ヘテロ読誌
大熊宏俊

1999年 上半期

1月

グレッグ・ベア
『凍月』小野田和子訳
(ハヤカワ文庫)

 120〜130頁辺りから、もうどうにも止まらなくなって、後半は一気呵成。これは面白かった。とはいえSF味はごく薄い。
 冷凍保存された410個の頭部とか、量子論理思考体といったSF的小道具はあるのだが、それは確かにストーリー展開に不可欠な要素としてあるのだが、本書の面白みは主に新興宗教団体との権謀術数をかけた戦いにある。
 メッセージ性の強い内容で、純真な主人公が現実に目覚めていく(晒されていく)成長物語として読まれるべきなのだろう。


F・ポール・ウィルスン
『ホログラム街の女』
浅倉久志訳(ハヤカワ文庫)

 本書もSF味は薄い。ハードボイルドSFでなく、SFハードボイルド。私立探偵シグ・ドライアーを主人公に据えた連作の中篇集で、全体としてゆるやかな長篇を形成している。
 いや本書にも、ものの見事にハマってしまった。ラストではひたすら感動! 巻末のリストを見ると、このシリーズは本書だけ。ホッとひと安心。なぜひと安心か。このシリーズ、何冊も出ていたら、絶対それを読み尽くすまでは何も手につかないこと必定だからだ! 

 ハードボイルドらしく非常に倫理的。私は眉村卓に通ずるものを感じた。
 第三部の感動的な結末はアウトサイダーであるドライアーの行為の結果であることは疑いないが、最終的にはラムが政治的な駆け引きでブロード長官を心変わりさせたことによる。
 かかるラムの行為はまさにインサイダーである。

 眉村SFというのは、結局のところドライアーはいるのだが、それが玉砕的に突進していく結末が多く、ラムのような人物は実は少ないのである。その意味では眉村よりも眉村らしいというか、インサイダー文学論に忠実な作品といえる。


眉村卓
『消滅の光輪』
(早川書房)

 本書の評価は二方面よりあり得る。
 その一は、従来的な意味で小説を読んでいる感覚とは少し違うものであり、ゲーム小説あるいはシミュレーション小説という言葉が浮かんでくる。
 つまり、ある惑星上に諸々の(社会的/心理的)初期値を設定し、変数(司政官)を導入し、結果初期値がどのように変化していくかを記述するという、きわめて公開性の高い、まさしくゲーム的というのが妥当なスタイルを持つ小説である。

 〈クトゥルー神話もの〉というジャンルは、原作者ラブクラフトの設定を踏まえて、いろいろな作家が参入しているわけだが、本書でもそのような展開が可能であると思われる。公開性が高いとはそのような意味である。
 もとより書いている作者本人が一番楽しんでいるのだろうが、実のところ私自身も巡察官を主人公に据えた話を読みたい(書けるものなら書いてみたい)という気になった。そういう気持ちにさせる奥行きが設定自体にある。SFマガジン連載時に人気を博したのは専らこの方面であろう。

 その二は、眉村従来からのテーマであるインサイダー文学論の展開である。
 かかる見地から言えば、これは残酷なストーリーだ。
 一人の中間管理職が「使い捨てられる」もしくは「使い物にならなくなる」までの物語なのだから。

 管理職に抜擢人事的に新任されて希望に燃える有為のやる気満々の青年が、与えられたプロジェクトのもっとも肝腎な場面で「外されて」しまうのだ。
 しかもそれは、最初から決められたことだった……。

 ――それはないでしょう、人事部長。
 と、私なら訴えるだろう。

 とにかく、こんな仕打ちを受けた管理職が、引き続いてその職務に打ち込めるだろうか? 
 エピローグでマセは、内心をあからさまには語っていないが、連邦に対する忠誠心も、司政官としてのプライドもすべてなくなってしまっているはずだと私は推測する。
 むしろ怨念めいたドロドロしたものでいっぱいのはずである。これこそまさしく、「使い捨て部隊」ではないのか。

 それにしても(連邦の)人事担当者は、一体何を考えているのか。
 他人事(小説事?)ながら、私は憤りを覚えないではいられない(笑)。
 管理職を育てるという気が全くないとしか思えないのである。
 司政官制度が衰退していくのも頷けるではないかっっ!

 こんな酷い組織は早く去るにしくはないのだ。
 マセは新天地の鉄道会社に請われて行くということのようだが、それがいいと思う。

 私の場合、初読は思い出してみると24才の時だったのだが、今回読み直してみて、ほとんど内容を覚えていなかった。
 さもありなん、入社一年目の使いっ走りが本書を読んで何の感想があるだろうか。
 マセの心情など判るはずもなかろう。19年後の今だからこそ、マセの心情はしみじみと共有できる。

 とはいえ、19年後という観点から言わせてもらうならば、たしかにマセの手法も正しかったとは決して言えないのである。

 巡察官とはさしずめ今日のスーパーバイザーだろうか。
 この世界では、司政官は極度に巡察官をライバル視し敵対的に位置づけがちだ。とりわけマセにはその傾向が強い。
 しかし基本的にひとつの世界でしか実践せず(比較的に)視野が狭い司政官に対し、巡察官は多数の世界を広く浅くであるが経験し、いろんなタイプの司政官に遭遇してきているのであるから、ひとつの方法論しかなく煮詰まってしまった司政官に対して、別の方法や新しい技術をアドヴァイスすることができるはずだし、そういう指導も巡察官の職務のひとつではあるまいか。

 マセはもっと巡察官とコンタクトを密にすべきだった。
 たとえば「ふところに飛び込んでいく」といった処世法があるが、マセには性格的に出来ないのだろう。だとしたら、マセは光秀的な性格なのかも知れない。
 そういった方向に深めていっても面白いと思うのだが、そのためには多元描写(少なくとも巡察官の視点)の導入は不可欠だろうと思われる。(――それにしても我ながら勝手なことを書いているなあ)

 確かにマセの過剰な独立独歩志向は管理職としてはやや適性に欠ける一面だろう。
 でも、それを切り捨てるのでなく教育というか啓発していく責任が、マセを司政官として任命した連邦にはあるはずなのだ。
 どんな職位でも同じだと思うのだが、司政官職も職位であるからには、どの司政官も、最初から司政官として「ある」のではなく、司政官職に就いた後、遅れて司政官に「なっていく」ものであるはずなのだから。


眉村卓
『カルタゴの運命』
(新人物往来社)

 私は、ローマのライバルとしてのカルタゴに昔から判官贔屓的な興味があったのだが、しかし取り立てて勉強をする機会もないまま今日に至っている。
 本書は勉強旁々に楽しむことができた。

 そう言うわけで、この〈私たちの世界〉が、松田たちの工作の結果、改変された時間線上にあるという設定になっていると判ったのは、実は若くして死ぬ筈のカトーが、生き残るという顕在流に遷ったという記述によってであった。いや、コロッと騙されてしまった。

 それにしてもカルタゴと日本の類似性の指摘には目を洗われる思いがした。
 この視点(史観)で純然たる歴史小説として書いてもよかったのでは、と一瞬思ったが、すぐに、
 ――いや、それでは堺屋太一の亜流になってしまうわけで、あえて改変歴史SFにした理由には、それを避ける意味があったのではないか、と思い直した(消極的理由)。

 もう一つの理由として、巷間にあふれる安易な(願望充足的)通俗改変歴史小説つまりは架空戦記物であるが、その隆盛に対するアンチテーゼの意味も、おそらくは作者の意識の裡にあったのではないかと思われる(日本SF創始者のひとりとしての見識)。
 確かに、歴史とはある意味で必然的な過程なのであって、それを改変するというのは生半可な介入ではどうしようもないはずで、それを前提としていない改変歴史小説は単なる願望充足小説にすぎず、たとえ衣装はSFであっても、SFからはほど遠いものと言わざるをえない。

