第四章

鏡のなかの肉叢

     

 ……歩いている。
 周囲は薄明りに包まれているものの、視界は一向に定かではない。そこが曖昧な彩りを帯びて映るのは、霧や靄がかかったせいだろうか。それとも光が奇妙な屈折をしているせいか。
 いや、空間そのものが腐敗して溶け出そうとしているのだ、という思いが不意に強く湧き立ってきた。
 足もともひどく頼りなかった。ぬかるみの中を歩いているかの如く足の裏がグニャグニャして踏みごたえがないうえ、油断をするとたやすく滑る。
 歩きつづける。
 あたかもそのこと自体が目的と化したかのようであった。一歩、また一歩と着実に、機械的に、半ばは惰性のように足を差し出してゆく。だが、ぼんやりと霞む視野はまるで変わり映えがせず、本当に前進していっているのかどうか、甚だ疑問であった。
 いまは昼と夜とのあわいなのだろうか。夕暮れ? それとも、暁方? ……いや、あわいというならば、ここは此界と異界とが重なり合った、そのどちらにも属さぬ特有の地帯なのではないか。
 それは非常に重大な発見のように思われた。触れてはならぬ秘密を、その気もないのに弾みで暴いてしまったかの如き、後ろ暗い興奮が訪れる。だが、その報いはすぐにやってきた。足の下、不安定ながらもかろうじて続いてきた大地の感触が突然消えてしまったのだ。突然姿を現した底知れぬ奈落へ、凄まじい速度で吸い込まれてゆく。……
 急激に訪れた覚醒は、とても苦い味がした。心臓がドキドキと高鳴っている。咄嗟になにかを掴もうと伸ばした掌を未だ固く握り締めていて、そのなかは汗でグッショリと濡れていた。
 「………」
 務代亮は布団のうえに上半身を起こし、深呼吸をしながらかぶりを振った。亮の居間も黄昏めいて仄暗く、その眺めは夢のなかと寸分変わることはなかった。しかし両者の段差は絶望的なまでに大きい。
 (歩き始めたのがいけなかったんだ)
 歯がみするおもいで亮は考えた。それ以前にはたしかに志津子と一緒にいて、二人きりで面白おかしく戯れていたのだ。せめてその記憶を呼び戻そうと亮は試みる。だが悔しいことに、それは灰いろの空間の彼方にあまりにも遠い。のみならず、そこを敢えて掻き分けて志津子のもとへ少しでも進もうとすると、乱歩の像が脳裡に現れて妨害する。かれはあのいやらしい笑いを浮かべ、両腕を広げて亮のもとへ迫ってくるのだ。
 「乱歩のやつ……」
 呟いたとき、視野の片隅でなにかが動いた。
 「えッ」
 その方向に神経を集中させた亮は、はっと息を呑んだ。
 白い小さなものだった。襖が僅かに開いた隙間にそれはカタカタと小刻みに動いている。亮は慌てて近付きながら、自らのズボンのポケットに手を突っ込んだ。そうして志津子から唯一贈られた大切なお化け人形、それが盗まれずにそこに在ることを確認したかれは、改めてそのものに見入る。
 それは亮の掌中のものとそっくり同じ形をしていた。ただし、真っ黒に塗られている表面が、こちらのほうは真っ白い。
 白いお化け人形。
 その小さな腕には手紙が差し挟まれていた。すぐさま取り上げて開いたが、薄暗くて文字はよく見えない。それでようやく、室内の電灯をつけないままでいたことにかれは気付いた。
 手紙はいつもの活字の切り貼りではなく、万年筆で走り書きされていた。

 この白いお化け人形は、志津子の骨を細かく擂り潰し、しかる後に固めて造ったものだ。
 ……安心したまえ。というのは嘘だから。
 だが、冗談ではなく貴君に伝えたいことがある。いますぐ、《夢殿》へお出でを乞う。

