第一章

怪人の創造

     

 「ホレッ」
 大仰な掛け声とともに捲った絵札には、小野小町の艶やかな姿が描かれていた。それを見ると、「おっちゃん」は心底から嬉しそうな声を上げた。
 「やった、来た来た」
 ついさっき、一番手を争っていた美代子と昭二とが続け様に坊主札を引き当てたので、場には札が溢れている。それらをホクホクと掻き集めながら、「おっちゃん」はなおもだらしなく相好を崩した。
 「見なよ。『花の色は』だもん、ただの姫じゃないよ。これ、縁起が良いんだ。フフフ、今度こそ、おっちゃんの勝ちだな」
 云いながら絵札をひとまわり見せびらかす。そのとき不意に昭二が大声を張り上げて、かれの背後を指差した。
 「アッ、おっちゃん、蜘蛛やッ。えらい大きいでえッ」
 「ええッ、嫌だよ」
 人一倍臆病な「おっちゃん」は腰を引きながら振り返る。いつか陽は陰ってきていて、裸電球の光が室内を黄いろっぽく染め、隅のほうには淡い闇が蹲っている。そこへ慌ただしく視線を走らせたかれは、戸惑った声を洩らした。
 「どこにいるんだい」
 「ホラ、そこの柱の影。上のほうへ登って行っとおやんか」
 「え……」
 昭二はでたらめを云いながら、「おっちゃん」が気を取られた隙を見計らって、場に積んである札のなかへ紋付きの懐から取り出した一枚を素早く混ぜた。座を囲んだ子どもたちはその様子をニヤニヤ笑いながら見ている。
 「もう大丈夫や。蜘蛛は天井裏へ逃げてもたワ」
 細工を終えた昭二が声を掛けても、「おっちゃん」はなお不安げに背後を気にして、落ち着かない素振りを見せた。
 「さあ。次はおっちゃんの番やで」
 「う、うん」
 微かに震える手で引いた札の裏には、頭を両手で覆った蝉丸の図があった。
 「あ……」
 瞬間、かれの顔が情なく崩れる。それと同時に、子どもたちの甲高い歓声がいっせいに上がる。
 「うわあーッ、吐き出しや」
 「あかんあかん」
 「おっちゃん、ほんまに運があらへんなあ」
 そのなかで「おっちゃん」は、真剣な顔付きで首をひねっていた。
 「おかしいなあ、せっかく小野小町が来たというのに。ぼくが勝ちそうな勢いのときに限って、蝉丸が邪魔をする。よっぽど相性が悪いのかな」
 つい先刻も同じ手で騙されたのに、かれはまだ気付いていないのであった。結局この回もかれがそのまま負け、小遣いを巻き上げられたうえ、顔に墨でさらに罰点を書き込まれた。子どもは全員きれいなままなのに、ひとり大人のかれだけが真っ黒になった顔を晒している。のろまで間抜けでなにをしても怒らない「おっちゃん」は、年始で本家に集まった親族の子どもたちの間で格好のおもちゃになっていたのである。
 建物の反対側にある大広間では昼下がりからつづく酒宴がいよいよ盛りを迎え、三味線や芸者の歌声も加わって、賑やかな声が伝わってくる。
 「さあ、おっちゃん、そしたらもう一遍やるで」
 「えッ、ぼくはもういいよ」
 絵札を手早く掻き集めて繰り始めた昭二に向かって、「おっちゃん」は気弱げに小さく手を振った。
 「なに云うてんねン、心配せえでも次こそ勝てるて」
 「いや……ぼくはもう、本当に……」
 尻込みする「おっちゃん」に対して、このカモを逃がしてたまるかとばかりに、子どもたちが押し寄せた。
 「そんなこと云わんと」
 「やろうな」
 「坊主めくり、楽しいやんか」
 渋る相手にかれらが飛び掛かり、「おっちゃん」が尻餅をついた、その瞬間、かれの胸ポケットから小さな黒いものが滑り落ちた。昭二が素早くそれを取り上げる。
 「なんや、『お化け人形』やんか」
 「あ。返してよ」
 「なんやねン、真っ黒けのおっちゃんが真っ黒けの人形抱いて。こんなもん、持っとおさかいに勝たれへんのちゃうか」
 「いいから、返せよ」
 「おっちゃん」が深刻な顔付きになって手を伸ばしてきたので、昭二は面白がって人形を遠のけた。すると「おっちゃん」はいつになく執念深く、なおも迫ってくる。胴を掴まれた昭二は、その古ぼけたからくり人形を向かいにいる美代子に放り投げた。
 「ほら、おっちゃん、今度はこっちやデ」
 美代子は手にした人形を高く掲げた。
 その刹那であった。
 ぐう、となにかを押し潰したような異様な音がした。同時に、その場の空気が鋭く張り詰めた。何とも云えぬ奇妙な雰囲気に、子どもたちの喧騒がとぎれる。不意に訪れた静寂は、一瞬酒客の歓声に紛れたあと、低く籠って呻きつづける声に取って代わられた。
 「あああ……」
 昭二が言葉に纏まらぬ音を洩らしながら、驚愕の表情で「おっちゃん」を指差した。
 「おっちゃん」の顔付きが一変していた。
 ぼんやりと弛緩した、温厚というよりは知恵の足りない、見慣れた「おっちゃん」はそこにはいなかった。代わって眸を邪悪ないろに爛爛と輝かせた獣じみた男が眼前に立っていた。
 「……カ・エ・サ・ナ・イ・カ」
 くぐもりながらも、強い声が透る。それでなくとも凶凶しい視線に捉えられて怯えていた美代子は、なおのこと全身に震えがきて身体が意のままに動かなくなった。一旦はお化け人形を差し出そうと試みたのだが、掌がかじかんだかの如く、かえってそれを強く握り占める結果となった。そうするうちに我を取り戻した他の子どもたちがわっと逃げ始めると、彼女も衝動に襲われて半ば這いながら廊下のほうへ向かおうとする。
 「カ・エ・セ…………カ・エ・セ……ハ・ヤ・ク…………カ・エ・セ………ハ・ヤ・ク……シ・ヅ・コ・サ・ン……ヲ。…………ハ・ヤ・ク…ハヤク、シヅコサンヲ……かえせ、しづこさん…………しづこさん…しづこさん、しづこさん」
 逸早く脱出に成功した昭二が大人たちが宴会を開いている座敷に転がり込み、御堂幸吉を連れて戻った。そのとき、廊下に座り込んで火がついたように泣きわめく美代子の傍らで、「おっちゃん」は放心しきった顔付きになって、やっと取り戻したお化け人形を見るでもなくなにごとか口のなかでぶつぶつと呟きつづけていた。
 「なんだ、なにがあったんだ。おい、一体なにを云ってるんだ」
 「しづこさん……しづこさんが、いない。……しづこさんは、どこだ……」
 「むむ、『しづこさん』って、園村志津子のことか」
 幸吉が問い返したのに反応して「おっちゃん」はびくりと背筋を反り返らせ、その顔を覗き込んだ。
 「……御堂。……御堂……じゃないか」
 「えッ」
 自らの名前を呼ばれた幸吉はびっくりした表情になって相手を見返した。
 「おい……それじゃあおまえ、正気を取り戻したのか」
 「正気?」
 だが今度は相手のほうが怪訝そうな声をあげ、次いで不安げに周囲を見渡した。さっきまで一緒に遊びに興じていた子どもたち、それに宴会を中断して様子を窺いにきた大人たちがことごとく気味悪そうにかれを取り巻いている。それらの人びとの紋付きや振り袖姿がかれには意外だったらしい。しばらくじっと眺めていたあと、幸吉に視線を戻した。
 「結婚式でもあったのかい」
 「なにを云ってるんだ、今日はお正月じゃないか」
 「お正月……」
 鸚鵡返しに呟いてしばらくしてから話に焦点が合ったらしい、かれはにわかに泣き笑いの顔になった。
 「それじゃあ、アレからもう半年が経つというのか。ぼくの知らない間に年は明けて、大正十六年に入っていたのか」
 独白めくその台詞がこぼれた途端、潰し島田を結った若い芸者がクスリと声をあげ、さらに呼応して、二、三人が笑った。
 「いや、大正の御世はもう終わって、いまは昭和なんだが……」
 執り成すように幸吉は云うと、かれの腕を引いた。
 「なんにしても正気を取り戻したというのはめでたい。さあ。ここは寒いから、座敷で話のつづきをしようじゃないか」
 ひとり決め付けると、返事を待たずにかれは引っ張って行った。変事の影響で神経がおかしくなったらしく、永らくぼんやりと過ごしていて、子どもたちからは「おっちゃん」と呼ばれる格好の遊び相手になっていたかつての友人、というより、子分のような関係にあった務代亮を。

