』)

 乱歩の作品はどれもこのように「この世」を「変なもの」に思わせることをこそめざしていると言ってよい。彼にとって語ることの意義は、それにより、何の変哲もないと思われた日常を見慣れない異様なものに変容させてゆくことなのだ。つまりは現世界を丹念になぞりつつ自分の欲望にかなう形に言い換えること。
 現世界のそれとあからさまに対立する価値観を提示する三島とはまるでやり方が違うが、乱歩もまた「このままの世界」(ただしそれは「世界全体」ではなく、見える部分・表面の部分、一義的な世界、という意味だが)に満足しているわけでは決してない。とはいえ乱歩には、三島のように、別の理想に従って一気に世界を否定する意志はない。かわりに乱歩は三島の意志に匹敵するほどのしたたかさで地を這う。

 見ると、そのガラス張りの中には、またしても驚くべき異変が起こっていた。人形どもが、今度は揃いも揃って、男の背広服を着せられていたではないか。剥製の男女が、元のままの姿勢で、しかつめらしい背広服を着て、すまし返っているのだ。
 むろん明智の仕業にちがいないのだが、一度ならず二度までも、なんというつまらないいたずらをしたものであろう。だが、待てよ。明智ともあろうものが、そんな無意味ないたずらをするはずはない。この奇妙な衣装の着せかえにも、また何か、途方もない意味があったのではあるまいか。
 最も早くそれに気づいたのは、さすがに黒衣夫人であった。
 「アッ、いけない」
 愕然として逃げ腰になるすきもなく、人形どもがムクムクと起き上った。衣装だけが変っていたのではない、中身までも全く別物と置きかえられていたのだ。そこには剥製人形ではなくて、生きた人間が、さも人形らしいポーズを取って、時機のくるのを待ちかまえていたのだ。見よ、背広の男どもの手には、例外なくピストルがにぎられ、その筒口が盗賊たちに向けられているではないか。
(『黒蜥蜴』)

 この飽くまでも順を追った野暮な語り口をこそ見よ。「人々」とともにいったん思い直し、疑い、敢えて読者よりも愚かで鈍感な視点から語っている。乱歩は決して三島のような鋭い飛躍をしない。できない。超越的な視点を持たないからだ。
 しかし、この粘着的な語りは、三島のように教義の開示をしないまま、少しずつ世界の意味をすり替えてゆくという機能を果たす。同時に日常的な確信も少しずつ揺るがされてゆき、気がつくと読者は何ひとつ決定不能の奇妙な空間にいる。

 あれは、白昼の悪夢であったか、それとも現実の出来事であったか。
 晩春の生暖かい風が、オドロオドロと、ほてった頬に感ぜられる、むし暑い日の午後であった。
 用事があって通ったのか、散歩のみちすがらであったのか、それさえぼんやりとして思いだせぬけれど、私は、ある場末の、見るかぎりどこまでも、どこまでも、まっすぐにつづいている、広い、ほこりっぽい大通りを歩いていた。

 『白昼夢』の冒頭である。この後、語り手は、浮気な自分の妻を殺し屍蝋にして展示しているのだと大勢の前で演説する薬屋の主人の話を聞き、店先のガラス箱の中に飾られた女の蝋細工を見る。

 私の眼の前のガラス箱の中に女の顔があった。彼女は糸切歯をむき出してニッコリ笑っていた。いまわしい蝋細工の腫物の奥に、真実の人間の皮膚が黒ずんで見えた。作り物でない証拠には、一面にうぶ毛がはえていた。
 スーッと心臓が喉のところへ飛び上がった。私は倒れそうになるからだを、危うくささえて日覆いからのがれ出した。そして、男に見つからないように注意しながら、群集のそばを離れた。

 しかし群衆は誰ひとり男の話を本気にせず、「ハハハハハ、おきまりをいってらあ。お前それを、きのうから何度おさらいするんだい」などと言いながら笑っているばかりだ。恐ろしい事実を知っているのは語り手だけである。群衆の後ろには一人の警官がいたが彼もまた他の人々と同じように笑って男の話を聞いている。
 このとき語り手は、いわば唯一の真実の把握者であると言えるかも知れないが、そのことが三島の作品における場合のように、他を見下し、世界全体と拮抗しうる誇りの根拠になることはありえないし、しかも、その「真実」さえもはたして絶対に正しいのかどうか、彼には確信が持てないのである。もしたとえそこに死体があったのだとしても、それは本当に薬屋の言うとおりの行為の結果なのかどうか。あるいはまた敢えて死体をさらしていることには思いもかけない別の事情があるのではないのか。語り手が眼にした死体のいきさつはすべて男の口から聞いたことばかりで、第三者からの証言はない。不安で決定不能な状況に語り手はいる。
 それゆえ、彼にはもはやそれを警官に告発するというような行為をなす気力がない。世界が見知らぬものに変容してしまった後では、そこでの常識的な行動が無効にさえ思えてしまう。

私は眩暈を感じながらヒョロヒョロと歩き出した。
 行く手には、どこまでもどこまでも果てしのない、白い大道がつづいていた。陽炎が、立ち並ぶ電柱を海草のようにゆすっていた。

