第六章

公開殺人への誘い

     

 雨がしとどに降っていた。昨日からとぎれることなくつづく細い糸のような雨である。壁と厚いカーテンで戸外から隔たった《夢殿》のなかでは、まして蓄音機から賑やかな音楽が流れるもとでは雨音は聞こえる筈はないのだが、それでも雨の気配は確実に室内にまで浸透して来ていた。もう梅雨入りなのかも知れない。重苦しく垂れ籠めたままの雨雲は、いま《退屈倶楽部》の集いのうえにも被さっていた。
 「あーあ」
 葛城紅紫が両腕を伸ばし、大きなあくびをして見せた。それに対して今仁博輔がなにか云いかけたが止め、煙草に火をつけてけむりを溜息混じりのように吐き出した。
 貘鍋の宴から一ヶ月が経った。八牧友雄はそのまま姿を現していず、といって生首が出て来てその死が確定することもなく、中途半端に打ち過ぎている。それは市来壮太郎の失踪と全く同じ状況であった。
 音楽のみがかまびすしい室内で、女給たちも三人寄り添って黙っている。なにかと話題を持ち出しても、長続きしない。グラスが空いたら代りを満たすことくらいしかすることがなく、所在なげにしていた魔子がふと顔を上げた。
 「……あら」
 小さな声を洩らして眼を細める。
 「どうしたの」
 「いえ、あたし、眼が悪くてはっきりしないんだけど、いま、あの仮面が動いて見えなくって」
 「いやだ」
 隷子は云って今仁の掌を握り、憂子は身を固くして顔を伏せた。
 「ホウ。いよいよ怪人の出現ですかナ」
 紅紫がにわかに元気を取り戻して、眼鏡の太い蔓に手を当てた。
 部屋の奥の壁には、黄金いろの仮面が飾られている。むろん乱歩の長篇に因んだものだが、不気味な笑みを浮かべるそれに全員の注視が集まった。
 蓄音機にかかっていた音盤が最後まで行き切ってしまい、ザラザラと雑音を奏でている。そのなかで、時間が刻刻と過ぎてゆく。
 「あ」
 「まあ」
 「動いた。いま、たしかに眼ェが動きましたぜ。瞬きしよった」
 にわかにどよめきが起こったとき、紅紫は既にカーテンを引いて専用通路を飛び出していた。
 扉を開けた先に二畳ほどの空間があって、右手が《夢殿》専用の便所、正面は戸外へ出る扉、そして左の戸のなかは掃除具を収納する場所ということになっていたが、紅紫はそれを乱暴に開いた。そこを占拠する箒や塵取り、雑巾をかけたままのバケツなどを手当たり次第うしろへ放り投げると、かれは奥の板戸を強く押した。それは軋む音をたてながら、全体が回転扉のように開いた。そして、
 「ワッハッハッハッハッハッ」
 高笑いの声とともにそこから出現したのは、御堂幸吉そのひとであった。
 「……アレレ」
 紅紫は拍子抜けして、口をアングリと開けたまま立ち尽くした。
 「いやあ、紅紫センセもなかなか隅に置けないじゃないか。いまの精悍な動きといい引き締まった顔付きといい、ふだんの見せ掛けとは打って変わって、てっきり冒険劇の主人公だよ」
 「そんな……手の込んだ真似をして、からかっちゃいけませんヨ」
 とぼけた目付きに戻った紅紫は、しきりと髭を摘んだ。
 《夢殿》へ入った幸吉は、猛然と料理に喰らいついた。昨夜遅く、《退屈倶楽部》の集まりが果てて帰るどさくさに人目を盗んで便所に隠れて以降二十時間ばかり、あの秘密部屋に潜んでいたという。
 「当てが外れちまったよ」
 と、人心地がついたらしく、赤葡萄酒を含み紫煙をくゆらせると、かれは述懐した。
