ヘテロ読誌
大熊宏俊

1999年 下半期

7月

半村良
『寒河江伝説』
(ジョイ・ノベルス)

 2020年、東京は多民族が入り乱れる雑居都市と化している。富裕な日本人はそれを嫌い、東北に自治区(ファウンデーション)を確立、外からの流入を拒否して一種金持ちのユートピアを築いていた。この時代、家畜は防衛変異により人間にとって毒と化しており、東北自治区は人工食品技術を独占することで、鎖国政策を維持していた……。

 ――非常にスペキュレイティヴなシチュエーションながら、実際は乾ききってパサパサでモロモロ。かつての輝ける半村良はどこへ行ってしまったのだろうか。飛雲城伝説、虚空王の秘宝、本書と3回連続でハズれた。次ハズれたら、もう読まんぞ。


北杜夫
『母の影』
(新潮文庫)

 著者の母、斎藤輝子への追想をモチーフにした短篇集。
 巻頭の「神河内」から「根津山」、「夜光虫」までは、初期の『幽霊』に通底する暗い叙情性に富んだ瑞々しい〈私小説〉。

 つづく「茶がら」から「死にたまう父」、「羽田の蝙蝠」、「海彼への憧れ」になると、〈小説〉というより、〈随筆〉の趣が強くなる。殆どマンボウものと言ってもよいような手触り。これは残念に思った。

 ところが、さらに読み進めて、「天衣無縫」、巻末の「ついの宿り」の二篇に至ると、マンボウ調はマンボウ調ながら、輝子の最晩年が描かれているので、色調が次第に暗くなって一種深い感動がある。

 かくのごとく個々の作品を読んでいる時はスタイルの不揃いがどうも引っかかったのだけれど、読了後の目で振り返ってみると──結果的に、一冊の書物として一個の文学作品として、始まり終わっていることに気づく。さすがだと思った。やはり天性の小説家なのである。


六道慧
『ソロモンの遺産 出雲神霊記(1)』
(ソノラマ文庫)

 神話の地・出雲で水晶の髑髏が発掘された。ところがその髑髏の正体は〈飢神〉というもので、奇魂(くしだま)を駆使して人間を操り始める。
 〈飢神〉の目的はどうやら〈ソロモンの遺産〉を我がものにすることらしく、その秘密に通暁しているらしいスサノオ直系の出雲神人である主人公の女子高生を付け狙う。
 〈飢神〉の復活に対応して幸魂(さちだま)を駆使する謎の男女が復活し、主人公を助け護る。

 伝奇SF的設定がなかなか面白く、一気に読み継いだのだが、最終章の活劇場面で躓く。
 まさしくアニメの戦闘シーンを文字で描いたもの。それもバタバタしているばかりでいっこうに盛り上がらない。活劇シーンなどなくても伝奇的設定の補強で十分面白くなると思うのだが。


六道慧
『伽耶の斎王 出雲神霊記(2)』
(ソノラマ文庫)

 このような種類の小説は、現在進行形で読み、さっさと忘れていかないといけないのだろうか。
 シリーズだからと、間をおかずまとめて読んだ私が悪いのか? 
 そういう読み方をすると、矛盾続出で、作者が、構想をきっちり固めないまま書き始めたことが、まるわかりになるだけであった。

 (1)で出てきた飢神、奇魂、幸魂などという、おそらくはキイワードであろうとこっちが(勝手にだが)みなしていた言葉は、(2)では全く出てこない。
 主人公の女の子は(1)ではスサノオ直系の出雲神人の裔となっているのに、(2)では敵のカヤナルミがスサノオの第5子(!)ニギハヤヒの子即ちスサノオ直系の孫だと述べている。

 かくのごとくに初期設定が曖昧では、どうしようもない。
 とにかく古代史の使い方が恣意的というか筋が通ってない。筋が通っていればどんなに突拍子がなくてもオッケーなのだが(参考文献がそうなのかも知れないが)。
 極め付きは〈漢武帝王〉で、一事が万事である。

 ジュヴィナイルだから許されると考えているのだろうか。
 だが、少なくとも第一期SF作家たちは、ジュヴィナイルでもそういうところでは絶対手を抜かなかった。

 (1)で活劇シーンの下手さを述べたが、(2)では更に活劇シーンが割合を増していて、わたしは不覚にも3度も読みながら眠ってしまった。
 出来の悪い映画では、ヒロインが行かなくていい方へ行ったり、しなくていいことをして、話が進んでいくのだが、本書もそういうストーリー展開なので興ざめする。(1)でやめとけば良かったのに>私。


光瀬龍
『たそがれに還る』
(早川書房・日本SFシリーズ)

 ある時期、光瀬龍といえば、それはもう私にとって、神様のような存在だった。

 嘘のような話だが、当時は〈光瀬〉という文字を目にするだけで――「光の瀬」という文字面からの連想だろうか――何やら闇黒の宇宙空間に輝き浮かぶ銀河面の光の集合が、幻像のように膨れ上がってきて、読む前からくらくらとめまいがしたものである。いや、ほんと。

 そういえば授業中退屈すると、大学ノートの余白に光瀬龍、光瀬龍、光瀬龍と、まるで写経よろしく、その三文字を書き連ねていた。いまでも鮮明に覚えている。

 いつしか、そんな熱狂の黄金時代も過ぎ去り、新刊が出たと聞いても、書店に走ることもなくなってしまったが……。

 訃報に接し、追善に何か一冊読み返そうと思った。

 ――何にしようか?

 光瀬龍の最盛期は、実のところ、ごく短い。
 『墓碑銘2007年』から、せいぜい『喪われた都市の記録』まで。その『喪われた都市の記録』ですら、私見ではずいぶん輝きが薄れている。

 ――やはり、『たそがれに還る』だな。

 二大傑作のうち、『百億の昼と千億の夜』は、これまでに何度か読み返している。一方、『たそがれ……』の方は、白状すれば、まだ一度も読み返したことがなかったのだ。
 実際、『たそがれ……』は、ラストの強烈なセンス・オブ・ワンダーの感覚はありありと覚えているのだが、ラストにいたるまでかなり難渋した記憶があり、それが今まで読み返すことに二の足を踏ませていた。

 初読は丁度28年前、1971年7月17日。
 それ以前に作品集『墓碑銘2007年』、『落陽2217年』、『カナン5100年』と長篇『百億の……』を読んでいて、すでに〈光瀬節〉の熱烈な信者になっていたから、本書に対する期待感というのは半端なものではなかった。
 こういう期待度数が高すぎるときは、えてしてがっかりさせられるものだが、もちろん本書でそんな杞憂は不要だった。

 再読し、私は28年前と同様、圧倒的なセンス・オブ・ワンダーに撃たれた。ラストの感動はいささかも減じていなかった。

* * *

 辺境行き814便〈暁の虹4〉に搭乗した宇宙省調査局員シロウズは、そこで連邦副主席チャウダ・ソウレに出会う。(第一章 長い旅のはじまり)

 辺境星域では、宇宙船の原因不明の消失事件が、最近頻発していた。
 折しも冥王星近傍で、また39隻の船団が行方不明になった。
 (1) 偶然、海王星の航路管制所が船団からの通信をキャッチするのだが、奇怪にもその発信源は、他ならぬ管制所その場所であることが判明する。(第二章 スペース・マンたち)

 814便が木星軌道に近づいた時、シロウズは調査局局長より緊急連絡を受けた。
 金星エレクトラ・バーグが音信不通に陥っているので至急調査に向かうようにとの指令。シロウズは無理矢理船を金星へ航路を変更させる。

 〈暁の虹4〉は金星に近づいた。金星は相変わらず音信不通である。
 シロウズは、ソウレと今一人の搭乗者であったエレクトラ・バーグ市長ヒロ18と共に、フェリー・ボートによる着陸を敢行する。
 着陸した場所は……座標上はエレクトラ・バーグのはず。しかしそこは砂漠だった。
 調査を続けるかれらの前に、おびただしい尖塔の林立する城塞が姿をあらわす。シロウズはその内部に進入する。そこでかれは天啓のような声を聞き、気を失う。

 (2) 気がつくと、そこはエレクトラ・バーグの空港だった。エレクトラ・バーグに異変は起こっていなかった。
 空港関係者によると、〈暁の虹4〉は空港からの呼びかけに一切反応せず、フェリーを発射、フェリーは空港に着陸、出てきたシロウズらは30メートル以上歩いてから倒れたというのだ。その間わずか1分だったという。

 ヒロ18は、過去に似た経験があるらしい。
 手がかりを求めてシロウズはエレクトラ・バーグの誇るダブル・トリミング方式の総合電子頭脳に潜入する。(第三章 都市と歴史)

 その後、冥王星の氷層の下から、1200万年前の他天体の宇宙船が発見された。
 実はそれが最近冥王星に頻発しはじめた地震の震源だったのだ。
 なにかが宇宙船を1200万年の眠りから目覚めさせたのだ。(第六章 来訪者)

 シベリアでは、ツングースカにおけるあの謎の大爆発の原因が突きとめられた。
 それは、冥王星のものとは別種の、宇宙船だった。
 発見できたのは、それが最近発熱しはじめたからだ。この宇宙船も長い眠りから覚めさせられたのだ。(第七章 来訪者(その二))

 地球焼亡。
 すべての山岳は砕け散り、海は蒸発し、地球は平坦な塵の海と化した。
 地球の軌道が空間のひずみと交差したのだった。
 それは何らかの意志によるものではなかった。いわば古戦場に残された一個の機雷が、たまたま通りかかった巨船をほうむったに等しい。(第八章 東キャナル市にて)

 三千隻からなる輸送船団が次々出発していく。
 目的地は太陽系外、青の魚座の方向、3光日。
 そこにレーダー基地を建設するのである。太陽系に接近してくるものはすべて捉えるために。
 なにか途方もないものがその方向からやってこようとしているのだ。
 これまでの一連の事件は、その予兆・警告なのだ。

 シロウズもこの〈極光作戦〉に参加していた。
 ヒロ18も。彼女は電子頭脳に関わる重要な役割を果たしているらしい。

 シロウズのもとに二つの報告が入った。
 地球を焼亡し、辺境で船団を捉えた空間のひずみの位置が判明。それは青の魚座の方向から一直線に貫いて、輸送船団の前方にあった。
 (3) 今一つは、エレクトラ・バーグの電子頭脳エリアがカラッポになっているという報告。
 シロウズの機転で輸送船団は空間のひずみを乗り切る。(第十章 明日への道)

 長さ12万キロメートル、幅1万キロメートル、8千個の受信面をもった長大なエネルギー探知装置(レーダー)の建設は最終段階に達した。今まさに作動が開始されようとしていた……

 そのとき――太陽系60億の人々は天の一角、青の魚座の方向に突如長大な光の帯が出現し、速やかに薄れていくのを目撃した。
 それは探知装置の爆発した光だった。――探知装置の許容量を遙かに超えるエネルギーが、このときすでに太陽系に迫っていたのだった。

 もはや手遅れかも知れなかったが、ソウレはなお別な方法を考えなければならなかった。(第十一章 三七八五年)

