1999年 ●下半期
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7月 ●半村良 2020年、東京は多民族が入り乱れる雑居都市と化している。富裕な日本人はそれを嫌い、東北に自治区(ファウンデーション)を確立、外からの流入を拒否して一種金持ちのユートピアを築いていた。この時代、家畜は防衛変異により人間にとって毒と化しており、東北自治区は人工食品技術を独占することで、鎖国政策を維持していた……。 ――非常にスペキュレイティヴなシチュエーションながら、実際は乾ききってパサパサでモロモロ。かつての輝ける半村良はどこへ行ってしまったのだろうか。飛雲城伝説、虚空王の秘宝、本書と3回連続でハズれた。次ハズれたら、もう読まんぞ。 ●北杜夫 著者の母、斎藤輝子への追想をモチーフにした短篇集。 つづく「茶がら」から「死にたまう父」、「羽田の蝙蝠」、「海彼への憧れ」になると、〈小説〉というより、〈随筆〉の趣が強くなる。殆どマンボウものと言ってもよいような手触り。これは残念に思った。 ところが、さらに読み進めて、「天衣無縫」、巻末の「ついの宿り」の二篇に至ると、マンボウ調はマンボウ調ながら、輝子の最晩年が描かれているので、色調が次第に暗くなって一種深い感動がある。 かくのごとく個々の作品を読んでいる時はスタイルの不揃いがどうも引っかかったのだけれど、読了後の目で振り返ってみると──結果的に、一冊の書物として一個の文学作品として、始まり終わっていることに気づく。さすがだと思った。やはり天性の小説家なのである。 ●六道慧 神話の地・出雲で水晶の髑髏が発掘された。ところがその髑髏の正体は〈飢神〉というもので、奇魂(くしだま)を駆使して人間を操り始める。 伝奇SF的設定がなかなか面白く、一気に読み継いだのだが、最終章の活劇場面で躓く。 ●六道慧 このような種類の小説は、現在進行形で読み、さっさと忘れていかないといけないのだろうか。 (1)で出てきた飢神、奇魂、幸魂などという、おそらくはキイワードであろうとこっちが(勝手にだが)みなしていた言葉は、(2)では全く出てこない。 かくのごとくに初期設定が曖昧では、どうしようもない。 ジュヴィナイルだから許されると考えているのだろうか。 (1)で活劇シーンの下手さを述べたが、(2)では更に活劇シーンが割合を増していて、わたしは不覚にも3度も読みながら眠ってしまった。 ●光瀬龍 ある時期、光瀬龍といえば、それはもう私にとって、神様のような存在だった。 嘘のような話だが、当時は〈光瀬〉という文字を目にするだけで――「光の瀬」という文字面からの連想だろうか――何やら闇黒の宇宙空間に輝き浮かぶ銀河面の光の集合が、幻像のように膨れ上がってきて、読む前からくらくらとめまいがしたものである。いや、ほんと。 そういえば授業中退屈すると、大学ノートの余白に光瀬龍、光瀬龍、光瀬龍と、まるで写経よろしく、その三文字を書き連ねていた。いまでも鮮明に覚えている。 いつしか、そんな熱狂の黄金時代も過ぎ去り、新刊が出たと聞いても、書店に走ることもなくなってしまったが……。 訃報に接し、追善に何か一冊読み返そうと思った。 ――何にしようか? 光瀬龍の最盛期は、実のところ、ごく短い。 ――やはり、『たそがれに還る』だな。 二大傑作のうち、『百億の昼と千億の夜』は、これまでに何度か読み返している。一方、『たそがれ……』の方は、白状すれば、まだ一度も読み返したことがなかったのだ。 初読は丁度28年前、1971年7月17日。 再読し、私は28年前と同様、圧倒的なセンス・オブ・ワンダーに撃たれた。ラストの感動はいささかも減じていなかった。 * * * 辺境星域では、宇宙船の原因不明の消失事件が、最近頻発していた。 814便が木星軌道に近づいた時、シロウズは調査局局長より緊急連絡を受けた。 〈暁の虹4〉は金星に近づいた。金星は相変わらず音信不通である。 (2) 気がつくと、そこはエレクトラ・バーグの空港だった。エレクトラ・バーグに異変は起こっていなかった。 ヒロ18は、過去に似た経験があるらしい。 その後、冥王星の氷層の下から、1200万年前の他天体の宇宙船が発見された。 シベリアでは、ツングースカにおけるあの謎の大爆発の原因が突きとめられた。 地球焼亡。 三千隻からなる輸送船団が次々出発していく。 シロウズもこの〈極光作戦〉に参加していた。 シロウズのもとに二つの報告が入った。 長さ12万キロメートル、幅1万キロメートル、8千個の受信面をもった長大なエネルギー探知装置(レーダー)の建設は最終段階に達した。今まさに作動が開始されようとしていた…… そのとき――太陽系60億の人々は天の一角、青の魚座の方向に突如長大な光の帯が出現し、速やかに薄れていくのを目撃した。 もはや手遅れかも知れなかったが、ソウレはなお別な方法を考えなければならなかった。(第十一章 三七八五年)