 「閉店したあとの《夢殿》に壮太郎と八牧さんがどこからともなく現れて、我われの間抜け振りを肴に一献やってるんじゃないか。昨日酔っ払ってふとそんなことを思い付いたら、居ても立ってもいられなくなったんだよ。まったく、とんだ時間潰しだった。ただ、僅か何尺しか離れていないのに、あそこから覗くと見慣れた《夢殿》がひどくもの珍しく映って、ゾクゾクさせられたのは収穫だったな。そこで思ったんだがね」
 云って、かれはお密の頭を撫で擦りつつ一座を見渡した。
 「《夢殿》に接して、もうひとつ秘密の部屋があるんじゃないかな」
 「なるほどなるほど、有り得ない話ではありませんナ」
 早呑み込みに紅紫が膝を打った横で、今仁はキョトンとした顔をしている。そこへ冷笑を向けたまま幸吉はつづける。
 「だって、あの部屋のことはもう公然の秘密だったじゃないか。にもかかわらず、八牧さんはしばしばここを抜けて、あそこに隠れる仕種を止めなかった。アレは、ばれていることを気付かずにいたからじゃない、そちらへ注意を集めることによって、実は本当の秘密を守ろうという陽動作戦だった、と、そういう推理が成り立ったんですがね、八牧さんッ!」
 最後は立ち上がると、床に向かって怒鳴るように幸吉は云った。
 その勢いに押されて、誰も口を開こうとしない。凝固した時間がしばらく過ぎたあと、幸吉自身が椅子に腰を下ろしながら、「アハハハハハ」と、さも愉快そうに笑って沈黙を破った。
 「絨毯がいきなり盛り上がって、『明晰この上ないきみの知能には負けた、降参だ』とか云いながら八牧さんが現れりゃ格好良かったんだが、そううまくはいかないか」
 「ヤレヤレ、御堂氏はあくまで狂言説を曲げないわけですネ」
 呆れた声を出す紅紫に、幸吉は上機嫌で頷いた。
 「そりゃそうさ、これみよがしに自慢の指輪を表に立てたくせに、首だけは出てこないなんて、あまりにも白白しいじゃないか」
 「イヤ、それでいまフト考えたんですが……このお密ですネ、表面をこう削っていったら、案外八牧氏の骨が出てくるのではないか、ト」
 「あッ、それは気がつかなかった、やってみるか」
 云って幸吉が腰を上げたとき、専用の出入り口の扉を叩く音がした。慌ただしい調子ながら、打ち合わせた暗号どおりの叩きかたである。
 「おッ! やっぱり八牧さん、どこかに隠れてたんじゃないか」
 幸吉は飛び上がらんばかりにして、扉へ駆け寄ってゆく。
 だが、そこから現れたのは、思いも寄らぬ人物であった。
 「ちょいと、御堂クン。まだ乱歩ごっこをして遊んでるの。まったく、子どもじゃあるまいし、迷惑だったらありゃしない。ウチは商売してるんだからねッ」
 里村志津子であった。
 顔を合わすなり凄まじい剣幕で捲し立てる彼女に、さすがの幸吉もタジタジとなって、両手を広げて後ろずさってくる。
 「ちょ、ちょっと待って。それは誤解だ。俺はシヅちゃんにはなにもしてないよ」
 「嘘云いなさい。じゃ、これは何よッ」
 そして志津子が突き出したのは、白いお化け人形であった。両腕を突き出した先に手紙を挟んでいる。幸吉は素早い動作でそれを取ると、目を落とした。

 闇に紛れて密かに行われるべき「殺人」。それを余は敢えて、公の視線を浴びつつ行わんと欲す。猟奇の徒は、本日夜十一時、湊川公園西口の階段下にて合図を待て。
    親愛なる  烟 原 外 人

 その手紙が幸吉から紅紫、今仁へと手渡される間も、志津子の文句はつづいた。
 「毒島っていったっけ、>乱歩をずっと下品にしたあの男、アレは御堂クンの手先なんだろ。大体、あんなのに店さきをウロチョロされるだけでも迷惑なのよ」
 「……」