 この陽炎の揺らぎのように、乱歩の語りの中では事実が不定形な多重性をもって現われる。このような、何ひとつ明確ではありえない、何が起こるかもしれない不安な、揺らぎ止まぬ様相こそ、乱歩がこの世界に対して抱き続けた像ではなかったか。
 何とも知れぬ、どこまで続くやも知れぬ茫漠たる世界が広がる中に自分は放り出されている。そこには極度に複雑な意味・役割・分割があり、奇怪な法が支配しているらしいが、異邦人のような自分にはまるで理解も共感もできない。ただもう「眩暈を感じながらヒョロヒョロと歩き出」すしかないそこ。ときおりひどく恐ろしい何かが見え隠れするそこ。しかも、他の人々は異様な確信を持って「常識」というルールを築き、それによって何ひとつ不安も感じることのないまま、楽しみさえして暮しているらしい。諦めて、納得のないままそのルールに従ってみると、なるほど不安は薄らぐかも知れないが、それでも不条理な感覚はいつまでもなくならない。
 乱歩にとってこの世界とはそういう場所ではなかったか。それこそが、教義でも観念でもない、乱歩という人間にとっての実感ではないのか。もしたとえ、自分だけが真実を知っているのだとしても、それを盾に優越性を誇ることも「一般」のものとして提出することも決してできない、そういう実感をこそ乱歩は自分のものとして保持し続けた。
 よってその実感に誘われた語りが読者を教え諭すことはありえないが、ではそれは、何をもたらすものなのだろうか? まだ見えてこない。
 ところで、確信のなさは多くの場合、むしろ、盲目的に制度に忠実な態度を引き出してしまう。乱歩もその例に漏れない。自分を常に生活失格者と意識し続けた乱歩が、反面恐ろしく常識的な態度をとる人であり、広範で綿密な人間関係を築いていたという報告は多い(小林信彦『回想の江戸川乱歩』ほか)。つまり彼は、たとえその場所が退屈でありそこのルールにまるで納得できなくとも、常に妥当な振る舞いを身につけることに習熟しようと努め、また他者という油断ならないものの扱いを学ぶことを怠らなかった人なのだ。
 そうした態度はいつしか作品にも反映してしまう。
 現世界への参加の確信の乏しい乱歩、それゆえ過度に「ここのやり方」を学び、合わせ続けた乱歩にとって、敢えてこの世界と対立するグノーシス的反世界は思いもよらない。もともと異形と異変とはこの世界に沿って隠微に語ることの中にこそ埋まっており、掘り出されるのを待っている。飽くまでも己の語りの中でこの世界が異形の顔を見せる瞬間、つまりは自分に親しいイマージュを見せる瞬間さえあれば彼にはそれでよかった。
 いわんや、制度への批判反発などもともと乱歩には思いも及ばない。

左翼方面から激励の手紙が幾通か来た。反戦小説としてなかなか効果的である。今後もああいうイディオロギーのあるものを書けというのである。
 ところが、私はあの小説を左翼イディオロギーで書いたわけではない。私はむろん戦争は嫌いだが、そんなことよりも、もっと強いレジスタンスが私の心中にはウヨウヨしている。例えば「なぜ神は人間を作ったか」というレジスタンスの方が、戦争や平和や左翼よりも、百倍も根本的で、百倍も強烈だ。
(中略)
 「芋虫」はしかし、そういうレジスタンスやイディオロギーのために書いたものではない。戦争小説であろうと平和小説であろうと、ミステリ小説の面白さが強烈であれば、よろしいのである。
(『探偵小説四十年』)

 これは作品『芋虫』が左翼から評価されたときの乱歩の言葉である。
 乱歩は体制を絶対と信頼することもないが、その批判に強く共感することもない。規範としての良識は尊重する(戦時中は実によく町内役員の勤めを果たしていたらしいことが『探偵小説四十年』によって知れる)。日々必死でそれに合わせている「常識」としての慣習や平凡な価値観にわざわざ異議を唱える気はないのだ。ただでさえ決定不能に悩んでいる者がさらに「新たな価値観」など提出のしようがない。ゆえに「前衛」という名の啓蒙意識も持たない。
 こうした乱歩は、いわゆる常識や慣習、あるいは十九世紀的「芸術家」にとって常に揶揄の対象であったプチブル的凡庸さをわざわざ軽蔑することがない。随筆等で彼がことあるごとに漏らした「この世界の退屈さ」は、飽くまでも仮のものだった筈の「常識」のルールが意外な力を持って、彼の想像を思う存分機能させるような状況の実現を阻害していることへの不満でしかなく、この世界や制度そのものを変えようとは思わない。いかなる革命が起ころうとも同じと見切っている。意味の多重性への偏愛ゆえに、ほとんどの場合世界を一義的にしかとらえさせない状況に不参加を表明し続けているだけのことだ。一方、ひとたび異様なものが裏にあるとわかった場合には表面はよりありきたりであるほうが驚きが大きくその引き起こす快楽も大きい。乱歩が描きたいのは飽くまでも「なまめかしくふくよかな桃色の肉塊」あるいは「奇怪な、畸形な肉ゴマ」(『芋虫』)に代表されるような位置づけの難しいもので、それは価値観の変革には関係ないと彼には感じられていた。
 そのため乱歩は常に保守的である。
 再び『黒蜥蜴』に戻ってみれば、三島の描く明智が、美しい人間の美しいままの死をひたすら尊ぶ黒蜥蜴の価値観に異を唱えないのに対し、例えば乱歩の描く(老人に変装した)明智の見解はこうである。

 「ウン、わしは若い女性の気持が、まんざらわからぬ男じゃない。おとなたちには想像もできない青春の心理じゃ。死が美しいものに見えるのじゃ。けがれぬからだで死んで行きたいという処女の純情じゃ。そしてお隣には、やけっぱちな、われとわが肉体を泥沼へ落としこもうとするマゾヒズムがいる。ホンの紙一重のお隣同士じゃ。あんたがストリート・ガールなんて言葉を口ばしるのも、アダリンを買ったのも、みんな青春のさせるわざじゃよ」

