第二章

お化けの賑わう夜

     

 「し・づ・コ・は・お・ば・け・ノ・ナ・か・に・居・る」
 新聞や雑誌の記事から引き千切ったにちがいない、一字一字書体も大きさもバラバラの活字を張り合わせたその手紙をまた見て、務代亮は深い吐息をついた。
 正月からもうひと月が過ぎようとしている。だが、我を取り戻したとはいうものの、かれの意識は本質的には依然として半ば夢うつつのなかに在った。意識は常に志津子を求めている。その願いはあまりに強く、半面、かれはあまりに非力であった。ただひとりで焦り、泣き、苛立つことしかできない。それが昂じてゆくと、脳裡が突然真っ白になる感覚が襲ってきて、しばらく記憶がとぎれてしまう。一、二時間で回復することもあれば、なにも知らぬまま数日を過ごしたときもあった。そして意識が戻ってくるや否や、早速愛しい志津子に思いを馳せる。御堂幸吉は捜索と称して毎日出歩いているが、なにひとつ成果を持ち帰ってくれてはいない。
 (やはり、自分で探しに行かなければ。この前も、新開地の雑踏のなかで志津子さんを見掛けたのだから。…………いや、あれは志津子さんではなかったのだろうか)
 通常の朝の目覚めなのか、それともまた失神からの帰還だったのか、気がついたあと例によってぼんやりと考えているとき、枕もとでカサカサという音がして、亮はその手紙を見付けたのである。
 「ん……し・づ・コはおばけノ…………志津子は、お化けの中に居る……な、なんだって」
 亮は飛び起きた。「お化け」を「幽霊」と解釈し、志津子は既に死んで亡者のなかに紛れている、と読み取ったのである。
 「あ。ああ。志津子さん。ぼくのせいだ、ぼくが悪かったんだ」
 激しい自責の念に布団に突っ伏して髪を掻き毟っているところへ、大声で気付いたとみえて幸吉が顔を出した。取り乱しながら問われるままに事情を説明すると、かれは亮の嘆きを一笑に伏した。
 「馬鹿だなあ。『お化け』って、節分のお化けじゃないか。あの仮装行列のなかに志津子さんを連れていくから、救えるものなら救ってみろ、という、これは乱歩の挑発だよ。いかにもあいつ好みの演出じゃないかね」
 「え……」
 いっぺんに気抜けして、亮はその場に座り込んだ。
 そういえば、あれは色町の年越しの儀式なのだろうか、年に一回、寒いころ、「楠公さん」の愛称で親しまれる湊川神社から福原を経て新開地を大勢の人びとが賑やかに練り歩く、そのお祭り騒ぎのことをたしかに「お化け」と呼んでいた。
 (節分の日、とうとう志津子さんに巡り逢うことができる)
 放心した脳裡で同じことを何度も繰り返して反芻するうち、たちまちその当日の朝となった。
 「し・づ・コ・は・お・ば・け・ノ・ナ・か・に・居・る」
 もうヨレヨレになってきた手紙をいま一度確認し、亮は朝日の眩しい硝子戸の外へ眼を向けた。
 どういういわれがあるのか判らないが、色町の「お化け」はふだんとは逆の風体をすることに意義があるらしい。男は女に、女は男に。生娘は年増に、老人は若者に。それぞれ属性を逆転させて「化ける」習俗なのである。だから、幼い顔立ちの丸髷姿や、喉仏が突き出したうえに髭の剃りあとが青青した芸妓、張り詰めた高島田を結い、鮮やかな赤の晴れ着をまとった老婆などが、福原の遊郭からぞろぞろと出てくる。
 最近ではそれが色町の外にまで及ぶとともに、仮装の豪華を競う趣きを呈し、春の到来を喜ぶ祭りとして賑わいを見せていた。
 朝食もそこそこに務代亮は御堂屋敷を出、新開地を横切って楠公さんへ向かった。沿道には既に思い思いの衣装を凝らした野次馬が集まって来ている。
 「お化け」の本体を先導するのは福原の本職の芸人らしく、鳥追姿や髭奴、女の幇間など異様な格好ながら、三味線、鉦、太鼓を奏でる技量はたしかなもののようであった。かれらは楠公さんにうやうやしくお参りをすると、群衆をまえにして大声を張り上げた。
 「おばーけヤ、ちょうさヤ」
 すると、それにつづく仮装姿の人びと、さらには道傍や空き地を埋め尽くした野次馬たちも唱和して、囃子ことばが周囲に響き渡った。
 「おばーけヤ、ちょうさヤ。おばーけヤ、ちょうさヤ」
 そうして「お化け」は湊川神社西門筋へ入り、福原へ向けて動き始めた。
 (志津子さん……)
 休日の新開地本通りでさえ比較にならぬくらいの凄まじい混雑のなか、亮は懸命に恋しいひとの姿を求めた。だが、押されたりこづかれたりぶつかったり、或いは戻され、時には倒れかけたりして、捜索はもとより容易ではない。のみならず、視野のなかを埋める人たちはことごとく意匠を凝らしていて、素顔は見えにくい。志津子も果たして、特別の装いをしているのだろうか。
