第五章
貘鍋の宴
一
陽射しは季節の先取りだ。太陽は既に盛夏の勢いを孕んで、眩いきらめきをいっぱいに発散させている。その下で樹樹の葉や下生えの叢は、緑とも白ともつかぬ彩りのなかで、あたかも燃え盛るかのようだ。そして、ひときわ強いこの匂い。草と土と湿気と、それらがないまぜになった香りが暖かい微風にはふんだんに乗っている。
見渡す限りの草原だ。前後左右をすべて覆い尽くすひかりの明るみと熱、それを亮は一身に浴びる。かれは衣服をいっさい身に着けていない。だから、大地の躍動はそのままかれと一体となる。湧き上がってくる心地好いおもいが亮を充たしたあと、外にまで溢れ出した。広く、高く、それは植物や鉱物の息吹きと混じり合いながら、どこまでもどこまでも伸びつづける。そして、
志津子がいる。
突然視野の中央を占拠した彼女もまた、一糸纏わぬ全裸であった。しかし、亮は照れたり恥ずかしがったりはしない。それは当然のこととしてかれの眼前に在った。
にっこりと微笑みを洩らした彼女は、ふいときびすを返して駆け出した。それを亮は追う。視界のなかで志津子の裸身が大きく揺れながら戯れつづける。柔らかい土とさらさらした草の感触。至福のおもいが亮を包み込んだ。
……それは、しかし瞬時のうちに崩れ去ってしまう。
何回目かに振り返ったとき、志津子の表情が一変した。優しい笑みは強張り、引きつり、そして怯えと化した。
(志津子さん?)
呼び掛けようとするより早く、彼女は駆け出していた。それもいままでとは打って変わった懸命の逃走である。
(待って!)
だが、言葉は声にならない。事態の急変に戸惑いながらも、亮は彼女に従わざるを得ない。
いつ知れず天候も崩れていた。黒い分厚い雲が全天に広がってひかりが醫ったなか、昏い草原はにわかに凶凶しい様相を剥き出しにした。
志津子はゆっくりと亮との距離を広げてゆく。
(何故? ……志津子さん、一体なにがあったというの?)
必死に身体を動かす亮に息切れと腹痛が襲いかかってきた。ふいに稲妻が鋭く走ったのを機に雨が叩き付ける勢いで降ってき、突風が真正面から吹きつけた。一瞬息ができなくなり、かれは激しく咳込む。頬にしきりと流れるものが雨滴なのか涙なのか、それさえ既に判然としなかった。
(どうしてこんなに苦しい目を……なにが狂ったというのだろう)
違和感がようやく頭を擡げてくる。止めを刺すかの如く唐突に振り返った志津子は、顔の部分だけが烟原外人の坊主頭と化していた。亮を真っ直ぐに捉えて、怪人はニンマリと笑う。
(うわああああああッ!)
…………
まわりは再び明るく、輝く初夏の陽射しをいっぱいに浴びている。しかし、そこに志津子の姿はなかった。
布団のなかで横向きになって、海老のように丸めた身体を固く緊張させたおのれに亮は気付いた。いまだに強く握り締めたままの掌は、汗でべっとりと濡れている。そこばかりではない、暖かさのなかで掛け布をきっちり被っていたから、湿気は全身を囲み込んでいた。
(夢を見ていたのか)
悟った亮を生理的な嫌悪が塗り潰していった。覚醒ほど嫌なものはない。もとより常に心地好い夢を見ているわけではないのだけれども、目覚めは確実に違和感溢れる世界への引き戻しに他ならないのだ。
鶴亀楼の出来事のあと、亮は何日も昏睡して過ごし、そこから脱したあともずっと今のように夢うつつのうちに暮らしている。疲労や怠惰にそれは由来するものではない、むしろ最も積極的な行為なのかも知れなかった。……事態の受け入れを拒否するためには。
ただそれにしては、いまは意識が妙にはっきりしている。
嫌な予感が走る。
カタカタカタカタカタ……
見透かしたかの如く、軽やかな音が枕もとで起きた。
予感が的中したのを亮は知った。
白いお化け人形が手紙を挟んでちょこちょこと近付いてくる。泣きたい気持ちでそれを取り、乱暴に開く。
「また、遊ぼうぜ。今夜、《夢殿》で。烟原外人」
亮の脳裡は一瞬閃光に乗っ取られた。
さっきの夢のなかと同様、世界は初夏の明るい陽光のもと、眩くきらめいている。しかし、若若しく躍動するそのひかりでさえ漂う悪意を追い払うことはできず、むしろより明瞭に照らし出されて剥き出しになったそれが急速に迫ってくるのをかれははっきりと認識した。
二
最後に今仁博輔が入ってきて《退屈倶楽部》の一行が揃った途端、
「さあ、魔子ちゃん、重大発表重大発表」
と、御堂幸吉が急き立てる口振りで云った。
「はあ。な、なんですねン」
今仁はびっくりした顔で、座ることさえ忘れている。
「ナニ、魔子サンがなにか興味深い体験をなさったそうなんですけどネ、喋るのは全員集まってからと云って、なかなか教えてくれなかったんですヨ」
「今仁なんか放っておいて、さあ、早く」
重ねて催促する幸吉に、魔子は舌を小さくペロリと出して見せた。
「実はね。昨日新開地本通りで、あたし、見たのよ。……壮太郎さんを」
やや掠れた声で放たれた魔子のその言葉に、座は一瞬はっとした空気に包まれた。
鶴亀楼での《血祭》以来もうひと月、予想に反して壮太郎はいっさい姿を見せていなかった。といって、その家で葬儀を出したという話も聞かない。中途半端のまま、最近ではかれのことは話題にのぼることさえ無くなってきていたのである。
