第七章

夢幻展覧会

     

 (ぼくが犯人?)
 務代亮は幸吉に聞かされたその説を、ぼんやりとまた反芻していた。
 (ぼく自身が怪人・烟原外人に化けて、御堂たちを弄んでいる)
 それは荒唐無稽のようでいて、その実、妙に胸に迫るものを持っている。夢のなかで、意味が定かではないにもかかわらず、なにか大発見をした気になって感動に身を震わせることがある。それにどこか似ていた。
 怪人がごく身近にいる。絶えず烟原外人に見張られている。その感覚は常に亮に付き纏って離れなかった。それも道理、怪人は自らの裡に潜んでいたのだとするならば。
 いつか梅雨は明けて、このところ炎天がつづいていた。庭に面した座敷の障子はすべて開け放ってあるが風はなく、じっと座っていてさえ汗が吹きだし、流れつづける。蝉の声さえとぎれた、暑気に全身隈なく押さえ付けられる昼下がりであった。
 首がガクッと傾ぐ感触で、亮は我に返った。慌てて周囲を見渡すが、室内になにも変化はない。かれは緊張を解くとともに、小さく溜息をついた。
 (意識の空白が多過ぎる)
 と、そして思う。
 いまのような短期間のことだけではない、数日間なにも知らずに過ごしてしまうことさえ珍しくない。得意のボンヤリ病だと幸吉にはからかわれるのだが……
 (その間ぼくが怪人と化して、怪奇事件の準備にかかっているとするならば)
 瞬間、真夏の暑さに加わって、くわッと熱っぽい感触が全身を駆け巡った。やがてそれが引いたあとも、右の太腿にだけはムズムズするものが残った。
 《夢の破片》だった。
 取り出して手に持ったそれは、はっきりと熱を帯びている。のみならず、表面にはなにやら蠢く模様が微かに見える。
 亮の気持ちは、それに見入るうちにゆっくりと昂ぶってくる。
 (志津子さん)
 と、おもいはやはりそこへ行き着いた。
 (実際ぼく自身が怪人なのだったら良かった。だって、いつでも好きなときに志津子さんに逢えるのだから。それなのに烟原外人の奴、わけの判らないことで誑かしてばかりいて。……食用人間だって。人体芸術だって。この前なんかとうとう、志津子さんによく似たひとを探し出して、解剖までして。ああ、志津子さん、あなたはいま、一体どこに拉致されているのですか)
 考えていると、想いびとのもの淋しげな細面の顔立ちがちらつき、居ても立ってもいられぬ焦燥に亮は駆られた。頭に血が上り、視野も脳裡も同時に真っ白になる。意識がふうッと抜け出してゆく、遠い感覚にかれは身を委ねた。
 ……どれくらいの間、そうしていたのだろう。キーンと甲高い耳鳴りが覆い被さってきて正気を取り戻したとき、亮の目にまず入ったのは、白いお化け人形であった。障子もその先の硝子戸も開け放った廊下、そこを充たす眩しい真夏の陽射しのなかで、例によって携えた手紙を右へ左へと振りながら、お化け人形はカタカタと座敷のほうへ向かってくるのだった。

     