 「おばーけヤ、ちょうさヤ。おばーけヤ、ちょうさヤ」
 独特の調べが何回も何回もワンワンと鳴り響くなか、異形の群れに紛れて、亮はほとんど茫然とした。
 赤穂浪士の四十七士に扮した行列がある。「金色夜叉」の間貫一・お宮がいる。八百屋お七がいる。歌舞伎の大仰な装いをした集団がある。七福神が見える。獅子舞いが練り歩く。……およそありとあらゆる扮装をした人の群れのなかでも、他とははっきりと違う格好に身をやつした六人が、右往左往する亮の背後を付かず離れずで追っていた。
 「アカン、手足がかじかんで感覚が無うなって来よった。もう良えかげん堪忍しとくンなはれな」
 レビューの踊り子の格好をさせられた今仁博輔が弱音を吐いた。蝶を形取った意匠はきらびやかだが、それは胴体部分しか覆っていないほとんど半裸体なのだから、二月のこの寒空のもと、我慢できないのも無理はない。だが、黄金いろにきらめく仮面に同色のマントという派手な出で立ちの御堂幸吉は言下に今仁の云い分を却下した。
 「なに寝言をほざくんだ、本番はこれからじゃないか。寒さくらいのことでこの猟奇事件をむざむざ見逃すなどは、《退屈倶楽部》からの除名に値するぞ」
 「エ。そ、そんな……」
 今仁はかぼそい声で呟き、素肌を晒す両腕で胸を押さえた。黒蜥蝪を模して全身黒ずくめの女賊に扮した市来壮太郎が冷笑してそれを見る。
 「オヤ」
 と、不意に葛城紅紫が怪訝そうな声を上げた。かれは明智小五郎に扮したと称しているのだが、ただ背広を着ただけのことで、しかしふだん羽織り袴をきちんと身につけたところしか見たことがないから、かえって最も変装したという雰囲気を醸し出していた。
 「アレですけどネ」
 かれは人混みの一点を指差した。
 「アララ……紛れて見失ってしまいましたヨ。……イヤ、実はいま、料理長の臼杵氏を見掛けたように思ったんですけどネ」
 「ああ。臼杵なら来ていても不思議はないさ」
 なんだ、という顔付きで片眼鏡を押し上げながら八牧友雄が云った。かれは立ちカラに蝶ネクタイを締めたタキシード姿で山高帽を被り、怪盗ルパンを気取っている。
 「いや、むしろ来ないほうがおかしい、というべきだな。なにしろかれは、土手跡に相生座が出現して以来という生粋のカイチマンなんだ。いまでも一日一回、雨が降ろうと夜が遅くなろうと、湊座の角から公園まで往復しないと気がすまないと云うぜ」
 「ヘエ。人はなかなか見掛けに寄らないものなんですナ。いかにも律義そうなんですけどネ」
 紅紫は妙に感銘を受けたように呟いた。
 「おいおい、そんなことを云ってると怒られるぜ。カイチマンはなにも、ズボラやチャランポランの同義語じゃないんだから」
 「イヤマア、それはそうなんですがネ。ハテサテ、それにしてもいつまで待たせるんですかナ。そろそろ始めませんか」
 「そうだね。あまり長く緊張させておくと、神経的に参っちゃうよ」
 紅紫が云ったのを友雄も肯定したので、亮を焦らして楽しんでいた幸吉も納得し、振り返って、平服ながら大きな頬被りをして顔を隠した胡乱な大男を見た。
 「よし、行くか。じゃ頼んだぜ、毒島くん」
 その言葉に応じて大男は、手ぬぐいを取り去った。《志津子》を誘拐した怪人《乱歩》が現れる。《乱歩》はなにも言葉を発さぬままふてぶてしく笑うと、軽い仕種で雑踏のなかへ身を投じた。
 「おばーけヤ、ちょうさヤ。おばーけヤ、ちょうさヤ」
 囃子の声はいよいよ熱を帯び、人びとの狂乱めく勢いを呑み込んで反響しつづけている。「お化け」は福原の中心で共立検の芸妓たちを混えた遊芸にひときわ盛り上がりを見せたあと、松浦楼の横筋を抜けて新開地へ出た。そこにはカフェーが女給を総動員して変装を凝らした舞台が待ち構えていて、華やぎはさらに高まった。いなせな祭りの姿、花見道中の装い、花嫁花婿の群れ、と、さすがに美形を誇る女性たちが、籍を置く店の名を染めぬいた幟の下に何人も群れ集っている。
 人波に流されるまま跛行しながら少しずつ進むことを繰り返しながら、務代亮はなんだか酔っ払ったように意識が半ばぼんやりと拡散しかけてきた。このまま、やがて頭のなかが真っ白になって、正気はまた遠いところへと逃げてゆくのだろうか。……
 そのとき、誰かが亮の肩を叩いた。夢のなかで足を踏み外したときのように、ガクンと落差の大きい衝撃が走る。だが振り返ったかれは、それ以上に激しい驚きに襲われた。
 乱歩!
