連載16

時計を忘れて森へいこう
光原百合

1998年 東京創元社 

 現在のミステリ・ブームを支える原動力となった作品の一つに北村薫の「空飛ぶ馬」(創元推理文庫刊)がある。血腥〔ちなまぐさ〕い殺人とは無縁の日常生活の中で出会う、ちょっとした出来事に見出した謎を、推理によって解き明かし、隠された人間のドラマを描き出す。そんなミステリのスタイルはファン層の拡大にも貢献したが、なによりミステリ作家志望の若い書き手の創作意欲をも大いに刺激したに違いない。なにしろ、面倒な警察の捜査活動や法医学を描写する必要がない……!
 本書は、この「読んでも死なない」の第一回でも紹介した加納朋子をはじめ、今ではすっかり定着した感のある、そんな“日常の謎”派を継ぐ作品である。信州・八ヶ岳山麓の清海〔きよみ〕(もちろんモデルは清里)を舞台に、女子高生と探偵役の自然解説指導員〔レンジャー〕の二人が、身の回りで起きた出来事に隠された謎を解く設定が新しい。
 父親の仕事の都合で清海に越して来た16歳の女子高生・若杉翠は、校外学習で出かけた清海の森で失くした時計を探すうち、その森で環境教育の自然解説指導員として暮らす深森護〔みもりまもる〕と出会う。森に魅せられ、護の仲間たちの仕事を手伝うようになった翠は、やがて人間の心理を見抜く護の不思議な洞察力に気付くことになる。
 温厚な教師が突然、女子生徒に体罰を加えた理由が謎の第一話。結婚式を間近に控えた女性が誰にも行き先を告げずに出かけた旅先で事故死するが、疑心暗鬼にかられた婚約者の前に残された一枚の写真が全ての謎を解く第二話。そして、第三話では母親の死とともに、自らを消滅させたいとまで思いつめ、食べ物を受け付けなくなった女性の心の奥底に秘められた過去が謎になる。冒頭の登場人物の手になる(設定の)童話が面白い。
 全三話のこの連作短篇集のテーマは、父・恋人・母の死と、残された人間の行き場のない愛である。同時に、そんな人間の心のうちに秘められた謎を解きほぐし、その屈折した強い思いを森の神秘的な力で昇華する、流行のカウンセラーやヒーリングの文学を想起させるような物語の着想が興味深い。決して明るい話ではないが、何かしら作品全体に漂う空気に透明感を感じさせるような読後感は著者の個性だろう。環境教育や運動の是非はともかく、一方的な賞賛や作品全体に感じる思い入れの強さ等気になる部分はあるが、主人公の成長物語として続編を期待したい。
 収録作では心理的な犯罪動機で評価の高いG・K・チェスタトン「詩人と狂人たち」(創元推理文庫刊)を思わせる第一話が良い。本書とほぼ時を同じく刊行された北村薫のシリーズ最新刊「朝霧」(東京創元社刊)も心理的な謎の描写に傾斜しているようだ。とりあえず“日常の謎”派とはそういう方向性を持たざるを得ないのかもしれない。

 付記(2001/2/12)
 初めて清里を訪れた30年前、既に旅行者の清里詣では始まっていて、それでも駅の周辺に設営された展望所の眼下に広がる鬱蒼とした森は、確かに静謐で美しかったのである。ただ、観察者の存在自体が及ぼす対象の存在への影響なんて小難しいことは考えなかったにしても、人間が関与したからには、その森や樹海の行く末には暗澹たるものを感じざるを得なかったのも確かだった。お隣の閑散とした野辺山の八ヶ岳登山道の埃っぽい道端に座って、通り過ぎる登山者を眺めながらそんなことを考えていた。それからほどなくして滞在した小海線沿線での二ヶ月間の生活やら、本書を読んで久しく忘れていたそうしたことを思い出して、何となく感傷的な気分に浸ったりするのも癒やしなんだろうか? 面白いミステリを読んで、酒飲んで、騒いで寝るような癒やしなら大歓迎なんだけどもね。
 そんなことはさておき、本書の著者がデビュー以前の学生時代、関西のミステリクラブ等の例会ではよく一緒になり、また懇意にもさせてもらった。もっとも、本格的なミステリ・デビュー作が、ミス研の機関誌に発表され、また「本格推理」(光文社)にも掲載された“なんだい”(浪速大学)ミステリ研シリーズの連作では少々インパクトに欠けるかな、という思いなんぞは余計なお世話で、刊行された本書は著者の強い思いと力量、作品のトータルなコンセプトとしての高い完成度を示した一冊だった。装幀、装画、タイトルから舞台背景、テーマ、プロット、ストーリー、登場人物のキャラ、そして読後感に著者の人となりまでを含めて、本書の作品世界を構築するべく捧げられた心配りは見事と言うしかない。新保博久は本書を評して、語り手の註釈がうるさく、もっと筆を省いたらもっと素敵な一冊になっただろう、みたいなことを言っている。まぁ、そのあたりは多分に著者の思い入れの強さの為せる業だろう。
 89年に「空飛ぶ馬」が刊行されて以来の“日常の謎”派だが、もはやスタイルとしてのそれでは余程の工夫が無ければ当初の新鮮さは望むべくもない。その意味では、本書が提示した心理的な謎を主眼とする方向性はスタイル深化への選択肢の一つだろう。そこでは否が応でもチェスタトン的世界を意識せざるを得ないのかも知れない。もちろん、本書の第一話と、『ガブリエル・ゲイルの犯罪』(「詩人と狂人達」所収)には発想の類似性はあっても、その本質には大いなる差がある事からしても、“日常の謎”派の心理的展開にはまだまだ充分な可能性が残されているのである。
 それにしても、本書の続編を書き継いでいくことは容易ではないはず、書き手も読み手も時計を忘れて物語が紡ぎ上がるのを待つことにしよう。なにより、前述の“なんだい”ミステリ研シリーズの関西人のノリのユーモアと謎解きの面白さだって捨てがたいのである。今年はどうやら著者の新刊ミステリが出るらしい。この機会に是非まとめて読んでみたいものだ。


初出 「シナリオ教室」1998年8月号(7月28日発行)/サブタイトル「謎を解いて森の力で思いを昇華」
掲載 2001年2月17日