川口松太郎 |
昭和54・1979年 |
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江戸川乱歩と美少女 | |||
その頃の名古屋ホテルは現在のような大建築ではなく、納屋橋近くの横町にひっそり建っている木造二階建てで、明治初期の古色蒼然たる古ホテルだ。その古めかしさに風情があって愛好する人多く、私も乱歩も好きだった。医学者で作家の小酒井不木と時代小説作家国枝史郎とが現地参加、大阪からは乱歩と私、東京からは横溝正史、今では堂々たる老大家の横溝がまだ二十二、三歳の青年で、私が一つか二つ上だったと思う。大正十四年の初夏だから今より五十五年前のこと、夢のように古い話だが生きているのは横溝と私だけ、横溝も中年期には弱かったが闘病に成功して命を取りとめ老いて益々人気盛んである。 この時の座談会では乱歩が大はしゃぎで、食事をはさんでのおしゃべりが十時頃までつづき、探偵小説の分野を大きく拡げたい野心と理想とで話は容易につきなかった。残念なのはその当時座談速記というものがまだなく、折角の名論も記録をとどめる方法を知らず、私なぞも喜んで話の中へ入ってしまい、記事にして発表する編集者の商魂を忘れたほどの青二才だった。 やがて話もつきて小酒井・国枝の両氏は帰宅し、私たちはそれぞれの部屋へ引き取ったが、話の面白さに昂奮してベッドへ入っても仲々寝られそうもない。そこへフロントから電話がかかって、 「恐れ入りますがちょっと下まで降りて来て頂けませんか」 というのだ。 「用事は何?」 「江戸川先生に御面会のお方なのです」 「そりゃア非常識じゃないか、今、何時だと思う、人を訪問する時間じゃない、断り給え」 と怒ってやるとフロント係はさもさも困ったように、 「私も再三申上げたのですが、どうしてもお帰りになりません、困ってしまいましたので」 「どういうお方なのだ」 「はい、もしよかったらそちらまで上って頂きましょうか」 「いやそれも困る、今時分に迷惑だが仕方がない、そこまで行くよ」 腹を立てながら階下へ降りて行くと、ホールにも既に人影はなくあたりはしんとしている。係と思ったのはホテルのマネージャーで、その前に一人の少女が立っている。 「誠に申しわけありません、このお方なのです」 ちょっと意外だった。夜中の面会強要とはどんな奴かと思ったが、仲々の美少女で態度もきちんとしている。 「このような時間に申しわけありません、もっと早く着く筈なのにバスの故障で二時間も待たされてしまいました。江戸川先生が名古屋へお見え下さる事は滅多に望めませんので失礼を顧みずうかがいましたが、御不礼がすぎるようでしたら今夜はあきらめます、家が遠方なので明日出直すのもむずかしく、今晩はホテルの部屋を取って明朝お目にかからせて頂きとうございますが、いかがでございましょう」 名古屋訛りが可愛らしいほど、挨拶もはっきりして単なる面会強要ではない。 「江戸川先生をご存じなのですか」 「いえお目にはかかりませんがお手紙を頂いた事がございます」 「では先生はあなたを知ってるんですね」 「さアおぼえていて下さいますか、心もとのうございます」 恥かしそうな目をしていう。ちょっと見ると十八、九の少女だが話し出すと言葉の様子が二十二、三か、色の白い目鼻だちのきっぱりとした美人だ。相手が真面目なので、 「少しお待ちなさい、乱歩先生は不眠症だからまだ起きているかも知れない、見て来て上げましょう」 おせっかいにも二階の乱歩の部屋をたしかめに行った。少女が美しく可愛らしかったので可哀そうになったのだ。乱歩はまだ起きていて、 「寝られそうもないので一杯飲もうかと思っているところだ」 という。 「可愛い少女が会いたいといってフロントへ来ているのだがどうしましょう」 「困るねこんな時間に」 「あなたに手紙を頂いた事があるといってましたよ、大分前らしいけれど」 「おぼえないな」 「服装もちゃんとしているし言葉づかいも丁寧で、いいかげんの者とは思えない、会ってお上げなさいな」 「いやにすすめるじゃないか」 「ホテルの部屋もちゃんと取っていて、今夜が失礼のようでしたら明朝お目にかからして下さいというのだもの、断われませんよ」 「じゃアまア連れて来給え、可愛い少女というのも悪くないから、その代り君も立ち合うんだぜ」 笑いながら承知し、おせっかいの私は少女を部屋へ連れて行った。夜中の初対面で挨拶はぎこちなかったが、話をしている内に乱歩も思い出したらしい。少女は古い手紙の一通と、小型の外国雑誌とを手提げの中から取り出した。手紙は乱歩のものに違いなかったが、外国雑誌にはポウの自筆書簡と肖像とが掲載されていて、 「これはアラン・ポウのラブレターだそうです、英文ですけれども、先生に差上げたいと思って持ってまいりました」 という。乱歩はすっかり喜んでしまってむさぼるように英文雑誌を読み出した。そうなればこっちの用は終ったのも同じなので部屋へ引き取って寝てしまったが、そのあと、乱歩と少女がどんな話をしたか、どんな事が起ったか聞きもせず乱歩も話さず、翌日の朝は勤めがあるため早い汽車で大阪へ帰る私と、昼近くまで寝ている乱歩とは別行動だった。彼はその後も「苦楽」のために「人間椅子」その他の名作を書いてくれて守口のお宅へも再三うかがって話し合ったが、ある日にふっと、 「名古屋で夜中に訪ねて来た娘さんがいたね」 と彼の方からいい出した。 「ええ、あの少女はあれからどうしました」 「少女じゃないよ、もう好い年の人で、名古屋では相当有名な金持のお嬢さんなんだ、名古屋の文学少女たちが同人雑誌を出していて、彼女も一作を書いている、読んでくれといって置いて行ったが小説は駄目だ、ものにならない」 「でも美人でしたね」 「うんあの翌日、八勝館へ連れて行かれて昼飯を御馳走になったが、今考えて見ると金持ちの不良だな、僕だから無事だったが、君だったら危険だった」 「危険結構だ、金持ちの娘で美人で文学好きの不良と来れば申し分なしだ、残念な事したな」 「今からでも遅くない。訪ねて行ったらどうだ」 「いや彼女の目標は江戸川乱歩だ、僕なぞ歯牙にかけないでしょう、あの時に持って来た英文雑誌はどうしました」 「あれは嬉しかったよ、ポウの自筆書簡は初めてだし、それがラブレターなんだから尚面白かった」 |
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■註記:東京から横溝正史が参加したとあるのは事実誤認 ■初出・底本:小説新潮 昭和54・1979年5月号(33巻5号) ■掲載:2009/02/15 |
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