* * *

 今回読み返して、意外にも、私は本書にヴァン・ヴォークトの影を強く感じた。
 少なくとも本書に関する限りは、ハインラインでもシマックでもなく、ヴォークトなのだ。
 たとえば上の梗概に付した(1)(2)(3)のシーンである。ことに(1)や(2)の場面は、ヴォークトもかくやの〈見当識喪失感覚〉に満ち満ちている。

 ここで気がつくのは、ヴォークトも光瀬龍も、いずれも書くものは近代科学合理主義に端を発するSFの、なかんずく壮大なスペース・オペラでありながら、その魅力の源泉は、〈科学〉の論理だけではなく、むしろ〈詩〉の論理もしくは〈神話〉の論理(すなわち野生の思考)によっても担われていることである。

 (3)は、中篇「アンドロメダ・シティ」と全く同じ論理構造である。
 ヒロ18が〈極光作戦〉に参加するということは、エレクトラ・バーグの電子頭脳が参加するということであり、したがってそれは、エレクトラ・バーグの電子頭脳エリアが空っぽになることを意味するという論理。
 まさに、レヴィ=ストロースのいう〈換喩〉そのものではないか。

 このような思考は科学の論理に慣れた理系ハードSF読者には理解しがたい論理(あるいは非論理)かも知れない(初読時に私が感じた難渋感もこの事実に由来するに違いない)。
 しかし私は、この(3)のくだりに、今回とりわけ強烈なセンス・オブ・ワンダーを感じた。

 他方、時を隔てて発見された謎の落下物を座標にプロットしてみると、その軌跡の地表にぶつかる点が、実にツングースカの爆発地点であるという記述があって、初読時、私はここに強くセンス・オブ・ワンダーを感じたのだが、このセンス・オブ・ワンダーは、(3)の詩的・神話的センス・オブ・ワンダーとは違って、いわば科学的・合理的な論理から導かれる、通常の、というかSF本来のセンス・オブ・ワンダーである。

 かくのごとく本書の近代的・合理的なサイエンス・フィクションの衣装の下には、近代以前より連綿たる〈野生の思考〉が隠れている。
 光瀬SFは、〈サイエンス・フィクション〉でありながらも、同時に〈散文詩〉であり、〈神話〉なのである。

 かかる相反する二つの思考が、互いを打ち消し合うのでなく、むしろ互いを顕彰し合うとき、あの爆発的な感動の磁気嵐が発生する。あたかも物質と反物質が接触して、膨大なエネルギーに転化するように。……
 最盛期の光瀬SFは、その辺りがうまく機能している。それ以後の作品では、残念ながら、1+(−1)=0に働くことが多いように思われる。したがって初期作品に見られる凄まじいまでのセンス・オブ・ワンダーの膨張が、のちの作品にはみとめられない。

 本書は、圧倒的な初期光瀬SFの中でも、とりわけ〈神話の論理〉が十全に機能した壮大にして幽玄極まるスペースオペラであり、全開の〈光瀬節〉とも相俟って、疑いなく著者最高水準の傑作である。
 本書に代表される初期光瀬SFとの出会いがなければ、私は、これほどまでSFにのめり込むことはなかっただろう。

 享年71歳。

 「今、私の考えていることは、一億年ぐらい生きたいということです。一つの物語を書き上げたあとに思うことはいつもそれなのです」(『百億の……』日本SFシリーズ版、あとがき)

 確かに、悠久の時の無常を描き続けた著者であれば、71年という歳月は、いかにも短すぎるかも知れぬ。

 「人々は七十年の生涯のあるとき、ふと星々を見てその遠きを思う。永劫の中の七十年が、いったい何を意味するのか。」(『たそがれ……』日本SFシリーズ版、113頁)

 とはいえ、光瀬はその七十年の生涯のうちに、少なくとも本書『たそがれに還る』と第二長篇『百億の昼と千億の夜』、そして宇宙年代記に連なる珠玉の短篇群を遺したのである。充分ではないか。

 これらの輝ける名作群が、永遠に読まれつづけることは間違いなく、かかる諸作と共にあって、光瀬龍の名前も永久に滅びないだろう。
 そして恐らくは、かつての私のように、大学ノートに(あるいはワープロにか)その神名を刻印するような熱心な少年たちが、これから先も繰り返しあらわれてくるに違いない。

 ――1億年の未来。滅びて久しい都市の歩廊に打ち捨てられた磁気カード。異星からの訪問者が拾い、まだ生きているコンピュータに挿入すると、ディスプレイに〈光瀬龍/たそがれに還る〉の文字が浮かび上がる……そんな光景を私は夢想する。

 合掌。

8

井上雅彦監修
『時間怪談 異形コレクション10』
(廣済堂文庫)

 〈時間怪談〉という切り口は、確かに面白い。小生もSFとホラーの異同を意識しながら読んだ。
 というわけで気に入った9篇を選んでみたのだが……やはりSF寄りの選択になってしまうのだった。

西澤保彦「家の中」
 ベイリー『時間衝突』と同様、逆向きに流れる時間テーマ……かと思ったが、よく考えると違う。実は鏡像なのだ。時間SFの巧篇。

山下定「石女の母」
 話者である〈僕〉は、母の内宇宙へ迷い込む……というか、引きずり込まれる。いまわの際の逆回りする母の内宇宙の凄まじさ。

早見裕司「後生車」
 本篇も鉄道(新幹線)をキイワードに過去へ遡航する。これ幻想小説の定石。真由利の示す恐怖の大王がよい。ディックの『宇宙の眼』が連想される。
 主人公は次第に真由利の主観世界に絡め取られていく。しかしSFとして読むと、真由利の妄念がなぜこれほど強いのか(一応推測させる材料はあるにしても)納得しづらい。ホラーとして読む分にはこれでよい。

小中千昭「0.03フレームの女」
 TVドラマのビデオテープの1コマの中だけに存在し、恐怖に口を開けている女――ムンクの「叫び」(こちらは男だけれど)を彷彿させる――という設定がよい(怖い)。

村田基「ベンチ」
 こういうきっちりした短篇小説を読むと、何となくホッとする。理屈も通っていて納得できる。本篇はSFではないけれども、著者は紛れもなくSFのスタンスで書いている。

五代ゆう「雨の聲」
 完全無欠な怪談。語り口が素晴らしい。お見事。

中井紀夫「歓楽街」
 著者は結局SF作家である。本篇に理屈はないが、そのかわり法則がある。筒井型の不条理SF。途中をもっと書き込めばもっと面白くなった筈。

牧野修「おもひで女」
 本篇も結構怖いが、SFである。中井作品同様、謎解明はないが、謎に数学的法則性がある。アイデアが無限に自己増殖していく筒井型の不条理SF。
 中井作品より経過の書き込みがある分、面白さ(怖さ)も勝っている。文章しっかりしていて好感。

梶尾真治「時縛の人」
 ばかばかしいアイデアで、思いついてもふつうは書かない。しかし著者はそんなアイデアを雪だるま式に転がして大きくしていく。最後には巨大な雪玉となっており、読者はペシャンコに引きつぶされるのである。精神的体力のみで書き上げられた体育会系(?)時間SF。そのかいな力に脱帽(もしくは脱力)。


マイク・レズニック
『キリンヤガ』
内田昌之訳(ハヤカワ文庫)

 SFはオムニバスにつきる――というのが、小生の基本的認識である。
 ストーリーの活劇化が抑制されるのでSFとして純度が上がり、しかも単発の短篇では得られない重層性と奥行きが作品に与えられて、長尺でありながらアイデア本位の作品に仕上がるからだ。

 本書は、かかる管見を例証してくれる優れたオムニバス小説集である。
 もとより優れた小説はどれもそうだが、本書も様々なレベルで解釈を許容するものであり、以下の感想も、あながち的外れでもあるまい。

 さて、本書を読むのは、一種痛ましさにつきまとわれて、なかなかつらいものがあった。
 主人公ムンドゥムグ(祈祷師)のコリバは次のように述懐する。

 「だが、わたしはときどき考えずにはいられない。たとえそれがキリンヤガのようなユートピアであっても、もっとも有能で聡明な若者たちが追放され、ロートスの実を食べて安穏としている者だけが残るような社会には、いったいどのような未来が待っているのだろうかと。」(「ロートスと槍」、313頁)

 まことにコリバのこの言葉は、組織とその構成員との、永遠の行き違いを要約している。
 そもそも共同体(組織)は〈理念〉を同じくする者たちが共通の目標に向かって助け合い、邁進するところに出発する。
 ところがいったん出来上がった組織(制度)は、今度は成員を規制する方向に進みはじめるのである。それはなぜか。

 そもそも〈現実〉は、無限の〈現在〉の積み重ねに他ならず、〈現在〉と言い変えてもよい。その相は本質的に流動的である。常に移り変わっていくものであり、留まることがない。
 ところが、〈理念〉は〈現実/現在〉より抽象されるのであるが、そもそも固定的である。流動的な理念などあり得ない。
 いったん〈現実/現在〉より抽象されるや、〈理念〉は、その瞬間より〈現実/現在〉から置いてきぼりを喰わされる。なぜなら〈現実/現在〉は動き続けているのに、〈理念〉は止まっているからだ。したがって理念は絶対に現実に追いつかない。

 コリバがユートピアと信ずる〈社会理念〉(キクユ族原理主義)も例外ではない。それは移りゆく〈現実/現在〉の、ある時間の、ある場所を、切り取ってきた現実の固定化された形骸に過ぎぬ。

 ところで、〈制度〉とは実在化した理念であり、当然〈現実/現在〉より後方にある。それゆえ〈制度〉は、必ず〈現実/現在〉を規制する(引きつけようとする)方向に作用する。
 したがってコリバの理念が小惑星キリンヤガとして実在化した途端、現実を理念の方へ引きつけようとする。かくして、例えば異端者、すなわち最も有能で聡明な若者たちは排除され、追放されるのである。

 ――そんなことは、最初からわかっている。
 と、人は言うだろう。
 どんな組織においても、必ず起こっていることだと。それは組織の〈業〉なのだと……

 それ故にこそ、組織と個人を媒介する中間管理職の悩みは深いのである。
 会社のためがみんなのため、と粉骨砕身しても、現実と組織を折り合わせることは不可能だ。そもそもその会社という組織自体が現実からずれているだから。
 だからといって世の中間管理職は自己の勤めを放棄するわけにはいかない。主人公ムンドゥムグのコリバのように、現実に目をそむけて、ひたすら目をつぶり、幻想の中に生きるしかないのである。


滝雄一
『ヒムラーへの密使』
(トクマノベルズ)

 本書は懐かしい戦争冒険小説。当節流行の願望充足的シミュレーション小説ではない。
 あり得たかも知れない戦時中の1エピソード。

 欧州戦末期、ミクロネシアのドイツ潜水艦基地から1隻のUボートが5人の日本人と金塊、そして梱包された秘密兵器を乗せて出発した。彼らはヒムラーSS長官のもとへ、物資と共に一人の老人を送り届ける密命を帯びていた……
 秘密兵器とはナチの原爆完成に不可欠な装置。老人はどうやらUFOと感応できるらしい。