     

 昨日……いや正確に云うと務代亮の記憶に刻まれたいまから直前の光景には、眩しい盛夏のひかりが漲っている。それなのに、現実の御堂家は新年を祝う宴の盛りであった。のみならずその正月は、「昭和」などという聞き慣れぬ元号に彩られて、在る。
 思わず「大正十六年」と呟いて嘲笑われた、あのときの射すような痛みがまた横切った。もとより、この世がかれにとって居心地の良い場所であった試しはかつて一度もなかった。だが、これほどまでに悪意を剥き出しにして迫ってくる、そんなに凶悪なところだったのだろうか。
 幸吉に導かれてかれの居間へと向かいながら、亮は歪んだ違和感に悩まされていた。
 一体なになのだろう。幸吉にも、この御堂屋敷にもたしかに見覚えがある。それでいて、かれの脳裡に留まった像との間には違いが、微妙ではあるけれどもはっきりとあるのだ。それも、どこが、と特定することはできない。むしろ全体が一様に靄がかかったようにぼやけて映る。
 「さあ、まあ入れ」
 居間に使っている座敷の掘り炬燵に亮を招じ入れ、幸吉はその正面に座った。
 「いや、大変だったな。それで、どうだ。もうすっかり記憶は戻ったのか」
 宴会場から酒肴を運ぶよう手伝いの者に命じると、幸吉は顔面いっぱいに溢れる好奇心を隠そうともせず、むしろウキウキと愉しそうな口振りで切り出した。
 「え……」
 しばらく周囲のおかしな様子に気を奪われていた亮は、その言葉ではっと我を取り戻した。
 (こんなことをしている場合ではなかった)
 そう。ついさっき、たしかになにか差し迫った危機が迫って来ていた筈ではなかったか。亮の意識はたちまちそちらへ集中した。
 (大切なものが奪われた。誰か悪い奴が、ぼくの掛け替えのないものを取って逃げて行った。……大事な……生きがい……生命よりも重要な存在……)
 焦りと苛立ちと怒りがないまぜになって、亮の頭のなかがすっと白くなった。耳鳴りばかりが急速に高まるなか、血の引いてゆく明瞭な感触があって、気がゆっくりと遠のこうとする。視野が暗闇に浸蝕されて収束する、その最後の瞬間、残された部位にふと女性の面影が宿った。
 「志津子さんッ!」
 叫び声とともに視界が戻ってき、亮は反射的に走り出そうとした。だが、脚は炬燵の掘りのなかにあって思うようにはならず、畳に倒れ込んだ格好でかれはもがいた。
 「どうしたんだ」
 「志津子さんがさらわれた。早く救いに行かなければ、早く早く」
 「ちょっと待て、それはおまえが意識を失ったときのことだろう。いま闇雲に飛び出したって、なにも出来はしない。それより、落ち着いて事情を話してみろ。おれも全力をあげて協力してやるから」
 立って寄ってきた幸吉が両肩を抱いて宥める。亮はうなだれたまま、ハアハアと粗い息をしていたが、やがて顔を上げて幸吉を見た。幸吉は大きく頷いて、お銚子ごと亮の口へあてがった。酒を含むとその表情が緩んで、変に取り止めなくなった。
 「志津子さんがどうしたって」
 「襲われて……連れて行かれたんだ……そう、さらわれて……」
 掠れた声で告げたあと、亮はなにか訴えたそうに幸吉を見たが、結局なにも云わぬまま小さくかぶりを振って俯いた。そのときの状況がまだよく甦ってこないらしい。いまにも泣き出しそうな頼りない表情になって、虚空の一点をじっと凝視している。
 「さらわれたって、誰に」
 「エッ、誰、だって」
 待ち切れない、といったふうに幸吉が促すと、亮はびくりとしたように身を引いた。それから、頭を抱え眸を閉じる。
 「誰……誰……誰……」
 おぼつかない記憶を辿って憎い犯人像を追い求めているのだろう、顔付きに苦汁のいろが次第に濃くなる。唸る声が洩れ始める。
 「あッ」
 と、思い当たるところがあったと見えて、亮は突然両眼をくわっと開いた。
 「あのひと……体格の大きな……一癖ありそうな……なにか、この世ならぬものを常に探し求めている…………ホラ、御堂も知ってるあのひと……」
 「む。誰のことだ」
 亮のなかで悪人の姿が徐徐に固まってゆく、その様子を幸吉は盃を片手に見守っていたが、自分の知り合いと聞いて思わず身を乗り出した。
 「ホラ……あの、あの……」
 その表情はもうはっきりと思い浮かんでいるらしい、亮はもどかしそうに目をつむり、手を小さく回した。しばらくの間そうしていた仕種を唐突に止めて、かれはぽつんと呟いた。
 「ランポ」
 「エ……」
 「そうだ、ランポだよ。ホラ、トーア・ロードで遭ったじゃないか」
 「なにッ! ランポって、探偵小説の、あの乱歩かね」
 相手の云わんとすることを理解した幸吉は思わず相好を崩したが、亮の険しい顔を見てあわてて表面を取り繕う。名前が出てきたことによって不安が堰を切ったかの如く溢れ出したにちがいない、亮は見る見る涙を浮かべて幸吉に訴えた。
 「そうなんだ……ぼくたちが二人きりでいるところへ、乱歩がやって来て……いきなり襲われたんだ。……気を失って……意識が戻ってきたときには、志津子さんも、乱歩も、姿は見えなかった。……志津子さんッ!」
 突然激して立ち上がった亮を制しながら、幸吉は湧き上がってくる喜びを抑え兼ねていた。ふだん何事にも倦んだふうに澱んだこの男の表情がいまはイキイキと躍動している。着想が形をなし、筋や結構、細部の描写といった作品を形成する要素が次から次へと浮かび上がってきて、創作意欲を激しく刺戟づけられる、あたかもそんなときの小説家のように。