 暑い日がつづくので、《夢殿》には今日から氷柱が運び込まれていた。それも等身大の女体を彫り込んだ力作で、数時間のうちに溶け去ってしまうのがなんとも勿体ない力作であった。
 「お正月には、飾りの生人形がいきなりケラケラ笑い出したので肝を潰しましたがネ。今日もこれ、下から女給サンが出てくる趣向じゃないでしょうナ」
 「馬鹿な。あっちが透けて見えてるじゃないか」
 紅紫も幸吉も、揃って上機嫌に軽口を交わした。無理もない。紅紫が宣言してから時間をかけてようやく結構が整った《血祭》の夜、そこへ案の定怪人は姿を現わす運びとなった。資材の準備ができたその瞬間を狙いすましたかの如く、血相を変えた亮が飛び込んできたのだ。
 もとより、それは幸吉の預かり知らぬことであった。
 (お定まりの序章から入るのは、紅紫センセの自信の現れかも知れないな。そう。たいそう力が入ってるから、単なる二番煎じにだけは決してなるまい)
 かれはもうすっかり一観客として、この怪人劇を楽しんでいる。
 「サテ、みなさんお揃いですから、早速始めることにしましょうかネ」
 この暑いさなかだというのに羽織り袴をきちんと着た紅紫が立ち上がって云った。
 「今夜の《血祭》はですネ、ひとつみなさんに本物のエログロ映画をご覧戴こう、ト、こう思いましてネ。と云うのも、トーキー以来映画が隆盛の一途を辿っているのはまとこに目出度い限りですが、一方ではその大衆娯楽路線を飽き足らなく思う人たちもいるわけですヨ。かく申すわたくしも失職した弁士でしてネ、決して懐旧の念からだけではなく、かつて活動写真と呼んでいたころ、まだ客も少なくて限られた同志の情熱に支えられていた時分の映画はいまよりずっと面白く、刺戟的だったように思うんですナ。デ、マアそういった旧くからの仲間の残党が、小型の映画写真機を使って趣味に合ったものを細細と撮りつづけいますんで、その作品のなかから、わが《退屈倶楽部》の趣味に適うものを選んでお目を汚そう、ト、そういう次第なんですネ。題して、『エロ怪奇・グロ幻想』」
 既に奥の壁全体を特製の銀幕が覆い、テーブルの上には映写機が余熱を発している。紅紫は隷子に合図を送り、彼女は電灯のスイッチをひねって、《夢殿》のなかが真っ暗になった。
 「ええッ、電気、消すんでっか。ち、ちょっと待っとくんなはれ」
 とたんに今仁が情ない声を上げる。
 「なんですか、まさか明るいなかで映画を写すことはできませんヨ」
 「そ、そらそうでっけど、こんな暗うしたら、また怪人の思うがままでっせ」
 「そうだよ。それを狙ってるんじゃないか。いまごろなに寝言を云ってるんだい」
 「そやけど……」
 なおも泣き言をつづけようとする今仁の後頭部を、幸吉はいきなり張った。
 「さあ。紅紫センセ、いいから始めて」
 「それじゃあ、行きますヨ」
 怨みがましい顔付きで黙り込んだ今仁をおかしそうに見て、紅紫は云った。
 カタカタカタカタカタと規則正しい音を立てて、映写機が回り始める。
 濃い灰いろの枠のなか、なにかゆっくりと動くものがある。それははっきりとした輪郭を持っていず、背景との間には僅かな濃淡の差しかない。前口上から女体だろうと見当をつけて幸吉は目を凝らしたが、もうひとつはっきりとはしなかった。
 「エロと云いグロと唱えると、人の目はどうしても、秘められたものを覗き出す行為に注意が向くわけですがネ」
 髭をひねりながら、紅紫がおもむろに口を出した。
 「本当は逆でしてナ。その神髄は、実に隠すことにあります。見えそうで、見えない。それが一番、劣情をそそるのですヨ。この機会に烟原外人氏の批判をチョットやらせて戴きますれば、いくらなんでもアレは露骨すぎます。風情というものがまるっきりありませんナ」
 「しかしこの写真は、そもそも見えそうですらない。これじゃあ、エログロ以前じゃないか」
 幸吉が揶揄の言葉を挟むと、紅紫は真面目な顔で手を振った。
 「御堂氏ともあろうかたが、そんなセッカチでは困りますナ。種明かしをしますと、これは夏の夕暮れどき、屋外で行水をつかううら若い女性の姿を、木立ちの影から覗いて見ている情景なんですがネ。ホラ、そろそろ目が薄闇に慣れて、見通しがきくようになってきましたゾ」
 紅紫の云うとおり、画面の中央に大きな盥に座った女性の姿が次第に浮かび上がってきた。
 「なるほどなるほど、芸が細かいんだな」
 幸吉は満足げに呟いて、再び銀幕を見据えた。
 画面を支配するのは依然薄闇にはちがいなかったが、そこにはいま仄かな明るみが内から滲み出ているかの如く、情景をはっきりと見取ることができるようになった。
 女はその豊満な肉体をしきりとくねらせながら湯浴みをつづけている。胸を、腹を、そして秘部を、手ぬぐいは使わず直接掌で洗いつづける。と、女の表情が次第になまめかしくなってきた。
 「判りますかナ。本来ならば男にしてもらうことを自分でやり始めたのですヨ。イヤ、はずみというのは恐ろしいものですナ」
 写真機はいつか木陰から出て、女のすぐ近くにまで迫っている。左手で乳房を揉み、右手は人差し指を女陰へ突っ込んで、彼女は悶える仕種をおおっぴらに見せるようになった。といって、周囲を包む闇もまたその色を濃くしてきて、映像自体がそこへ曖昧に溶けかけている。あわいのなかに蠢く肉は、なるほど官能に妙な刺戟を与える、と、幸吉は考えた。ズボンのしたが痛くてたまらぬくらい、かれは勃起していたのである。
 募りゆく闇に紛れながら揺らめく肉叢、いつからかそれに厚みが加わってきた。
 (乳房の具合がおかしい)
 幸吉はふとおもう。膨らみの位置が変に捩じれている。
 闇にしばしば呑み込まれて消えるその像に着目して観察をつづけたかれは、やっと気付いた。もうひとり女性が現れて、愛撫を互いにしあっているのだ。
 相手は元からいる女とは対照的にほっそりとしなやかな身体つきをしていた。柔らかいふっくらとした肉と、引き締まったそれとが深く絡まって、暗いなかから浮かび上がり、沈み込み、ゆっくりと絶頂に向かって行為に没頭している。
 悶える女の顔が大写しになる。眸をしっかり閉じて、いまにも泣きだしそうなその表情、そこにはただの快楽だけではないものが乗っているかの如くであった。
 (首筋に回った相手の掌……)
 と、幸吉は不意に気付いた。それはいまはもう既に撫でているのではない、力を籠めて締めているのだ。苦痛もまた慶びをもたらすのだろうか、彼女は抵抗する様子も見せず、なすがままに身を委ねている。
 幸吉は唾を呑み込んだ。
 真迫のこの表情は、とても演技とは思えない。現実に首を締められていて……そしてそのまま死に至るのではないか、と、かれはふと思ったのである。
 エロスの果ての死。いや、死が究極のエロスを完成させる、というべきだろうか。
 断末魔の叫びを放ったのだろうか、悶絶する女の口がひときわ大きく開いた。
 フイルムがそこで突然止まった。真っ暗になった《夢殿》は、フイルムの回る単調な音が突然とぎれたいま、異様な静けさに包まれたかに思えた。
 「どうした、機械の故障かい。せっかくいい場面なのに」
 「なに云ってるんですか、怪人様のお出ましですゼ」
 すっかり没入して状況を忘れている幸吉に紅紫は指摘し、電気をつけた。
 思わず目を閉じる眩しさのなか、亮の姿が見えなくなっていた。そして、専用通路へ繋がる扉が開いている。
 紅紫が逸早く戸口を駆け抜けるのを幸吉が追う。向かいのビルヂングの角を曲がると、新開地本通りのほうへフラフラと歩いてゆく亮の後ろ姿があった。
 「ああやってどこかで怪人に変身して、このアタシをくびり殺そうという、そんな了見じゃあないですかネ」
 皮肉っぽい口調で云いながら、その一方で紅紫は幸吉の反応を窺っているようでもあった。
 「それならそれで面白いじゃないか。さあ、行こうぜ」
 陽が落ちてだいぶ経つのにムッとする暑さが残る新開地、《退屈倶楽部》の三人はそちらへ向かって行った。

     

