ヘテロ読誌 |
大熊宏俊
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1999年 ●上半期
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1月 ●グレッグ・ベア 120〜130頁辺りから、もうどうにも止まらなくなって、後半は一気呵成。これは面白かった。とはいえSF味はごく薄い。 ●F・ポール・ウィルスン 本書もSF味は薄い。ハードボイルドSFでなく、SFハードボイルド。私立探偵シグ・ドライアーを主人公に据えた連作の中篇集で、全体としてゆるやかな長篇を形成している。 ハードボイルドらしく非常に倫理的。私は眉村卓に通ずるものを感じた。 眉村SFというのは、結局のところドライアーはいるのだが、それが玉砕的に突進していく結末が多く、ラムのような人物は実は少ないのである。その意味では眉村よりも眉村らしいというか、インサイダー文学論に忠実な作品といえる。 ●眉村卓 本書の評価は二方面よりあり得る。 〈クトゥルー神話もの〉というジャンルは、原作者ラブクラフトの設定を踏まえて、いろいろな作家が参入しているわけだが、本書でもそのような展開が可能であると思われる。公開性が高いとはそのような意味である。 その二は、眉村従来からのテーマであるインサイダー文学論の展開である。 管理職に抜擢人事的に新任されて希望に燃える有為のやる気満々の青年が、与えられたプロジェクトのもっとも肝腎な場面で「外されて」しまうのだ。 ――それはないでしょう、人事部長。 とにかく、こんな仕打ちを受けた管理職が、引き続いてその職務に打ち込めるだろうか? それにしても(連邦の)人事担当者は、一体何を考えているのか。 こんな酷い組織は早く去るにしくはないのだ。 私の場合、初読は思い出してみると24才の時だったのだが、今回読み直してみて、ほとんど内容を覚えていなかった。 とはいえ、19年後という観点から言わせてもらうならば、たしかにマセの手法も正しかったとは決して言えないのである。 巡察官とはさしずめ今日のスーパーバイザーだろうか。 マセはもっと巡察官とコンタクトを密にすべきだった。 確かにマセの過剰な独立独歩志向は管理職としてはやや適性に欠ける一面だろう。 ●眉村卓 私は、ローマのライバルとしてのカルタゴに昔から判官贔屓的な興味があったのだが、しかし取り立てて勉強をする機会もないまま今日に至っている。 そう言うわけで、この〈私たちの世界〉が、松田たちの工作の結果、改変された時間線上にあるという設定になっていると判ったのは、実は若くして死ぬ筈のカトーが、生き残るという顕在流に遷ったという記述によってであった。いや、コロッと騙されてしまった。 それにしてもカルタゴと日本の類似性の指摘には目を洗われる思いがした。 もう一つの理由として、巷間にあふれる安易な(願望充足的)通俗改変歴史小説つまりは架空戦記物であるが、その隆盛に対するアンチテーゼの意味も、おそらくは作者の意識の裡にあったのではないかと思われる(日本SF創始者のひとりとしての見識)。 さらに歴史小説として書かれなかった理由として、これが最大の理由であろうが、ゲーム終了後、ドインたちが語る超越的認識論の開示によるセンス・オブ・ワンダーの発動がある(積極的理由)。 最後に、日常に戻った松田の許にエンノンが携えてきたアリアドーの手紙のエピソードは、一見ありふれた後日譚のようにみえるが、先のセンス・オブ・ワンダー発現の時とは全然別種の、もっと柔らかく深い感動を私に与えてくれたのだった。 ところで超長期の連載ということもあってか、本書は情報密度が極端にいびつ。 ●朝松健 先回、『消滅の光輪』で言及した、原作者の設定に準拠したゲーム的なクトゥルー神話もの。 「海魔荘の召喚」 「冷気の恋」 「幻覚の陥穽」 繰り返しになるが、従来、朝松作品に対しては、評価する部分と評価できない部分が相半ばして、いまいち複雑なものが残ることが多かったのだが、本書ではそういうアンビヴァレントな部分が払拭され、素直に楽しめた。 ●井上雅彦 本書も学研ホラーノベルズ。本書は前回の朝松作品とは違って、鎖状でなく入れ子状になった長篇である。 非常にウェットな、というよりもむしろジュースフルなと言った方がよい作風である。 とにもかくにも、良くも悪くも同人誌的な作風であって、評論家ぶって、したり顔に突っつける部分が至るところにある。 朝松もそうだが(もっとも朝松の場合は、どうも自己の資質に気づいていないのか、ブロックバスター狙いに走って墓穴を掘ることが多いように思えてならないのだけれど)、両者とも専門的な作風でとことんバタ臭い。もちろんそこがいいのだ。 ●倉阪鬼一郎 百物語ならぬ参加者が持ち寄った怪談を朗読する趣向の短篇オムニバス。 しかし、今回はこれまで私が読んだ著者の作品(怪奇十三夜、百鬼譚の夜)ほどの満足感はなかった。 ●佐野史郎・他 日本人作家によるクトゥルー神話の競作。 佐野史郎「曇天の穴」 小中千昭「蔭洲升を覆う影」 高木彬光「邪教の神」 山田正紀「銀の弾丸」 菊地秀行「出づるもの」 朝松健「闇に輝くもの」 友成純一「地の底の哄笑」 ●柄刀一 三千年前の縄文人のミイラが発見されるのだが、明らかに殺害されており、死後右手が切断されている。 前半、一体のミイラから様々な事実が解析されていく過程がたまらない。 特に合同討論会の場面は巻措くあたわずの面白さ。 さて、後半は第一発見者の変死の謎に焦点が当てられる。 しかもこの若き天才のキャラクターが特異で、一種マッド・サイエンティスト的な風貌があり、かれが最後に開陳するバーチャルリアリティの未来像は、いわゆる旧弊なヒューマニズムを越えようとするもので、この辺の議論にはSF的なパースペクティヴ(センス・オブ・ワンダーとまでは言わないけれども)を感じた。 キャッチフレーズは本格ミステリであるが、しかし本書の面白さは謎解きにあるのではない。 むしろ本書の面白さは、過去を明らかにしようとする縄文学の現在と、現在のコンピュータから導かれるバーチャルリアリティの未来像といった情報小説の要素を本格ミステリの契機として取り込んだ所から生じるのである。 |
●川端裕人 〈裏庭のマッド・サイエンティスト〉ものである。 読了後、プロローグに戻るべし。20年の時を越えた感動がどっと押し寄せてくる。 ●服部まゆみ 一気に読ませる。 ●吉田知子 「箱の夫」 「母の友達」 「遺言状」 「泳ぐ箪笥」 「天気のいい日」 「恩珠」 「天」 「水曜日」 どれもこれも滅法面白い。〈異形コレクション〉に載っておかしくない話ばかりで、もし載ったならプロパーの〈異形〉作品を喰ってしまうだろう。 ●E・C・タブ シリーズ第1作ということもあって、一応ストーリーは起承転結するのだが、まだ何も始まってない感じ。 ●浅暮三文 前半、ありきたりの探索物語的展開で、語り口も芸がなくこれは最後までたどり着けるかと危うんだが、終盤に来てこれまでの展開を引き締めるアイデアがたたみ掛けるように投入されて加速的に物語は上り詰める。 おそらく本書は河合隼雄のいわゆる〈魂のファンタジー〉である(註、「ヘテロ読誌98」23頁〈ファンタジーを読む〉の項、参照)。つまり良質の〈児童文学〉と言い換えてよいだろう。 ●高橋和巳 〈満州国〉建設に青春をかけた主人公青木は、敗戦の混乱時、仲間を見捨て、妻を見捨て、二人の子供を見捨てて単身帰国した過去を持つ。戦後福祉事業団体を組織し、混血児の世話をはじめる。 同様に内部に〈砂漠〉を懐胎する安部公房の、例えば『箱男』の方法論など、本書の次の言葉を前にすれば、もはや脳天気なオプチミスムの極みと言うほかあるまい。 ――「すでに国家の恩恵に浴している国民の中の急進主義者にとって、国家はやがて消滅するべきものであっても、すべてがユダヤ人マルクスのように思想的国際性を獲得できるわけではない混血児にとっては、なんとかして既成の民族に融け込み、国家の枠内にもぐり込むことが先決だった。」