 さらに歴史小説として書かれなかった理由として、これが最大の理由であろうが、ゲーム終了後、ドインたちが語る超越的認識論の開示によるセンス・オブ・ワンダーの発動がある(積極的理由)。
 むしろ一般読者にはいささか難解な、かかる認識変革の発動に読者を至らしめるという、SFの本来の効能のために、多世界解釈(枝分かれ宇宙論)を前提とする長大な本書は書かれたのであり、それを純然たる歴史小説にした方が、と、一瞬でも思ったのはまさに短慮であった。

 最後に、日常に戻った松田の許にエンノンが携えてきたアリアドーの手紙のエピソードは、一見ありふれた後日譚のようにみえるが、先のセンス・オブ・ワンダー発現の時とは全然別種の、もっと柔らかく深い感動を私に与えてくれたのだった。

 ところで超長期の連載ということもあってか、本書は情報密度が極端にいびつ。
 昔の作家が、連載に詰まって数回分麻雀をさせて急場をしのいだ、というエピソードを思い出したのだが、もう一段の整理というか、バランスへの配慮があった方がよかったのではないだろうか。


朝松健
『小説ネクロノミコン』
(学研ホラーノベルズ)

 先回、『消滅の光輪』で言及した、原作者の設定に準拠したゲーム的なクトゥルー神話もの。
 ラヴクラフトがアレイスター・クロウリーに宛てた手紙の間に挟まれて三篇の中短篇が鎖状になった連作集という趣向。

「海魔荘の召喚」
 これはよい! 一応映画のノヴェライゼイションだからか、視覚性が高く間然するところもなく読了。朝松作品を読むといつも、良いと思う部分と全然ダメと感ずる部分が必ずあって、もひとつ積極的には評価できなかったのだけれど、この話には違和感がなかった。

「冷気の恋」
 一定のレベルではあるが、論理的につじつまが合わない。

「幻覚の陥穽」
 現実とも幻覚ともつかぬ混沌たる描写が迫真の恐怖感を煽る。

 繰り返しになるが、従来、朝松作品に対しては、評価する部分と評価できない部分が相半ばして、いまいち複雑なものが残ることが多かったのだが、本書ではそういうアンビヴァレントな部分が払拭され、素直に楽しめた。


井上雅彦
『骸骨城』
(学研ホラーノベルズ)

 本書も学研ホラーノベルズ。本書は前回の朝松作品とは違って、鎖状でなく入れ子状になった長篇である。
 海霧のけぶる港町の映画館〈骸骨城〉で開催されるオールナイトの怪奇映画を文字で見せるという趣向。最後に映画と現実が融合してしまう。

 非常にウェットな、というよりもむしろジュースフルなと言った方がよい作風である。
 作者の思い入れ(PHANTASY)がグレープフルーツのようにみっちり詰まっていて、どこを押さえてもビュッとPHANTASYの液汁が飛び散りそうだ。
 なかでも趣向の効いた「踊るデンキオニ」が一等よい。

 とにもかくにも、良くも悪くも同人誌的な作風であって、評論家ぶって、したり顔に突っつける部分が至るところにある。
 つまり非常に無防備な作風といえる。
 反面、そのような作風だからこそ醸造される、濃縮ジュースのようなコクと味わいは、たしかに通り一遍なベストセラー小説では絶対に味わえないものだ。

 朝松もそうだが(もっとも朝松の場合は、どうも自己の資質に気づいていないのか、ブロックバスター狙いに走って墓穴を掘ることが多いように思えてならないのだけれど)、両者とも専門的な作風でとことんバタ臭い。もちろんそこがいいのだ。


倉阪鬼一郎
『妖かし語り』
(出版芸術社)

 百物語ならぬ参加者が持ち寄った怪談を朗読する趣向の短篇オムニバス。
 「怪談から、クトゥルー、サイコ、スプラッタまで各種取り揃え」て、読者のご機嫌を取り結ぶ。
 最後は趣向自体に仕掛けが仕掛けられていて、それがソニー・ロリンズのエンディングのように果てしなく引っ張るのであった。

 しかし、今回はこれまで私が読んだ著者の作品(怪奇十三夜、百鬼譚の夜)ほどの満足感はなかった。
 なぜかと思うに、ユーモアの要素が比較的少なかったからだろう。
 前二作の時にも言及したように、著者の怪奇小説のユニークなところは、いわば〈飄々たる恐怖〉なのだが、もとよりそれはユーモアの裏打ちがあったればこそなのである。(註、「ヘテロ読誌97」9頁〈怪奇十三夜〉、「ヘテロ読誌98」17頁〈百鬼譚の夜〉の各項目、参照)


佐野史郎・他
『クトゥルー怪異録 *極東邪神ホラー傑作集*』
(学研ホラーノベルズ)

 日本人作家によるクトゥルー神話の競作。

佐野史郎「曇天の穴」
 いかにも書き慣れない素人仕事ながら、ちゃんと色調を保っている。

小中千昭「蔭洲升を覆う影」
 『妖かし語り』の「魚影」と同趣向の〈インスマス〉もの。こちらの方がつくりが荒い分、刺さってくるものが鋭い。

高木彬光「邪教の神」
 これはスタイル(筆法)が怪奇小説とは違う。もとよりミステリーなのだが、ミステリとしては出来が悪い。昔はこの程度で読者は満足したのだろうか? だとしたらミステリは確実に進歩している。SFはどうだろうか。

山田正紀「銀の弾丸」
 これもスタイルが違う。怪奇小説ではない。

菊地秀行「出づるもの」
 良くも悪くも幕間的作品。短すぎて評価の仕様がない。この倍の枚数で書いて欲しかった。

朝松健「闇に輝くもの」
 「海魔荘の召喚」と同様ラヴクラフトが主人公、というより『小説ネクロノミコン』のラヴクラフトの手紙にリンクする話。これもなかなかよい。こういうエピソード風の話を書かせると、朝松はいい雰囲気を出す(あまりストーリーを作らない方がいいということか)。

友成純一「地の底の哄笑」
 九州の炭鉱地帯という舞台設定がよい。ラストがスプラッタなドタバタで幕を閉じるわけだが、これでは起承転結の結としては〈小説的〉にはちょっと弱い。というより結になってない。続編があるなら話は別だが。その分、いささか締まりのない読後感になった。計算間違いではなかろうか。途中まではよかったのに、残念。


柄刀一
『3000年の密室』
(原書房)

 三千年前の縄文人のミイラが発見されるのだが、明らかに殺害されており、死後右手が切断されている。
 ところが発見された洞窟は内側より閉ざされていて、つまり密室である。
 この謎に第一発見者の変死の謎が絡む。実際は絡まないで別々に解決される。
 勝手な読者としては、そこが少し残念なのだが、それを措いても傑作であることに変わりはない。

 前半、一体のミイラから様々な事実が解析されていく過程がたまらない。
 私も十年以上前、埴原和郎のコンピュータを駆使した画期的な日本人起源論がジャーナリズムを賑わしたとき、集中的に何冊か読んだことがあったから、この辺は実に面白く読めた。

 特に合同討論会の場面は巻措くあたわずの面白さ。
 ここに出てくる大山国立民族学博物館副館長のモデルは参考文献にも挙げられている小山修三であろうが、小山の著作は私も読んだことがあって覚えているのだが、まさに本物の小山氏ならこう主張するだろうという線で造型されている。
 保守派、進歩派を達意に書き分けていて驚かされる。私の乏しい(しかも十年前の)知識に照らしてだが、ここに書かれている考古学その他の学術的な知見はすべて裏付けがあると思われる。

 さて、後半は第一発見者の変死の謎に焦点が当てられる。
 ここではコンピュータの天才が登場して、バーチャル・リアリティに関する知識が披露される。
 一転して現代の先端的な部分が姿をあらわすのだ。この辺りは森博嗣『すべてがFになる』と共通するセンスを感じる。

 しかもこの若き天才のキャラクターが特異で、一種マッド・サイエンティスト的な風貌があり、かれが最後に開陳するバーチャルリアリティの未来像は、いわゆる旧弊なヒューマニズムを越えようとするもので、この辺の議論にはSF的なパースペクティヴ(センス・オブ・ワンダーとまでは言わないけれども)を感じた。