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今回読み返して、意外にも、私は本書にヴァン・ヴォークトの影を強く感じた。 ここで気がつくのは、ヴォークトも光瀬龍も、いずれも書くものは近代科学合理主義に端を発するSFの、なかんずく壮大なスペース・オペラでありながら、その魅力の源泉は、〈科学〉の論理だけではなく、むしろ〈詩〉の論理もしくは〈神話〉の論理(すなわち野生の思考)によっても担われていることである。 (3)は、中篇「アンドロメダ・シティ」と全く同じ論理構造である。 このような思考は科学の論理に慣れた理系ハードSF読者には理解しがたい論理(あるいは非論理)かも知れない(初読時に私が感じた難渋感もこの事実に由来するに違いない)。 他方、時を隔てて発見された謎の落下物を座標にプロットしてみると、その軌跡の地表にぶつかる点が、実にツングースカの爆発地点であるという記述があって、初読時、私はここに強くセンス・オブ・ワンダーを感じたのだが、このセンス・オブ・ワンダーは、(3)の詩的・神話的センス・オブ・ワンダーとは違って、いわば科学的・合理的な論理から導かれる、通常の、というかSF本来のセンス・オブ・ワンダーである。 かくのごとく本書の近代的・合理的なサイエンス・フィクションの衣装の下には、近代以前より連綿たる〈野生の思考〉が隠れている。 かかる相反する二つの思考が、互いを打ち消し合うのでなく、むしろ互いを顕彰し合うとき、あの爆発的な感動の磁気嵐が発生する。あたかも物質と反物質が接触して、膨大なエネルギーに転化するように。…… 本書は、圧倒的な初期光瀬SFの中でも、とりわけ〈神話の論理〉が十全に機能した壮大にして幽玄極まるスペースオペラであり、全開の〈光瀬節〉とも相俟って、疑いなく著者最高水準の傑作である。 享年71歳。 「今、私の考えていることは、一億年ぐらい生きたいということです。一つの物語を書き上げたあとに思うことはいつもそれなのです」(『百億の……』日本SFシリーズ版、あとがき) 確かに、悠久の時の無常を描き続けた著者であれば、71年という歳月は、いかにも短すぎるかも知れぬ。 「人々は七十年の生涯のあるとき、ふと星々を見てその遠きを思う。永劫の中の七十年が、いったい何を意味するのか。」(『たそがれ……』日本SFシリーズ版、113頁) とはいえ、光瀬はその七十年の生涯のうちに、少なくとも本書『たそがれに還る』と第二長篇『百億の昼と千億の夜』、そして宇宙年代記に連なる珠玉の短篇群を遺したのである。充分ではないか。 これらの輝ける名作群が、永遠に読まれつづけることは間違いなく、かかる諸作と共にあって、光瀬龍の名前も永久に滅びないだろう。 ――1億年の未来。滅びて久しい都市の歩廊に打ち捨てられた磁気カード。異星からの訪問者が拾い、まだ生きているコンピュータに挿入すると、ディスプレイに〈光瀬龍/たそがれに還る〉の文字が浮かび上がる……そんな光景を私は夢想する。 合掌。 |
●井上雅彦監修 〈時間怪談〉という切り口は、確かに面白い。小生もSFとホラーの異同を意識しながら読んだ。 西澤保彦「家の中」 山下定「石女の母」 早見裕司「後生車」 小中千昭「0.03フレームの女」 村田基「ベンチ」 五代ゆう「雨の聲」 中井紀夫「歓楽街」 牧野修「おもひで女」 梶尾真治「時縛の人」 ●マイク・レズニック SFはオムニバスにつきる――というのが、小生の基本的認識である。 本書は、かかる管見を例証してくれる優れたオムニバス小説集である。 さて、本書を読むのは、一種痛ましさにつきまとわれて、なかなかつらいものがあった。 「だが、わたしはときどき考えずにはいられない。たとえそれがキリンヤガのようなユートピアであっても、もっとも有能で聡明な若者たちが追放され、ロートスの実を食べて安穏としている者だけが残るような社会には、いったいどのような未来が待っているのだろうかと。」(「ロートスと槍」、313頁) まことにコリバのこの言葉は、組織とその構成員との、永遠の行き違いを要約している。 そもそも〈現実〉は、無限の〈現在〉の積み重ねに他ならず、〈現在〉と言い変えてもよい。その相は本質的に流動的である。常に移り変わっていくものであり、留まることがない。 コリバがユートピアと信ずる〈社会理念〉(キクユ族原理主義)も例外ではない。それは移りゆく〈現実/現在〉の、ある時間の、ある場所を、切り取ってきた現実の固定化された形骸に過ぎぬ。 ところで、〈制度〉とは実在化した理念であり、当然〈現実/現在〉より後方にある。それゆえ〈制度〉は、必ず〈現実/現在〉を規制する(引きつけようとする)方向に作用する。 ――そんなことは、最初からわかっている。 それ故にこそ、組織と個人を媒介する中間管理職の悩みは深いのである。 ●滝雄一 本書は懐かしい戦争冒険小説。当節流行の願望充足的シミュレーション小説ではない。 