第二十四話
川崎克と江戸川乱歩
江戸川乱歩一代記
旭堂南湖
 ご当地伊賀の上野は観光の町であります。春夏秋冬、四季おりおりの風情を求めて観光客が全国から足を運び、城下町に漂う歴史と文化の香りを心ゆくまで堪能してゆきます。
 伊賀上野観光の要であり、またシンボルともなっているのが、城下の北にそびえる上野城。伊賀文化産業城とも、白鳳城とも呼ばれるこの城を訪ねれば、天守閣から上野の町を一望のもとに眺めることができます。
 ここで上野城の歴史をひもとくならば、ざっと四百二十年前、織田信長による徹底攻撃で焼け野原と化した伊賀の地に豊臣秀吉配下の筒井定次が入国し、かつて平楽寺という寺院が建っていた上野の高台に城を築いた、それがそもそもの淵源であります。
 やがて天下分け目の関ヶ原の合戦。戦いに勝利した徳川家康は天下人として権力を手中に収め、軍略上の拠点であった伊賀の国から秀吉系大名の筒井定次を追放、かわって伊予の国今治から伊賀伊勢両国へ藤堂和泉守高虎を招いたのでありました。
 築城の名手としても聞こえの高かった藤堂高虎は慶長十六年正月、上野城の大改修に着手いたします。日本一の高石垣を巡らせて備えを固め、五層の天守閣が天を目指して築かれましたが、慶長十七年九月に伊賀を襲った大暴風雨が落成目前の天守閣をがらがらと倒壊せしめ、天守閣はふたたび建築されることなく明治の御代を迎えることとなりました。
 明治維新後の上野城一帯は、人も近づかぬ鬱蒼たる森であったといいます。いたるところ雑草が繁茂蔓延して、足を踏み入れることさえできません。このありさまを見て、
「うむ。これではいかぬ。このまま捨てておく訳にはいかぬ。丹念に手を入れてやれば、さぞや良い公園になるであろう」
 と整備に乗り出したのが、伊賀に近代の開幕を告げた実業家田中善助その人でした。ときに明治二十八年。田中善助の尽力で一帯は徐々に面目を一新し、上野町民の憩いの場として生まれ変わりましたが、この公園に天守閣を建設するという気宇壮大な事業を独力でなしとげた一代の傑物、それが名政治家と誉れも高い代議士川崎克なのであります。
 資金調達のため書画骨董の収集品を売り払うなど、粒々辛苦の果てに上野城が落成式を迎えたのは昭和十年秋十月。ときに川崎克は五十四歳、政治家としてすでに揺るぎない名声を手にしていた時期であります。
 天守閣建築の壮挙はかの田中善助をして、
「さすがは川崎克。この田中善助でさえ思いも及ばなんだ大事業を見事成功させおったわ。あの男ほど烈々たる郷土愛を秘めた人間は、この伊賀の地に二人とおるまい」
 と三歎これを久しくさせたのでありますが、そのゆくたてはいずれ「川崎克一代記 白鳳城篇」の一席でお聴きいただくこととして、本日は天守閣落成からさらに二十年ほどさかのぼった大正時代のお話であります。
 大正三年の、夏も終わろうとするころ。川崎克は三十三歳。いまだ政治家として立つには至らず、東京の日本橋に事務所を構えて、自治新聞という旬刊新聞を創刊するべく準備を進めている最中でした。むろん胸中には、政治家たらんとする志が炎のように燃えさかっております。
 ある日、事務所の机で書きものに没頭していた克のそばに、事務員があわただしく歩み寄ってきたかと思うと、
「先生、うちで仕事をさせてもらいたいと訪ねてきた若者があるのですが」
「まだ出てもいない新聞の仕事がしたいというのか。面白いやつだな。誰かの紹介状でも持っているのか」
「菅生辰次郎さんのご紹介だそうですが」
「そうか。よし、会ってみよう」
