連載15

時の誘拐
芦辺拓

1996年 立風書房

 映画『誘拐』では、主人公が身代金の大金を運んで都内を走り廻る冒頭のシーンが印象的だった。映画ならではの臨場感のある映像が効果的で迫力もあった。誘拐ミステリにはつきもののシーンだが、小説ではそう旨くはいかない。なにしろ描写の緊迫感や効果が、距離感や交通事情等、読者側のいわゆる土地勘の有無に大きく影響されるからである。
 もちろん、居住経験という面で読者に多くを期待することは出来ないが、読書上の土地勘という点では、メディアによる情報量の力も大きい。だが、情報による知識と体験による土地勘では臨場感が明らかに異なる。東京に住んだことのない人間としては、やはり自らの生活圏を舞台にした誘拐ミステリが読んでみたいものだ。本書は大阪を舞台に、そんな思いを漸くかなえてくれた一冊である。
 大阪府知事選に出馬することになった元トップ官僚・根塚成一郎の一人娘・樹里が来阪の途中、何者かに誘拐される。奇妙なことに誘拐犯が身代金の運び役に指名したのは、根塚家とは何の関係もない、ボランティア団体“ラウンディング・ナイツ”の大阪支部長・阿月慎司だった。不安を感じた阿月は、本書の探偵役で弁護士の森江春策に事後を依頼する。阿月の奮闘も空しく、犯人側の巧妙な計画に身代金は奪われるが、何故か解放されない樹里と阿月を巻き込んで新たな事件が……。
 さらに、本書では誘拐事件と平行して、戦後のわずかな期間存在したという大阪市警視庁を揺るがせた連続絞殺事件が描かれる。相次ぐ周囲の人間の死に疑惑を感じた新聞記者・高塔周一は、大阪警視庁の海原警部とともに事件に関わっていく。事件には戦後処理に絡む恐るべき秘話が隠されていた。大阪警視庁内での密室殺人の後、海原警部は失踪、やがてすべての謎を解いた高塔がTV番組での告発を決意した時、犯人の魔手が……。
 現代の誘拐事件と半世紀前の連続殺人、森江春策が見い出した、半世紀を隔てた二つの事件を結ぶ糸とは? なにより、それぞれが独立した物語としての密度をもつ力作だ。
 とはいえ、何と言っても圧巻なのは、前半部の身代金受け渡しである。大阪の水系を利用したアイデアも秀逸だが、明確な土地勘と実感として解る時間の経過が臨場感を高め、興奮を倍加させる。英米では大都市だけでなく、地方都市を舞台にしたミステリ・シリーズが多いのも何となく納得出来るのである。
 本書の著者は最近では少なくなった博覧強記の人である。昨年刊行の「地底獣国〔ロスト・ワールド〕の殺人」(講談社ノベルズ)は、昭和初期、アララト山に派遣された〈ノアの方舟探検隊〉が遭遇したロスト・ワールドでの殺人の謎を、記録をもとに名探偵・森江春策が解く、本領発揮の快作だった。本書と合わせ、著者独特の旺盛なサービス精神と力技を楽しんで欲しい。

 付記(2000/12/12)
 最近とみにその活躍ぶりが目覚ましい著者だが、関西在住で面識もあるとなると、この付記にもなにがし趣向がなければつまらない。そこで、今回はゲストに亜駆良人氏を迎え、著者とその作品を巡っての対談から筆者がまとめたものを掲載させて頂く。さて?