 そして行を改めて、血を思わせる赤錆いろのインクで大きく、「烟原外人」と署名してあった。
 「《夢殿》……」
 亮は立ち上がると、そのまま夢遊病のような足取りで部屋を出て行った。
 「実際、龍頭蛇尾も甚だしい。『悪霊』みたいなものだ」
 と、その《夢殿》では幸吉が慨嘆していた。新開地本通りに不思議なひかりが走った夜、あのときには思いも寄らぬ素敵なことが始まる合図だと思い込んだのに、その後一向になにも起こらないままに時間ばかりが徒らに打ち過ぎているのだ。亮は道路に倒れ込んで以来またしても魂を抜かれたかの如く、日がな一日眠りこけている。のみならず乱歩役の毒島があれから消息不明で連絡がつかない。幸吉の構想する一大妖幻探偵劇は、順調な滑り出しにもかかわらず、中絶の危機にさらされているのであった。
 「マアマアそうおっしゃらずに」
 葛城紅紫が執り成すように云った。
 「自家製乱歩だけが猟奇ではないのですからナ。今夜ばかりはひとつ乱歩を忘れて、大いに《血祭》を楽しむことにしましょうヤ」
 そうして今回の《血祭》を主催する市来壮太郎をちらりと見る。壮太郎は例によってお密を叩きまわして、既に半ば座った目をしている。
 「お待たせ致しました」
 そこへ料理長の臼杵が入ってきた。テーブルのうえへ恭しく置いた大皿には、小さな白い塊がぎっしりと並べられている。
 「なんでっか、これ。……なんや、見たとこ蛆虫みたいでっけど」
 「そのとおり。正真正銘の蛆虫さ」
 皿から顔を上げながら、こわごわ、というふうに尋ねた今仁に、友雄はあっさりと答える。
 「といっても、便所に湧いてるのを拾ってきて並べただけ、というような安易な料理じゃない。時間と技術がたっぷりかかってるんだ。なあ」
 「ええ」
 話を向けられた臼杵は微笑んだが、その表情はどこか哀しげであった。
 「これらの蛆虫は半年の間、強いお酒に漬け込んだものでございます。もちろんその前にきれいに洗ったうえ、体内に呑み込んだものをすっかり吐き出させております。いまでは虫と云いますよりは、アルコール分が固まった独特の食べ物になっているかと存じますが」
 解説する料理長の傍らで、友雄は数匹を無造作につまむと口のなかへ放り込み、力を入れて噛みついた。「うん。なかなかのものだよ」と、かれはご満悦だが、蛆の潰れる「ブチュッ」という音を洩れ聞いた憂子は顔をしかめて後ろずさった。
 そのとき、カーテンの向こうの専用出入り口で音がした。取っ手を右へ左へと回し、それが開かないと判ると戸をうるさく叩き始めた。
 「誰だろう」
 友雄が立って行って鍵を開ける。
 その瞬間、轟と劇しい音がして突風めいたものが吹き込んできた。揺さぶられた電灯が点滅し、ふいと消える。だがそれはごく僅かな間のことで、女給たちの悲鳴がいっせいに上がったときには、すべては錯覚に過ぎなかったかの如く旧に復した。明るい室内は穏やかに静まっている。総立ちになった人びとが順次席に腰を下ろしてゆく。ただ、臼杵だけは騒ぎに驚いて逃げたのか、姿が見えない。
 その代り、部屋の隅に務代亮が泣きそうな顔をして立っていた。
 「……乱歩が……いや、烟原外人が……志津子さんはどこに……」
 「どうした、落ち着け」
 虚ろな顔付きで断片的な言葉を呟く亮のもとに幸吉が近付いて行った。震える手に握り締めた紙に気付き、それを開く。
 「ほう。烟原外人からだ。《夢殿》へ来いと指示してある」
 顔をあげて幸吉がその内容を一同に紹介したとき、亮が奇怪な声を上げた。そのままテーブルへ走り寄る。
 蛆虫の皿の横に、白いお化け人形が立っていた。
 「…………」
 それが挟んでいた手紙に目を通した亮は、その場に膝をついた。幸吉が横から手紙を取り上げる。
 「『見物衆ともども、鶴亀楼へお越しあれ。烟原外人』。……むう」
 読み上げた幸吉もまた絶句した。
 「ふん、今夜の《血祭》には、かの怪人まで来てくれるのかい」
 市来壮太郎が皮肉げに顔を歪めて云った。かれは自宅でもある遊郭・鶴亀楼に異次元を覗くための趣向を用意していて、これからそこへ向かおうとした矢先だったのである。
 「さすがは怪人、なんでもかんでもお見通しなんですネ」
 紅紫が真面目くさった表情で云って視線を向けてくる。幸吉は咄嗟ににやりと笑って、小さく頷いた。
 (どういうことなんだろう)
 と、それから考える。
 (こいつらはこの手紙も俺が仕掛けたと思っているにちがいない。また、たしかに俺好みのやり方だということは認めざるを得ない。でも、現実には俺はなにもしていないんだからな。ふうむ)
 「さて、じゃあ新たなご招待状が届いたことでもあるし、そろそろ出掛けることにしようか」
 友雄が一同に呼び掛ける。幸吉は少し年長のこのカフェーのオーナーを注視した。
 (八牧さんの仕業だろうか。……いや、いやしくも《夢殿》へ入ることを許されるくらいの人間ならば、俺の仕掛けに乗って話を面白くするくらいのことは、誰が考えてもおかしくはない。うむ)
 最初こそ驚いたものの、考えるうちに愉しくなってきて、幸吉の心は弾んだ。頼もしいその同志たちが立ち上がり始めたなか、今仁がグラスに残った赤葡萄酒を慌てて呑み干そうとして噎せ、激しく咳き込んだ。幸吉は苦笑を洩らす。
 (もっとも、こいつでないことだけは確かかな)
 極度の緊張に耐えかねたのか、亮はぼんやりと気の抜けた様子でいる。その背中を幸吉が押すように促して、一行は外へ出た。夜風はもうよほど暖かくなっている。紅紫が心地好さそうに大きく深呼吸をした。
 「ホウ、花の香りがしますナ。《血祭》もけっこうですが、明日はひとつ夜桜見物と洒落ませんかネ」
 「いかんいかん、そんな凡人の真似をしては《退屈倶楽部》の沽巻にかかわる。もしやるとするならば……あッ」
 喋りながら角を折れた幸吉が声を上げた。友雄が、壮太郎が、紅紫が鋭く息を呑む。ひとり事態が掴めず、仲間の顔とかれらの視線が釘づけになったほうとを交互に見ていた今仁がようやくそれを見付けた。
 「あれ、衛生薬局の人形やおまへんか。……えッ、ちゅうことは……まさか、闇に乗じて散歩しとぉとこやと……」
 「うむ、まさしくその風情ですが……ただ、黒マントは羽織ってませんナ」
 いつか《夢殿》でその噂を紹介した紅紫が首をひねった。
 廃屋めくしもたやの玄関先に、坊主頭の男が突っ立っている。全裸で、病状の詳細までは確認できないものの、福原の市電通りでいつも見掛けるあの人形に間違いはない。ただ、しばらく見守っていたが、動く様子はなかった。
 幸吉が先頭を切って近寄って行く。
 目を瞑った顔のあちこちに噴出したできもの、腕を隈なく覆う斑点、腐ったように崩れかけた下半身の肉、暗いなかにあっても、それらがはっきりと認められてきた。それとともに、薬局店頭に置かれた人形とはそっくりだが、別のものであることが判った。つくりが本物以上に精巧で、グロテスクな装いを異様なまでに強調している。さすがに幸吉も身が引ける思いに見舞われたとき、
 「なんか用かい」
 いきなり声をかけられたので、かれは腰を抜かしてその場に引っ繰り返った。
 だが、人形が喋ったのではなかった。その背後に人夫がいて、胡散臭げに幸吉を見下ろすと、煙草を投げ捨てた。
 「ないんだったら、行くぜ」
 そして、人形を担いで福原のほうへ歩み去った。
 「……あの人形、運ぶ途中で一服してはったんですね」
 「判りきったことを云うなッ!」
 醜態を見せたので機嫌の悪い幸吉が今仁を怒鳴りつける。その隣で友雄は、廃屋の戸を押したり引いたりしている。だが、それはぴくりとも動く様子はない。
 「八牧氏は以前にも同じことをしていましたネ」
 目敏く見付けた紅紫がそっと近寄って、囁き掛ける。
 「そう。まさにあの家さ。いや、さっきの人夫がここから出て来たような気がしたんだよ。錯覚とはどうしても思えないんだが」
 「へえ」
 かつて不祥事の舞台となったというその家の戸に紅紫も手をかけたが、もとより結果は同じであった。そうしながら紅紫はずっと、視野の隅で亮を捕らえている。しかし亮は放心状態を脱していず、なんの動きも見せなかった。
 「なにやってるんだ。鶴亀楼へ行くぞ」
 幸吉が怒った声を投げ掛けてきた。

     