 務代亮は暗い《夢殿》の一隅に身を沈めて苛立っていた。
 詰まらない無声映画がつづいている。幸吉を初めここの連中は、どうしてこんな物に入れ上げるのだろう。それも平時ならばともかく、烟原外人がいまにも姿を現そうという、危急の際なのに。
 といって、過去何回か体験してそれなりに理解しているが、怪人はかれらの準備した趣向に乗ってちょっかいを出してくるのが常であった。だから、いまは待つしかない。頭では理解しているものの、焦燥はなおも募るのを止めなかった。
 見たくもないエログロ映画はそのうち、女性の肉体から表情へ焦点が移った。本人は楽しんでいるのかも知れないが、亮はどうしても怪人にいたぶられる志津子を連想し、息苦しくて堪らなくなってきた。小さな吐息をついて銀幕から視線を逸らした瞬間、壁にかかった黄金仮面の両目が光っているのに気付いて、かれはドキリとした。よく見ると、奥から明りが洩れているようである。
 (烟原外人!)
 亮は立ち上がって、カーテンを引いた。
 その先と、さらに向こうの扉が開いていて、戸外のビルヂングにもたれて烟原外人が立っていた。坊主頭の大きな顔いっぱいに粘っこい笑いを浮かべている。
 刹那、太腿のところで熱いものが炸裂した。
 《夢の破片》が怪人の出現と呼応するかの如く、躍動を始めている。
 だが、それよりも……
 思考が形をなすまえに亮は飛び出していた。烟原外人は両腕をおかしな具合に振り回して、踊るように走って行く。追い掛けて踏む大地の感触が一歩ごとに曖昧になるのをかれは意識した。今夜もまた月の妖光が街をしっとりと包み込んでいる。
 (ああ、また変なところへ連れて行かれてしまう)
 その思いは絶望的なようでいて、どこかに甘いものを孕んでいる。
 無意識のうちに《夢の破片》をしっかりと握り締めて、亮は走る。
 相生館脇の小便小路に並ぶ屋台店、そこに群がる人びとの背後を怪人は軽やかに走り抜けた。その後から新開地本通りへ出ると、真夏の夜のこととて夕涼みの客が大勢来ていて、右へ左へいくつもの流れができている。毒毒しい血のいろに燃えるネオンサインに照らされて華やぎに充ちた夜の繁華街、そのあちこちに志津子はいた。ただし、人間以外のものに封じ込まれて、いかにももの哀しげに。
 洋装店の飾り窓のなかに立つ浴衣姿のマネキン人形は志津子だった。
 店先に張り出されたさまざまなポスターのなかにも、志津子は決まって写っている。
 グリコの大きなネオンサインさえ、走者の表情は志津子に変わっている。
 そして。
 新開地本通りの西側一帯にびっしりと軒を連ねる映画館、その壁に途切れ目なくつづく絵看板に描き出される夥しい人物がことごとく志津子だった。
 姫や恋人役の女性はもとより、男の身繕いをしているものも、顔だけは志津子に置き変わっているのだった。
 母親も姉も妹も、家族全員が志津子だった。
 追う者も追われる者もそれを妨害する者も、すべて志津子だった。
 善玉も悪役もかれらを取り巻くその他大勢の観衆も、誰もかれもが志津子だった。
 街全体、視界のなかのあらゆるところに志津子がいる。そしてその哀しげな面影は、不本意に囚われた現状を訴えるものに他ならなかった。亮は胸が詰まって息苦しくなってきた。
 数え切れぬ志津子の群れに取り囲まれて、新開地の人通りのなかを亮は彷徨する。
 その映画館の前には、客引きのために等身大の広告人形を立てていた。白い涼しげな洋服を着たヒロインは、もちろん志津子の顔立ちをしている。と、彼女はふいにコクンと頷いた。
 「し、志津子さん!」
 呼び掛けに応じて彼女は一瞬亮を見たが、小さくかぶりを振ると人波に紛れて館のなかへ入って行こうとする。
 「待って!」
 大声を出してそちらへ向かうが、散歩客が邪魔して思うに任せない。ようやく映画館のなかへ辿り着いたときには、大切な彼女の姿は既に見失われていた。
 (志津子さん……)
 暗闇のなか、亮は茫然と立ち尽くす。
 映画館のなかに決まって立ち籠めている特有のこの匂いはなになのだろう。回りつづけるフイルムが放つのか、それとも観客の熱気が長い間に蓄積されて沈殿したものなのか。いま闇は深く、亮はその匂いだけを意識している。
 そこへ突然、切羽詰まった悲鳴が轟いた。それを強調するかのように効果音がつづく。そして、銀幕ににわかに明りが差した。
 「志津子さんッ!」
 声を限りにかれは絶叫する。
 画面に大きく写し出されたのは、苦痛に歪む志津子の表情だったのだ。
 つづいて、烟原外人の哄笑の声が上がる。それは拡声器を通って、館内いっぱいにワンワン響き渡った。
 画面はゆっくりと引いて行って、いま志津子の全身像が現れた。さっきの白い服を着た彼女は胸のところに縄を当てられて縛られ、座り込んでいる。そこへ黒い鞭がうねる音をたてて振り下ろされた。パン! と炸裂音に悲鳴が被さる。その傍らで鞭を弄ぶ烟原外人が高笑いの声を上げた。
 写真機はなおも下がって、かれら二人を大勢の人が取り囲んでいる様子が明らかになってきた。見世物にでも見入るかの如く、かれらは一様にニヤニヤとした笑いを浮かべている。
 「あれッ」
 亮は思わず声を放った。その情景に見覚えがあったのだ。
 左手一面に連なる絵看板。あこ新の、ハナヤ食堂の、カフェ日輪の鮮やかなネオンサイン。光に彩られた聚楽館のビルヂングの向こうには、「阪神電車」の広告ネオンを点す湊川公園の高塔が見える。
 新開地本通りではないか!
 たったいま通ってきたばかりのそこで、この映画は撮影されたのだろうか。
 それとも……
 だが、詳しく考えている余裕はなかった。
 銀幕には再び、苦痛に歪む志津子の表情が大写しになっている。
 「あッ……いたい……助けて、亮さん。……お願い、早く来て」
 そして、彼女の潤んだ眸が客席にいる亮をはっきりと捕らえた。
 「志津子さん!」
 叫ぶとかれは舞台へ駆け登って行った。

     

 「どうも妙ですナ。酔っ払ってでもいるんですかネ。それともヒョッとして、我われをからかっているとでも……」
 ひとり《夢殿》から抜け出した亮の後を追いながら、怪訝な声を紅紫は上げた。
 新開地本通りへ向かう細い道を、亮はフラフラとおぼつかない足取りで進んで行く。右腕をしばしば振り回すのは掌に掴んだものに操られているかの如くなのだが、よく見るとそこには何もない。ただ、なにか透明なものの塊を包み込んだかのように、手は不自然な形をしたまま固まっている。
 「走るんならもっとさっさと走ってくれないと困るよな。追い付きそうになってこちらで速度を調整する尾行なんて聞いたことがない」
 「そらそんなこと云わはったかて……」
 今仁がなにか言葉を挟んで来たが、幸吉に不機嫌な顔付きを向けられて黙ってしまう。三人がすぐ背後まで迫ったのも知らぬげに、亮は空の掌をしきりに動かしつつ、夢遊病のように頼りなくよろめきつづける。
 やがて小便小路を抜けて新開地本通りへ出ると、なにが珍しいのか、人通りの盛んななかに突っ立ったまま、あたりをキョロキョロと見渡している。ことにも興行街を彩る絵看板を、かれは喰い入るように見入った。
 「なんだい、あれ。いまどき神戸へ初めて来た田舎者だって、あんな恥ずかしい真似はしないぜ」
 幸吉が呆れて云うのに、紅紫が手を振って見せた。
 「マアそうおっしゃらずに。ああしてかれは、憎むべき怪人に誑かされているんでしょうから。……少なくとも、そう見せ掛けようと努力しているのは認めてあげなければかわいそうですヨ」
 しばらくしてようやく気持ちが定まったらしく、亮は一軒の映画館へ入ったが、そこでは凡庸なチャンバラ劇を深刻な面持ちで凝視している。次第に大胆になってきた幸吉は、かれのすぐ隣にまで行って覗き込んだ。しかし、それさえ亮の眼中にはないらしい。
 口のなかでなにやらブツブツと呟いていた亮が、突然ビクリと身を震わせた。
 「志津子さんッ!」
 と、そして叫ぶと、銀幕を目指して駆け出して行く。
 「やれやれ、また例の……」
 揶揄する口調で云いかけた幸吉の口元がにわかに強張った。
 「ハハハハハハハハハハハハハ」
 割れるような笑い声があたり一帯に充ちる。
 いつの間にか画面が切り替わって、銀幕いっぱいに坊主頭の大きな顔が写し出されている。
 「か、怪人ッ!」
 幸吉が思わず声を出した。
 そう。
 そこで愉快そうな笑みを浮かべているのは、毒島でも乱歩でもない。その二人に似た面影はあったけれども、はっきり別人と判る、それは烟原外人を名乗る怪人そのひとの姿だったのだ。もとより亮の変装とはとても考えられない。
 「エログロ映画は結構だが、そもそも君たちディレッタントの浅知恵で、この吾輩を追い詰められるとでも思っているのかね。アハアハアハアハアハ。吾輩は今夜ほど愉快だったことはないよ」
 怪人は嘲りの言葉を発しながら手を振ると、クルリと振り返った。そのまま悠然と立ち去って行く。
 「アレ。これは新開地の景色じゃありませんかネ」
 「本当だ。くそッ、馬鹿にしやがって」
 幸吉はわめくと、一瞬、館を出るか、それとも舞台へ向かうか躊躇する様子だったが、結局目の前に大写しになっている怪人の後ろ姿目指して脱兎の如く走り始めた。紅紫と今仁もそれに従う。烟原外人の哄笑の声が湧き起こり、それは底籠りの反響を孕みつつ大きく広がっていった。

