第二十三話
江戸川乱歩氏と語る
大衆作家縦横談(7)
 (上)広告撃退

『僕、江戸川です』
 ひどく気むづかしい人だらうといふ想像を裏切つて、江戸川乱歩氏は案外に気軽に電話口にあらはれた。さびのある落ついた声である。
『水谷君を通じておねがひしてゐたものですが、ちよつとお眼にかかつてお話をうけたまはりたいと思ふのですが……』
 実は、江戸川氏は隠栖を愛し、滅多に人に会はないといふことをきいてゐたので、知り会ひの水谷準氏に前もつて電話をかけておいてもらつたのである。
『いつですか?』
『御都合よかつたら只今から……』
『お待ちしてゐます』
 この調子ならば世の風評ほどでもないと安心した。
 江戸川氏から電話できいた道順通り、池袋駅の西口を出、立教大学前でバスを降り、三等郵便局の横をはいつたのだが、教られたやうに、半丁ほど行つた左側に『江戸川』といふ標札は見あたらなかつた。ずんずん行くと向ふの大きな通りに抜けてしまふ。行きつ戻り〔つ〕しながら。あるひはこれは江戸川氏のいたづらではあるまいかと頭をひねつてみた。(まさか)と思ひながら、車をひいてきた八百屋で買物をしてゐる近所のおかみさんにきくと、
『ああ、その方なら、そこの平井さんです』
 すこし戻ると、果して少し奥まつた家に、『平井太郎』の標札が出てゐる。記者はうかつにも江戸川氏の本名を知らなかつたのである〔。〕
『いまお客様がおかへりになるところですから、ちよつとこちらでお待ち下さい』
 と、奥さんに案内されて、囲炉裏を切つてある六畳の間に通された。襖を隔てた隣の部屋が主人の居間らしく、電話できき知つた江戸川氏の声が、そして客の声が漏れてくる。
『……あとで何です……』
 と、主人の声。
『くどいやうですが、是非一つ』
 と、客の声。
(ハハア、雑誌者の原稿依頼かな)
 と思ひながら、耳にはいつてくるまま、きくともなしに隣の部屋の後をきいてゐると、
『御勘弁ねがひたいのですが』
『是非どうぞ』
『さういふことは柄にないですから……』
『そこをひとつ……』
『大へん恐縮だけど……』
 客のねばりも大したものだつたが、江戸川氏の辞退も強硬のやうだつた。しまひに、やつと客はあきらめたと見えて、
『では、どなたかに御紹介ねがへませんでせうか、この御近所にどなたかゐらつしやいませんでせうか?』
『この近くには大下宇陀児君もゐるにはゐるけれど、紹介するのは……自分が賛成しないのに紹介は困るなア』
『名刺でもかいていただけないでせうか』
『名刺をかくと紹介になる』
『ふいにおたづねしたんでは、なかなかお会ひくださらないでせうし……』
 雑誌記者にしてはどうもおかしいぞと思つてきいてゐたが、こゝまでくると(なるほど!)と合点が行つた。つまり、このごろ流行の、文士を広告に利用しようといふのらしい。
 やがて、客はかへつて行った。
『お待たせしました』
 客をおくつて玄関に立つた江戸川氏は、そのかへりしな、障子をあけて額の禿あがつたのが先づ眼につく顔を出した。

 (中)タネがつきる

『いまのは何んですか?』
『会つてみると、むかし池袋で僕が化粧品製造の手伝ひをしてゐた時の同僚なんだ。』
『広告に──?』
『さう……』
 と答へて、
『僕の話は大体わかつてゐるだらうから、勝手に想像してかいてくれてもいゝんだ。』
 気軽にかういふ江戸川氏は、益々、想像してゐた気むづかしい人とは反対である。そこで、先づ、最近の流行である文壇人が写真入りで広告に動員されることへの感想から質問する。
『はづかしいと思ふ。たゞでさへ恥かしいのに、小説を書いてゐてさへはづかしいのに、その上はづかしいことはしたくないと思ひますね。』
『………』
『それに、さういふことをしても、大して効果もないだらうと思ふ。小説をよんで作者の名前を知つてゐるものは、全体の五%くらゐぢやないかしら?』
『さうでもないでせう。』
『いや、案外、作者の名前を知つてゐる人はすくないものですよ。』
『あなたが一年間小説の執筆を中止されたのは、一昨年でしたね?』
『えゝ、一昨年……しかし、一年と限つたわけではなく、当分休みたいと云つたのです。』
『何か特別の意味でもあつたのですか?』
『つまり、疲れて、かく気がしなくなつたまでゝすよ。ちようど、玉ノ井の八ツ切り事件の直後で、日々新聞の記者がきて、その事件への感想をきいた時、『あゝいふ事件も不愉快だ。』と話したのをそのまゝ新聞にかゝれ、あの事件のために執筆を中止したといふ風につたへられましたが、……非常に不健康なんですね。いまでもさうですが、……』
『どこかおわるいのですか?』
『どこといつてハツキリしないが〔、〕生活も不規則ですし、……子供の時からさうで、学校もよく休みましたよ。──とにかく、自然の情熱がおきないと小説もかけないのだが、現在ではそれを無理にかいてゐるやうな状態ですね。』
『探偵小説は特別に疲れるものでせうか?』
『そんなことはない。たゞ行き詰るといふことはありますね。本格的な探偵小説は、手品ですからね〔。〕しばらくやつてゐるとタネがつきますよ。犯罪ものや怪奇ものをふくめると、行き詰ることもありませんが。──しかし本格の探偵小説は、一個人は行き詰る。でも、他の個人が出れば大丈夫で、だから探偵小説全体としては行き詰るといふことはありませんね。今年は画期的な新人が出ましたよ。小栗虫太郎と大木高太郎。この二人は際立つてゐる。』
『あなたは人にお会〔ひ〕になることを、ひどくお嫌ひになるつて評判ですが──?』
『さういふ営業上のことはさうでもないのですが、いつたいに気分のわるい日が多いものですから………』
『これからも、本格の探偵小説は大いにおやりになるつもりですか?』
『大いにつてほどでもないが、どちらもやつて行くつもりですが、どちらに余地があるかといへば、犯罪小説ですね。しかし、いまの時代はヅケヅケかくわけにも行かないし、このことなども情熱が起らない一つの原因ですね。いまの時代は国民的な人生観を持つてゐる人にはいゝが、僕のやうに否定的に考へるたちの人間には、どうも……』
 こゝで教養と伝統の話が出たが〔、〕極めて静かな落ついた話振りである。