 「あんまり鬱陶しいから水掛けて追っ払ってやったら、こんなものを商品の間に置いていって。お客さんに見付けられて、恥をかいたわよ。エエッ、御堂クン、一体このあたしに何をするつもりなのよッ」
 「怪人の新たな挑戦だッ!」
 志津子の怒りをよそに、幸吉は興奮した面持ちで叫んだ。
 「いままでと違って、今回は烟原外人自身が堂堂と殺人を宣言しているじゃないか。しかも、公開殺人ときた。事態はまさしく新展開を迎えたんだッ! いまは、まだ八時過ぎ、か。ああ、なんとこの時間の待ち遠しいことかッ!」
 顎をやや持ち上げ、腕を振り回して、幸吉のはしゃぎぶりは子どもさながらであった。志津子も毒気を抜かれ、半ば唖然としてその様子を見守っている。
 「フムフム、これは是非とも、亮クンにもお出まし願わねばなりませんナ」
 紅紫がニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべて幸吉に云った。

     

 雨はまだ止んでいなかった。いや、むしろ日中よりよほど勢いを強めたようである。風こそないものの、雨がざあざあと音を立てて激しく降りしぶくなか、人通りは、新開地本通りはまだしも、北へ上がるに従って目に見えて淋しくなっていって、湊川公園には人っ子ひとりいなかった。高塔の毒毒しく赤いネオンサインが濡れた灌木を、共同ベンチを、水の浮いた地面を、そして勧商場や水族館の影を空しく照らしつけるばかりである。
 時刻は指定の午後十一時になろうとしていた。
 あのあと幸吉はすぐにも出向こうとしたのだが、そこへ亮が飛び込んで来てひと騒ぎ起きた。紅紫が慫慂するまでもなく、前二回と同様、烟原外人は亮にも誘いを発していたのである。それが終わると今度は今仁がひどく怯えて、行かないと云い始めた。幸吉は例によって除名だの何だのと脅かしたのだが、今回ばかりは今仁も強硬で、とうとう時間切れとなってかれを放ったまま、幸吉、紅紫、それにいままた半ば夢見心地に陥った亮の三人が雨の戸外へ出たのである。
 湊川公園の下を随道が東西にくりぬいて、市電が走っている。その停留所へと降りる階段は、かつてここに川が流れていた頃の面影を残す場所で、殊に雨の夜半のいまは神戸随一の歓楽街の一角にいるとは思えぬくらいひっそりと静まり返っていた。
 「しかし、端なくも亮サンまでやって来られて、《血祭》とまったく同じ状況になりましたナ。いや、この場合、『端なくも』などということは有り得ないのかも知れませんが……」
 思わぬ事態の展開に幸吉がただもう夢中で喜んでいるのに対し、紅紫は疑いを拭うことができずにいるらしい。とりわけ亮を捉える視線が険しかった。
 「《退屈倶楽部》ご一行様ですね」
 突然背後でくぐもった声がした。いつの間に忍び寄って来ていたのだろう、真っ黒い男の影がそこに在った。文字通り黒ずくめなので、帽子、色眼鏡、マスク、衣服、手袋、靴とことごとく黒一色のものをまとった男は、夜闇に半ば溶けかけている。
 「どうぞ、こちらへ」
 男は先に立って土手の名残りの崖の下へ踏み入った。すると行くほどもなく叢のなかに隠されていた黒塗りの車にぶつかり、三人はそれに乗せられた。すぐに発進したが、もともと車窓には厚いカーテンが下ろされているうえに目隠しをはめられたので、どこをどう進んでいるのか、幸吉には見当もつかない。ただ、エンジンの振動と叩き付けるような雨音とがないまぜになりながら暗闇を揺する感触を楽しむばかりであった。
 (この運転手は、誰が変装したものなのだろう)
 と、時折りそう考えてもみる。
 (八牧さん? 壮太郎? それとも、毒島?)