     

 亮が舞台に上ると、そこの銀幕に写し出された新開地の眺めをかれの黒い影が隠した。それに構わず、かれは突っ切ろうと飛び込んだ。すると一瞬、身体が浮遊する感覚が襲ってくるとともに、視界がきかなくなった。意識が遠のいていたのは、どれくらいの時間だったのだろう。はっと気付いたとき、かれは両手を膝についてはあはあと息を切らしていた。
 (志津子さん! 烟原外人!)
 眼前の賑やかな新開地本通りに二人の姿は見えない。しかし、怪人がこの雑踏のなかに潜んで亮の様子を窺っているのは確実で、その気配をかれははっきりと感じ取った。
 「志津子さん。もう少しの辛抱ですからね、待っててくださいよ」
 亮は敢えて言葉を放った。その声は低く、落ち着いている。
 ……恋人と怪人のことに気を取られる余り、亮は気付いていなかった。ついさっきまで銀幕に広がっていた新開地の情景は白黒だったのに、いま見ているそれは鮮やかないろを乗せていることに。ネオンサインは店や商品の名前を複雑な模様で囲み、いくつもいくつも複雑に折り重なって、夜の繁華街を色とりどりに染め上げている。点ったままのもの、しきりと点滅を繰り返すもの、流れては戻る動きを見せるもの、それらの人工のひかりはいつも強い違和感を亮にもたらすのに、いまはそれが全くなかった。むしろ逆に深いやすらぎを、さらにはうきうきと嬉しい気持ちをもたらすようでさえあった。
 もうひとつ、意識から欠落しているのは、《夢の破片》の存在であった。ずっと右手に握り締めていたそれがいつの間にか消え去っている。だが、亮がまるで気にも止めていないところを見ると、それは失ったのではなく、かれと一体化したのかも知れなかった。
 躍動するこのおもいは一体なになのだろう。怪人追跡劇がこれから最高潮を迎えるという予感に身を震わせながら、亮は夏の夜の新開地に足を踏み出した。
 「さァて、ほんならひとつ、始めるデ」
 と、その途端、よく通るだみ声とともに、台を棒で威勢よく叩く音がかれのすぐ耳元で走った。
 松本座の筋向かいで西瓜の切り売りを商う名物店「土手坊主」であった。といっても、そんな屋号を掲げているわけではない。それは主人の渾名で、二十貫は下らない大兵肥満のかれはつやつやと光る坊主頭に真っ赤な手ぬぐいの捩じり鉢巻きをして、大きな西瓜を左手で軽軽と掲げている。
 「ものにはなンでも初めがあって終りがある。なッ。ものの初め、それは一や。一なら伊勢の天照皇大神宮、二は日光の東照宮、三は讃岐の金毘羅さん……」
 叩き売りの口上を大声で述べる土手坊主、その傍らに山と積まれた西瓜が、亮が顔を向けた刹那、ことごとく若い女の生首に変わった。その数、三十は下らないだろう。いずれも眸を閉じた表情が弛緩して、どことなく情ない風情を漂わせている。
 一瞬ドキリとしたものの、かれは今回は騙されない。
 (烟原外人のやつ、また始めたな)
 そのとき、土手坊主がパンパパパン! とひときわ強く台を叩き付けた。かれが左手で高高と持ち上げているのは、志津子の生首であった。
 「さァ、なんぼなりが大きゅうても甘なかったら何の値打ちもない。ほんなら、甘いか甘ないか何で見分けるか。切って赤い汁が滴り落ちとぉもんが甘いと、これは昔から決まっとぉねン」
 云って土手坊主は、棒を大きい包丁に持ち代えた。
 「論より証拠、この通り、ほれッ!」
 掛け声とともに、志津子の目と鼻の間に刃物がスパッと入った。鮮血が吹き出し、顔全体が見る間に赤く染められてゆく。
 ……と思ったら、それは真っ二つに切断された西瓜なのであった。自慢するとおり、その切り口は美事な赤さに彩られている。それを手際良く舟形に切ると、土手坊主は叫び上げた。
 「さァ、この甘いのンが一個五銭や。早いもン勝ちやデ!」
 すると、口上を楽しんでいた群衆がいっせいに押し寄せて行く。
 (あれ。烟原外人の遊びは終りかな)
 そう考えた途端、遠くで怪人の笑う声がした。振り返ると、雑踏の遥か向こうにあの大きな顔がちらちらしている。
 だが、亮はもう焦ることはしなかった。
 ゆっくりと踏み出す足取りは、酔ったようにふらついている。それはいま、夜になっても暑気の残るこの街に集まってきた大勢の人びとも同様であった。酒を呑む呑まないは関係がない。街の空気そのものが深い陶酔を放ちつづけているのだ。
 覚めて見る夢。
 その熱気に濃く彩られた街を、亮は彷徨うかのように進んで行く。
 興行街を抜け、カフェー日輪の大仕掛けなネオンサインの前を通り、市電通りを渡って聚楽館の威風堂堂たるビルヂングを過ぎ、やがて亮は湊川公園に達した。
 夏の夜、そこには涼を求める人びとがたくさん繰り出し、かれらを対象とする屋台店や香具師たち、いくつもの見世物がまた所狭しとひしめいて、新開地本通りにも劣らぬ賑わいを見せていた。烟原外人の魔術はそれらをたやすく異化し、そのはざまを縫って志津子のまぼろしがあちこちに揺曳した。
 「ただおいしいだけやない、滋養豊富にして衛生的、これぞまさしく、文明人のための食べもンや」
 バナナの叩き売りが大声を張り上げている。だがよく見ると、十本ほどがひとつの束になったその房は、女の脚で出来ているのだった。自らの背丈の半分ほどもある巨大なバナナを男は一向に怪しむふうもなく指差している。
 「論より証拠、百聞は一見に如かず、昔の人はよぉ云うたもンや」
 云って香具師は、一本の脚を引き抜いた。そして太腿のところからその皮膚を剥いてゆく。
 「ほぅら凄いやろ、このたわわな実り具合。こうやってただ見とぉだけでも、よだれが出るわ、頬っぺたが落ちそうになるわ、そらもぉ大騒ぎや」
 血塗れになりながら、男は筋肉をほぐしてゆく。柘榴のような肉片はいともたやすく剥がれて、骨が露わになってきた。
 「さてお立ち会い、これぞ天下の名刀、長曽禰虎徹である。これ一本あれば、向かうところ敵なし」
 その向こうには居合い抜きが出て、口上を述べ立て始めた。紋付き袴の正装で高股立を取り、白い襷を十字に綾取って、左手に一丈余の長い居合い太刀の鍔もとを握り締めている。由来、居合い抜きは薬歯磨を売るための呼び込み芸で、刀はいまにも抜くかと見せてなかなか抜かない。だがこの男は違った。
 「その切れ味たるや、ほれ、この通り」
 無造作に真剣を引き出すと、前の地面に扇を立てている相方の少女目掛けて降り下ろした。悲鳴を上げる暇もない。彼女は首筋のところで美事に切断されて、頭が亮の足元に転がってきた。ちょうど顔の部分が上向いて止まる。それは志津子だった。
 「!」
 だが、はっと思って身構えたとき、そこに落ちているものは曲芸の鞠に変じていた。
 「烟原外人!」
 亮は昂然と振り返る。
 すると突然、櫓太鼓がテンテコテンテコテンテコテンテコと鳴り初め、それに被せて印半纒の男が拍子木をひときわ強く打ち鳴らした。
 女相撲なのである。
 地面を太い綱で仕切ってしつらえられた土俵を、観客がぐるりと取り囲んでいる。そこに上がった女力士は、一方は二十貫はありそうに肥え太っていて、腕も脚もさることながら、段を打つ浅黒い腹が固そうな筋肉で覆われている。しかしその相手、腰巻きひとつの裸を恥じて両腕で胸を隠した女は、ほっそりとごく華奢な身体つきであった。
 あっと思い、亮は見物客を押し退けて前へ出る。
 「志津子さん!」
 案の定、想いびとがそこに身をやつしていた。救いを求める視線が合ったとき、偉丈夫な女力士が志津子に襲い掛かってきた。回しの代わりに腰の肉を直接掴むと、力士はちからの限りそれを捻る。鋭い悲鳴とともに肉は千切れ、志津子は一回転して転倒した。力士はそこへさらに覆い被さっていって、両の乳房を鷲掴みにした。と思ったら、一体なんという怪力なのだろう、志津子の胸の膨らみはあっさりと破り取られた。そのまま放り投げた肉塊が亮の顔にぶつかる。
 「やめろッ!」
 土俵に上って駆け寄った亮を、女力士はうるさそうに片腕で振り払う。それをまともに受けて、かれの身体は軽軽とふっ飛んでいった。