 世の「まともな」おじさんたちの見解と何ら変らない。「わしは若い女性の気持が、まんざらわからぬ男じゃない」「おとなたちには想像もできない」などと言っているが、そういう言い方自体、年配の男たちが、自分は他とは少し違う、わかっているよ、と若い女性に語りかけるときの常套句であろう。つまりはあまりに凡庸な、俗物の言辞なのだ。しかもそのことに羞らいも疑いもない。当然の言葉として発されている。
 ここには三島的な、俗物への嫌悪、時代への敵意、グノーシス的な理想主義などまるでなく、現行の秩序への信頼が失われていない(もちろん、乱歩が凡庸な価値観に従っているのは確かだとしても、その逆をゆくからといって、三島は凡庸でないと言っているのではない)。ただそれは乱歩の非社会性の自覚がそうさせるのだが。
 こう考えてみると、やはり三島と乱歩とは非常に隔たりがあるように思われる。では、三島由紀夫が乱歩の『黒蜥蜴』を戯曲化しようと思うまで共鳴したものは何なのだろう? 三島は乱歩の『黒蜥蜴』について「私は少年時代に読んで、かなり強烈な印象を与へられたが、……」と語っている(「『黒蜥蜴』について」)が、その「強烈な印象」の頂点にくるのはおそらく「恐怖美術館」の発想であろう。「柘榴の国」のプランもこれと無関係と言い切ることはできない。その部分に関する原作の黒蜥蜴の台詞を見る。

 「すばらしくはなくって? 若い美しい人間を、そのまま剥製にして、生きていればだんだん失われて行ったにちがいないその美しさを、永遠に保っておくなんて、どんな博物館だって、まねもできなければ、思いつきもしないのだわ」

 「肉体の美しさ」を永遠に保つために本人の生命など捨てて顧みないという発想は三島のそれとほぼ同じと言ってよい。両者の共通点というなら「美しい肉体」の絶対化というモチーフに集中するだろう。しかし、またも問わねばならない。いかに「美しい肉体」への執着が語られたところで、それが何かを引き起こすのだろうか?

     

 「容姿の美しさ」という奇妙な価値観。それは時代地域によって限定されたモードでしかないにもかかわらず、大抵の場合、異性同性を問わず、あらゆる局面で何らかの重要性を発揮する。他者という、それだけでは位置づけの難しい存在を至極簡単に位置づけしてしまえる便利な基準だからである。それに則る限り、判断する主体は見るだけでよく、相手の「内面」や特殊事情を考慮に入れる必要がない。その判断は一瞬で終わり、そのために倚りかかるべき権威、学ぶべき歴史は何ひとつ必要ない。むしろそうした注釈は「見たままに正直であること」という美徳を汚すものとして排斥されがちである。美醜の規範は当人において既に十分内面化しており、本人はそれを「他から押しつけられたもの」とは感じていないからだ。その判断については一人一人が揺るぎない権威なので、他者からあれこれ言われる必要がないのである。
 しかもそれは判断する主体を絶対化する。判断の主体である自分にとって何の正当性も見出せない現行の権威権力もあるいは歴史も、それにより一切無効とすることができる。
 さらにそれは(幼稚な形ではあるが)生温かい平等主義への否定ともなる。「人間はすべて平等であり、ひとりひとり尊重されるべきである」「人間は外見でなく内面によって判断されるべきである」といった民主的理念にそれは唾を吐きかける。
 他者の内面への理解と尊重という「ヒューマニズム」への嫌悪、ひいてはこのような形の「美しくないヒューマニズム」を成り立たせた民主主義的人間像への嫌悪が、こうした「外面優先」を引き出すのだ。そして、三島由紀夫が最も嫌ったのが「美しくない容姿と複雑な内面の持ち主」であった。
 他者を外形の美しさによってだけ判断するという態度は、だから、誰でもが手軽に示しうる「反社会」「反民主主義」の方法であり、現行のもっともらしい価値観の愚弄である。戯曲『黒蜥蜴』で三島が行なったのは結局この、誰にでもわかる内面否定であった。
 ところが、実のところ、美醜という基準も、基準という機能を発揮し始めた段階においては単なる分割方法のひとつとなる他はない。現行の権威権力、価値観の一切を否定し、それとは別の次元のものを示しても、あるものを選別し他を無視するという価値観としての機能は変わらないのだ。しかも言うまでもないことだが「美」の基準は徹頭徹尾社会的であり共同体的なのである。
 ただ、これは他の基準に比べると、世界を非常にすっきりと不明点なく見せてくれる。しかも歴史も他者も学ぶ必要がない。ゆえに、自他の価値の不明に悩む者、あるいはまた社会があたかも当然のように差し出してくるさまざまな価値観に対して非常に僅かな共感しか示しえない意識の持ち主にとって、美醜へのこだわりはひとつの救いでもある。どのような容貌を美しいとし醜いとするか、という判断はいかに他の判断に自信のない者でもまずほとんどは即答できる。しかも、たまたま結果的にそれがやや特異な好みであれ、その基準は全くその者の属する社会のコードによるものであるがゆえに、常に揺らぎ自信に欠け、社会性に乏しいと自覚するその者にとって、その判定は、得難い、社会との接点とさえなりうるだろう。
 過度に容貌にこだわるのはそれ以外に拠り所がないからだ。「美」にばかり執着するとは、その点にしか共同体性を発揮できない、あるいはしたくない(と錯覚したい)、ということである。
 外形の美という、いわば不条理を盾とすることで、功利的・民主的規範に、三島は徹頭徹尾、批判をもって対した。もしそこで告げられたことを実現したとしてもそれはいずれ新たなそしてより悪い結果をもたらす規範(たとえば戦前なら、ファシズムも「功利主義」に対抗する規範のひとつだったわけだが)となることは明らかであったにせよ。
 乱歩は違う。乱歩における美醜へのこだわりの意味は三島とは異なる。乱歩はそれが現代のものであれ前時代のものであれ社会の秩序そのものには反発しない。その乱歩が美醜を過度に意識するのは批判のためではなく、むしろ一般性への忠誠のためと言ってよい。一般人たちの取り決めにほとんど興味の持てない乱歩にとって、容姿の美という規範は自己の価値観と彼らの決定したそれとの唯一の接点という意味合いを持つ。一般的な価値観を共有できないですぐに「退屈」してしまう乱歩は、これこそむしろ、自分が世界と接し世界への参加を可能にする特異点として歓迎したのだ。
 それはまさに特異点であって、ある条件下で乱歩の語りがひとたび美醜ということに関わると、あたかも超重力によって空間が歪曲されるように全体に異様な歪みを生じさせてしまうことがある。それほど乱歩は外見・容貌にはこだわったようだ。そのことは、外形の美しさという価値が、乱歩にとっても三島と同じく、現実的でないある特別の領域へと続く扉を開く「鍵」のような意味を持っていたことを示している。
 ある条件下、と言い添えたのは、それが語り手自身の「美しさ」に関して語られる場合に顕著だからである。そして、三島において最も露骨な「美の王国」の提示は戯曲『黒蜥蜴』よりも『暁の寺』の「柘榴の国」に見なければならなかったように、乱歩における外形の美への執着が極限まで達している作品としては三人称の『黒蜥蜴』では不足である。乱歩本来のスタイルというべき一人称の語りによる例を見てみなければならない。しかも語り手自身が自己の「美しさ」を意識しつつ語る作品。
 『孤島の鬼』がそれである。
 これを挙げるのは、この作品が、一般性を強く意識して書かれたにもかかわらず、美しさという価値が突出することでむしろ一般性から遠ざかっていると思われるからだ。
 語り手が自らを美しい者と規定しつつ語ることが、乱歩の作品においてはいかに驚くべき結果を引き出すか、三島の『黒蜥蜴』に見られたような一般性にしか帰着しない超越的言辞とは異なるものが、あるいはそこに見えるかも知れない。
 まず、この作品において「美しい」という表現が非常に特異な使われ方をしていることに注目しつつ目につく箇所を辿ってみる。