 だが、人間の感覚が咄嗟には当てにならぬことを幸吉は知った。いま上げた人びとならば体格も肉付きもまるで違うのに、こうして改めて思い起こしてみると自信を持って特定することができないのである。黒ずくめの異装に気を奪われた結果だが、いまとなってはその曖昧な点が、これから向かう公開殺人の思うだにゾクゾクする快感をなお一層刺戟するかのようであった。
 自動車はたっぷり一時間は走り回った。その果てにようやく止まりエンジンが切られると、不意に訪れた静寂に身体と耳とがかえって違和感を覚える。扉が開いて、「そのまま」と、運転手が作った声で指示した。
 目隠しで視界を覆われたまま、運転手の手引きで一人ずつ降ろされ、揃ったところで背中を押されて前へと歩かされる。そのうち家のなかへ入ったにちがいない、雨音が遠のき強い黴の匂いが鼻を突いた。
 「まだ行くのかい」
 指図がふととぎれたので幸吉は声に出して確認したが、反応はない。
 「あッ、畜生。逃げやがったな」
 素早く身構えながら目隠しを取ると、まわりを見渡して幸吉は歯がみした。蝋燭が一本点されただけのガランとした室内には、幸吉たち招かれた三人以外の人影はない。ここは廃屋らしい。部屋からは畳も取り払われていて、少し動くと下の板がミシミシと音を立てた。
 正面の襖に幸吉は手を伸ばして一気に開ける。人の気配はやはりない。蝋燭を手に取って廊下を進むが、行くほどもなく突き当たりに出てしまった。壁ではなく、板が前方の空間を遮っている。
 「フーム。定石どおりならばこいつにドンデン返しが仕組まれているところだがな」
 冗談めかして呟きながら幸吉が隅を叩くと、その通りそれはあっけないくらい簡単に開いた。
 「……へえ」
 それでかえって驚いたらしく、幸吉は唖然とした表情でそこに立ち尽くした。
 からくり扉の奥には、地下へと下って行く急な階段が隠されていた。埃っぽく荒れ果てた廊下とは打って変わって、そこは壁に据えられた裸電球に明るく照らされて整然として見える。
 「ハハア、これは美事な隠れ家ですナ。外は荒れ果てた空き家と見せ掛けておいて、その中に潜んで悪事を企む。……原理は簡単ですが、それをここまでやり遂げるのはなまなかな悪人の仕業ではありませんヨ。執念、というだけでは片付けられない、美意識のようなものを感じますネ」
 云いながら紅紫は、用心深い目付きで幸吉と亮とを交互に観察している。
 「その通り。しかも烟原外人を名乗る限りは、我われのまるで預かり知らない相手でもないだろうしな」
 幸吉も思わせ振りな返事をする。ひとり亮のみがそんなやりとりも聞こえぬふうな真剣なまなざしで、階段の奥を見据えている。気になることがあるのか、ズボンのポケットに手を突っ込んでしきりとまさぐりながら。
 「まあここでぼんやりしていても始まらない。行こうぜ」
 景気づけのように幸吉は云って、歩を進めた。
 落差の大きい段が数段続いたあと、道は急角度で右へ折れていた。またすぐ、今度は左へ。また。また。そして……。どういう意味があるのか、狭い階段は何度も何度も慌ただしいまでに行く先を変えてゆく。傾斜は次第にゆるやかになってきたが、それでも下へ地底へと着実に辿って行くことは間違いがなかった。
 (さっきの車といい、やたらグルグルと回らされる夜だな)
 と幸吉は思い、小さく笑いを洩らした。何故か妙におかしかった。足取りに乗せて脳裡では、(グルグル、グルグル、グルグル、グルグル……)と音律を取り始めた。
 周囲はいつか、乳白色のひかりに包まれている。裸電球は姿を消していて、光源は定かではない。のみならず、空中にはごく淡い靄がかかっているのか、光は変な反射をしながら小さい拡散を繰り返し、全体がフワフワと漂い始めるかのように見えた。