 (下)『早く死にたい』

『近頃すこし真面目になつてゐるんですがね。かせぐ原稿をすくなくして、──これも不健康からきてゐる。それは、金が欲しくない〔。〕放浪しないでうちにぢつとしてゐるものだから……』
『金が欲しくないつて境地はうらやましいですね。』
『いや、ほしいにはほしいんです。僕自身はさう必要でないが、周囲のために、……しかし、それもだんだんすくなくなつてきた。金が欲しくないといふことも、いゝことか、わるいことかわからないが〔、〕僕のやうな非社交的な人間にはひどく必要ではない。……僕のやうな無気力な人間は、大衆作家のなかにはすくないですね。』
 広い額以上に禿げあがつた五分刈りの頭、三ケ月形のやさしい眉〔、〕底に鋭さをひそめてゐるが柔和な眼、……話しながら、つくゞゝ江戸川氏の顔をみてゐると、なんとなく高僧の像にでも接してゐるやうな気がする。
『あなたのお顔は、坊さんのやうですね。』
『みんながさう云ひますよ。地蔵〔、〕石地蔵……』
『食物はどんなものを──?』
『幼稚です。女子供の好きさうなものが好きです。だから、贅沢はいひません。日本料理だが、酒をのまないから、酒呑みのむづかしさはありません。』
『たとへばどんなものを──?』
『卵焼きが好きですね。』と笑ひながら『だから、これには敏感で、よほどよく焼いてないと……それから鯛のあら煮、鯛の頭をあまく煮た奴ですね。』
『勝負事は──?』
『駄目です。闘志がないからすべて闘志を要するものは駄目です。』
『映画などは──?』
『いゝといふ噂のあるものは見に行きます。結局、観るものでは映画がいちばん面白い。『商船テナシテイ』などもちよつといゝものですね』
『お読〔み〕になるものは──?』
『大衆小説は読んで面白くないですね。身辺小説の方が面白い。ほんとうのものが出てゐる。拵へたものではない。さういふ意味で、座談会の記事をよむのが好きです〔。〕ところが、僕のやつてることは、こしらへたものばかりで──。しかし、本格の探偵小説は、大衆小説と本質的な相違があると思ふんですがね。』
『どういふ相違が──?』
『僕は本格の探偵小説は大衆小説じやないと思ふ。謎小説のほんとうのものは読む人が尠い。探偵小説は理論的な遊戯ですが、日本人はその理論的な遊戯をあまり好まんやうですね。これをほんとうに好む人はマニアになる。これは極少数だ。たとへば、ほんとうに探偵小説が好きなら、外国のそれも好きにならなければならない筈ですが、バンダインのものなどが出版されて、訳は相当にいゝものですが、一万と売れない。五千以内です。これをみても、本格の探偵小説は大衆的に読まれないのぢやないかと思ひます。』
 そ〔れ〕から、さらに探偵小説が進展し、外国の作家の話が出、ふたゝび人生観の問題になり、氏がどうしても物事に酔へず、驚けず、感激出来ないといふ述懐があつたあとで、
『だから、あきらめが強い。一つのことに熱中して、無理をするやうなことがない。行き詰ると、雑誌などもひと月くらゐスツポかしてしまふ。』
 といひ、最後に
『僕にとつては、生れて来なかつたことがいちばんいゝことで、その次にいゝことは、早く死ぬことです。』
 と結んだ。

掲載2003年9月4日
初出・底本昭和9年(1934)/「北海タイムス」昭和9年12月5日・6日・7日
資料提供塩原将行