 キャッチフレーズは本格ミステリであるが、しかし本書の面白さは謎解きにあるのではない。
 確かに主人公の女性は犯人を当てるが、それは主人公の気質に由来する非常に直感的なものなので、本格ものとしては積極的には評価できない。

 むしろ本書の面白さは、過去を明らかにしようとする縄文学の現在と、現在のコンピュータから導かれるバーチャルリアリティの未来像といった情報小説の要素を本格ミステリの契機として取り込んだ所から生じるのである。
 したがって、かかる分野に足がかりをもたない読者にはさほど面白いものではない可能性がある。そういう意味では、一見ベストセラー指向の小説のように見えるが、井上雅彦等と同様、専門店的作風なのかも知れない。それは第2作の内容で判定できるだろう。

2

川端裕人
『夏のロケット』
(文藝春秋社)

 〈裏庭のマッド・サイエンティスト〉ものである。
 いやあ、こういう話は大好きだ。読みはじめるや、即ハマってしまった。
 青春小説+チームワーク小説+ブリコラージュ小説。処女作特有の欠点がなくもないが、全然気にならない。

 読了後、プロローグに戻るべし。20年の時を越えた感動がどっと押し寄せてくる。
 しかしこの場面、小説内の事実などではなく、主人公の見た夢なのかも知れない。それもまた好し。
 いずれにしてもこの感動はセンス・オブ・ワンダーの一種に違いない。というわけで、本書は紛れもないSFである。


服部まゆみ
『この闇と光』
(角川書店)

 一気に読ませる。
 昨今のノンジャンル・エンターテインメントと称されるベストセラー小説群には決して使われそうにない、いわば西欧「狂気の歴史」的なモチーフで積み上げられた物語は、確かにそのようなベストセラー小説では絶対に味わえない芳醇な香気に充ちている。


吉田知子
『箱の夫』
(中央公論社)

「箱の夫」
 日本のどこかに生息するらしい小人族の夫を、夫の母親と取り合う話。

「母の友達」
 七十を越えている母親の親友という女が、母親の留守中に訪ねてくる。小学校の時の親友というがどう見ても四十前後である。人違いだと思うのだが、たまたま訪ねてきた母親の姉と昔話が弾んでいる。そこへ母親本人から電話がかかってきて確かに親友だという。姉も来ていると伝えると……。そうなるのではないかと思っているとおりの結末になるのだが、それでもこれは怖い。

「遺言状」
 次の「泳ぐ箪笥」と並んで、本集では比較的まっとうな(?)話。うまい。

「泳ぐ箪笥」
 こうなるのではないかと思ったとおりの展開になるのだが、実にうまい。筒井康隆の功績は、純文系の人にこのような影響力を及ぼしたことも忘れてはならない。

「天気のいい日」
 新聞にでていた変死体の特徴はどうも自分らしいので、警察に届けるが相手にされない。こういう風になるのではとおもったとおりの結末なのだが、それでも面白い。読み直していると途中で出会った大家に「お世話になりました」という場面があって「うまい!」とうなってしまった。

「恩珠」
 一種の変身譚。おのれが畜生であることを忘れて母子は都会へ出てきていたのだろうか?

「天」
 屋根裏へ隠れて一種超越的存在になってしまったらしい男を巡る物語。

「水曜日」
 これも筒井的な底意のある話である。

 どれもこれも滅法面白い。〈異形コレクション〉に載っておかしくない話ばかりで、もし載ったならプロパーの〈異形〉作品を喰ってしまうだろう。


E・C・タブ
『嵐の惑星ガース(デュマレスト・サーガ1)』
鎌田三平訳(創元文庫)

 シリーズ第1作ということもあって、一応ストーリーは起承転結するのだが、まだ何も始まってない感じ。
 2、3作読んでからでないと何もいえそうにない。でも、続けて読んでみようという気持ちに、あまりならないのだった。困った。


浅暮三文
『ダブ(エ)ストン街道』
(講談社)

 前半、ありきたりの探索物語的展開で、語り口も芸がなくこれは最後までたどり着けるかと危うんだが、終盤に来てこれまでの展開を引き締めるアイデアがたたみ掛けるように投入されて加速的に物語は上り詰める。
 その上昇速度は心地よい。

 おそらく本書は河合隼雄のいわゆる〈魂のファンタジー〉である(註、「ヘテロ読誌98」23頁〈ファンタジーを読む〉の項、参照)。つまり良質の〈児童文学〉と言い換えてよいだろう。
 したがって〈児童文学〉特有の通り一遍な教訓臭さがいささか煩わしいのだけれど、これは〈児童文学〉のお約束だから是非もない事だ。


高橋和巳
『堕落』
(講談社文芸文庫)

 〈満州国〉建設に青春をかけた主人公青木は、敗戦の混乱時、仲間を見捨て、妻を見捨て、二人の子供を見捨てて単身帰国した過去を持つ。戦後福祉事業団体を組織し、混血児の世話をはじめる。
 その業績が表彰されたのをきっかけに、彼は「崩壊」し、彼の内部に〈曠野〉が満ちる……。

 同様に内部に〈砂漠〉を懐胎する安部公房の、例えば『箱男』の方法論など、本書の次の言葉を前にすれば、もはや脳天気なオプチミスムの極みと言うほかあるまい。

 ――「すでに国家の恩恵に浴している国民の中の急進主義者にとって、国家はやがて消滅するべきものであっても、すべてがユダヤ人マルクスのように思想的国際性を獲得できるわけではない混血児にとっては、なんとかして既成の民族に融け込み、国家の枠内にもぐり込むことが先決だった。」(70頁)

 『消滅の光輪』を読んでいる時、私はそこに高橋和巳と重なり合うものを感じていたのだったが、いかにも本書の主人公は『消滅の光輪』のマセの後半生なのだ。

 ところで、高橋の主人公の場合は〈負〉を懐胎したまま小説世界に登場するのに対して、眉村の主人公はせいぜいが〈ゼロ〉からの出発である場合が多い。
 その分高橋作品に比べて暗鬱でなく、むしろ向日的な印象を与える。

 ところが人間は生きていく上で、必ず〈負〉を、その背なに積み上げていく他ない。
 従来の眉村作品はゼロから出発して〈負〉を担ぎ上げるところで終わってしまうことが多い。
 本当はそこから先が大変なのだ。

 小松が沈没後の日本人を書かねばならないように、眉村は〈負〉を背負ったところから始まるマセの新たな旅立ちを克明にトレースしなければならないのではないだろうか。

 マセはなんとか任務は全うしはしたが、心に深い傷(曠野)即ち〈負〉を負った筈であり、以後のマセはもはや以前の自負心と使命感にみちたマセとは違う筈なのだ。なぜならマセも青木も、共に〈倫理〉の人であるから。
 内なる曠野に悪霊を潜ませたマセの後半生を読みたいと痛切に思う(あれ、いつの間にか『消滅の光輪』の感想になっちまったぞ)。


山之口洋
『オルガニスト』
(新潮社)

 「音楽」になった男の物語。読後、圧倒的な感動に包まれる。
 前半は舌足らずな青春小説で、なかなかのれず、読むのを止めようかと思ったのだが、後半、ぐいぐい引き込まれ、読了後の目で前半の青春小説部分を回想すると、こは如何に、哀切窮まる青春譜に変じているのだった、私の裡で。

 マン−マシン(?)と化したヨーゼフ・エルンストに、私はふと、ベリャーエフ『両棲人間1号』の少年の姿が重なって見えた。
 終盤、どんどんと変貌していくヨーゼフの姿はクラークのポスト・ヒューマニズム的イメージを生々しさにおいて凌駕している。

 キイボードというか、音高差にもとづく会話はまさに圧巻。
 戦闘マン−マシン的方向に行けば梅原的ノンジャンル小説だが、音楽マン−マシンなら、文句なしにSFである。SF読みである私には、非常に嬉しく、また心強い1冊。


森万紀子
『雪女』
(新潮社)