 新開地に隣接する福原は、東京の吉原、京都の島原と並んで「日本の三原」と呼ばれる大きな遊郭地帯である。「カフェー黒薔薇」の角を真っ直ぐ北上して市電通りを渡った桜筋は福原の中心で、検番が置かれていた。
 名のとおり、その広い通りの中央には桜の樹が連なっていて、いまは幾つものぼんぼりの明りが満開の花を照らし出し、一面を淡い桃いろに染めている。筋の両側に並ぶ妓楼は三階建ての御殿と見紛う宏大な造りを誇り、三味線や太鼓の音が交錯しながら鳴り響く、ここは別世界であった。同じ福原でも「溝の側」や「稲荷陣地」などとは違って桜筋は格が高く、ことにも「松浦楼」や「松竹楼」、「鶯宿楼」といった一流どころでは一見客はやんわりと断られることもある。桜筋を折れて少し行ったところにある「鶴亀楼」はそれほどではないが、いい客筋を掴んで繁盛していた。
 その鶴亀楼で、黒光りのする廊下の突き当たりから、擬宝珠を乗せた朱塗りの手摺りをつけた階段を上った先に、特別の一室を壮太郎は準備させていた。二十畳はあろうという広い座敷に酒肴を配した銘銘膳を人数分並べ、それぞれに大きな座布団と脇息を添えてある。黄金いろの燭台に乗った百匁蝋燭は、室内を優雅に浮かび上がらせた。
 「ホウ。これはよほど上等の客しか通さない部屋なんでしょうナ」
 「上等、ね」
 紅紫がお世辞を云った、その言葉を捉えて壮太郎は冷笑した。
 「その通り、上等も上等、親父が特別に造らせて入り浸ってる、ってわけさ。年甲斐もなく、な」
 その父とは勿論この楼の主のことではなく、さる実力者を指すものに違いない。吐き棄てる口振りに一座の空気は白けた。
 会話がとぎれると、遠い三味線の音に被さって、猫の鳴き交わすしゃがれ声が聞こえてくる。空気には香しい匂いが微かに漂っている。遊女の艶やかな化粧や着物のそれが流れてくるのだろうか。いや、あるいは永い歳月の間にこの部屋に染み込んだものかも知れなかった。
 「さすがは福原だな。花魁がいなくっても充分になまめかしいじゃないか」
 「春だからな。温かくなって盛りがつくのは、なにも猫だけじゃあない。おかげで女郎屋は商売繁盛で、笑いが止まらないのさ」
 室内を見渡していた幸吉が云ったのへ壮太郎はにべもなく答えたあと、にやりと笑って付け加えた。
 「実は今夜の《血祭》は、それを覗き込もうという趣向なんだ。といって、単なる出歯亀では芸がない。そこで、乱歩得意の鏡トリックを導入する。ホラ、いくつもの鏡で中継して映像を離れたところへ送るという、アレな。いやあ、あんなもの小説のうえでしか成り立たないと思っていたが、さに非ず。実地に試みると実にうまくいったんだ」
 得意げな壮太郎の台詞に、紅紫が必要以上に大きく頷いて見せた。友雄は澄ました顔を崩さずにいるが、意識せぬままご自慢の指輪を唇で撫でて、内心の面白がりぶりを表現している。幸吉は無遠慮に笑った。暗闇のなかで鏡の細かい角度を合わせて苦闘するさまを想像すると、おかしくてならなかったのである。それは、女性に対して捩じれた感情を持つ壮太郎なればこその趣向であった。
 「さて、それじゃ早速始めるとするか。今夜は烟原外人氏演じる第二部もあるらしいしな」
 壮太郎はしかし仲間の反応を好評と受け取ったらしく、機嫌良く立ち上がった。いまの言葉で幸吉は亮を思い出したが、かれは依然としてうつけた表情で座り込んだままであった。
 座敷の反対側に置かれていたのは三面鏡なのであった。覆っていた布を取って開くと、横長の鏡面がそこに現れた。そうしておいてから蝋燭を隅の一本だけ残してすべて消し、廊下側の襖を引く。最後に三枚の鏡の向きを微妙に調節すると、そこに突然、淡い像が浮かび上がった。
 鏡面は一面灰いろながら仄かな明るみを帯びていて、なにか微かに蠢くものの影がある。それは粗く不鮮明で、絶えず揺れている。のみならず、焦点がふと合ってそこに在るもののかたちがはっきりしたと思っても、次の瞬間にはまったく曖昧に蕩けてしまう。そんな状態で意味不分明ながら、眼前の絵姿には変に生生しいところがあって、《退屈倶楽部》の面面は一様に喰い入るかの如く見入っている。
 「ハハア、判った。これは頭なんですナ」
 しばらくして紅紫が声をあげると、ついと身を乗り出して扇子の先で映像の黒い箇所を指した。手掛かりがひとつ掴めたことでかれ自身絵解きが一気に進んだらしく、昂ぶった声でそれをいちいち報告した。
 「ホラ、女性がコウ横たわっていて、これは島田が揺れてるんですヨ。このグラグラするのが、上に乗った男の顔ですナ。女の胸をはだけて、丁寧に愛撫して……アッ、顔を近寄せてきて……埋めた。……と思ったら、ナント、乳首を噛んで引っ張ってますヨ」
 言葉に大袈裟な抑揚をつけて臨場感を盛り上げながらかれは喋る。といって画像がにわかに定かになったわけではなく、多分に紅紫の想像によるところが大きかったが、云われてみればたしかに絡まり合う男女の姿が中央と右側の二面にかけて、霞みながらも映し出されているのであった。
 組み伏せるように下へ置いた女に向かって、男は丹念な素振りで前戯に力を入れている。頬へ乗せた掌をやがて髪にまわし、うなじから襟足へとゆっくり揉むように撫で回したかと思うと、突然乳房を鷲掴みにする。それに反応して腕を首に巻いてきた女の動きに合わせて覆い被さると、唇を合わせる。そのまま手は下腹部へ伸びていく様子だったが、あいにく細かいところまでは見えない。
 「滑稽だね」
 「……はぁ」
 しばらくして幸吉が呟いたのに対して、今仁が頓狂な声を出した。
 「滑稽だって云ったのさ。実際、惚れたの腫れたのと構えは大層だけど、結局辿り着くところは毎回毎回同じことの繰り返しに過ぎないじゃないか。それも他人がよろしくやってるところを見ていると、よく飽きもしないでつづくもんだと感心するよ」
 「ははあ……そらまぁ、このご仁は相当にしつこい質ですもンなぁ。やるんもやられるんも、お互いにしんどいかも知れまへンけど……」
 「なんだって、まさか今仁はこの程度のこともしないであっさりと終わってしまうんじゃないだろうな」
 「えッ。……いや、そら……良ろしやン、そんなこと」
 気取ったつもりが逆に付け込まれて、今仁はうろたえた。
 「まあ、今仁くんの悩みはともかく」
 と、友雄が指輪を唇で嘗めながら割って入った。
 「ぼくは御堂くんとはまったく逆の意見だね。性行為自体はたしかにありふれた、小詰まらないものだが、それがかくも幻想的に、美しく見えるものかと、さっきから感嘆これ久しゅうしていたんだ。芸術、とまでは云わないがね。しかし、倦怠に包まれた憎悪すべき日常をひととき忘れさせてくれる価値はたしかにある」
 「駄目駄目、こんな程度で満足していては、鏡の魔術の神髄に触れたとは云えない」
 そのとき、断定的に否定する声とともに黒い影がずいと前へ進み、三枚の鏡を乱暴に触った。絡まり合っていた男女の朧ろな姿はたちまち掻き消されてしまったが、代わって別の像に焦点が合った。いままでとは違う部屋で繰り広げられる情景だろう、やはり男女二人で、ただし女は立っている。像はよほど鮮明であった。
 (いま飛び出して来たのは誰だろう)
 と、幸吉はそれが気にかかって首を捻った。