欧州戦末期、ミクロネシアのドイツ潜水艦基地から1隻のUボートが5人の日本人と金塊、そして梱包された秘密兵器を乗せて出発した。彼らはヒムラーSS長官のもとへ、物資と共に一人の老人を送り届ける密命を帯びていた…… (1) オカルト集団としてのナチスに照準を合わした視点は、戦争冒険小説としてはなかなかユニークだ。が、いかんせん書き込み不足。老人が狂言まわしにしかなってない。小説世界を形成するほどではない。 (2) 一方原爆の方は破れかぶれのナチスがベルリンで使用しようとするというトンでもない展開になっていくのだが、これも書き込みが中途半端。手に汗握るところまではいかない。 (3) 日本陸軍大佐とSS親衛隊員と日本人女性の3角関係もあり、盛り沢山は盛り沢山なのだが、結果的に散漫に流れた。欲張りすぎたかも。 全体にもう一段の整理、捨てるところは捨て、膨らませるところは膨らませるという編集者との共同作業が必要だったのではないだろうか。 個性を尊重するのも大事だろうが、逆にいえば編集者の怠慢ともいえる。 ●デズモンド・バグリイ 翻訳であるにもかかわらず、読みやすいのに驚いた。 ハイジャックされた飛行機が不時着したのは、峻険なアンデス山中だった。不時着の際、犯人は死亡。生き残ったパイロットと乗客の10名は、救助を求めて山を下りはじめるが、謎の一団に襲撃される…… 本書には国際謀略、ヘビーデューティ、チームワーク、ブリコラージュ等、冒険小説のエッセンスがすべて入っている。 さらに登場人物の設定がよくできている。 読後感が実に心地よい。 ●鯨統一郎 現代を舞台にした誘拐ものだが、現実感がきわめて希薄である。大体、誘拐から解放されて父親と電話で対面した4歳の息子が、開口一番言う言葉が、「パパ、3ひく1がわかったよ」であろうか。 まるで夢のなかの出来事のような話で、ミステリーとしてリアリティがないのは致命的だと思うのだが、実は本書に限ってはそうでもない。 その証拠に、「邪馬台国はどこですか」は、表題作だけ立ち読みしたのだが、古田武彦や安本美典から借りてきた全くオリジナリティのない、結論的にも新味のない話で、その安易な姿勢に怒りさえ覚えたものだった。どうもミステリーとは全然体質が違う人のように思われる。 |
●J・ロラン他 本書は、19世紀フランスという枠の中で、純然たる(狭義の)幻想小説からホラーやファンタジーさらにはSFまで、〈幻想〉の範囲を目一杯広く取って、バラエティ豊かに作品を渉猟しており、さながら19C仏版異形コレクションといっても過言ではない。 異形コレクションと書いたが、確かに本書収録作品の殆どが、「今」であったらホラーとして認識されてしまうに違いあるまい。 それでは、〈(狭義)幻想小説〉と、〈ホラー〉あるいは〈ファンタジー〉は、どこがどう違うのだろうか。 もちろん私自身は、個々の作品に対して、これはホラー、これは幻想小説、という具合に、感覚ではっきりと区別して認識できる。 そもそもジャンル小説とは、因子論的にいえば、その作品がジャンル小説である限り、それを著した個々の作家の個性(独自特性)を超えた(あるいは個性以前に)、すべてのジャンル小説が何ほどか備えている諸「共通特性」に着目したくくりである。 それゆえにこそジャンル小説であるわけなのだが、けれどもジャンル小説の愛読者はその読書史(個人史)において、次第々々に、かかる共通特性の中から、特に自らの内部と感応、照応する、いわば「琴線に触れる」特性があることを無意識裡に知るようになり、やがて読書はかかる「琴線的特性」の探索という性格を帯びて来ざるを得ない。 これを言い換えるなら、ジャンル小説の契機である諸「共通特性」の、その序列に個人的バイアスがかかるというに等しい。 定義論の不毛は、かかる因子論的分析をなおざりにして、クレッチマーよろしく外観的な類型論のみに頼るところにあるわけだが、それはまた別の話。 要するに、ジャンル小説は、複数の共通する特性をベースに或るぼんやりした塊(クラスター)を形成するが、どの特性に重点を置いて把握するかによって、ジャンル(クラスター)の境界は、微妙に揺れ動く。 という当たり前の結論に至る過程を、なぜ長々と書いたかというと、それは以下に述べる(かなり強引に決めつけた)ジャンル区別に対する反論をあらかじめ封じるために他ならないのだった(笑)。 というわけで、本書の各収録作品に沿いつつ、私が個人的「感覚」としてもっているジャンル把握を、整理を兼ねて記述してみよう。