 (1) オカルト集団としてのナチスに照準を合わした視点は、戦争冒険小説としてはなかなかユニークだ。が、いかんせん書き込み不足。老人が狂言まわしにしかなってない。小説世界を形成するほどではない。

 (2) 一方原爆の方は破れかぶれのナチスがベルリンで使用しようとするというトンでもない展開になっていくのだが、これも書き込みが中途半端。手に汗握るところまではいかない。

 (3) 日本陸軍大佐とSS親衛隊員と日本人女性の3角関係もあり、盛り沢山は盛り沢山なのだが、結果的に散漫に流れた。欲張りすぎたかも。

 全体にもう一段の整理、捨てるところは捨て、膨らませるところは膨らませるという編集者との共同作業が必要だったのではないだろうか。
 実は最近の新人の作品を読むとき、それを感じることが少なくない。

 個性を尊重するのも大事だろうが、逆にいえば編集者の怠慢ともいえる。
 編集者の仕事は、〈見出す〉ことに加えて、〈磨きをかける〉ことも大切ではないのか。エンターテインメントなのだから、一定の鋳型に流し込んで整えてやるべきだ。
 有能な新人ならば、心配しなくても、すぐにその鋳型を手なずけて、型からはみ出していくのだから。


デズモンド・バグリイ
『高い砦』
矢野徹訳(ハヤカワ文庫)

 翻訳であるにもかかわらず、読みやすいのに驚いた。
 たとえば、もともと日本語で書かれた『ヒムラーへの密使』と比べても、比較すれば圧倒的に本書の方が読みやすいのである。流れが滞らないのだ。

 ハイジャックされた飛行機が不時着したのは、峻険なアンデス山中だった。不時着の際、犯人は死亡。生き残ったパイロットと乗客の10名は、救助を求めて山を下りはじめるが、謎の一団に襲撃される……

 本書には国際謀略、ヘビーデューティ、チームワーク、ブリコラージュ等、冒険小説のエッセンスがすべて入っている。
 とりわけ舞台設定がよい。
 まるで山岳小説の趣があり、自然との闘いにこちらまで薄い空気に息苦しくなってくる。

 さらに登場人物の設定がよくできている。
 心に傷をもち、若くして自棄的な生活を送っていた主人公のパイロットは、困難を極める生存のための戦いの過程で、次第に自己を回復していく
 その他の脇役もそれぞれに魅力的である。サバイバルのプロ、主人公に思いを寄せる女性、典型的オールドミス、等々……、それぞれに自己を回復していく。

 読後感が実に心地よい。
 ところが天の邪鬼な私は、その辺がいまいち不満である。
 完璧に作られていて、完結してしまっていて、私の中に引っかかって残るものがないからだ。引っかかってくれる核のようなものがないと、私の読後感は膨張しない。読後感の膨張しない話は、いくら面白くても、つまらない。


鯨統一郎
『隕石誘拐 宮沢賢治の迷宮』
(カッパノベルス)

 現代を舞台にした誘拐ものだが、現実感がきわめて希薄である。大体、誘拐から解放されて父親と電話で対面した4歳の息子が、開口一番言う言葉が、「パパ、3ひく1がわかったよ」であろうか。
 一事が万事である。

 まるで夢のなかの出来事のような話で、ミステリーとしてリアリティがないのは致命的だと思うのだが、実は本書に限ってはそうでもない。
 変なムードがあって一応読ませる。一種の幻想小説として読むべき作品かも知れない。
 そのあたり作者の感性は独特で、ミステリーに拘らない方がよいのではないだろうか。

 その証拠に、「邪馬台国はどこですか」は、表題作だけ立ち読みしたのだが、古田武彦や安本美典から借りてきた全くオリジナリティのない、結論的にも新味のない話で、その安易な姿勢に怒りさえ覚えたものだった。どうもミステリーとは全然体質が違う人のように思われる。

9月

J・ロラン他
『十九世紀フランス幻想短篇集』
川口顕弘編訳(国書刊行会)

 本書は、19世紀フランスという枠の中で、純然たる(狭義の)幻想小説からホラーやファンタジーさらにはSFまで、〈幻想〉の範囲を目一杯広く取って、バラエティ豊かに作品を渉猟しており、さながら19C仏版異形コレクションといっても過言ではない。

 異形コレクションと書いたが、確かに本書収録作品の殆どが、「今」であったらホラーとして認識されてしまうに違いあるまい。
 というのも、昨今の出版サイドの風潮は、何でもかんでも〈ホラー〉というレッテルを押しつけてしまうので、本来〈幻想小説〉と名付けられるべき作品が――SF同様――ずいぶん〈ホラー〉として売り出されているように思われるからだ。

 それでは、〈(狭義)幻想小説〉と、〈ホラー〉あるいは〈ファンタジー〉は、どこがどう違うのだろうか。

 もちろん私自身は、個々の作品に対して、これはホラー、これは幻想小説、という具合に、感覚ではっきりと区別して認識できる。
 けれども、私のなかに感覚としてある〈幻想小説〉や〈ホラー〉把握が、(私のなかでは確固たるものであったとしても)一般性を有しうるものであるかどうかは、実のところ甚だ心許ない。

 そもそもジャンル小説とは、因子論的にいえば、その作品がジャンル小説である限り、それを著した個々の作家の個性(独自特性)を超えた(あるいは個性以前に)、すべてのジャンル小説が何ほどか備えている諸「共通特性」に着目したくくりである。

 それゆえにこそジャンル小説であるわけなのだが、けれどもジャンル小説の愛読者はその読書史(個人史)において、次第々々に、かかる共通特性の中から、特に自らの内部と感応、照応する、いわば「琴線に触れる」特性があることを無意識裡に知るようになり、やがて読書はかかる「琴線的特性」の探索という性格を帯びて来ざるを得ない。

 これを言い換えるなら、ジャンル小説の契機である諸「共通特性」の、その序列に個人的バイアスがかかるというに等しい。
 すなわち読者各自の「琴線的特性」の、爾余の諸「共通特性」に対する優位性が、その読者のジャンル小説評価の指標となってくるわけだ。当然それはジャンル自体の定義にも影響する。

 定義論の不毛は、かかる因子論的分析をなおざりにして、クレッチマーよろしく外観的な類型論のみに頼るところにあるわけだが、それはまた別の話。

 要するに、ジャンル小説は、複数の共通する特性をベースに或るぼんやりした塊(クラスター)を形成するが、どの特性に重点を置いて把握するかによって、ジャンル(クラスター)の境界は、微妙に揺れ動く。
 そしてそれはジャンル読者個々の体験構造に相関する……。

 という当たり前の結論に至る過程を、なぜ長々と書いたかというと、それは以下に述べる(かなり強引に決めつけた)ジャンル区別に対する反論をあらかじめ封じるために他ならないのだった(笑)。

 というわけで、本書の各収録作品に沿いつつ、私が個人的「感覚」としてもっているジャンル把握を、整理を兼ねて記述してみよう。

 管見では、〈ホラー〉とは、超自然的現象に由来する恐怖を読者に喚起する小説である。
 しかも、かかる超自然の出現の仕方に関しては、必ず「この世界」(小説内の現実)のなかに姿をあらわすものでなければならない、ということも私の考える〈ホラー〉の契機のひとつである。

 即ち「世界内存在としての超自然」というのが、〈ホラー〉における超自然現象の存在形態であると措定できるかも知れない。
 井上雅彦の所謂「異形」は、まさにこの事態を十全に表現するうってつけのタームであると私は思う。
 換言すれば、いかに想像を絶する〔超自然=異形〕が現れるにしても、その現れる「場所」は、我々が生活している現実の「この世界」であるというのが、管見では〈ホラー〉の前提的条件ということになる。

 しかもなお、キングやクーンツに代表されるモダンホラーにおいて殊に顕著であるが、かかる超自然に対峙する登場人物の〔態度/精神〕は、(少なくとも最初は)常識的(=小市民的)であることが必須である。小市民(常識人)がこの世界に出現した超自然現象に巻き込まれ、対峙しなければならないところから、モダンホラーの恐怖は醸成されるのだ。私はそう考えている。

 〈ファンタジー〉の場合は「異世界」がキイワードになる。
 〈ファンタジー〉は、この世界とは断絶した別の世界での物語だ。したがって〈ファンタジー〉は、アレゴリーとしてしかこの世界と関係できない。〈ファンタジー〉が原型的物語に傾きがちになるのは、まさにこの故である。

 これに対して〈幻想小説〉は、〈ホラー〉のように「世界内存在」としてこの世界に登場する「異形」ではなく、また〈ファンタジー〉のようにこの世界とは完全に切り離されて存在する「異世界」でもなく、むしろ「この世界」にべったりと貼り付くように現れてくる〈異界〉である。
 〈異界〉は、〈異形〉のように「この世界」の内にではなく(in)、〈異世界〉のように切れてもなく(off)、「この世界」と接するように(on)立ち現れてくる。

 そして多くの場合、その接点は主人公においてである。というより主人公を介して、〈異界〉と「この世界」は繋がっている。
 というのは、〈幻想小説〉の主人公が、もともとマージナル・マンであるからだ。これが〈ホラー〉の主人公との決定的な相違点である。

 もともと「この世界」の辺縁に座標を持つ主人公が、必然的に覚える「この世界」との違和感、不適応感が、ある一線を越えてしまったとき、言い換えれば主人公の、無意識にであれ、「この世の外」を希求する度合いが、ある水準に達したとき、まさにその時この世の外なるもの即ち〈異界〉が、彼の前に姿をあらわすのである。

 〈異形〉は頼まれなくとも向こうからやってくるが、〈異界〉は、主人公の内面が呼び込むのだ。

 (狭義の)〈幻想小説〉とは、したがって〈異界〉との交通を描く小説なのであって、それゆえ、屡々主人公は向こうの世界へ行ってしまい、還ってこない(実際にも、心理的にも)ということになる。小市民的主人公が契機の〈ホラー〉との最大の相違点であろう。

 個々の作品に移る。

エルクマン=シャトリアン「謎のスケッチ」
 落ちぶれた画家が突然幻視して描いた絵は、(犯人の顔だけが描き込まれてない)ある殺人場面だった。それは現実に起こった殺人場面だった。司直は画家に嫌疑をかけるが、偶然通りかかった真犯人を、画家は「思い出し」、冤罪を免れる……。
 本篇の場合、超自然的現象(予知もしくは千里眼)が主人公に憑依するように出現するが、その結果世界が変容するわけではなく現実は確固としてある。したがって、この場合の超自然現象(予知もしくは千里眼)の存在形態は「世界内存在」、すなわち〈異形〉である。したがって本篇はホラ−であるといえる。けれども私が感じる肌触りは、ホラーというより、むしろ怪異小説あるいは怪談という方がしっくりする。