 微かに鼻を突く匂いを幸吉はふと意識した。医者へ行ったときに接する消毒薬のそれに似ている。それは不思議に心地好い刺戟と化してかれの体内へ浸透して行く。もともとうわずっていた気持ちがなおのこと高揚し、ゆったりとした陶酔が訪れた。酒に酔ったときでさえ味わったことのない、それは純度の高い至福のおもいであった。
 足の下の段の硬い感触はいつの間にか消えてしまっている。といって、踏み外したり縺れたりはしない。グルグル、グルグル、グルグル、グルグル、グルグル、グルグル、グルグル、グルグルという調子に乗って、両足は着実に一歩ずつ進み続けている。そうして、全身がゆっくりと沈み込んでゆく感触だけが脳裡を占領する。
 ……………………
 「アッ、危ない危ない、このまま眠りこけたら、またしても怪人の思う壺ですゾ」
 紅紫がなにか云う声が遠くから微かに漂ってきたが、意味がよく判らない。いや、そもそも声そのものが発せられた端から変質し、壊れ、消えていって、届かなくなる。
 乳白色のひかりはいまは既に闇と化している。暗くなったのではない。きらきらと小さな輝きを無数に孕んだ明るい闇がまわりを席巻しているのだ。なにのものとも、とうに判別のつかなくなった、しかし濃く豊かな芳香。全身が穏やかな幕に覆い尽くされたまま、ゆっくりゆっくり大地の果てへと沈み込んで行く感覚。大いなる幸福のおもい。……
 「幸吉サン! ちょっと、起きてくださいヨ。……あーあ、ダメだ。とうとう寝てしまいましたヨ」
 階段に座り込んだなり膝の上に身を乗り出して、幸吉は昏昏と眠っている。強く揺さぶっても反応のないかれを見捨てて、紅紫は周囲を見渡した。
 ずいぶんと奥深くにまで入り込んだと思ったのに、なんのことはない、角のすぐ先には例のドンデン返しが見えている。紅紫自身そこに腰を下ろしたなり、うつらうつらしていたのだ。一体になにがどうなったのか、経緯が曖昧でよく思い出せない。
 「オヤ……務代氏。……亮氏?」
 ふと気付いて呼び掛けたが、それに応ずる声はない。紅紫の表情に一瞬、見たこともない険悪ないろが走った。
 「ムウ。またしても逃げやがったか。怪しい奴め」
 呟きながらかれは大きくかぶりを振った。なにか、かれを引き摺り込んでいこうとするものから抵抗を試みているかの如くであったが、次第に顔付きが弛緩し、ことに眸がトロンとしてきた。
 裸電球の黄いろいひかりのなかへ乳白色が混ざり込んでき、それはたちまち周囲を明るく充たした。どこか、遥か彼方から聞こえてくるものは雨音ではないのか。それなのに月がこの世界をあまねく照らし出している。
 ……だが、それを訝しむ間もなく、紅紫の意識は急速に遠ざかっていった。

     

 乳いろの明るみは務代亮をも仄かに取り囲んでいた。この世へ生まれてくる以前に見た夢のように優しく穏やかで安らかな気配、それは亮を豊かな眠りへとしきりに引き込もうとする。事実、かれの意識は幾度も眠りの側へと喰み出していった。しかしその都度、ポケットのなかの《夢の結晶体》が妙な力を発してそれを阻む。焼き付くとも電気が流れるともつかぬ強いその感触は、単に太腿を刺戟するばかりではなく、全身を激しく揺さぶった。
 周囲の空気はそのたびに凝固して行く。不隠な空気が次第に漂い始めた。
 さっきから立ち込めている消毒薬の匂いが強くなってきた。いや、そこにはなにか別の匂いが混じり、かつ徐徐に置き替わっていっているようにも思われた。そして、その嗅覚には覚えがある。
 ぼんやりとした意識を覆ってごくゆったりたゆたうように高まる眠気と、《夢の結晶体》による瞬時の中断、それを何回も繰り返すなかで、亮は匂いの正体をちらちらと考え続ける。
 (これを感じるのは、決まったときだった。……新開地で。そう。でも、いつもじゃない。……誰か……誰かが一緒のときに限られていた。……誰?)