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管見では、〈ホラー〉とは、超自然的現象に由来する恐怖を読者に喚起する小説である。 即ち「世界内存在としての超自然」というのが、〈ホラー〉における超自然現象の存在形態であると措定できるかも知れない。 しかもなお、キングやクーンツに代表されるモダンホラーにおいて殊に顕著であるが、かかる超自然に対峙する登場人物の〔態度/精神〕は、(少なくとも最初は)常識的(=小市民的)であることが必須である。小市民(常識人)がこの世界に出現した超自然現象に巻き込まれ、対峙しなければならないところから、モダンホラーの恐怖は醸成されるのだ。私はそう考えている。 〈ファンタジー〉の場合は「異世界」がキイワードになる。 これに対して〈幻想小説〉は、〈ホラー〉のように「世界内存在」としてこの世界に登場する「異形」ではなく、また〈ファンタジー〉のようにこの世界とは完全に切り離されて存在する「異世界」でもなく、むしろ「この世界」にべったりと貼り付くように現れてくる〈異界〉である。 そして多くの場合、その接点は主人公においてである。というより主人公を介して、〈異界〉と「この世界」は繋がっている。 もともと「この世界」の辺縁に座標を持つ主人公が、必然的に覚える「この世界」との違和感、不適応感が、ある一線を越えてしまったとき、言い換えれば主人公の、無意識にであれ、「この世の外」を希求する度合いが、ある水準に達したとき、まさにその時この世の外なるもの即ち〈異界〉が、彼の前に姿をあらわすのである。 〈異形〉は頼まれなくとも向こうからやってくるが、〈異界〉は、主人公の内面が呼び込むのだ。 (狭義の)〈幻想小説〉とは、したがって〈異界〉との交通を描く小説なのであって、それゆえ、屡々主人公は向こうの世界へ行ってしまい、還ってこない(実際にも、心理的にも)ということになる。小市民的主人公が契機の〈ホラー〉との最大の相違点であろう。
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個々の作品に移る。 エルクマン=シャトリアン「謎のスケッチ」 サミュエル=H・ベルトゥー「古代の指輪」 アベル・ユゴ−「死の刻限」 ペトリュス・ボレル「胸騒ぎ」 アロイジュス・ブロック「幽霊」 アルチュ−ル・ゴビノ−「高名な魔術使」 シャルル・ラヴ−「トビアス・グヮルネリウス」 エミ−ル・ス−ヴェストル「コモ−ル伯」 フィラレ−ト・シャ−ル「目蓋のない眼」 エジェジップ・モロ−「白い廿日鼠」 ジャン・ロラン「マンドラゴラ」 カチュ−ル・マンデス「贋の鳥」 フランソワ・コペ「死者たちの対話」 グザヴィエ・フォルヌレ「夢」 シャルル・クロ「未来の新聞」/「恋に狂って死んだ小石」 J−H・ロニ兄「クシペユ」 ●明石散人 傑作。こんな傑作を見逃していたとは不覚であった。 いや面白い。机上のSFという言葉が浮かんできた(>意味不明)。 ●飛鳥昭雄・三神たける 鳥玄坊読解のための参考書になるかと思って読む。面白いアイデアが頻出し、出だしは引き込まれるのだが、どちらも途中で推進力を失う。飽きてくるのだ。新書一冊分を支える内容ではないのだろう。せいぜい雑誌の特集分のボリュームが丁度くらいか。 ●明石散人 鳥玄坊シリーズ第2巻。前回、ムー的サイエンスで書かれたユーベルシュタインの趣と形容したが、今回は初期荒巻の伝奇ミステリも入っているかも知れない。そのかわり横田順彌っぽい雰囲気はなくなった。 ムーブックスと素材は同じなのに、こちらは面白い。なぜか? 結局、向こうは素材が事実だと叫ぶだけ、単調で芸がないのに対して、こちらは素材を駆使して芸を見せる。別の世界を開示する。 ●明石散人 シリーズ最終巻。 |
●西崎憲編 多義的な解釈を許容する、截然とは割り切れない小説が集められていて、まさに〈小説の愉しみ〉を存分に味わえる贅沢きわまりないアンソロジーである。堪能した。 チャールズ・ディケンズ「殺人大将」 L・P・ハートリー「コティヨン」 D・H・ロレンス「最後の笑い」 ダンセイニ卿「スフィンクスの館」 ナイジェル・ニール「写真」 V・S・プリチェット「ドン・ファンの生涯における一挿話」 アンガス・ウィルスン「ママが救けに」 M・P・シール「ユグナンの妻」 A・キラ−クーチ「世界河」 アンナ・カヴァン「輝く草地」 ●鯨統一郎 先々回、同じ著者の『隕石誘拐』を取り上げ、(ミステリとして書かれた作品ながら)その幻想的な作風から「ミステリとは体質が違う人のように思われる」と感想を述べた。 しかし、僅かに短篇一本読んだだけで決めつけるというのも、何だか木を見て森を論ずるに等しい無謀かも知れない。そう思い直した。 ――面白くて、一日で読了してしまった(笑)。 もとよりエンターテインメントである。面白ければそれでいいのだ。 すなわち一応小説の体裁を取っているが、実質はム−的な風変わりな歴史解釈の開陳が主眼であり、それが私には目新しくて面白かったのだと思われる。 理由は簡単で、貧生の知識に「分野的偏り」があるからに他ならない。 それに対して、「奇蹟はどのようになされたのですか?」は、当方の知識が不足しているので、逆に穴が見えず素直に納得させられてしまうことになる。殊にこの話は、小森健太朗『神の子の密室』やムアコック『この人を見よ』と同趣向なので、作者の創作動機がそれぞれに違っているのが読みとれて興味深かった。 