 坊主頭の大きな顔。切れ長の眸には不気味な光を、口もとには不敵な笑みを浮かべて、乱歩は亮を見下ろしている。
 「あ……」
 志津子さんを返せ! と大声を張り上げたつもりだったが、「お化け」の囃子がうねるように押し寄せてきて、それをあっさりと掻き消してしまう。乱歩もまたなにかを告げたが、亮の耳にまでは届かない。
 と、乱歩は不意にきびすを返し、人びとが折り重なるなかを掻き分けて逃げて行った。一瞬の空白のあと、亮もあわててそれを追った。

     

 「お化け」に参加する人、見物する人、人・人・人・人・人でいっぱいのなか、どこをどう進んだのか、亮は無我夢中で気にも止めなかった。ただ懸命に動かしつづけた腕がふと空を切ってあッと思ったとき、乱歩は細い路地を高笑いしながら走り去っていくところであった。こけつまろびつ、それを追う。乱歩が角を折れたところにまで着くと、視界がふいに開けた。
 「えッ……」
 刹那、異界へ侵入してしまったかの如く、亮は凍りついた。だが落ち着いて見ると、そこは市電通りなのであった。ただ、人がことごとく「お化け」のほうへ出向いてしまったせいで街はいつになくガランとし、いまにも雪が舞ってきそうな低い黒い曇天に覆われて、ひどくよそよそしかった。まして、明らかに記憶に残る像とは違う異形の聚楽館が視野の隅に居座っているからには。かれは絶叫しそうになった。
 市電通りを南へ渡った乱歩は振り向き、ニヤニヤ笑いながら亮に向かって手招きをして見せる。逃げおおそうとすれば幾らでもできるのに乱歩はそうはせず、飽くまで亮をからかう魂胆なのである。亮が近付いてくるのを確認して、乱歩はまた走り始める。
 昔ながらのしもたやに小さな商店、そして所どころに低層のビルヂングが建つゴミゴミした一角であった。亮はそれとは知らないが、ここは新開地本通りと福原とに隣接した、「カフェー黒薔薇」のあるあの影の街だったのである。
 追跡の行動をとろうとした、そのとき、なにかが落ちた。ビクリとして下を見ると、お化け人形であった。志津子から貰った、いまとなっては彼女との間を繋ぐ唯一の絆である。亮は乱歩のことさえ忘れてしゃがみ込み、それを取り上げた。
 人形を手にした瞬間、ドン、と強い力が全身に走った。物理的なものではない。それはむしろ神経に強い影響を及ぼしたようであった。
 眼をつむり、深い息をして、かぶりを振る。それから恐る恐る周囲に視線を向ける。
 「うッ」
 思わずかれは声を洩らした。
 世界が、僅かの間にその様相を明らかに変えている。
 ことにもたったいま味わったばかりの強い違和感がすっと溶け去るのを亮は感じ取った。なになのだろう。いつもの街、とりわけ新開地の派手派手しい装いの裏に潜む悪意が、いまは不思議に感じられないのだ。目覚めてから初めての感覚であった。
 陽は醫っていよいよかそけく、まだ午にもならぬのに夕暮れめく昏さが街を覆っている。のみならず、光は見る間にその輝きを失っていった。急速に湧き立った靄が周囲いっぱいに広がったかの如く、視界はたちまち曖昧に混濁した。
 (……ぼくはなにをしているのだろう)
 光景と同様、思考もじんわりと拡散してしまって、とりとめがつかない。ただ、なにか激しく希求するものがあった気はするが、それさえ定かではない。
 靄はいまや薄墨を一面に流したかのような黒い霧と化して亮を取り巻き、ねっとりと粘りつく感触で肌をなぶっている。といってそれは決して不快なものではなく、いやそれどころか心の奥のほうから陶酔を引き出してくるかのようであった。
 千鳥足で亮はフラフラ歩く。
 視野は既に濃灰いろの闇に占領されて、ただそのなかにしきりとチラチラ横切る白い小さな点がある。それに気を取られると、動きはさらに活発になった。点は速度をつけて飛び、繋がって、アッと思ったときには、そこにひとつの眺めを現出させていた。
 ……いつかまた明るみが戻ってきたが、ただひたすら白濁した霧のなかへ拡散するばかりで、まわりの光景は一向に定かではない、そのなかに一軒のしもたやだけが変にはっきりと浮かび上がっている。それを認めた瞬間、亮は曇った硝子戸を開けていた。不思議な引力に導かれたかの如く、何も考えぬままの衝動的な動きであった。
 そこは小物を商う店舗であるらしかった。天井の高さにまでものをぎっしり詰め込んだ棚が所狭しと並べられていて、重みで床が傾ぎ、歩くと音を立てて撓った。電灯はなく店内は暗いが、視線を送った先だけが不思議に見えるようになるのだった。
 亮の眼の前の一角に集められたのは、石だった。赤・青・緑・紫・橙など、鮮やかな原色に輝く沢山の石に混じって、見慣れぬものが点在していた。虹のかかった根元で採集された《虹石》は、微かな七色の光をキラキラ輝かせながら外へ放ちつづける。闇のなかで自らぼんやり発光する《夜光石》。内部に水を孕んで、小さな魚を泳がせている《海石》。《星の破片》はどす黒くくすんで、空の高みにあったときのきらめきは喪われていた。……説明を受けたわけでもないのに、それぞれの属性は即座に理解できた。