 「さあ、お客さんだ。美しいお客さまがいらしった。君たちまた遊ぼうね」
 私の顔を見ると、深山木は敏感に私の表情を読んだらしく、いつものように一緒に遊ぼうなどとはいわないで、子供らを帰し、私を彼の居間に導くのであった。

 ここに名の出た深山木は、「私」・蓑浦より年長の素人探偵で、後には殺人の犠牲者ともなる役回りの男性である。
 この男とは別に、「私」を愛する諸戸という青年が登場し、彼がまた「私」に対して「君は美しい」と告げる場面もあるのだが、そこでは諸戸が同性愛者であるという理由から、この場面ほどの不自然さはひき出さない。ところが深山木は諸戸と異なって同性愛者ではない。独身だが女出入りは多い、いわば「正常な男性」ということになっている。その「普通の男」から「私」に向かって「美しいお客さま」とはいかにも唐突である。これでは深山木もまた隠れた同性愛者ではないのか、とすら思わせてしまう。そして事実、そのように読めなくもない部分もあるにはあるのだが、しかし、ともあれ殺されてしまうまで、この男はとりたてて「異常者」という役割にはなっていない(ここで用いる「異常・正常」の語は飽くまでも『孤島の鬼』内での意味用法による)。
 そこが異様なのだ。この場面には、一般の異性愛者の男性がこのようにうちつけな形で他の男性の容貌を褒めることは稀なはずだ、という認識がない、あるいは気にかけていない。後に述べるように、他のところでは自分の異常さの可能性を執拗に否定しつつ語り続けるこの「私」が、である。
 もちろん、通念としての「普通の男」などにこだわらず、一般的でない態度を取る者たちを登場させることはいくらでも許されているのだが、作者にはもともとそういう「一般的でない人間たちの自己主張」を描く気はない。明らかに乱歩は基本的には当時の「世の常識」を最優先させながら語っている。
 だからこそこういう部分が突出してくる。自己に言及する部分でのひどく用心深い語り口に比べて、他者から「美しい」と言われる部分においてはまるで手放しである。
 さらに次の例。

 考えてみますと、わたしもずっと小さい時から、なんだか妙に思っていたことはいたのです。わたしには二つの、ちがったかたちの顔があって、一つのほうは美しくて、 一つのほうはきたないのです。そして、美しいほうは、わたしの思う通りになって、ものをいうことでも、心に思った通りに言うのですが、きたないほうのは、わたしが少しも心に思わないことを、うっかりしているときに、しゃべりだすのです。やめさせようとしても、少しもわたしの思う通りにならないのです。