サミュエル=H・ベルトゥー「古代の指輪」
 失恋で心身梗弱状態に陥った男の前に、以前に購入した古代の指輪の精というか、まがまがしいものが現れ、3本指を立てる。指輪を横領した召使いが死ぬ。再び現れ2本指を立てる。召使いの子供が死ぬ。三たび現れ指を一本。男は……
 なぜ指輪の精が現れたのか、死すべき3人の選択条件は何か、等々説明はない。しかし指輪の精が「世界内存在」であるのは疑いない。ホラ−である。

アベル・ユゴ−「死の刻限」
 露営地の荒れ果てた修道院で、若い将校は偶然2世紀の間そこにさ迷っていた神父の魂が昇天する手伝いをする。お礼に一つだけ知りたいことを教えてくれるという。将校は自分の余命を尋ねる。2年であると知らされる。聞かなければよかったその知は彼にとってカセとなる。二年後、彼は妻と母親の間に体を横たえて、その時を待つ……
 オチの型はありふれているが、深い情動を懐胎していて感動がある。「夢応の鯉魚」と同趣向と書けばネタばれか。
 本篇の場合、主人公が過ごす2年間は、夢とも考えられるが、本人にとっては紛れもない現実だったのであり、この世界と対置、拮抗するまさに〈異界〉なのだ。主人公は異界より還帰するが、そのとき主人公は以前の主人公とは変わってしまっているのである。幻想小説である。

ペトリュス・ボレル「胸騒ぎ」
 超自然的現象はあるかという議論の最中、そういうものは全然信じないという勝ち気な娘が、その証明に肝試しよろしく墓場へと赴くのだが……
 結論はミステリの側にある。しかしそれもまた神の深い意志かも知れないという、もう1段の奥行きが与えられる。それはしかしホラーへの回帰ではなく、むしろSFへの一歩踏み出しである。知的で皮肉な佳篇。ホラーを最後でどんでん返した(編者の述べる)疑似幻想小説。

アロイジュス・ブロック「幽霊」
 森の中で首吊り自殺した死体を発見した〈私〉は、その後なぜかその幽霊に執拗に攻撃される。……
 本篇もミステリの側へ着地する疑似幻想小説。謎が解明されるまでの緊迫感の持続は、その表現力のある文体と相まって、まさに良質のゴ−スト・スト−リ−であるのだが、それが謎が解明された途端に色あせるのは、前作品と違ってSFへの一歩踏み出しがないからだ。

アルチュ−ル・ゴビノ−「高名な魔術使」
 一夜の宿を提供した回教僧に心酔してしまった若者は、家を捨て、最愛の妻を捨て、僧の後を追うが。……
 異国情緒たっぷりの描写が雰囲気を出している。完全な異世界ではないが、ファンタジ−小説の範疇に入るものだろう。
 スト−リ−が冗長で引き締まってない。逆にいえば小説に膨らみがあるということかも知れないが、こういう筆法は私見では幻想小説にはふさわしくない。この辺もファンタジ−の特性を備えていると見るべきだろう。
 根源的な探求小説かと思いきや、ラストで下世話なレベルに立ち還るのも通俗ファンタジ−の通例。かかる結末の落とし方も、明らかに幻想小説のそれとはぜんぜん違うのであり、別種の小説であることを示している。

シャルル・ラヴ−「トビアス・グヮルネリウス」
 ストラディバリウスに匹敵する名器を製作しようとした男の狂気。
 超自然現象(この場合は魂)を人間が制御しようとする目論見は、もとよりかのフランケンシュタイン博士の目論見に通底する。ゆえにSFであるといえる。すなわち超自然現象を自然現象すなわち物理学的事実として扱っているのである。魂のかかる取扱いは、最近ではソウヤ−が「タ−ミナル・エクスペリメント」で行っている。幻想的なSFの逸品。

エミ−ル・ス−ヴェストル「コモ−ル伯」
 カイン以後最も邪悪な男コモ−ル伯は、ヴァンヌの町の王の愛娘トリフィナを見初め略奪同然に妻とした。その妻が身ごもった。……
 幻想のブリュタ−ニュが舞台の、善悪二元論の典型的な原型的ファンタジ−。斬殺されたトリフィナが己れの首と子供を抱いて軍団の先頭に立つシ−ンは決まっている。

フィラレ−ト・シャ−ル「目蓋のない眼」
 かつて嫉妬から極端な監視で妻を衰弱死させたスコットランドの若い農夫マイアランドは、ハロウィ−ンの夜、ひょんなことから妖精と結婚することに立ち至る。ところがその妖精は、美人だが目蓋がなかった。マイアランドをずっと見つめていられるように……。
 途中までは因果応報の原型的ファンタジ−だが、マイアランドが開拓時代の北アメリカ大陸に逃れてから、俄然パ−スペクティヴが開け、SFになる。結末で視線が届く場面はセンス・オヴ・ワンダ−たっぷりの壮大なイメ−ジで圧倒される。

エジェジップ・モロ−「白い廿日鼠」
 子供たちの世話をしていて妖精たちの祝宴に遅れた心優しい妖精アンジェリ−ナは、以後100年間廿日鼠に姿を変えられた。……
 純然たる妖精物語。ほとんど童話である。語り手が妹に語ってきかせるというスタイルがよくマッチしている。

ジャン・ロラン「マンドラゴラ」
 美貌の王妃が産み落としたのは、一匹の蛙だった。……
 おぞましくも美しいクリスマス・スト−リイ。名作といってよいだろう。最初、超自然的現象は恐怖を読者にもたらすだろう。しかし読みすすむにつれ、恐怖の源泉たる蛙少女は読者の共感を獲得するに違いない。本書は怪物小説ではあっても異形小説すなわちホラ−ではない。ホラ−は常に読者に対して向かってくる超自然であり、超自然が恐怖ではなく共感されるものに変わるとき、その小説はホラ−であることをやめる。

カチュ−ル・マンデス「贋の鳥」
 神の(自然の)作りたもうた鳥よりも人工の鳥のほうを愛でた住民の末路。……
 掌篇ながら(ここまでの諸篇にはなかった)文明批評的性格が明確に現われており、SFの萌芽が認められる。初出1891年。小松左京作と示されても、私は信じるだろう。

フランソワ・コペ「死者たちの対話」
 パンテオンの地下納骨堂で、ヴォルテ−ルとジャン=ジャック・ルソ−の亡霊が、フランス大革命から王政復古へと揺れたその時代について対話する。……
 という形式で、著者は自分の所信をふたりの亡霊に仮託する。前作品同様文明批評性の強い小説だが、前作品とは違ってSFというより政治小説(プロパガンダ小説)というほうがちかいようだ。

グザヴィエ・フォルヌレ「夢」
 紹介不能の怪作。アンドレ・ブルトンが褒めたというのも宜なるかな。

シャルル・クロ「未来の新聞」/「恋に狂って死んだ小石」
 新聞社を訪問した〈私〉は、三本脚の腰掛けに座った途端、100年後の新聞社にいた。その時代では人々の脳は、電気メッキ法でプラチナ化されており、例えそれがくたびれてきても全く同じ別な奴に取り替え可能。市役所には鋳型が取ってあり、きちんとカタログ化されているのだった。……
 一種のディストピアを描いていて、素材は上記のように古びているのだが、それが逆にしごく現代的。安部公房の掌篇のような硬質の味わいがあり、私は楽しめた。(>未来の新聞)
 一方後者(>恋に狂って死んだ小石)は小松左京が書きそうな拡大ネタのバカ話。

J−H・ロニ兄「クシペユ」
 ニネヴェやバビロンの時代より更に千年以前――ブジュウ部族の人々は、円錐形の物体の集団に遭遇した。それは人類以外の知的生命体だった。
 紛れもないSFである。生命体クシペユは超自然的存在などではなく、どこからやってきたのか、もともと地球に存在していたのか、などの解明はないけれども、とにかく物理的な(人類と同じレベルの)存在であり、人類とクシペユは、互いの存亡をかけて戦う。作中でいみじくも呟かれる、共存は不可能なのだ、というペシミズムは、いかにもヨーロッパらしい。今日の観点からは、大したこともないSFだけれど(私はプロパーSFには点が辛いのだ)、1887年の作品ということを考慮すれば大したSFである。


明石散人
『鳥玄坊先生と根源の謎』
(講談社ノベルズ)

 傑作。こんな傑作を見逃していたとは不覚であった。
 サイエンス・ヒストリー・フィクションと銘打たれているが、厳密にはスーパー・サイエンス&ヒストリー・フィクションというべきだろう。作品の契機となるアイデアに、ムー的な超科学や超古代史が採用されているからだが、いずれにしてもSFである。ムー的スーパーサイエンスで書かれたユーベルシュタインの趣。

 いや面白い。机上のSFという言葉が浮かんできた(>意味不明)。
 ヴォークトは、たとえば〈一般意味論〉なる「言葉」だけの、実体のない(つまりS・I・ハヤカワとは実質的に全然無関係な)アイデアを弄んで、不思議な異化効果を我々にもたらしたものだが、本書も負けず劣らず、「言葉」から発想されたアイデアが絨毯爆撃よろしく繰り出される。
 主に時間差攻撃と平行宇宙八艘跳びで、めまいを誘発させるのだが、これには元祖のヴォークトも「降参」ではなかろうか。
 ストーリーもそれなりにしっかりしている。一見水と油のような感じもするが、筆法は横田順彌に近く、どことなくホワンとしている。それがまたよい。


飛鳥昭雄・三神たける
『月の謎とノアの大洪水』(学研ムーブックス)
『地球膨張の謎と超大陸パンゲア』(学研ムーブックス)

 鳥玄坊読解のための参考書になるかと思って読む。面白いアイデアが頻出し、出だしは引き込まれるのだが、どちらも途中で推進力を失う。飽きてくるのだ。新書一冊分を支える内容ではないのだろう。せいぜい雑誌の特集分のボリュームが丁度くらいか。


明石散人
『鳥玄坊 時間の裏側』
(講談社ノベルズ)

 鳥玄坊シリーズ第2巻。前回、ムー的サイエンスで書かれたユーベルシュタインの趣と形容したが、今回は初期荒巻の伝奇ミステリも入っているかも知れない。そのかわり横田順彌っぽい雰囲気はなくなった。
 それにしても全篇の3分の2は議論と演説。これが愉しい。これこそSFの醍醐味。

 ムーブックスと素材は同じなのに、こちらは面白い。なぜか? 結局、向こうは素材が事実だと叫ぶだけ、単調で芸がないのに対して、こちらは素材を駆使して芸を見せる。別の世界を開示する。
 作中何度も「原因があり経過があり、結果がある」と登場人物に語らせているのだが、この発言は京極の「この世に不可思議なことは何もない」と言うフレーズと、意味するものは全く同じである。


明石散人
『鳥玄坊 ゼロから零へ』
(講談社ノベルズ)

 シリーズ最終巻。
 圧倒的な世界の終末、地球の終末、宇宙の終末の後、驚愕の再建設が始まる。……
 前半から中盤にかけて、記述が冗長になる。第1巻のようなたたみかけるアイデアの洪水がなくなってしまった。ネタ切れか?
 ちょっと心配したが、そこはそれ、和製ヴォ−クトである。終盤一気にのぼり詰める。絵に描いたような〈終わり良ければすべて良し〉的SF。

10

西崎憲編
『輝く草地 英国短篇小説の愉しみ3』
(筑摩書房)

 多義的な解釈を許容する、截然とは割り切れない小説が集められていて、まさに〈小説の愉しみ〉を存分に味わえる贅沢きわまりないアンソロジーである。堪能した。

チャールズ・ディケンズ「殺人大将」
 説話風、民話風の短い話ながら、結末の哀切な残酷さは捨てがたい。

L・P・ハートリー「コティヨン」
 間然するところのない、よくできたゴーストストーリー。仮面パーティとか、一人多い人数とか、誰も開けた筈がないのに開いた窓とか、小道具の使い方が実にうまい。したがってリーダビリティが高く、ページを繰るのがもどかしいほど。ついつい私も、100メートル走の勢いで読まされてしまったことである。

D・H・ロレンス「最後の笑い」
 こちらはコロッと変わって、ずいぶんと分かりにくい話である。登場人物の心の動きが了解しづらい。といって貶しているのではない。その判りづらさ、了解のしにくさが、読み解く悦びを保証しているわけで、ああだろうか、いやこうかも知れないなどと、想像力が刺激されてまことに心地よい。
 超自然現象が、どうやら登場人物の内面と(定かではないが)通底しているらしい気配。「コティヨン」とは正反対の意味で、やはりよくできた小説といえる。それにしてもこの短篇、これだけでは完結していないように思われてならない。連作のうちの一篇ではないのだろうか?