(70頁) 『消滅の光輪』を読んでいる時、私はそこに高橋和巳と重なり合うものを感じていたのだったが、いかにも本書の主人公は『消滅の光輪』のマセの後半生なのだ。 ところで、高橋の主人公の場合は〈負〉を懐胎したまま小説世界に登場するのに対して、眉村の主人公はせいぜいが〈ゼロ〉からの出発である場合が多い。 ところが人間は生きていく上で、必ず〈負〉を、その背なに積み上げていく他ない。 小松が沈没後の日本人を書かねばならないように、眉村は〈負〉を背負ったところから始まるマセの新たな旅立ちを克明にトレースしなければならないのではないだろうか。 マセはなんとか任務は全うしはしたが、心に深い傷(曠野)即ち〈負〉を負った筈であり、以後のマセはもはや以前の自負心と使命感にみちたマセとは違う筈なのだ。なぜならマセも青木も、共に〈倫理〉の人であるから。 ●山之口洋 「音楽」になった男の物語。読後、圧倒的な感動に包まれる。 マン−マシン(?)と化したヨーゼフ・エルンストに、私はふと、ベリャーエフ『両棲人間1号』の少年の姿が重なって見えた。 キイボードというか、音高差にもとづく会話はまさに圧巻。 ●森万紀子 猛吹雪以外には何も存在しないような、そんな冬世界が圧倒的な迫真力で迫ってきて、読むだに当方の身体が冷え切ってしまった。 《……後三か月、二月になれば家は力蔵に渡る。 そうしたなかで、末の娘、累子は、兄の許で厄介になるのを自ら拒み、幼い頃から想い続けた優しい叔母への親愛感にかられて、叔母が住んでいるはずの水宮の水晶屋敷へ、一人旅立つことを決意する。 いよいよ二月、母はその直前に死に、一家は離散。累子は自分の想いを実現すべく、馬橇に乗り汽車に乗り、後は歩かなければ辿り着けない山奥の水宮へと、吹雪のなか、旅立っていく……》 私小説的な世界に見えるが、実際は全然違う。むしろ神話的世界である。 その凄まじい描写はもはや現実の吹雪の比ではない。 《……ふいに風上で風音が乱れた。 という風に出現する。その出現の仕方からして、生木運搬業者というより、北方騎馬民族の一団のようだ。かれらは約束の地水宮と海辺の市という二点間を繋ぐ一本の線だ。 河の北岸には、この市に何十年も暮らす副主人公である力蔵も行ったことがなく、そこでは常に吹雪が荒れ狂い、光が射すことがないという。 「狂風世界」ならぬ、もの凄まじい「狂吹雪世界」で、読むだにこちらの身体が冷え切ってくる。 累子は最後、『沈んだ世界』のトラヴィスのように、至福に包まれて水宮の奥、「狂吹雪世界」の向こう側へと消えていく。 |
●オールディス/ウィングローヴ あまりにも面白いので、一日で読んでしまった。ああ勿体ないことをした。 例えば日本では〈文学的〉と評価される(後掲書解説など)ヴァーリイに対して、私は『へびつかい座ホットライン』と『ティーターン』を読んだとき、そうは思えず、むしろ豊田有恒に似ているとメモったのだったが、オールディスも「創意には富んでいるが人間性の理解に欠けているきらいがあった」と書いていてわが意を得たことである。 『モデラン』を評価しているのも(意外だったが)嬉しかった。 解説で山岸真が「(オールディスが)ベイリーを〈もっとも過小評価されている〉といっておきながら、のちの作品に触れていな」い、と不審がっているが、私に言わせれば不思議でも何でもない。 ●風間賢二 ホラー史の試み。SFとファンタジーとホラーが互いに接しつつ発展してきた事実にあらためて気づかされる。私のホラー理解がきわめて安直というか、歴史性を無視した思弁的なものであったことを思い知らされた。 それにしても、ホラー史観からは、ブラッドベリやスタージョンはホラーで食えないから泣く泣く(?)SFに来たことになるのか? ●ロバート・シェクリィ 再読。メモによると、前回は76年7月3日に読了とある。感想は書き残していない。丁度この当時は読書日記を付けてなかった時期で、タイトルだけは手帳に控えていたのだった。 