 「人外境便り」と題された手記の一節であるこれは、幼い頃、非合法的な手術を受けて身体を癒着させられた男女の、女性のほうである「秀ちゃん」が書いたものということになっている。
 この人工のシャム双生児の片方である秀ちゃんにとって、自分の身体には、自由になる部分とならない部分とがある、と認識されているわけだが、そのさいの区分が「美しいほう」と「きたないほう」とされ、そして自由になるほう、つまり事実上の「自分」は「美しいほう」ということになっている。
 自分の身体が美しい部分ときたない部分とに分かれる、という認識は、その長い監禁生活により一般的・常識的な価値判断の基準をほとんど欠落させた彼女にとって他の何より「美しさ」だけが判断の基準になることを意味している。もちろん自分は美しい方であり、それはつまり身体の内の善い部分なのである。
 またその別の表われとしては次のような箇所。

 わたしのことわ本をひろうた人にきいてください、そうしてわたしをここからだしてください、あなたわきれいでかしこい人ですから、きっとたすけてくださいます。

 非常に読みにくい字だったけれど、私は幾度も読み直してやっと意味をとることができた。「あなたわきれいで」というあからさまな表現には驚いた。

 ここは「私」が、土蔵に閉じ込められた秀ちゃんから投げられた紙つぶてを開いて読んでいる場面である。
 「『あなたわきれいで』というあからさまな表現には驚いた」とあるが、実を言えば、この秀ちゃんの言葉自体にはむしろ異様さは少ないと言ってよい。なぜなら、彼女はほとんど世間の常識というものを知らないからだ。そういう者が、いきなり常識を踏み越えて「あからさまな」ことを言うならそのこと自体は異常ではない。「きれい」でありさえすれば「正しい人」である、という短絡は論理的には誤謬であり、その意味で非常識であろうが、こういう思い込みも、彼女のような境遇にあれば当然のこととも思われるようにここでは仕組まれている。つまり、ここでの「あなたわきれいで」は前出の例の「美しいお客さま」とは異なり不自然さがない。
 それよりも真に逸脱している点はいつも「私」に対して、他者から唐突に、非常識に「美しい」と囁かれるその反復の過剰さである。その意味ではこの部分も例外ではない。
 ストーリー上の要請からすれば語り手・蓑浦青年がそれほどの美男であるべき必要はない。にもかかわらず、この物語は終始一貫して、語り手が他から愛され、褒められ称えられることによる彼の容貌の美しさの保証を前提として書かれているのだ。
 なぜこれほど「美しい」と言われることにこだわるのか。考えられるのは、この小説においては、何より容貌が「美しい」かどうか「綺麗」かどうかが、ある正当性の条件であり、ときに善悪の基準でさえあるらしいということだ。しかも一人称の語りの中で語り手が正当性を手にするためには、他者による礼賛という「美しさ」の承認の報告が必要となる。
 つまり、異端の娘である秀ちゃんだけのものであったかに見えた短絡的発想が実は全編を覆っているということだ。全体にわたる語り手「私」の判断の基準は基本的にはほぼ秀ちゃんのそれと同じといってよいだろう。さらにそれは乱歩自身が唯一信頼できる基準でもあるのだろう。『孤島の鬼』の中で、乱歩がもっとも他の価値観を気にせずに書けたのはおそらく「人外境便り」の部分に違いない。乱歩にとってそれほどにも実社会の「常識」というのは身に迫らない無意味な規範だったのだ。
 「容貌の美」万能のいわば偏倚な判断は、異端者・黒蜥蜴や秀ちゃんの場合ならそれだけで済むのだが、「私」・蓑浦は、終始「一般」に支持されるべき「正常」の側に立って語ろうとしている。ためにその論理にも歪みが生じる。
 次に挙げるのは語り手が恋人について語る部分。

彼女の容貌が私の生れた時から胸に描いていたものであったように、嬉しいことには、私の容貌もまた彼女が生れた時から恋するところのものであったのだ。変なことをいうようだけれど、容貌については、私は以前からやや頼むところがあった。諸戸道雄というのは矢張りこの物語に重要な役割を演ずる一人物であって、彼は医科大学を卒業して、そこの研究室で或る奇妙な実験に従事している男であったが、その諸戸道雄が、彼は医学生であり、私は実業学校の生徒であったころから、この私に対して、かなり真剣な同性の恋愛を感じていたらしいのである。
 彼は私の知る限りにおいて、肉体的にも、精神的にも、最も高貴な感じの青年であり、私の方では決して彼に妙な愛着を感じているわけではないけれど、彼の気むずかしい選択にかなったかと思うと、少なくとも私は自分の外形について、いささかの自信を持ちうるように感じることもあったのである。

