第四篇 第一次世界大戦時代
第三章 世界大戦と文学の商品化
第一次欧洲大戦と日本……経済的繁栄と労働問題……英米追従傾向の濃化……ロシア革命の影響……大正文学の世界情勢に対する白痴的不感性……人道主義、反軍国主義、世界主義の逸脱……好景気と出版資本主義の確立……明治のヂャーナリズム……中央公論の盛時と滝田樗蔭……改造・文芸春秋・新潮……円本の洪水……純文芸の不振と通俗小説の隆盛……コムマーシアリズム一世を風靡す……大衆文芸の勃興……中里介山の『大菩薩峠』……白井、大仏、長谷川……直木三十五等のフアシズム文学……押川春浪……吉川英治……牧逸馬その他……探偵小説とユーモア小説……文芸の社会的接触面の拡大……児童文学……「赤い鳥」の革命的貢献……三重吉と白秋……童話作家……童謡・民謡・流行歌……文芸家協会の成立……自由主義文学の政治的無力
日清、日露の戦役によつて、東亜における一時的安定を得、資本主義国としての世界的地歩を占めた日本は、第一次世界大戦の勃発によつて、あたかも順風の大洋に乗り出したやうな快速調の国家的躍進期を迎へた。
第一次世界大戦は、現在の第二次世界大戦に比べれば、戦禍が太平洋に波及しなかつた点で、厳密には「世界」大戦ではなかつた。殊に日本としては、青島攻略戦があつたとはいへ、能動的にこの大戦の主役の一人とはならなかつた。少くとも大多数の国民にとつて、それは対岸の火災であつた。政治の主流を占めてゐた多数の政党政治家さへも、この見地に支配されてゐた。欧洲中心的世界観は、意外なほど日本自身の世界的地位に対する自覚を卑小にしてゐたのである。
事実は、支那における民族革命運動といふ、世界史的な大事件が、欧洲の戦乱に先立つて、東亜に火の手をあげつつあつたのである。英独の植民地争奪闘争が、一九一四年の大戦の真因であるとするなら、欧羅巴は、世界の他の半身にいかなる事態が生じつつあるかを知らずに戦つてゐたと云はねばならない。大戦の結果は文字どほり世界的であり、英仏も、独逸も、日本もアメリカも、予想もつかなかつた大きな歴史的転向にまきこまれた。
大戦およびその結果の日本に与へた影響を、簡単に要約すれば次の三つになるであらう。
第一に、それはアメリカと日本との経済的繁栄を齎した。日本自身の国力の絶対的相対的な上昇は、文化日本の水準を高めるとともに、その内容を安易化し頽廃堕落させた。経済的繁栄のテキ面の結果は労働問題の発生となり、一面では英米的帝国主義思想の影響をも蒙つた。太平洋の波が次第に荒くなつた。
第二に、英米の結託によつて彼等の世界支配力が戦前よりも一層強化され日本を目標とする攻勢段階に入つた。さうして日本は国力の増大にも拘らず英米への経済的依存度が強められた。思想的影響は一層甚しかつた。デモクラシー、自由主義、そして偽瞞的平和主義、世界主義、同時に国際連盟機構による民族自決主義の美名は、日支関係の矛盾を深刻化し、拡大した。
第三に、ロシアの共産革命があつた。世界的な共産思想の流行に、処女地的な害悪を蒙つたのが、民族主義の伝統の強固な独逸と日本とであつたといふ事実を直視せねばならぬ。赤色帝国主義の成長に、現実の国防的脅威を痛感させられたのも、この両国であつた。民族精神の復興そのものが、この脅威に反撥したものであつたことも明らかである。
さて、飜つて、大正文学がこの大戦の影響をいかに摂取したかを考へるとき、現実に対してあまりに消極的な反応をしか示さなかつたことに一驚を喫する。最も大きな影響は、好景気による文学の卑俗化であつたといふ事実は、日本の近代文学にとつて大きな不名誉でなければならない。国民一般の文化水準の向上は、思想界における文化主義、精神主義──それすらも空虚な形式主義に逸脱し、蒼ざめた知性理想主義への途をひらいたことは、この篇の第一章で述べた──を最上として、一般的には最も卑俗な唯物的アメリカニズムを氾濫させた。
社会的人道主義、反軍国主義、世界主義は、ヴェルサイユにおける英米の勝利への、ロマン・ローラン風の仮面をかぶつた完全な追従に外ならなかつた。しかもそれらの思想に対する熱中すらも、この時代の文学の支配的傾向とは認め得ない。自然主義作家の非社会性よりも、もつと幼稚な意味での現実に対する無関心、シニカルな冷笑が支配してゐた。