 やがて事務員に案内されて、一人の青年が姿を現しました。身の丈六尺はあろうかというなかなかの美丈夫、年に似合わぬ風格を感じさせますが、色の白い面長な顔はあくまでも無表情、茫洋としているようでどこか鋭いまなざしはまっすぐ克を見つめています。
「社長兼主筆を務めている川崎です。まあおかけなさい」
 青年は低い声で礼を述べ、突然訪問したことの無礼を詫びながら、椅子に腰かけました。
「単刀直入に行くことにして、まず菅生君の紹介状を拝見しましょうか」
「いやそれが、いま探してみたのですが、どうやら家に忘れてきたようでして」
「これはどうだ。見かけによらず粗忽者なんだな君は。まあいいだろう。で、菅生君のご関係というと、やはり名古屋のご出身か」
「そうです。私たち一家が名古屋に住んでいたころ、菅生さんは私の父の書生をしていらっしゃいました」
「ふむ。それで君は名古屋を離れ、現在ただいまは東京で苦学をしながら大学に通っている、といったところかね」
「おわかりになりますか」
「私にも似たような経験がある」
「ああ。川崎さんも苦学をなさいましたか」
「国から仕送りはあったんだが、家業が傾いていたから学費も途絶えがちだった。たまに送金があったと思ったら、これは何々を売ってつくった金だなどと手紙に書いてある。とても無駄づかいはできなかったよ」
「お国は伊賀の上野とか」
「よく知っているな」
「菅生さんからお聞きしました。じつは私も伊賀の生まれでして」
「それは奇遇だ。伊賀のどこかね」
「名張という町らしいのですが」
「名張という町らしい、というと」
「私の家はもともと津にあったのですが、父が名張で郡役所の書記をしていたときに私が生まれました。それから間もなく父が転勤になってしまいましたので」
「それなら君、名張に行ったことは」
「一度もありません。自分の生まれ故郷というものを、私はまったく知らないのです」
「それは可哀想だな。生まれ故郷というのは、やっぱりいいものだよ君」
「そうでしょうか」
「この年になっても、目をつむれば生まれ故郷で過ごした子供時代の思い出がありありと浮かんでくる。兵隊ごっこ、地蔵盆。じつに懐かしい。私は車坂という町で生まれたんだが、車坂のサワヤンといえば上野で知らぬ者のない餓鬼大将さ」
「サワヤン、ですか」
「うちの家は当主の名前に喜の字、つまり喜ぶという漢字をつかうのがしきたりで、親父は喜平、爺さんは喜十郎、そのまた親父は喜右衛門と名乗った。私は喜三郎だからサンヤンと呼ばれたが、どういうわけかサワヤンということになってしまった」
「由緒正しいお家柄のようで」
「近在では知られた旧家だが、田舎のことだからたいしたことはないさ。ご一新以降、武士の商法で油屋を営んでね、私も高等小学校を卒業してすぐに油屋の手伝いをやらされたし、そのあとは銀行勤め。しかし田舎でくすぶっているのがどうにも我慢できなかった」
「それで上京して苦学をなさったと」
「まあそういうわけだ」
 青年を前にした川崎克は、懐かしそうな表情になって天井を見あげます。
 克が勉学のために上京したのは明治三十一年、数え年十九歳のときでした。明治二十二年に大日本帝国憲法発布、翌二十三年には第一回衆議院議員総選挙が行われて第一回帝国議会開会、一般国民のあいだでも自由民権論が熱く語られていた時代でありました。
 上野の町でも政治演説会がたびたび催され、有名政治家が遊説に訪れました。なかでも川崎喜三郎少年の胸にひときわ鮮烈な印象を残したのが、咢堂尾崎行雄。第一回総選挙以来連続二十五回当選を果たし、立憲政治を擁護する立場を貫き通して、憲政の神様と呼ばれるに至ったあの尾崎咢堂であります。
 少年時代から政治への関心が強かった喜三郎は、たまたま尾崎行雄の演説会で露払い役を買って出たのが縁となり、