 (台詞は壮太郎がうそぶきそうなものだけど、声音が全然ちがう。身体つきだって、あいつはあんなに骨太じゃないし……といって、他には見当がつかないし、な)
 疑惑は、次の瞬間には吹き飛んでいた。男がいきなり女の頬を張ったのだ。もとより鏡像のこととて、音は聞こえない。しかし全身の力を込めた激しく強い勢いであったことは間違いがない。女は顔をのけぞらせ、次いでうなだれた。
 (壮太郎の奴、いつの間に別室へ抜け出して、アレを演じているのかな)
 いつも酒器のお密に対してとる振る舞いを思い出して、幸吉は舌なめずりしながら頷いた。
 (こいつは面白くなりそうだぞ)
 そうして見ると、女は全裸で後ろ手に縛られ、床柱に括りつけられているのだった。自由を奪われた女を、男はいいようにいたぶりにかかった。
 秘部に顔をくっつけて嘗めるように観察する。両の乳首へ洗濯鋏を噛みつかせる。そうかと思うと、羽根箒を持ち出してきて全身をくすぐりぬく。……
 女は苦悶の表情を露わにし、しきりと泣き叫んでいる様子だが、声はいっさい聞こえない。それがかえって刺戟的であった。紅紫の解説を仰ぐまでもなく像は明瞭であり、一同はこぞってそれに見入った。
 その情景は、しかし一人亮にだけは届かなかった。いや、かれには先刻からなにも届いてはいなかった。自分が何故いまここにいるのか、それさえ定かではないまま、かれはなにか幸福な気持ちに浸っていた。……あたかも夢のなかをたゆたっているかのように。
 突然、それが崩れた。
 背後から肩を叩かれたのである。いやいやかれは振り返る。
 乱歩が……いや、烟原外人がそこに座っていた。咄嗟にはその意味に気が付かず、亮はきょとんとしている。すると闇が斑にちらつくなか、烟原外人はニヤリと笑い、両腕を大きく振り翳して襲いかかってくる真似をした。
 「……」
 意識がにわかに旧に復した。思いが一時に込み上げてきて、言葉にならない。
 烟原外人は大柄な外観に似つかわしくない敏捷さで襖を開け、脱兎の如く廊下の側へ出ていった。それを追いながら、どす黒い絶望が頭を擡げてくるのを亮はふと意識した。
 一方、鏡の像は次第に過激さを増してきていた。鞭打ちや局所の責めがつづいたあと、男は柱の後ろへ回り、首と胸、それに足首のところで身体をそこへ固定していた縄を緩めて、女を畳のうえへ横たえた。しかし手足の縛めそのものは解いていない。それどころか、足にはさらに二重三重と縄を回して補強しさえした。
 「ハハア。これはきっと、逆さ吊りを試みるつもりなんですナ」
 紅紫が呟く。あたかもそれを合図にしたかの如く、男は女の足に巻き付けた縄の余りを天井の梁へ向けて放り投げた。そこへ通してから力任せに引くと、女の肉叢は軽軽と舞い上がった。揃った脚と腹部が真っ逆様にすらりと伸びたそのものは、人間の体とは別のオブジェのように見えた。ただしそれはもとより生を孕んでいて、苦しげに小刻みに蠢きつづけるのが妙に煽情的だった。男の姿は消え、鏡は逆向きに固定された裸像のみをずっと映し出した。
 やがて戻ってきた男は、太い出刃包丁を手にしていた。そうしてその場にしゃがみ込むと、畳の上一尺ばかりのところに浮いた女の頬にそれを押し付けた。女は目を見開き、口を慌ただしく動かす。男は立ち上がると、今度は刃を女の下腹部へぴったりと当てた。
 「……ああ。冷たい鋼が情け容赦なく大切なお腹を襲ってくる」
 紅紫がおかしな抑揚をつけて語り始めた。
 「逆さに見上げて来る男の、グロテスクに歪んだ残虐な顔。男はキットやるに違いない。あの鋭い刃でわたしの身体を切り刻むに決まっている。それなのに何ということ、抵抗ひとつすることができないなんて。ああ、血が頭に上って、もう……」
 「うるさい。三文弁士は黙ってろッ」
 幸吉がぴしゃりと云ったのへ紅紫はムッとした顔を向けた。
 「そうだね。せっかくの良い場面なんだから、ここはひとつ静かに見ようじゃないか」
 しかし友雄にもそう諭され、かれは不承不承口を閉ざした。
 だが、紅紫の読みそのものは間違っていなかった。男は間もなく刃を立てると、女の腹の上を真横にすっと動かした。白い皮膚に描かれた細い線、そこからしばらくして血がいっせいに流れ出した。といってそれは傷付けるのが目的ではなく、恐怖を与えるのが主眼の、いわば予備的な行為であることがすぐに判った。男は決して致命傷を負わさぬよう心を配りながら、彼女の裸身をところ構わず切り付けに掛かったのである。
 「……しかし、なんともエゲツナイことをやりよりますな。もう見てられへンワ」
 今仁が辟易した声をあげた。生傷は既に女の全身を隈なく覆い、ここからでは一片の大きな肉塊と化したかのように映った。しかし、ここだけはきれいなままに残された顔は醜く歪んで、ぜえぜえと粗い喘ぎを洩らしつづけている。
 「うん。たしかに残虐なことはこの上ないが……」
 と、友雄は云いかけたまま言葉を切った。
 「なんですねン」
 「いや、錯覚かも知れないけれども、あの男、我われのことを意識して事を運んでいる気がしないかい。
 「……」
 「我われ、というのは云い過ぎかな。でも、少なくとも今まさに他人に見られていることは弁えて女をいたぶっている……どうもそんな素振りが見えて仕方ないんだがね」
 「ほう」
 幸吉は愉しそうな声を出すと、改めて鏡面に見入った。
 そこからふいと男の像が消えた。同時に、逆吊りにされて久しい女の身体から動きが次第に失われてゆき、ついにはだらりと力なく垂れ下がってしまった。失神したのかも知れない。
 そこへ再び現れた男は、いきなり両の掌で傷だらけの女の肉体を撫でつけた。しばらくして手を離すと、畳に置いた壺からなにかを掴みだし、また同じことを繰り返す。女は正気を取り戻したばかりか、空しい抵抗を試みているらしくて、肉叢は大きく揺れた。口が大きく開いて、強く絶叫をつづけているらしい。
 「……塩ですナ。生傷に塩を揉み込んで回ってるんですヨ」
 紅紫が諦めたように云い、今仁は妙な声を洩らして顔を背けた。しかし、幸吉と友雄は身を乗り出した姿勢を崩さない。
 おそらくは断末魔の凄まじい叫びをあげつづけているのであろう女を残して、男はまた像の外へ出た。訝かる間もなく戻ってきたかれは、青龍刀だろうか、差し渡し三尺ほどもある大きな刀を手にしている。
 虚ろだった女の眸と口とがこれ以上ないほど開かれ、そのまま固定する。鏡のこちら側では生唾を呑み込む音が変にはっきりと響いた。
 男は刀を背後にまで持ち上げる。そこでしばらくの間溜めをきかせたあと、勢いをつけて一気にそれを振り降ろす。
 沈黙が鋭く凝固したその刹那、女は首筋で美事に真っ二つに切断された。下向きの切り口から鮮血が激しい勢いで噴出する。一方で床に落ちた生首は弾みで回転し、立ち直った。自らの血流を上から夥しく浴びながら、眸をくわッと見開いて、あたかも《退屈倶楽部》の一行を怨みがましく睨みつけるかのようであった。
 「ヒューゥッ」
 幸吉が詰めていた息を解く。そのとき、男がゆっくりと振り返った。
 「あッ」
 驚きの声が交錯する。鏡の向こうでこちらをはっきりと見据えてニヤリと笑ったのは、乱歩役を与えられながら失踪したあの毒島だったのだ。
《第四章 鏡のなかの肉叢/つづく》