     

 …………意識がふうっと戻ってき、身体を起こして周囲を見渡したとき、湊川公園は一帯が幽霊屋敷と化していた。小屋掛けではなく、広場のあちこちに施設や趣向がちりばめられているのだ。
 獄門台がある。底無し沼が見える。地獄風景が展開されている。
 公園はそれらに埋め尽くされて、余った空間は既にない。
 だが、さっきまであれほど大勢繰り出していた人影はまったく消え去って、蒼白く冷たい月のひかりをしっとりと浴びたなか、あたりは恐ろしいくらいひっそりと静まり返っている。
 「烟原外人の奴、今度はなにを始めたんだろう」
 呟きながら、亮は様子を探って歩く。
 竹藪が両側につづくその細い道を行くと、幽霊や変屍体、あるいは驚かせるための仕掛けが次つぎと出現した。
 行き倒れたまま浮腫み果て、顔や腹から腐乱が始まった屍。
 晒し首にされた男女。ことに女はいまにも叫び出しそうな苦悶を表情に刻み込み、くわッと見開かれた眸は睨みつけるかの如くであった。
 埋葬された墓場から這い出そうとする餓鬼の姿。
 道を左右に横切って浮遊する幽霊。ざんばら髪がただれた顔にかかって、口もとには血とも膿ともつかぬ液体を滴らせている。
 沼に浮かぶ土左衛門。顔は既に男女の区別さえつかぬまでに膨らみ、青黒い皮膚のところどころが裂けて、腐肉が溶け出している。
 道端の竹に髪の毛を巻き付けて吊された生首の群れ。そのあたりでは道がひどく細くなっていて、それらの生首に顔を触れなければ進むことができなくなった。また首は一体いくつあるのだろう、行けども行けども首は尽きない。
 「おや」
 亮はふと立ち止まった。目の前の断末魔の絶叫をあげる首には見覚えがあった。といっても人間ではない。《夢殿》で食前の赤葡萄酒を注ぐのに用いていたお密ではないか。
 それと気付いた瞬間、お密の表情に生気が宿った。
 「馴馴しく見るんじゃないよ」
 そして、どすのきいた声で彼女は凄んだ。
 「わッ!」
 さすがに驚いて駆け出した亮は、道を塞いで横たわる変屍体に躓いて転んだ。立ち上がって土を払い、さらに進もうとしたその足を変屍体が手を伸ばして掴む。
 ふたたび転倒した亮の傍らで、それはムクムクと起き上がった。
 「アハアハアハ、どうだい、楽しんでもらえたかね」
 「あッ、烟原外人!」
 「そうだよ。いや、さっきから何回も誘いをかけたのだが、気付いてくれなかった。君もずいぶん迂闊じゃないかね」
 「……」
 「そんな呑気なことじゃあ、君の救いを待ち侘びるしかない志津子さんは、さぞ悲しんでいるだろうな」
 「く、くそッ」
 倒れたまま亮は烟原外人に飛び付こうとしたが、相手はそれをヒョイと避けた。そして亮を見下ろして愉快そうに笑うと、かれは駆け出した。
 藪を抜けるとその先に、公園の北半分を占めようかという巨大な女体の模型が横たわっていた。両脚を開いた奥、女陰の穴だけでも充分人間が入れる大きさがある。烟原外人は真っ直ぐそこを目指した。
 まわりをぼうぼうと生えた毛に覆われた赤黒い襞、そこには「胎内巡り入り口」と記した看板が下がっている。それを通り抜けると、茶いろっぽい光に包まれた空間に出た。高い天井は柔らかそうで、筋が幾条も走っている。直腸だった。
 その先、道がいったん狭まった向こうには複雑に曲りくねる桃いろの通路がつづいていて、そこは回腸を形取っているらしい。脇には細い抜け道もあり、それは結腸を通って胃へつながる迂回路のようであった。
 「烟原外人! どこへ行った!」
 叫ぶ声は胎内にワンワン響き渡り、幾重にも錯綜する余韻を残した。気がつくと、そこに微かな笑い声が乗っている。紛れもない、怪人の哄笑であった。
 「あいつ……」
 半ば本能に導かれるかの如く、亮はそれを追い掛けた。
 どこをどう抜けたのか、暗い脾臓や筋張って走りにくい膵臓はたしかに抜けたし、胆嚢に堪った深い緑いろの液体を潜ったのも覚えているが、あとはよく判らない。ただ最後に辿り着いた広いがらんとした空間は胃にちがいなかった。その中央に烟原外人が高笑いをしながら立っている。ここで待っていたからには、怪人はいよいよ最後の対決に臨む気でいる。そう受け止めた亮は、単刀直入に切り出した。
 「……志津子さんを返せ」
 「ああ、いいとも。ほら」
 烟原外人はあっさりと云って、身体を横へ動かした。
 かれのいた背後には高さ六尺ほどもある大きな氷柱があって、そのなかに女体が封じ込められている。苦痛に歪む表情。異様なまでに大きく、眼球が飛び出すかの如く見開かれた眸。そして、内臓をことごとく摘出されて、ポッカリと虚ろな腹部。
 いつか生体解剖された女性であった。
 「ちがう、これは志津子さんじゃない」
 あのときと同じ台詞を亮は口にした。烟原外人はさもおかしそうに笑う。
 「アハアハアハアハアハ、ところがちがわないんだな。これが園村志津子なんだ。いや、正確に表現するならばその残骸というべきだが、元が志津子本人であることには間違いないさ」
 「…………」
 「そりゃ、君、いくら美人だって、十年も経って年増ともなれば、容貌だって多少は様変りするさ」
 「十年? ……」
 烟原外人の云おうとすることに意味が咄嗟には掴めず、亮は鸚鵡返しに呟いた。怪人はなお一層面白そうに笑う。
 「さよう。君はいま、何年だと弁えているのかね」
 「大正十六年……いや、年号が改まって、昭和二年になったのか……」
 怪人の勢いに押されて答えた亮の声が、ふと自信なげに弱まった。
 「アハアハアハアハ。なるほど、昭和二年ね。だから、『闇に蠢く』や『一寸法師』に嫌悪を感じて筆を絶ち、放浪の旅に出た江戸川乱歩が神戸に現れて、小説以上の怪奇を現実に行う、という設定が生きるわけだな。アハアハアハアハ、いや、これは愉快だ」
 「……なにが云いたいんだ」
 「いまは昭和十二年だと云えば驚くかね」
 「…………」
 「乱歩は東京にいて、健筆を振るっているよ。もっともさすがに講談社ものの通俗長篇には疲れが見えてきたが、初めて少年ものに取り組んだ『怪人二十面相』は新境地を開いたんじゃないかね。そして園村志津子は、次つぎと男を取り替えながらまだ独り身で、トーア・ロードで『ベラトリックス』を経営している。いや、していた、と、今となっては過去形で云わねばならないな」
 「昭和……十二年……」
 亮は茫然と呟いた。昭和という年号にさえ未だに馴染めぬものがあるのに、それが既に十年以上も経っていたとは。