 この部分において注目したいのは、あたかも当然であるかのようにして語り手の述べる筋道が、実はまったく当然でないことだ。
 まず、自分の容貌も相手の好むものであった、ということだけをひたすら喜び、恋愛に関して、自分と相手における容貌以外のいかなる条件も思い当っていないというところで、既に「常識的な語り口」からは逸脱し始めているが、これはさほど目立つものではない。世にはそういうこともあろうという範囲にある。
 ところが、その自分の容貌の美しさを保証する人物として一人の同性愛者を挙げ、そればかりか、その男性自身の容貌の美しさを告げることによって彼の保証が偽りのないものであると続ける、ここにいたってはおよそ論理が破綻していると見られても仕方がない。しかもその段階で話はもはや女性との恋愛の動機を告げることを止めている。
 この一節は、相手の女性と自分が愛し合っていた様子を告げるかに見せて、実際にはそうしたことにはまるで注意がはらわれておらず、その代わりに、相手の女性、木崎初代が美しいこと、その美しい初代が「私」の容貌を気に入っていること、しかも、その「私」の容貌の美しさは、本人も美青年である諸戸がその愛する対象として自分を選んだという事実によって確認されることだけを告げているのだ。
 つまり、初代は美しく、それとは別に「私」を愛する諸戸も美しく、以上によって「私」は非常に美しいと言える、という奇妙な、論理とも言えない論理。そして、一般には恋愛を語るためにこんなことまでして自己の容貌の美しさを保証しなければならない理由は存在しない。ここで語り手は、そして作者は、一般性を手放してしまっている。
 もちろん、この三段論法めかした論理は少し考えればほとんど無効であることがわかる。認識者である自分が初代を美しいと決定することはでき、また諸戸に対してもそれは可能だ。しかし、その美しい諸戸から愛されているからといって、自分が彼と同等もしくはそれ以上に美しいとは言えないではないか。
 一般的でない論理(?)を無造作に、あたかも当然であるかのように語るためには、そこに、何らかの、無言の前提が想定されなければならない。
 いくらかそれを拡大して考えてみよう。この語り手にとって「美しい者」たちは「美しい者」たち同士の選ばれた領域に存在する、あるいはするべきだ、というような認識もしくは誤謬が最初にある。そのさい、容貌容姿は絶対的な差別の根拠とされており、その美しさによって選別された者たちには、もはや質的に異なる存在である美しくない者に心を向けることがあってはならない。なぜなら彼等は美しくもない一般人とは別の世界に生きるべき選ばれた者であるからだ。
 よって、美しい彼等が心惹かれる者とはとりもなおさず彼等の領域に入るべき同族であることを意味しており、そうなると、彼等は、他の存在に関して、彼等に属する者か否かを決定する能力をも持つということになる。さらにその裏には「愛されること」がそのまま「美しいこと」の証明であるという短絡がある(なお、深山木から美しいと告げられても、それだけでは選ばれた根拠とならないが、少なくとも語り手の「美しさ」の証明のひとつにはなるため、これも省くことなく報告される)。
 彼等がその容貌を認めれば選ばれた人々の一人に加わることができ、彼等が認めない者すなわち美しさを持たない者たちは永遠に「外の領域」に置かれることになる。それは「人外境便り」における美しい語り手である秀ちゃんが後に手術を受け、「きたないほう」の吉ちゃんを切り離す結果と相似である。醜い者、愛されない者はすべて排除するのがこの小説における原則なのだ。すると、語り手がこの小説内における正しく美しい中心的人物となるためには「美しい者」に愛されることが是非必要となる。
 語り手が決して当り前でないことを当り前のように語るためには、以上のような密やかな、しかし絶対的な世界の分割基準の承認が必要なのだ。
 するとその分割の論理は例の三島由紀夫の「柘榴の国」の構造に著しく似通ってくる。「愛される者」という美しい男女と「愛する者」という醜い者ら、その両者は決定的に隔てられるという規律規範。ここへきてようやく乱歩にも理想主義らしいものが顔を出し始めた。
 どちらも、容貌という実に相対的なものを根拠にほとんど絶対的な理想を想像しているところは同じである。この点において乱歩と三島は共通の理想を持つということになる。
 ただし、三島の「柘榴の国」の場合、その選別はもっと客観的で、「美しい者」だからといって審美眼を持つとは限らないという当然の前提、さらに認識者は美しい者には加わりえないという原則を受け入れて成立していた。そしてこの客観性という手続きの確認があってこそ規範はその威力を最大に発揮するのであってみれば、三島ははなはだ正当な方法を踏襲していたと言えよう。
 乱歩は三島のようには意識的でない。語りの客観性(つまりそれは遠近法の正当さ明確さということだ)は保証されず、もはや三島の『暁の寺』で「柘榴の国」を語った今西のそれのような全体を見渡す視点は得られない。全体を見渡す、というためには、その世界の外に視点を置かねばならないからだ。語り手自身が他者に見られ愛される存在として語る『孤島の鬼』では視点は世界の内側に存在する。同時に、その一人称の語り、語り手の受け身的性格という条件から『孤島の鬼』において「愛する」という能動的項目はほとんど意味を持たない。重要なのは受け身の語り手である「私」が「愛される」か「愛されないか」だ。ここにも乱歩の非啓蒙性と遠近法の混乱がある。
 そして、その混乱の最大の理由は、「美しさ」以外の規範がすべて乱歩の外、「一般常識」にあることだろう。「美しさ」という、乱歩に納得のゆく価値が、納得のより少ない社会的「正しさ」よりも先に来るところが本来の「常識」とは異なる。ここで乱歩は、ある倒錯を見せているのだ。
 乱歩には「外形の美」のみを称揚することによって常識をくつがえすという発想がないので、その結果、容貌の美しさの価値がそのまま一般的価値のレベルに接続され、そのまま社会的な善悪の基準としても機能することとなる。読み終えてみると、悪人は皆醜く、善人はどれも美しかった、という結果になっている。しかもその分割に支障をきたす境界人である諸戸は最後に死ぬ。
 こうしたことから、この作品において作者の仮定する「一般性」がひとつの図式を浮かばせる。「愛される者=美しい者=正しい者=正常者」/「愛されない者=醜い者=悪い者=異常者」という単純なものである。乱歩の場合、「通俗」(つまり「一般」に合わせるという作為)とはこういう図式をたてて疑わない、という意味だったらしい。こんな幼稚な図式が力を持ってしまうのはそもそも、多義性こそ自己の想像の条件であると密かに思い定めている乱歩が、常に一義性の望まれる現行の世界に訴える必要に迫られて、関心の希薄なまま作品内の倫理を一括処理した結果である。
 しかもこの図式は、『孤島の鬼』のみならず『一寸法師』においてもあるいは『妖虫』においても守られ続け、容貌の醜い者・愛されない者が「悪」である(もしくはそういうことにして収める)という実に単純かつ無残な結果を導き出していた。
 一方、「正しさ」が「正常さ」をも意味することにより、愛される美しい語り手は、常に美しさに見合う「正しさ」「正常さ」をも手にする義務を負うこととなり、「愛される者=美しい者」である自分は「悪い者=異常者」であってはならないという条件のもとに自らを語ることになる(『黒蜥蜴』では「愛される者=美しい者=悪い者=異常者」の場合が承認されていた)。こうした事態は彼の初期の短篇にはあまり顕在的でなかったことだ。そこで乱歩はアモラルであることアブノーマルであることをも容認しつつ書いていた。ところが初めて本格的な「通俗作品」を目指したとされる『孤島の鬼』では、一般社会からのコンセンサスを強く意識したためか、このようなことが起こる。
 語り手の中には自分でもその実態がよく把握されていない「正常」へのこだわりがある。それゆえ彼の言葉は欺瞞に満ち、他者への甘えと拒否に満ち、みずから何を欲望しているかもよくわからないような不明さを帯び、それは語り全体に異様な隠蔽性を与える。
 『孤島の鬼』には特に、他の作品では試みられなかった同性愛という要素があり、それについて語るさいの語り手は、飽くまでも、同性愛は変態であり、つまりは「異常」である、という当時一般的であった認識を逸脱しないよう心がけている。乱歩自身における納得と承認の有無はともかく、その認識は当時の社会に当然のルールと作者に感じられたものであるため、「通俗作品」においてそれに反発することは厳重に禁止されている。