ダンセイニ卿「スフィンクスの館」
 いかにもダンセイニらしい〈世界の謎〉を描く観念的ファンタジ−。

ナイジェル・ニール「写真」
 不治の病を暗示される少年は母親に連れられて写真を撮りに出かける。その行為が逆に少年の心に何かを刻印する。写真から抜け出した「少年」は、本当に写真から抜け出したのか、それとも少年の心が見た幻像なのか。医者と母親が目撃した〈少年〉は、本当の少年なのか、写真の「少年」なのか、それとも「合体」したのか。作者の筆はいずれとも取れる。
 本篇における超自然は、エイクマンにおけるそれと同様曖昧である。もちろんそれゆえこそ、読者は読み解く愉しさを玩味できるのである。

V・S・プリチェット「ドン・ファンの生涯における一挿話」
 本篇も曖昧模糊としている。しかしドン・ファンについての前提的知識がないので、本篇を私はおそらく読み切れてないように思う。

アンガス・ウィルスン「ママが救けに」
 小説としての出来は本集随一だろう。
 本篇も真相は藪の中である。ママが救けに来た(シ−リアを? ハ−トレイ婦人を?)のかもしれないし、単にカ−ディガンが巻きついただけなのかもしれない。解答は読者が選択すればよい。もとより選択しなくてもよい。

M・P・シール「ユグナンの妻」
 本集中、唯一純然たるホラ−小説であり、異形が姿を現す。緊迫感に富んだ秀作。

A・キラ−クーチ「世界河」
 実兄のいわば実存的死に接して主人公は神の悪意に打ちひしがれる(しかし神の不在へは行き着かない)のだが、そのとき当の「兄」が現われ、主人公を「世界河」の源に連れていく。
 この神秘体験は主人公が語るだけで客観的には実在を証明できない。やはり事実なのか、束の間の幻視であるのかは藪の中なのだ。
 しかしながら、この結末はいただけない。せっかくの実存的認識が結局もとの黙阿弥に帰してしまう。本書の中では珍しく通り一遍でつまらなかった。

アンナ・カヴァン「輝く草地」
 本篇は、他の収録作品とはかけ離れて異質な小説である。
 作家と主人公の距離が極めて短い作風であり、主人公の内面が輝く草地として外在化している。輝く草地は主人公の心象を照り返して木もれ陽のようにひらめく。あるいは読んでいる当の読者の心象を反射する。作家の内面の不安感がきらめくように輝く草地の上に表現されており、一種張り詰めた緊張感が作品世界に漲っている。
 幻想小説というより、むしろ内なる精神と外なる現実が融け合う場所を描く内宇宙小説と言うべきだろう。小品ながら忘れがたい映像が残る傑作。


鯨統一郎
『邪馬台国はどこですか?』
(創元文庫)

 先々回、同じ著者の『隕石誘拐』を取り上げ、(ミステリとして書かれた作品ながら)その幻想的な作風から「ミステリとは体質が違う人のように思われる」と感想を述べた。
 そのとき短篇「邪馬台国はどこですか?」についても少し触れたのだったが、こちらについてはずいぶん否定的な評価をした。この短篇に関しては、世評ほどには、ミステリという見地からすれば大した作品ではないと感じたからだ。

 しかし、僅かに短篇一本読んだだけで決めつけるというのも、何だか木を見て森を論ずるに等しい無謀かも知れない。そう思い直した。
 それで通読してみた。

 ――面白くて、一日で読了してしまった(笑)。

 もとよりエンターテインメントである。面白ければそれでいいのだ。
 それはそうなのだが、とはいえ本集の面白さは、やはりミステリとしての面白さではない。
 巻末の付記にあるように、この短篇集のスタンスは、
 ――「歴史上の謎に対する仮説を」「小説という形で発表」したもの。

 すなわち一応小説の体裁を取っているが、実質はム−的な風変わりな歴史解釈の開陳が主眼であり、それが私には目新しくて面白かったのだと思われる。
 けれどもその面白さも、作品を個々に見ていけば結構凸凹が目立つ。
 一番面白かったのはキリスト復活の謎の新解釈「奇蹟はどのようになされたのですか?」で、一番つまらなかったのはやはり表題作なのだった。

 理由は簡単で、貧生の知識に「分野的偏り」があるからに他ならない。
 つまり「邪馬台国はどこですか?」の場合は、小生にもいささかだがその分野の知識がある。それで作者の議論のウソや元ネタがよく見えてしまうわけだ。
 実際、表題作の論理は、論理というのもおこがましい意図的な書き漏らしと強引な関連づけの切り貼りに他ならず、その創作意識は(ゲーム的な双方向性信念を前提とする)本格ミステリの創作意識ではなく、むしろムー的なそれに近いものなのである。

 それに対して、「奇蹟はどのようになされたのですか?」は、当方の知識が不足しているので、逆に穴が見えず素直に納得させられてしまうことになる。殊にこの話は、小森健太朗『神の子の密室』やムアコック『この人を見よ』と同趣向なので、作者の創作動機がそれぞれに違っているのが読みとれて興味深かった。

 創作意識の問題を別にしても、読者の知識の多寡によって作品の面白さが左右されるというのは、本格ミステリとしては問題だろう。
 そういう意味では知識の拡大が即謎解明につながる(逆にいえば知識があれば謎でもなんでも無い)西村京太郎の「ミステリ」に近い作風であるのかも知れない。

 むろんミステリは裾野が広く、西村京太郎作品がミステリであるのと同様、本書もミステリであって何ら差し支えないし、西村作品が面白いのと同様、本書もまた違うレベルで面白いのである。
 しかし、残念ながらこれらの作品の面白さは、本格ミステリという形式それ自体が要請する契機を充たしているわけではない。結局ミステリとは体質が違うという他ないのである。


藤木稟
『陀吉尼の紡ぐ糸』
(徳間ノベルズ)

 満州事変以降、軍部の力が日に日に強くなってきて世相にも暗雲が垂れ込め始めた昭和9年、東京は浅草・吉原が主な舞台である。
 往時の風景、風俗が雰囲気たっぷりに描写されていて、目に浮かぶよう。それだけでも十分に読ませる力がある。
 その器に、神隠しあり、ドッペルゲンガーあり、立川真言流あり、はては出口王仁三郎までが盛りつけられる。
 しかもそれらが全然消化不良にならずに料理されている。大した筆力である。

 筆法は、京極夏彦に相当影響を受けていると思われる。が、もちろん二番煎じなどではなく、むしろ小説世界自体は(黄金仮面や魔術師の)乱歩を意識しているように思われた。
 登場人物の一人である中村茅に表現される女の哀しみは、正史から受け継いだものかも知れない。
 とにかく乱歩や正史の極彩色のあの世界が、京極夏彦を媒介に、更に精緻になって突如復活を遂げたような印象を持った。

 前月からの流れで、ジャンル性を過剰に意識してしまうのだが、本書ほどの長篇ともなると、当然だが、短篇のようなわけにはいかない。いろんなジャンルの諸特性因子が錯綜的に重合して作品世界が形成されているわけである。類型論的ジャンル論が不毛な所以だ。

 本書は、出だしは怪奇小説。それから次第に幻想小説へと傾いていく、というか幻想小説としての特性が割合を増していく。
 〈異界〉が頻出するからというのではなく、一々の〈異界〉を招来するのが切実な意識であり無意識であるからだ。どの〈異界〉も、幻視する作中人物が招き寄せたものだからだ。

 解決編でミステリに着地するが、ミステリとしては偶然や予断が多すぎて、いささか弱い。
 ところが本書の凄いところは、その弱さを逆手にとってしまう点で、その結果、弱さ自体を発条にすることで、最終的に幻想小説に跳ね返っていくというアクロバットを演じている。


金聖昊
『沸流百済と日本の国家起源』
林英樹訳(成甲書房)

 著者の方法論は『三国史記』の初期記録を恣意的に改変せず、独自の「統計的地名考」に基づいて動態的に捉えることで事実の復原をはかろうとするものである。
 その過程で歴史上抹殺されてしまっていた今一つの百済である「沸流百済」の痕跡を復原し、日本の大和朝廷がかかる沸流百済の亡命王朝であることを論証する。

 半島における沸流百済の復原過程は、非常に面白い。もちろん『三国史記』初期記録の記述を信用するという前提条件を認めなければならないが。
 ところが、話が日本列島に及んでくると、途端に読書の推進力が失われてしまう。
 それは結局、「邪馬台国はどこですか?」と同じメカニズムで、私の知識が朝鮮古代史に関しては乏しく、日本古代史に関しては本書の記述の客観性が判別ができる程度にはあることから惹起される過程なのだ。

 もちろん本書は本格ミステリではないので、これでオッケー。疑似古代史論として十分楽しめた。


綾辻行人
『十角館の殺人』
(講談社ノベルス)

 本来このヘテロ読誌は、特定のしかもごく少数の読者を対象に頒布されてきたものである。
 しかもあくまで読書感想日記であり、書評の類ではない。
 したがってネタばらしに対する規制を自己に課すことも別にしていなかったし、する必要もないと考えていたのだが、このたびネット上という、不特定多数の目に触れる可能性を排除できない媒体に移るに当たり、その点は配慮が必要かと考えを改めた。

 ――ということで、以下、犯人に対する言及がありますので、未読の方はご注意下さい。

 嵐の山荘テーマ。「そして誰もいなくなった」に則ってストーリーは進行する。内部者の中に真犯人はいるのか? それとも外部者の犯行か?
 意外にも真犯人は内部者であり、かつ外部者でもあった!