ところが――信じられないことに内容を全然、というか完璧に覚えていないのだ。 ――22年という歳月はかくの如しか。 「怪物」 「幸福の代償」 「祭壇」 「体形」 「時間に挟まれた男」 「人間の手がまだ触れない」 「王様のご用命」 「あたたかい」 「悪魔たち」 「専門家」 「七番目の犠牲」 「儀式」 「静かなる水のほとり」 どの話も基本構造は、超越的存在が人間(それもあくまでも我々のような凡人)と同じ行動パタンを示すことによる落差の醸成である。 ●フレドリック・ブラウン 「緑の地球」 「1999年」 「狂った星座」 「ノック」 「すべて善きベムたち」 「白昼の悪夢」 「シリウス・ゼロは真面目にあらず」 「星ねずみ」 「さあ、気ちがいに」 『人間の手がまだ触れない』よりも古さは否めない(出版は三年しか違わないのだが)。 ●笹沢左保 「背を陽に向けた房州路」 毎度お馴染みのニヒルな笹沢節だが、それがいいのだ。 「月夜に吼えた遠州路」 「地獄で嗤う日光路」 ●ロバート・J・ソウヤー まさにSFそのもの。『さよならダイノサウルス』同様、すべての謎に解決がつく。 そして敗退したかに見えた〈宇宙の人間原理〉が、土壇場で息を吹き返す場面などまさにスリリング。 こんなに面白い本書がなぜネビュラ賞を取れなかったのだろうか。おそらくガジェットのオリジナリティが問題になったのではあるまいか? 過去作品に対する登場人物による言及というあからさまな方法は採られてないにせよ、やはり新本格ミステリと同様の構造をもつ二次的SF作品であろう。(註、「ヘテロ読誌98」45頁〈無限アセンブラ〉の項、参照) ●エドモンド・ハミルトン スペースオペラかと思いきやSFだった。 |
●半村良 うーむ。スペースオペラだ、良くも悪くも。 ところが〈逃がし屋〉に接触し、その内部の人間になってみると、組織には反国家的な意志など全くなくて、実は太古より秩父山中に埋まっていた巨大宇宙船のクルーとなって大宇宙へ飛び出すことが目的であることがわかってくる。 この辺から論理の必然性みたいなものが甘くなってきて、悪い意味でスペースオペラ的になってきて、急激にリーダビリティの推進力が失速してくる。 たとえば船が水星の軌道方向へ向かわず外惑星の軌道方向へ向かっているから、確かに船は太陽系の外へと向かっている、という会話が交わされる。 結局船は回頭(!)して、太陽に突っ込みワープに入るのだが、人類の技術を越えた超宇宙船だからそれも可能だろうが、それなら例えば、 虚空王という言葉の由来も全然説明されないし、成り行きでストーリーが進んでいる印象を払拭できない。 SFは爾余の娯楽小説とは違って構築部分がその鑑賞に不可欠な小説ジャンルなのであり(『宇宙人捕虜収容所』もその辺が危うかったのだが)、かかる構築部分の瑕疵は致命的な場合もあり得るのだ。 ●アルベルト・モラヴィア ちょっと読み疲れてきたので目先を変えようと、気紛れに読み出したら、きっちりハマってしまい、あっという間に読み終えた。 男女間(とりわけ夫婦間)の微妙で危うい機微を、20枚程度にさらりと定着させている。 フロイト的な解釈に誘われるが、作者は何も解説を加えない。 全23篇中ベスト10は「海辺のランデブー」、「逃避行」、「家族」、「検閲」、「ママは眠っていた」、「夢」、「通りと室内と」、「嫉妬のいたずら」、「夜寝ているときは」、「詩人と医者」。 |
●井上雅彦監修 前回の『チャイルド』からずいぶん間があいてしまった。そのせいか波長がなかなか合わず、第1部〈蒼の章〉はワリを喰ったかも知れない。 〈銀の章〉 梶尾真治「六人目の貴公子」 青山智樹「月の上の小さな魔女」 岡本賢一「月夢」 北野勇作「シズカの海」 牧野修「蜜月の法」 眉村卓「月光よ」 〈皎の章〉 霧島ケイ「月はオレンジ色」 南條竹則「影女」 大原まり子「シャクティ(女性力)」 竹河聖「掬月」 加門七海「石の碑文―Kwaidan拾遺―」 菊地秀行「欠損」 井上雅彦「知らないアラベスク」 ●ジェイムズ・アラン・ガードナー 原題はEXPENDABLE。