 「さよう。この十年の間に、新開地もずいぶん発達したものだよ。カフェーといい食堂といい、それから云うまでもない、劇場に映画館……なかでも象徴的なのは、聚楽館だな。新築同様の改築でもって、近代式耐震耐火の鉄筋コンクリートづくりのビルヂングに生まれ変わったんだ。昭和九年の年末、工事の板囲いが取り外されたときには、さすがのカイチマンもアッと云って驚いたものさ」
 「…………」
 烟原外人のからかう口振りは、しかし亮の胸に迫った。街を歩くたびに味わった違和感。ことにも、ケバケバしいネオンサインや聚楽館のあの醜悪な建物に感じた馴染めぬおもい、それが亮の意識にある新開地と眼前のそれとの間に横たわる十年という歳月に由来するものだとするならば。
 真顔でひとつ大きく頷いた亮を見て、怪人はいよいよ得意げにつづける。
 「イヤハヤ、君は大正十五年の夏に心中を企ててから十年以上もボンヤリと過ごしてきたもんだから、志津子が乱歩に誘拐されただなんて素敵な妄想に浸ることができたんだな。しかし妄想というならば、その種はじつはもっと以前に兆していたことに気付いているかい」
 「…………」
 「アハアハアハ、それは他でもない、園村志津子の演技さ」
 「…………」
 「彼女は君が夢見ているような清楚なお嬢さんじゃあ決してない。それをそんなふうに見せ掛けたのはすべて、今回の怪人劇同様、御堂幸吉君の尽力によるものなんだ。そうだね、御堂君」
 烟原外人が呼び掛けた先を見て、亮は驚いた。いつの間に来ていたのか、そこには幸吉の他に紅紫と今仁がいて、一様に取り止めのない顔をして立ち尽くしている。
 幸吉は一瞬亮を見、それから怪人に向かって首を縦に振った。
 「ちがう」
 反射的に亮は声を上げた。
 現在が実は、亮が意識しているより十年も経った昭和十二年だった……そんなことはどうでも良いが、かれが思いつづけてきた志津子がすべて幻でしかなかったという指摘は、受入れ難かった。怪人の横、氷柱のなかで苦しげに顔を歪めたまま固まった女性を亮は一瞥する。こんな醜いものが志津子だなどと、断じて受け入れてはならなかった。
 「アハアハアハアハアハアハアハ」
 亮の心情を逆撫でするかの如く、烟原外人は傍若無人の笑い声を立てる。それに被さって、なにか底籠りのする低い音がふと漂ってきた。のみならず、微かな振動が伝わってきたかと思うと、それは急激に揺れる幅を大きくした。模型の胃が突然蠕動を始めたかのように。
 笑いつづける烟原外人の顔付きがふとぼやけて見えた。定かならぬ足もとを踏ん張って、それを注視する。変装がいま、破られようとしているのだろうか、乱歩に似た坊主頭は見る見るその輪郭が溶け去っていく。その下から現れた銀髪の哀しげな笑みを浮かべる老人、かれの表情にはたしかに見覚えがあった。
 「……『幻虚堂』主人」
 (貴君には、《夢の結晶体》が見えるんですな)
 あのお化けの日、乱歩を追って街を駆け巡ったときに彷徨い込んだ不思議な店でこの老人に囁きかけられた言葉が甦ってくる。すると、混乱しながら慌ただしく渦巻いていた思考の中心に焦点が出来るのを亮は感じた。
 《夢の結晶体》。
 そう。人びとの見残した数知れぬ夢が固まったという、形があるようで輪郭の曖昧な、それでいて関心を惹き付けて止まぬそのもの。いまようやく亮は悟った。その破片を「幻虚堂」主人に贈られたときから烟原外人演じる幻魔怪奇探偵劇は幕を開けたのだ。俗世においては妄想としか映らないにせよ、亮にしてみれば全身全霊を傾けて真摯に見た夢。そして、幸吉やかれを取り巻く高等遊民たちが、これまたかれらなりに情熱を注いだ夢。人は死に肉体は滅びても、その夢ばかりは決して消滅しはしない。……
 「……そうだったのか」
 その一事ですべてが理解できた気になった瞬間、胎内の情景が音もなくゆっくりと崩れ始めた。物理的に壊れるのではない。ついさっき烟原外人の仮面が溶け去った下から「幻虚堂」主人が現れたのと同様、見世物内部の眺めがたちまち淡く定かではなくなっていき、そこに代わって別の光景が被さって、次第に後者のほうが明瞭な像を結び始めたのだ。
 亮が立っているのは平坦な場所で、幅二十間ほどもあるだろうか、両側は雑草に覆われた土手になっていて、葦簾張りの掛け茶屋が数軒見える。さらにその向こうには濃く生い繁った松並木が連なって、遠く奥の山並みにまで続いてゆく。それらの光景を、かつて見たこともないほど明るく皓皓と照る月光が浮かび上がらせていた。
 (埋め立てられる以前の湊川だ)
 そんなものを見たことはないのに、亮はそう直観した。
 (新開地の消滅……)
 そのとき、底流となって続いていた音が突然爆発し、同時に強い衝撃が亮に襲い掛かってきた。身体は突き上げられ、回転しながらそのまま浮遊する。冷たい流動物が押し寄せてきて全身を包み込み、息が詰まった。そして圧倒的な力にたちまち呑み込まれた亮は、為す術もなく一方的に流されてゆく。
 (湊川に水が再び流れ始めたんだ。……いや、そうではない。川を埋め立てて一大歓楽街が出現しただなんて、そんなのはきっとまぼろしに過ぎなかったんだ)
 そう悟った刹那、水とは異質のものが触れてきた。暖かくて柔らかく、しっとりすべすべしたそれは、すぐさま亮の全身を覆いくるんだ。激しい流れのなか不安定に揺さぶられつづけることも忘れて、亮は深い安らぎを覚えた。
 「……志津子さん」
 声に出して云ってみる。
 そのとおり、志津子の細面の、いつも何故かもの淋しげな表情がすぐ目の前にある。これは幻影ではなかった。彼女は優しく微笑んだ。
 「亮さん……わたし、待ってたのよ。……ずっと……ずっと、永い時間。やっと……来てくださったのね…………ここへ」
 囁きかけてくる声には、安堵の念と歓びと、そして微かな甘えが乗っている。亮は胸が迫ってなにも云うことができず、ただ一回、大きく頷いた。
 互いに抱き合う腕に力が籠もる。何とも形容できない躍動するおもいが亮のこころを充たした。
 いつか二人は一糸纏わぬ全裸になっていた。冷たい水のなか、人肌のぬくもりはひときわ心地好い。志津子の頬が、乳房が、太腿がぴったりと密着する感触に酔いながら、亮は彼女の背後へ回した掌をゆっくり撫で擦り始める。そうしてしっかりと抱き合ったかれらは、そのまま暗い水流に乗って流されてゆく。
 どこまでも、どこまでも、どこまでもどこまでもどこまでもどこまでも…………

