第三章

乱歩変幻

     

 揺れている。身体全体がゆったりと大きく揺れている。右へ右へと少しずつ傾いていって、もう踏ん張ることができずに転げ落ちそうになる瞬間、動きは止まった。だが、今度は左のほうへと力が加わってゆく。なにか得体の知れぬ強いうねりに身をまるごと委ねているのは心地好かった。安心しきったやすらぎのなかで、亮はまたしてもまどろみのなかへ入り込もうとする。
 しかしそのとき、
 (ん?)
 穏やかだったかれのこころにふと亀裂が走った。誰かが嘲笑う声が聞こえた気がしたのだ。
 (……悪意。いつもの、邪悪なおもい)
 途端に過敏なまでにかれは反応した。意識が見る見る覚醒してゆく。
 (いやだ、行きたくない。あの世界へはもう戻りたくないのに)
 しかし願いは空しく、ぼんやりとただ一面乳白色に包まれていた視界がはっきりしてきた。
 黄いろと黒に彩られた、いくつもの四角や三角、台形、菱形などから成る幾何学模様が見える。慌ただしく渦巻きながら流れていたそれが次第に落ち着いてきて、やがて止まった。
 (天井、か)
 しばらく経ってそれが判ると自動的に、御堂屋敷のなかにあてがわれたいつもの部屋の布団のなかに横たわる自らの姿を亮は認識した。つづいて、節分の「お化け」の日、乱歩に好き勝手に弄ばれた記憶が甦ってくる。そのときのことを記した「烟原外人」名の手紙のことも。それはいつの間にか枕もとに置かれていた。あの夜以来ずっと放心状態で、夢とうつつの間を無為に彷徨う日がつづいたとはいえ、乱歩は常に身近にいて、亮の行動を見張っているにちがいない。
 (見張っている?)
 自分の考えたことにかれは引っ掛かった。
 いま見ている真上の天井板、そこには節穴が不自然なまでに大きく開いているではないか。のみならずそのとき、屋根全体が重く軋む音をたしかに立てた。……
 「ら、乱歩ッ!」
 叫ぶが早いか亮は起き上がり、天井へ向かって手を伸ばした。届かない。もどかしいおもいで飛び上がると、手の先が僅かに板へ触れた。だがそれだけのことで、乱歩を捕らえる手掛かりさえ掴めない。
 「こらッ! そこにいるのは判ってるんだぞ。出て来い、乱歩ッ!」
 仰向いて空しく怒鳴っているところへ、襖を乱暴に開けて御堂幸吉が入ってきた。
 「どうした」
 「乱歩だ。乱歩がぼくを見張ってるんだ。いまはそこの天井裏に潜んでいる」
 「なにッ、乱歩が……」
 懸命に訴える亮を見て、心配顔を装っていた幸吉の表情が一瞬緩んだ。
 「ふむ。いかさま乱歩のやりそうなことじゃないか。待て。落ち着け。ええと、天井板はどうなっていたかな」
 幸吉は竹の長い物差しを持って来ると板を片端から押していき、とうとう押し入れのなかで外れるそれを発見した。蝋燭を翳して、そこへ首を突っ込む。
 「……いないぜ。残念ながら、人の入った気配さえない」
 蜘蛛の巣と鼠の糞、そして夥しい埃の層はすぐに亮も見せ付けられて、錯覚を認めざるを得なかった。緊張が溶け、にわかに脱力感に襲われる。
 「亮!」
 肩を手荒く揺さぶられて、かれははっと目を覚ました。
 「一体どうしたというんだ、一日中ずっと寝てばかりいて。そんなことでは目が腐ってしまうぞ」
 「……」
 障子を開け放った窓からさんさんと射し込む眩しい陽射しに、そのときになってはじめて亮は気付いた。陽光も、戸外に広がるうっすらと霞んだ空も、もうすっかり春の彩りに包まれている。「お化け」は二月初冬の、寒さが一番厳しいころだったが、あれからどれだけの時間が経ったというのだろう。
 「……あの『お化け』の日、志津子さんの姿はとうとう見なかった。……その代わりに、乱歩が現れたんだよ」
 遠い眸になって声を潜め、亮はさも重大らしく洩らした。
 「ホウ、乱歩さんが、ね」
 「うん。あいつは本当に怪人だね。……すばしこくて……チョッカイを出してきては、さっさに逃げるし……こっちが息を切らせて止まるとニタニタ笑いながら待ってるし……それだけじゃない、幻術だか何だか知らないけど、おかしな世界を垣間見せるんだよ」
 「ヘエ。なんだい、それ」
 幸吉は好奇心を露わにして身を乗り出したが、亮はそれ以上には触れず、小さくかぶりを振った。
 沈黙が訪れた。亮はまた空虚な顔付きになって、おのれだけの世界へ入っていこうとする。
 「乱歩さんがなぁ」
 相手に逃げられぬよう、幸吉は声を張り上げた。
 「かれ、小説には飽き足らなくなったからって休筆を宣言したんだよ。放浪の旅に出るとは云ってたけど、まさか神戸へ現れて、自ら怪人を演じてるとはなあ」
 言葉を切って少し考えていた幸吉は、やがて深く頷いた。
 「もっとも乱歩さんは、神戸の街が醸し出す幻想的な雰囲気がいたく気に入った様子だったから、そこを舞台とする怪奇探偵劇を構想することは大いに在り得るな。そうだ、ちょっと部屋へ来いよ」
 云って案内した書斎で、幸吉は机のなかからなにか取り出した。
 「ホラ」
 云って差し出した葉書は、乱歩から来た挨拶状であった。