     

 湊川新開地はまだ正月気分にドップリと浸っていて、凄い人出だった。殊にも聚楽館前の市電道から南、西側に映画館・劇場・寄席が軒を連ね、また大規模な食堂が廉価サービスを競う一帯は、自由な身動きもならず、ただ人の波の進むままに任せざるを得ない混雑ぶりのなかに在った。行き交う人びとは一様に愉しげで、連れの者と声高に喋る音が増幅してあたりはワンワンとした喧騒に包まれている。
 あらゆる人たちがここへは集まってきていた。映画の派手な絵看板を丁寧に物色して行く若者。赤児を背負ったうえに両手に鼻水を垂らす子どもの手を引くおかみさん。和服姿の恰幅の良い男。そうかと思えば、深窓の令嬢とおぼしき二人連れが神妙な顔付きで道を急いでゆく。洋装はしていても履物にまでは手が回らず、下駄履きで、それでも堂堂と闊歩する庶民に混じって、蔓の太い黒眼鏡にベレ帽という出で立ちのハイカラな青年紳士もいる。洋画の銀幕から抜け出して来たかと疑われる外人も決して珍しくない。
 賑やかな新開地本通りを彷徨いながら、しかし務代亮はひとり募る違和感を持て余していた。
 (新開地は本当にこんなところだっただろうか)
 幸吉のように入り浸る、といった態ではないにしろ、寝起きさせてもらっている御堂屋敷のすぐ近くに広がる歓楽街なのだから、折りに触れて通ったし、洋画の封切りに足を運んだこともなくはない。その、かれの印象にある新開地と、いま現実に眼の前に在る街とは、なにかが決定的に異なって映るのだ。
 (そう。たしかに似てはいる。でも、ここはやっぱり新開地じゃない)
 考えるうち次第に思い詰めていくのだが、それは漠然とした印象に留まっていて、では何がどう違うのか、具体的に指摘することはできないのだった。
 湊川新開地は文字どおり、もとは川が流れていたところに新しく開けた街である。
 幕藩時代からの由緒ある湊まち・兵庫と、明治になって開けた神戸、このふたつの街を高い土手を築いて分断するのが湊川であった。