 眼を転じると、長短さまざまの刀を集めた棚がある。凝った装飾を施した時計を集積した棚がある。由緒のありそうな遠眼鏡の群れがある。その他。鏡・勲章・貨幣・書籍などなど、狭い店内にありとあらゆるものが陳列されている。これらの蒐集を次から次へと惚けたように見て歩いた亮は、突然そのものに気付いて、はっと身をのけぞらせた。
 それは一体なになのだろう。亮には見当も付かなかった。ただ、理屈抜きにひどく惹きつけられるものがあって、かれはじっと見入った。
 差し渡し三、四尺ほどもある大きな水滴、というのが外形を最もよく説明している。ただ輪郭は定かではない、というより、それは周囲で空気や触れるものと溶け合って、揺らめきつづけるかのようであった。のみならず表面は透明ではなく、絶えず模様が流れている。その形状は判別がつくものに纏まりそうで、なかなか纏まらない。ただ、眺めていて飽きるということがない。没入するうち、そのものは次第に懐かしい調べを奏で始めたようでもあった。
 「貴君には、《夢の結晶体》が見えるんですな」
 不意に声を掛けられて顔を向けると、そのものの傍らにいつの間にか大柄な老人が座っていた。和服姿で、美事な銀髪を丁寧に撫で付けている。親しみを込めた微笑みを浮かべるのだが、何故かその表情は哀しみに充たされて見えた。老人の背後には、「幻虚堂」と左上から右下へ達筆で彫られた木製の看板がかけられている。
 「夢の……結晶体、って、これのことですか」
 不定形のそのものを指して掠れた声で亮は問い、「幻虚堂」主人は静かに頷いた。
 それだけでかれは納得していた。
 人が死にその肉体が滅んでも、夢は消滅しない。夢は一面に於いて、現実の生を営む以上の情熱を傾けてはじめて成り立つものなのだから。
 遠い遥かな理想。将来に置いた目標。正しいものからよこしまなものまで、幅広くこころを捉える願望。なにかあるたびにそこへ戻って確認する希望。なにひとつ根拠とてない、しかしそれゆえに魅力的な空想。ただひたすら楽しく甘美なおもい。あるいは、ひとときの安らぎ。憂さを束の間忘れたくつろぎ。さらには、しがらみの檻からのより積極的な脱出。
 人びとが見残したそんな夢のくさぐさが集まり、繋がり、沈殿し、固まって、こうして形をなした。
 (《夢の結晶体》……)
 こころのなかで亮はその名を反芻した。
 ここ新開地にはことにも、数多の夢の残滓が揺曳しているにちがいない。盛り場へは誰もかれも、夢を見るために集まってくるのだから。
 (だから……)
 あらためて《夢の結晶体》を凝視した亮は、世界がふいと広がったことに気が付いた。ずっと違和感を抱き、突き刺すようなその悪意に悩まされつづけた世界が、いまは異なる位相を示している。もとより、いまはまだ漠然とした予感にしか過ぎないが、覚醒して以来はじめて、かれは期待を胸にした。
 「幻虚堂」主人がなにか喋っている。いや、かれはずっと言葉を発しつづけていたのだ。そのことを亮は突然悟った。いま、ひとりで判ったつもりになっていた事柄は、実は最初からあの老人が説明してくれていたのだろうか。そう思って主人のほうへ顔を向けた刹那、視界のなかが一閃した。
 「うわあああああッ」
 なにもない宙空へ放り投げられる感覚があり、次いで船酔いに似たいやな気分が襲いかかってきた。
 ……気が付いたとき、亮は白く侘しいひかりに彩られた寒寒しい街にいた。両手を膝について、ぜえぜえと粗い息を繰り返している。恐る恐る眼を開けると広い通りが見え、その先に嘘臭い聚楽館のビルヂングが、さらに遠くには湊川公園の高塔があった。
 (あれ)
 あわてて周囲を確認したが、「幻虚堂」の店舗はない。外観はいかにもそれに似たしもたやが立ち並ぶのだが、気持ちを惹きつけて止まない、あの独特の空気がまったく感じられないのだ。
 (……いまのは幻覚だったのだろうか)
 気抜けしてそう考えた亮を励ますように、ズボンのポケットでなにか動く気配がした。掌を突っ込んでみると、常に手放したことのないお化け人形の下に、グニャグニャした手触りのものがあった。
 「……《夢の結晶体》」
 亮は呟いた。
 半透明で輪郭のはっきりしない、表面によく見定めることのできない模様を蠢かせたものがそこにあった。「幻虚堂」で見たものの一部にちがいない。強い歓びの感情が籠み上げてきて、かれは顔を上げる。
 そのとき、
 「乱歩ッ!」
 思わず大声で叫んでいた。すぐ先の辻で坊主頭の大男が、不思議そうにあたりをキョロキョロと見渡しているのだ。と同時に、かれはここまでの経緯を一気に思い出した。そして、幻虚堂での安らぎが嘘だったかのように、世界は依然凄まじいまでの悪意を剥き出しにして迫ってこようとする。
