ウェブニュース
毎日jp
平成22・2010年5月20日 毎日新聞社
アナクロですが 〈その34〉続・夜雨のD坂から 玉木研二
Home > 楽コレ >
 

<その34>続・夜雨のD坂から

2010年5月20日

星条旗通りから東京ミッドタウン方向を望む

 雨は上がった。「D坂」を後に、快晴の六本木に転じた。空は澄み、青嵐が街路樹を吹き抜ける午後。ここは江戸川乱歩が生んだ名探偵・明智小五郎が結婚して事務所と住居を構えた街である。ちょうど今の六本木7丁目。東京ミッドタウンと外苑東通りをはさんで向かい合った辺りで、昔は「麻布竜土(りゅうど)町」と呼んだ。華やかな大通りから中へ入ると、往時の空気がまだ少し漂っているようだ。ぼっ、ぼっ、ぼくらは少年探偵団と口ずさみながら足の向くまま歩く。

 名探偵の住まいはどんな感じだったか。子供向けに書かれた「怪人二十面相」(1936年)にはこうある。ポプラ社版から引く。

 <明智小五郎の住宅は、麻布竜土町の閑静なやしき町にありました。名探偵は、まだ若くて美しい文代夫人と、助手の小林少年と、お手伝いさんひとりの、質素な暮らしをしているのでした>
 断片的に書かれていることをつなぎ合わせると、家は2階建ての洋館で、書斎は2階にあり、表に面している。低い石門の前には細い道路が通っている.........。

旧麻布竜土町から望む六本木ヒルズ

 明智小五郎は「D坂の殺人事件」で登場したころの、もじゃもじゃ頭の無精な青年遊民というイメージは既になく、とても精悍(せいかん)で怜悧(れいり)なスーパー探偵に変身している。<質素な暮らし>と表現しているが、あの時分、2階建て洋館暮らしとはなかなかのものだ。

 <そのころ、東京中の町という町、家という家では、ふたり以上の人が顔をあわせさえすれば、まるでお天気のあいさつでもするように、怪人「二十面相」のうわさをしていました>という書き出しで始まる「怪人二十面相」はどういう経緯で生まれたのだろう。

 乱歩の「探偵小説三十年」(日本図書センター『作家の自伝90 江戸川乱歩』所収)によると、「少年倶楽部」誌の熱心な依頼があり、1936(昭和11)年の正月号から少年読者向けに連載をすることになった。

 <私は最初、少年ルパンものを狙って、題も「怪盗二十面相」とつけたのだが、その頃(ころ)の少年雑誌倫理規定は、今よりもきびしく、「盗」の字がいけないということで、語呂は悪いけれど「怪人」と改めた>

 けがの功名というべきか、「怪人」でよかった。「怪盗」では、とてもこれほどの永続的人気は生まれなかったのではないか。

 明智小五郎とともに少年探偵団も活躍するという設定は奇異なもので、細かく気を使わねばならなかったようだ。例えば、その第1作中にこんな表現が出てくる。

 <それで、みんなで、少年探偵団っていう会をつくっているんです。むろん学校の勉強やなんかのじゃまにならないようにですよ。ぼくのおとうさんも、学校さえなまけなければ、まあいいって許してくだすったんです>

 登場する子供たちは素直で礼儀正しく、よい子であることが必要だった。それでも、悪のにおいがする探偵読み物に子供たちは強くひかれたに違いない。連載は大当たりし、夢中になった子供たちから驚くほど多くの手紙が寄せられたそうだ。本にすると、これもよく売れた。戦争による中断期をはさんで戦後も二十面相ものは続き、ラジオドラマや映画にもなった。

 仏国モーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン」ものもそうだったが、「二十面相」にスピード感を与えたのは自動車の登場と発達ではないかと思う。第1作にはこんなカーチェイスの場面がある。

 <車は新しく、エンジンに申しぶんはありません。走る、走る、まるで鉄砲玉みたいに走りだしたのです。/悪魔のように疾走する二台の自動車は、道行く人の目を見はらせないではおきませんでした>

 これが書かれた1930年代は自動車開発が進み、流線型のスタイルが好まれた。このころアメリカでは、レイモンド・チャンドラーが造形したハードボイルド探偵、フィリップ・マーロウが西海岸でさっそうと車を疾駆させていた。