「なるほど、やっぱりなぁ。あいつ、きっと……」
「待って。まだ続きがあるの」
興奮した声で云い始めた幸吉を魔子が遮った。
「それがね、変なの。松尾稲荷さんからの帰りだったから、もう真夜中の二時を過ぎてたんだけど……」
「ハハア、佳い人と一緒だったんですナ」
水商売の神様で、新開地周辺の女給たちが閉店後、恋の辻占をかけに訪れるので有名な神社の名を聞いて、紅紫が思わず軽口を叩いた。しかし、即座に幸吉と友雄に咎めるまなざしで捉えられ、かれは慌てて首を竦める。
「失礼しました」
「そんな時間に、壮太郎さん、たった一人で聚楽館のほうからやって来たの」
と、一拍置いて魔子が続ける。
「それがね。……なんて云えばいいのかしら。そう、地に足が着いてないみたいなおかしな足取りなの。酔っ払ってるというんでもない、変な歩きかたで、最初それが目について、あっと思ったら壮太郎さんじゃない。それであたし、手を振ったのよ。そしたら、かれ、顔を上げて、一瞬だったけど、たしかにあたしのことを見たの。でも、すぐにまた顔を伏せて、なんにも云わないまま、相生座の角を折れちゃって……慌てて追いかけたときには、もう判らなくなってたわ」
「いかさまそうにちがいない。いや、これは愉快だ」
と、幸吉は膝を叩いて喜んだ。
「出てくるきっかけを失してしまったんだな。ここまで引っ張ってしまった以上、『殺されたのは、実はぼくじゃなかったんだよ』なんて、ノコノコ現れるわけにはいくまい。アッと驚く趣向を求めて苦吟してるんだろうな。そうか。考えてみれば、事件直後、オレがいとも容易く真相を見破ったもんだから、壮太郎としては格好がつかなくなっちまったんだよ、気の毒に」
云いながら幸吉が友雄の反応をチラチラ見ているのは、かれが壮太郎を匿っていると踏んでのことにちがいない。しかし、友雄は知らん顔をしている。
「ちゃいますねン。壮太郎ハンは出て来とぉてもよぉ出られんわけがあるんですワ」
さっきから物云いたげにソワソワしていた今仁が口を挟んだ。
「なんだい」
「いや、それが……」
云いかけてかれはブルッと大袈裟に身震いをして見せた。
「顔がグチャグチャですねン」
「…………」
「ほらあのとき、人形は病気でデンボができたり皮膚がしずれたりしてましたやン。ほんで、下から出てきた人間は顔を叩き潰されとった。……真夜中に新開地をほっつき歩いとぉ壮太郎ハンはその両方が一緒になって、そらもぉ、見られたもンやないらしいでっせ。友達の外交員が出会い頭にぶつかったもンやさかい、胆つぶして酔いも一瞬に覚め果ててもぉた、云うてぼやいてましたワ。……なぁ、そやろ」
云って、今仁は魔子に視線を向けた。一拍置いてから彼女は大きく頷く。
「そうそう、本当に気持ち悪かったわ」
「ハハア。先日までは衛生薬局の人形が徘徊していたのを、このたびは壮太郎氏が取って代わった、ト、こういうわけですナ。これは、映画館が閉館てからの新開地は、剣呑で出歩けませんネ」
「うん。面白い話だけどね」
と、友雄がおもむろに口を開いた。
「でも、そんなにひどい形相をしていたのなら、どうして壮太郎と見分けがついたのかな」
「あ。……いや、そら、姿かたちやら見たら…………なンちゅうても、長い付き合いやねンさかい……」
「あれ。目撃したのは君の友人だったんじゃなかったっけ」
「…………」
「ちがうの。最後はたしかにちょっと調子に乗っちゃったけど、でも、あたし、壮太郎さんを見たのは間違いないのよ」
今仁と魔子とがしどろもどろに弁解するのを紅紫は憮然たる表情で髭をつまみながら睨んだ。その隣で、幸吉は手放しで相好を崩す。
「いやこれは頼もしい。今仁もわが《退屈倶楽部》の同志たる貫禄が出てきたじゃないか」
云ってグラスを傾けながら、お密の頭をポンポンと叩く。それを友雄がやんわりとたしなめた。
「おいおい、今からあまり酔っ払わないでくれよ。飛び切りのご馳走を用意してあるんだから」
……鶴亀楼での衝撃も尻すぼみに薄れてきたなか、今夜は友雄が《血祭》を主催することになっているのだった。悪食に無上の生き甲斐を見出だすかれのこと、なにか思いも寄らぬものを準備して待ち構えているらしい。
そのとき、専用通路の扉がガチャガチャと音を立てた。
「オヤ、また亮サンの登場じゃないですか。烟原外人からの手紙を携えて……」
紅紫は軽い口調で云いながらも、幸吉と友雄のほうへ向けた視線をじっと固定させて外さない。その目付きに鋭い光がふと横切る。
そして、扉を開けた結果はまさしくかれが云った通りだったのである。
「おや、紅紫センセのご託宣のままだよ。まるであらかじめ判っていたかのように正確じゃないか」
亮から取り上げた手紙に素早く目を走らせた幸吉が鎌をかける口振りで云う。紅紫は苦笑して、髭をやたらと引っ張った。
「烟原外人……ふうん、これ、あの毒島っちゅう書生が、すっかりその気になってもてやっとるんでっしゃろか」
半ば真顔で呟く今仁を見て、友雄は穏やかに微笑んだ。
「まあ、誰の仕業にしても、わが《血祭》に花を添えてくれるのはありがたい。またしても予期しない屍体が出現するかも知れないしね」