 亮を認めた乱歩はたちまちふてぶてしい笑いを取り戻し、踵を返して走り始めた。

     

 「しかし、妙ですナ。一体どこへ消えてしまったものか、見当もつきませんネ」
 葛城紅紫が太い胡麻塩の口髭をひねりながら何回目かの台詞を口にするのを、今仁博輔が怨めしそうに見た。例の蝶の衣装姿のまま、素肌の両腕で自らを抱きかかえ、歯の根を慌ただしくカチカチと鳴らしている。唇は既に紫いろになり、ぬぐってもぬぐっても鼻水が出てくる。お化けの群衆のなかにいてさえ肌寒かったのに、いまはがらんとした街の一角に佇んでいるのだから、皮膚はもう感覚を失って久しかった。
 「しかし、亮が自らの意思でどこかへ行くことは有り得ないんだから……はてさて、一体何が起こったというんだろうな」
 黄金仮面の後ろから御堂幸吉が云った。くぐもった声音ながら、その口振りはひどく弾んでいる。
 かねて準備したとおり、亮を「お化け」に呼び出したうえで毒島扮する《乱歩》を仕向け、一連の追跡劇を《血祭》として楽しもう、という趣向で、うまく滑り出したものの、市電通りを渡ったところで肝心の亮の姿が忽然と見えなくなってしまったのである。予想だにしなかった出来事だが、それはそれで幸吉に新鮮な刺戟を与え、かれはひどく浮かれていた。
 「変だね。隠れられそうなところはどこにもないんだが」
 周囲を一回りしてきた八牧友雄が片眼鏡の縁を押し上げながら云った。この裏はもう「カフェー黒薔薇」の店があるという一角で、あたりの土地柄には詳しいのである。
 「唯一気になるのはこの家なんだが、開かないしなあ」
 呟きながらかれは軒の傾きかけた廃屋に近付き、曇った硝子戸に手をかけた。しかし、それはびくともしない。といって、亮がなかへ入り込んで鍵を掛けた、という様子はない。人が出入りしなくなって久しい歳月のうちに、錠が錆び、溝が詰まり、つくりがひしゃげて動かなくなった、という風情なのである。
 「八牧氏はさっきも一番にこの家に駆け寄りましたネ。きっとなにか、曰くがあるんでしょうナ」
 いつもの軽い口振りながら、どこか詰問するかのように紅紫が訊いた。
 「うん。……といっても詳しくはぼくも知らないんだけれどもね、この家では昔、不祥事があったらしいんだよ。女を殺したうえバラバラにして飾り立てたとも、その肉を喰っちまったとも云われてるんだが、真相は藪のなかだ。ただ、それ以来ここは空き家のままで、誰も寄り付かない」
 「ああ、そういえばあったな、そんなことが」
 幸吉も口を挟んだ。ただし、こういう場合かれは話を面白くする癖があるから、云ったことが本当かどうかは判らない。それをどう受け取ったのか、友雄はにっこり笑って頷いた。
 「偶然だとは思うけれども、その家のまえでかれが消えたのがなにか気になってね」
 「そ、それはそれとして、ち、ちょっと一服しまへんか。な、なんぼなんでも、もう堪まらしまへんワ」
 そのとき突然、半裸体の今仁が大きなくしゃみを続けざまに三回したかと思うと、両手を重ねて哀願した。それに調子を合わせたかの如く、寒風がにわかに吹き荒んだ。のみならず、もともとどんよりと曇っていた空がさらに醫りを帯び、何かがバラバラと降ってきた。
 「雨? ……いや違う、雹ですぜ」
 紅紫が叫びながら、近くの軒先へ走って逃げて行く。
 「そ、そやさかい、云わんこっちゃない。もう、は、早いとこ……」
 今仁がかぼそい声で文句を云いかけたとき、雹は異常に勢いを増して、ザアアアアアッと落ちてきた。視界がたちまち白濁して、一寸先さえ見えなくなる。
 「おや。待てよ。なんだか様子がおかしいぜ」
 友雄が冷静に云って掌を上向けに差し出した。幸吉も黄金いろのマントを翻してそれに従い、すぐにその意味を悟って呟いた。
 「なるほど。……しかし、幻覚というにはあまりに生生しいな」
 そう。雹とおぼしきものは今も凄まじい勢いで叩きつけているのに、その下にいても痛くもなければ濡れもしないのであった。
 と、始まったときと同じ唐突さで、それは去った。節分の昼下がりの新開地裏の街が眼前には広がっている。
 一丁先の辻で手持ち無沙汰そうにしていた毒島がにやりと笑った。
 「お、いかん。亮くんの復帰だよ」
 友雄が目敏く見付けて云い、《退屈倶楽部》の一行は物陰に隠れた。
 不思議な中断はなかったかの如く再開された追跡劇、それを追ってかれらも新開地本通りのほうへ移動し始めた。
 「お化け」は、三味線を弾き、鉦太鼓を叩き、歌い、踊り、遊芸を娯しみながら、新開地本通りをごくゆっくりと南下してゆく。その人の群れを何回も掠めたり横切ったりしながら、亮は懸命に乱歩の後を追った。乱歩は敏捷だった。あと僅かで手の届きそうになる瞬間は何度でもあったが、それはことごとくあいての仕掛けたからかいに他ならない。時として亮は敵の姿を見失った。そんなとき乱歩はゆっくり休憩して英気を養ってくるにちがいない、再び亮のまえに現れたときには、これみよがしの挑発にますます力が入るのだった。
