都筑道夫

昭和50・1975−昭和63・1988年

推理作家の出来るまで
競争相手(下巻)

 「これで、難問も片がついた」
 と、ほっとした。ところが、間もなく社長のところへ、江戸川乱歩さんから、電話がかかってきた。戦前からのヴェテラン翻訳者で、ハヤカワ・ミステリ創刊のときから、何冊も訳しているひとを、なぜ理由もなく、ことわるのだ、という話で、
 「乱歩さん、かなり怒っているよ。きみ、いちど説明しにいかなければ、まずいだろう」
 社長にいわれて、気が重かったが、しかたがない。最後に出た本の初校ゲラ、福島君がまっ赤に手を入れたのを持って、私は池袋へ出かけていった。
 「婉曲におことわりした理由は、本を見てもわかりません。これを、ご覧になってください。あの方も、おわかりになっているはずなんですが……」
 赤字だらけ、書きこみだくさんの初校をさしだすと、乱歩さんはすぐ、事情がわかったらしい。
 「ずっとこうなのかね」
 「このところ、三、四冊、福島君がこうやっています。以前のものは、いずれほかのひとに、改訳してもらうことになるでしょう。もちろん、問題のすくないものもあるんですが……」
 と、説明してから、私は最近の方針を話した。乱歩さんはうなずいて、
 「わかった。これじゃあ、やむをえない。ぼくから、うまく話しておこう。そんなことじゃないか、と実は思っていたんだが、横溝君から、ぜひ口をきいてくれ、といわれたんでねえ」
 「申しわけありません。よろしく、お願いします」
 と、私は頭をさげた。さげながら、私は気がとがめていた。

   *

 乱歩さんが納得してくれれば、私たちにとっては、もう問題は解決したわけだ。けれども、当時の乱歩さんは、横溝正史さんと仲直りしたばかりだった。つまり、それまで不仲だったわけで、おもに横溝さんのほうが、乱歩さんを避けていたらしい。そのころの横溝さんは乗りものぎらいで、会合なぞには出席しなかったから、乱歩さんと外で顔をあわすことはない。だから、訪問しあったり、電話や手紙の交渉が、なかったということだろう。もっとも、昭和二十九年の乱歩さんの還暦パーティには、横溝さんも出席している。顔も見たくない、というほど、はげしい嫌悪では、なかったのかも知れない。それとも、不仲になったのが、還暦パーティ以後なのか。あるいは、周囲がうわさするほど、不仲ではなかったのか。不和の原因は、もっと前に起っているように、私は聞いた。しかし、くわしくは書くまい。
 とにかく、昭和三十一年の第二回江戸川乱歩賞の授賞式が、日比谷の松本楼でひらかれたときに、横溝さんが出席して、乱歩さんと廊下で握手をした。私たちがそれを取りまいて、拍手をしたのだから、不和があって、和解があったのは、事実なのだ。還暦パーティのときには、私は受付のデスクにすわっていたが、松本楼では受賞者がわとして、出席していた。第二回の江戸川乱歩賞は、ハヤカワ・ミステリ出版の功績によって、早川清社長がホームズ像をうけたので、田村隆一と私が編集部代表として、社長についていったのである。
 そんなわけで、和解したばかりの横溝さんに、頼まれたことだから、乱歩さんとしても、いい返事がしたかったろう。池袋の江戸川邸へいくのに、私が気が重かったのは、きっと横溝さんを通じて、乱歩さんに話があったのだろう、と察していたからだ。しかし、戦前のような抄訳ではいけない、と乱歩さんもいっているのだから、赤インクの書きこみだらけの校正刷を見せれば、それでも依頼しつづけろ、とはいわないだろう。そう思っていたわけだが、その通りになってみると、乱歩さん、横溝さんに返事がしにくいだろう、と気がとがめたのだった。
初出:ミステリマガジン 昭和50・1975年10月号−昭和63・1988年12月号
底本:都筑道夫『推理作家の出来るまで』フリースタイル 平成12・2000年12月20日
掲載:2008/04/11

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