その言葉は妙に予言めいて響いた。ふとまたぼんやりとしたなかへ引き込まれそうになっていた亮がびくりと顔を上げ、それから大きくかぶりを振った。
三
「さあ、それでは怪人・烟原外人君がひと知れず待ちくたびれていると悪いから、早速にも《血祭》へ移ることにしようか」
自慢の指輪をまたちらと嘗めて見せてから、友雄は立ち上がった。
「えッ、なんだ、外へ出るのかい」
「うむ。といっても、すぐ近くだがね。あ。君たちも今夜はもういいから、付いておいで」
友雄はにこやかに笑いながら、三人の女給たちに声を掛ける。
《夢殿》を後にすると、闇はもうすっかり街を覆い尽くしていて、しかし冬の間に較べてどこかに明るみを残している。低いビルヂングや家家があわいのはざまに溶ろけるように見える辻から、みどりの香しい夜風が吹き抜けてくる。
行くほどもなく、とあるしもたやの前で友雄は立ち止まった。
「なるほど、やっぱりここでしたネ」
紅紫がニヤニヤ笑って云う。
ここは、かつて不祥事が起きたとかいう家で、お化けの日も、先日鶴亀楼へ赴く途中でも友雄が気に掛けていたところである。
「そう。実はあれから色いろと調べてみたんだが、なにがあったのか、どうもはっきりしないんだね。ただ、単なる殺人じゃないこと。それから、『出る』。この二つだけははっきりしている」
「『出る』……て、これでっか」
今仁が両手を前に垂らして幽霊の格好をしてみせる。友雄は頷いて、家と家との間の狭い路地へ一行を招き入れた。
「そんなわけでもう永いこと使われていないものだから苦労したけどね、やっとお勝手口からなんとか入れるようにしたんだよ」
云って、かれは手にした鞄から蝋燭と燭台を取り出した。
「ウップ」
友雄に続いて勢い込んでその荒れ家へ入った幸吉がたちまち噎せた。
「ああ、ちょっと埃っぽいけどね。なかはきれいに掃除しておいたから、気にしないでいいよ」
「そんなこと云ったって、黴の匂いしかしないじゃないか。ペッペッ。くそッ、えずきそうだよ」
だが、幸吉が文句をつけるほどには、他の人たちは騒ぎ立てない。
湿けた廊下の突き当たりに八畳ほどの座敷があった。中央に鍋を乗せた細長い座卓が置かれたきりの、がらんとした部屋である。
「貘を知ってるかな」
と、腰を下ろすと友雄は唐突に云った。
「バク……ト……ハテ、夢を喰うという伝説の獣でしたかナ」
「そのとおり。今夜の《血祭》は、夢を喰う貘を喰ってやろうという趣向なんだ。名付けて、貘鍋」
「おいおい、とか云って、また鼠や猫を料理して出すんじゃないだろうな」
うんざりした声で云う幸吉を友雄は笑いながらたしなめる。
「以前にも指摘したがね、そんなに大雑把に括ってしまうものじゃないよ。猫はたしかにまずいけど、鼠が乙な味をしていることは、試してもらったとおりじゃないか。まして、貘はちゃんと実在する。もっとも、日頃は亜細亜の密林の奥深くに潜んでいて、月のない闇夜に限って夢を追いかけて活動するという、それは神秘的な獣でね。これを日本で入手できたのは奇跡に近いと自慢して良いと思うが……」
「判った判った。さっさと始めようぜ」
幸吉は両手を振って友雄の台詞をいい加減に遮った。
鍋にだし汁を充たして火をつける。それが終わると、友雄は蝋燭をすべて吹き消した。女給たちが小さい悲鳴を上げる。
「あれ、なにしはるんでっか」
「なに。間接的にせよ夢を喰うんだから、これは当然闇鍋にしなけりゃ平仄が合わないだろう」
澄ました顔で答える友雄に反論する者はいなかった。
灯を消したとはいえ、障子もカーテンもない窓硝子からは月のひかりが射し込んできて、室内はほんのりと明るい。といって、すぐ隣にいる人の姿はかろうじて見分けられるが、その先になるともう曖昧で、輪郭だけがぼんやりと確認できるに過ぎない。全き暗黒ではなく、それでいて事物が明瞭に見分けがつくでもないこの薄闇は、妙に威圧するものを孕んでいた。
「なんや、こらほんまに出そうでンな」
「いやン」
耐えかねたように呟いた今仁に、憂子が涙声で抗議する。
全員が押し黙りがちになったなか、友雄ひとりが部屋を出たり入ったりして忙しげに動き回った。そうして何回目かにガチャガチャと音を立ててグラスを運んでくると、「暑いな」と呟いて戸を開け放った。たしかに鍋のなかが煮立って、湿気が室内に充満している。そこへ初夏の夜気が流れ込んできて、一瞬みどりの匂いが駆け抜けた。
「こうしておかないと、烟原くんも入りにくいだろうしね」
云ってから、友雄は各自にグラスを配りにかかった。
幸吉の座った場所からは真正面に月が見えた。硝子戸を出たところは広い庭で、草木が荒れほうだいに繁っているらしい。月光はそこをしっとりと白く覆い尽くし、見たこともない何かまったく別の造形に演出していた。室内の様子もまた、さっきとは微妙に変わったようである。硝子を通さず直接入ってくるひかりは、中のものに淡い靄のような膜を投げ掛けている。仲間の人影も卓も鍋も不思議な彩りに包まれて、いまにも得体の知れぬものに変身していきそうであった。