創作意識の問題を別にしても、読者の知識の多寡によって作品の面白さが左右されるというのは、本格ミステリとしては問題だろう。 むろんミステリは裾野が広く、西村京太郎作品がミステリであるのと同様、本書もミステリであって何ら差し支えないし、西村作品が面白いのと同様、本書もまた違うレベルで面白いのである。 ●藤木稟 満州事変以降、軍部の力が日に日に強くなってきて世相にも暗雲が垂れ込め始めた昭和9年、東京は浅草・吉原が主な舞台である。 筆法は、京極夏彦に相当影響を受けていると思われる。が、もちろん二番煎じなどではなく、むしろ小説世界自体は(黄金仮面や魔術師の)乱歩を意識しているように思われた。 前月からの流れで、ジャンル性を過剰に意識してしまうのだが、本書ほどの長篇ともなると、当然だが、短篇のようなわけにはいかない。いろんなジャンルの諸特性因子が錯綜的に重合して作品世界が形成されているわけである。類型論的ジャンル論が不毛な所以だ。 本書は、出だしは怪奇小説。それから次第に幻想小説へと傾いていく、というか幻想小説としての特性が割合を増していく。 解決編でミステリに着地するが、ミステリとしては偶然や予断が多すぎて、いささか弱い。 ●金聖昊 著者の方法論は『三国史記』の初期記録を恣意的に改変せず、独自の「統計的地名考」に基づいて動態的に捉えることで事実の復原をはかろうとするものである。 半島における沸流百済の復原過程は、非常に面白い。もちろん『三国史記』初期記録の記述を信用するという前提条件を認めなければならないが。 もちろん本書は本格ミステリではないので、これでオッケー。疑似古代史論として十分楽しめた。 ●綾辻行人 本来このヘテロ読誌は、特定のしかもごく少数の読者を対象に頒布されてきたものである。 ――ということで、以下、犯人に対する言及がありますので、未読の方はご注意下さい。 嵐の山荘テーマ。「そして誰もいなくなった」に則ってストーリーは進行する。内部者の中に真犯人はいるのか? それとも外部者の犯行か? 今回のパーティに参加しなかった○○が通称を問われて「×××です」と答えたとき、私は少し不審を感じただけだった。 次のページの、6人全員が死亡という新聞の記事で、私は椅子から転げ落ちた。 閉鎖空間が破れることに関しては、小説内でもその可能性が屡々言及されており、その辺は別にアンフェアとは思わなかった。しかしながら、×××の一人称で別の学生の死体発見が語られていて、ここは「アンフェアすれすれ」(著者のことば)どころか、堂々たるアンフェアじゃないかと小生思った次第である。完璧に翻弄されてしまってちょっと悔しいので、付記しておく(笑)。 小生はもともとミステリの血が薄いので(求めているカタルシスの質が違うので)、十中八九は謎解明の段階でがっかりする。『霧越邸』はその点、謎解明の後に更なるパースペクティヴが開示されるので気に入ったのだが、本書は純然たるミステリの範囲内での謎解明であるにもかかわらず、センス・オブ・ワンダーを感じた。 たとえジャンル小説であっても、ジャンル小説として(小説としてではない)優れたものであるなら、自ずとジャンル外読者をも感服させるにたる一般性を有する証左であろう。 ●倉橋由美子 全21篇中17篇が、桂子さんという冥界と交通できる女性を主人公に据えた掌篇連作。 ところが、残りの単発掌篇が素晴らしいのである。 「蛇とイヴ」は、ミトコンドリア・イヴの話題から始まり、何と神が降臨し、国際シンポジウムで天地開闢のころのイヴの生活について講演するにいたる。(本来の?)蛇のイメ−ジが素晴らしい。山尾悠子ばりの(というのはあとさき逆か)硬質ファンタジ−。 「春の夜の夢」は、現代版六条御息所。女性は歳を経ると鬼になる。 「猫の世界」は、現代版変身譚。とみえるが、よく考えるとそうではない。だって女の子の母親が猫なのだから。判るかな? 「夢の通い路」、夢の通路を通って妻の許を訪れる妻の死んだ前夫。現代版カーナッキである現夫はいかにしてその通路を塞ぐのか? 皮肉な結末だが、この手は新しい。 全篇を通じて、著者はしかし結局〈女性〉から離れられない。そのあたりが男である小生には、物足りないと言えば物足りない。 |