  梅は岡本 桜は生田 松は兵庫の湊川

 と旧くから風光明媚をうたわれた地だが、なにしろ山と海との間が二、三粁しかない坂を流れる川だけに、ひとたび雨がつづくと鉄砲水を通して街に洪水をもたらす。明治になってからも被害が相次ぎ、ついに二十九年八月の災害が契機となって湊川付け替えの改修計画が具体化した。足掛け四年に及ぶ工事の末、従来より西側を迂回する新川が通水、さらに旧川の堤防を切り崩し、明治三十八年には埋め立てられた川は長い砂原と化して出現した。
 そこへ、神戸駅前にあった劇場・相生座が火事を出し、再建の地をここへ求めて移って来る。つづいてその向かいに勧商場が店開き、売店や食堂と並んで、電気館・日本館の二つの活動写真館が人気を博した。それが明治四十一年のことで、以来娯楽施設の進出が相次ぎ、大正の末には新開地は東京の浅草と並び称される、国内でも有数の一大歓楽街へと発展したのである。
 いま、新開地は大いに賑わっている。その賑わいが、亮にはなんとも疎ましかった。
 人の流れに身を委ねるうち、かれはいつか新開地の北に接する湊川公園へ出ていた。西側には「阪神電車」の大広告を掲げる高塔、東には水族館があり、その背後には松並木が見えている。この松が「土手」と呼ばれた旧湊川堤防の唯一の名残りだが、「ドテ」の名前は新開地を指す通称として、往時を知るひとの間では生きている。
 音楽堂の手前の共同ベンチに空きを見付けて、腰を下ろす。寒空の下なのに、雑踏から解放されたいま、かれはうっすらと汗ばんでいた。
 (志津子さんの捜索は手配してやるから、ひとつ気散じに新開地を散歩して来い)
 自他ともに認める新開地人である幸吉に勧められるままに出て来たのだが、務代亮は鬱鬱として楽しまなかった。
 「志津子さん……」
 ひとたびその名を口に出すと、胸の奥から名状しがたい衝動が籠み上げてくる。
 襲撃を受けた後遺症だろうか、亮の脳裡には常に淡い靄がかかっているかのようで、はっきりと見えるものはなにもなかった。肝心の園村志津子のことさえ曖昧にぼやけている。その出逢いも付き合いの端ばしも、会話の一片すらも甦ってはこなかった。ただ、細面の顔立ちに深い憂いを含んで、もの淋しげに微笑み掛けてくる、その印象ばかりが何度も何度も繰り返して眼前を横切るのだった。
 (志津子さん!)
 あの頼りなげな表情を浮かべて、彼女はいまどこに幽閉されているのだろう。そう考えると、亮の胸は張り裂けそうになる。いつ知れずかれは立ち上がり、ハアハアと激しく息を吐き出していた。
 しばらくして大きな溜息をつくと、かれはかぶりを振った。
 (なにひとつ、志津子さんのためにしてあげられることはないんだ)
 空しい脱力感が襲い掛かってくる。それを僅かでも払い除けようとするかの如く、亮は無目的に歩き始めた。向かいのベンチに腰を下ろしていたベレ帽を被った紳士が少し間を置いてかれを追う。
 公園から新開地本通りに入ると、五彩の原色を趣味悪く組み合わせた、抽象的な模様の毒毒しいネオン提灯が道の両側をビッシリと飾っている。少し行くと松竹劇場があり、その前の空き地は香具師たちの啖呵場として賑わっていた。
 猿回しや曲独楽、せり売り屋などがそれぞれに観衆を集めて熱演するなか、道に近い一角で催眠術師が不思議に透るダミ声を張り上げた。
 「サアテ、諸君、これで以てかれは、深い、深あい眠りのなかへ入っていったのだ。ただの眠りじゃあないよ。そこでは素晴らしい夢を好きなだけ貪ることができるのだ。その証拠に、ホレ」
 云うとミンサイは、かれの前で立ったまま眼を閉じている貧相な男に向かって空の掌をぐいと突き出した。
 「サア、見たまえ、なんと大きな豚マンじゃないか。これをきみにあげる。遠慮しないで食べるが良い」
 すると眠った男はだらしない笑みを浮かべ、両手を差し出してうやうやしく受け取ると、なにもない空間へかぶりついた。失笑の声が周囲から起こる。だが男は気にする様子もなく、嬉しそうに口を動かしつづける。ざわめきが治まるのを待って、ミンサイはおもむろに頷いた。
 「催眠術の威力は、ご覧の通り。むろん、食べ物だけじゃないよ。酒でも女でも博打でも、なんでもお好みのままに味わえる、というわけだ。云っちゃあ悪いが、かれはさほど裕福な暮らしをしているとは見えない。イヤイヤ、それではお世辞が過ぎるか。ハッキリ云うと、喰うや喰わずやのアップアップでその日をかろうじて過ごしておるに過ぎん。しかるに諸君、夢のなかではそのかれが、百万長者の体験をやすやすと味わえるという、なんとも耳寄りな話じゃないかね。催眠術の秘法を記したこの本があればこそ、それが可能となる。サア、それじゃあ今度は、いかにももてそうにないこのかれに、絶世の美女をあてがって差し上げようかね」
 ミンサイの台詞に応じて、ずっと食べるふりをつづけていた男が突然、ハアハアと舌を突き出しながら着物の帯を解き始めた。笑い声が湧き起こる。勢いにつられてなんとなく見入っていた亮はそれで我に返り、小さく息を洩らすとその場を離れた。
 雑踏のなか、だらだら坂を二十間ほど降りる。
 やがて突き当たる市電道の右手、クリームいろの鉄筋コンクリートづくりでどっしりと構えた巨大なビルヂングが聚楽館である。だが、さっき見覚えのないこの建物が不審で通行人に聞き、苦笑混じりに聚楽館の名前が返ってきたとき、思わず妙な声を出したくらい亮は驚いた。
 もとより亮とて、「良えとこ良えとこ聚楽館」と戯れ歌さえできた日本一、いや東洋一の近代劇場たる聚楽館はよく知っている。知っているがゆえに、違和感はなお強かった。聚楽館の建物はたしかに華美ではあったけれども、もっと瀟洒ではなかったか。
 ここだけではなく、一体に亮のいまいる新開地は、異様にケバケバしかった。
 折しも夕暮れが迫ってきて、市電通りの向こうにネオンサインが点り始めた。
 右手角では「カフェー日輪」の、名のとおり日輪を形取った鮮やかなイルミネーションが自動モーターによって回転をつづけている。そこから奥へ、パッと眼に入る大きなものだけでも、「櫻正宗・すき焼・新橋」「キリンビール」「大安」「あこ新」と電飾看板がつづき、色鮮やかな広告文字が空中に現れたかと思うとすぐに消えることを繰り返し、あちこちで駆け較べをしているかの如く見えた。左手は「八百丑」、「ユニオンビール・ハナヤ」、さらに「グリコ」も遠くでお馴染みのマラソン走者の像を浮かび上がらせる。それらを縫って、光は新開地本通りの両側に溢れ、きらめき、映えていた。比類なき不夜城だと幸吉はわがことのように自慢するけれども、亮にはどうしても馴染めなかった。
 (なぜなのだろう。ぼくの感覚がまだ正常に戻ってはいないのだろうか)
 考えたかれは、しかしすぐにかぶりを振った。
 (いや、違う。乱歩はただ襲いかかってきただけじゃない。きっとぼくたちを違う世界へとさらい込んだんだ。あの怪人ならそれくらいのことをしかねない。だから……)
 おもいはそこで突然切れた。背筋に電流が走ったかのようであった。
 「志津子さん……」
 声が情なく震えている。
 片時も意識から離れたことのない園村志津子そのひとが、市電の停留所から本通りへと向かう人込みのなかに紛れていたのだ。
 「し、志津子さんッ!」
 一拍の空白を置いたあと、亮は通行人を押し退けて彼女のもとへと駆け寄った。
 「志津子さん、ご無事だったんですか。志津子さん。志津子さん。志津子さん」
 狂ったような呼び掛け、それに応じて女性は不審そうに振り返った。その刹那、亮の全身は凍り付いたようになった。
 (ちがう……)
 落胆とも怒りともつかぬ感情がどっと渦を巻く。
 細面の顔立ちも、色白の肌も、切れ長の眸も、なにもかも志津子そっくりであった。だがそれでいて、どこか決定的に異なるものがある。「仏作って魂入れず」とはこういうことなのだろうか、と、亮はぼんやりと意識する。
 「……志津子さん」
 未練がましく小声で呟くと、女性はもの淋しげな薄い笑みを浮かべた。その表情がまた志津子を彷彿とさせて亮がはっとしたとき、彼女は小さく首を振って小走りに立ち去って行った。
 (いまのは何だったのだろう。あるいは…………実は、やっぱり志津子さんだったので……拒絶?)
 志津子ではないと直観した、その確信は相手が眼前からいなくなると不意に揺らいだ。突き放されたおもいで茫然と立ち尽くす亮の脳裡に、そのときまったく別の可能性が電光の如くに閃いた。
 (乱歩に囚われの身だから、思うに任せなかったのでは。いまも乱歩は近くにいたのかも知れない。下手に騒ぐと生命が危ない、あるいはぼくにまで危害が及ぶ、そう判断して志津子さんは身を引いたのではないか)
 頭にくわッと血が上って、亮はそれ以外のことを考えられなくなった。
 (助け出さなくては、志津子さんを乱歩の魔手から。彼女はぼくを信頼して待っていてくれているんだ。それに答えなくては。……乱歩め。待ってろ。必ず志津子さんを取り戻してみせる)
 熱に浮かされたような非現実的な感情はたちまち昂ぶって亮自身の制御を越え、眼の前が真っ白になって、なにがなにだか判らなくなった。
 人の流れを遮って新開地本通りに突っ立ったままの亮、かれの悲壮な表情をネオンサインが血の海の彩りを湛えて照らし出す。その様子を少し離れたところから満足そうに見入っているベレ帽姿の紳士がいたが、もとより亮は気付く筈もなかった。

     