 今回のパーティに参加しなかった○○が通称を問われて「×××です」と答えたとき、私は少し不審を感じただけだった。
 名前を継承していくという慣習があると先述されていたので、後輩に譲ったのかな、しかし△△と違って現役の筈だけど――と不審は不審ながら、まだ脳天気であった。

 次のページの、6人全員が死亡という新聞の記事で、私は椅子から転げ落ちた。
 血のめぐりが悪いもので、そこで初めて気がついたのだった。
 その瞬間に大体の筋書きは読めたわけだが、その瞬間の、ダダーッとパースペクティヴが啓ける衝撃は圧倒的だった。

 閉鎖空間が破れることに関しては、小説内でもその可能性が屡々言及されており、その辺は別にアンフェアとは思わなかった。しかしながら、×××の一人称で別の学生の死体発見が語られていて、ここは「アンフェアすれすれ」(著者のことば)どころか、堂々たるアンフェアじゃないかと小生思った次第である。完璧に翻弄されてしまってちょっと悔しいので、付記しておく(笑)。

 小生はもともとミステリの血が薄いので(求めているカタルシスの質が違うので)、十中八九は謎解明の段階でがっかりする。『霧越邸』はその点、謎解明の後に更なるパースペクティヴが開示されるので気に入ったのだが、本書は純然たるミステリの範囲内での謎解明であるにもかかわらず、センス・オブ・ワンダーを感じた。

 たとえジャンル小説であっても、ジャンル小説として(小説としてではない)優れたものであるなら、自ずとジャンル外読者をも感服させるにたる一般性を有する証左であろう。


倉橋由美子
『夢の通い路』
(講談社文庫)

 全21篇中17篇が、桂子さんという冥界と交通できる女性を主人公に据えた掌篇連作。
 西行、式子内親王、定家、則天武后、西脇順三郎たちとの典雅な交流を描くが、出来としては大したことない。

 ところが、残りの単発掌篇が素晴らしいのである。

 「蛇とイヴ」は、ミトコンドリア・イヴの話題から始まり、何と神が降臨し、国際シンポジウムで天地開闢のころのイヴの生活について講演するにいたる。(本来の?)蛇のイメ−ジが素晴らしい。山尾悠子ばりの(というのはあとさき逆か)硬質ファンタジ−。

 「春の夜の夢」は、現代版六条御息所。女性は歳を経ると鬼になる。

 「猫の世界」は、現代版変身譚。とみえるが、よく考えるとそうではない。だって女の子の母親が猫なのだから。判るかな?

 「夢の通い路」、夢の通路を通って妻の許を訪れる妻の死んだ前夫。現代版カーナッキである現夫はいかにしてその通路を塞ぐのか? 皮肉な結末だが、この手は新しい。

 全篇を通じて、著者はしかし結局〈女性〉から離れられない。そのあたりが男である小生には、物足りないと言えば物足りない。

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芦辺拓
『地底獣国(ロストワールド)の殺人』
(講談社ノベルズ)

 本書は、ロマンの香り馥郁たる懐かしの秘境冒険小説――でありながら、且つミステリの極北を歩む本格パズラーでもあるという、大向こうを唸らせるに足るケレン味たっぷりの大傑作で、堪能した。

 ――1930年代、学界を逐われた奇人学者に美人助手、客気の新聞記者らで構成された探検隊が、史上最大の秘密を解くべく、当時最新鋭の飛行船で人跡未踏の地に向かう。着いたところは太古の生物と謎の部族が跋扈する異世界で、そこへスパイと不可解な古文書が絡む……(著者あとがき)

 老生、このところ感受性の硬化を如何ともし難く、よほどうまくハマらないと「冒険物語」を虚心にたのしめなくなってしまっている。
 少年心(ごころ)とでもいうものを、この十数年の間にずいぶんとすり減らしてしまったらしく、ことに「探検隊」などというシロモノが臆面もなく出てくると、途端に温度の低下をきたしてしまうのである。もっとも、それはそれで内心忸怩たるところもあるのだが、しかし本書では物語世界にどっぷりと浸かって遊ぶことができた。

 それには理由があり、つまりはこの本の知識量が非常に豊富で、多方面に亘る文献資料が渉猟され自家薬籠中の物に消化されて、完璧に小説世界の血となり肉となり得ているからなのだ。
 たとえばアルメニア独立派、トルコ共和派(ケマル・パシャ派)、トルコ王政復古派、ソ連のスパイ、などが入り乱れる当時の露土国境における政治的状況がきっちりと押さえられていて、それが隠し味としてピリリと効いている。

 本書ではその辺を取っ掛かりにすることで小説世界にすっと入って行けたようだ。
 つまり、悲しいかな、冒険小説といえどもリアルな世界と細糸一本ででも繋がってないと、受けつけない体質になってしまっているのだ、何ともはや……。

 物語の鍵となる超古代史系のアイデアは、ちゃんと出典が明らかにされている。「邪馬台国はどこですか?」の、タネ本を取り扱う際の粗雑な態度とは対蹠的で好感が持てる。
 個人的には上代日本語(の祖語?)を操る謎の地底部族に惹きつけられた(この部族が実際に――具体的に――彼らの言葉を喋るところを見られたらもっと嬉しかったのだが、そうなると本格SFだ!)。一瞬顔見せするだけだが、〈蛭子〉のイメージもすばらしい。
 秘境冒険小説の急所を、著者がしっかりと掴んでいることに感心した。

 ところで本書は秘境冒険小説の傑作と言うだけではないのである。これだけでも凄いのだが、さらにその上、本書は密室テーマ(嵐の山荘テーマ)の本格パズラーでもあるのだ。……

 密室に見立てられるのは、アララト山地底に存在したロストワールド「高天原」(!)。
 そこは、「太古の生物と謎の部族が跋扈する」、常に死と隣り合わせの世界であった……
 そういう世界であるにもかかわらず、探検隊員に連続する死は、明らかに〈密室殺人〉なのである。

 どうして、そのようなことがいえるのだろうか? また、このような「死に対して開放的な」空間が、いかにして〈密室〉を構成しうるのであるか?
 ところがところが、それがいえるのだ。ある前提(トリック)を認めたとき、地底世界がただちに〈密室〉と化すことを、読者は目の当たりにするであろう!
 それがこの〈密室〉の実にユニークなところなのである。では、この密室を成立させるトリックは何か?

 ――以下、トリックに触れていますので、未読の方はご注意下さい。

 それは即ち「屍肉喰いとしてのティラノサウルス」というアッと驚く前提(トリック)である。
 屍肉喰いとしてのティラノサウルス像は、近年有力になった説であるが、作者はいち早く本書に採用したのである。
 それにしても、これは何たるトリックか。まさに前代未聞、前人未到にして前後不覚(!)の超絶トリック。読者を茫然とさせること疑いなし。

 屍肉喰いとしてのティラノサウルス――それがはたしてトリックとして適当かと疑問の読者もおろう。
 しかし、本書は「パズラー」なのだ。リアルな社会派ミステリーなんぞではないのである。

 本書においては、「屍肉を喰う」ということは「生きた獲物を捕らえない」ということを含意しているのである。
 実際には、屍肉をあさるハイエナが小動物さえも捕らえないで屍肉だけしか食さないと言うことはありえないだろう。確かにその通りなのだが、本書の「小説世界」の中では、違うのである。

 本書の「ティラノサウルス」は、リアルな(といっても、もちろん誰も現物を見たものはいないわけだが)ティラノサウルスではなく、「小説世界」内だけに存在しうる、まさにパズルのピースとしての、あるいは「記号」としての「ティラノサウルス」なのである。
 ミステリ成立のために構築された要素(ピース)として本書の「ティラノサウルス」は存在している。「屍肉食いだが、たまに補食もする」というような、そういう灰色の行動は絶対取らない「記号」として存在するのである。

 読者はかかる設定を、まず受け入れなければならない。それを認められない読者は本書を読む資格なし。直ちに退場するにしくはなかろう。
 かかる前提を認めた読者のみが、ということは即ち作者によって入室を許された読者のみが、開かれた扉の向こうで、謎解明の、あの一点に収束するめくるめく感動を味わうことができるのである。
 すなわち本書は、作者が読者を選別する、通俗小説とは対極にある一種選民的な小説であるといえよう。


江戸川乱歩
『大暗室』
(講談社)

 「大暗室の大宴会」第一回を嘉して読む。

 「大暗室」――という乱歩が夢想した地下ユートピアは、実はある意味で現実化している。即ち大東京地下に張り巡らされた「大暗室」とは、いわば今日の地下鉄網と地下街ではないか! 
 それが証拠に泉もあれば、川も流れている。うじゃうじゃと行き交う人間どもは目障りだが、終電車が出てしまえば、人通りもまばらになるだろう。

 この現代に乱歩が存命であったら、実現された「大暗室」を見て、一体何というだろうか。どんな感慨を抱くのだろうか? 
 ――夜更け、照明の落とされた無人の地下街を、夜毎着流しで彷徨する怪人物の姿を、私は妄想する。……

 かくいう私も地下街が大好きで、ウメダやナンバに出て来てもすぐに地下街へ降りたがるクチである。思い返してみれば、なじみの喫茶店もよく行く飲み屋も、ほとんど地下街の店ばかりだ。そんな人は多いのではないだろうか。
 人は(というより私は)どうして〈地下世界〉にあこがれるのだろう?

 乱歩の描くユートピアについて、(「新宝島」の孤島にこと寄せて)「まさしく隠れ蓑願望を成就させる目的で、作家自身がその内部に身を潜め、世界から隔離される密室として用意された」とする中相作の分析(「江戸川乱歩」朱夏No.13所収)は説得力がある。それは(〈地下世界〉願望のある)わが身に照らして納得できる。

 なるほど、乱歩にとっての創作とは、自ら主(あるじ)として住まうべき隠れ家(ユートピア)の建設と同義だったのである。(たとえば「観画談」の作中人物のように)紙上に創造された想像の空間に身を潜めること、それが乱歩の見果てぬ夢だったのだろう。恐らくは本書を執筆している最中も、屡々乱歩は、自らが建設した「大暗室」に君臨する自分の姿を空想したに違いない。

 そういうことであれば、乱歩が地下街の彷徨なんぞで満足する筈はない――ということになるだろう。私の妄想は、それこそ見当外れも甚だしい〈妄想〉であったかも知れない。
 なぜなら畢竟、それは〈現実〉に過ぎないからだ。
 (――都市の砂漠に紛れ込み、永遠の不在証明を得ようとする安部公房もまた、乱歩の遺鉢を継承した作家だったのかも知れない。確かにそういう観点で安部文学を一皮捲れば、そこには〈現実〉を厭い非在の地図へ遁走しようとする安部の姿が仄見えてくるように思われる。)

 ことにも本書『大暗室』では、地下ユートピアから潜水艦よろしく潜望鏡をにゅーと突き出し、(何たる愚弄か)帝都そのものを窃視するという、壮大な覗き見の趣向まで用意して、幻影の城主は、さながら「現実や日常に対する嫌悪の念」(中相作、前掲稿)を表明しているかのようだ。


井上光晴
『黒縄』
(集英社文庫)