 ……いつか夕暮れが近付いて、本通りにネオンサインが点り始めた。劇場や食堂のギラギラする灯りが異形のお化けたちを浮かび上がらせて、夢は奇妙な形に捩じれてゆくかに思われた。
 人混みのなかでまた乱歩にまかれた亮は、湊座のまえに茫然と立ち尽くしていた。「お化け」の本隊はもうよほど進んできて、あと少しで新開地を抜けようとするところであった。
 「おばーけヤ、ちょうさヤ。おばーけヤ、ちょうさヤ」
 賑やかな囃子の声はとうに背景に溶け込んでしまい、もはや気に止まることもない。
 肉体の疲労が強まるとともに昂ぶりつづけた神経が反動で切れ、意識の空白のなかに亮はたゆたっている。乱歩のことも志津子のこともにわかに遠のいて、奇妙な幸福感がかれを充たした。いつか、かれはズボンのポケットに手を突っ込んでいた。《夢の結晶体》はほんのりとした暖かみを帯びている。それを握り締めると、おもいはさらに充足していった。
 そのとき、肩を叩かれる感触が伝わってきた。いやいや振り返ると、そこには大入道が立っている。ニヤニヤと粘っこい笑いを浮かべるこの男は、一体なになのだろう。
 冷たい風が吹き抜けると同時に、亮は正気を取り戻した。
 「乱歩ッ!」
 声を放つと同時に相手は駆け出し、亮はそれを追う。何度も繰り返したきた行為だが、今回は瞬発力が違った。見る間に亮は距離を詰め、伸ばした右手が乱歩のシャツの襟首を掠った。乱歩は振り返って驚いた顔を見せ、脚に力を込めた。
 「お化け」の本隊の通り過ぎたあとの新開地本通りは、いつになくガランとしている。そこを一直線に二人は走り抜けた。
 聚楽館を過ぎて北側へ入ると、眺めはさらに閑散としてきた。ネオンさえ疎らで、上弦の月が冴え冴えとした白いひかりを投げ掛けている。
 徐徐に追い上げて、あと少しのところにまで迫ったとき、様子を察知した乱歩は慌てた様子でとある路地へ飛び込んだ。胡散臭い酒場の点在する、幅一間もない狭苦しい道である。月光だけが頼りの薄闇のなかへ、乱歩はたちまち紛れていこうとする。
 「待てッ!」
 自分の声がいつになく野太いことにも気付かぬまま、亮は憎むべき怪人の後ろ姿に神経を集中させた。しかしその刹那、意識が異常に昂ぶりながら蒸発する感触があって、視界が一面白くなった。
 …………いつの間にか路地を突き抜けていて、そこはだだっ広い空き地であった。その一帯を曲馬団が囲った大きな天幕を月が白じらと照らしている。どこか遠くにはメリーゴラウンドもあるらしく、ジンタ楽隊の伴奏が漂ってくる。
 「乱歩」
 ふと放心しかけた意識を、亮はかろうじて取り戻した。
 天幕の布が破れた箇所があり、乱歩はそこへ逃れたのだろうと判断してあとにつづく。入ったところは舞台裏の場所とおぼしく、上演に用いる道具が無造作に放置されていた。玉乗りの玉が大小取り混ぜて幾つもある。そして、一輪車や高い梯子、綱、小判桶、セメン樽……。
 その空間の奥、闇がひときわ濃くうずくまったなかにキラリと光るものがあった。ハッと身を引いたときには、低い唸り声が伝わってきた。月のひかりがここまで射してくるのは、天幕を透けてのことか、それともどこかに隙間があるのだろうか。乳白色の彩りはさらにほんのりと明るんで、猛獣を入れた檻を浮かび上がらせた。虎、獅子、狼……それらの鋭い眼が亮に集中している。
 (志津子さんもこうやって囚われている)
 そのおもいは唐突に湧き上がってきて、かれの脳裡を占拠した。
 「志津子さんッ!」
 駆け出そうとした亮は、しかし両肩をがっしりした力で取り押さえられて、その場に転倒した。
 (また乱歩が妨害する)
 だが、身体を捻った亮が認めたのは道化師であった。赤と白の太い縦縞の衣装を身にまとい、ドーランを白く厚くぬった顔に特有の化粧を施している。星の模様を青いろに染めた眸。黄いろい丸いものを被せた鼻。大きく笑う形に口紅で仕立てられた口。
 道化師は踊るような足取りで亮の前に立ちはだかると、両掌を振って通せんぼの仕種をした。
 獣たちがいっせいに吼え立てる。籠ったその響きのなか、志津子の悲鳴が混じったのを確かに聞いた気がして亮は起き上がった。だが、道化師はすぐさま近付いてくると足を払い、よろけたところへさらに胸を突いてきた。言葉はいっさい発さぬまま、再び倒れ込んだ亮をかれは嬉しそうに見下ろした。ふざけた顔付きをしているくせに、その行為は悪意に充ちている。
 「じ、邪魔するなッ!」
 怒鳴ると同時に亮は腰をたわめて勢いをつけ、道化師に飛び掛かっていった。その身体にぶつかる激しい衝撃…………だが予想したそれはなく、亮は空を切って地面に叩きつけられた。
 (……あいつは素早く身を引いて逃げたのか)
 口のなかの砂を吐き捨てながら、かれは道化師の派手な装いを探した。だが、ない。いや、そればかりか、
 (!)
