小林信彦

昭和59・1984年−昭和62・1987年

小説世界のロビンソン
第八章 〈探偵小説〉から〈推理小説〉へ

 連載が終ると、すぐに、江戸川乱歩の「『本陣殺人事件』を評す」が「宝石」にのった。この批評は、「本陣殺人事件」にささげられたこの上ない花束であると同時に、戦後の日本の推理小説の方向を決めた重要な一石であった。

 …… これは戦後最初の推理長篇小説というだけでなく、横溝君としても処女作以来はじめての純推理ものであり、又日本探偵小説界でも二、三の例外的作品を除いて、ほとんど最初の英米風論理小説であり、傑作か否かはしばらく別とするも、そういう意味で大いに問題とすべき画期的作品である。

 右のような前置きで始まる乱歩の批評は、推理小説評の王道を行くものであった。
 それから二十八年後の一九七五年に、ぼくは横溝氏と長い対談をおこなったが、当然、この批評の話が出た。氏は、こう語っている。

 「乱歩(は)、あれ(を)発表する前に送ってくれましたよ、原稿を。『こういうものを書くんだが』って。もう、ぼくは異議はないわね」

 活字になったものでは、このあとの一行が削られていた。それは、次のようなものであった。──ぼくは短刀を送りつけられたように感じてぞっとしたよ
 この意味を理解するには、若干の予備知識を要する。

 大阪薬専を卒業して神戸の薬局の若主人役をつとめていた横溝正史を東京に呼び、森下雨村にすすめて、当時の大出版社である博文館に入れたのは、江戸川乱歩である。大正十五年の話だ。乱歩・正史のあいだに、兄・弟的な感情があったといっても見当ちがいではあるまい。
 翌昭和二年、「新青年」編集長になった横溝正史はアメリカ的モダニズムを誌面にとり入れる。のちの作風によって誤解されているが、横溝正史はかけ値なしのネアカ人間であった。一方、かけ値なしのネクラ人間である乱歩は「新青年」にモダニズム、ナンセンスが入るのを好まなかった。
 ネクラの兄とネアカの弟が、人嫌いの作家と気鋭の編集者になれば、ネクラの兄はいよいよ屈折してゆくはずで、しかし、この心理劇は、横溝正史の結核発病によって、とりあえずの幕がおりた。
 敗戦と同時に、乱歩は、探偵小説の理論家として、指導的立場に立ち、新風を求める。ところが、(乱歩理論の)実作第一号として登場したのは、ほかならぬ横溝正史だったのである。そして、第二幕の主役は、衆目のみるところ、横溝正史であり、乱歩には実作がなかった。その乱歩が、横溝作品を認めることの苦痛と喜びが、乱歩の性格を知り尽している正史にわからぬはずがない。短刀を送りつけられたように感じて、ぞっとした、という言葉には実感があった。(「蝶々殺人事件」「獄門島」を立てつづけに書いたこの作家には、第三幕とでもいうべき晩年のブームがあるのだが、ここでは触れない。)
註記:斜体字は傍点を示す
初出:波 昭和59・1984年1月号−昭和62・1987年12月号
底本:小林信彦『小説世界のロビンソン』新潮社 平成元・1989年3月20日
掲載:2008/04/10

Rampo Fragment
名張人外境