つまり「消耗品部隊」。 メンバーの一人で顔の半分が赤黒いあざにおおわれた(あざを取る技術はあるのだが、惑星探査員は必要なので手術してくれない)主人公は、老齢でボケた最高会議幹部をある未知の惑星へ護送する命令を受ける。 上巻真ん中くらいまでは、サイエンス・フィクションというよりスペキュレイティヴ・ファビュレーションの雰囲気で、短い章立てにソフィスティケートされたユーモアと気の利いた警句が散りばめられ、ヴォネガットを連想しないではいられない。 これは凄いぞ、『火星夜想曲』を超えるんじゃないかと思っていたら、使い捨ての惑星へ到着してからは、普通の(まっとうな?)冒険SFになってしまった。ちょっと残念。 いわゆる〈島流し〉テーマの伝統を引き継ぐものとして、たとえば『ロボット文明』、『地球人捕虜収容所』、『最後の地球船』等々の先行するこの分野の諸作に比べても、決して引けを取らない面白さだ。 ところで関口幸男の翻訳は、これまでどうも私には相性が悪く(読みにくく)、「下手」(気が入ってない、機械的に訳している)なんじゃないのかと薄々思っていた。最近もこの訳者の手になる『地球生まれの銀河人』が中断しているのだが、本書は読みやすく、すいすい頭に入ってきたから、そういうことばかりでもないのか。 ●フリッツ・ライバー ファファード&グレイマウザー・シリーズの第1巻。 私は、このような編集は、本来邪道であると思っている。 いい例が光瀬龍のハヤカワ文庫版宇宙年代記シリーズで、小説内時系列に沿って並べられているから、初期の瑞々しい緊密な秀作の間に中期以降の出涸らして色褪せた作品が挟まってしまう道理で、読む側からすれば盛り下がることおびただしい。 余談が長くなってしまった。 敵役の盗賊結社の妖術士のすがたかたち、またその妖術がなかなかよい。やはりヒロイックファンタジーすなわちソード&ソーサリーであるからは、(単なるチャンバラものとは違って)異形や超自然的存在の、その存在感が作品の良し悪しを左右するのであって、本書はその辺が良く書き込まれていて満足できた。わたし的にはコナンよりも好みかも。 ●井上雅彦監修 バレンタインデイの夜の、とあるグランドホテルでの話、という同一の設定で、執筆者が競演するという趣向。 新津きよみ「ぶつかった女」 芦辺拓「探偵と怪人のいるホテル」 篠田真由美「三階特別室」 奥田哲也「鳥の囁く夜」 五代ゆう「To・o・ru」 山田正紀「逃げようとして」 恩田陸「深夜の食欲」 森真沙子「チェンジング・パートナー」 京極夏彦「厭な扉」 田中啓文「新鮮なニグ・ジュギペ・グアのソテー。キウイソース掛け」 難波弘之「ヴァレンタイン・ミュージック」 田中文雄「冬の織姫」 倉阪鬼一郎「雪夫人」 飯野文彦「一目惚れ」 斎藤肇「シンデレラのチーズ」 本間祐「うらホテル」 北野勇作「螺旋階段」 竹河聖「貴賓室の夫人」 津原泰水「水牛群」 菊地秀行「指ごこち」 井上雅彦「チェック・アウト」 それにしても〈異形〉のキイワードのもと、SF、ファンタジー、ホラー、幻想など多様なジャンルから偏ることなく作品を収集していて、その間口の広さに、改めて監修者のアンソロジストとしてのセンスを感じないではいられない。 |
●ロバート・エイクマン 「学友」、「髪を束ねて」、「待合室」、「恍惚」、「奥の部屋」を収録。 訳者あとがきによれば、著者は自作を「ストレインジ・ストーリー(テイル)」と呼ぶことを好んだという。 確かに怪奇小説という語は、そぐわないような気がする(もちろん私の〈怪奇小説〉観は歪んでいるのだが)。そんなに怖いわけでもないから、恐怖小説でもない。 そう思って改めて振り返ってみれば、ここに集められた異形はどれも曖昧模糊としていることに思い至る。 読んでいて、引き込まれるように面白いわけではない。むしろ冗長である。 ●小森健太朗 当初、初期荒巻風の伝奇ミステリかと思っていたのだが、予想と違って、前世とか神秘体験とか宗教的コミューンとか、どちらかというと田中光二にちかい分野の話であった。 