序章

大正十四年夏

 「あ。乱歩さんじゃないか。まずい」
 喫茶店から外へ出たところで御堂幸吉は不意に呟くと、一緒にいた務代亮の腕を掴んで押し出し、その背後に身を隠した。わけが判らぬままよろめいた亮の眼前を、白い夏背広を着た大柄な紳士と紺飛白姿の書生とが連れ立って通り過ぎる。昨夜とうとう一睡もすることができなくてぼんやりした亮の視界のなかで、夏の白い光に包まれたその二人の姿は一瞬ユラユラと大きく揺れた。
 「ランポ……」
 非現実的な語感を持つその名前を亮が反復すると、幸吉はその後ろ姿を見据えたまま答えた。
 「そう、あれがかの江戸川乱歩さ。隣にいるのは横溝正史。今日は一体なにを企んでいるのかな。よし、尾けて行ってみよう。アハハ、今をときめく探偵作家二人を探偵するなんて、愉快じゃないか」
 上機嫌に云うが早いか幸吉は、夏の陽射しが厳しい元町通りに二人の後を追い始めた。やむなく亮もそれに従う。
 御堂幸吉は学生の身分ながら学問に励む様子は一向になく、家が金持ちなのを良いことに猟奇の楽しみを次つぎと見付けてきてはそれに耽ることを生き甲斐にしている。探偵小説もそのひとつで、作品を愛読するだけでは飽き足らず、同好の集まりにも参加する入れ上げようであった。
 (ああ、乱歩、か)
 亮は納得した。
 二年前、「二銭銅貨」を引っ提げて彗星の如く登場した乱歩は、今年に入って「新青年」を舞台に短篇を連続的に発表している。そのなかで、世評高い「D坂の殺人事件」や「心理試験」もさることながら、「赤い部屋」と「白昼夢」の二篇が幸吉は殊の外お気に入りで、亮にもうるさく強要して読ませたくらいの興奮ぶりなのだった。だが、それほど敬愛する作家ならば、なにも避けることはないだろう。そう考えて問い質すと、
 「いやあ、『探偵趣味の会』の課題小説を書いてないから、合わす顔がないんだよ」
 と、地道な労力をなにより厭う幸吉らしく、かれは答えるのであった。
 江戸川乱歩と横溝正史の二人連れはとある骨董品の店へ入ったが、目指すものはなかったと見えてすぐに出てきた。その店先で乱歩はなにかしきりに正史に伝えている。
 「ちぇッ、重要な手掛かりが示されつつあるというのに、ここからではまるで聞き取れないじゃないか。そうだ、亮、おまえなら顔を知られてないから、そばまで行って探ってきてくれ」
 「えッ……」
 勝手な幸吉の云い分に亮は思わず不服の声をあげたが、それ以上反論することはなく、命に従った。それは必ずしも勉学の資を御堂家に面倒をみてもらっている義理からだけではない。同年齢であるにも関わらず、かれらの間には主従の関係が当初から出来上がっていた。
 暑い日中だったが、神戸随一の商店街である元町通りには大勢の人が闊歩している。その人波に紛れて亮は二人に近付いた。良い具合に、洋装店の飾り窓の硝子にかれらの姿が映っている。そのなかで通りに向かって微笑みかける生き人形に見入るふりをして、亮は耳をそばだてた。
 乱歩は六尺近い大男で、目方も二十貫はありそうだった。その乱歩が痩せた正史を見下ろすように喋っている。
 「……だから、こんな貧相なのではなくて、もっと大きな、ホラ、アームチェアーといわれるようなものを探してるんだよ」
 「はぁ」
 正史は三白眼で相手の顔をジロリと見上げた。
 「そやけど、そんなもんやったら神戸までわざわざ来はらんでも、大阪になんぼでもあるんやおまへんか」
 「いや、チマチマしたものばかりで、まるで問題にならない。外人でもゆったり寛げるくらい思い切って大きいものが良いんだが……神戸には洋家具の競り市があるんじゃないのかね」
 「さぁ、競り市は知りまへんなぁ。そやけど舶来品がお望みなんやったら、ひとつトーア・ロードにでも行ってみまひょか」