     

 「やあ。ずいぶん久し振りじゃないか。一体どうしてたんだい」
 専用の出入り口から御堂幸吉が《夢殿》へ入ると、さっそく声が掛かった。八牧友雄だった。
 「八牧さん……」
 刹那、かれはハッと息を呑んでモダンなこのオーナーの顔を凝視した。久し振りと云うけれど、友雄のほうこそしばらく姿を眩ませていたのではないか。いや、それより何より、この人がここにいること自体、ひどく予想外の出来事のような気がする。疑惑をぶつけようとして、しかし幸吉は口籠もった。馴染みの《夢殿》にその主である友雄がいて、何の不思議があるというのだろう。自らの心の動きでありながら、何故そんなことを考えたのか、いまは既に幸吉には判らなくなっていた。
 「ふん。たしかに詰まらないもんな、来る日も来る日も同じ顔を突き合わせて、変わり映えのしないことばっかりくッ喋っていても。呑み代がかさんで八牧さんを喜ばせるだけのことだ。足が遠のくのも無理はないぜ」
 市来壮太郎がいつもの突っ掛かる云いかたをする。そして蒼褪めた顔を歪めると、お密の髪を鷲掴みにして赤葡萄酒を注いだ。
 幸吉はかぶりを振った。ついさっきの違和感がまた鮮やかに甦ってきた。この人物がここにいるのもなんだか本当ではないような気がする。のみならず、その指摘はいったいどういうことなのだろう。《夢殿》へはずっと毎晩通っていたのではなかったか。
 「マア、そう云ってしまっては身も蓋もありませんがネ。たしかに最近は《血祭》も開いてないし、なにか工夫が要るんでしょうナァ」
 「なんだって! 紅紫センセ、あんた昨日派手な《血祭》をやらかしたばかりじゃないか!」
 反射的に怒鳴る口振りで云い放ってしまったが、一瞬ののち、「ハァ?」と怪訝な顔で見返してきた紅紫以上にかれ自身が狐につままれた思いがした。何を云わんとしたのか、具体的な内容は見当もつかない。一体どうしてそんなわけの判らないことを口走ってしまったのだろう。
 「暑いさかいにバテテはるんちゃいまっか。まぁ冷やした麦酒なと一杯……」
 今仁博輔が気を使って運んできてくれた麦酒を、幸吉は一気に呑み干した。発泡性の刺戟が心地好く喉を通り、胃の腑が一瞬、くわッと燃え上がる。
 「フウ」
 溜息混じりに息を吐き出したとき、心のなかにポッカリと空虚なものが口を開けているのを幸吉は意識した。なにかが欠けている。何か、とてつもなく重要なことが失われてしまったのみならず、無くしたということさえ認識しないまま、いままでノウノウと暮らしてきたのではないか。そうして考えてみると、この正月以降、やたらと面白いことが連続したような気がする。かれは頭を絞ったが、具体的なことはなにひとつとして思い出すことはできなかった。やはり妙な錯覚に付き纏われているので、実はずっとこうして見飽きた顔を相手に酒を呑んで当座の暇潰しをしていただけのことなのだろうか。
 二杯三杯と麦酒を重ねるうち、しかし閃光の如く脳裡を走るものがあった。
 「そうだ、亮だよ。亮の奴が……」
 勢い込んで云いかけた言葉がにわかに萎んでしまう。消え去ったものを取り戻す手掛かりをやっと掴んだと思ったのに、それは気の迷いに過ぎなかった。そもそも亮とは一体誰なのだろう。
 「どうやら疲れている様子だね」
 自慢の指輪を唇で撫でていた友雄が云いながら立ち上がった。
 「今日はあんまり良い材料が入ってないんだが、せっかくだから精力のつく特別料理を作らせてみよう」
 「ハテ、手近で間に合うからと云って、赤犬なんぞは願い下げですゾ」
 「いや、犬はたしかに旨いけど、栄養はあまりないよ」
 軽口を叩いた紅紫に真顔で云い返してから、友雄は厨房へ入ってゆく。だがすぐに戻ってくると、怪訝な表情を浮かべて首を傾げた。
 「おかしい……臼杵がいないんだ」
 「はぁ。ほんなら、戻ってきはるんを待たな料理はできまへんワなぁ」
 今仁の放った間抜けな相槌がことさらに浮いて聞こえるくらい、友雄の顔付きは厳しかった。
 「不吉な予感がする。あの律義な料理人が時間中に席を外すなんて、かつてないことなんだ。なにしろ便所へ行くのにさえ断り書きを残していく性格なんだからね」
 「へえ。ということは、犯罪の匂いがするわけだな」
 チグハグに繋がらない意識を持て余していた幸吉はそれを聞くとたちまち元気を取り戻し、止める間もあらばこそ脱兎の如く真っ直ぐ厨房へ向かう。
 「なんだい、これ」
 そして、なかへ入ったとたん目に飛び込んできたそのものがかれの逸る好奇心をなおのこと刺戟した。床にしゃがみ込むと、小さい硝子片のようなそれを幸吉は摘み上げて見せる。見た目は拳くらいの大きさの硝子玉に似ているが感触はフワフワと柔らかく、微かな熱を帯びた表面には淡い模様がしきりと動いて見えた。かれはもとより《夢の結晶体》のことは知らないが、他に類のない存在感は直観的に嗅ぎとった。ひとり幸吉だけではない、友雄も紅紫も今仁も全員一様に言葉を失ってそれを凝視している。