 思考のかたちが目に見えて明瞭になってゆく。それを励ますように、《夢の結晶体》に熱が籠った。
 (誰? ……そう。あいつだ。あのいやらしい……あの…………)
 脳裡に突然、閃光が走る。
 「烟原外人!」
 思わず声に出して云ったそのとき、匂いの意味が明らかになった。あの怪人のきつい口臭だったのだ。
 そして。
 ハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッ……
 慌ただしく、あたかも犬のように苦い息を吐きつける気配がすぐ真横にある。
 「……」
 ゆっくりと首を曲げる。
 坊主頭の烟原外人の大きな顔が一寸先に迫っていた。目が合った瞬間、かれはニンマリと嫌らしい笑いを浮かべる。
 「!」
 声を出す間もなく、怪人は身をスイと翻して階段を駆け下りていった。傍若無人な高笑いを残しながら。
 それを追いかけると段はすぐに終り、ぽっかりと広い空間へ出た。途端に空気の質がまったく変わる。それは湿気をたっぷりと含んで粘っこく、肌にネットリとまといつくように思われた。刹那、背筋にゾッとするものが走る。反射的に亮は立ち止まった。
 寒気はすぐ悪寒にまで高まり、激しい震えとともに眩暈と嘔吐感が襲い掛かってくる。制御の外へ飛び抜けてゆく意識。キンキンとうるさく騒ぎ立てる耳鳴り。……やがて長い時間を掛けてそれらは次第に静まっていった。ひと心地のついた亮は、あらためてあたりを見渡した。
 空間は纏まりなくどこまでものっぺりと広がっているようであった。向かう先も上空も、端をはっきりと見定めるより手前を曖昧な薄闇が塗り潰してしまっている。
 (洞窟? ……)
 ふとそう思う。
 空間の中央をくっきりと照らす白いひかりは月光であった。もとより月そのものは見当たらず、ひかりがどこから射し込んでくるのかも特定できない。それでいて亮はそれを月の妖光と確信したし、いま洞窟内にいるという位置認識とも矛盾は感じなかった。
 先刻からずっと握り締めたままの《夢の結晶体》が熱い。しかしその熱さをことさら意識することなく、かれは今それと一体化していた。
 (烟原外人め)
 亮は顔をキッと上げる。
 節分の「お化け」以来、常に一方的に翻弄されてきたけれども、その距離が一歩縮まったのをかれは意識した。
 その烟原外人が、月光とそれの届かぬ暗黒とのちょうど境をなす薄闇のなかに立って、嬉しげに手招きをして見せている。亮はことさら焦らず、真っ直ぐ大股に怪人のほうへと向かっていった。
 ゆるやかな下降がつづくなか、一歩進むごとに気温がぐんぐんと下がった。同時に月の光が冴え冴えと鋭くなり、対照的に背後の闇がにわかに深みを増した。寒さも昏さも現実のそれをどこかで突き抜けて、冥界のものに摩り替ったのではないかと思われた。
 烟原外人は余裕たっぷりとその場を動かずにいて、その姿が迫ってきた。と、そちらに気を取られていた亮はなにかに蹴躓きよろけた。
 「え」
 目を落とした視線の先、そこにひかりがふいと溜まり、真っ白い棒状のものを浮かび上がらせた。
 「フフフフフフフ」
 戸惑った亮に向けて、烟原外人がいかにも愉しくてならぬ様子で含み笑いを放つ。それは生理的嫌悪を引き起こし、とたんにそのものの正体が判った。
 脚だった。ただし、足首と太腿はスパッと切断されて無い。
 (また、こんなこと……)
 何回も繰り返して見る馴染みの悪夢の予告よろしく、外れぬことがあらかじめ判っている予感が亮に宿った。
 顔を上げると、周囲には人体が散乱していた。十人……いや、もっと多くのものだろうか。五体満足なものはひとつとしてなく、ことごとくが細かく切り刻まれている。ただ、無造作に折り重ねられたそれらの肉片は石が転がっているかの如くで、凄惨な印象には乏しい。血の跡がきれいに拭い去られたせいか、と考えた亮は、ふいに気が付いた。頭部がひとつも見当たらないのである。
 それにしても、つい先刻まではたしかに、この累累たる人の破片の群れはなかった。月の妖光を思わせるこの明るみがそこまで伸びたことによって、情景が浮かび上がってきたのだろうか。
 否、それらはたったいま、出現したのだ、という確信が亮にはあった。烟原外人のあのいやらしい笑い声とともに。
 そのおもいを肯定するかのように、怪人はいままたひときわ高く笑った。ゾクリとする感触が雷のように亮の背筋を走り抜け、そのあと全身の震えとなって残った。反射的な嫌悪感、それがあたりの張り詰めた肌寒さを思い起こさせたのだ。かれは自らのまえで両腕を回し、身を縮こめた。
 「寒いようだね。なにしろ、ここは天然の氷室だからな。これは小賢しい人智など及びも寄らぬ、まさしく自然のみが成し得る奇跡で、このなかに在る限り、肉は腐らない。この環境に巡り遭ってはじめて、わが『人体芸術』は開花したのだ」
 肉叢の散らばる向こうで、怪人は得意げに喋り始めた。
 (志津子さん!)