 亮は言葉を失った。
 ここはただの空地に過ぎなかった。曲馬団の天幕など、どこにもありはしなかった。
 (……じゃあ、あの道化師は一体……いや、あいつなんかどうでも良い、志津子さんは……)
 頭へくわッと血が上る。その一方で、ポケットのなかの《夢の結晶体》にいつか熱が籠っているのを亮はふと意識した。
 「乱歩ッ!」
 次の瞬間、かれは叫び声をあげると同時に起き上がった。乱歩は空地のすぐ先で不思議そうにキョロキョロしていたのだ。
 亮の手が乱歩の二の腕を捕らえる。乱歩は一瞬ギョッとした表情を見せたが、すぐに不敵な笑いを取り戻すと、逆に亮の腕を押さえ、見事な背負い投げを決めた。腰をしたたかに打ってうずくまる亮を見下ろして、乱歩は哄笑の声をあげる。
 太腿に熱いものが伝わってきた。
 (怪我? ……じゃない、《夢の結晶体》か)
 それが肌に接したところは感覚がなくなり、さらに先へ痺れとなって急速に広がっていく。だがその動きとは別に身体は勝手に回復し、かれは再度乱歩に飛び掛かっていた。乱歩は反射的にかろうじて避けたものの、それはよほど意外なことであったらしい、愕然とした顔付きを露わにして亮を見た。
 「乱歩さん」
 押し殺した声で亮は問い掛けた。
 「あなたは一体なんてことをするんだ。小説を書くだけでは飽き足りないのか。空想が、そしてそれを定着させた文字があれば、充分の筈じゃないか。夢は……夢は決してそんなものじゃない」
 自分でも制御できないおもいの噴出であった。乱歩は明らかにたじろいでいた。両者睨み合ったまま、空白の時が流れる。やがて乱歩はびくりと身を引くと、そのまま振り向いて走り始めた。さっきまでの余裕は微塵もない。一心不乱にひたすら逃げるという、それは態であった。
 亮もまた我を取り戻し、乱歩の後を追う。しかし、もう手遅れであった。がらんとした新開地本通りに怪人の姿はなかった。否、そもそも人影そのものが途絶えていた。
 あれからよほど時間が経ったとおぼしい、新開地からはネオンサインすらも消え去っていた。劇場や食堂、商店、しもたや、そしてふいと挟まる空地、それらがいよいよ冴え渡った月光のもと、廃墟めいて軒を連ねている。いつものこの盛り場の雑踏、ことにも今日は「お化け」で賑わったその直後だけに、異様に閑散としたこの情景は別世界の如くであった。
 しかし、亮にはいまの新開地のほうが遥かに馴染みやすかった。
 (人の波は引いたけれど、夢は残っている。いや、残った夢こそ本当の夢なのかも知れない)
 揺曳する夢の残滓に取り囲まれたなか、なにかが侵入してくるのを亮は感じた。それは決して不愉快ではない。むしろ気力が見る見る充足していくのをかれは自覚した。
 乱歩を見失い、志津子へと繋がる手掛かりが切れてしまったこと、それさえいまは忘れて、亮は銀いろに塗り潰された深更の新開地に見入っていた。

     

 「なになに……『今日は楽しかった。また遊ぼうぜ』か」
 今回の《血祭》の仕上げに務代亮の枕元に置くという手紙を御堂幸吉から手渡されて、市来壮太郎が読み上げた。前回同様、活字を切り貼りして構成している。
 「ふん、それはいいとして、なんだい、この『けむりはら・がいじん』なる署名は。意味が判らんぜ」
 「『けむりはら・がいじん』じゃない、それは『えんはら・ほかと』と読むんだ」
 いっぺんに鼻白んだ口振りになって幸吉が云う。葛城紅紫と今仁博輔が壮太郎の手にした紙を両脇から覗き込む。そこには「烟・原・外・人」の四文字が、ことさら大きい号数の活字を拾って並べられている。
 「えんはら、ほかと?……」
 それを聞いていた八牧友雄は煙草を揉み消すと、真顔になって虚空を睨み、なにか考えはじめた。左手を飾る亡き恋びとの目玉だと称する指輪を唇のところへ持っていって舐めながら、「えんはらほかとえんはらほかと」と、呪文の如く小声で繰り返す。やがてさっぱりした様子で顔を上げると、幸吉に微笑み掛けた。
 「なるほど。『えんはらほかと』とはどこかで聞いた気がすると思ったが、『えとかはらんほ』、すなわち『江戸川乱歩』を置き換えた変名、という趣向なんだね」
 云いながら件の手紙を受け取って見る。
 「ほう。文字面もなかなか凝ってるな。この怪人は烟の如く不定形の存在だと示しているし、乱歩好みの『人外』なる言葉もうまく取り込んでいる。どうして、たいした力作じゃないか」
 「むむ、さすがに具眼の士は見るところが違う」
 幸吉はたちまち相好を崩したが、「ただし」と友雄はニヤリと笑って釘を刺すのを忘れなかった。
 「振り仮名をつけないと、このままじゃあ意図は伝わらないね」
 不快な顔をしてなにも答えない幸吉に、友雄は快活に笑い掛けた。
 「しかし、帝都が怪人二十面相の噂で持ち切りというこのご時世に、ここ扇港・神戸では怪人乱歩が跳梁している。この構図はまったくなんとも云えないな」
 「扇港もいいがね」
 すると幸吉はすぐに機嫌を直して、神戸の港の美形に基づく愛称をあげつらった。
 「ここはひとつ、『夢都』と呼ばないかい。帝都東京、魔都上海、そして夢都神戸。な。なんとなく平仄が合ってるだろ。まあ神戸全体はどうでも良い、少なくとも怪人乱歩が暗躍する舞台だけは、ぜひとも夢都であってほしいんだがね」