科学者諸戸道雄は、私に対して、実に数年の長いあいだ、ある不可思議な恋情をいだいていた。そして、私はというと、むろんそのような恋情を理解することはできなかったけれど、彼の学殖なり、一種天才的な言動なり、又異様な魅力を持つ容貌なりに、決して不快を感じてはいなかった。それゆえ彼の行為がある程度を越えない限りにおいては、彼の好意を、単なる友人としての好意を、受けるにやぶさかではなかったのである。

 ここだけ読んでも、いくらか注意深い読者であれば、「私」が諸戸に愛されている状態自体については嫌がっていないこと、しかし、その一方で、「私」としては決して諸戸に愛されて喜ぶような「変態」ではないと言いたいという意図、を読み取ることができる。
 愛されることは美しさと正しさの証明であるがゆえに歓迎する、しかし「異常」という「悪」は排除し、相手のものとしなければならない、ということだ。とはいえ、そもそも諸戸に愛されることを歓迎し、容姿の美しさの証明にまでしている「私」は既にあと一歩で諸戸と等しく「異常」とされてしまう危うい地点にいる。
 それゆえにこそ「異常」排除の意志は強い。語り手は決して自分が「異常」の範疇に入らないような配慮とともに語ろうとしている。「むろんそのような恋情を理解することはできなかったけれど」という意識過剰さはどうだ。「単なる友人としての好意を、受けるにやぶさかではなかった」。ひどく言い訳がましい語り方である。こうした記述は後にも頻出する。それらはかえって語りのわざとらしさを増すのだが、ともかく、自分の「正常さ」を確認し、「異常」は外にあると告げるための手続きにはなっている。
 こうして、ひとたび自己が「正常」の側に属すことを示しさえすれば、後は、自己の外にあるものとしての「異常」について、どれだけでも、いかように恐ろしげにでも、語り続けることができる。その結果、矛盾に満ちた例の図式を危うくする一切の要素が恐ろしく嫌悪感をそそるものとして姿を現わしてくる。
 例えば、語り手は諸戸と行動をともにし、あるときは甘えおもねり、助けを乞いながら、二人閉じ込められた洞窟で相手が行為を迫ったときには、一転して次のように語る。

 ハッと気がつくと、蛇はすでに私に近づいていた。彼は一体闇の中で私の姿が見えるのであろうか。それとも五感のほかの感覚を持っていたのであろうか。驚いて逃げようとする私の足は、いつか彼の黐のような手に掴まれていた。
 私ははずみを食って岩の上に横ざまに倒れた。蛇はヌラヌラと私のからだに這い上がってきた。私は、このえたいの知れぬけだものが、あの諸戸なのかしらと疑った。それはもはや人間というよりも無気味な獣類でしかなかった。
 
(中略)
 人間の心の奥底に隠れている、ゾッとするほど無気味なものが今や私の前に、その海坊主みたいな、奇怪な姿を現わしているのだ。闇と死と獣性の生地獄だ。
 
(中略)
 火のように燃えた頬が、私の恐怖に汗ばんだ頬の上に重なった。ハッハッという犬のような呼吸、一種異様の体臭、そしてヌメヌメと滑かな、熱い粘膜が、私の唇を探して、蛭のように、顔中を這いまわった。