 正史はそう告げ、二人は一丁目のほうへ向けて歩き始めた。
 (トーア・ロード……)
 いまにも見付かって糾弾されるのではないかとビクビクしていた亮は、その通りの名前を耳にして、心臓がこむら返りを起こしたかと思うくらい驚き、かつ困惑した。だが振り返ると、幸吉はさらに尾行するよう、身振りで指示している。仕方なく亮は、会話の聞き取れる至近距離を保ちながらかれらの後に従った。
 しかし、乱歩はもうそれ以上喋らなかった。真っ直ぐに前を見て、やや足速に歩を進めてゆく。ほとんど並んで歩きながらこの探偵作家のほうを盗み見た刹那、感情に突然断層のようなものが走って、その風貌に異常に惹かれるのを亮は意識した。それは一瞬前まで思ってもみなかった、変てこな心の動きであった。
 体格と同様、乱歩は顔も大きく、ことに髪がもう薄くなっていたから、なおのこと大人の面影があった。国士の風格を漂わせた一癖ありそうな面魂、しかしその裏に不思議な悲しみのようなものを亮は見出だしたのである。そのことが意外で、亮は何度もこの探偵作家を見直した。
 (そうか……眸が常人とはちがうからだ)
 と、しばらくして亮はやっと自らの疑問に答えを出した。やや切れ長の眸は大きく、行く先を見据えているようでいて、その実ひどく虚ろであった。この世に絶望しきって現実の情景などには目もくれず、裏に潜んでいる筈のものを探ろうと試みはするものの、これさえも容易には成就しない、そんな悲しみが乱歩の眸には沈んでいた。幸吉に無理強いされて目を通したいくつかの作品の背景にあるものが、そのときにはよく理解できなかったのにいま作家本人に接することで鮮やかに甦ってきて、亮の心に染みた。
 だがそれはもとより、務代亮自身の心情を勝手に投影した、一方的な共感に他ならなかった。もともと睡眠不足がつづいて尋常ではない神経が、自らの意に背いた探偵行為のなかで妙に捩じくれたあげく、トーア・ロードへ向かうことになっていよいよ過敏に研ぎ澄まされたのである。なにしろそこは、かれにとって特別な場所だったのだから。
 海岸沿いの外国人居留地と異人館が並ぶ山手の北野町とを結ぶ坂道であるトーア・ロードには、その立地特性から外人相手のハイカラな商店が軒を連ねている。その一軒、雑貨を扱う「ベラトリックス」は、園村志津子の自宅なのだった。
 「ふぅ……」
 変な声を洩らしたあと、ポケットのなかに常に携帯している小さな人形を亮は握り占める。
 (志津子さん)
 その名前を思い浮かべるだけで、亮は純情に頬を染めた。
 御堂家の晩餐で紹介されたその最初の瞬間から、彼女の楚楚とした細面の面影は亮の気持ちを占拠した。生まれて初めて知ったその恋ごころをどうしたら良いのか、亮には見当もつかなかった。志津子のまえに出ると、かれはもうただうわずるばかりで何もできない。それでいて思いは日ごと烈烈と燃え盛っていき、憧憬とも焦燥とも嫉妬ともつかぬ感情が渦巻くのを持て余した。最近では夜、ろくろく眠れないという神経衰弱ぶりを示すに至ってさえいた。
 ポケットから掌を出すと、そっと開いて見る。そのなかで汗にじっとりと濡れた「お化け人形」と呼ばれる黒い小さなからくり人形、それは志津子から贈られた亮の宝物なのだった。だが次の瞬間、いたたまれない恥ずかしさに見舞われてかれは身をすくめた。志津子が部屋の隅へ呼んでこの人形をそっと手渡してくれたとき、かれは礼を云うことも忘れて、奪うようにそれを掴み取ってしまったのである。一瞬唖然としたあと、それでも優しい笑みを浮かべて頷きかけてきてくれた志津子の仕種を憶い出すと、亮はいまでも叫び出したい衝動に襲われるのだった。
 (ああ、ぼくはなんて卑屈な、詰まらない存在なんだろう。こんな下らない男が志津子さんに恋を寄せるなんて、思い上がりも甚だしいことじゃないか)