 新開地本通りの興行施設は、不思議と道の西側に集中している。ことにも聚楽館から市電通りを渡った南半分は、とば口の一角こそカフェーや食堂しかないが、その先、万歳寄席の「千代廼座」からは、「キネマ倶楽部」「栄館」「二葉館」「錦座」「大正座」「多聞座」「松本座」「菊水館」「朝日館」「有楽館」「湊座」と、劇場や映画館がびっしりと軒を連ね、派手派手しい絵看板や宣伝ガール、広告人形などが入り乱れて、大変華やかな彩りを競う。
 これに対して唯一東側に館を構えるのが、新開地一番の老舗を誇る「相生座」である。かつては連鎖劇で名を馳せた芝居小屋だったが、その後新興キネマ直営の映画館となってカイチマンに親しまれている。
 その「相生座」と、北側の「やっこ食堂」の間の細い路地を「小便小路」と呼ぶ。文字通り立ち小便の名所だったのだが、それをさせないために屋台店を誘致したのがまんまと成功した。天麩羅の「鬼追」や「すし友」など、固定客をつけて繁盛していて、夜ともなればその日の仕事を終えた庶民が繰り出して賑わう。そして、そこをさらに東へ通り抜けると、表通りの喧騒が嘘のようにひっそりとした一帯に出る。西へ行けば新開地の興行街、北へ市電通りを越えれば遊郭が立ち並ぶ福原というこのあたりは、光に対する影のみを集めたような、奇妙に透明な静謐を保っている。
 「カフェー黒薔薇」は、そのなかでも入り組んだ細い路地の奥の、とりわけ判り難い場所にあった。
 大衆低廉が売り物の新開地に在って、ここばかりはまったく逆の方向を目指していて、安くはないが、サービスの水準の高さでは他に類を見ないと、知る人ぞ知る存在になっていた。しかし相当通い詰めた客でも、店の奥に一角を仕切って《夢殿》と名付けられた特別室があることには気付いていない。ここへは、オーナーの八牧友雄のお眼鏡に適った者しか入室を許されないのだ。
 「アアア、しかし退屈ですナ。今日は珍しく、誰も来ないですものネ」
 がらんとしたその《夢殿》のなかにぽつねんと腰を下ろした葛城紅紫が、大きな声で独り言を云った。鼈甲縁の丸眼鏡と後ろからも見えるくらいの太い胡麻塩の口髭が印象的な顔をしかつめらしく構えている。かれは羽織り袴を常にきちんと着用して、かつては活動弁士として羽振りが良かったのに、トーキーの普及とともに落ちぶれて、いまは女に貢がせて喰うのがやっとだと無頼漢を気取っている。ただ、それを鵜呑みにすることはできない。どこか得体の知れぬところを垣間見せる瞬間があった。
 いつもなら、他の者はともかく御堂幸吉は必ずいるのに、その姿もない。友雄は厨房で特別料理とやらにかかっているし、女給もまだ入ってこない。
 「生き人形しかいないのでは、『人でなしの恋』じゃああるまいし、間が持ちませんナ。マアしかし、よく出来てはいますがネ」
 呟いて紅紫は、今日運び込まれたばかりのその人形を見た。等身大で、若い女性の姿をそのままに再現している。生地の不自然を糊塗するためか、化粧が異常なくらい濃いけれども、それを除けば人間だと云われれば疑いもしなかっただろう。友雄の仕業か、それとも幸吉の思惑か、いずれにしても多分大金をかけて作った以上、またなにか愉しい趣向が仕込まれているにちがいない。
 紅紫はニンマリ笑うと、《夢殿》のなかをさらに見渡した。
 中央に置かれたテーブルを囲んで、十人ばかりがゆったりとくつろげる個室である。一体にカフェーは内装に凝って落ち着きを演出するのが常道だが、この《夢殿》はそれを猟奇趣味で統一している。
 たとえば、奥の壁の大半を覆った洋酒棚、その中央には髑髏時計が配されている。頭部の骸骨なのだが、大きな眼球は健在で、寄った黒目の先が右は時、左は分を示して回る仕組みである。ご丁寧なことには、毎時零分になると不気味な呻き声とともに剥きだしの歯の一部が裂けて、真っ赤な舌を突き出してくる。
 この時計の周辺に並べられたくすんだ黒い瓶は酒ではなく、劇的効果を有する毒薬らしい。誰か、酔っ払ったあげくに間違えてアレを持ってきて呑みはしないかなあ、と、八牧友雄が真面目な顔をして呟くのを紅紫は聞いたことがある。もっとも、友雄の言動には多分に芝居がかったところがあって、一から十まで信用することはできない。テーブル脇の植木鉢の見慣れぬ植物にしろ、南米の奥地で採集された食人樹だとかれは吹聴しているのである。
 反対の側の壁の額は、無惨絵や責め絵が飾られたこともあるが、いまはひとりの巨大な魔王が男女を虐げるところを描いた、竹中英太郎ばりの幻想画になっている。
 そして極め付きは、部屋の隅に掲げられた黄金仮面である。といっても、仮面そのものには別に変わったところはない。実はその壁の後ろに秘密の部屋が隠されていて、仮面の両眼を通してこの室内を覗くことのできる仕掛けになっているのだ。《夢殿》での座談中、友雄はしばしば、料理の手配だの店の仕事だのと称して席を外すが、その大半はこの部屋に籠り、室内を覗き見しているらしい。
 (もっとも、いまはそうではないようですナ)
 仮面を盗み見た紅紫は、その眸が黒く塗り潰されているのを確認して小さく頷いた。裏の部屋の存在も友雄の行動も、実は誰ひとり知らぬ者はないのである。
 そのとき、ノックをする音が立て続けに三回した。しばらく間を置いて、また三回。そして今度は五回。それを確認した紅紫はおもむろに立ち上がってカーテンを引き、その奥の扉の鍵を開いた。これは隣のビルヂングとの間の狭い路地に殊更に目立たぬようひっそりと作られた、《夢殿》専用の出入り口なのである。
 「ヤア、これはこれはおふたかたお揃いで。遅かったではないですか。不肖紅紫、一日千秋のおもいでお待ちしておりましたですヨ」
 市来壮太郎と今仁博輔、二人の仲間の姿を見出だした紅紫は両腕を広げ、身をのけぞらせて大仰な歓迎の意を表した。それに対して壮太郎はいつもの皮肉な薄笑いを浮かべるだけで黙殺したが、博輔は律義に愛用の汗臭い鳥打ち帽をぬいで頭を掻いてみせた。
 「いやあ、紅紫センセは優雅に暮らしてはりまっけど、こっちは安月給の身イでっさかいな、一日じゅう足を棒にして稼いだあとやないと、よォ寄せてもらえまへんねン。今日なんか、これでも早いほうでっせ」
 「オヤ、そうですか。八牧氏や御堂氏なんぞから上客を山ほど紹介してもらったおかげで、給料袋が立つくらいの歩合を得、もう左団扇で過ごしてらっしゃる、ト、わたくしはまた、そう聞いておりましたがナ」
 「ア、アホなこと、云わんとくなはれ」
 博輔は即座に否定したが、その慌てぶりを見ると、紅紫の指摘はあながち外れてもいないらしい。
 働かなくても喰うには困らない高等遊民が揃ったこの《夢殿》の常連のなかで、ひとり今仁博輔だけは零細広告代理店の外務員という、安月給取りなのであった。「カフェー黒薔薇」の広告を飛び込みで取りに来たときのやり取りが気にいったとかで、ここへ誘われたという異例の経緯を持っている。
 「あれ、マネキン人形でっか。こらごっつう別嬪サンやこと」
 「フン。おおかた一皮めくると柘榴のような腐肉が出てくるんだろうよ。この趣向も、もういい加減飽きてきたぜ」
 話をそらせるべく博輔が生き人形へ話題を向けたのへ、壮太郎が突っ掛かった。
 「第一、美人なのは云わずもがなだな。わざわざ人形を作るのに、不細工なご面相に仕立てる馬鹿がいるものか。殺人の被害者だってそうだ。『死美人』なればこそ新聞記事にも小説にもなるので、『死醜女』なんぞ、一文の値打ちもありはしない」
 いつもながら蒼褪めた壮太郎の顔で、こめかみがピクピクと神経質そうに動いた。
 かれは福原の遊郭「鶴亀楼」の息子ということに表向きはなっているが、実はさる有力者がそこの娼妓に孕ませた子どもらしい。その経緯から、金にはいっさい不自由しないものの、世を拗ねたところがあって、いまは「鶴亀楼」のやり手婆あに引き立てられたお銀さんに対しても、実の母親だと弁えたうえで辛く当たることが多いという。
 《夢殿》のなかのざわめきを聞き付けたと見えて、オーナーの八牧友雄が姿を反対側の扉から現した。こちらは「カフェー黒薔薇」の厨房に繋がっている。ここを通ることができるのは友雄が認めた料理人と女給の数人に過ぎず、《夢殿》は店の本体からは完全に隔絶していた。
 「いらっしゃい」
 八牧は髪をオールバックにきれいに撫で付け、セーターにネクタイというハイカラな格好をしている。元来かれのお洒落は念入りなものだが、その一番の自慢は左手の中指にした指輪だった。銀の台座に乗った大きな球、白地に正面のみ黒い円をあしらったそれは、本物の眼球、それも死せる恋びとのものだと称していた。
 「おや、御堂くんがまだ来てないな。夕餐の用意はできたんだが、今夜は特別料理なんでね。せっかくだから、全員揃うのを待つことにしようか」
 さり気なく、しかし断定の口調で友雄は告げた。
 「ハハア、八牧氏がそうおっしゃる以上、相当に風変わりなものが供される、ト、期待して良いんでしょうナ」
 阿諛するふうに紅紫が受けたが、友雄はにんまりと笑い掛けただけでそれ以上は触れず、厨房へ引っ込んだ。入れ代わりに、あでやかなイブニングドレスを身にまとった女給の隷子と憂子が現れる。
 こうして、《退屈倶楽部》の猟奇の夜が幕を開けたのである。