      転居御通知
   従前の住居を引払い暫く旅から旅に暮すこと
   に致しました。行く先々からの御通知は致し
   ませんが、家族のものを左記に定住致させま
   すから、御用の節は左記気附にて御通知下さ
   いますれば、小生まで届く様取計らいます。
    近年非常に健康を害して居りますので、小
    説の執筆は当分休むことに致しました。
   昭和二年三月
                平 井 太 郎
                 (江戸川乱歩)
   東京府下、戸塚町下戸塚六二 平井りう気附

 「健康を害してる?……」
 その文言を復唱する亮に、幸吉は今度は雑誌を手渡した。表紙には「探偵趣味」大正十五年七月号とあり、「お化け人形」と題する乱歩の随筆が掲載されていた。

 …………お話は、神戸名産お化け人形なのですが、ご承知の方もおありでしょう。二、三寸の小さな木製人形で、全身真黒に塗りつぶして、目と口だけが、まるで南洋の土人のように、目は白くむき出し、口は赤くパックリと開いている、可憐なる小悪魔なんですよ。なぜお化け人形だかというと、その小さなものに簡単なカラクリ仕掛けがついていて、ハンドルを回すと、黒法師がギャッと耳まで口をあいて、西瓜をかじったり、黒達磨の目玉が、一寸ほども、ニョイと延びたり、何とも可愛っちゃないのです。
 こいつが、何だか神戸を表しているような気がするのですね。……神戸の町そのものが、どうやら、お化け人形にみちみちているらしいのです。……
 それに神戸の町は、全体が大して広くもないのに、いやに秘密がかっていて、隅々を覗き回ると、途方もない、まあお化け人形ですね、それがウヨウヨしているような感じを与えます。だからいやだというのではありません。むしろ、それゆえにこそ、私は神戸が好きなんですけれど。

 読みながら亮の手はぶるぶると震えた。志津子さんから贈られた大切なお化け人形、それのことを乱歩も気にいった記述をしていることが、意外なような憤らしいような、なんだか変てこな気持ちがしたのだ。
 昼食をともにする間、幸吉はさらに乱歩の癖を亮に教えた。
 曰く、深夜の浅草公園をいつまでも彷徨って、酔客を相手に猟奇的な悪戯を試みたりすること。
 曰く、旅に出ると称して、その実変装しただけで舞い戻り、得体の知れぬ人間の振りをして自宅周辺をうろついて家人をおびやかしたこと。
 曰く、「人間椅子」にしろ「屋根裏の散歩者」にしろ、すべては乱歩自身の体験談であり、この分では「赤い部屋」にプロバビリティの犯罪として記述された内容も、実はことごとく実証済みだと疑われること。
 あるいは、曰く……
 もとよりすべては幸吉の捏造である。乱歩が志津子を誘拐して去った、と、なんとも素敵な妄想を亮の口から聞いて以来、かれは日夜そんなことばかりを考えていた。
 食事を終えると用事があるからと幸吉はそそくさと出掛けてゆき、亮はひとりガランとした御堂屋敷に取り残された。
 庭先から明るい陽光がいっぱいに射し込んできて、室内はうらうらと暖かい。硝子戸を開けてみると、心地好い微風のなかに若葉の匂いがいっぱいに乗っていた。
 (……春、か)
 知らぬ間に訪れていた新しい季節の彩りに、亮のこころは僅かに和んだ。しかし、次の瞬間、
 (志津子さん)
 かれの身体はにわかに強張った。たとえときが改まっても、彼女の逆境はなんら変わらないのだ。瓜実顔のはかない表情が横切った。
 (憎っくき乱歩の奴、ぼくの大切な志津子さんを一体どこへ閉じ込めてるんだろう)
 居ても立ってもいられぬ身を焦がすおもいが湧き溢れてきて、亮はいつ知れず立ち上がっていた。感情の昂ぶりとともに思考がとぎれがちになり、時折りふいと遠のいた。ただ、輪郭がひどく曖昧になったかれの意識のなかでひとつだけ、熱い息吹きを高めつつある箇所がある。
 亮自身は知る由もなかったが、そのときズボンのポケットのなかで《夢の結晶体》の表面模様が慌ただしく蠢いていた。
 駘蕩とした風が吹き抜けてゆく、そのなかに乗った含み笑いの声を亮ははっきりと聞いた。
 我を取り戻して、視界の焦点を合わせる。
 庭と外の道路とを隔てる柴垣、その先から乱歩が顔を覗かせ、ニヤニヤと粘っこい笑いを浮かべて亮を見凝めていた。

     