 猛吹雪以外には何も存在しないような、そんな冬世界が圧倒的な迫真力で迫ってきて、読むだに当方の身体が冷え切ってしまった。
 実際、読み出してから読了まで、ひとときたりと吹雪がおさまることはないのだ。
付録のリーフレットの著者の言葉から粗筋を引用する……

 《……後三か月、二月になれば家は力蔵に渡る。
 父親は幼いときに死んでおり、母親は死の病の床にある。
 兄は遠い地方都市にあってアルバイトをしながら学業を続けていて、自分一人の生活を賄うのに精一杯だし、姉は既に嫁ぎ先が決まっている。

 そうしたなかで、末の娘、累子は、兄の許で厄介になるのを自ら拒み、幼い頃から想い続けた優しい叔母への親愛感にかられて、叔母が住んでいるはずの水宮の水晶屋敷へ、一人旅立つことを決意する。
 ところが人々の噂にのぼる叔母は、発狂して色気違いになったとか、彼女につきまとわれた男に殺されたとか、男を追って行って河に落ちたとかいった話ばかり。

 いよいよ二月、母はその直前に死に、一家は離散。累子は自分の想いを実現すべく、馬橇に乗り汽車に乗り、後は歩かなければ辿り着けない山奥の水宮へと、吹雪のなか、旅立っていく……》

 私小説的な世界に見えるが、実際は全然違う。むしろ神話的世界である。
 帯の高橋たか子の文章にあるように、〈降雪や地吹雪や強風や寒気や河鳴りや地鳴りの、凄まじい風景で始まるこの小説は、終わりまでずっと、その風景がますます猛威を振るって荒れ狂〉うのだ。

 その凄まじい描写はもはや現実の吹雪の比ではない。
 日本の、日本海沿岸の小都市が舞台ながら、そこはもはや現実のこの世界とは別の、確かに神話的な様相を帯びて読む者に迫ってくる。
 たとえば累子を途中まで送ってくれる馬橇の一行は、

 《……ふいに風上で風音が乱れた。
 馬橇の音といななきが、不規則な音となりころがってくる。やがて雪煙が立ち、その中から鼻面に雪をつけた先頭の一頭が見えて来た。
 走るのに合わせて、馬方の頓狂な声が強風の中を走る。
 鐘が狂ったように鳴り響いた。……》

 という風に出現する。その出現の仕方からして、生木運搬業者というより、北方騎馬民族の一団のようだ。かれらは約束の地水宮と海辺の市という二点間を繋ぐ一本の線だ。

 河の北岸には、この市に何十年も暮らす副主人公である力蔵も行ったことがなく、そこでは常に吹雪が荒れ狂い、光が射すことがないという。
 いかにも非現実的な描写で、逆にその分、この世界が神話的な世界であることが、惻々として伝わってくるのである。

 「狂風世界」ならぬ、もの凄まじい「狂吹雪世界」で、読むだにこちらの身体が冷え切ってくる。
 その暗鬱きわまる世界に、次第次第に絡め取られていくのだけれど、なんとか抵抗しようとする累子の姿が健気でいじらしい。
 途中から私のなかで、累子のイメージは宮崎駿の描く少女のイメージになっていた。
 といっても宮崎アニメのような結末にはならないのだが……。

 累子は最後、『沈んだ世界』のトラヴィスのように、至福に包まれて水宮の奥、「狂吹雪世界」の向こう側へと消えていく。
 これは是非宮崎にアニメ化して欲しい。音楽は中島みゆきで決まり。

3月

オールディス/ウィングローヴ
『一兆年の宴』
浅倉久志訳(東京創元社)

 あまりにも面白いので、一日で読んでしまった。ああ勿体ないことをした。
 オールディスの、40年代、50年代、60年代大家に対する評価がわかって面白い。
 その評価は、私自身の(ごく限られた)読書体験にてらしても納得できるもので、したがって私がほとんど読んでないところの、言及されている最近の(80年代)作家の評価に対しても、信頼できるものなのだろうと了解できる(サイバー・パンクは全く読んでないのだ)。読んでみようかなという気に、少しなった。

 例えば日本では〈文学的〉と評価される(後掲書解説など)ヴァーリイに対して、私は『へびつかい座ホットライン』と『ティーターン』を読んだとき、そうは思えず、むしろ豊田有恒に似ているとメモったのだったが、オールディスも「創意には富んでいるが人間性の理解に欠けているきらいがあった」と書いていてわが意を得たことである。

 『モデラン』を評価しているのも(意外だったが)嬉しかった。
 私はかつてSFM(200号以前の号だ)で「モダーニアのクリスマス」を読み、強烈な印象を受け、いまだにそのときのセンス・オブ・ワンダーをありありと記憶しているのだ。
 著者によるとアメリカでも絶版のようだが、翻訳されることはないのだろうか?

 解説で山岸真が「(オールディスが)ベイリーを〈もっとも過小評価されている〉といっておきながら、のちの作品に触れていな」い、と不審がっているが、私に言わせれば不思議でも何でもない。
 著者はベイリーについて、〈もっとも過小評価されている短編作家〉といっているのであって、言及された以外の長篇は、オールディスの目には基準に達してなかった、というだけの話であろう。


風間賢二
『ホラー小説大全 ドラキュラからキングまで』
(角川選書)

 ホラー史の試み。SFとファンタジーとホラーが互いに接しつつ発展してきた事実にあらためて気づかされる。私のホラー理解がきわめて安直というか、歴史性を無視した思弁的なものであったことを思い知らされた。

 それにしても、ホラー史観からは、ブラッドベリやスタージョンはホラーで食えないから泣く泣く(?)SFに来たことになるのか?
 別の見え方というか、一種センス・オブ・ワンダーに似た認識のスイッチが切り替わる感覚(既存認識の剥離感覚)を覚えたのであった。良い本である。


ロバート・シェクリィ
『人間の手がまだ触れない』
稲葉明雄・他訳(ハヤカワ文庫)

 再読。メモによると、前回は76年7月3日に読了とある。感想は書き残していない。丁度この当時は読書日記を付けてなかった時期で、タイトルだけは手帳に控えていたのだった。

 ところが――信じられないことに内容を全然、というか完璧に覚えていないのだ。
 本当に読んだのだろうか? と不安になる。しかし読んでもない本をメモに残すはずはないので、実際に読んだのだろうことは間違いない。

 ――22年という歳月はかくの如しか。
 冒頭の「怪物」だけ、僅かに記憶に残っている。なぜかと考えるに、この短篇が北杜夫の「不倫」の元ネタであったからに違いない。
 おかげでこのオールタイムベストの短編集を、幸か不幸か、ほとんど初読に近い読みができたことであった。

「怪物」
 男女の比率が極端に違う星の住民の奇習(地球人的立場から)。自動的認識(自然的態度)の相対化による感覚をねらったSF。

「幸福の代償」
 素晴らしい新世界的ディストピアを飄々と描いた典型的未来社会SF。

「祭壇」
 好奇心を持ったために我が町に出現した〈異教〉の罠にはまった男。ジャンル的にはホラーである。

「体形」
 地球征服の尖兵としてやってきた自由に形態を変えられる異星人が、地球で〈自由〉に目覚める話。SF。

「時間に挟まれた男」
 ミクロ・コスモス・テーマのSF。杜撰な宇宙建築のせいで時間に挟まれた男の努力と、超宇宙の住民たちのいかにも〈地球的〉なやりとりの対比が好い。

「人間の手がまだ触れない」
 認識SF。

「王様のご用命」
 タイムパラドックスの解消理由が効いている。うまいっと膝を叩く。ファンタジーかと思っていたら、このラストで〈SF〉になった。公務員の魔物が好い。

「あたたかい」
 認識SF。力作。現代でも十分通用する。

「悪魔たち」
 認識SF。人間と二種類の悪魔が登場するが、三者とも自分は人間で、自分以外は悪魔なのだ。

「専門家」
 遭難した宇宙船が地球に不時着。地球人の男は、不幸にも地理的条件で発現していなかった自らの種族の専門的仕事に目覚める。

「七番目の犠牲」
 『標的ナンバー10』の原型。近未来社会テーマの佳品。

「儀式」
 作品集的には冒頭の「怪物」に対応する。不時着し、空腹と渇きで死にかけた地球人に対して、長老は古式に則った儀式を開始する……。滑稽と悲惨は紙一重なのだ。