だが、かういふ国家および社会の本質的な動きに対する無関心の一方で、文芸と社会との接触面が驚くべく広くなり、この個人主義的独善性を性格とする文学が、社会の──特に青年男女の間に、すさまじい勢で浸潤して行つたといふ事実、従つて文学者自身の社会的経済的地位が甚だしく高められたといふ事実は、少しも矛盾しないばかりか、寧ろ同じ現象の両面に過ぎないのである。
好景気、ならびに民衆の知的水準の向上は、新聞および雑誌ヂャーナリズム、一般に出版資本主義文化を、この時代にゆるぎなく確立した。前代の天才作家の払はれた稿料は、この時代の凡俗作家の稿料の十分の一にも足らなかつた。
さてヂャーナリズムについては、これまで断片的に折にふれてしか触れなかつたが、此処で明治末期以来の変遷を簡単に叙しておかう。
新聞雑誌を通じて、明治時代のヂャーナリズムは英雄主義が支配してゐた。営利的企業としての新聞事業が発達したのは日露戦争後であり、雑誌企業が大量生産の近代的機構で成立したのは、明治時代の博文館を前衛として、厳密にいへば大正中期の講談社の進出以後に完成した。そして文芸作品が商品意識の下に生産され、加工され、配給されるやうになつたのも、この時代以後である。
それより以前、硯友社時代には、文芸倶楽部と新小説とが、半娯楽雑誌の体裁で、文芸作品を載せてゐた。純文芸、通俗文芸の区別も、この時代にはなかつた。綜合雑誌では太陽が王座を占めてゐた。自然主義時代に入つて、博文館の文章世界、新潮社の新潮が、文芸雑誌として現れた。中央公論が太陽に代つたのもこの時代である。中央公論の滝田樗蔭は一世の名編輯者として、作家の発見に努力を傾倒した。
大正八年に山本実彦が「改造」を発刊し、他方に「解放」が現れたのは、思想界におけるデモクラシー、社会思想の流行の波に乗つたものであるが、一面、中央公論の競争相手が現れたことは、文芸の市場価値を一挙に高めることになつた。菊池寛が大正十二年に文芸春秋を発刊したのは、主としてプロレタリア文学への党派的対抗のためであつたが、意外の発行部数の増大を見て、遂に今日の一流綜合雑誌にまで発達した。この頃には中村武羅夫編輯の「新潮」も文芸専門雑誌として、堂々たる持続を見せた。
大正十五年に、改造社の「現代日本文学全集」を皮切りに、いはゆる「円本」洪水が起つた。かつては想像も及ばなかつた数十万の読者が、古今東西のあらゆる古典的名作の普及運動に吸ひ寄せられた。それが知識と情操との民衆化に貢献したことは明らかであるが、一頁広告による誇大な宣伝、読者の選択眼の麻痺、過剰生産の弊も決して小さくはなかつた。
純文学の繁栄はこの円本洪水を頂上として、一転して甚しい不振時代へ入つた。それは一方において通俗、大衆文芸の流行に圧倒せられて気力衰へ、同時に個人主義文芸の解体期に入つての文学そのものの沈衰をも意味した。
大量の発行部数を有する新聞紙、娯楽雑誌、婦人雑誌が、久米、菊池等の純文芸作家を起用したのは、純文芸そのものの商品価値の増大──逆にいへば読者の知的水準の向上によつたことはいふまでもない。すなはちその最初の動機においては、文芸一般の普及力に負ふものであつた。だが商品性を自覚して、意識的に低い層の読者の興味や知的水準に妥協することによつて、文芸そのものの向上は望むべくもない。多くの作家は発表機関によつて作品の手心を変へることになり、通俗小説専門の作家が文学の社会的存在を代表することになつた。
菊池幽芳、渡辺霞亭、長田幹彦等に独占されてゐた諸新聞の現代小説には、菊池、久米、三上於菟吉、中村武羅夫、加藤武雄等がとつて代つた。つづいては小島政二郎、吉屋信子、川口松太郎、片岡鉄兵、竹田敏彦、獅子文六(岩田豊雄)等が現れた。講談社の諸雑誌、『主婦の友』『婦女界』等の小説欄も、これらの作家が占めた。新聞もまた編輯部は営業部に圧倒せられ、曾つて長塚節の『土』が朝日に連載されたなどといふ事実が、嘘のやうな話として回顧せられるに至つた。しかも、これらの通俗作家の多くは、ひそかに身を売るがごとく恥づべきことのやうに執筆しつづけ、魂の一隅に「文学」に対する郷愁をいだきつづけたことは興味ある日本的現象だ。