 志津子のことを考えるたび、結論は常に強固な劣等意識に行き着いた。
 乱歩と正史は、トーア・ロードの坂道を上り始めた。
 この坂の中ほどに、志津子はいる。
 (ひょっとして乱歩が志津子さんの店へ入って行ったらどうしよう)
 そんな危惧が横切ったとき、いままた改めて確認した引け目の思いがふいとその先へ飛び火した。
 (死のう)
 その言葉が唐突に浮かび上がってきた刹那、視野のなかは真っ白に炸裂した。かねて考えたこともないその願いは、頭をもたげると同時にたちまち亮のなかに定着した。
 (この世に在っては、志津子さんと結ばれることは絶対にない。でも、別の世でなら。乱歩さんも熱望して止まない、もうひとつの世。志津子さんと二人きりの世界が、あるいは死の彼方には広がっているのではないか。そう。そこでこそぼくは彼女を)
 「オイ、なにをぼんやり突っ立ってるんだよ」
 そのときいきなり背中を叩かれ、はっとして振り返ると幸吉が怒った顔付きで睨んでいた。
 「ホラ、二人はあそこの古道具屋へ入って行ったじゃないか。さっさと探ってこい」
 幸吉の厳しい口調で我を取り戻した亮は、その命に盲従した。
 眩しい陽光に溢れた表通りから入ると、黴臭い店内は暗くて物が見えない。闇雲に奥へ入った亮は、椅子を物色する乱歩とぶつかりそうになった。その大きな顔が亮のすぐ眼前を横切り、声を抑えるのがやっとだった。だが乱歩は気にする様子もなく、とある肘掛け椅子にじっと見入っている。
 「お望みの大きさやったら、これでっしゃろナ」
 乱歩の要望に答えて、店員が説明している。
 「外人さんが本国へ引き揚げるときに置いて行かはったもんでっさかいに、ソラ、日本にはこれだけの大きさのもんはあらしまへんワ。まぁ、掛けてみとくンなはれ」
 「うむ」
 乱歩はすっかり気に入ったらしく、勧められるままに腰を下ろすと、全身をもぞもぞさせてその椅子を撫でさすった。
 「そやけど、乱歩さん、こんな椅子どないしはりますねン。応接間でも作らはったんでっか」
 「いや、それは良いんだ」
 横溝正史の疑問には生返事をしながら、乱歩は肘掛けや背凭れや底の厚みを丹念に観察していていたが、やがて幾分上気した面持ちで、
 「よし、出来た」
 と低く呟いた。
 「はァ」
 「なんのことでっか」
 店員と一緒に怪訝な声を出した正史に向かって、乱歩は満足げに頷きかけた。
 「ホラ、これだけ大きい椅子なら、なかに人間が潜んでいられるじゃないか。こうやってじっと隠れて、ここに座る貴婦人の豊満なる肉体を抱き締める。あるいはまた、なかからナイフをそっと刺し貫いてごらん、腰を下ろした人物はアッという間もなく絶命して、あとはただ鮮血がタラタラと流れていくばかり、犯人の姿の見えない完全犯罪がここに完成する」
 「エ……」
 正史は驚いた顔をして口をパクパクさせて見せた。
 「ら、乱歩さん、あんた、取材してはりましたんかいな」
 店員は呆れて引っ込んでしまい、横溝正史はしきりと恥ずかしがってモジモジした。だがそんなことはまるで意識に入っていない様子で、江戸川乱歩は構想が纏まった興奮の余韻をもっぱら楽しんでいるらしかった。
 やりとりを傍らで聞いていた亮もまた、ある感動に浸っていた。
 ありふれた家具のなかにさえこの世ならぬものを見出だそうとする、乱歩の空しい情熱。その熱意に亮は身を焦がすような共感を抱いた。それは神経衰弱と睡眠不足とがもたらす幻影に過ぎなかったのかも知れない。しかし、いまは遠のいた死への誘惑も含めて、乱歩、この未曾有の探偵作家を垣間見たことによって、務代亮の世界認識はいままでとはまったく異なったものとなったのである。
 時に、大正十四年、夏――

《序章 大正十四年夏/了》


掲載 1999年10月21日