「静かなる水のほとり」
 掉尾を飾るに相応しい一幅の名画のように美しい掌篇。

 どの話も基本構造は、超越的存在が人間(それもあくまでも我々のような凡人)と同じ行動パタンを示すことによる落差の醸成である。
 つまり本書の読みどころは、宇宙人であろうが悪魔であろうが、元来超越的存在である筈のそれらが、いかにも人間的な、いわば下世話なレベルに引き下げられて描かれるその意外さに感応するということなのだ。ある意味で、最も理念型的なSFであるといえよう。


フレドリック・ブラウン
『宇宙をぼくの手の上に』
中村保男訳(創元文庫)

「緑の地球」
 宇宙の孤島もの。読後哀切なものがせまってくる秀作。

「1999年」
 未来社会テーマだが、小道具が今となってはいかにも古い。

「狂った星座」
 これも古さをいかんともしがたい。オチは洒落ている。

「ノック」
 〈地球最後の男が部屋に座っていた。と、ドアにノックの音がして〉……単純だがほほえましい佳作。

「すべて善きベムたち」
 BEMの宇宙船が小説家の家に不時着してから飛び去っていく迄の顛末。軽妙なコメディ。

「白昼の悪夢」
 カリスト星で5年ぶりの殺人事件。続いて起こった事件で死んだのは最初の事件で殺された男だった。発端の謎は引き込まれる。途中までは不条理小説の趣き。解明された謎がいささか古めかしい。

「シリウス・ゼロは真面目にあらず」
 まるでブラッドベリのような美しいファンタジー。

「星ねずみ」
 途中までは危ういが、ラストは名場面で忘れがたい印象を残す。

「さあ、気ちがいに」
 本短篇集の白眉。終盤、本格SF風になり一瞬身構えるが、ラストはいかにもブラウンらしい着地で大団円。

 『人間の手がまだ触れない』よりも古さは否めない(出版は三年しか違わないのだが)。
 とはいえ、「緑の地球」「ノック」「シリウス」「さあ、気ちがいに」などはこのままで十分現代で通用するだろう。
 逆にこういうタイプの、軽いというよりも、いわば読者に優しい(易しい?)SFが、近年のSFマガジンには欠けているのではないだろうか(やさしいというのと手抜きをするというのは全然違う)。
 やさしいからと言っても、SFフレーバーはたっぷりある。古めかしさも含めて堪能した。


笹沢左保
『地獄を嗤う日光路』
(文春文庫)

「背を陽に向けた房州路」
 心臓病みの渡世人小仏新三郎は、昔の恩を返すためお染という女を捜して旅している。
 それが新三郎のもはや永くない後半生の生き甲斐である。
 その旅の途次、木更津で渡世人から難癖を付けられている老人と、お染にそっくりな孫娘を助けた新三郎、翌日逆にこの二人に助けられ、その恩に答えるため彼らの村を食い物にしている浪人一味の排除を請け合う。
 その一味にお染という名の女がいるという。新三郎は一味の排除に成功するが、女の名はお染ではなかった。新三郎は二人に利用されたことに気づく……。

 毎度お馴染みのニヒルな笹沢節だが、それがいいのだ。
 初期光瀬節と同工異曲であるのだが、それにしてもどうして光瀬節は錆び付いてしまったのだろう?

「月夜に吼えた遠州路」
「飛んで火にいる相州路」

 いずれも同型のストーリーでお染に出会うことはできない。

「地獄で嗤う日光路」
 本篇で〈幻の女〉お染が実際に姿をあらわす。
 しかし現実のお染は新三郎の〈内なる〉お染とは違っていた。
 〈会わないほうがよかったような気がする〉と呟きながら新三郎はお染に殺されてやる。
 アンチ・クライマックスのクライマックス。正義と悪では割り切れない現実の真相が示されてこのアンチヒーロー物語は幕を閉じる。


ロバート・J・ソウヤー
『スタープレックス』
内田昌之訳(ハヤカワ文庫)

 まさにSFそのもの。『さよならダイノサウルス』同様、すべての謎に解決がつく。
 ……〈ショートカット〉が存在する理由。ダークマター生命体の謎。渦状銀河創成の謎。人類(知的生命)が存在する理由。宇宙の質量が臨界密度に限りなく近いわけ。……

 そして敗退したかに見えた〈宇宙の人間原理〉が、土壇場で息を吹き返す場面などまさにスリリング。
 100頁くらいまでは乗れなかったが、それから後は巻措くあたわずで、文字通り本を手から放すことができなくなってしまった。

 こんなに面白い本書がなぜネビュラ賞を取れなかったのだろうか。おそらくガジェットのオリジナリティが問題になったのではあるまいか? 
 ゲイトウェイ=ポール、イルカと人類のチーム=ブリン、スタープレックス=スタートレック、という具合に、既存作品のアイデアを再利用して作られているわけで、ある意味、一種のパロディなのである。

 過去作品に対する登場人物による言及というあからさまな方法は採られてないにせよ、やはり新本格ミステリと同様の構造をもつ二次的SF作品であろう。(註、「ヘテロ読誌98」45頁〈無限アセンブラ〉の項、参照)


エドモンド・ハミルトン
『さすらいのスターウルフ』
野田昌弘訳(ハヤカワ文庫)

 スペースオペラかと思いきやSFだった。
 異星人の難破した巨大な宇宙船のシーンなど、これは光瀬龍の小説だったかと、一 瞬疑わせるほど虚無的。
 むしろ光瀬が翻案したら、その嫋々たる語りで、センス・オブ・ワンダーびしょびしょの、これぞSFになったかも知れない。
 読みを急ぎすぎたせいもあるが、やや一本調子。そのへんはスペオペである。

4月

半村良
『虚空王の秘宝 1』
(徳間文庫)

 うーむ。スペースオペラだ、良くも悪くも。
 しかし出だしは現代の日本で、事実話は往年の伝説シリーズのように始まり、国家に対抗する陰の集団〈逃がし屋〉に主人公が接触するまでは巻措くあたわずの面白さである。

 ところが〈逃がし屋〉に接触し、その内部の人間になってみると、組織には反国家的な意志など全くなくて、実は太古より秩父山中に埋まっていた巨大宇宙船のクルーとなって大宇宙へ飛び出すことが目的であることがわかってくる。

 この辺から論理の必然性みたいなものが甘くなってきて、悪い意味でスペースオペラ的になってきて、急激にリーダビリティの推進力が失速してくる。
 とりわけ、科学的な傍証が随所にあるのだけれどそれがあまり正しくないので、よけいに推進力が阻害される。

 たとえば船が水星の軌道方向へ向かわず外惑星の軌道方向へ向かっているから、確かに船は太陽系の外へと向かっている、という会話が交わされる。
 これは間違いではないにしろ、もし通常の航法で太陽系外に向かうならば、太陽を利用したスイングバイを利用するのがむしろふつうではないのか。

 結局船は回頭(!)して、太陽に突っ込みワープに入るのだが、人類の技術を越えた超宇宙船だからそれも可能だろうが、それなら例えば、
 「普通は楕円軌道でゆるやかに戻って行くところだが、さすがにこの船は凄い。Uターンしちまったよ」
 とぐらいは喋ってくれないと納得しづらい。

 虚空王という言葉の由来も全然説明されないし、成り行きでストーリーが進んでいる印象を払拭できない。
 あるいは、2巻を読めばすべて氷解するのかも知れない。
 SFの醍醐味は、結末で一挙に解明されることで認識的ビッグバンが引き起こされ、それまでの印象が裏返ってしまう傑作が少なくないのだから。
 ――しかしこれではなあ。

 SFは爾余の娯楽小説とは違って構築部分がその鑑賞に不可欠な小説ジャンルなのであり(『宇宙人捕虜収容所』もその辺が危うかったのだが)、かかる構築部分の瑕疵は致命的な場合もあり得るのだ。