 そこへ厨房との間の扉を丁寧に開けて、料理長の臼杵がはいってきた。一同に恭しく礼をしたあと、友雄の耳元になにか囁き掛けた。友雄は頷いて答える。
 「そうだな。じゃ、おつまみにしたのを先に出してもらおうか」
 「臼杵サン」
 引き下がろうとする料理長を、紅紫が呼び止めた。
 「あなたは年季の入った新開地人なんですってネ。イヤ、お見逸れしました」
 「は、はあ……」
 臼杵は戸惑った顔付きになって、救いを求めるようにオーナーを見る。友雄は苦笑し、手を振ってこの老人を厨房へ送った。
 「失礼、これはぼくの言葉が足りなかった。臼杵は自分のことに触れられるのをひどく嫌うんだ。以後、それに留意して付き合ってほしい」
 「ハハア。しかし、込み入ったことならともかくも、新開地に出入りしているナンザ、神戸の住人ならなんの不思議もないことですがネ」
 紅紫は云いながら、太い髭の先を捻った。
 「それとも、どんなに些細なこととはいえ足がつく憂いを避ける、ト、そこまで用心してまでも隠し通さねばならぬ、後ろ暗い過去を抱えての所業なのですかナ」
 「さあ、どうだかね」
 と、友雄は妙な含み笑いをして見せた。
 そこへ臼杵と憂子・隷子の三人がそれぞれに大皿を、魔子が赤葡萄酒を入れた生首人形のお密を運んできた。壮太郎が早速お密を叩き始めた傍らで、友雄が口にした。
 「さて、それでは《血祭》の打ち上げに移ることにしようか。本日の主役の《乱歩》氏がまだ戻って来ていないが、追って現れるだろうし……」
 「あの馬鹿、一体どこへ行っちまったんだろうな。亮をからかうことだけを心掛けりゃいいものを、我われまで撒きやがって。……おッ、これ、なかなか乙な味をしてるじゃないか」
 文句を云いながら皿に箸を伸ばした幸吉が、ふいに声を張り上げた。それに対して臼杵が変に哀しげな表情で小さく一礼し、そそくさと去って行った。
 「ドレドレ、それではわたくしも」
 「へえ。何やろ。見たとこは笹身みたいですけどな」
 とうとう半日の間半裸でいたため別人の如きいがらっぽい声を出す今仁を壮太郎は冷笑した。
 「そんな珍しくもないものが《血祭》の夜に出る道理がないだろう」
 「いや、申し訳ないけど、これはそう珍品でもないんだよ」
 横から友雄にそう云われて壮太郎はしばらくむくれていたが、やがてお密の鼻をつまみ頬を張った。
 大皿には親指の先ほどの小さな肉がいっぱいに盛り付けられている。ふうわりと柔らかい白身で、口にした者は一様に微かな甘みを持つ上品な味を報告した。その素材を聞いても、友雄はまだ明かさない。三皿はたちまち空になって、お替わりは味噌を用いた丸焼きで、と友雄は臼杵に所望した。
 お密が吐き出す赤葡萄酒も一通り回り、座が暖まって来たころ、《夢殿》への専用通路を自信なげに叩く音がした。
 「おッ、怪人のご帰還じゃないか」
 機嫌良く云った幸吉は、自ら立ち上がって鍵を開けた。
 亮の妄想のなかの乱歩を演じる毒島は、刈り上げた額を手ぬぐいで拭きながら室内へ入ってきた。
 「いや、ご苦労だった。一日じゅう走り詰めで疲れたろう。まあ一杯やりたまえ」
 「あ、ああ……できたら、ワシ、酒のほうが……」
 お密を差し出したのを毒島は断った。隷子がお銚子を傾けると、かれは麦酒用のコップで受け、一気に呑み干した。さらに小刻みに震える手酌で二杯目を入れ、それも慌てたように煽る。
 「なんだ、どうかしたのか」
 毒島の顔いろが妙に白いのに気付いた幸吉が訊く。だがそのとき、臼杵が再び姿を現した。友雄が声を弾ませる。
 「折りも良し、怪人も帰って来て全員揃ったことだし、今夜の正餐を始めることにしよう」
 テーブルに大きな銀皿が据えられ、その蓋をオーナー自らが取り上げる。その途端、覗き込んでいた全員が声をあげた。中で狐いろにこんがりと焦げていたのは、溝鼠の大群だったのである。
 「ウーッ」
 切羽詰まった叫びとともに、隷子が専用通路横のご不浄へ駆け込んでゆく。
 「どうしたんだい、味は前菜で保証済みじゃないか」
 澄ました顔で云うと、友雄は一匹まるまるを箸で挟み、口に放り込んだ。
 その騒ぎをよそに、毒島はさらに酒を呑んでいた。冷え切った五臓六腑に染み渡る熱燗のおかげで多少落ち着いてはきたが、動揺はまだつづいている。
 (あれ、一体何だったんだろ。……いや、もういい)
 再びそちらへ向かおうとする意識を、かれは慌てて遮った。何であろうとこうして無事だったのだし、こんなに割りの良い仕事を止めるつもりはさらさらなかった。ただ、美人の女給を前にしても前回のようにそそられはしない。彼女が運んできてくれた新しいお銚子を傾けるばかりであった。
 会話がふいととぎれた。蓄音機もそのとき、鳴っていなかった。「お化け」が通り過ぎていったあとのもの淋しい夜、風が空を切る音と犬の遠吠えに混じって、なにか物凄い怪音が底籠りしながら響いているようだった。背中から太腿へかけて、ゾクゾクする悪寒が走る。毒島は震える手で持ったコップを口に近付けた。

《第二章 お化けの賑わう夜/了》


掲載 1999年11月29日