(これはいい。この雰囲気は幽霊よりも怪人のほうが遥かに似合っている)
幸吉は深く満足して考えた。それは間違いなく友雄の計算になるものであった。格好の舞台を準備して、怪人に鶴亀楼以来の活躍を呼び掛けているのだ。
(それにしても、烟原外人は一体誰が操作しているのかな)
自ら創作した人物ではあるが、かれの手を離れて既に久しく、前回も今回も幸吉はいっさい関わっていない。仲間たちは頭からかれが遊んでいるものと決め付けて気に止めていない様子だが、真相は違う。この変てこな落差が、幸吉の楽しみを二重にも三重にも増幅させた。仕掛けているのは誰か。企むのと演じるのは同じ人物なのか。あるいは今回は、鶴亀楼のときとは別の犯人が画策しているのかも知れない。推理する興味には止めどがないのであった。
「む。……なんだ、これは」
あれこれと考えを巡らせながら口に含んだ酒はひどく錆臭くて、幸吉は思わず顔をしかめた。
「うん。ちょっと生臭いかな。でもまあ珍しいものだから、それに免じて許してくれたまえ」
「そうか。八牧さんの《血祭》だもの、酒までゲテになって当然か。で、一体どういう酒なんだい」
諦めの口調で云う幸吉に友雄は大きくかぶりを振って見せた。
「君ね。いままで何回も説明したけれども、『ゲテ』という表現は……」
「悪かった悪かった。謝るから先へ進めてくれ」
その珍酒を自ら口に含むと、友雄は気を取り直したように頷いた。
「これはね、血を醸造した酒なんだ。『血酒』と名付けてみたんだが、どうも響きが良くないからいずれ考えなおすつもりなんだけれどもね」
「ハハア、なるほど。デ、これで人間何人分の血が入ってるんですかネ」
素朴な口振りの紅紫の問いに、友雄はグッと詰まった。
「……ううん、紅紫先生はどうも辛辣だな。そう。人間の血を絞りたいのは山やまなんだが、今回は残念ながら手配できなかった。これは山羊の血なんだ。その代わりアルコール分には最上等のものを使ってあるから、そのコクに免じて容赦してほしいな」
そのせいだろうか、最初の口当たりこそ生き血を嘗めたときそのままに舌を刺したが、心地好い酔いはたちまち全身へ回り、陶然たる至福感が幸吉を充たした。あたり一帯が妙に静かななか、鍋のグツグツ煮える音ばかりが単調に流れている。月の妖光がいよいよ冴え渡ってきたのを意識しながら、幸吉は素敵な予感が湧き上がってくるのを喜んだ。
……襖が開いて、誰かが入ってくる。なにか大きい荷物を携えていて、恭しい仕種でそれを差し出す。貘の肉だな、と幸吉は直感する。とすれば運んできた人物は臼杵なのだろうか。だが、かれは突然振り向くと、凄まじい顔付きでニヤリと笑って見せた。…………と思って一瞬身を固くしたが、実は錯覚で、その影は恐ろしいまでに無表情だった。否、そもそも顔立ちの見分けさえつかなかった。窓の向こうの月のひかりを背に受けて身体の輪郭が乳いろに明るく浮かんでいるのに比して、顔の部分は一面どす黒く塗り潰されている。
友雄が喜喜として貘肉を煮立った鍋に放り込んでゆく。運んできた男も横からそれを手伝い始めた、と映ったが、よく見ると調理はその者がひとりで行っていた。幸吉は小さくかぶりを振る。意識が連続して繋がっていず、断片的に点滅しているのではないかと訝かったのである。だが血酒をひと口啜ると、そんな疑いは霧消していってしまう。かれは大きく欠伸をしたついでに背筋を伸ばした。次にかれが意識したのは身体ががくっと崩れた衝撃で、いつの間にか眠りに誘い込まれていたのだった。
月のひかりにあわあわと包み込まれるなか、室内にあるものの影はことごとく奇妙に変形している。紅紫や今仁、それに女給たちの人影がなんだかやたらとちらくらする。入眠時幻覚の如く夢が現実へ浸蝕してきて両者の見境いがつかなくなってきたのだが、そのさなかに身を置く幸吉はさのみ怪しみもしない。
鍋の煮立つ音に混じって、なにか硬いきしみが横切った。氷が水中でひび割れるようなその物音は、間を置きながらもとぎれず確実につづいた。貘の肉に染み込んでいた数多の夢が、いまゆっくりと溶け出しつつある、と幸吉は思う。鍋の準備は着着と進んでいて、食欲を刺戟する匂いが溢れてきた。夢はそれに乗って、急速に発散しつつあるらしい。
焦点が合うたびにどこか微妙に、しかし確実に変わっている視界、そのなかにいつか壮太郎が座っていた。
(なんだ、結局芸もなく出て来ちまったのか)
得意げに声をかけた幸吉に向かって、壮太郎はフンと鼻を鳴らした。
(なに云ってやがる。人がせっかく時間をかけて揃えた趣向に横から乗っかって遊ばれたんじゃ、こっちは堪ったもんじゃないぜ)
突っ掛かってくるその物云いは、まさしく壮太郎のものであった。だが、会話は現実に声に出してなされているのではないらしい。のみならず次の瞬間には、壮太郎の存在さえ曖昧になってしまった。
やがて意識は脈絡なく、あちこちを揺曳しはじめた。怪しみを持つどころか、得難い快感を伴う、それは体験であった。だが、やがてそれらがひとつに収束すると同時に、さっきから部屋の隅に蹲っているあの黒い影は一体なになのだろう、とかれは思った。
(烟原外人? 毒島? ……いや、乱歩そのひと?)