アルベルト・モラヴィア
『ロボット』
米川良夫訳(白水社)

 ちょっと読み疲れてきたので目先を変えようと、気紛れに読み出したら、きっちりハマってしまい、あっという間に読み終えた。

 男女間(とりわけ夫婦間)の微妙で危うい機微を、20枚程度にさらりと定着させている。
 それだけなら風俗小説だが、その一篇一篇の奥に一種象徴的なというか、原型的な何かが垣間見えていて深い読後感がある。

 フロイト的な解釈に誘われるが、作者は何も解説を加えない。
 ただぽんとそこに提示されているばかりで、解釈は読者に委ねられている。

 全23篇中ベスト10は「海辺のランデブー」、「逃避行」、「家族」、「検閲」、「ママは眠っていた」、「夢」、「通りと室内と」、「嫉妬のいたずら」、「夜寝ているときは」、「詩人と医者」。

5月

井上雅彦監修
『月の物語 異形コレクション8』
(廣済堂文庫)

 前回の『チャイルド』からずいぶん間があいてしまった。そのせいか波長がなかなか合わず、第1部〈蒼の章〉はワリを喰ったかも知れない。
 しかしSFを集めた〈銀の章〉で調子が戻り、〈皎の章〉は一気に読了。

〈銀の章〉
 堀晃「地球食」と横田順彌「落葉舞」以外は合格。
 前者は未だ小説になってないと思うし、後者は小説として弛緩している。どちらも〈安住〉しているのが不満。まだそんな年齢ではなかろう。〈安住〉は悪しき職人仕事である。

梶尾真治「六人目の貴公子」
 本集中、個人的にはベスト作品。上記の二人と同様にSF第二世代の共通項である「ストーリーをつくることへの屈折した含羞」が招来する〈小説化意志〉の甘さというか、薄弱さは依然としてあるものの、そんな拘泥は読み進むにつれどこかへ吹っ飛んでしまった。
 奇想天外な観念性が素晴らしい。
 ことに水平線で月に乗り移るという、ど真ん中のセンス・オブ・ワンダー真っ向勝負には、唖然茫然の見送りの三振、しばしバッターボックスで立ちつくす。

青山智樹「月の上の小さな魔女」
 手堅いハードSF。しかし満月という〈地球上的現象〉が月面上でも影響力を発揮するものだろうか? もちろん〈呪い〉が実際に作用したとはどこにも書かれてはいないけれど。

岡本賢一「月夢」
 ホラーが一転SFに変相する手際が鮮やか。それもホラー部分の臨場感たっぷりの描写があったればこそ。

北野勇作「シズカの海」
 ディック的悪夢を不安感に満ちた文体で描ききって秀逸。最後の一行は私は不要と思う。

牧野修「蜜月の法」
 監修者の言にあるように、SFの言語で思考された(異世界)ファンタジーとして読ませる。
 しかし王とか后とかコオという名はなぜそういう名前なのか説明がない、という不満はSF読みの筋違いな不満なのだろうか?

眉村卓「月光よ」
 作者独壇場の〈異郷変化〉テーマのファンタジーSFの佳篇。
 なぜファンタジーでなくファンタジーSFかというと、最後で「喋る月光」にSF的解釈が施されるからである。
 いやあしみじみした気持ちになれた。名手による逸品の味わい。

〈皎の章〉
朝松健「飛鏡の蠱」

 朝松伝奇ホラー。一定の色調は維持しているが、可も不可もなし。

霧島ケイ「月はオレンジ色」
 ネオリアリズモ風の舞台設定が個人的に好みで、実によろしい。監修者の言うとおり童話風の味わいがあって懐かしい気分にさせられた。

南條竹則「影女」
 高座にかけられる〈怪談〉の趣。オチもまさにそうで、このあとに「お後がよろしいようで」という言葉が聞こえてくるようだ。それにしてもこのアンソロジー、間口が広い。

大原まり子「シャクティ(女性力)
 小説を自在に書いていて、もはやホラーという感じはしない。
 確かにうまい。しかしこううますぎると、(手前勝手な言いぐさだが)最早私の関心から外れてしまうのである。

竹河聖「掬月」
 この作者もうまい。大原と同様ストーリーを自在に操っている。怪奇小説なのだが、最早そういう感じはしない。ジャンル特有の狭隘さ(が醸し出す魅力)が、うますぎて消えてしまっている。
 私の場合、至れり尽くせりのベストセラー小説を読みたいのではない。主体的に読まなければ引っかかってこない何かを見つけたくて読んでいるのだ。

加門七海「石の碑文―Kwaidan拾遺―
 このモチーフはムンクの版画からインスパイアされたのではないだろうか。ハーンのパスティーシュらしく昔話風の語り口がくっきりしたイメージを読み手に与える。最後の一行が効いている。それにしても間口が広いアンソロジーである。

菊地秀行「欠損」
 月とも関係ないし、ホラーかと言えば首をかしげる。しかし小説としては一級品で、哀切な読後感を読み手に残す。

井上雅彦「知らないアラベスク」
 著者十八番のブラッド縁りなファンタジー。ホラーではない。まさに井上節全開。本集の掉尾を飾るに相応しい逸品。


ジェイムズ・アラン・ガードナー
『プラネットハザード 惑星探査員帰還せず(上下)』
関口幸男訳(ハヤカワ文庫)

 原題はEXPENDABLE。つまり「消耗品部隊」。
 それは異星探査で失われても誰も悲しまない身体的不具者で構成されている特殊部隊である。

 メンバーの一人で顔の半分が赤黒いあざにおおわれた(あざを取る技術はあるのだが、惑星探査員は必要なので手術してくれない)主人公は、老齢でボケた最高会議幹部をある未知の惑星へ護送する命令を受ける。
 その惑星に行ったもので還ってきた者はいない。そこは宇宙の姥捨て山なのだ。 
 ――という、とんでもない初期設定!

 上巻真ん中くらいまでは、サイエンス・フィクションというよりスペキュレイティヴ・ファビュレーションの雰囲気で、短い章立てにソフィスティケートされたユーモアと気の利いた警句が散りばめられ、ヴォネガットを連想しないではいられない。

 これは凄いぞ、『火星夜想曲』を超えるんじゃないかと思っていたら、使い捨ての惑星へ到着してからは、普通の(まっとうな?)冒険SFになってしまった。ちょっと残念。
 けれどもそれで失望したというわけでもない。冒険SFとしても一級品なのだ。

 いわゆる〈島流し〉テーマの伝統を引き継ぐものとして、たとえば『ロボット文明』、『地球人捕虜収容所』、『最後の地球船』等々の先行するこの分野の諸作に比べても、決して引けを取らない面白さだ。
 しかも風変わりな異星の視覚的な描写はファーマーを思い出させる。
 丹念な書き込みで、最後までだれることなく読み終えた。
 同じ宇宙を舞台にしたらしい第二作も〈近日刊行〉らしい。翻訳が待ち遠しいところ。

 ところで関口幸男の翻訳は、これまでどうも私には相性が悪く(読みにくく)、「下手」(気が入ってない、機械的に訳している)なんじゃないのかと薄々思っていた。最近もこの訳者の手になる『地球生まれの銀河人』が中断しているのだが、本書は読みやすく、すいすい頭に入ってきたから、そういうことばかりでもないのか。


フリッツ・ライバー
『魔の都の二剣士』
大谷圭二訳(創元文庫)

 ファファード&グレイマウザー・シリーズの第1巻。
 といっても発表年代順に並べたものではなく、同じ創元文庫版のコナン・シリーズと同様、作品世界内の時間の流れに沿って編集されたもの。

 私は、このような編集は、本来邪道であると思っている。
 長期にわたって断続的に発表される本シリーズのような連作は、たとえ小説内の時間順序が連続していたにせよ、書かれた時期が、例えば10年も開いていたとしたら、〈小説〉として連続しているはずがないのだ。
 10年の間には、著者の小説観も筆法も、なにより感性が相当変化しているに違いないからである。