     

 逃げる烟原外人を追って務代亮は座敷を出たが、怪人の姿は薄闇のなかにたちまち紛れてしまった。真っ直ぐつづく廊下の両側はぴったり閉じられた襖が連なっていて、天井に間隔を置いて設置された裸電球がおぼつかない光を点すに過ぎない。あたりは静かで、人のいる気配はしない。ただ、どこか遠くで猫がしゃがれ声を上げている。
 やむなく亮は、あてずっぽうに歩いた。
 廊下の突き当たりを折れると右側は硝子戸になって、月明りが射し込んできていた。向かう先の廊下の板と襖は白い光にしっとりと呑み込まれ、別の空間が広がっているかの如く映る。亮は思わずその情景に見入った。
 「あン」
 と、耳もとで突然声が聞え、かれは痙攣に襲われたようにびくりとのけぞった。しかし、そこに人影はない。
 ……やがて事態を悟ったかれは、息をそっと吐き出した。襖の向こうから遊女の睦む声が洩れてきていたのだ。ひとたびそれと気付くと、各部屋は女と客とですべて埋まっている気配が伝わってきた。すぐこの向こうでいま、何組もの裸の男女が絡まり合いまぐわっている。その事実にひどい嫌悪を感じて、亮は顔を背けた。
 「志津子さん……」
 次の瞬間、思い掛けぬものを見出だして、かれは全身を硬直させた。
 廊下の先、月光がひときわ明るく溜まったなかに志津子が立っていた。彼女は花魁姿に身をやつしていた。赤と金いろを主体とする艶やかな着物を纏い、島田髷に結った髪には簪がきらきらと光っていたけれども、白粉で綺麗に整えられた顔はなんとも悲しげであった。それも道理で、彼女は後ろ手に縛られたうえ、猿轡を噛まされていたのだ。
 「烟原外人の奴ッ!」
 亮は慌てて駆け寄った。
 月の光のせいか異様に白く見える志津子の顔がどんどん大きくなってきた。香しい匂いや微かな衣擦れの音を意識する。彼女はもう目の前にまで迫り、亮は手を差し延べた。もう何か月も離れ離れになっていた、その華奢な肉体……しかし、予想した感触は遂に伝わって来ず、勢い余って亮はつんのめった。
 「……いない」
 慌てて周囲を見渡すが、がらんとした廊下には月光が音もなく戯れているばかりで、志津子はもとより、人影さえなかった。
 (錯覚だったのか。……志津子さんの姿は幻影に過ぎなったのだろうか)
 落胆する亮に追い討ちをかけるように、女の嬌声が背後から湧き起こった。振り返ると、そこから楼の奥へと向かう廊下の先にぼんやりとした像が浮かんでいる。そちらを目指して走る亮を取り巻いて、なまめかしい声は二つ三つと重なって漂いつづけた。
 (違う、彼女じゃなかった。これは……さっきの人形……)
 すぐ近くまで来て、ようやく亮はそれに気付いた。楼のなかにある廊下の四辻、そこに立て掛けられているのは、衛生薬局の標本人形だったのだ。
 (こんなものが何故ここに……)
 訝しみが横切ったとき、それがニヤリと笑った。
 「えッ!」
 はっとして身を引こうとするより早く、人形は抱き着いてきた。裸の両腕を亮の頭に回してしっかりと押さえ付ける。強い力を加える臘の固く冷たい感触が肌に伝わってきた。だが、それよりも、
 (うわあああッ!)
 人形の顔いっぱいに広がったできものがかれのすぐ眼前にあった。性病末期の柘榴のような赤黒い腫瘍が、大きいものは親指の先くらいに盛り上がっている。それを人形は亮に押し付けてこようとしているのだ。
 相手を引き離すべく、その両肩に手を付いて突っ張る。しかし、力は人形のほうが強い。満面に笑みを浮かべたただれた顔がじりじりと迫ってきた。懸命に顔を背けようとするが、人形は許さない。せめて眼を閉じてみたものの、これは逆効果だった。敵の動きが気になって落ち着かないのである。
 人形との距離はじわじわと縮まってくる。そして、亮の震える腕がついに力尽き、ガクッと折れた。
 おぞましい人形の顔が亮のそれに被さる。できものが潰れるプチュッという音。噴出するグチャグチャの膿。ドロドロの液体が皮膚を伝う、粘っこい感触。……
 だが、瞬間に覚悟したそれらは来なかった。
 (?)
 おそるおそる眼を開けた亮は、変てこな気持ちに襲われた。さっきとまったく同じだった。生を持つ人形の姿などは無かったのである。
 緊張が解けた亮の周囲で、女の溜息混じりのなまめかしい声がにわかに高まる。それが自らの存在と行為を嘲笑うかの如く、かれに刺さった。
 「志津子さぁんッ!」
 押し寄せてくるものに抵抗して、声を限りにわめいてみる。だがそれは狂騒のなかにいともたやすく呑み込まれてしまい、なんの反応もなかった。
 「志津子さん、志津子さん、志津子さん。志津子さぁん。し・づ・こ・さあぁぁぁぁぁんッ!」
 衝動が突き上げてくるまま、かれは何回も繰り返した。
 二本の廊下が縦横に交わる中央にかれはいて、どの方向を見ても娼客の泊まる部屋が連なっている。しかし、かれの絶叫にもかかわらず襖の開く部屋はひとつとしてなく、そこからはただ交合の声が洩れつづけるばかりであった。
 すぐ近くで聞こえる女の声が絶頂を迎えて、悶えと歓びとがないまぜになってにわかに高まった。と、間を置かず他の数多の女もそれに習った。断続的だったものが連続するようになり、抑揚もついてそれはワンワンと籠もりながら響いた。のみならず、そこへ鳴り物の音が重なってきた。三味線や太鼓、琴も入って、歌う声がゆっくりと高まって亮を取り囲んだ。音はそれぞれが混じり合い増幅して、潮騒の如く遠く近く轟いた。
 ……その声はいつから始まっていたのだろう。底流に似て低く漂っていたそれが徐徐に勢いを得てゆき、やがてふいに表へ躍り出た。烟原外人にちがいなかった。怪人の哄笑がひとときあたりを席巻した。
 「どうした、もう諦めたのか」
 笑いが止むと同時におかしそうな声が掛り、振り向くと暗い廊下に烟原外人が立っていた。傍らに抱きかかえた人影は志津子であった。さっきとは打って変わって、彼女は肌襦袢一枚の姿であった。上半身の自由は依然として奪われている。