●芦辺拓 本書は、ロマンの香り馥郁たる懐かしの秘境冒険小説――でありながら、且つミステリの極北を歩む本格パズラーでもあるという、大向こうを唸らせるに足るケレン味たっぷりの大傑作で、堪能した。 ――1930年代、学界を逐われた奇人学者に美人助手、客気の新聞記者らで構成された探検隊が、史上最大の秘密を解くべく、当時最新鋭の飛行船で人跡未踏の地に向かう。着いたところは太古の生物と謎の部族が跋扈する異世界で、そこへスパイと不可解な古文書が絡む……(著者あとがき) 老生、このところ感受性の硬化を如何ともし難く、よほどうまくハマらないと「冒険物語」を虚心にたのしめなくなってしまっている。 それには理由があり、つまりはこの本の知識量が非常に豊富で、多方面に亘る文献資料が渉猟され自家薬籠中の物に消化されて、完璧に小説世界の血となり肉となり得ているからなのだ。 本書ではその辺を取っ掛かりにすることで小説世界にすっと入って行けたようだ。 物語の鍵となる超古代史系のアイデアは、ちゃんと出典が明らかにされている。「邪馬台国はどこですか?」の、タネ本を取り扱う際の粗雑な態度とは対蹠的で好感が持てる。 ところで本書は秘境冒険小説の傑作と言うだけではないのである。これだけでも凄いのだが、さらにその上、本書は密室テーマ(嵐の山荘テーマ)の本格パズラーでもあるのだ。…… 密室に見立てられるのは、アララト山地底に存在したロストワールド「高天原」(!)。 どうして、そのようなことがいえるのだろうか? また、このような「死に対して開放的な」空間が、いかにして〈密室〉を構成しうるのであるか? ――以下、トリックに触れていますので、未読の方はご注意下さい。 それは即ち「屍肉喰いとしてのティラノサウルス」というアッと驚く前提(トリック)である。 屍肉喰いとしてのティラノサウルス――それがはたしてトリックとして適当かと疑問の読者もおろう。 本書においては、「屍肉を喰う」ということは「生きた獲物を捕らえない」ということを含意しているのである。 本書の「ティラノサウルス」は、リアルな(といっても、もちろん誰も現物を見たものはいないわけだが)ティラノサウルスではなく、「小説世界」内だけに存在しうる、まさにパズルのピースとしての、あるいは「記号」としての「ティラノサウルス」なのである。 読者はかかる設定を、まず受け入れなければならない。それを認められない読者は本書を読む資格なし。直ちに退場するにしくはなかろう。 ●江戸川乱歩 「大暗室の大宴会」第一回を嘉して読む。 「大暗室」――という乱歩が夢想した地下ユートピアは、実はある意味で現実化している。即ち大東京地下に張り巡らされた「大暗室」とは、いわば今日の地下鉄網と地下街ではないか! この現代に乱歩が存命であったら、実現された「大暗室」を見て、一体何というだろうか。どんな感慨を抱くのだろうか? かくいう私も地下街が大好きで、ウメダやナンバに出て来てもすぐに地下街へ降りたがるクチである。思い返してみれば、なじみの喫茶店もよく行く飲み屋も、ほとんど地下街の店ばかりだ。そんな人は多いのではないだろうか。 乱歩の描くユートピアについて、(「新宝島」の孤島にこと寄せて)「まさしく隠れ蓑願望を成就させる目的で、作家自身がその内部に身を潜め、世界から隔離される密室として用意された」とする中相作の分析(「江戸川乱歩」朱夏No.13所収)は説得力がある。それは(〈地下世界〉願望のある)わが身に照らして納得できる。 なるほど、乱歩にとっての創作とは、自ら主(あるじ)として住まうべき隠れ家(ユートピア)の建設と同義だったのである。(たとえば「観画談」の作中人物のように)紙上に創造された想像の空間に身を潜めること、それが乱歩の見果てぬ夢だったのだろう。恐らくは本書を執筆している最中も、屡々乱歩は、自らが建設した「大暗室」に君臨する自分の姿を空想したに違いない。 そういうことであれば、乱歩が地下街の彷徨なんぞで満足する筈はない――ということになるだろう。私の妄想は、それこそ見当外れも甚だしい〈妄想〉であったかも知れない。 ことにも本書『大暗室』では、地下ユートピアから潜水艦よろしく潜望鏡をにゅーと突き出し、(何たる愚弄か)帝都そのものを窃視するという、壮大な覗き見の趣向まで用意して、幻影の城主は、さながら「現実や日常に対する嫌悪の念」(中相作、前掲稿)を表明しているかのようだ。 ●井上光晴 窯元・前畑精一夫婦を焼死せしめた不審火をきっかけに、伊万里の陶工の村は(往生要集にいう)〈黒縄地獄〉と化す……。 前畑夫婦は自殺したのか、それとも他殺か? ――毎度お馴染みの奇怪な土俗的世界である。あらゆる種類の絵の具を混ぜ合わせて画布に分厚く塗りたくったような井上ワールドが本書でも展開される。 巻末の解説によると本書は75年初出。しかしながら原型は65年頃らしい。すなわち傑作「地の群れ」(被爆を描いてこれほど〈美しい〉小説を、私は他に知らない)の数年あとにあたるか。 別にこじつけようとは思わないが、本書は(著者の他の作品同様)怪奇小説である。中期の幻想小説の、バラードにも比すべき小説世界自体の圧倒的な磁力こそまだ見えないが、奇怪な、おぞましい「人間」たちが跳梁するこの小説世界は、私の裡では疑いなく怪奇小説なのである。 とはいえ、村人たちの中に〈異常者〉がいるわけではない。村人は皆、素朴ではあるが(部落的)分別を弁えた社会人である。 サイコホラーが描くのは、専ら特殊個人的な異常心理に由来する恐怖である。一人の「異常な」人間がもたらす恐怖である。 その文学的出自からして井上光晴はヒューマニズムの作家と規定されがちであり、どうも本人もそういう擬態を示すのだが、実は違うのではないかと私は疑っている。「ふつうの」人々を描写する際の、あの襲いかかるような容赦のない筆致(それはとりわけ中期の幻想小説に顕著である)に接すると、著者は人間という存在に絶望しか抱いてないのではないか、少なくとも希望は持っていないのではないか、そう思わないではいられない。 ――終盤、姉を捜し回る場面では、村のどこにも人の姿が消え、何とも知れぬ気配が行間にみなぎってきて、思わずこぶしを握りしめてしまった。そのまま内宇宙に突入するかに見えたが、そうはならず、しかし怖ろしい結末に到る。