 話の行き着く先が彼女であることは判っている。早く、その安全を確かめなければ。……それなのに、例によって亮の身体は既に自由を奪われている。怪人は一体、どんな魔術を使うのだろう。
 乳白色のひかりのなか、烟原外人の坊主頭が異様に大きく見えた。最初に遭ったときにまず印象づけられた切れ長の眸が真っ直ぐに亮を捕らえて離さない。顔付きはニヤニヤ笑っているのに、視線だけはひどく鋭く冷たかった。
 「『美』が女体によく宿ることは、以前にも教えてあげたが覚えているかな。ことにも少女から二十歳前後にかけての時期ならば、どんなに凡庸な肉体であっても、どこかしらに見栄えのするものがあるものだ。だが嘆かわしいことに、それはひどく敢果なく、須臾のうちに消え去ってしまう。『美』が完成した、まさしく次の瞬間から堕落は始まる。これはいかに『美』の本質であるとはいえ、実に勿体ないことと嘆ぜねばならぬ。そこで……」
 言葉を切って烟原外人は手近の肉片を取り上げる。太腿を半ばで切断した脚だった。その足首を掴んで逆さに持つと、かれはふくら脛を愛しげにゆっくりと撫でた。
 「どうだい、このすべすべした手触りは。ふっくらと膨らんでいて、しかし太過ぎはせず、すらりと伸びている、この均整のとれた造型にはそう滅多には当たらないぜ」
 それを無造作に放り投げると、今度は肩から上腕にかけての部分を拾った。怪人は腕を押し上げ、脇の下の凹みを嘗めるように顔を近付けた。
 「ここは一種の盲点でね、芸術史上あまり取り上げられたことはないが、素晴らしい魅惑を含んでいる。もっとも毛の手入れをしていないものは論外として、剃った直後もまた意外に良くない。二日くらい経つとこうしてチクチクと微かに刺してくる、こいつが絶妙の味わいをもたらすんだ」
 その脇の下へもう一度唇を押し当てて、烟原外人は陶然と目を細めた。
 こうして、怪人は自ら解体した女性の一部を、次から次へと愉しげに説明を加えながら見せびらかしていった。
 ほっそりとした項。頚窩を挟んで両側へピンと伸びる鎖骨。しなやかな手掌。きれいにくびれた臍。張りのいい臀部。膝小僧の裏にくっきりと刻まれた膝窩。擦れていず、滑らかそうな踵。そして……
 ふさふさと陰毛がひどく濃い股を捨てると、烟原外人はうそぶいた。
 「時の流れのままにしておくと、せっかくのこれらの『美』も、崩れ、かさつき、しなびていってしまう。しかも、醜い、とまでは云わずとも、さして美しくない体位が付随しているのも、『美』の純度の点からは疑問がある。というわけで、こうしてコツコツと時間をかけて『美』の保存に微力を注いできたのだが、これだけ集まってくると、今度はまた欲が出てくる。まったく人間の審美眼の深まりに、限度はないものだ」
 云って烟原外人はゆっくりと歩き始め、やがて亮の背後へ回り込んだ。
 「すなわち、見目の良い女体の断片がこれだけある。これを組み合わせれば、理想の女性が出現するのではないか」
 痺れたように動かなかった身体が、いまは逆にひとりでに怪人のいるほうへ向き直っていった。
 いつの間に現れたのか、そこには全裸の女性が何人も立ち並んでいた。一瞥しただけでは判らないが、首筋や腕、脚の付け根などに細い線が走っていて、それが本来は異なる人間のものであった肉片同士を縫合した跡であるらしかった。