しかし言葉は思い浮かぶはしからすぐさま溶ろけて流れ去ってしまう。素晴らしく気持ちの良い睡魔にかれは身を委ねた。
四
前回同様、呼び付けただけで烟原外人はなかなか姿を現さない。務代亮は緊張と苛立ちとでいまにも叫び出しそうな時間を過ごした。幸吉にしても友雄にしても、なんてのんびりとした会話を交わしているのだろう。怒りも加わって、亮は無意識のうちに血酒に手を伸ばしていた。カラカラに乾いた喉にそれはひどく旨く、つい三杯も四杯も新たに注いで呑んでしまった。
酔いは突然やってきた。腹の奥から押し上げてくるものがあって、気持ちがふわッと舞い上がったかと思うと、そのままどこかへ突き抜けていった。意識は半ば失神するように遠ざかっていき、そのままかれはウトウトしていたらしい。どれほど経ったのか、窓から入り込む微風が強まって頬をなぶる感触に亮はハッと目覚めた。
月が異様に大きく見えた。のみならず、その光は明らかに白過ぎる。不吉な胸騒ぎが襲ってきた。
貘鍋の宴はもうとうに果ててしまったのだろうか。《退屈倶楽部》の一行は全員、座ったままうなだれて眠りこけている。……いや、誰なのだろう、ひとりだけ隣にいる大男は目覚めていて、身体を微かに震わせて笑いを押し殺す気配があった。獣めく臭い息の匂いがふと鼻を突いた。
「……乱歩?」
予感は的中した。男は顔を上げるとおかしそうに告げた。
「違うね。前に云ったじゃないか。俺は乱歩なんてケチな存在じゃない、烟原外人だって」
云い放つと同時に男は高笑いの声を残して座敷を抜け出していった。すぐにそれを追おうとするが、酔いがまだ残っているのか、足もとが定かではない。いやそれ以上に、外の空間は床がグニャグニャ撓んでいたり暗闇のなかに妙に粘っこい箇所があったりして、どうも本当ではないらしく思われた。
どこをどう走り去ったのか、亮は烟原外人の姿を見失って立ち尽くした。埃っぽいガランとした部屋のなかは、闇がひときわ濃かった。森閑と静まり返ったなかに、自らの息の音のみが高い。と、一拍置いて、怪人の哄笑の声が漂ってきた。その方向の見当をつけて襖を開ける。するとその向こうの廊下は月光がいっぱいに射し込んでいて、暗さに慣れた目を思わず細めたくらいに明るかった。白銀いろに彩られた視野、その隅で烟原外人がいやらしいニヤニヤ笑いを浮かべて手招きしている。
(この眺めは前にも見たことがある)
と亮は思った。つづいて、どす黒い徒労感が押し寄せてくる。といって、追跡を放棄するわけにはもとよりいかない。ややもすると萎えそうになる気力を振り絞って、かれは怪人に立ち向かっていった。
……この廃屋は、外からはさのみ大きいとは思えなかったが、奥行きが存外あった。それとも同じところを何回もぐるぐる回っているに過ぎないのだろうか。薄闇と月光の射す場所とを交互に通りながら、いつものとおり亮は烟原外人には決して追い付くことができないのであった。怪人の哄笑はいつか遠雷めいておどろに響き続けている。やがてまた月が白い靄のような明るみを投げ掛ける廊下に出たとき、ここはいつかの鶴亀楼の闇に連なっている、とかれは直観した。
そしてその突き当たり、どんな経路を辿ったのか、亮はそれまでたしかに入ったことのない場所へ出た。廊下がそのまま下り階段となり、間仕切りもないまま半地下の広い部屋へと繋がっていった。屋根に接した高いところに窓が並んでいて、月がその向こうに掛かっている。だが室内を充たす静謐なひかりは、必ずしもそれを源とするものではないらしい。亮が進むにつれて逐次まわりがぼんやりと明るみを帯びてゆき、あたかもかれ自身が妖光を放つかのごとくであった。
それにしてもこの空間は一体なになのだろう。そこは異様に広く、行けども行けども壁にぶつからない。あのしもたやの一部でないことは少なくとも確実だった。いや、そもそも室内でさえないのかも知れない。なにもない虚無のなかをただひとり彷徨っている。……そんなことを考えると、足もとの硬い感触がふいと消え去るかのようにも思われた。
(ぼくは何故、こんなところにいるのだろう)
ふと疑問に捉われたとき、微かな笑い声が伝わってきた。それが亮を一気に正気へと引き戻す。
(烟原外人! そうだった。あいつは一体どこへ逃げてしまったんだろう)
亮の意識に呼応するかの如く、行く先にぼんやりと浮かび上がってくる影があった。
(怪人? ……ちがう、志津子さんか……いや……)
地面には女の白い裸身が仰向きに横たわっていた。太りじしのふくよかな肉体、しかしそこには乳房のふくらみがなかった。胸は一面ざっくりとえぐられていて、臙脂いろに濡れた肉塊のなかに肋骨が三本横切っているのが見える。見る間にその屍の周囲は明るみを増し、乳いろのひかりに包まれたなかに露わになった肉の赤いろばかりが浮き立った。
「ぐッ」
亮は呻いて後ずさる。するとなにかが足に引っ掛かった。
「…………」