これ等の通俗小説は大体においてブルジョア・デモクラシーに依存し、読者の色情或は虚栄浮華な気分に媚びるものが多く、表看板として若干のヒューマニズムをおし立ててゐたものがその全部である。
その他この時代、殊に昭和初頭の数年間の読物はいはゆるエログロ、ナンセンスをモットーとし後世之を見れば百鬼夜行の観あるに至つたのは、すべてコムマーシアリズムの害毒に帰因する。しかし作家たちは、空前の収入を得て財をなすものが少くなかつた。
一方に大正中期まで、講談の速記とそれに近い独創のない作家の時代小説によつて占められてゐた分野には、新に大衆文芸の隆興が見られた。大正の初期から都新聞に連載されてゐた中里介山の『大菩薩峠』はこの種の作品の先駆である。白井喬二、大仏次郎等も、認められるまでの数年間、黙々として小娯楽雑誌で腕を磨いてゐた。大正末期から昭和初頭に輩出した大衆作家は、大体において豊富な人生経験と、歴史知識と、物語の構想にかけての手腕とを持ち、文学的才能において純文芸作家に劣るとは云へなかつた。白井喬二は独力『国史挿話全集』十巻を編纂したほど歴史上の雑知識に富み、厖大な長篇『富士に立つ影』『祖国は何処へ』等を書上げる精力において追随者がなかつた。大仏次郎は西洋文学の教養を身につけて『鞍馬天狗』シリーズその他に伝奇作家としての才気縦横なことを示し、時代小説に心理の陰翳を加へた近代性のある『赤穂浪士』『由比正雪』等でインテリ読者の支持を得た。後者は特に本格歴史小説への彼の努力を見るべきものである。現代小説にも『霧笛』『雪崩』の諸作がある。長谷川伸は数奇な前半生の体験によつて人情の機微に通じ、博徒社会の義理人情を新しく描き、短篇小説と新歌舞伎的戯曲に新生面を開いた。直木三十五は『仇討十種』の新しい剣戟描写で認められ、『南国太平記』で一時代を画し、その奇峭狷介な性格の圧力と、超人的な速筆とによつて、一種の怪物的存在として文壇を睥睨した。純文壇の個人主義的傾向に対し、大衆作家は一般に国家主義的色彩が強いが、その傾向の代表者は直木であり、純文学の自由主義、芸術至上主義的傾向と、プロレタリア文学のマルクス主義とに正面から挑戦し、満洲事変以前から日米戦争に取材した小説を書いたり、上海事変後間もなく現地を視察して『日本の戦慄』を書いたりした。三上於菟吉等とともに内務官吏松本学と提携し、文芸懇話会を組織して国民主義文学を興さうと計画したのも彼である。明治の末期に奇才押川春浪が、文壇の圏外で『海底軍艦』その他の軍事小説、冒険小説で青少年の熱狂的歓呼をうけたが、その頃、春浪はすでに潜航艇や飛行船を活躍せしめ白人の侵略に対するアジア主義を鼓吹した。直木等のいはゆるフアシズム文学はそれに較べて遥かに大衆を吸引する力がなく、同時に文学的にも感服できぬものであつたとはいへ、時代の先駆者の一人であつたことは疑ひない。しかし直木の本領は『源九郎義経』『楠木正成』『関ケ原』『大阪落城』等の本格的歴史小説であり、この方面では史実への忠実、解釈の正確と相俟つて、独自の性格的迫力が古武士の心理と行動とに迫真性を与へ、芸術的生命ある作品をなした。
興味中心の筋の変化と絢爛にして誇張味のある文体とで、最初は見るべきものがなかつたにも拘らず、努力と修養によつて高い文壇的地位を占めるに到つたのは、吉川英治である。『宮本武蔵』は主人公の求道の行路を全身的な努力で描いて昭和の大衆小説の白眉となつた。彼は現に『太閤記』『三国志』『小説日本外史』を並行的にかきつづけ、今次大戦における、典型的作家となつた。
最後に牧逸馬は、林不忘の名で大衆読物を、谷譲次の名で在米日本人──いはゆる「めりけん・じやつぷ」の生活風景を語り、牧逸馬の名で探偵小説と通俗現代小説を書き、超人的活動で世を驚かしたが、夭折し作品としては残るべきものを書かなかつた。その他及びその後に現れた作家としては子母沢寛、田中貢太郎、村松梢風、佐々木味津三、邦枝完二、海音寺潮五郎、浜本浩が数へられる。