「君のような有為の青年が田舎に埋もれていてはいけない。東京へ出てきなさい」
 と勧められて、家族を説き伏せるや勇躍東京へと向かったのでした。
「ところで君、うちで働きたいそうだが、このほうは覚えがあるのかね」
 しばしの回想から覚めた川崎克は、筆を走らせる仕種をしながら青年に尋ねます。
「はあ。覚えというほどでもありませんが、私は小さいころから活字が大好きで」
「活字というと、印刷につかう、鉛でできた、あの活字のことかね」
「そうです。巌谷小波の『世界お伽噺』につかわれていた四号活字、あれが初めて読んだ活字でした。それ以前には、母に頼んで新聞連載の探偵小説を読んでもらっていました。作品は菊池幽芳の『秘中の秘』。子供心に胸をわくわくさせたことをよく憶えています。少年雑誌の活字にも親しみました。愛読した雑誌は『少年世界』に『武侠世界』に『少年』。とにかく活字の魅力に引きつけられっぱなしの子供時代でした」
「私も学生時代、よく本を読んだ。菊判三百ページを一日で読むことを自分に課していたから、時間にすれば十一、二時間は必要だ。二食分の弁当を抱えて、毎日図書館に通ったものさ。本を読めば読むほど、自分のいる世界の姿がはっきりと見えてきた」
「私にとって、活字を読むことは別世界を発見することでした。本を読むというのはとても非現実的な経験で、活字によって描き出される、日常の世界とはまったく違った、遥かな異国や遠い夢の国が、まるですぐそこに存在しているかのように思えたものです」
「なるほど。私と君とでは、読書ひとつとってもかなりの違いがあるようだ」
「はい。私には川崎さんのような活発な少年時代はありませんでした。病気がちで、器械体操がまるでできませんでしたから、同級生の笑いものになって、いつのまにかいじめられっ子になっていました。それで学校もよく休みましたが、布団にくるまって空想の世界に遊ぶのは、日常生活のどんなことよりも楽しいことでした」
「しかし君、わが自治新聞は自治問題研究を本分とする新聞だ。題字には渋沢栄一先生の揮毫をいただき、いつの日か桜井兵五郎率いる『週刊地方行政』の向こうを張れるまでに育てあげたいと考えている。君の空想物語に提供できる紙面はないものと思ってくれ」
「わかっています。ただ私は、小さいころから活字が大好きで、父親から貰った小遣いを貯めて活字を買ったことがあります。手製の印刷機をつくり、安物のインキを用意して、お伽噺を出版する真似もやってみました。つまりたった一人で、作者から編集者、文選工、植字工、印刷工、製本屋までを担当したわけです。充分お役に立てると思うのですが」
「夢物語にうつつを抜かすかたわらで、お伽噺の出版にも手を染めたというわけか。君にはどうも、空想家なのか実務家なのか測りがたいところがあるようだ。ひとことでいえば捕らえどころのない男に見える。だが案外、後世に名を残す大器だという感じがしないでもない。どうにも妙な男だが、君はやはり文筆で世に出ることが望みなのかね」
「はい。しかし日本では駄目です」
「どうして日本では駄目なんだ」
「私は探偵小説を書きたいと思っています。ところが日本の読者には、知的な面白さを追求する探偵小説は受け容れられません。いまの日本で書かれているのは、小説らしい筋立てなどまるでない、退屈な人生をそのままなぞったような小説ばかりです」
「なら、どうするね」
「いっそアメリカに渡ってやろうかと考えることがあります。皿洗いでもしながら英語を勉強して、いつかアメリカの探偵雑誌に英文の探偵小説を発表してやろうかと」
「そいつは豪気だ。君は空想家や実務家どころか、たいした冒険家じゃないか」
