連載13

亜智一郎の恐慌
泡坂妻夫

1997年 双葉社

 今年の NHK・大河ドラマは『徳川慶喜』。その放映開始早々に、江戸を襲った安政の大地震のシーンがあった。本書の舞台も丁度その頃、十三代将軍家定の時代から始まる。
 大地震の襲来を事前に予測、将軍を避難させた功績で雲見番・亜智一郎〔あともいちろう〕は、やはり地震の混乱に乗じた謀反の鎮圧に活躍した三人を部下に、雲見番番頭〔くもみばんばんがしら〕として将軍直属の隠密役を命じられる。雲見番とは江戸城内の雲見櫓で日がな雲の動きを見て天気予報の真似事をする閑職らしい。だが、智一郎の智力同様、三人にはそれぞれ秀でた能力があった。本書は将軍の命によって、世間を騒がせる事件の真相を解明する、そんな四人の密かな活躍を描いた短編集(全七話)である。
 さて、ミステリの魅力の一つは解決を含めた意外性。もちろん、密室やアリバイ等のトリックによる意外性にもワクワクするが、表面に現われた現象から、その裏で進行する予想外の出来事を探偵役が看破するのもミステリの醍醐味。本書はそんなカタルシスを味わわせてくれる作品集である。
 収録作では、十三歳の娘を狙った残忍な連続誘拐殺人が、水戸・薩摩脱藩浪人等による桜田門外での井伊直弼〔なおすけ〕暗殺へと結びつく「薩摩の尼僧」、皇女和宮の降嫁と大奥での怪事件に隠された幼なじみの男女の恋慕を描いた「大奥の曝頭〔しゃれこうべ〕」が面白く、将軍の写真に写った印籠の細工から暗殺の陰謀を暴く、安政の大獄を想起させる「ばら印籠」も楽しめる。
 ところで、本書の帯には「名探偵・亜愛一郎のルーツは雲見番番頭にして将軍直属の隠密方だった!」とある。実を言えば、これが今回本書を取り上げた理由の一つ。なにしろ、1976年に第一話が発表された名探偵・亜愛一郎〔ああいいちろう〕シリーズは日本のミステリ史を飾る傑作だ。その探偵譚は『亜愛一郎の狼狽』、『亜愛一郎の転倒』、『亜愛一郎の逃亡』の三冊にまとめられている。現在、三冊共に文庫化再刊(東京創元社刊)され、書店に並んでいるはず、こちらも是非手にとってみてもらいたい。特に『狼狽』収録の第一話「DL2号機事件」はミステリにおけるセンス・オブ・ワンダーを感じさせてくれる佳編。立ち読みでも良いので読んで欲しい。
 著者は絵師・奇術師・小説家と、幾つもの顔で知られる才人。その独特のミステリ感覚と仕掛けの妙で構成された泡坂ワールド、ハマっても責任は持てませんので、悪しからず。

 付記(2000/7/20)
 本書の著者・泡坂妻夫氏から戴いた色紙には、『よき嘘恋すも粋こそうき世』とある。もちろん、回文であるから粋(すい)と読む。粋(すい)つまり粋(いき)である。生まれも育ちも関西のせいか、どうもこのあたりの感覚には疎いのだが、泡坂妻夫の作品、特にその登場人物の多くに感じられる、達観でも諦観でもない、世俗の垢をさっぱり洗い流したような潔さは、まさにこの粋という言葉こそふさわしい。回文、山号寺号等の言葉遊びから、得意の奇術・からくりに本職でもある紋章談まで、その趣向に感じる魅力も多分にそのあたりにある。日常を突き抜けたような世界が読者に違和感無く受け入れられるのは、そんな著者独特の感性の賜物だろう。それは、時代小説でも現代物でも変わりはない。
 それはともかく、かつて、亜愛一郎シリーズが初めて世に出た頃、その面白さはチェスタトンに通じるものがあると書いた記憶がある。但し、ブラウン神父譚を始めとするチェスタトンの作品の魅力が人間の不可思議さに徹底して焦点を当てることにあったのに対して、亜シリーズはそんな不可思議な人間を取り巻く周囲の人間たちの可笑しさを描くことの方に興味があったようだ。つまるところ、亜シリーズを始め著者の作品の面白さの大きな部分は脇役が担っていることになる。豊富な趣向、脇役の魅力、そんな著者の姿勢が、労作「泡坂妻夫事典 エンサイクロペディア アワサカナ」(怪の会編・1999年)となって結実したとも言えるのである。本書は著者にとって最良のレベルの作品とは言えないが、事典の項目には多大な貢献をもたらしたようだ。そうした楽しみ方が出来る読者には、また違った意味を持つ作品だろう。
 それにしても、本書が出る三ヶ月ほど前に、都築道夫の「さかしま砂絵」が刊行されていて、最近よく見かける捕物帖風時代小説を取り上げるならまず砂絵シリーズと思っていた。それが、本書に変わったのは、やはり亜愛一郎シリーズにどうしても触れたかったからである。おかげで、砂絵シリーズを紹介するタイミングを逸してしまったのは、賢明な選択であったかどうか。


初出 「シナリオ教室」1998年5月号(4月28日発行)/サブタイトル「隠密役となった雲見番の活躍を描く時代ミステリ」
掲載 2000年8月1日