 窯元・前畑精一夫婦を焼死せしめた不審火をきっかけに、伊万里の陶工の村は(往生要集にいう)〈黒縄地獄〉と化す……。

 前畑夫婦は自殺したのか、それとも他殺か?
 主人公の古場光雄は、明後日の支払いをどうするかで頭がいっぱいなのだが、不審火の後、出戻りの姉の様子が突如おかしくなり、そちらも気にかけなければならない。警察が姉のアリバイを聞きに現れるが、別の人物が参考人として取り調べられる。
 謹厳実直と評判であった前畑のだらしない過去が次第に明らかになってき、姉と前畑の関係も取り沙汰されはじめる。事ある毎にそれを暗示する泉田隆は、古場光雄の祖父の時にも同様の火付け事件があったと示唆する。祖父の代にさかのぼる血の秘密とは……

 ――毎度お馴染みの奇怪な土俗的世界である。あらゆる種類の絵の具を混ぜ合わせて画布に分厚く塗りたくったような井上ワールドが本書でも展開される。

 巻末の解説によると本書は75年初出。しかしながら原型は65年頃らしい。すなわち傑作「地の群れ」(被爆を描いてこれほど〈美しい〉小説を、私は他に知らない)の数年あとにあたるか。
 初期のリアリズム小説から中期の幻想小説へ移行する著者が絶好調だった時期で、この頃の作品はどれも構成が緊密で間然するところがない。
 もとより本書もそうで、底無し沼に引きずり込まれるような感覚が全編に持続する。170頁ほどの中篇だが、ぐいぐい引き込まれて三時間弱で読了してしまった。

 別にこじつけようとは思わないが、本書は(著者の他の作品同様)怪奇小説である。中期の幻想小説の、バラードにも比すべき小説世界自体の圧倒的な磁力こそまだ見えないが、奇怪な、おぞましい「人間」たちが跳梁するこの小説世界は、私の裡では疑いなく怪奇小説なのである。
 本書は「怖い」。そうだ。一番怖いのは人間である――この通俗きわまる〈世知〉に、私は敢えて同意しよう。作中の村人たちの、この「怖さ」はどうだ。本書を通読してふるえ上がらぬ者はおるまい。

 とはいえ、村人たちの中に〈異常者〉がいるわけではない。村人は皆、素朴ではあるが(部落的)分別を弁えた社会人である。
 本書はいわゆるサイコホラー(サイコサスペンス)の類ではない。本書の怖さはサイコホラーのそれとは、全然別な物である。

 サイコホラーが描くのは、専ら特殊個人的な異常心理に由来する恐怖である。一人の「異常な」人間がもたらす恐怖である。
 ところが、『黒縄』の怖さは、違う。特殊な個人の恐怖ではなく、人が人であることの恐怖なのだ。人が人であること、このどうしようもない不条理を作者はこれでもかと見せつける。存在することの醜怪さ――それを目の当たりにして、読者は戦慄を覚えないではいられない筈だ。人はうつし身の獄に囚われている。自然的態度に縛られている。

 その文学的出自からして井上光晴はヒューマニズムの作家と規定されがちであり、どうも本人もそういう擬態を示すのだが、実は違うのではないかと私は疑っている。「ふつうの」人々を描写する際の、あの襲いかかるような容赦のない筆致(それはとりわけ中期の幻想小説に顕著である)に接すると、著者は人間という存在に絶望しか抱いてないのではないか、少なくとも希望は持っていないのではないか、そう思わないではいられない。

 ――終盤、姉を捜し回る場面では、村のどこにも人の姿が消え、何とも知れぬ気配が行間にみなぎってきて、思わずこぶしを握りしめてしまった。そのまま内宇宙に突入するかに見えたが、そうはならず、しかし怖ろしい結末に到る。

 白くうごめく影は黒い塊の手前にいた。
「ねえさん、そこにおるんか」
 しかし返事はなく、彼はなぜか電燈を向けるのをためらった。
「ねえさん、おれだ。心配することはなかよ」
 古場光雄は数歩すすんだ。
「ねえさん、そんなところにおったら危なかよ」
 白い影から、いやにはっきりした声はその時でた。
「誰でも近寄ったら死ぬよ」
 近寄ったら死ぬ。彼は途端に、明かりをまっすぐ白い影にあてた。仮面に似た弘子の顔。ものもいわず二歩、さらにずかずかと前に出て、電燈のスイッチを切った。明滅を繰り返す彼の手は石のように硬直し、白い影がふわりと消えた後も、しばらくいうことをきかなかった。(173頁)


芦辺拓
『不思議の国のアリバイ』
(青樹社)

 素人探偵・森江春策には、著者自身の姿がかなり反映されているのではないだろうか?
 『地底獣国の殺人』の森江はいわば安楽椅子探偵であり、人間的な部分というのはあまり出てきてなかったのだが、本書では、探偵にこと寄せて著者自身の実感的な社会観、人間観というものがストレートに表明されているように思う。

 森江春策という一個の人物に対して(ということは結局、著者の人間性に対してと言うことでもあるが)共感をおぼえた。
 森江探偵というのは、巻末の著作リストによるとシリーズキャラクターであるらしいが、キャラクターのシリーズ化を支えるのは、いうまでもなく読者の共感なのだ。

 『地底獣国……』の大ネタに比べるとトリックがややこじんまりであった。とはいえ、確かに異地・同地名という暗号は、例えそれが偶然のものであったとしても何かしら不思議なつながりを、いわば物語を、そこに(勝手に)感じ取ってしまうものなのだろう。そのあたりに着目したのは秀逸である。

12

藤田知浩・責任編集
「特集・探偵小説のアジア体験」
 
『朱夏』13号(せらび書房)

『朱夏』編集部「『新青年』の国際性とアジア」
 『新青年』が、もともと海外志向の雑誌であり(その歴史が日本の植民地統治期と重なる)、同時に〈探偵小説〉の雑誌でもあったことを確認し、それでは〈探偵小説〉それ自身の海外志向性(なかんずくアジア体験)はどのようなものであったのかを問う。そして探偵小説には確かに国際小説が少なくなく、それは何よりも探偵小説という非リアリズム小説の書き手たちの奔放な想像力が国内に収まらず外部へと向かったためであるとするが、彼らが本当に海外を描き得たかどうかは別問題だとする。

長山靖生「小栗虫太郎と不在の南洋」
 そもそも小栗作品は書斎の卓上で構想されたものであり、現地調査や取材を一切行うことなく、空想によって読者を魅了することが小栗の矜持であった。その小栗の唯一の海外体験であったマレー滞在は彼の作品にどのような影響を及ぼしたのか。実は軍部への批判を除けば、一種博物学的な視線によって現実の習俗を分析的に捉えるばかりで、その生な生活――実態そのものを見てはいなかったとする。

藤田知浩「夢野久作と朝鮮」
 久作にも海外を舞台にした小説は少なくない。それは福岡という土地の地理的環境の影響が大きく、そこにはぐくまれた〈地縁〉と〈血縁〉が久作にコスモポリタンな視界を開いたとする。ことに彼の「朝鮮もの」は、本人の「性格」(正義感)が、かかるコスモポリタンな視界の中より「朝鮮」を選び引き寄せ作品化せしめたものだが、その作品世界にはなぜか現地人である朝鮮人が出てこない。その理由は、その朝鮮が現実の(体験的な)朝鮮ではなく、著者の思考実験の場としての「想像上の朝鮮」だったからだとする。
 ……すなわち久作も(前稿の)小栗同様、朝鮮(人)の生な生活――実態そのものは見ていなかったのである。

中相作「江戸川乱歩」
 乱歩にとって、現実は一種の異郷に過ぎず、その退屈な日常の中に敢えて別世界を垣間見ようとするのが乱歩の創作であったから、舞台の表層は間に合わせで足りた。「白髪鬼」で初めてアジア(上海)を舞台に選んだとはいえ、それも小説世界の要請に従ったまでのこと。ここで〈変身のための隠れ家〉として選ばれた上海(アジア)は、これ以降も同じ装置として再使用される。即ち乱歩にとってアジアは、変身願望や隠れ蓑願望の場として間に合わせに選ばれたのであり、日本の南方進出に寄り添うかに見える「新宝島」の孤島も、その迎合的な外見とは裏腹に、描かれているのは実は現実に背を向けた少年期への退行であったとする。
 ……結局乱歩においても(アジアの)生な生活など全く問題の埒外だったのである。

 ――本特集中、とりわけ鍵となる論文を採り上げ大意を示した。〈探偵小説〉にとって〈アジア体験〉とは何であったのか、という本特集の問いに対して、これらの論文を通して浮かび上がってくる答えは、意外にもというか予想通りというか、〈探偵小説〉の〈アジア体験〉ということになるようだ。探偵小説家たちが「新青年」誌上に絢爛と繰りひろげた色彩豊かなアジア世界は、結局のところ〈現実〉のアジアにではなく、探偵小説家それぞれの〈脳髄内〉にこそ存在する世界だったのである。

大庭武年「小盗児市場の殺人」
 特集中唯一の小説。所収論文「大庭武年」において、西原和海は(大庭の探偵小説が)「物語の舞台に大連が選ばれている点に初めは興趣をそそられるものの、この植民地都市の顔つきや特性が具体的に書き込まれているわけではないから、結局平板な印象しか残らない」と評しているのだが、どうしてどうして、私にはこの探偵小説は面白かった。

 ことに「小盗児市場」の魔窟の描写には惹き込まれた。とはいえ「大連の」魔窟の描写が興味深かったからではない。そういう観点からすれば、西原の評は当たっている。
 ――だが、違うのだ。

 突拍子もなく聞こえるかも知れないが、大庭の描写する「小盗児市場」のたたずまいには、〈ノースウェスト・スミス〉が歩いていてもおかしくない雰囲気が横溢しているように私には思われる。C・L・ムーア描くところの金星の都の裏通りを歩いていくと、この「小盗児市場」に行き当たるのではないか、そんな気さえする。

 つまりこの小説世界は、一見、個別的大連の一歓楽地区を描いているように見えて、その実はどこにも存在しない〈異世界幻視〉なのであり、〈異国情緒〉という「観念」そのものを実体化したものに他ならない――そう読むべきなのだ。

 その意味では、上の西原の評は的を外しているのである。大庭自身は確かに大連に住んでいたかも知れないが、彼が(自覚していたかどうかは別にして)本当に描きたかったところは〈現実の大連〉ではなく、彼の脳髄内にのみ存在する〈内なる異郷〉だったのであり、かれもまた現実に背を向ける点において、乱歩に後れをとるものではなかったのだと思われる。

 ――結局、探偵小説にとってアジアは、現実のアジアではなく、〈異国情緒〉ないしは〈異世界幻視〉の表象として仮託的に表現されたものであった。ところで、実は当時の一般的日本人においても事情は同じだったのではないだろうか。内地人にとってアジアは、今日とは比較にならないほど遠いとおい世界だったのであり、ほとんど夢の国、物語の世界だったに違いないのである。少なくとも「ここより他の場所 Out of This World」だったことは疑いをいれない。