 御堂屋敷の勝手口が乱暴に開いて、務代亮が飛び出して来た。庭のほうへ回り込んだとき、乱歩は一丁先の電信柱にもたれかかって待っていた。亮と視線が合うと笑みを浮かべ、軽く手を振って見せた。
 「……畜生」
 歯がみをしてそちらへ向かう。乱歩はチラチラと振り返りつつ、余裕を持って逃げ始めた。
 「ふん。あいつ、健脚自慢なのは良いが、鉄砲玉だからな」
 素通しの眼鏡をかけてマスクをした市来壮太郎が冷笑混じりに云うのに幸吉は首を振った。
 「大丈夫。今日は表通りだけで路地へはいっさい入らないよう、釘を刺しておいた。万一見失っても、三十分に一回は必ず聚楽館の前を通るように指示してあるから、そこでまた合流することができる」
 例によってかれは、ベレ帽、黒眼鏡、付け髭、含み綿という念入りな変装を施している。八牧友雄はいつもオールバックに丁寧に撫でつけた髪のうえにボサボサの長髪の鬘を被っていて、それだけで容貌が一変して見えた。
 「お化け」以来ぐったりとしていた亮がようやく正気を取り戻したので、手ぐすねを引いて待っていた幸吉は早速毒島を駆り出すとともに《退屈倶楽部》の面面を招集したのだが、居所不定の紅紫には連絡のしようがなく、また今仁博輔は仕事で出ていて、今回の追跡劇の観客は高等遊民三人のみとなったのである。
 「さあ、それじゃ我われも出発しよう」
 自慢の指輪から唇を離して、友雄が提唱する。
 御堂屋敷は新開地のすぐ西、湊町にある。表へ出たところは省線の兵庫駅へ向かう市電通りで、東へ少し行って三角公園に差し掛かると、もう聚楽館が見えている。その角を乱歩は南の興行街へ折れたのだが、人混みに紛れて亮は悪党の姿を見失ってしまった。
 穏やかな春の陽射しを浴びて、新開地本通りには大勢の人が繰り出している。人・人・人の顔が幾つも重なって、ほんの三尺先さえ見通すことができない。乱歩を追って走ってきたところへ人いきれが被さって、汗がいっぺんに吹き出してきた。シャツの袖で額を拭う、その腕をグイッと取るちからがあった。
 「乱歩ッ!」
 すかさず身を引いてそれを押さえる。
 手応えがハッキリとあった!
 かれは慌ててもう片方の腕を出し、相手を羽交い締めにする。
 (やった! とうとう乱歩を捕らえた。これで志津子さんを取り戻せる)
 気持ちの昂ぶりは、しかしたちまちにして冷えた。
 「まあ、いやですわ。一体なにごとですの」
 女が振り向きながら、それでも媚びた声で云う。亮が抱きかかえていたのは、宣伝ガールだったのだ。
 「判った、あなた、活劇がお好きなんですね。ちょうどいいわ。当映画館では『血みどろ峠の大決闘』を今日、封切りしたところですのよ。さ。ご一緒しましょ」
 亮の不作法を彼女は怒りもせず、逆に腕をしっかり組んで連れて行こうとする。
 「……あ……いや、ぼくは……実は……その……」
 宣伝ガールは強硬で、口のなかでモゴモゴ言い訳するくらいでは許してくれない。やむなく亮は力任せに手を振りほどくと、ペコリと頭を下げてから人波のうねりへと逃げ込んだ。
 興行施設が軒を連ねる本通りの西側には、絵看板がズラリと並んでいた。上映する映画の内容を示して通行人の関心を惹こうとするもので、それぞれに工夫を凝らした絵で各館の壁をビッシリと覆い飾って妍を競う。
 いま亮の眼前の館の出し物は怪談らしく、ザンバラ髪のうえ、顔の半ば崩れた女が口もとから血を滴らせつつ、怨めしげに見下ろしている。着色写真かと見紛うほどそれは写実的で、かつ顔のところだけで襖二枚分の大きさだから、思わず身震いするくらい迫力があった。
 隣の館は仇討ちを取り上げた時代劇の一部始終を四枚の駒割りに描いて大筋を紹介している。なかには絵だけでは弱いというのか、屋根のうえにキングコングの模型を据え付けた館もある。のみならずそれは、定期的に大音響とともに両腕を振り上げる趣向だったから、その下には見物人が幾重にも取り巻いていた。
 (乱歩……乱歩はどこへ行ってしまったんだろう)
 思い詰めてひたすらその姿のみを探して歩く亮にとって、それらのきらびやかな装飾や街を練り歩く人びとの喧騒は、違和感を逆撫でするばかりであった。
 (あいつのことだから、きっとどこかで見張っていて、からかいの手を出してくるに決まってるんだ)
 そうおもった瞬間、
 「オイ、君ッ!」
 と野太い声が掛かったので、亮の心臓はドキッと鳴った。
 「君、いかんな、その顔は。とてつもない凶相が現れとるぞ」
 「えッ」
 見ると小柄な八掛見が立ち上がり、こわい顔をして亮を指差している。
 「ふうむ。待ちびと来らず、失せ物見付からず、願いいっさい叶わず……いや、そればかりか、生命の危険さえある。ちょっと来たまえ」
 云って、商店の隅に置いた机のむこうから手招きをする。そぞろ歩きの人たちがやりとりに注目して、立ち止まり始めた。
 「すみません、いまは急いでますので……」
 「そんなことを云っとる場合ではないッ! 君、このまま放っておいたら一体……こらッ、こっちへ来んかッ!」
 血相を変え、唾を飛ばして怒鳴る八掛見から顔を逸らして、亮は逃げ出した。
 「いかん、東京へ行きたまえ。それしか君の救われる道はない。いいな、東京だぞ、東京」