 「はっきり云って、これらはすべて失敗作なのだ。部分部分が至上の美を保っていても、それらが融和しない。むしろ反発しあうことさえ珍しくない。ほら、この豊かな胸にこのすらりとした脚はまるでそぐわない」
 指差した烟原外人は、その手で女性を押し倒した。
 「かといって、なにからなにまで細めの部位で統一すると、このとおり大層貧弱なものになってしまう」
 二体目の女性も倒した。
 「まして、意図的に異なる基準の美を組み合わせたらどうだい。まるで漫画だ」
 こうして烟原は、自らが創造した人造の女性たちを右へ左へと薙ぎ倒していった。つぎはぎの死屍の群れ、その果てに一体だけが残った。
 志津子だった。
 予期されたこととは云うものの、亮の心臓はこむら返りを起こしたように高鳴った。それでいて、動くことはもとより声を発することさえできない。せめてものことにかれは目を見開いた。
 「フフフフフ、心配めさるるな。こいつにだけは、いっさい手を出していない。つまり、まだ芸術のための素材の段階に留まっているわけだな」
 烟原外人にからかわれて見ると、硬直したように立ち尽くす志津子もまた、眸だけが動いている。彼女も亮同様、怪人の魔術に弄ばれているにちがいない。
 「実は試行錯誤の末に、発想の転換が必要であることに気付いたのだ。一から組み立てるのではなく、土台を決めておいて、足らざるを補うかたちにすれば、理想の美の出来は確実なのではないか。そのためには基礎を作る美形の確保が肝要だが、今回それにようやく成功した、というわけだ。そこで感謝の意を込めて、これから『人体芸術』完成の瞬間に特別に立ち会わせて差し上げることにしよう」
 烟原は志津子のほうへ向き直ると、いつの間に用意したのか、太い短刀を持ち出した。鋭いその刃先を立てて、彼女の肉体の表面を指し示してゆく。
 「胸から下腹部へかけてのこの流れは、実になんとも申し分がない。それから、脚。長さといい細さといい、肉の締まり具合といい、こいつはもう最上の仕上がりとしか形容のしようがない。ただ惜しむらくは、肩の肉付きがすこし薄くて、淋しい印象が拭いがたいんだな」
 云って怪人は、志津子の胸の上から腕の付け根にかけての部分を刃の裏で軽く撫でた。その跡が白い皮膚のうえに赤い細い線となって浮かび上がる。次いでかれは、足下から肉片を取り上げた。
 「どうだね。この柔らかなかそけき膨らみ。まったく、見たところどこといって取り柄のない凡庸な女性の着物のしたにこういう美が隠されているのだから、女体探索は止められないのだよ。そして、ここさえこれと取り換えれば、わが美人間第一号は完成する。さて、それでは……」
 一拍置いて烟原外人は、刃物を志津子の肩に突き付けた。
 亮の身体の奥深くから押し寄せてくる衝動があった。なにかか脳裡で爆発する。それと同時に、指先が微かに動く感触がした。
 「待て」
 声が出た。
 呪縛が溶け、自由が戻ってきたのだ。
 そう意識する間もなく、かれは志津子のもとへ駆け出そうとした。しかし、最初の一歩でそこに転がっている継ぎ接ぎの女性たちにつまずき、かれは転倒した。頭が落ちた先には三体の胸や尻や脚が折り重なっていて、亮は凍り付いたように冷たい肉叢のなかへ顔を突っ込んでいった。

《第六章 公開殺人への誘い/了》


掲載 2000年4月19日