     

 二人の女給が運び込んできた女の生首の人形には、「お密」という名前がつけられている。彼女は髪を逆立て、苦悶の表情を露わにして、ことにも口は断末魔の絶叫を放つかの如く大きく開かれている。
 「コラ、お密! 手前、舐めた真似をするんじゃないぞ。いいな」
 テーブルの上に置かれたお密に向かって壮太郎は妙に感情を込めて怒鳴ってから、彼女のザンバラ髪を鷲掴みにし、頬を張った。
 「判ったか」
 そして生首を傾けると、お密はその口から喀血するように赤黒い液体を吐き出し、壮太郎はそれを各自のグラスに注いで回った。食前の赤葡萄酒なのである。
 お密は壮太郎が特注して作らせた容器で、その背景にはこっぴどく振られた女への意趣返しの意味が込められているらしい。多分に芝居がかった行為もいつものことだから、誰も気にかけない。
 「それにしても久し振りの特別料理とは、これはまた楽しみですナ」
 葡萄酒で濡れた髭を拭いながら紅紫がまた云い、一同は微苦笑を浮かべた。
 八牧の数多い猟奇趣味のなかでも、最も熱心に取り組んでいるのが悪食なのである。日夜研究と試作を重ねて、満足のいくものが出来ると早速、《夢殿》へ集う《退屈倶楽部》の面面に供してくれる。それは無論、同志に対する好意からだが、たしかに見掛けや原材料を聞いてゲンナリしたものが食べてみると素晴らしく美味しい、という幸福な発見もあるものの、ただひたすらグロテスクなだけの結果に終わることも珍しくはなく、いささか有難迷惑の節もあった。
 「まあ、ご心配遊ばさなくても、おめでたいお正月ですもの、まさか犬や猫の肉ということはありませんわよ」
 執り成すように隷子が云った傍らで、今仁が変な声をあげた。
 「そやそや、そない云うたら、新開地の食堂の安いとこは、ホンマに犬猫の肉、使とおらしいですデ。なんや、同僚がよその外交員に聞いて来よったんですけど、広告もらいに行ったのに誰も出てけえへん。しゃあないさかい裏へ回ってみたら、調理場で店員が総掛かりになって犬を殺してたテ」
 「ナルホド。やれ半額奉仕だ、それ食べ放題だと、過剰なサービス合戦を繰り広げる裏には、当然そういう工夫があって然るべきですナ。この分では、半額提供のときの麦酒には小便が混ぜてあるかも知れませんネ」
 紅紫が愉しそうに話を受ける。
 「デ、それは一体どこの店のことですかナ。ハナヤ、大安、日之出庵、やっこ、丸越、花安、あこ新、労資倶楽部食堂、八百丑、はたまた楠水……」
 朗朗と歌うように食堂の名前をあげつづける紅紫の傍らで、憂子が眉をひそめて呟いた。
 「いやだ、お食事ができなくなってしまいますわ」
 彼女は本当に、込み上げてくる吐き気を押さえているようであった。
 《夢殿》へ出入りする女給には、友雄が勝手に源氏名をつけるのが習わしになっている。従順で、男の云いなりになって騙されてばかりいる女が「隷子」、心配症で取り越し苦労の絶えない女が「憂子」といった具合である。
 「喰えないぐらいは大したことじゃない、食堂にはそれ以上に気をつけなければならないことがある」
 やりとりを侮蔑するような面持ちで聞いていた市来壮太郎がおもむろに口を挟んできた。青白かった顔が二杯の葡萄酒で火照るかの如く紅潮している。ふだんはあまり口を利かないが、こうなると半ば絡みながらうるさいのである。
 早くも座りかけた眼を、かれは憂子に向けた。
 「それはね、便所だ。便所。いいかね、ご不浄に立ったまま、席へ帰ってこない婦人がチョクチョクいるんだ。そんなことは、家族連れで来ている人には絶対に起きない。残された者が探すのに決まっているからな。やられるのは大体、君たち女給なんだよ」
 「あら、どうしてなんですの」
 「心当たりがあるんじゃないか。気に入らない客に食事を誘われて、いい加減にあしらったことが」
 ネチっこい口振りで云いながら、壮太郎はまたお密の髪を掴んだ。
 「おおかた便所の裏にからくりがあって、用を足し終えた女をそのままかどわかすんだろうな。待たされたままの旦那は、逃げられたと思ってカンカンに怒って帰ってしまう。サア、これで行方不明者の一丁上りだ。そのうちの一人は、かわいそうに、上海で両腕両脚をもがれた哀れな姿で見世物になっていた、と云うんだがね」
 「まあ……」
 「それは極端としても、ウチの遊郭にだって、そんな経路を辿って売られて来た娘がいるぜ。だから、食堂で便所に行くときには、せいぜい気をつけてな」
 憂子が真顔で怯えるのを見て、壮太郎は満足そうに頷いた。
 「この華やかな新開地だって、一歩裏へ回ればとんでもない悪党が跋扈している、ということさ」
 「悪党というのとは、チト趣を異にしますガナ」
 紅紫もまた特有の芝居がかった口調で割って入ってきた。
 「妖異なる化け物が真夜中の新開地を彷徨しておる、ト、そんな噂をわたくしは小耳に挟みましたがネ。いや、といっても実はみなさんよくご存じのもので、昼間見る分にはどうということはないんですが……お聞きになったことはありませんかナ」
 思わせ振りに告げて、一同をぐるりと見渡す。そうしてたっぷり時間をとってから、紅紫はおもむろに口を開いた。
 「ホラ、衛生薬局の標本人形なんですヨ。アレが人の寝静まった深夜、大時代な黒マントを羽織ってユラユラとほっつき歩いているのですナ」
 演出の効果はあって、一同の間に嘆息の声が洩れた。女給たちは顔をしかめたが、今仁などは好奇心を露わにして膝を乗り出している。
 衛生薬局の人形なら、福原の市電通りを歩けばいやでも眼に入る、一種の名物であった。それは全国的に悪名を馳せた「有田ドラッグ」の亜流で、本家同様、花柳病の恐ろしき疾病に蝕まれた人形を店頭に置いて薬の購買を煽り立てるのだが、ここのは二番煎じだけあって、その見せつけかたがなんともエゲツなかった。坊主頭の壮年男性を形取った人形が表通りに面した飾り窓のなかに立てられているのだが、全身がこれことごとく病巣で、異なる症状を呈している、という趣向なのである。
 顔面には赤茶けたボツボツを浮かべた大きなできものが多発している。ことに鼻のまわりではそれは幾つも繋がりながら鼻柱より高く発達し、鼻の穴は完全に塞がれてしまって見えない。その他、顎に二つ、眉に沿って三つ、親指の先くらいの腫瘍があり、小さな突起物に至っては数えきれないくらい吹き出している。
 腕は斑点が一面に浮かび、先のほうではそれらが重なり合って、どす黒く鬱血したように見える。胸部から臍のあたりまではかさかさに乾いたかさぶたが広がるが、腹から下では白く膨らんだ皮膚が膿を孕んでいて、ところどころで濃い紫いろのそれがどろりと流れ出ている。剥きだしの性器はその膿に全体が覆われて、というよりむしろ、男根そのものが溶けて崩れながらかろうじて繋がっている態であった。
 むろん、売らんがために症状を大袈裟に誇張してあるにちがいない。しかし衛生薬局の商法はそれとして、その人形が生を得て、歩き回っているとは。
 「そう。あの人形なんですナ」
 髭の先を摘むと、紅紫は一座を睨みつけるように見渡した。
 「それでなくとも、黒マントに身を包んだ異様な風体の人物にフト気付いてご覧なさい、これは当然注意を引きますナ。デ、見るともなく見ているうちに、段段と近付いてくる。やがて、薄闇のなかにも顔が識別できるくらいのところまで来ると、オヤ、と思う。見覚えがあるのですヨ。そりゃそうでしょう、あの人形ならお馴染みですからナ。でも、咄嗟にはそうは頭が回らない。知り合いだったかしら、ナンテ、会釈のひとつもしてご覧なさい、彼氏、待ってましたとばかりにニンマリ笑ってマントを脱ぎ捨てる。ト、下は一糸まとわぬ真っ裸だ、できものだらけの肌をなすりつけるようにして、そのままワアーッと抱き付いてくるッ!」
 次第に声音を高めていって、最後は叫ぶように云いながら、紅紫は不意に立ち上がると隣に座っていた隷子に向かって本当に抱き付いていった。
 絹の裂けるような甲高い悲鳴。それと同時に、逃げようとした隷子がテーブルクロスを引っ張ったので、グラスや灰皿、花瓶など、その上に乗っていたものが倒れ、ぶつかり合い、割れて周囲へ散乱した。お密もひっくり返って残っていた葡萄酒がこぼれ、その周囲の絨毯は血の海の如き惨状を呈した。
 「……紅紫センセ、ちょっとやり過ぎやおまへんか」
 安背広に返り血を浴びた態の今仁が、ハンケチで葡萄酒を拭いながら文句を云う。そのとき時刻がちょうど七時になって、髑髏時計が苦しげに呻きながら真っ赤な舌をゆっくりと突き出し始めた。