 いい例が光瀬龍のハヤカワ文庫版宇宙年代記シリーズで、小説内時系列に沿って並べられているから、初期の瑞々しい緊密な秀作の間に中期以降の出涸らして色褪せた作品が挟まってしまう道理で、読む側からすれば盛り下がることおびただしい。
 したがって発表年代順編集が、このような長期にわたって書き継がれた連作の出版の場合には、妥当な編集方針なのであると私は思う。

 余談が長くなってしまった。
 さて、本書の小説内時間の流れは、二人が別々に(それぞれの理由で)魔の都ランクマーに出てきて(「雪の女」、「灰色の魔術」)出会い意気投合し、はじめて二人で一仕事するまでを描く(「凶運の都ランクマー」)。
 そしてその結末は実に苦いものとなった。……

 敵役の盗賊結社の妖術士のすがたかたち、またその妖術がなかなかよい。やはりヒロイックファンタジーすなわちソード&ソーサリーであるからは、(単なるチャンバラものとは違って)異形や超自然的存在の、その存在感が作品の良し悪しを左右するのであって、本書はその辺が良く書き込まれていて満足できた。わたし的にはコナンよりも好みかも。


井上雅彦監修
『グランドホテル 異形コレクション10』
(廣済堂文庫)

 バレンタインデイの夜の、とあるグランドホテルでの話、という同一の設定で、執筆者が競演するという趣向。
 アンソロジーもここまで続くと、編者も新機軸を打ち出して見たくなるということか。

新津きよみ「ぶつかった女」
 二人の、互いに殺人を犯した女(片や時効直前。片や殺人を犯したばかり)が偶然ぶつかったとき、人格が入れ替わってしまったことから出来した喜悲劇。
 よくある話だが、これはこれでいいという見方もあろう。
 しかし私としては、人格入れ替わりの理屈(原因推測でもいいが)が全然ないので、何かすっぽかされた気分になる。

芦辺拓「探偵と怪人のいるホテル」
 虚実反転するブラッド辺りなファンタジーで堪能した。いわば井上雅彦の守備範囲に極めて近い作風といえるか。
 この著者、新本格の作家と思っていたので、ちょっと意外。もちろんうれしい方へ意外なのだけれど、それにしてもこれくらい雰囲気づくりに丹精を込めてもらえれば、いかにSF派の私でも、理屈がなくても全然オッケーなのだ。

篠田真由美「三階特別室」
 特別室に棲む(?)二人の〈異形〉の正体(来歴)がいまいち分からない。これでは、読み終わって読後感が膨張しない。え、SFじゃないって? それはよく判っているんだけど。

奥田哲也「鳥の囁く夜」
 短編小説というにはしまりが悪い。女みたいな書き方。しかし当然ながら大原、竹河には全然及ばないのである。もっとダイエットに努めてもらいたい。
 それなりに雰囲気はあるのだが、どうも行き着く先を定めず書き出したのではないだろうかと思われる。順番に出てくる異形風景はそこそこなのに、一本貫くものがない。行き当たりばったりの感強い。

五代ゆう「To・o・ru」
 この手のタイプの話は、好みではない。

山田正紀「逃げようとして」
 占い師にもらった逃走用の地図は、実はホテルの壁紙の模様だった。男は壁紙の模様の迷路の中へと逃げ去る。この因果関係に曖昧なところは毫もない。キッチリ辻褄があっている。したがって私にとっては紛れもないSFだ。

恩田陸「深夜の食欲」
 短さ(省略)が鋭い切れ味を保証している。男らしくて(?)好い。

森真沙子「チェンジング・パートナー」
 本篇も奥田作品と同じ印象。メリハリの付け方が弱い。
 モチーフはかなりSF寄りの異形風景で、それはなかなかよい。のだが……。しかし有り体に言ってSF同人誌に載っていそうな話なのだ。良くも悪くも。

京極夏彦「厭な扉」
 キッチリ書き込んだ本格的な小説。37頁あるが、一片の贅肉もない筋肉質な作品である。
 半村良の伝説シリーズに近いモチーフで、報酬には必ず代償がともなうという結末に特に近似性を感ずる。

田中啓文「新鮮なニグ・ジュギペ・グアのソテー。キウイソース掛け」
 アイデアが秀逸。私は勝手にクトゥルーものとして読んだ。異形描写、作品のプロポーション、文体すべてに過不足がなくうまい。脱帽。

難波弘之「ヴァレンタイン・ミュージック」
 野田昌弘のテレワークもののミュージシャン・バージョン。終わり。このメンツで10篇ほど並んだらそれはそれで評価するかも。

田中文雄「冬の織姫」
 良くも悪くも古い。こういうのを1冊分も読まされたらたまらないが、アンソロジーのピースとしてならそれなりに価値がある。

倉阪鬼一郎「雪夫人」
 これはホラーだと思った。当たり前か。わずか12頁なのに、長篇1冊分の読後感が私の裡に充満した。本集中随一の真正ホラー小説。

飯野文彦「一目惚れ」
 ゴーストストーリーか? しかしこれはファンタジーであろう。ホラーとは少し違うと感じた。好い。

斎藤肇「シンデレラのチーズ」
 年に一度、扉を開けると、そこは中世日本的な世界。純然たる異世界ファンタジー。視覚的だが、アニメ的ともいえる。目論見はよく判る。

本間祐「うらホテル」
 こちらもファンタジーだが、噎せ返るようなムードだけが屹立する。幻想小説と呼ぶべきか?
 私にはファンタジーの下位概念の語彙がないのだ。勉強せねば。

北野勇作「螺旋階段」
 眉村風内宇宙小説といえるか。中央にぽっかりと穴の開いた螺旋階段のイメージがよい。どうせなら異形の〈エレベーター〉を実際に見せて欲しかった。

竹河聖「貴賓室の夫人」
 異形の〈貴婦人〉の正体(来歴)が明らかでない分、読後感がふくらまない。つまり異形性が立ち上がってこないのである。

津原泰水「水牛群」
 迫真の内宇宙小説。主人公の「発症」の原因が切実に描かれているので、内宇宙と外宇宙が垣根を取り外されて融合していく展開に違和感を感じさせない。何といっても水牛のイメージが素晴らしい。

菊地秀行「指ごこち」
 うまい。〈家なき童〉伝説とゴーストストーリーをマッサージ師の女性という特異な狂言まわしを配して合わせ技にした巧篇。人間の〈業〉に想いが向かう哀切なファンタジー。

井上雅彦「チェック・アウト」
 趣向にとんだあとがき。アンソロジストとしての決意が力強く宣される。

 それにしても〈異形〉のキイワードのもと、SF、ファンタジー、ホラー、幻想など多様なジャンルから偏ることなく作品を収集していて、その間口の広さに、改めて監修者のアンソロジストとしてのセンスを感じないではいられない。

6

ロバート・エイクマン
『奥の部屋』
今本渉訳(国書刊行会)

 「学友」、「髪を束ねて」、「待合室」、「恍惚」、「奥の部屋」を収録。
 作品に出来不出来はない。そういう作風ではないのだ。

 訳者あとがきによれば、著者は自作を「ストレインジ・ストーリー(テイル)」と呼ぶことを好んだという。
 この「ストレインジ」に、訳者は「あやしげな」という訳語を提案している。

 確かに怪奇小説という語は、そぐわないような気がする(もちろん私の〈怪奇小説〉観は歪んでいるのだが)。そんなに怖いわけでもないから、恐怖小説でもない。
 描かれるのは、怪奇でもなく恐怖でもない、ある「あやしげな」気分なのだ。

 そう思って改めて振り返ってみれば、ここに集められた異形はどれも曖昧模糊としていることに思い至る。
 変な言い方だが、〈確固とした〉超自然現象ではない。
 物語の話者、もしくは視者としての主人公の妄想というか、想像の産物である可能性が否定できないような書き方なのだ。むしろわが国の純文学の筆法に近いかも知れない。