《夢殿》で特別料理が盛られるような白い大皿だったが、そこにいま乗せられたものが何なのか、かれにはしばらく見当がつかなかった。ざっくりと千切った野菜が敷き詰められたなかにふたつ、白いお椀のようなものが伏せられている。それぞれの頂点には黒い摘みのようなものがあって、乳首みたいだと考えた瞬間、その正体が理解できた。みたい、ではない、まさしくそのものだったのだ。
きれいに切断されてそれだけもとの人体から離された乳房は、装飾品のようであった。皿に配してあるからには食べるように供してあるのだろうが、それより壁にかけたほうが映えるものと思われた。
「馬鹿な……」
一瞬思考が妙な方向へ捩じれたのを自覚した亮は声に出して云い、かぶりを振った。
その女の向こうにも何かがある。嫌な気持ちがしたが身体は勝手に進んでいった。
その女性は眠っているかのようであった。やはり全裸だったが、見たところ傷はない。亮は近付いて膝を付き揺り起こそうとしたが、抱きかかえた彼女はぐったりとして反応がない。のみならず、ぬらぬらする血潮が飛び散ってかれの衣服を汚した。よく見ると彼女は両掌が切断され、手首から生暖かい血が流れ出していた。
全身の力がにわかに抜けて、その肉体を放り出すと後ろへ引っ繰り返る。すると倒れた頭の横にまた皿が置かれていた。たっぷりとした赤い液体のなかに浸された掌は、それ自体真っ赤に変色している。
「食べてごらん」
背後の頭上から愉しげな声が掛かった。
「丹精を込めて茹でたものだから、血の味がほどよく染み込んで、絶妙の味に仕上がっている筈だぜ」
顔を上向けると、烟原外人の倒立した像が目に入った。慌てて飛び起きたが、上半身こそ持ち上がったものの、腰が抜けていて身動きできない。
「どうした、滅多に味わうことはできないぜ。味付けもさることながら、なにより素材を選りすぐってあるからな」
烟原外人がからかう。しかし、亮は口が痺れて言葉を発することができなかった。
意識ははっきりしているのに、身体がいうことをきかない。最ももどかしいその事態は、あるいは怪人が目論んだことなのだろうか。烟原外人はしゃがみこんで、亮の顔先へ皿のなかの掌を突き付けた。
「ほら、これだけ形の美しい掌には、そう簡単にはお目に掛かれないぜ。見てのとおり、彼女は決して美人じゃないし、姿かたちも良くない。ただ、両の掌だけが例外的な美を宿している」
云って怪人は皿のなかのそれに改めて見入った。
「甲の微かな膨らみ。ほっそりと伸びた指。琥珀を思わせる爪。親指が不必要に太いことも、小指が貧相なこともない、この絶妙の均衡はどうだね。これはもう、造型の奇蹟としか考えられない。とすれば、ここだけ切り離して崇拝するのは我われ芸術家の義務だし……」
そこで言葉を切って、かれはニヤリと笑った。
「それを食べてしまうのは、美食家の最上の楽しみに他ならない」
「…………」
烟原外人のいい気な素振りに対して、反抗することはおろか、口出しすることさえできずにいる亮は、ただひとつのことを思い詰めていた。
(志津子さん、志津子さん、志津子さん……)
「といっても、誤解してはいけない。人間の肉など、それ自体はさして旨いものではない。味覚だけに限るならば、牛、豚は申すに及ばず、馬や猪でさえよほど深い満足をもたらしてくれよう。しかし、『美』という点になると話は別だ。『美』はもともと目に見えないものだが、絵画にしろ彫刻にしろ、それをこの世のものに置き換えるうえで人体は大変重要な役割を果たしてきたのだ。こうして、『美』を独り占めするのみならず、自身と一体化させてしまうという、この観念が加わってはじめて、快感は他に代えがたい高みに達する。その意味でこれは、幻視的思想家にのみ許された、きわめて高度の営為と云わねばならぬ。今回、貴君を特別にご招待するために、わが蒐集品のなかでも特上のものを選りすぐって料理したから、心して観賞してくれたまえ」
云って手を差し延べてきた烟原外人に、あろうことか亮の肉体は従順に応じた。ゆっくりその場に立ち上がると、怪人の指示に応じて歩み始める。
いつの間にか月の白濁したひかりが視野のなかを見渡す限り覆い尽くしたその下に、屍とおぼしい白い裸身が点点と横たわっていた。いずれも肉体の一部を欠き、その部分を盛った皿が近くに添えられている。怪人はそのいちいちを解説しながら、進んでゆく。
首から上が切断されて無い屍体。彼女はその顔立ちの良さに較べ、身体のほうが胴が長いのと脚がやや外向きに歪んでいる点が烟原外人の審美眼を満足させなかった。頭部は粗煮にしたが、まず焼酎のなかにたっぷりと浸して肉を柔らかくほぐしたうえ、甘辛く煮る際にはだしの配合に苦心した、と云いながらかれは皿を持ってくる。そのうえで全体が焦げ茶色に変色した美女は、眸を哀願するかの如く開いていた。
「どうだね、この目玉は。さぞかしコリコリと、絶妙の歯触りを楽しませてくれることだろうよ」