●芦辺拓 素人探偵・森江春策には、著者自身の姿がかなり反映されているのではないだろうか? 森江春策という一個の人物に対して(ということは結局、著者の人間性に対してと言うことでもあるが)共感をおぼえた。 『地底獣国……』の大ネタに比べるとトリックがややこじんまりであった。とはいえ、確かに異地・同地名という暗号は、例えそれが偶然のものであったとしても何かしら不思議なつながりを、いわば物語を、そこに(勝手に)感じ取ってしまうものなのだろう。そのあたりに着目したのは秀逸である。 |
●藤田知浩・責任編集 『朱夏』編集部「『新青年』の国際性とアジア」 長山靖生「小栗虫太郎と不在の南洋」 藤田知浩「夢野久作と朝鮮」 中相作「江戸川乱歩」 ――本特集中、とりわけ鍵となる論文を採り上げ大意を示した。〈探偵小説〉にとって〈アジア体験〉とは何であったのか、という本特集の問いに対して、これらの論文を通して浮かび上がってくる答えは、意外にもというか予想通りというか、〈探偵小説〉の〈アジア未体験〉ということになるようだ。探偵小説家たちが「新青年」誌上に絢爛と繰りひろげた色彩豊かなアジア世界は、結局のところ〈現実〉のアジアにではなく、探偵小説家それぞれの〈脳髄内〉にこそ存在する世界だったのである。 大庭武年「小盗児市場の殺人」 ことに「小盗児市場」の魔窟の描写には惹き込まれた。とはいえ「大連の」魔窟の描写が興味深かったからではない。そういう観点からすれば、西原の評は当たっている。 突拍子もなく聞こえるかも知れないが、大庭の描写する「小盗児市場」のたたずまいには、〈ノースウェスト・スミス〉が歩いていてもおかしくない雰囲気が横溢しているように私には思われる。C・L・ムーア描くところの金星の都の裏通りを歩いていくと、この「小盗児市場」に行き当たるのではないか、そんな気さえする。 つまりこの小説世界は、一見、個別的大連の一歓楽地区を描いているように見えて、その実はどこにも存在しない〈異世界幻視〉なのであり、〈異国情緒〉という「観念」そのものを実体化したものに他ならない――そう読むべきなのだ。 その意味では、上の西原の評は的を外しているのである。大庭自身は確かに大連に住んでいたかも知れないが、彼が(自覚していたかどうかは別にして)本当に描きたかったところは〈現実の大連〉ではなく、彼の脳髄内にのみ存在する〈内なる異郷〉だったのであり、かれもまた現実に背を向ける点において、乱歩に後れをとるものではなかったのだと思われる。 ――結局、探偵小説にとってアジアは、現実のアジアではなく、〈異国情緒〉ないしは〈異世界幻視〉の表象として仮託的に表現されたものであった。ところで、実は当時の一般的日本人においても事情は同じだったのではないだろうか。内地人にとってアジアは、今日とは比較にならないほど遠いとおい世界だったのであり、ほとんど夢の国、物語の世界だったに違いないのである。少なくとも「ここより他の場所 Out of This World」だったことは疑いをいれない。 今日、我々日本人は、日常茶飯的に海外へ出掛け、大学生やOLですらアジアへお手軽に旅立っていく。そこには(旅に対する)いささかの「覚悟」も「決心」も見あたらないように思われる。済州島へ日帰りゴルフに出掛けるシャチョサンにとってアジアとはいったい何だろう? 本特集が照らし出すものは、意外に根深いことに改めて気づかされる。なかなか意欲的な特集であり、私も触発されるところ多々であった。ぜひとも更なる特集を組んでいただきたいと切に希望する。 ●上杉一紀 〈極東共和国〉という、その名称からして何やら謎めいた国家を知ったのは、多分高校で使用した歴史地図帳であったと思う。 ――緩衝国家??? ところが、上に取り上げた「朱夏」13号のブックレビューで井竿富雄という人が標記の両書を紹介していて、私は〈極東共和国〉に三たび対面することになった。 ところがそこに描かれたクラスノシチョコフ像が、面白いことに、互いにまるでかけ離れたものであるのだ。 上杉本には、ジャーナリズムの悪しき特性が端的に現れているように思われる。すなわち極端な話、羊頭狗肉なのだ。 実際、タイトル自体が既にして誇大表示である。 上杉本では、かかる誇大表示(事実歪曲)が故に、極東共和国を去ったあとのクラスノシチョーコフの描写に精彩を欠くこととなった。 