芦辺拓を語る

 「亜駆さんは『時の誘拐』を高く評価しているようですが、個々の作品の話はさておき、これまでの著者についてはどういう感じで評価されているのでしょうか。そのあたりから」
 「都筑道夫が『黄色い部屋はいかに改装されたか?』で提示した謎と論理のエンターテイメントとしてのミステリに忠実に取り組んでいる姿勢には好感を持っています。今、その意味で真剣なのは著者ぐらいのものでしょう。都筑や佐野洋にしても実作が伴っていないですし」
 「真剣という意味では確かにそうなんで、評価は出来るんですが、『幻想文学』に載った「異類五種」を初めて読んだ時に、随分旨いというか達者な人だなと感心したんです。ところが、『殺人喜劇の13人』以降のミステリを読んでいるとちょっと違うなぁと、論理的であろうとする姿勢は嬉しいのですが、逆に理が勝ちすぎて期待した話作りの旨さが生きていない気がするんです。その辺がちょっと不満です」
 「それは自分等が年をとったことも大きな要因でしょう。この頃、松本清張を読むとホッとしませんか。しかし、自分が若い頃、求めていたのは著者が書くようなガチガチの本格ミステリだったのではないかと思うんです。新本格だって、今は不満だけど若い頃なら無条件に認めていたのかもしれません」
 「年のことを言われれば解らんでもない。まぁ、清張の初期の作品は何度読んでも面白いですけど。ただ、僕が言いたいのは、著者ならもっと旨く書けるはずだと言うことなんです。例えば、著者の投影が感じられる探偵役はともかく、これまでの作品では犯人や被害者のイメージが希薄というか、特に犯人の魅力に乏しい。『歴史街道殺人事件』なんかもったいない、特にそんな気がします。犯人や被害者自身の物語が弱い分、解決のための論理だけが一人歩きしているような印象をうけるんです」
 「そんな感じは確かにあります。それに解決の部分がいつも駆け足というか、バタバタみたいな感じになってますからね。もっとゆったりと、他人の評価を気にせず書いて欲しい」
 「もう一つ気になるのは、著者は『本格推理マガジン』の編集でも解るように戦前から戦後のミステリのファン、それに博覧強記とも言える知識の持ち主なんですが、どちらも純粋論理的なミステリとは結びつかない。そうした作品は論理を補完する情緒的な描写が魅力だったり、博覧強記の知識の故に論理が破綻したりするのが面白いんです。著者の資質は本来そういう部分にこそあるんじゃないかという気がします」
 「そうですね。今のところ必ずしもそういう面白さで成功しているとは言えない。『地底獣国の殺人』あたりは際どいところですが。ある意味で著者が好んで読みそうな作品と実作にちょっと差を感じさせる点は否めない。そのあたりは著者にも考えてもらいたいところです。自分自身の発言に作品が縛られているようなところもありますね」
 「まぁ、発言の多い人ですから。特に犯人や被害者に執念というか怨念みたいな迫力が感じられないあたりにも・・・・・・」
 「発言がいわゆるガス抜きになっていると?」
 「うん、まぁそんな感じです。事件の内容の割には、何か乾いた感じがします」
 「先程の話に戻りますが、トリックや意外な犯人で読者をアッと驚かせてやろうとか、論理的な解決へのこだわりとか、著者のミステリに対する姿勢は凄く良いと思うんです。ただ、評価を気にして中途半端になっていないか、ということですよね。解るものなら解ってみろ、という気合いで書いて欲しい」 
 「自分の作品が解らん奴は馬鹿だと」
 「そうそう、乱歩だって正史だって当時はそうだったかも知れない。いや逆に馬鹿と言われてたかも知れない。今、誉められている、評価されている作品が時代を経て残るとは限らない」
 「時代が著者の作品についてきていない?」
 「うん、例えば最近の国内ミステリを読むより、国書刊行会の本格ミステリを読む方がずっとワクワクするじゃないですか」
 「確かにね。でも、何かこうきちっと枠にはまった本格も悪くないけど、論理が強烈に破綻したような作品を期待したいなぁ」
 「そう言うことも含めて、謎と論理のエンターテイメントをベースに、著者は甲賀三郎や島田一男のように書きまくるのが良いと思う」
 「書ける人ですからね。もちろん、舞台は大阪」
 「そうです。とにかく大阪を書く。乱歩の浅草みたいに大阪に目を向ける。通天閣、新世界、徹底的にレトロで迫るのも良い。著者だったら難波利三くらいの大阪ならすぐでも書けるんじゃないですか」
 「書けそうですね。そう言えば梅田も随分変わりましたよね。以前の阪急の梅田駅、一階にあった頃の。外国の駅みたいな感じで好きでしたね」