豊満な尻は、刃を入れられたその前後の肉に血を滴らせたまま、まだ調理を施されていなかった。これは直前にさっと火で炙ったところをかぶりつくと、カリカリと熱く焼けた表面と内部の冷たい部分とが口のなかで混じって、なんとも形容しがたい味わいをもたらすのだという。
ほっそりとした長い脚を十数本、足首のところで括って吊したところもあった。このまま干物にすれば、絶好の酒の肴が出来上がるらしい。
こうして怪人は、美しいからと切り取った人間の肉体の一部を次つぎと亮に見せ付けていった。肩のふっくらとした膨らみの部分。耳たぶ。胴回りが美事に引き締まった下腹部。かそけきうなじ。二の腕。膝。太腿。そして…………
上機嫌で喋りつづける烟原外人の背後で、亮は遂に我慢しきれず吐き戻そうとした。しかし胃に滞留物はなく、空えずきにしかならない。そうしながらも足は勝手に進むことを止めないのだった。
かれの様子に気付いた烟原外人が振り返り、呵呵大笑した。
「どうやら刺戟が強すぎたようだね。だが、長年に亘って丹精を込めて練り上げた成果だ。じっくり見てもらわなければ、美に殉じた者どもも浮かばれるまい。なにしろ、ただ美形であればそれで済む、というものではない。肉体が本来持っていた『美』を、食品としての『美』に置き換えねばならず、そのために私は、調達してきた者どもを『食用人間』として時間をかけて飼育しているのだ。しかし、実は内心忸怩たるものを免れ得ない」
云って、屍が累累と折り重なった白い平原をかれは指差した。
「みたまえ。あれだけの素材がありながら、料理に使えるのはごく僅かなものでしかない。人間とはなんと不完全で、醜いものなのだろう。もっともそうであるがゆえに、美しいものが引き立つとも云えるのだがね」
烟原外人はふと苦い笑いを洩らした。
「まあ、そんな感慨はいい。永年探し求めながら満たされなかった完膚無き『美』に、私は遂に巡り遭えたのだから。そして、もう察したことと思うが、これこそ君を招待した理由なのだよ」
怪人が深く頷いた、その背後。差し渡し六尺はありそうな巨大な皿に横たわった裸身を銀いろのひかりが厳かに浮かび上がらせた。
志津子だった。
表情は穏やかだったが、眸は閉じたまま動く様子はない。慌ただしくその全身を確認したところ、目立った欠損部や外傷はない。のみならず、胸のところが小さく規則的に動いていて、息のあることが判った。
安堵のおもいが湧くと同時に、志津子をすぐ目前にしながら、動くことはおろか声を出すことすら出来ないもどかしさが亮に襲いかかってきた。一体どんな魔術を怪人は施したものなのだろう。
「最初に触れたとおり、我われは人肉を喰うのではなく、『美』を口にするのだ。であれば、最上の調理法は姿焼きということになる。そこで、だ」
喋りながら烟原外人は志津子の横を通り抜けていった。それに伴ってひかりが奥にまで届くようになり、大きな箱を浮かび上がらせた。
「これは特性の電熱器なのだ。この中で時間をかけてトロ火でゆっくりと焼き上げる。フフフフフ、考えただけでも涎が出てくるじゃないか」
怪人は皿を押して、やすやすと志津子を電熱器のなかへ封じ込めた。なすすべもなく立ち尽くす亮の側に向かった一面は硝子張りになっていて、彼女の様子がよく見える。烟原外人がなにか操作すると、その箱の上部で赤い閃光が走り、それはたちまち何本もの稲妻と化して志津子に降りかかった。彼女の表情にふと苦悶のいろが走る。
亮の全身を覆っていた見えない呪縛がそのとき、すっと溶けた。
なにも考える間はない。かれは真っ赤なひかりに包み込まれた志津子のほうへ真っ直ぐに駆けた。
五
背筋にゾクッとする寒気が走り、それで御堂幸吉ははっと気付いた。
(むう。寝ちまってたのか。血酒なんて妙な酒を呑んだせいかな)
ぼんやり考えながら周囲を見渡す。
芳しからざる噂のある廃屋の座敷、そこを月が冴え冴えと照らし出していて、ひかりは、さっきよりもずっと深みを増したように見える。その下、《退屈倶楽部》の仲間とカフェー黒薔薇の女給たちは一様に眠りこけていた。ただ、ついさっき会話を交わした覚えのある市来壮太郎の姿は見えない。
貘鍋はもうグツグツと煮立っていて、旨そうな匂いが室内に立ち込めている。
「ン? わたしゃいつの間にか眠っていたようですナ。……オヤ?」
葛城紅紫が寝ぼけたふうに呟いてから、声を高めた。
「ちょいと、どうなさったんですか。誰もかれも居眠りなさって。ホレ、みなさん、起きて起きて」
紅紫は全員の肩を叩いてまわった。
「あああ……どうにもこうにも良え気持ちや思てたら、知らん間に寝とったんですな。あーあ。……あれ、なんや、八牧ハンが居てはらしませんやンか」
今仁博輔がそのことに気付いて、しかけたあくびを中断した。
「えッ」
「アラ、亮クンもですヨ」