 なおも背後で張り上げる声に野次馬の笑い声が被さった。亮は知らなかったが、さんざ怯えさせたあげくに「東京へ行け」としか占わないことで有名な易者なのである。
 麗らかに晴れた陽のもと、人の流れはいよいよ濃い。かれらの歩みには一定の秩序があるようでいて、ひとつ流れが狂うとたちまち錯綜し、停滞し、時として逆行する。だがそれはそれで、人びとの楽しげな様子は変わらない。そして群衆が口ぐちに喋る言葉はワンワンと反響し増幅して襲いかかってくる。次第に亮は悪酔いしたかの如く、吐き気が込み上げてきた。その場に俯いて、こめかみに指を当てる。
 「どうした、大丈夫ですか」
 「……え、ええ」
 親切に声を掛けてくれたひとに礼を云おうとして顔を上げた亮は、息を呑んだ。
 乱歩!
 坊主頭の大きな顔がかれのすぐ傍らでニヤニヤしている。酸い口臭がふと鼻をつく。
 高笑いの声とともに、乱歩は人と人との間を器用に縫って走り去ってゆく。その後ろ姿を見て、亮はやっと我を取り戻した。
 人を押し退け、突き飛ばし、小突き返されながら、必死に怪人を追う。亮の追跡は、しかし乱歩にとっては物足りぬものであったにちがいない、しばしば立ち止まっては嘲笑を浮かべて亮の来るのを待っている。もう手を伸ばしさえすれば掴まえることができるほどのところへ来るまで動かない。そして最後の瞬間、スイと身をかわすと、それからはごく素早く遠ざかって行くのだった。
 興行街から市電通りを渡り、聚楽館の横を通って本通りの北側へ入ると、人の密度が少しは減った。身動きしやすくなった分、乱歩の活動も敏捷さを増し、その距離は一向に縮まらない。息がゼエゼエと切れ、横腹が痛み、ふくらはぎの筋肉が張って、かれはとうとうつんのめった。その場に倒れ込むと、脚がガクガクして起き上がれなくなった。
 「サア諸君、若い若いと体力を過信していると、とんでもないことになる。現にホラ、このお兄さんなんか目の前で行き倒れだ」
 折しもそこは松竹劇場の向かい、香具師の啖呵場だったので、かれは早速薬売りの餌食になった。洋行帰りのドクトルを気取って白衣に身を包み、胸に聴診器、額には耳鼻鏡を飾ったその香具師は、木で作った小さな壇から飛び下りてきて亮を救い起こした。左腕を亮の肩へ回すと同時に、右手で茶いろの大きい瓶をぐいと差し上げた。
 「これぞ、かの医学先進国・独逸において奇効を高く評価されている『ゲカンゲン』である。これさえ呑んでいれば、こうした憂いはない。サア君、いまからでも遅くはない、グウーッとあけてみたまえ」
 云いながら、饐えた異臭が鼻を突く液体を湛えたその瓶を口もとへ押し付けてきた。振りほどこうと試みるが香具師の力は強く、徒らにもがくことしかできない。しかし、見物人は明らかに亮のことをサクラと思っていて、遠慮のない笑いを向けてくる。
 (どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだ)
 脚が引きつって動きを奪われたなか、かれは世界の放つ悪意に改めて圧倒された。いま、道端の亮と香具師をぐるりと取り囲んで、人の輪ができている。かれらは一様に亮を嘲笑うことの快感を剥き出しにして、恥じる様子もなかった。
 (違う、こんなのじゃなかった。人も、それから街も……)
 大口を開け、歯茎を出して傍若無人に笑う人たち、その顔がいくつも折り重なり、被さったり隠れたり相互に動くなかに、ひときわ高く笑う乱歩の坊主頭を亮は見出だした。
 (なんだ、そういうことだったのか。みんな乱歩の仲間なんだ。ここは乱歩が主役の世界で、ぼくがもとからいた場所じゃない)
 それですべてが腑に落ちたつもりになった亮は、しかし一瞬の後、慄然とするおもいに身を震わせた。
 乱歩が支配する世界!
 ふと姿を現したその違和感は見る間に募り、かれは押し潰されそうになった。いつ知れず握り占めていた《夢の結晶体》が熱い。突然、崩壊の感覚が襲ってきた。にわかに昂ぶった気持ちがそのままどこかへ突き抜けていって、脳裡が真っ白になる。
 (ああ。また来た)
 僅かに残った正気が、妙に冷静にそう捉える。たしかにそれはしばしば亮を見舞う情動に似てはいた。しかしその先、意識はいつも通りに拡散してはいかず、しばらくどろどろと渦巻いたあと、ゆっくりと別のところへ纏まっていこうとするかのようであった。
 「フウム、『ゲガンゲン』の薬効を以て体調はたちまち旧に復した。神経衰弱のほうは、これはまた別の療法をご紹介願うとして、サア諸君、近年独逸国において最も話題を呼んだものが、なにを隠そう……」
 様子のおかしい亮をいい加減に切り上げると、香具師はもといた私設の演壇へと戻ってゆく。取り残された亮は、ぼんやりと頼りない足取りで歩き始める。そこへ乱歩が先回りして通せんぼをするように両腕を広げたが、それにさえかれは気付かなかった。
 「なんだ、あれは。ちょっとおかしいんじゃないか」
 遠巻きに見ていた壮太郎が、マスク越しにくぐもった声で云う。友雄が頷いた。
 「うん。緊張が過ぎたのかも知れないね。一服させないと、危ない」
 「よし。じゃあ声を掛けてくるから、先に《夢殿》へ行っててくれ」
 付け髭を毟り取りながら幸吉が告げた。