「いいえ。実現するはずのない夢であることは自分でもよく承知しています。かといって、川崎さんのように堂々と着実に人生を生きることも私にはできないようなのです」
 むろん青年は、克の歩んできた人生をくわしく知るはずがありません。しかし、鷹揚闊達で自信に満ちた克の人となりから、陽の当たる一本道を堂々と着実に歩いてきた人物という印象を感じ取ったもののようです。
「失礼なことをお訊きしますが、川崎さんはどのような夢をお持ちなのでしょうか」
 青年は克の顔をしばらく眺めてから、ふと思いついたように尋ねました。精悍で浅黒い克の顔が、心なしかいっそう引き締まったように見えます。
「身に過ぎた話かもしれないが、私の夢は天下国家のために一身を捧げることだ」
「では、いずれは政治家の道に」
「ああ、そのつもりだ。君は今年一月に発覚したシーメンス事件をどう見るね」
「ドイツのシーメンス社から日本海軍高官に賄賂が贈られていた事件ですか」
「いかにも。尾崎咢堂先生らが腐敗追及の論陣を張り、帝国海軍を疑惑の府たらしめた責任は政府にもあるとして、山本権兵衛内閣は総辞職に追い込まれた。だが、似たようなことはまた起きるだろう。もっとひどいことが起きて、日本という国が危殆に瀕してしまうかもしれない。私はそれを防ぎたいのだ」
「ご立派なお志とお見受けします」
「天下の憂いに先立ちて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ、というやつさ」
 ここで川崎克が引きましたのは、中国で宋の時代に書かれた「岳陽楼記」の一節であります。少年時代の克は手のつけられない腕白坊主でしたが、一方で学業にも打ち込み、小学校時代から水上塾という塾に通って、塾生のなかでも群を抜いた成績を収めておりました。「岳陽楼記」の引用は、そうして培った深い教養からおのずと湧き出てきたものでありましょう。
 ちなみにこの言葉、世間の人々に先立って天下国家のことを心配し、楽しいことは世間の人々のあとから楽しむ、つまり立派な人物は天下国家のことをまず第一に考え、自分自身のことなどは問題にしないという意味だそうで、政治家たるものすべからく胸に刻むべき名言であるとされております。
「川崎先生」
「おや。私はいつのまに君の先生になったのかな」
「私は現実生活ではあまり感動することのない人間ですが、きょうばかりは先生のお人柄に感銘を覚えました。ぜひ自治新聞編集のお手伝いをさせていただきたく思います」
「えらく気に入ってくれたものだな。もっともこっちのほうも、君みたいな妙な男のことをなぜか気に入ってしまったらしい。これから入社試験として私の口述を筆記してもらうつもりだが、君なら大丈夫だろう。存分にやってくれたまえ。ところで君」
「はい」
「君は本当に粗忽者だな。まだ自分の名前も名乗っていないじゃないか」
「失礼しました。平井太郎と申します」
「平井太郎、か。どうも君は、人間ばかりか名前まで捕らえどころがないと来ている」
「そうでしょうか」
「印象鮮明な名前とはいいがたいね。君が将来探偵小説家として世に出るときは、一度聞いたら忘れられないようなペンネームを考案することだ。俺ならきっとそうする」
「はい。お言葉は肝に銘じました。ありがとうございます。川崎喜三郎先生」
「おっと待った。菅生君から聞いてくれてはいないのかな。二十七のときに改名して、いまは川崎コクと名乗っているのだが」
「川崎コク」
「コクは克服の克だ。もっとも、どういうわけか人はカツとしか読んでくれない。いちいち訂正するのも面倒だからそのままにしているがね」
「川崎カツ、ですか。明るくて力の感じられる、いいお名前だと思います」