      □      □

2・26事件収束で原隊復帰した歩兵第1連隊

 この連載が始まって間もない36年2月26日、大雪の未明、この竜土町を含む一帯を震撼(しんかん)させる大事件が起きた。体制一新の「昭和維新」を唱える青年将校たちが近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊などの兵を率いて決起した2・26事件である。彼らは重臣らを殺害して首相官邸などを占拠し、4日間にわたり中央政治機能をマヒさせた。

 竜土町にはフランス料理店の「竜土軒」があった(現在は西麻布で営まれている)。明治の創業で、大正時代まで自然主義文学系の作家らがよく集った。そして昭和。店は道(外苑東通り)をはさんで歩兵第1連隊(戦後は防衛庁、現在は東京ミッドタウン)と向き合うような位置にあったことから、2・26事件を起こす青年将校らが打ち合わせによく集まったという。そういう時は、不穏な動きを警戒する憲兵が表で見張っていたらしい。(2・26事件の不思議さ、不可解さは、いわばこんな「バレバレ」状況で計画が決行されたことにある)

東京ミッドタウン。かつて歩兵第1連隊があった

 店は現在の「星条旗通り」辺りにあった。この通りの呼び名は、この先に米軍紙「星条旗新聞(スターズ&ストライプス)」社があることに由来するそうだ。案外知られていないが、ヘリポートなど米軍施設もある。

 料理の皿を前に憂国の弁を振るっていた青年将校たちも、将来このような風景が近くに出現しようとは夢にも思わなかっただろう。

      □      □

 さて、2・26事件以降、日本は軍部の発言力が強まり、次第に戦時色を濃くする。翌37年には日中戦争が始まった。40年、日独伊三国同盟が結ばれて米国との対立関係は決定的となり、強硬論が幅を利かすようになる。国内では「新体制」がしきりに叫ばれ、政党政治は死滅した。
 文学への締めつけも厳しかった。乱歩は戦後、「戦争と探偵小説」と題した文章の中でこう書いている。(前出「江戸川乱歩」所収)

江戸川乱歩

 <文学はひたすら忠君愛国、正義人道の宣伝機関たるべく、遊戯の分子は全く排除せらるるにいたり、世の読みものすべて新体制一色、ほとんど面白味を失うにいたる。探偵小説は犯罪を取り扱う遊戯小説なるため、最も旧体制なれば、防諜(ぼうちょう)のスパイ小説のほかは諸雑誌よりその影をひそめ、探偵小説家はそれぞれ得意とするところに従い、別の小説分野、たとえば科学小説、戦争小説、スパイ小説、冒険小説などに転ずるものが大部分であった>

 それまでの乱歩の大人向けの作品もしばしば内務省から改訂を強いられた。例えば「芋虫」は絶版を命じられ、「猟奇の果」「蜘蛛(くも)男」は一部削除になった。「反時局」を嫌う検閲官の考え方はよくわかっているから、自ら進んで版を絶ったものもある。「陰獣」「人間椅子」などである。彼は時流に乗って転身することができず、筆を止めた。

 <私は元来、大衆作家ふうな器用な腕があるわけではなく、心理の底を探ろうとする精神分析的な気質、論理好き、怪奇幻想の嗜好(しこう)など、身についたものによって探偵小説、怪奇小説をこころざしたのであるから、他の作家の如(ごと)く早急に他の分野に転ずることは、性格としてできないのである。この種の身についたものがいけないとすると、ただ沈黙しているほかはないのである>

 日米開戦の1941年末ごろまでに乱歩の本は<文字通り全滅>し、原稿依頼もなく、敗戦後の46年半ばまで一家は無収入だったという。

 「新体制」のまやかしを峻拒(しゅんきょ)した「旧体制」者の矜持(きょうじ)だったかもしれない。彼は「巨人」と呼ばれた。

 ふり仰ぐと、旧竜土町の家並みの間に初夏の風光にぬっとそびえる巨塔、六本木ヒルズが見えた。(専門編集委員)

 
毎日jp:Home
 
掲載 2010年8月6日 (金)