その点堀江本では、クラスノシチョコフは、理想家というより、むしろ「与えられたテーマに常に全力でぶつかっていく」優秀なテクノクラートとして把握されているのである。 私は、ここに取り上げた両者の著書で、はじめてクラスノシチョコフという人物を知った者である。両書から得られた知識以外の知識を私は持ってはいない。 堀江はまた、クラスノシチョコフが優秀な行政官ではあったけれど、どんな異論も腹に呑み込んでしまうというような所謂〈親分〉の器でなかったことが彼の悲劇の一因であることを暗に語っていて、これも納得できる。シベリアの明智光秀といえようか。 近年、あまり顧みられることが少なかったロシア革命前後のシベリア・極東問題であるが(図書館にも関係図書は殆ど見当たらない)、このへんの歴史に興味がある人は必読である(>って私くらいか)。 で、今猛然と興味がわいてきたのは当時のシベリアを暴れ回ったチェコ軍である。一種の鉄道国家だったのだろうか。その活躍ぶりに、私はバーサーカーを連想してしまうのだった。故郷を遠く離れた異境の地でおそらく本国とは命令系統を切り離された状態で、一体どんな組織でどんな人物が指揮してどんな日常生活を送っていたのだろう。適当な文献をどなたか紹介してくれませんか? ●黒島伝次 ――という本があるわけではない。上の「特集・探偵小説のアジア体験」(『朱夏』13号)の責任編集者・藤田知浩氏に示唆されて、黒島伝次の〈シベリアもの〉を入手できる範囲で読んでみた。 「渦巻ける烏の群」(http://www.venus.dti.ne.jp/~yohno/hayama/index.html) 「橇」(http://www.venus.dti.ne.jp/~yohno/hayama/index.html) 「雪のシベリア」(集英社日本文学全集『葉山嘉樹/黒島伝次/伊藤永之介集』所収) 「国境」(集英社日本文学全集『葉山嘉樹/黒島伝次/伊藤永之介集』所収) ――続けて読むと、個々の欠点はあまり気にならなくなってきて、不満は些細なものに感じられてきてシベリアの大雪原だけが目の前に迫ってくるのだった。黒島伝次のシベリアもの、もっと読んでみたいと思った。上記の表題で文芸文庫あたりで出版してくれないだろうか? ●天城一 献詞 たとえば著者は(チェスタトンの)「見えざる人」は〈トリック〉ではないとする。確かによく考えれば「見えざる人」は厳密には〈トリック〉ではないことに気づいてビックリする。重要な指摘である。とはいえ「見えざる人」の種明かしも、ごく一般的には〈トリック〉とみなされているのではないだろうか。大体本人自身が第9講で、「(「見えざる人」に代表される)超純密室は奇跡的に発見された例外的なトリックだと思いこんで」いたと述べているのだ。(下線、大熊) 本書の目的について、著者は――〈トリック〉の創案など乱歩が大袈裟に悩むほどのものではなく――「密室トリックなど容易に創作できる」ということを身を持って示すことにあると言っているのだが、乱歩の「レジームの下に、トリックが探偵小説の基本ではないという自由は失われてしまっ」たと嘆く本人が喜々としてトリックを開陳しているのはどういうことだろう。 どうも著者の真意は、(どんな軋轢があったか知る由もないが)〈トリック絶対視説〉を主張する乱歩自身が〈トリック〉創案を苦手としたことに対する揶揄(「オレならいくらでも思いつくぞ」)にあったのではないかと思われる。 序説 以下の講義で著者は「実際にトリックを作り、トリックに基づいていかに展開すべきか」を具体的に示したという。あるいは「1つの密室犯罪のトリックが着想されたとき、いかにそのトリックを効果的に現実化するかを問題にします。そのためにいかなる舞台を設定するか、いかなる人物を登場させるか、いかようなプロットを選べば、一番目的にふさわしいか」そういう問題を扱ったと述べる。 私には、この文が著者自身によって要約された乱歩のテーゼ、すなわち「探偵小説の創作にあたっては、何をおいてもまずトリック[……]トリックを考案することから、そのトリックにふさわしい犯罪を囲む人間関係を生み出すべきで、その逆ではあり得ない(献詞)」というのと、同じことを言っているとしか思えないのだが。…… 第1講 抜け穴密室 作例 「星の時間の殺人」 とりわけ〈意識下密室〉とされる「超純密室」は興味深い。京極夏彦『姑獲鳥の夏』がまさにこの例だろう。本講を読んで改めて気づいたのだが、関口巽のキャラクタ設定は、ひとえにあの〈トリック〉(天城流に厳密に言えばトリックではない)を成立させる必須の条件として導入されたものであるに違いない。それゆえ以後のシリーズ作品では(元来不要のキャラクタなのであるから)、関口という存在を作者が持て余している印象が強いのも納得できるのである。 終講 むすび |
●掲載 1999年10月21日(7月−9月)、11月2日(10月)、12月3日(11月)、2000年1月2日(12月)