 読んでいて、引き込まれるように面白いわけではない。むしろ冗長である。
 しかし続けて読んでいると、いつの間にか、この本の波長に同期してしまっている自分を発見する。
 そしてそれはなかなか心地よいものである。


小森健太朗
『マヤ終末予言〈夢見〉の密室』
(ノン・ノベルス)

 当初、初期荒巻風の伝奇ミステリかと思っていたのだが、予想と違って、前世とか神秘体験とか宗教的コミューンとか、どちらかというと田中光二にちかい分野の話であった。

 前世がマヤ人だったという連中が、小さな宗教コミューンを作っているのだが、前半から中盤にかけて、そういう世界が描かれ、それに付随してライヒやカスタネダなど精神世界的知識が披瀝されて、ぐんぐん引き込まれる。

 すなわち情報小説の側面が強く、ただしその情報も非常に極端な分野なので、こういう分野に興味がある読者には堪らないが、興味のない場合は退屈なのではなかろうか。もちろん私は楽しめたが。

 そういう意味では、いったん頁を繰り始めれば、あとは受動的に至れり尽くせりのサービスが受けられる類の、いわゆるベストセラー小説というか、ノンストップ小説ではなく、むしろ読者が主体的に読んでいかなければ面白くならない、いわば読者を選ぶタイプの小説である。
 つまりSFを読むのと同じ読書態度が要求されると言える。

 謎解きは最後にさらりと述べられる程度。SFではないが、神秘体験を取り扱う態度は「科学的に肯定的」で、私の用語で「奇なるを怪しむ」ところの〈怪奇小説〉の範疇に入るものである。

 惜しむらくは、探偵役の描き方がいまいちぶっきらぼうで、共感できない。ぐいと食い込んでくるような鋭い角度がないのが惜しいが、これも作者の持ち味だろう。


朝松健・編
『秘神』
(アスペクトノベルズ)

 〈書下ろしクトゥルー・ジャパネスク・アンソロジー〉ということで、日本人作家が千葉の架空の土地「海底郡夜刀浦市」を共通の舞台にクトゥルー小説を競作している。

飯野文彦「襲名」
 江戸落語中興の祖、三遊亭圓朝は、実は夜刀浦の出身であった。2代目襲名の話もあった私(烏亭閣馬)も同郷だった。私の最後の一世一代の熱演の間に、私はどんどん異形のなにかに変身していく。トップバッターに相応しいキリリとまとまった一篇。

朝松健「夜刀浦領異聞
 内容を論ずる以前に、〈小説〉の作りが迂闊でしらける。
 たとえば発端で須佐美城主なる者が敗戦し捕らえられるのだが、自分を敗った敵が誰であるのか知らなかったという設定になっている。そんな戦があるだろうか? 不自然ではないか。
 小説世界が練れてないというか、客観的なパースペクティヴに対する配慮が全くなされてないのである。

 この作家は、他の著書においてもしばしばそうなのであるが、あとがきは、大体書き上げた自作が傑作であると自慢話なのだ。そのようなことが臆面もなく出来るのは、思うに入れ込んで書き上げて(それはむろん作家として必須であるが)、而して後、客観的に冷静に見直すという(これまた作家として必須の)作業がなおざりにされているのではあるまいか。

 ともあれバタ臭いのはそこそこ読める作家なのだ。時代物は向いてないのではないか、というのが言い過ぎならば、著者は未だ時代物の筆法を会得していないのだ。

図子慧「ウツボ」
 タイトルで異形の実体はすぐと知れるし、その異形自体がありふれた観念で異形性に乏しい。しかし「読ませる」ということでは本書中随一の筆力だ。もって生まれたストーリーテラーなのだろう。たぶん他愛もない市井物を書かせてもグイグイ読ませてしまうに違いない。
 大原まり子や竹河聖らと同じ資質といえるか。

井上雅彦「碧の血」
 本書中では一番私好み。むせ返るように濃密な絢爛たる小説世界はまさに井上ワールドという以外にない。

立原透耶「はざかい」
 面白いのだが、作りが安易なのでしばしば興ざめする。
 たとえば、主人公の少女を友人が体を張って逃がすのだが、そのとき「後ろを見ずに急げ」と言って逃がすのである。ところが、その舌の根が乾かないうちに、主人公の少女の携帯に電話をかけてくるのだ(これも状況的に不可解だが)。これでは誰だって振り向いてしまうだろう。

 またガソリンが切れかけて乗り捨てた車なのに、それに乗って(給油されたという記述もなしに)走り回ったりされては、朝松作品と同じで客観性に対する配慮が全く不十分。著者は執筆時のテンションが平常に戻るまで、この作品を寝かせておくべきだったのではないだろうか。惜しい。

 井上雅彦作品も矛盾がある。しかし別に気にならない。それが気にならないのは、読者をして矛盾を矛盾と思わせない自立した小説世界(の論理)をきっちり構築し得ているからに他ならない。


原■〔僚−人偏〕
『天使たちの探偵』
(ハヤカワ文庫)

 「少年の見た男」>小学5年生が探偵にある依頼をする。
 「子供を失った男」>依頼人の6才になる娘の死が別の事件を引き寄せる。
 「二四〇号室の男」>女子高校生が義父の素行調査をはじめる。
 「イニシアルTMUの男」>16才の少女歌手がマンションから飛び降り自殺をする。
 「歩道橋の男」>18才の孫は凶悪な少年犯罪者だったが……。
 「選ばれる男」>15才の息子を捜して欲しいという電話からその事件は始まる。

 ハードボイルドの申し子の手になる正統ハードボイルド小説集。
 ハードボイルド小説という〈倫理〉を契機として成立する物語には、やはり〈未成年〉という「純真さ」を表象するコードは不可欠の要素なのだろう。稲見一良は動物を上手に使うが、本書の著者は子供を使って読み手をはめてしまう。

 年齢を重ねれば重ねるほど気づかざるを得ないのだが、、私たちの周囲には、我々の手ではどうしようもない理不尽、不条理がいくらでもころがっている。そして我々の手に余るそれらに対して、殆どの場合、私たちはなすすべもなく手をこまねくか、あるいは絡め取られてしまうばかりである(親方日の丸、長いものには巻かれろ)。

 ところが、小説の中の探偵は、生身の人間でありながらあたかもスーパーマンのように、断固としてそのような理不尽、不条理に立ち向かい、よもや籠絡されることはない。
 取り上げられる事件がリアルなものであればあるほど、探偵の姿はどんどん夢になりファンタジーになり人間から離れていく。その落差がカタルシスを読者にもたらすのである。

 これが長篇になると微妙なズレが生じてくる。リアルであるとはいえ小説である。800枚、1000枚という長丁場の間には、リアリズムという衣装が綻びて、衣装の下の作り物が透けて見えてくることが起こるのは致し方なかろう。
 けれども、そうするとリアリズムとファンタジー(小説世界と探偵)の按配が、その精妙な配置が崩れてしまう。著者の長篇(『そして夜は甦る』、『私が殺した少女』)も例外ではない。

 だが、本書の諸篇は(大体100枚程度であろうか)長くもなく短くもなく、そのバランスが丁度よい按配で、私は読中、何の違和感も引っかかりもなく、物語に浸ることができた。
 どうも本書の諸篇くらいの長さが、ハードボイルドを十全に成立させる絶妙のボリュームであるのかも知れない。


清水義範
『緑の侵略者』
(ソノラマ文庫)

 著者には、やはりソノラマ文庫に〈伝説〉シリーズという宇宙SFの傑作ジュヴィナイルがある。私のお気に入りなのであるが、本書も期待にたがわぬ出来映えで、たのしめた。
 夏休みという非日常時間、帰省という非日常空間、そこで知った淡い恋情、新しい友情、頼りになる兄のような人物(モノンクル)等々、これでもかと少年小説のコードがつぎ込まれて、第1世代が築き上げた日本ジュヴィナイルのよき伝統を受け継いでいる。
 『緑魔の町』や『ねじれた町』にもひけを取らない、良質の地球侵略テーマのジュヴィナイルSF。


掲載 1999年10月21日