 怪人が後ろを向いたのを機に、言葉は発さぬまま亮は駆け出した。二人の足取りは早く、亮は追い付けないばかりか、むしろ次第に引き離されつつあった。
 (志津子さんはなんだって敵に協力するんだろう)
 と、息を切らせながら亮は思う。彼女さえ抵抗して踏ん張ってくれたなら、たやすく手が届くのに。そうなったら、烟原外人なんか逃亡しようがどうしようが構わない。……だがよく見ると、志津子の足は動いていなかった。両脚を揃えて伸ばしたまま、滑るように進んでいるのだ。反して亮の足はもどかしかった。空気が粘っこくまとわりついて邪魔をし、苛苛するほどゆっくりとしか進まない。
 それにしても、この遊郭の広さはどうなのだろう。さっきから幾つも幾つも連なる襖を横に、かれはずっと走りつづけているではないか。
 そう考えた途端、廊下は壁に突き当たり、先行する二人は左へ折れた。亮がつづいたとき、僅かな間しかなかったのに、かれらの姿は既になかった。
 「…………」
 困惑してあたりを見渡すと、どうしたことか反対側の廊下の奥、彼方に白い影がぼんやりと見えた。志津子が倒れているにちがいない。ガクガクする脚を引き摺って亮はそちらへ向かう。
 彼女は気を失って、廊下にぐったりと横たわっていた。
 「……志津子さん」
 今度こそ消えてしまうことのないよう、その身体をしっかりと見据えて亮は彼女のもとへ急ぐ。
 志津子はいま、ここにいる!
 だが、跪こうと脚を曲げかけた亮の襟を何者かが掴み、グイと強く引っ張った。首が締められて一瞬息ができなくなる。そのまま後ろへ倒れ込んだかれは、頭のうえで衛生薬局の人形がニヤニヤ笑いながらこちらを見下ろしているのを認めた。
 「なんで邪魔するんだッ!」
 半ば涙がかった声で抗議しながら身を起こすと、人形は志津子との間に素早く回り込んで両腕を横へ広げ、とおせんぼをして見せた。
 「どけ、どいてくれッ」
 突き飛ばす勢いで掛かっていったが、相手のほうが強かった。胸をひと突きされて亮は吹っ飛び、背後の襖を押し倒して部屋のなかへ転げ込んだ。
 ……一瞬失神したのだろうか、後頭部がズキズキ痛み、脳裡がボウとする。襖は四方ともピッタリ閉められていて、どこから入ったのか既に定かではない。
 室内に人はいず、ガランとしていた。布団が二組きちんと敷かれていて、枕もとには電灯や小さい鏡台もある。しかし空気は冷え冷えと沈んで、かつて一度も人を迎えたことのない場所のように思われた。あたりは乳白色に仄明るくふうわりと包まれていて、亮はなんとなく月光が淡く射し込んでくるものと思った。ここが家屋のなかだという認識は不思議に抜け落ちている。
 それでも靄がかかったような脳裡に次第に焦点が合って行き、突然かれは身を起こして手近の襖を乱暴に開けた。その先は隣の部屋で、ここと同様、調度は整えられているものの、人の気配はない。右手の襖を引くが、結果は同じだった。次も、次も……。倒れた志津子の姿を求めて四囲の襖をすべて開いたが、その向こうはことごとく部屋になっていて、廊下に通じるものは無かった。
 「…………」
 困惑して立ち尽くした亮のまわりで、宴会の喧騒が不意に高まった。鳴り物が賑やかに奏でられる合間を縫って、何人もの酔客が愉しげに笑う声が挟まる。がらんと淋しい部屋にすぐ接して、大勢が会して騒いでいるのだった。それも、右側の喚声が後ろからのそれに取って代わられ、かと思うと次は前方へ移るという具合で、亮のいる部屋とそこに直接隣合った四室だけを除いて、まわりはすべて団体客に占拠されたものとおぼしい。一帯を取り巻く夥しい人数、そのことごとくが自らを嘲笑っている、と亮は理解する。その途端、傍若無人な笑いはなお一層高まった。
 それはいい。だが、そのなかにいつか、烟原外人の声が混じっているではないか!
 そうと気付いた亮はそちらへ走り出した。
 ……しかし、結果は同じであった。襖に手をかけると同時に騒ぎ声はふと遠のき、開いた先には冷たい無人の空間しか残されてはいないのであった。挑発する怪人の哄笑もまた、彼方へ移って響く。
 頭にかっと血が上って、亮は正面の襖を突き破った。横へ開くのももうもどかしく、体当たりして倒してゆくのである。だが、そこにもいままでと寸分変わらぬ眺めが広がるばかりであった。
 そのまま速度を落とさず、空室を突き抜ける。
 破る。
 破る。
 破る。
 破る。
 破る。
 破る。
 …………。
 どこまでもどこまでも、ただ襖ばかりがひたすら延延と連なってゆく。
 息切れのした亮は、ついにその場に膝をついた。早い間隔でぜえぜえと酸っぱい息を吐きつづける。早鐘の如き鼓動はすぐ耳もとでもズキンズキンと音を立てている。それに被さって、烟原外人の嘲笑がひときわ高まった。
 と、亮のすぐ目の前の襖が音もなく開いた。
 「!」
 かれは鋭く息を呑んだ。
 先の部屋に志津子が立っていた。全裸で、縛られて、神神しいまでに白く透き通った月のひかりをいっぱいに浴びて。
 「志津子さん!」
 どこにそんな力が残っていたのか、自身意識するまえに亮は彼女のもとへ駆け寄っていた。
 華奢なその身体をしっかりと抱き締める。
 (とうとう……とうとう志津子さんを取り戻した)
 だが、かれの感傷をよそに怪人の笑いはいよいよ高い。のみならず、かれの胸のなかの肉体が不自然に固くて冷たいことが唐突に意識を横切った。同時に異臭がツンと鼻孔を刺戟する。
 「えッ」
 ……そのものの意味が亮にはしばらく理解できなかった。
 (志津子さんは一体どこへ行ってしまったのだろう)
 ただ遠いところで、ぼんやりとそう考えている。
 かれがしっかりと抱えているものは、衛生薬局の人形だったのだ。目が合うのを待っていたかの如く、人形はニヤリと笑い掛けてきた。
 「うわああああッ!」
 叫んで突き放そうとしたが、人形はそれを許さない。それどころか、腕をかれの背中へ回して強く力を入れてきた。
 できものだらけの顔が亮のそれに密着する。それらはたちまちにして潰れ、鼻の曲がりそうな腐臭とともにべったりとした肉汁が流れ出す粘っこい感触が亮の全身へと広がって行った。