大衆文芸の他のジャンルとして、探偵小説とユーモア小説ともまた勃興した。岡本綺堂の『半七捕物帳』を除き、日本には探偵小説の創作は出なかつたがアメリカニズムの浸潤につれて、怪奇や犯罪の刺戟を好む風潮が日本にも訪れて、欧米探偵小説の飜訳を専門とする「新青年」がその創作をも紹介、育成した。江戸川乱歩はその代表的作家である。探偵小説の本質たる知的興味を充分に備へた上に、グロテスクな耽美趣味に豊富な彼の作は、欧米の一流作品に遜色がない。小酒井不木、甲賀三郎、大下宇陀児、夢野久作、木々高太郎、小栗虫太郎等がつづいて輩出した。探偵小説の知的推理的趣味は、日本では比較的「大衆的」でなく、限られた読者が偏愛した。それだけに文学的には比較的優れた作品を生んだが、支那事変以後は衰褪した。ユーモア小説ではサラリーマン生活やその家庭生活に健全なユーモアを与へた佐々木邦の一人舞台であつたが、獅子文六が出てインテリの興味にも愬へるユーモア文学を書いた。
現代作家の戯曲が商業劇場に盛に上演されて興行成績をあげ、映画事業の発達が通俗小説の映画化を齎したのも、文芸と社会との接触面を飛躍的に拡大した。菊池、吉屋等の小説は女性の社会教育の教科書的役割を勤め、彼等は恋愛、結婚、貞操、家庭、職業等の婦人の諸問題に関する最もポピュラーな教師となつた。それが軽佻な自由主義思想の広汎な浸潤を結果したこともまた争へない。
明治時代に巖谷小波の世界お伽噺の紹介によつて、日本国民の視野をひろめた功績は、特筆せらるべきものであるが、この才人も、話の創造そのものには見るべきものはなかつた。児童文学の出現は、むしろ大正期間の好景気に煽られた観がある。
それは、この時代の自由主義的な教育思想、文化主義との関連を措いては考察できない。鈴木三重吉が「赤い鳥」を創刊したのは大正七年である。「赤い鳥」は三重吉をはじめ文壇の一流作家が児童の読物を執筆する機縁を作つたこと、児童の「綴方」教育の刷新に成功したことの二点で、革命的な功績がある。俗悪な少年読物を駆逐し、児童の芸術的情操を高めた効果は極めて大きい。ただその立場が自由主義的であり、児童の精神教育に根本的に必要な皇室、国家、民族に対する関心を等閑に附した傾のあるのは争へない。その教育的影響力が大であつただけそれだけこの消極的害悪も大きかつたと見ねばならぬ。しかし三重吉の『古事記物語』、ペリー艦隊来航を物語つた『日本を』の二長篇や、北原白秋の優れた童謡などは、国民的情操の陶冶に益が少くない。その他、童話の創作に努力した作家には島崎藤村、小川未明、宇野浩二等があり、後には山本有三も児童読物の改善に貢献した。昭和期に入つて宮沢賢治、坪田譲治のごとき、童話を本来の仕事とした異色ある作家が現れるに到つた。
童謡、民謡の普及もまたこの時代にはじまる。白秋をはじめ、西条八十、野口雨情、佐藤惣之助、浜田広介等が活動した。レコードの普及とともに卑俗化した流行歌が一時代の風俗の大きな現象をなすに到つた。
文芸が社会的にはたらきかける部面が広くなるとともに、文芸家の職業人としての社会的自覚が起るのは当然であつた。菊池、山本等の協力によつて結成された劇作家協会が、戯曲上演の著作権を主張したのは大正九年、主として菊池の努力によつて小説家の互助団体として小説家協会の設立をみたのが同十年、両者が大正十五年に合併して、広く文筆家の職業団体にまで発展したのが文芸家協会であり、昭和十一年以来菊池が会長の任に在つて、昭和十七年六月、日本文学報国会の創立まで存続した。著作権法の改正運動を成就し、積立金制度で会員共済事業を行ひ、昭和十四年、文芸会館を創設したことなどがその主なる事業であつたが、この職業団体が最後まで強固な物質的基礎を得なかつたことは、文学者の社会的勢力の微弱さを示すものであり、また国家の文学者保護、顕彰は、この時代には屡々要望されながら、実現を見なかつた。其処に自由主義的文学が、政治的発言力を極めて僅かしか持たなかつた日本の特殊な現実が反映してゐる。
さて、世界大戦の第三の影響──それがプロレタリア文学の勃興であつた。