連載10

未明の悪夢
谺健二

1997年 東京創元社

 年末、久しぶりに神戸に行った。車窓の風景も中心街の三宮も三年前の震災直後を思えば驚くべき復興ぶりに見えた。当初は異様としか思えなかった公園やグラウンドに建ち並ぶ仮設住宅も、ビルや道路の急速な復旧に目を奪われ、もはや単なる風景の一部と化していたのだろう。同行した横浜在住の知人に指摘され、改めて新築住宅の合間に今も散在する仮設住宅の存在を再認識することになった。震災以前から隣接の西宮へ通勤、決して無縁ではなかったはずの阪神大震災なのだが、これも風化の一端なのかもしれない。本書を読んで、ついそんなことに思いを巡らせた。
 1995年1月17日の未曾有の大惨事から三年。本書はそんな阪神大震災を題材にして、大仕掛けな謎を絡ませた第八回鮎川哲也賞受賞作である。ミステリとしての出来栄え以上に、あの日の出来事、体験を、何としても書きたいという著者の熱気が感じられる迫力に満ちた渾身の力作である。
 未明、突然神戸を襲った激震によって繰り広げられる阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、次々と起こる不可解な怪事件。密室からのバラバラ死体の消失、誰もいないはずのビルで発見された首を吊り、磔にされた死体。地震によって閉じこめられていたはずの部屋から忽然と消えた犯人。私立探偵・有希〔ゆうき〕真一は、名探偵で占い師の雪御所〔ゆきのごしょ〕圭子を地震のショックから立ち直らせようと事件に関わっていくことになる。アッと驚く奇想天外なトリックを使っているわりに、ミステリとして物足りなさを感じるのは、謎の提示の仕方や伏線のはり方等の技術的な面が不足しているからだろう。
 とはいえ、著者の関心はあくまでも震災の描写にある。なにしろ、本書の八割近くはそのために費やされているのである。表面の華やかな復興の影には、今尚深刻な傷跡が隠されている。風化を憂う著者のそんな思いが迫真の描写を支えている。三部構成の本書だが、前段の登場人物の個人史が震災に向かって収斂していく展開が旨く、震災と震災以後の神戸の街と人々の描写には誰もが圧倒されるだろう。
 あれほどの大惨事をミステリの題材にすることにためらいはあったはずだ。圭子が言う、「一体この街で何千人死んだと思ってるのよ! そんな時にわずか二、三人の死にこだわって犯人探し?」 ミステリの本質とはそういうものだ。

 付記(2000/1/17)
 大震災から今日で丁度五年を迎える。去年の暮れのニュースでは、年内に神戸市域の仮設住宅が全て撤去され、年初には兵庫県内の仮設も無くなる見通しと聞いた。あぁ、そうなのか、と思った。数日来、テレビでは特番が放映され、〈風化させたくない〉とか、〈風化させない〉と、声高にインタヴューに答える姿が映し出されている。そういう発言自体が風化を顕在化させ、促進させる。あれほどの大事を経験した人間の様々な思い、それは風化とは別物だろう。
 それはともかく、本書が刊行された当時、大震災を経験したかどうかで、作品の評価が異なるという議論があった。多分に鮎哲賞受賞時の選評に影響された結果のようにも思うが、いずれにしろミステリとしては論ずるべきものはない、と言っているようなものである。確かに、本書が何故ミステリでなければならなかったのかは、大いなる疑問だろう。著者がミステリの創作技術に習熟しているとは思えない。なにしろ、震災を描いた部分の迫力に比べ、ミステリとしてのストーリーや構成は、古めかしく余りにもストレートすぎる。大震災を経験してこその奇抜なトリックの着想にしても、提示や謎解きに工夫が無ければ意外性は生まれない。それでも、本書には確かに読者をして読ませるに足る何かがある。それが本書に込められた著者の過剰なまでの熱気によるものか、大震災を何らかの形で経験した読者の自己確認によるものかは解らないのだが。
 いずれにしろ、本書のようなミステリのスタイルでは大震災という題材は生かしきれないのは明らかだろう。もっとスケールの大きな舞台や背景が必要だし、そんなミステリがやがて登場するはずだ。「飢餓海峡」や「虚無への供物」のような……。


初出 「シナリオ教室」1998年2月号(1月28日発行)/サブタイトル「阪神大震災の迫真の描写に圧倒!」
掲載 2000年5月14日