     

 「あれ、毒島サンですやんか。なんとまぁエゲツナイ人殺しやこと」
 鏡に映し出された血塗れの情景を指差して今仁が呟いたとき、幸吉と友雄は既に立ち上がっていた。
 「いまのはどの部屋だッ!」
 叫ぶ幸吉の声音には下手人を取り押さえようという意欲はまるでなく、ただ一刻も早く現場を覗きたいという好奇心のみが漲っている。だが、それに答える声はない。
 「壮太郎よ、鏡を仕掛けたのはどこなんだい。……壮太郎ってば」
 名指しで重ねて呼び掛けるが、やはり反応はなかった。幸吉は苛立った仕種で電灯のスイッチをひねる。たちまち室内に眩しいひかりが溢れ、鏡のなかの夢幻的な眺めは消滅した。
 「……あれ」
 「ナント、我われがうつつを抜かしている間に、壮太郎氏ばかりではない、亮氏の姿も見えなくなってますナ」
 幸吉より先に状況を素早く見て取った紅紫が指摘した。
 裸電球ばかりが空しく明るいなか、戸惑いの沈黙が降りた。周囲は静かで、ただ時に恋を語る猫の声が遠くから漂ってくる。
 「そうか、なるほど」
 突然幸吉が手を打って笑い始めた。
 「な、なんでっか」
 「判った判った、すっかり一杯喰わされてたんだよ。いや、こいつは恐れ入った」
 「そやさかい、一体どないした、云わはりますねン」
 「つまりだな」
 すっかり浮かれ立った幸吉は、顔の筋肉が緩んでだらしなく見える。
 「壮太郎は《血祭》を舞台に一人二役のトリックを仕掛けたわけだよ。考えてごらん、わが《退屈倶楽部》最大の娯しみであり、したがって外部にはいっさい洩れない筈の今夜の《血祭》を烟原外人が亮のからかいに利用できたのは何故か。簡単なことだ、《血祭》の主催者が怪人を演じたからに他ならない。つまり、鏡による覗きそのものは、実現のための労苦はともかく、トリックとしては二番煎じに過ぎない。今回の《血祭》の創意はそこではなくて、いま注目の怪人を登場させることにこそあったんだ」
 説明しながら、かれは大きく何度も頷いた。
 「だから、あの毒島、いや正確には壮太郎扮する烟原外人の笑みはただひとり、亮に向けられていたんだ。そうして呼び出しておいて、いまごろは先夜新開地でやった運命の対決の第二幕を繰り広げてるんじゃないかな。そうだ、こうしていないで我われもそれを見物に行かねば」
 「なるほど、ご明察!」
 紅紫がひときわ大きい声を張り上げておいてから、しかし……とつづけた。
 「さっき途中で鏡の向きを変えて、残虐場面へと切り替えた御仁がおりましたナ。アレは一体誰なんですかネ」
 「誰って……壮太郎だろ」
 答える声が小さくなっていって、幸吉はふいと真顔になった。
 「お判りになったようですナ」
 紅紫は扇子で自らの膝を叩いた。
 「そう。思い起こしてみて下さい。画像が映ったそのときには、縛られた女とともにそれをいたぶる男が見えていましたヨ。ハテサテ、壮太郎氏は一体どっちなんですかネ」
 「ううん」
 幸吉は怒った表情になって黙り込んだ。友雄はなにも云わず、ただ自慢の指輪をしきりと唇で撫でつけて、内心の興奮の度合いを示している。
 そのとき、切羽詰まった男の悲鳴が廊下のほうで響いた。
 「オヤ……」
 「今のは亮ハンとちゃいまっか」
 仲間が訝しげに様子を窺ったときには、幸吉は襖を開けて外へ飛び出していた。
 壮太郎の実の父親が愛用する特別室は、継ぎ足して造った三階をまるまる使っている。その豪華な階段を下りて折れた廊下に亮は仰向けに倒れていた。
 「むう……」
 幸吉が一瞬絶句したのは、かれ一人ではなかったからである。かの衛生薬局の標本人形が亮の上に覆い被さっていた。
 騒ぎを聞き付けて、廊下沿いの襖が開き、客や娼妓が何人も顔を出している。そのなかを足音も高く、やり手婆あのお銀さんがやって来た。
 「ちょっと、こんな夜中になにしてはるねン」
 幸吉を睨みつけると、お銀さんはぴしゃりとやっつけた。
 「なにって……オレに聞いても知らないよ。壮太郎の仕業なんだから」
 「壮太郎さま……」
 表向きはこの鶴亀楼あるじの子息であり、その実彼女自らが腹を痛めたらしいともっぱら噂される人物の名前にお銀は一瞬たじろいだが、背後の娼妓たちの視線を意識してすぐに体勢を立て直した。
 「それにしても、あんたらかて一緒になって遊んでたんやろ。こんなとこで寝てられたら迷惑や。さっさと片付けなはれッ」
 追って到着した《退屈倶楽部》の一行のなかでも従順そうな今仁に目を付け、彼女は捲し立てる。云われた今仁は勢いに押され、命じられるままにしゃがんで人形を起こしかけた。しかし力を入れすぎて、できものだらけのその顔を自らの目のあたりに引き寄せてしまったものだから、情ない悲鳴をあげて引っ繰り返った。女たちの間から大きな笑いが湧き上がる。
 「頼ンないなぁ、ほんまにもう。しゃあない、わたしが脚を持つさかいに、あんた、そう、髭のあんたや、さっさと頭のほうを持ちなはれ」
 お銀は人形の足もとに膝をつきながら紅紫に命じる。それから振り返って友雄と幸吉を見据えた。
 「あんたらはその寝とぉお兄ちゃんを運ぶんやで。判っとぉな」
 彼女の激しい剣幕に押されて、一行は人間と人形の二体を特別室へ移した。その後もお銀の怒りは治まらない。ことにも衛生薬局の人形がいたく気に入らない様子であった。
 「ほんま、なに考えとぉこっちゃろ。この家の生業が何か、よぉに知っとぉやろ。そこへこんな縁起くそ悪いもン持ち込むっちゅうんは、一体どんな神経しとぉんやろな」
 「だから、それをしたのはオタクの壮太郎くんなんですからね」
 既に余裕を取り戻した幸吉がからかう口振りで云った。
 「しかも騒ぎを引き起こしたその張本人は、杳として姿を消したまま見当たらない。本当にどうなってしまったんでしょうねぇ」
 「え……壮太郎さまがどないしはったて……」
 興奮が一気に覚めた面持ちでお銀が問い返してくる。
 「だから、壮太郎くんは暗闇のなかへぼくらを残したまま、どこかへ行ってしまったんですよ。あッ、そうか、お銀さんが現れたんで、出てきにくくなったのかな。おーい壮太郎、このコワイ婆さんから救い出してくれよぉ」
 幸吉はお道化た調子で呼び掛けたが、反応はない。ただ悪夢にうなされたのか、亮が呻き声をあげながら寝返りを打ち、今仁がビクリと大袈裟に実を引いた。
 「なんやねン、それ。どういう事っちゃねン」
 お銀の声は心なしか震えていて、それを認めた幸吉はますます調子づいた。
 「さあ、こちらが教えてもらいたいくらいですね。そもそもこの気味の悪い人形を持ち出して、一体なにをするつもりだったのか」
 だが彼女はもう挑発には乗らず、変な顔をして標本人形を見凝めている。
 沈黙はそのまま長引き、それにつれてどんどん固く重くなっていった。
 「フウム、これはなにやら妙ですぜ」
 と突然、人形を自ら運び込んだあとしげしげと見ていた紅紫が口にした。ぽつんとした声音だったが、それがひどく大きく響いた。
 注視の眸がかれに集まる。
 「イヤ、ここですよ、ここ」
 斑点と皮膚の爛れとで全体が赤黒くなった胸の一点を指して、かれは云った。
 「同じような色なんで紛れてしまってますがネ、ここだけはまわりと違うんですヨ。つまりですネ、表面がえぐられた跡に生肉が露出している、とでもいうような……」
 「えッ」
 すぐ近くにいた今仁が身を乗り出したのを押し退けて、幸吉が覗き込む。さっき床に落としたときに傷付いたにちがいない、人形の皮面はたしかに割れていた。紅紫の指摘したその箇所を幸吉はじっと見ていたかと思うと、指を出してそこを引っ掻いた。
 「…………」
 花柳病による爛れを施した人工の表皮はたやすく剥がれ落ち、それよりももっと爛れた肉が下から姿を現した。
 「人間だよ、うん、間違いない。人形のなかに人間が埋められている。誰が考えたのか、いかにも乱歩好みの趣向じゃないか」
 幸吉は昂ぶった声を上げると、忙しく両手を動かし始めた。それに応じて人形の仮面はたちまち取れてゆく。お銀さんはなにか低い声を洩らしつづけながらその動きを見守っていたが、顔面に及ぶに至ってついにいたたまれず、金切り声を張り上げた。
 胴体部分も皮膚が裂け肉がえぐられて無惨な様相を呈していたが、顔はもっとひどく叩き潰され、苺を思わせる肉塊が凹凸を描くばかりであった。さすがの幸吉も「ぐッ」と曇った声を出して飛びずさる。だがそれと入れ替わりに、お銀さんが凄まじい勢いで駆け寄って行った。
 「壮太郎うッ!」
 と、悲痛な叫びをあげながら。
 「壮太郎。あんた、なんで……なんでこんなひどい目ェに遭わされてもたんや。かわいそうに、痛かったやろなぁ……」
 実の母親の直観なのだろうか、お銀さんは原形をまったく留めていないその顔を抱き、手といわず着物といわず血まみれになるのも構わず丁寧に撫で擦っている。
 「し、志津子さんッ!」
 亮が突然明瞭な声をあげた。しかし身は依然として横たわったままで、譫言にちがいなかった。
 幸吉がなにか云いかけたが止め、二度三度と頷いた。その表情に現れた猟奇の喜びは覆い隠すべくもない。友雄もまた指輪の存在を口もとで確認するかの如くずっとそれをくわえ込んで、興奮していた。
 お銀さんの嗚咽がふととぎれたとき、男の太い笑い声が遠くだったがはっきりと透った。それを放った主は、楼内の客なのか、戸外を行く人なのか……それとも、いまもどこかに潜む怪人だったのか、なにしろ一瞬の出来事だったのでよく判らなかった。

     