     

 一連の騒ぎを黄金仮面の後ろの部屋で見ていたにちがいない、八牧友雄は不思議なくらい機嫌よく現れると、女給ともども後片付けにかかった。そうして、室内がすっかり整って新しいテーブルクロスが掛けられたとき、専用の出入り口を定められた暗号通りノックする音が響いた。近くにいた今仁博輔が行って、カーテンの奥の扉を開く。
 そこには、黒眼鏡にベレ帽という出で立ちの見知らぬ紳士が立っていた。
 「あ……あの、すんまへん、ここは一般のお客さんは入れませんねン。『黒薔薇』やったら、あの角を右へ折れてもろうて……」
 今仁が戸惑って断ろうとするのを、紳士は手を振って遮った。
 「いや、『黒薔薇』なんかに用はない。《夢殿》で《退屈倶楽部》の猟奇趣味に浸りたいのだ」
 「えッ、そ、そんなこと云われても……ちょっと、八牧さん、お客さんなんやけど、聞いてくれまへんか」
 「なに、オーナーにわざわざお出まし戴かなくても良い」
 妙にくぐもった声で云うと、紳士は勝手に室内へ入り込んできた。
 緊張した空気が一瞬、《夢殿》のなかに漂う。だが、葛城紅紫が大きな声で吹き出して、それを打ち破った。
 「コレハコレハ、また一体どうなさったのですかナ、御堂さん」
 「な、なんやて、御堂さんて……それ、ほんまでっか」
 今仁が甲高い声をあげたのと同時に、紳士も膝を折って笑い始めた。
 「うむ。具眼の諸氏を僅かとはいえ欺くとは、我ながら上出来だったな。いや、変装して街を歩くのはなかなか乙なものだぜ。ぜひお勧めしたい」
 云いながら、ベレ帽、黒眼鏡、付髭、そして含み綿と取ってゆくと、見慣れた御堂幸吉の姿が現れた。
 「ようこそ。さすが新年初の《退屈倶楽部》だけあって、みなさん、こちらが準備した以上の趣向を心掛けて下さっているようだが」
 八牧が嬉しくて堪らぬ様子で語り掛ける。
 「しかし、御堂くんともなれば当然、単に変装で驚かそうというだけではない、と期待していいんだろうね」
 「もちろんだとも」
 幸吉もまた、ひどくウキウキした態度でそれに応じる。
 「今夜は珍しいお客さんをお連れしたんだ。それも、二人ね。そしてかれらを軸に次回の《血祭》を催すことを、謹んでここに宣言する」
 自信満満のその云いかたに、壮太郎も紅紫も今仁も、一様に幸吉を注視した。
 《夢殿》といい《退屈倶楽部》といい、かれらのやっていることは要するに乱歩の短篇「赤い部屋」の真似ごとなのである。最初は小説のとおり、真っ赤に装飾した部屋で探偵小説談義をしただけでもゾクゾクする快感が得られたのだが、次第に刺戟が乏しくなってきたので、各自回り持ちで猟奇の趣向を凝らした別世界を作り上げて案内するという《血祭》を随時開いて、《退屈倶楽部》最大の楽しみとしている。その名称は、生贄を殺し、その血で神を祭るのが本意ながら、血を見ることは必ずしも求められない。ただ、刹那たりともこの深い退屈を忘れさせてくれるならば、というのが趣旨であった。
 さて、と云って、幸吉は外に待たせてあった二人を招じ入れた。当初、頬被りで顔を隠した大男がヌウッと現れたので今仁がびくりと大仰に身を引いたが、その後ろにいる女性の姿を認めると、意外の声が座から洩れた。かつてこの《退屈倶楽部》の常連だった、しかし既に足が遠のいて久しい園村志津子だったのである。
 冬外套を憂子に向かって乱暴に放り投げると、洋酒棚のまえにひとつだけ置かれた「人間椅子」を彷彿とさせる大きな革張りの肘掛け椅子に志津子は腰を下ろし、脚を組んで煙草に火を点けた。
 「まったく、久し振りに声を掛けてきたと思ったら、小詰らないことを企んでるんだから。御堂クン、あんた一体いくつになったというの」
 紫煙とともに志津子は不機嫌に言葉を吐き出した。
 「あっちへ行けの、こっちへ来いのってウロウロさせたのは、あたしと務代クンを鉢合わせさせるためだったのね。かわいそうに、あの子、幽霊でも見たような顔をしてたわよ。せっかく正気を取り戻したというのに、またおかしくなったらどうするつもりなの」
 「いや、それがまだ実はまともじゃないから愉快なんだ」
 お密の首根っこを掴んで赤葡萄酒を注ぎながら幸吉は云い、満面に笑みを浮かべた顔を一座に向けた。務代亮のことは何回も話題になったから、全員弁えている。そのかれが永い間の記憶喪失から覚めた、と経緯を説明したうえで、幸吉はひとり思い出し笑いに吹き出した。
 「なんですか、いやに思わせ振りではないですか」
 「失礼、そういうつもりじゃないんだけど、面白くって」
 嫌味を云う紅紫に手を振りながら、幸吉はまたひとしきり笑いつづける。
 「いやあ……なにしろ、なにがどう捩じくれたのか、亮は志津子と相思相愛の関係でいると妄想してるんだよ。そして、あの破局は怪人に襲われたからだと……それだけじゃない、最高に傑作なのは……」