     

 「おい」
 いきなり肩を叩かれた亮は、反射的に身構えた。
 「ん? どうしたんだ、怖い顔をして。新開地はそんな顔付きで出歩くところじゃないぜ」
 横に立ってどこか押し付ける口振りで告げているのは、御堂幸吉だった。
 (御堂……しかしかれの顔は、もとからこれほどのっぺりとしていただろうか)
 (いま、ぼくはなにをビクリとしたんだろう。……なんだか、身に危害を加えられる……いや、もっとおぞましいことを恐れていたような……)
 (それにしても、わざわざ新開地へ出て来て、ぼくは一体なにをしているのか)
 目は友人の顔に向けながらも、亮の思考は定まらなかった。ただ、居心地の悪いおもいばかりが揺曳している。
 「なんだよ、またぼんやり病の再発か」
 亮の反応の鈍さに苛立った幸吉は、その背中を強く叩いた。
 「しっかりしろよ。まさか、乱歩に誑かされたわけでもあるまいに」
 「…………ラ・ン・ポ?」
 その一言は、あたかも魔法の呪文の如くであった。
 焦点の合っていなかった亮の眸がすッと収束していったかと思うと、表情が緊張し、さらに強張った。ブルブルと震える両掌を振りかざして、かれはなにか言葉にならないことを絶叫した。その様子を見て、幸吉はふとほくそ笑むのを隠し切れなかった。
 「そう。そのとおりなんだ。乱歩が……乱歩がまた来たんだよ。……新開地を走り抜けて行って……あッ! あんなところにいるッ!」
 突然視線を遠くに移して、亮は大声をあげた。幸吉もギョッとした様子で振り返ったが、すぐに笑みを浮かべた。
 「あれは乱歩じゃない。ただの生き人形だよ」
 「嘘だッ!」
 云い残すが早いか、亮は駆け出していた。
 松竹劇場からだらだら坂を下って聚楽館前の交差点を東へ折れた、もう福原の一角へ足を踏み入れたところにかれはいた。長くなってきた春の陽も、そろそろ陰り始める時刻だった。背後の聚楽館や喜久屋食堂ビルは早速ネオンサインを点して夜の装いへ移ったのに対し、行く先は薄暗く塗り潰されたまま放置されている。ただそのなかに一箇所だけ肌いろの明りに充たされた店があり、乱歩はそこに表通りに向かって堂堂と立っているのであった。
 「…………」
 そこまで一気に走った亮は、粗い息を繰り返しながら茫然と立ち尽くした。
 「だから云ったろう、人形だって」
 ゆっくり歩いて追ってきた幸吉がのんびりとした口調で云う。それは衛生薬局の標本人形だったのである。花柳病の病状を全身に浮かべてその恐ろしさを道行く人びとに訴えかけるその人形は、坊主頭で大柄なところが乱歩に似ていなくもなかった。
 「もっともこの人形は、真夜中になると外を歩き回るらしいが、な」
 「えッ、なんだって」
 「なに、冗談だよ。……そうか。乱歩さんが本気で悪巧みをしているとなると、相手は探偵小説の第一人者だけに、ことは厄介だな。どうだ、我われも協力するから、ひとつ事情を聞かさないか」
 「でも、乱歩はきっと、いまもこの新開地のどこかに潜んでいるんだよ。それを早く探さないと……」
 「いやいや、焦って闇雲に動き回れば回るほど、逆に乱歩さんの思う壺だぜ。ここはじっくり作戦を練って、敵をギャフンと云わさなければ。いいから俺に任せておけ」
 一人決めをして、幸吉は強引に「カフェー黒薔薇」へ引っ張って行った。
 ……《夢殿》へ入るのは、務代亮は始めてだった。そもそもカフェーにさえ入った経験がない。のみならず、幸吉にああ云われてもやはり乱歩の動向が気になるので、ひときわ大きい肘掛け椅子に勧められるままに腰を下ろしたものの、落ち着きなくモゾモゾしていた。ひとつには椅子のばねが妙に歪で、座り心地が悪かったせいもある。
 亮たちが着くのと相前後して紅紫と今仁が現れ、《退屈倶楽部》の常連が揃った。壮太郎が生首人形のお密を荒荒しく叩いて、血を吐く風情で赤葡萄酒を注いで回る。
 「マアしかし、えらい目ェに遭わはったもんですなぁ。世の中がいっぺんに信用出来んようにならはったんと違いまっか」
 隣に座った今仁博輔が話し掛けてくる。詳しく説明しなくても、事情は先刻承知している様子であった。亮が口ごもっているのを見て、今仁はつづけた。
 「いや実際、世間は見た目通りやおまへンもんなぁ。私ら広告取りいうんは、初めて行くとこで会う約束貰おとしたら、十中八、九は断られますねン。そやさかい、有無を云わさんと飛び込みや。そしたらマア、びっくりするような景色にぶつかることがおまっせ。立派な大店の旦那ハンが、裸の女、縛り上げてどついてたり……」
 「それは君がそういうとこばかり狙ってるからだろう」
 「そんな、人、出歯亀みたいに……」
 壮太郎が冷笑して話の腰を折る。同時に友雄がすっと立ち上がった。
 「料理が遅いな。今夜は凝ったものじゃないんだが……」
 呟いて厨房へ消えたかと思うとまたすぐ顔を出して、女給たちを手招きした。すぐに彼女たちが奥から皿を運んでくる。だが、最後に戻ってきた友雄は、ひどく厳しい表情を浮かべていた。
 「どうしたんだい」
 「うん。……妙なんだ。臼杵がいないんだよ。料理はちゃんと仕上がってたんだが」
 「ふうん。便所かなんかじゃないのか」
 「いや、そんなことは断じてない」
 友雄は依然として険しい顔付きを崩さない。だが、かれがそこまで深刻に思いを巡らしていることに気付かぬ幸吉は亮に食事を勧め、自らも箸を差し出した。
 「さあ、しっかり腹ごしらえをして、それから乱歩に対抗する手段を英知を結集して考えようじゃないか。亮、おまえも遠慮せずに喰えよ」
 「う、うん」
 促されてテーブルの上の取り皿へ手を伸ばそうとしたとき、椅子の肘掛けがグニャリと撓って折れた。亮は転げ落ちそうになる。
 「な、なんだッ!」
 慌てて駆け寄った幸吉は壊れた椅子を見て、唸り声を上げた。
 「やられた。これを見ろ」
 云ってその椅子を乱暴に引っ繰り返す。するとそれは、尻を乗せるクッションの下の部分から凭れ、両側の肘掛けに至るまでざっくりとえぐられ、人ひとりが悠悠と潜んでいられるくらいの空間が作られていたのである。
 「くそうッ、乱歩の奴、ここにまで忍び込んで来ていたのか」
 幸吉が悔しげに呻いたとき、電灯がにわかにフッと消えた。室内が漆黒の闇に閉ざされる。そのなかを、愉快そうな含み笑いの声がどこからともなく漂ってきた。
 「……ら、乱歩ッ」
 事態を悟った亮が掠れ声を洩らす。同時に蝋燭の明りが点り、ユラユラと揺れるぼんやりした光がまさしく部屋の片隅で笑う乱歩の姿を浮かび上がらせた。人差し指で亮を示して二、三度振ると、乱歩は身を翻して外へ飛び出した。一拍置いて亮もそれを追う。
 二人が出て行くとすぐに、厨房からの入口の所で電灯の操作を命じられた魔子がスイッチを再び入れた。眩しい明りの下で幸吉は会心の笑みを満面に浮かべて見せる。壮太郎が冷笑しながらお密の髪をまた鷲掴みにして傾ける傍ら、ひとり友雄は釈然としない顔付きで小さくかぶりを振った。