 「おや、なんだ、今日は俺が最後か」
 《夢殿》専用の扉をくぐった御堂幸吉は意外の声を上げた。いつもは紅紫と一番乗りを競うかれがそれより早く、まだ日が高いうちにやってきたというのに、《退屈倶楽部》の一行はもう顔を揃えていたのである。勤めを持つ今仁博輔の姿さえ見える。昨夜、ではなく正確には今朝は、夜が完全に開け放たれるまで事件のあった鶴亀楼にいたから睡眠不足の筈だが、疲れた様子を見せる者はいない。逆に全員、異様なまでに意気軒昂と張り切って見えた。
 「イヤ、まだ亮サンがお見えになってませんがネ」
 「ああ。あいつはまた例によって夢のなかさ。耳元で怒鳴ろうが揺さぶろうが、起きる気配はありゃしない。まったく、なにかというとグースカ寝ちまうんだから、気楽なもんだよ」
 云って、苦しげな顔付きのお密の口から注いだ赤葡萄酒を幸吉は傾けた。
 「ハア、それは残念ですナ。かれに聞いたら、かの人間人形のことも少しは判るんじゃないかと、こう思ったんですがネ」
 「それは期待できないね。どうせまたうつけた顔で、『志津子さんが……』『乱歩が……』なんて呟くのが関の山だよ。せっかく魅力的な謎が飛び込んできたんだ、亮なんか当てにしないで、ここはひとつわが《退屈倶楽部》の叡智を結集して事態の解明の当らなくっちゃあ」
 「なるほどなるほど、これは頼もしいご宣言ですナ」
 感服したのか呆れたのか、葛城紅紫は云って太い髭を摘んだ。指輪を唇で撫でていた八牧友雄が穏やかな笑みを浮かべて口を挟んできた。
 「じゃあ名探偵の結論は定石どおり最後にうかがうとして、その後判明した興味深い事実を報告しておこうか。まず、鏡の仕掛けはたしかにあった。といっても、階下の部屋の像を三枚の中継を経て送ってくるという素朴なもので、まあ覗き見以上の効果は望めない代物だったがね。逆に云うと、それ以外の装置はいっさいなかった。のみならず、鶴亀楼の各部屋を丹念に調べた結果、首無し屍体はおろか、血糊の跡さえも発見されなかった。……判るかい。つまり、我われが垣間見た猟奇殺人事件の実在を証拠立てるものはなにもない、というわけだね」
 「ええッ……ちゅうことは、あの人形に入っとった屍体も嘘やったんでっか」
 頓狂な声を上げた今仁に、友雄は苦笑して手を振った。
 「まさか。あれは本物さ。ただ、お銀さんはあれだけの遊郭を仕切ってるだけあって、さすがに気丈だね。壮太郎君が殺されたからと云って、いつまでも取り乱してはいない。さっそくさる実力者だかに連絡して、事件が外に洩れるのを押さえてしまった」
 「ほう。どうも見てきたように詳しいが、間諜を放ってでもいるのかい」
 「うむ。まあ、金がありすぎて困る者はいないからね」
 幸吉の顔がにわかに曇ったのは、自らの推理に組み込んでいない新事実が出来したせいだろう。一方の友雄は、余裕の笑みを見せている。
 「まさか、みんなで揃って同じ夢を見たわけでもないんでしょうから、幻燈を使ったトリックなんですかネ」
 紅紫が幸吉の様子を窺いながら、のんびりした調子で口にした。
 「実は、わたくしも気になっていることがありましてネ。他でもない、昨夜鶴亀楼へ向かう途中の夜道で目撃した、かの衛生薬局の人形なんですヨ。こいつを運んで行った人夫、アレは十中八九、犯人そのひとなんでしょうネ。つまり、本篇に入るまえの予告篇に前もって姿を現して我われをからかった、ト。しかし、ここに重大な問題が発生するんですネ。あのときの人形に既に屍体が埋め込まれていたとするならば、隣にいた壮太郎氏は一体誰だったのか」
 「そんなん、あとで殺されはったんでっしゃろ。みんなであのえげつない映像に気ぃ取られとぉ隙に誘い出されて、殺されて、ほんでからその上を人形に仕立てられた……」
 今仁が云ったのへ紅紫はチッチッチッチッチッと舌を鳴らし、人差し指を振った。
 「あの人形にしつらえていた病気の模様を描くだけでも、どれだけ時間がかかると思ってるんですか。まして、どんな材料を使ったにしても、そう簡単に乾きはしませんヨ。つまり、もうあの時点で確実に、屍体は人形のなかに呑み込まれていたのです」
 断定されるのを聞いて、今仁は一瞬取り止めのない顔を見せた。
 昨夜、ここ《夢殿》でいつものとおりお密を叩き、鶴亀楼の特別室へ入ってからもいつもの突っ掛かる口振りで《血祭》を催した壮太郎、かれは実は本人ではなく、誰かが変装して成り済ましていた、というのだろうか。
 沈黙がつづくなか、突然、
 「アハハハハハ」
 幸吉の高笑いの声が響いた。
 「そう。紅紫センセの指摘はまったく正しい。しかし、惜しむらくは完結していないんだな。『したがって、あの人形のなかから掘り出された屍体は壮太郎のものではない』、と、ここまで行って初めて推理として成り立とうというものじゃないかね」
 「はァ?」
 間抜け声をあげる今仁はともかく、紅紫が一瞬虚を突かれた顔を見せたので、幸吉は得意げに身を反らせた。
 「顔面を原形を留めぬまでに潰してあったのが、そのなによりの証拠さ。なんの必然性もなくそんなことをするのは、身元を隠すために決まっている。おおかたアレは湊川公園あたりをうろついていた浮浪者だろう。そんなふうに身代わりを仕立てておいて、壮太郎はどこかで赤い舌を出して見てるにちがいないさ。いまもいるかも知れないぜ。この間くりぬいた椅子のなかとか、天井裏とか……」
 云いながら、幸吉は部屋の隅の壁にかかった黄金仮面に視線を移した。その裏には秘密の部屋が隠されているが、いまは少なくとも人の動く気配はない。かれもそれ以上は追求せず、赤葡萄酒を口へ運んだ。
 「いや、たとえ浮浪者のものにしろ、本物の屍体が出現するとは、わが《血祭》もどうして、なかなかたいしたものじゃないか」
 「うむ。まさしく『幻想怪奇探偵劇』としての様相を呈してきた。素晴らしい」
 友雄も満足そうに云い、左手中指にした指輪を口もとへ持ってゆく。
 「ただし、壮太郎くんが現れるまでは、という条件つきだがね。……そうじゃないか。ここへかれがのこのこ出てきて、いや実は、なんて種明かしを始めたら、これは幻滅以外のなにものでもない」
 釘を刺すようにそうつづけたのは、壮太郎はやはりこの近くに潜んでいて、かれへの警告だったのだろうか。それに対して紅紫は不服そうに髭を捻った。
 「そうおっしゃいますけどネ、壮太郎氏の仕業というだけでは割り切れんですヨ。誰の目論見だか知りませんが、どうも妙な影が暗躍しているようで落ち着きませんナ」
 云いながら、かれはもっぱら幸吉の反応を窺うように視線を向ける。
 「いや、だからこそ良いんだよ。大体、謎を見るとすぐに解きたがるのは、悪しき貧乏症だね。われらが愛する探偵小説を見ても、謎と解決とどちらが魅力的なのか、答えは明瞭じゃないか」
 だが友雄の反論に遭って、紅紫はなおも云いたそうにした言葉を呑み込んだ。
 会話がとぎれる。
 魔子が気をきかせて蓄音機を操作した。軽やかな音楽が《夢殿》のなかに充ちた。
 料理長の臼杵が入ってきた。
 「なにぶん急なことでしたので、有り合わせの材料しか使えませんでしたが……」
 恐縮した口調で云ったが、差し出された料理は悪食の趣味のない一行にとってはいつも以上のご馳走であった。
 時計を見るとまだ夕刻にもなっていない。しかし、厚いカーテンで外と隔てられた《夢殿》のなかでは、部屋の隅に揺曳する闇はいつになく濃かった。食前酒の酔いが程よくまわり、いま正餐の準備が整った。なにより、かれらの抱える退屈をこのうえなく刺戟して止まない新鮮な体験と話題がある。こうして、猟奇の夜はいよいよ弾んでいこうとしているのであった。

《第四章 鏡のなかの肉叢/了》


掲載 2000年1月21日