 そこでまた笑いの衝動に見舞われて、台詞がとぎれる。志津子は怖い顔をして、二本目の煙草をくわえた。
 「乱歩だと云うんだ、その怪人が。亮の最愛の恋人・志津子を乱歩がかどわかしたうえで、なにくれと挑発してくる。……実は以前一度、亮は実物の乱歩を見掛けてるんだが、そのときなにか感銘を受けたらしいんだな。一時熱に浮かされたように乱歩の作品を読んでたよ。その記憶が歪んで覆い被さってるんだろうな」
 葡萄酒を一気に傾けると、幸吉は立ち上がった。
 「サア、亮自身がここまで趣向を用意してくれたんだ、これを発展させて一大探偵巨篇に仕立て上げるのは、もはや我われの義務と云わねばならない。そこで、紹介しよう」
 云って、幸吉は大男の頬被りを取った。
 「アッ」
 「オヤ……これは、乱歩センセ……いや、わたくしはお写真でしかお顔を拝見したことはありませんがネ……」
 今仁と紅紫が思わず言葉を発し、友雄も感心したように腕組みをして見入っている。
 そう。そこには乱歩がいた。乱歩はにやりと笑うと、一人一人に丁寧な会釈を寄越す。
 「どうだい、よく似てるだろう。探すのに苦労したんだぜ。毒島くんというんだが、まあ、名前はどうでもよろしい。かれが今後、我われの作品の主人公を勤めてくれる」
 自慢げに告げる幸吉に、園村志津子が苦苦しげな言葉を吐き棄てる。
 「なおってないよ、その癖。務代クンはそのせいで危うく生命を落とすところだったのよ。また同じことを繰り返すつもりなの」
 強いその口振りに、幸吉は思わず首をすくめた。
 かつて、幸吉との間が親密だった頃、志津子はかれに唆されて亮をからかったのである。彼女は我儘で意地悪な性格ながら、細面の顔立ちからは一見楚楚とした風情が漂う。そこに一目惚れした亮に対して、その気もないくせに思わせ振りな仕種で接しつづけたのだ。純情な亮がころりと騙されるのがたしかに最初は楽しかったが、あまりに一途な思い入れが恐ろしくなってきて、かれにお化け人形を手渡したことがある。二人の関係はからくりに過ぎないことを云おうとしたのだが、もうそのときには通じる気配もなかった。そうするうちにますます思い詰めた亮は、遂に無理心中を仕掛けてきた。明らかに異様な雰囲気に、勧められた麦酒を志津子は呑むふりをしただけだったが、亮はひと息に煽って直ちに人事不省に陥った。……
 「まあまあ、それじゃあ遅くなったが、特別料理を味わって戴くことにしようか」
 険悪な空気が流れたなかへ友雄が割って入った。さっきからしきりと左手の指輪を口に近付け、虹彩の部分を舐める仕種をつづけている。それはかれが興奮したときの癖だった。冷静を装っているものの、幸吉の持ち込んだ趣向に昂ぶっているのだ。
 女給が厨房へ戻り、料理を運んでくる。最後に白く長いコック帽を被った料理長の臼杵が姿を現した。大柄で骨太の、しかし表情にどこか哀しげにいろを刻んだ寡黙な老人である。
 「ええ、前菜は茸の炒めものにチーズを添えてあります。主菜はソーセージです。また、暖かいスープもたっぷり用意しましたから、どうぞごゆっくりご賞味ください」
 そっけない説明を、友雄は満足そうに聞いている。
 実は、前菜は男女の性器をあしらっているのである。茸は男根と睾丸の形そっくりに生えたものだが、適当なものを人数分探すのに一体どれほどの量を買い込んだことか。それを怒張したときの明るい狐いろに仕立て、根もとの部分には陰毛代わりに松葉を敷いている。また仏蘭西特製のチーズは形状のみならず、匂いまでそっくりという逸品であった。さらにソーセージは血の腸詰めだし、スープもまた鴨の血に具を入れて暖めたもので、すべては友雄の悪食趣味の結実に他ならない。かれの勝手な思い付きを、臼杵が律義になんとか食べられるよう工夫してくれているのだ。
 眼前に供された特別料理から顔を上げて、乱歩役の毒島はゆっくりと周囲を見渡した。その表情には曰くありそうな色が浮かんでいる。
 乾杯のための酒が注がれつつあるなか、突然、電気が消えた。
 「おや、停電だね。待ってくれたまえ」
 友雄が落ち着いた声で云って、すぐに蝋燭に火をつけた。ユラユラと蠢く炎は、何故か部屋の隅に立てられた生き人形を浮かび上がらせた。
 「クスッ」
 闇のなかに、微かな笑い声が横切った。
 と、次の瞬間、いままで澄ましていた生き人形の顔が崩れ、ケラケラと笑い始めた。同時に電気がついて室内は明るくなった。友雄が立って、生き人形を演じていた女に手を差し延べた。
 「ご紹介しよう。今度新しく入った女給の魔子だ」
 「よろしくお願いします」
 挨拶した魔子はまたケラケラと笑った。あたかも《退屈倶楽部》の悪趣味を嘲笑するかの如くに。

《第一章 怪人の創造/了》


掲載 1999年11月9日