 「ふぅん……こいつはなにか曰くがあるぜ。……あッ! あ、あれッ!」
 しばらく経ってやっと我を取り戻した幸吉は、続いて大声を出した。それと同じものが床に幾つも落ちていて、明るくはないが妙に明瞭な光を複雑に絡ませ合いながら点点と連なっているのだ。厨房へ入ったときには確かにいま手にした一つしかなかったのに、という不審の念は、その先で裏口が開いたままになっていることを認めた瞬間に吹き飛んだ。かれは慌てて駆け出した。
 それは戸外にまでつづいていた。のみならず、明るい月の光を浴びて不思議なその破片はきらきらと美しくきらめいた。いや、単なる反射ではない、色とりどりの細かい輝点が幾つも複雑に絡み縺れ合いながらしきりと動いていて、子細に観察するとそれらは各個体を超えて飛び散る瞬間さえあった。見ているうちに陶然とした気分が湧き立ってき、引き摺り込まれそうになる。
 「アラ、家のなかへ入って行ってますやン」
 遅れて追い掛けてきた今仁が調子外れの声をあげ、それで幸吉はハッと覚醒する。目の前にあるそのしもたやには見覚えがあった。
 「おや……」
 傍らで友雄が怪訝な声を出したのへ幸吉は得意げに声を被せた。
 「ここ、なにか曰くのある猟奇殺人事件があって、その後ずっと、廃屋になってるとかいう不審の家だろ」
 「ほう。……地獄耳だな、よく知ってるじゃないか」
 「だってそりゃ……」
 云いかけたものの後が続かず、幸吉は絶句する。だがそのとき、半ば傾いた玄関が小さく開いているのに気付き、かれの関心はそちらへ移った。それは非常に意外なことのように思われる。かれ以上に友雄は反応して、すぐさま大股で近寄るとその戸を引いた。
 玄関をくぐってすぐのところ、月光の射し込む三和土に料理人は倒れていた。細長いコック帽は取れて傍らに落ち、それで印象がまるで変わって見えた。そのせいだろうか、きれいに撫で付けられた銀髪のもと、かれの表情に宿ったものを微かな哀しみと理解していたのは誤りだったのではないか、と、幸吉はふと思った。興奮、歓喜、驚嘆、陶酔、惑溺といった感情の躍動がないまぜになって、しかもそれらが通り過ぎたあとの空虚まであらかじめ見据えた、そんなどこかやくざな顔立ちだった。律義で堅物の臼杵にはおよそ似合わないその表情。しかし、
 (そういえばこの人物の意外な素顔を垣間見たことがある)
 と、幸吉の思考はさらに発展した。そう……新開地の猟奇の夜のなか、かれと予想だにしなかった邂逅を果たしたような気がしてならないのだが……それ以上のことは例によって定かにはならない。あらためて幸吉は横たわった臼杵に見入る。蒼白い月のひかりをしっとりと浴びたその姿は後光に取り巻かれたようで神神しくさえあった。
 「アッ!」
 と次の瞬間、突然の衝動に突き上げられてかれは叫び声をあげた。烟原外人、という名前が脳裡を横切ったのだ。意外なのも道理、なんと、あの烟原外人に化けていたのが臼杵だったではないか!
 気持ちの高揚は、しかし到来と同様、唐突に去った。気の抜けた思いのなかでかれは悄然と首を傾げる。
 (烟原外人って、いったい誰のことなんだろう)
 たしかにその名に熱中した記憶はあるのだが……乱歩の長篇の主人公だったろうか。
 (どうも今夜の俺は変だぞ)
 幸吉が考えたとき、臼杵は顔を僅かに上げかけた。薄く開いた眸の焦点が合う。《退屈倶楽部》一行の姿を認めたらしい、唇を微かに震わせてなにか告げようとする。だが、言葉がまさに結実しようとした瞬間、動きは不意に止まり、かれは力尽きてぐったりとなった。かろうじて虫の息でいたのが、いままさに死んだらしい。ふッ、と息を洩らしたのは友雄だろうか。
 あたかも臼杵の魂の消滅と機を一にしたかの如く、廃屋内部の光景がその様相を一変させた。月光はにわかに色褪せ、薄闇がちらつきながら跳梁を始める。《夢の結晶体》もまたくすんで、詰まらぬ石ころと変わらぬふうに化した。否、そう思った次の刹那、それは瞬く間に蕩けて消え去ってしまった。あわてて凝視したときにはもうその残像すら認められない。
 のみならず闇はますますその勢いを募らせて、視界そのものが覚束なくなったきた。友雄が燐寸を擦る。その炎が燃え上がったなかに浮かび上がった臼杵の亡骸を見て、幸吉は思わず身を引いた。僅かの間になにが起きたというのだろう、それは木乃伊を思わせるまでに干涸び、カサカサに乾き、くすんで小さく見えた。一同が言葉を失ったままそれに見入ったとき、どこからか低い微かな哄笑の声が漂ってきた。映画館帰りの人や酔客の声では断じてない、それは異界との間に奇跡的に走った隙間から洩れ流れてきたものだ、と幸吉は直観する。しかしそのときには、それはあたかも錯覚に過ぎなかったかの如く、見る見る遠のいていった。

《第七章 夢幻展覧会/了》


掲載 2000年5月17日