「そういってくれると嬉しいよ。それにな」
「何でしょうか」
「川崎カツ、選挙に勝つ。なかなか縁起がよろしい。はっはっは」
 こうして、当時十九歳だった平井太郎青年は大学に通うかたわら自治新聞に勤務することとなり、大正三年十一月、自治新聞の記念すべき創刊号が発行されたのであります。
 ところがその年十二月に衆議院が解散、翌年三月に総選挙が実施される運びとなって、克は急遽上野に帰郷するや着々と立候補の準備を進め、当時は三重県全県が選挙区でしたから主として伊賀と北勢とに言論戦を展開、有力候補を相手に堂々の選挙戦を戦い抜いて見事初陣を飾ったのはよかったのですが、自治新聞のほうは大正四年一月、創刊から間もなしに廃刊というあっけない幕切れを迎えてしまいます。
 さて、いよいよ代議士に打って出た川崎克、以後の選挙戦をたどってみるならば、大正六年四月第十三回総選挙当選、大正九年五月第十四回総選挙に惜敗するも翌十年五月補欠選挙当選、大正十三年五月第十五回総選挙当選、昭和三年二月第十六回総選挙当選、昭和五年二月第十七回総選挙当選、昭和七年二月第十八回総選挙当選、昭和十一年二月第十九回総選挙当選、昭和十二年四月第二十回総選挙当選、昭和十七年四月第二十一回総選挙当選、と十一回の選挙で十回の当選を果たし、順風満帆の政治家人生を驀進いたします。
 なかでも国民の心に深く刻まれたのは、昭和十六年一月の予算総会で大政翼賛会の憲法違反を厳しく糾弾した克の演説であります。
 第二次近衛文麿内閣が国民の画一的組織化と戦争体制への動員を目的に国防国家体制の樹立を宣言し、その政治的中心組織として結成したのが大政翼賛会でありますが、川崎克は師と仰ぐ咢堂尾崎行雄と同じ憲法擁護の立場に立って、この大政翼賛会に対し真っ向から敢然と戦いを挑んだのであります。
「大政翼賛会の存在は憲法の精神に悖るものである。よって大政翼賛会の予算は大幅に削減されなければならない」
 と議会壇上に獅子吼して一歩も譲らない。その情熱、その気迫、その論理、その格調、いずれをとっても日本憲政史に残る名演説であり、天下の憂いに先立ちて憂える政治家の面目躍如たる大演説でありました。
 しかしこの年十二月、日本は米英に宣戦布告して太平洋戦争が勃発。翌年の総選挙では大政翼賛会に敵対した者として各方面から選挙妨害を受けながら当選はしたものの、川崎克の選挙は結局これが最後となりました。
 戦後は次男秀二が克のあとを継いで代議士となり、克自身は病を得て闘病生活を余儀なくされてしまいます。やがて昭和二十四年二月三日、最愛の康子夫人に看取られながら、一代の名政治家川崎克は六十八年の生涯を静かに閉じたのであります。
 一方、平井太郎青年は自治新聞廃刊後も川崎克を敬愛して親交を深め、小説「二銭銅貨」を発表して一躍探偵小説界の旗手となりました。ペンネームは江戸川乱歩。克の提案を容れたものかどうか、とにかく一度聞いたら忘れられないその名前は、いまも日本文学史に燦然として輝いております。
 そして克の死去から三年後の昭和二十七年秋九月、次男秀二の選挙応援のため名張を訪れた江戸川乱歩は、五十七歳にして初めて自分の生まれた場所に立ち、ふるさと発見を果たすこととなります。
 奇しき因縁に結ばれた川崎克と江戸川乱歩、まだまだ話題は尽きませんが、本日はこれにて読み終わりといたします。
掲載2003年10月29日(copyright 旭堂南湖)
旭堂南湖昭和48年8月−(1973− )
初演平成14年(2002)/「探偵講談、乱歩を読む。」伊賀上野凱旋公演(平成14年12月7日、前田教育会館蕉門ホール、財団法人前田教育会主催)