※ この後、大阪のレトロ話で大いに盛り上がりましたが、本稿とは関係が無いので省略します。

 「では、そろそろ著者の作品のベストを選んでみましょうか。まず、お互いのベスト3と番外1作ということで、コメント付きでお願いします。ミステリ作品は全部読まれてますよね」
 「読んでます。とりあえず『怪人対名探偵』までですけど。短編集はどうしますか」
 「ややこしいので、『怪人対名探偵』までの長編からということにしましょう」
 「一位はやっぱり『時の誘拐』ですね。読んだ時はビックリ、これが芦辺かという素晴らしい進歩に驚かされました。それまでの作品とは一線を画す作品です。最後の腰砕けはちょっと物足りないが、運河を使うアイディアは秀逸でした。
   二位は『殺人喜劇のモダン・シティ』。これからもレトロな大阪を東京を意識せず書いて欲しい。意識をすると、東京に取り込まれるというか、阪神対宿敵巨人の構図みたいでろくなことがない。東京があっての大阪ではないですからね。
   三位は『不思議の国のアリバイ』。アリバイトリックとはこうあるべきという見本のような作品。ちょっと鮎川に近いが、アイディアの使い方がヘタ。もうひとネタあれば。
   番外は『地底獣国の殺人』にしておきましょうか。久生十蘭等の二番煎じ。面白いんだけど、大時代がかっているし、新聞社の名前なんかも、全体にちょっとやりすぎです」
 「その『地底獣国の殺人』が一位です。謎と論理、大時代的なところを含めて、著者の持ち味が充分発揮された作品だと思う。今、著者以外にこんなミステリを書ける人はいない。
   二位が『時の誘拐』。作品としては一番の力作。誘拐犯側の物語や動きをもっと書き込んで欲しかった。発端は素晴らしい、現在の誘拐に絞って書いても良かったぐらい。
   三位は『十三番目の陪審員』。アイディアは面白いし、やりたいことはよく解る。トリックも大技だし、中盤までなら文句無しに楽しめる。後半から解決の部分がやっぱり弱いというか、何かミステリ的テンションが下がるみたいなのが惜しい。
   番外はもちろん『歴史街道殺人事件』。言わずもがな、面白いトリック、傑作になってもいい作品なんだけどねぇ。もう一回、プロットを変えて挑戦してもらいたい。その時は犯人のキャラにもっと力を注いだ方がいいと思う。
   というところが、各自のベストというわけですが、最後に二人が選んだベスト3を挙げて、この対談を終わりたいと思います」
 「一位は『時の誘拐』でどうですか」
 「そうですね。二位は『地底獣国の殺人』」
 「結構です。三位は『十三番目の陪審員』が妥当でしょう」
 「番外は何がなんでも『歴史街道殺人事件』にさせて下さい」
 「(笑)」
 「というわけで、長時間どうもありがとうございました」

※ 本稿は2000年9月7日大阪・梅田「案山子」にて約二時間にわたって行われた対談を臼田の責任によりまとめたものです。ご協力頂きました亜駆良人氏にはこの場を借りて、改めてお礼を申し上げます。もっといろいろ面白い話で盛り上がったのですが、ご想像通り、何時とは無しに対談は宴会へとなだれ込んで、記憶も定かで無くなってしまいました。亜駆さん、すみません。


初出 「シナリオ教室」1998年7月号(6月28日発行)/サブタイトル「誘拐事件と過去の連続殺人を結ぶ糸とは…」
掲載 2001年1月1日