     

 月が出ていた。満月がもう近い太った月は中天にまで上って、蒼白いひかりをいっぱいに放っている。その下でしっとりと濡れたような街は異様に平板で、どこか書き割りめいて映った。「カフェー黒薔薇」のある一帯はすでに人通りが絶え、ガランとしている。ただ、暗く寝静まった家家のなかにポツンと明りが点るのは待合いだろう。三味線の音が微かに流れてくる。
 新開地の裏通りを乱歩は軽やかに駆け抜けた。
 一丁先を行く黒い影。その足音。そして、時折りからかって放たれる笑い声。
 月明りのみが冴える森閑とした街を舞台に、乱歩の動きはいよいよ精力を増した。
 屋台店も閉じた小便小路を通り、相生座のところで新開地本通りへ出た。映画館が閉館てからだいぶ経ったらしい、人影はここにもなく、狂ったようなネオンサインも消えて、小暗い眺めは別の街のようであった。
 「栄館」「二葉館」「錦座」と映画館、そして寄席の「大正座」「多聞座」と、いまは門戸を閉ざした興行施設のまえを走り抜けて行く乱歩の姿がふいと消えた。
 「あれ……」
 亮は立ち止まり、用心しながら周囲を見渡す。
 粗い呼吸が胃の縁から酸っぱい液を引き上げてくる。熱いものが全身へくわッと広がり、汗が一度に吹き出した。脚はがくがくして、思い通りには動かない。それを無理して、そろそろと進んでゆく。
 その四辻角の「松本座」は三番煎じ専門で、「聚楽館」と対で「悪いとこ悪いとこ松本座」と囃される。ここから「菊水館」「朝日館」「有楽館」「湊座」の五館は文字通り隙間なく軒を連ねていて、絵看板が一帯をびっしりと覆っている。仄暗いなか、そこに描き出された俳優たちはかえって奇妙な生気を孕んで見えた。嫣然と微笑む美女。目玉を剥き、なにか叫んでいる武士。見凝め合って愛情を確認する恋びとたち。主人公を取り巻く、その他大勢の群衆たち。……かれらのざわめきが、いまにも頭上の看板から洩れて来そうに思われた。あまつさえ、間口に麗麗しく飾られた等身大の人形に至っては。
 亮は名前までは知らなかったけれど、高名な役者がいる。美人女優がいる。可愛い子役がいる。ポーズを決めたまま動かないそれら広告人形の列を順に眺めながら、かれは進んで行く。誰がいて、彼がいて、そして、
 乱歩がにんまりと笑っていた!
 目が合うのを待ち構えて、乱歩は叫び声とともに両腕を大きく開いて襲いかかってくる仕種を見せた。驚いてのけぞった亮は、はずみで腰をしたたか地面に打ち付けた。一瞬息ができないほどの痛みが走り、かれはその場に平伏した。
 駆け出していた乱歩がそろそろと戻ってくる。
 「どうした、もう遊んでくれはしないのかい」
 「……志津子さんを返せ」
 「ふふふ、返せと口で云ってるだけでは返ってこないな。自分の力で取り戻してみせたらどうなんだ。それが男というものなのじゃないかね」
 「……」
 「まあ心配しなくても良い、彼女を傷付けるつもりは今のところ無いから。といって、血を見るのが嫌いだというほどお子様向けでもない。要するに、楽しみはゆっくりと味わう主義なんだな」
 すぐ目の前で傲然とこちらを見下ろす乱歩を捕らえるべく、亮は身を起こそうと試みた。しかし上半身を動かしたとたん劇痛が腰を刺し、かれはもんどり返った。口に入った土を吐き出しながら、怨みの籠った眸でかれは乱歩を見る。怪人は愉快そうな笑いをなおのこと深めた。
 憎っくき犯人、愛しい志津子へと辿り着く唯一の手掛かりがせっかくここに在りながら、手出しをすることができない。
 その無力感。
 その悔しさ。
 そのもどかしさ。
 亮の視界が涙で曇った。血が逆流するのを自覚する。くわッと湧き立った激情はたちまち全身を駆け巡り、ことにも脳裡は様ざまな思考が脈略なく交錯して変てこになった。
 (熱い)
 と、ただそのおもいだけが断片的ながら何度も繰り返して点滅する。
 いつか《夢の結晶体》が凄まじい高熱を発していて、亮の肉体に触れる太腿のところから熱を注ぎ込んでいた。といって、かれは火傷を負ったのではない。そうではなくて、それは未知の力と化して亮を活性化するかのようであった。
 (乱歩は必ずや、変幻自在の妖術を駆使してぼくを誑かしに掛かってくる。いままでみたいに追いかけっこで満足する奴じゃない。志津子さんを表に立ててチョッカイを出してくるに決まってるんだ)