紅紫の指摘を受け、幸吉は中腰になって観察したが、二人の姿がさほど広くもない室内にないことは一目瞭然であった。襖はすべて、ちゃんと閉まっている。
「便所にでも行かはったんかしらン」
「案外その便所にからくりがあって、誘拐されてたりしてな」
「はあ。手足をもいで見世物にするんでっか。そやけど、むさくるしい男のそんな格好、見とぉないなぁ」
やりとりのあとで、会話がふととぎれた。しかし、八牧友雄も務代亮もなかなか戻ってこない。
「どうもこれは前回の《血祭》、鶴亀楼での状況に似てきましたネ」
やがて紅紫がぽつんと云った。そうしながら各自の反応を注意深くうかがっているのが判ったから、幸吉はびくりと身を震わせる仕種をして見せる。
「そ、それはそうと、この鍋はどうしよう。放っておけば煮詰まってしまうぜ」
次いで、故意に話題を逸らした。これらの行為によって、紅紫が疑いの目を向けてくることを期待しながら。
「そうですネ。マア、屍体が出現するまではやることもないわけですから、ゆっくり戴くことにしますかナ」
紅紫は紅紫で意味ありげに云い、率先して箸を伸ばした。
月の淡いひかりに透かして見ると、鍋には肉の他には野菜も豆腐もなにも入っていない。その一片を摘み上げると紅紫はしばらく観察していたが、やがて噛み付いた。
「フム……これはなかなかいけますゾ」
口をモゴモゴさせながら云ったのへ、幸吉も追随した。かれは続けざまに数個を食べたあと、満足げに鉢を傾けてだし汁を呑んだ。
「うん、なるほど。旨い」
云いながらまた新しい肉を摘みにいく。考えてみれば夕刻から、酒はふんだんに呑んだものの、食べ物はおつまみ程度のものしか腹に入れていず、空腹だったのである。二人につづいて今仁も女給も手を出した。
しばらく無言のままの食事がつづく。
「あら……いやだ、なに、これ」
魔子の掠れた声がそれを打ち破った。
彼女が掲げた箸の先には、男根のかたちをしたものがあった。根元には睾丸に相当するものも二つ、ちゃんとぶら下がっている。
「ハハア。お正月の特別料理にもこれは出ましたネ。八牧氏には珍しい、二番煎じじゃないですか」
云ってから紅紫はふと首を傾げた。
「アレ、しかし鍋のなかに茸なんか入ってましたかナ」
箸渡しに受け取った男根状のものを紅紫はくわえ、その途端に立ち上がって声を張り上げた。
「き、茸なんかじゃありませんヨ、これは本物の……」
「キャアアアアアアアッ!」
それに被せて隷子が凄まじい悲鳴を上げ、持っていた鉢をそのまま放り投げた。憂子が動揺してオロオロと涙声を出す。
騒ぎのさなか、幸吉が蝋燭に火をつけた。室内に明るみが戻ってくる。そのなかで、隷子の絶叫がひときわ大きくなった。
「なんだ、これか」
畳のうえに散らばった肉片から彼女の怯えの原因を探すべく蝋燭を近付けた幸吉が、心当りのものを見付けて手に取った。かれが摘んだそのものが、揺れる炎のなかへ浮かび上がる。
「ハハア、それは人間の手の指で……八牧氏ご自慢の、眼球を形取った指輪をしていますナ」
紅紫の声が変にのんびりと響く後ろで、隷子が激しい発作のように嘔吐を始める。それに食器の割れる音が被さったのは、失神した憂子が倒れ込んだからである。
「おッ」
そちらのほうへ明りを向けた幸吉は声を弾ませた。
取り皿や茶碗が割れて散乱したそばに、第二回目の鍋に煮るべく用意されたとおぼしい大皿があった。さっき煮立った分はおおむね肉塊のかたちにまで切り整えられていたのに対し、こちらは掌や足、脛がそのまま無造作に積み上げられている。
「ううむ」
唸りながら幸吉は、左の掌を摘んで見せる。そこにはたしかに中指だけが落とされて無かった。
皿と鍋のなかを改めて確認した幸吉は、一同を見渡してにんまりと笑った。
「首だけはどこにも見当たらないぜ。これはひょっとすると……」
そのとき、にわかに得体の知れぬ音が、轟、と高まった。いったんは周囲を圧したそれは急速のうちに収束していくと、奥の襖にぶつかった。倒れてきた襖、その向こうから亮が血相を変えて飛び込んできた。ゆらゆらと絶えず揺れつづける炎の光のなか、それは一瞬この世ならぬ形相と映った。
「志津子さんッ! 志津子さんをどこへやった」
「なんだッ、落ち着け、亮ッ!」
亮に負けない大声で幸吉は呼び掛けた。すると亮は一瞬痙攣したかの如く全身を大きく撓わせたあと、その場に崩れ落ちた。
「しづ……こ………さ…………ん……………ああ、御堂……」
極度に張り詰めていたものが一気に萎えたのだろう、両手を畳についた亮はかろうじて顔を上げると、いまにも泣き出しそうな表情で幸吉を見た。
「……また……烟原外人に……騙された……んだ、ね」
聴き取りにくい小声で囁くように云ったあと、かれは完全に力尽きて倒れ込んだ。その弾みで黒いお化け人形がポケットから落ち、それはカタカタカタと数回腕を振り回した。
《第五章 獏鍋の宴/了》
●掲載 2000年2月19日