前世がマヤ人だったという連中が、小さな宗教コミューンを作っているのだが、前半から中盤にかけて、そういう世界が描かれ、それに付随してライヒやカスタネダなど精神世界的知識が披瀝されて、ぐんぐん引き込まれる。 すなわち情報小説の側面が強く、ただしその情報も非常に極端な分野なので、こういう分野に興味がある読者には堪らないが、興味のない場合は退屈なのではなかろうか。もちろん私は楽しめたが。 そういう意味では、いったん頁を繰り始めれば、あとは受動的に至れり尽くせりのサービスが受けられる類の、いわゆるベストセラー小説というか、ノンストップ小説ではなく、むしろ読者が主体的に読んでいかなければ面白くならない、いわば読者を選ぶタイプの小説である。 謎解きは最後にさらりと述べられる程度。SFではないが、神秘体験を取り扱う態度は「科学的に肯定的」で、私の用語で「奇なるを怪しむ」ところの〈怪奇小説〉の範疇に入るものである。 惜しむらくは、探偵役の描き方がいまいちぶっきらぼうで、共感できない。ぐいと食い込んでくるような鋭い角度がないのが惜しいが、これも作者の持ち味だろう。 ●朝松健・編 〈書下ろしクトゥルー・ジャパネスク・アンソロジー〉ということで、日本人作家が千葉の架空の土地「海底郡夜刀浦市」を共通の舞台にクトゥルー小説を競作している。 飯野文彦「襲名」 朝松健「夜刀浦領異聞」 この作家は、他の著書においてもしばしばそうなのであるが、あとがきは、大体書き上げた自作が傑作であると自慢話なのだ。そのようなことが臆面もなく出来るのは、思うに入れ込んで書き上げて(それはむろん作家として必須であるが)、而して後、客観的に冷静に見直すという(これまた作家として必須の)作業がなおざりにされているのではあるまいか。 ともあれバタ臭いのはそこそこ読める作家なのだ。時代物は向いてないのではないか、というのが言い過ぎならば、著者は未だ時代物の筆法を会得していないのだ。 図子慧「ウツボ」 井上雅彦「碧の血」 立原透耶「はざかい」 またガソリンが切れかけて乗り捨てた車なのに、それに乗って(給油されたという記述もなしに)走り回ったりされては、朝松作品と同じで客観性に対する配慮が全く不十分。著者は執筆時のテンションが平常に戻るまで、この作品を寝かせておくべきだったのではないだろうか。惜しい。 井上雅彦作品も矛盾がある。しかし別に気にならない。それが気にならないのは、読者をして矛盾を矛盾と思わせない自立した小説世界(の論理)をきっちり構築し得ているからに他ならない。 ●原■〔僚−人偏〕 「少年の見た男」>小学5年生が探偵にある依頼をする。 ハードボイルドの申し子の手になる正統ハードボイルド小説集。 年齢を重ねれば重ねるほど気づかざるを得ないのだが、、私たちの周囲には、我々の手ではどうしようもない理不尽、不条理がいくらでもころがっている。そして我々の手に余るそれらに対して、殆どの場合、私たちはなすすべもなく手をこまねくか、あるいは絡め取られてしまうばかりである(親方日の丸、長いものには巻かれろ)。 ところが、小説の中の探偵は、生身の人間でありながらあたかもスーパーマンのように、断固としてそのような理不尽、不条理に立ち向かい、よもや籠絡されることはない。 これが長篇になると微妙なズレが生じてくる。リアルであるとはいえ小説である。800枚、1000枚という長丁場の間には、リアリズムという衣装が綻びて、衣装の下の作り物が透けて見えてくることが起こるのは致し方なかろう。 だが、本書の諸篇は(大体100枚程度であろうか)長くもなく短くもなく、そのバランスが丁度よい按配で、私は読中、何の違和感も引っかかりもなく、物語に浸ることができた。 ●清水義範 著者には、やはりソノラマ文庫に〈伝説〉シリーズという宇宙SFの傑作ジュヴィナイルがある。私のお気に入りなのであるが、本書も期待にたがわぬ出来映えで、たのしめた。 |
●掲載 1999年10月21日