 不思議な確信を持って亮はそう考えた。
 (でも、負けてたまるか。ぼくは絶対に志津子さんを取り戻してみせる)
 キッと顔を上げると、かれは乱歩を睨み付けた。
 「ホウ、どうしたんだね、怖い顔をして。たったいままで、泣きべそをかいてたんじゃないのかな」
 乱歩役の毒島は軽口を叩いたが、次の瞬間ビクリと身を引いた。相手の肉体の輪郭がふいとぼやけ、崩れた気がしたのである。
 (またおかしなことが起こるんじゃないだろうな、あの「お化け」の夜のように)
 「な、なんや怪態な按配ヤおまへンか、気色の悪い」
 同じとき、物陰から二人のやりとりを見物していた《退屈倶楽部》の一行のなかで、今仁博輔が頼りない声を洩らした。それがきっかけだった。なにものかに取り憑かれたかの如く身動ぎひとつしなかった仲間たちが一様に我を取り戻した。
 「フウム、実際なんとも云えず不可思議ですナ」
 葛城紅紫が髭をひねりながら煽り立てる口振りで云った。
 「大体ですヨ、この新開地に人っ子ひとりいないナンテ、そんなことがありますかネ。真夜中だって、酔っ払いとか福原通いの客とか、はたまた松尾稲荷サンへお参りする色っぽい筋の人とか、絶えず誰かが通ってますヨ。こんな長時間、誰一人としてここへ来ないということは考えられない。まして、ですナ……」
 芝居気たっぷりに声を高めた所で言葉を切ると、紅紫は一同をゆっくりと見渡した。
 「これは我われが《夢殿》へ集まって間もないうちの出来事だ、いまはまだ宵の口、新開地が大いに賑わっている時間じゃないんですかネ」
 「なんやて」
 その指摘に改めて怯えた様子の今仁が腰を引いた。
 そう云われてみれば、たしかに新開地本通りは不自然なまでの静寂に包まれている。眼前の湊座から遠く聚楽館の先まで展望のきく範囲に、人はもとより動くものの影はなにひとつない。のみならず、乳白色の月光しか射していない陰気臭いこの暗さは一体なになのだろう。血の海を思わせるネオンサインはさながら不夜城の如く、とうたわれたこれが新開地の情景なのだろうか。
 嘘臭い眺めの中央に、亮と乱歩とが睨み合ったまま凝固している。そこでは月の妖光がひときわ濃い。
 「正確には『誰ひとり』じゃないぜ」
 と、ニヤニヤしていた御堂幸吉が得意げに口を出した。
 「気がつかなかったかな。ここにいる仲間には馴染みの深い人物の影がさっきからチラチラしてるんだが」
 「そうなんだ。臼杵の奴、なにをしてるんだろうな」
 せっかく勿体ぶって問い掛けたのに八牧友雄があっさりと答えてしまったので、幸吉は不服の表情でかれを見る。しかし自慢の指輪を唇に押し当てた友雄は何ごとか真剣に考え込んでいて、そんなことには気付く様子もない。
 「大体作ったものをちゃんと届けもせずに厨房を出るなんて、あの誇り高い料理人には考えられないことなんだ。どうも妙だよ」
 その呟きを耳にした幸吉はたちまち機嫌をなおして笑みを浮かべた。
 「へえ。ということは、我らが策を練った計画を臼杵にも教えたのかい」
 「いや……」
 友雄が否定するのを聞いて、幸吉は満足そうに何回も頷いた。
 「ふむ、それならますます嬉しいじゃないか。あの堅物の臼杵さえ興味を感じて嗅ぎ付けたうえ、わざわざ見物に来てくれるとは、作者冥利に尽きるというものだ」
 「へッ、臼杵が堅物だって」
 壮太郎が冷笑とともに吐き捨てたが、それは幸吉にまでは届かなかった。
 「笑いごとやおまへンデ、なんやこう常やない……妖気みたいなもンを感じはらしまへンか」
 「なにを云ってる、そこが良いんじゃないか」
 不安げにあたりを窺う今仁の台詞を一笑に伏して、幸吉は二人に視線を戻した。
 「しかし毒島の奴、全体なにをしてやがるんだ。台本どおりもっと華麗にいたぶってやればいいものを。本物の乱歩だったらここでひとつ、アッという山場を持ってくるんだがなあ。いや、それはもちろん小説の……ん?」
 言葉を途中で切って身を乗り出すと、幸吉は目をゴシゴシ擦った。亮のズボンから白い鋭いひかりが放たれたような気がしたのである。だがいまよく見るとそんなものは名残りもなく、毒島と亮とは依然緊張しながら対峙を続けている。
 (錯覚か)
 幸吉がふと気を抜いたとき、亮の全身が突然、眩しい閃光に音もなく包まれた。月の光が吸い寄せられてそこに結晶したかのようであった。のみならず、それは照り返しの勢いで幸吉にも襲いかかってきた。