 これまで執拗に正常であろう平均的であろうとして語り続けてきた語り手が、このとき、決して踏み込みたくなかった場所へと一挙に引きずり込まれる恐ろしさを描いて驚くばかりに凄絶だが、そのおぞましさは相手が「愛される者=美しい者=正しい者=正常者」という要素と「愛されない者=醜い者=悪い者=異常者」という要素とを合わせ持つ規定不能の状態にあるからだ。より厳密に言えば諸戸は「美しい者=正しい者」であってしかも「愛されない者=異常者」であり、それゆえ「愛されない者=異常者」の特性が顕在化すると直ちに「醜い者=悪い者」となるという、語り手にとって実に都合の悪い、分類の困難な気味の悪いものとして姿を現わしている。
 しかしもともとの図式を分類の条件と規定していなければ、ここまでの嫌悪は生じない。そして本来そんな図式が規範となる根拠はないのである。
 同じ理由で、不具者・畸形に関しての描写も、強い思い込みに支えられた「正常」という規定がそれをいやおうなしに暗い恐ろしげな方向に向けてしまう。
 こうして乱歩は、何らかの秩序を成り立たせている規範に無批判の忠誠を示すことにより、かえって規範というものの不条理をあらわにするのだ。根拠も定かでないまますべてに厳格な色分けをしないではいられないわれわれの意識の陰惨さを、乱歩は、何ら否定しないまま極限まで際立たせている。こういうことが成立したのは多分、乱歩が当時の社会の規範の多くに無関心でありつつしかもそれらを徹底して遵守したからであろう。
 『孤島の鬼』に比べれば『黒蜥蜴』は混乱の少ない作品であって、その点でも三島が目をつけてしかるべき原作と言えよう。女賊黒蜥蜴は両性具有的な性格を持つ美しい女性とされているが、その立場は飽くまでも「女賊」であるゆえ、「悪」の意味合いをもって語られ、既に「異常」として分類済みであるから、「美しいこと=悪」であっても、またいかに残酷なことをしようとも、分割の不都合は生じない。
 その結果、『黒蜥蜴』には『孤島の鬼』ほどの異様さ気味の悪さが生じていない。世に反抗する「悪」として語られる分類済みの「異常」が何をしようと異様ではないのだ。『孤島の鬼』の異様さは、飽くまでも「正常」という外側の規範に忠実であろうとするエゴイスティックな美青年が自己の正当性を危うくする要素をすべて排除してゆく過程の不条理にその多くの根拠を持っていた。自己を純白に保とうとする欲望を持つ者が本来の意味での倫理をまるで無視しつつ無自覚に語るとき、最も無気味なものが出現するのである。
 一方、三島の戯曲『黒蜥蜴』の場合には、司祭としての黒蜥蜴および明智はそもそもの最初からその語る理想を「この世界からは受け入れられないもの」として分類し終わっており、理想は手の届かぬ世界外にある。それゆえ「この世界」で何をしようとも無気味なものもおぞましいものも発生せず、かえってこの世界を眺め下ろす視点の高さという錯覚のみが与えられる。
 そこからストレートに理念としてのエリート的な「優雅」が提示され、それを会得する読者にはエリート意識への参加が許された。その方法は正当な手続きを経ているがゆえに一般性を持ち、よって観客は何のうしろめたさもなくそこに参加できる。
 戯曲『黒蜥蜴』はつかのま「優雅」共同体を発生させる。しかし、いかにその成員の選別法と配列に差があろうとも、その共同体は共同体である点で現状社会のそれと何ら変わらない。彼等がその「優雅」により、いかに一般性を否定しようとも、「あらたな価値観の提示」という方法そのものが既に一般的であるからだ。それによる限り、方法自体の欺瞞、その残酷さには気づきえない。
 また「柘榴の国」においては、認識者に美を与えないという彼のモラルが作品の視点を抽象的なものにし、これが一般性を獲得する手続きを守らせていた。
 これら三島の明晰さ・整合性に対し、『孤島の鬼』における乱歩の語りは、ただひたすら「美しくあるべき自己」への憧憬だけがあって、公正なルールも整合性も持たない。
 乱歩が自作に対して非常に点が辛く、ことあるごとに自己嫌悪に陥ったと記している(『探偵小説四十年』)のはこうした憧憬の強さを、それにみあう超越的な形で表現できない自分の体質への苛立ちによるものであろう。
 ところがこのような明晰でない語り、超越を知らない語りであってこそ、価値の決定という行為の不条理さ、ひいては、一般的には望ましいとさえされる「憧れ」という意識の持ついかがわしさを、意図もしないまま見せつけ始める。
 三島にせよ、あるいは彼のような「美意識」を表に立てない作家たちにせよ、その価値観の特異性や批判意識をもって特異な作家と呼ぶわけにはゆかない。そのような「革命」志向はどこまでも啓蒙という名の一般性に属することをやめないからだ。
 言うまでもないことだが、自己の属する制度・価値体系について、自分はあたかもその外にいるかのような超越的視点から批判することは、単にそれを語る者、またそれに同意する者にゆえのない優越感を与えるだけのいわば儀式である。
 では何を、どのように語ることができるのか。あるいは語ることは無用なのか。現在のところ、意図してできることにはほとんど期待できない、と答える他はない。
 しかし、ときに突発事故とでも言うべき事件が起きるものである。事故の特徴は誰もその結果を予期しえないという点にある。意図してなされたものではない。本人は制度に異議申し立てはしていない。しかし、結果としてわれわれ自身の発想の基にある不条理さを際立たせてしまうようなできごと。こうしたものとして乱歩の『孤島の鬼』はある。
 もちろんその作品自体には、わざとらしく空虚な「大団円」以外、何の解決もありはしないのだが、ときにはこうした事故も起こりうるという事実によって、語ることの可能性がかろうじて示唆されたと言えるのではないか。

(第三十九回群像新人文学賞評論部門優秀作)

掲載2000年3月23日(copyright 高原英理)
高原英理〔たかはら・えいり〕昭和34年4月3日(1959)−
初出・底本平成8年(1996)/「群像」6月号、講談社/p.188−220