 (あッ!)
 叫びは、しかし声にはならなかった。刹那、熱い力が全身に走る。ただ、それは肉体を傷付ける凶悪な性質のものではなく、むしろ優しい、安らぎに充ちた息吹きとしてかれを覆った。程よく酔ったあげく、いままさに心地好い眠りを迎えようとするときのように、なにものにも代え難い至福のおもいが湧き上がってきた。いまやかれの生活の中核に位置する《夢殿》での時間、ことにも《血祭》の工夫を凝らした趣向、それらといえどもこれほどの満足をあたえてくれなくなって久しい。かつて『孤島の鬼』を、『蜘蛛男』を、『盲獣』を、初読したときの興奮と陶酔とをかれは憶い出した。
 (毒島……いや、乱歩、早く仕掛けていかないか)
 ワクワクする夢に引き込まれていきながら、かれは一心にそう念じている。
 だが、同じ光を浴びていながら、亮は苦痛をしか味合わなかった。とりわけ、志津子との間を引き裂かれた哀しみ、そしてその厄災をもたらした乱歩への憎悪が増幅し、膨れ上がってかれを揺さぶった。
 すぐそこにいる大入道、こいつが世界をこれほどまでに不幸に塗り潰したのだ!
 「許さない」
 身体を少し動かすと、息が止まるほどの痛みが走る。それを無理してねじり、亮は乱歩を睨みつけた。
 亮と幸吉、この二人をくるんでいた光から不意に分脈ができ、それが坊主頭の大男に飛び掛かっていった。白い光は男にぶつかって弾けるかの如くきらきらと輝き、そのなかで男の顔は苦しげに歪んだ。なにか目に見えぬ存在が摩擦を起こしているのだろうか、ギチギチとものが軋む音がし、きな臭い匂いがあたりに充満した。
 轟轟と、世界そのものが激しく揺さぶられる動き。だが、それらは渦巻きながら高まっていったかと思うと、いきなりとぎれた。
 喧騒から一転して訪れた静謐、それを破って男は不敵な笑い声を洩らした。いまは異様に大きく見える月が、妖しい光でかれを照らし出している。
 「……乱歩」
 「乱歩だと。馬鹿を云うな、俺は烟原外人だ」
 男の態度はさっきまでにも増してふてぶてしい。獣めいた強い口臭を亮はふと感じ取った。
 「…………」
 「ふふふ、乱歩もいいがね。『恐ろしき夢、奇怪なる幻』かね。『血と泥で塗り潰された地獄絵図』かね。『不可思議な未知の世界の、甘美にして芳醇なる妖気』かね。まあ小説を書く分には乱歩でたくさんだが、それはもう飽きた。もっともっとオドロな夢に形を与えるために出現した、それこそ吾輩、烟原外人だ。アハアハアハアハアハ、大いに期待して貰いたいものだね。いや、今夜は楽しかった。また遊ぼうじゃないか」
 亮に指で挨拶を飛ばした男は次に振り返ると、《退屈倶楽部》の一行が隠れている物陰へ向かって芝居気たっぷりにお辞儀をして見せた。それから高笑いの声とともに、軽やかな足取りで聚楽館のほうへ走り去ってゆく。
 亮はその場に崩れ落ちると、地面に差し延べた両腕に顔を突っ伏したまま動かなくなった。
 《退屈倶楽部》の五人もまた、一様に茫然と立ち尽くしている。未曾有の出来事が眼前を通り過ぎていったのは確実なのだが、それはまだ明確な形をもって迫ってくるには至っていない。ただひとり幸吉だけは、さっき体験した奇妙な感懐の余韻を心の隅に引き摺っていた。
 (なにかが起きる。素敵ななにかが、きっと)
 そんな予感にわけもなく胸を踊らせながら、しかしそれも夢のなかのことのようでもあった。
 街はいつか、普段の様子を取り戻していた。閉店した店のネオンサインが消えて宵の口よりは淋しくなったというものの、それでも依然原色のひかりが本通りを飛び交う。月の光はなかった。曇ってきたのか、それとも最初からそんなものは存在しなかったのだろうか。
 そこをあたかも芸者を連れた旦那が通り掛かった。
 「あれ、どうしたのかしら、人が倒れてますわ」
 芸者が亮の姿を見付けると同時に、旦那はその先の闇のなかに潜む五人の男たちを認め、ギョッとして身を引いた。しかし、かれらは凝固したまま動く気配はない。
 「関わると面倒だ。さ、行こう」
 旦那は囁き、芸者の手を引いてそそくさと立ち去ってゆく。しかし、《退屈倶楽部》の面面はそれにさえ気付かずにいるのだった。

《第三章 乱歩変幻/了》


掲載 1999年12月29日