 今日、我々日本人は、日常茶飯的に海外へ出掛け、大学生やOLですらアジアへお手軽に旅立っていく。そこには(旅に対する)いささかの「覚悟」も「決心」も見あたらないように思われる。済州島へ日帰りゴルフに出掛けるシャチョサンにとってアジアとはいったい何だろう?
 本特集に触発されて、私のなかに生まれた設問である。
 恐らくは彼ら(彼女ら)にとって、アジアとは、単に日本の延長線上に存在する土地であって、「異国」ですらないのではあるまいか。だとすれば、現代の我々日本人も、逆の意味で生なアジア――実態を見ていないのかも知れない。

 本特集が照らし出すものは、意外に根深いことに改めて気づかされる。なかなか意欲的な特集であり、私も触発されるところ多々であった。ぜひとも更なる特集を組んでいただきたいと切に希望する。


上杉一紀
『ロシアにアメリカを建てた男』(旬報社)
堀江則雄
『極東共和国の夢 クラスノシチョコフの生涯(未来社)

 〈極東共和国〉という、その名称からして何やら謎めいた国家を知ったのは、多分高校で使用した歴史地図帳であったと思う。
 その時は思い込みで、シベリアに出兵した日本軍が建てた傀儡国家だと思ったようだ。
 その後シベリア出兵について調べる機会があり、〈極東共和国〉は再び私の前に姿をあらわした。〈緩衝国家〉というものであることを知った。1920年から1922年までの、わずか二年間しか存在しなかった国であることも。……

 ――緩衝国家???
 一体どんな国なんだ、と好奇心がむくむくと起き上がったのだが、詳しい資料も見あたらずシベリア出兵に対する興味も何となく萎んでしまったこともあって、そのうち忘れてしまった。

 ところが、上に取り上げた「朱夏」13号のブックレビューで井竿富雄という人が標記の両書を紹介していて、私は〈極東共和国〉に三たび対面することになった。
 上杉、堀江ともにジャーナリストであり、どちらの著書もこの短命に終わった国家を立ち上げたクラスノシチョ(ー)コフという異色の人物の評伝という形式を取っている。

 ところがそこに描かれたクラスノシチョコフ像が、面白いことに、互いにまるでかけ離れたものであるのだ。
 即ち上杉の描くクラスノシチョーコフが、まさに「シベリアにアメリカを建てようとした男」であるに対し、堀江の描くクラスノシチョコフは、「異色ではあるがボリシェヴィキ」であるという風に……
 で、結局私の軍配は堀江に上がる。

 上杉本には、ジャーナリズムの悪しき特性が端的に現れているように思われる。すなわち極端な話、羊頭狗肉なのだ。
 これが〈小説〉として書かれたものであれば、別に問題はないし不満もない。歴史上の人物の一代記を独自の史観で再話することは、歴史小説の醍醐味であろう。
 しかしノンフィクションでそれをするのは問題ではないだろうか。結局のところ上杉本は、ノンフィクションの体裁を取ったフィクションであると私は思わずにはいられなかった。

 実際、タイトル自体が既にして誇大表示である。
 確かにクラスノシチョーコフが、一瞬にしろ極東共和国を〈緩衝国家〉でなく、永続的な国家たらしめんと夢見たのは(おそらく)事実だったのだろうと了解できる。
 しかし例えそうだったとしても、〈アメリカ〉を目指したはずがないのは、堀江本に掲載されている憲法条文をざっと眺めれば自ずと明らかであろう。
 シベリアという資本主義にすら達していない地域にプチブル国家を建設することは、マルクス主義理論からして決して外れたものではない。むしろマルクス主義的には、レーニンの「戦時共産主義」より正論である。
 それを捉えてアメリカを建てようとしたと見なすのは、まさしく捏造であり、フィクションというほかないのではあるまいか。
 大体クラスノシチョーコフ自体、唯一人の理解者であったレーニンの後ろ盾がなければ、何もなしえなかったのであることは、どちらの著書も詳細に語っていることである。

 上杉本では、かかる誇大表示(事実歪曲)が故に、極東共和国を去ったあとのクラスノシチョーコフの描写に精彩を欠くこととなった。
 なぜなら、上杉の所謂シベリアにアメリカを建てようとまでした男が、なぜその後ソ連の官僚として(まさに身を粉にして)働いているのか、あるいは働けたのか――この事実を、読者は納得し難いからだ。上杉の観点に立つ限り、それは〈変節〉ということになるのではないのか。上杉説には、かかる二人のクラスノシチョーコフの間を繋ぎ得る説得的な論理が見あたらない。

 その点堀江本では、クラスノシチョコフは、理想家というより、むしろ「与えられたテーマに常に全力でぶつかっていく」優秀なテクノクラートとして把握されているのである。
 したがってここには一人のクラスノシチョコフしかいない。極東共和国の時代も、ソ連官僚として「ネップ」を推進していった時代も、クラスノシチョコフはクラスノシチョコフなのだ。ボリシェヴィキとして終始一貫しているのである。
 したがって上杉本では精彩を欠いた(ように読者に感じられた)後半生(ネップ時代)が、堀江本では全然そうではなくなるわけだ。やろうとしていることは、シベリア時代と同じだから、その粉骨砕身振りに(読者が)違和感を覚えるようなことはあり得ない。

 私は、ここに取り上げた両者の著書で、はじめてクラスノシチョコフという人物を知った者である。両書から得られた知識以外の知識を私は持ってはいない。
 しかしながら片方の著書には二人のクラスノシチョコフがおり、その変化(変節)を読者に納得させ得ていないのであれば、一人のクラスノシチョコフで首尾一貫して描写し得た堀江説に軍配を上げるのは当然の帰結だろう。

 堀江はまた、クラスノシチョコフが優秀な行政官ではあったけれど、どんな異論も腹に呑み込んでしまうというような所謂〈親分〉の器でなかったことが彼の悲劇の一因であることを暗に語っていて、これも納得できる。シベリアの明智光秀といえようか。

 近年、あまり顧みられることが少なかったロシア革命前後のシベリア・極東問題であるが(図書館にも関係図書は殆ど見当たらない)、このへんの歴史に興味がある人は必読である(>って私くらいか)。

 で、今猛然と興味がわいてきたのは当時のシベリアを暴れ回ったチェコ軍である。一種の鉄道国家だったのだろうか。その活躍ぶりに、私はバーサーカーを連想してしまうのだった。故郷を遠く離れた異境の地でおそらく本国とは命令系統を切り離された状態で、一体どんな組織でどんな人物が指揮してどんな日常生活を送っていたのだろう。適当な文献をどなたか紹介してくれませんか?


黒島伝次
『シベリア小説集』

 ――という本があるわけではない。上の「特集・探偵小説のアジア体験」(『朱夏』13号)の責任編集者・藤田知浩氏に示唆されて、黒島伝次の〈シベリアもの〉を入手できる範囲で読んでみた。

「渦巻ける烏の群」(http://www.venus.dti.ne.jp/~yohno/hayama/index.html)
 オンラインテキストで読む。
 将校の私怨で、主人公たちは危険な作戦に就かされるのだが、その理不尽さが将校個人的なところに解消されかねない危うさがある。
 そして重大な問題点は、将校の(即ち軍隊の=即ち国家の)被害者である兵隊が、村の娘のもとへ出掛けていくという行為に対する思弁が読みとれないこと。ひとりの毅然としている娘が描かれているのだが、そこから発展していく観念性に乏しく、作者自身がこの娘の意味をよく理解できていないように思われる。被害者が加害者であるという重層構造は井上光晴が繰り返し取り上げたテーマであるが、本篇はそのシチュエーションを生かし切れていないように思った。

「橇」(http://www.venus.dti.ne.jp/~yohno/hayama/index.html)
 本篇もオンラインテキストより。
 こちらはまだしもロシア人たちの心情が描かれていているのだが、ここでも結局は将校の個人的資質に解消されかねない視野の狭さが気になった。
 上の作品もそうだが、実体験に基づいている分、逆に対象化が困難だったのだろうか。社会小説としては(今日的観点からは)浅く、構造的な所にまでは達してないと思った。とはいえ現地を経験した者にしか描けない描写は魅力があり、そこから「生な」〈シベリア〉が圧倒的に迫ってくる。
 小説としては本篇の方がまとまっている。というか、戯曲を読んでいるような印象で、なかなかよかった。

「雪のシベリア」(集英社日本文学全集『葉山嘉樹/黒島伝次/伊藤永之介集』所収)
 従順によくつとめていれば、早く日本に帰してくれると信じて頑張ってきた吉田と小村は、逆に使い易いということでもう一年シベリアにのこされるハメになる。ヤケになった二人は軍律に反して兎狩りに呆け出す。獲物を求めて次第に遠方へと繰り出すが、遂にパルチザンに捕まって殺されてしまう。……
 皮肉がピリリと効いた佳品。シベリアの一年が簡潔に、しかしありありと描写されている。

「国境」(集英社日本文学全集『葉山嘉樹/黒島伝次/伊藤永之介集』所収)
 本篇の時代は、既にシベリア出兵は幕を閉じている。アムール川を挟んで対峙するブラゴウェシチェンスク(ソ連)と黒河(中国)を往復する密輸商人に照明が当てられる。渡河の描写が素晴らしい。前三作品と異なって、本篇にはパースペクティヴがある。地名もはっきり書かれている。けだし著者の体験の部分は少なく、知識で書かれているからであろう。その分、独特の臨場感は薄れているのであるが、密輸品を買うという行為がいかにシベリア人自身の首を絞めているかが構造論的に説明されていて面白かった。即ち経済小説として読める作品で、このような鳥瞰的な作品も黒島は書けるのだなと意外な感じがした。

 ――続けて読むと、個々の欠点はあまり気にならなくなってきて、不満は些細なものに感じられてきてシベリアの大雪原だけが目の前に迫ってくるのだった。黒島伝次のシベリアもの、もっと読んでみたいと思った。上記の表題で文芸文庫あたりで出版してくれないだろうか?


天城一
『密室犯罪学教程』(山前譲・発行)

献詞
 著者の乱歩に対するアンビバレントな感情や著者自身の自負・自賛(結局コンプレックスの裏返しであるところの)が論旨を錯綜させており要約しきれなかった。客観的な文章のように(一応)見えるが、要約していくとキイワードとなる言葉(例えばトリック)の意味するところが文脈で変わっていくことに気づかざるを得ない。これでは要約はできないのだ。

 たとえば著者は(チェスタトンの)「見えざる人」は〈トリック〉ではないとする。確かによく考えれば「見えざる人」は厳密には〈トリック〉ではないことに気づいてビックリする。重要な指摘である。とはいえ「見えざる人」の種明かしも、ごく一般的には〈トリック〉とみなされているのではないだろうか。大体本人自身が第9講で、「(「見えざる人」に代表される)超純密室は奇跡的に発見された例外的なトリックだと思いこんで」いたと述べているのだ。(下線、大熊)

 本書の目的について、著者は――〈トリック〉の創案など乱歩が大袈裟に悩むほどのものではなく――「密室トリックなど容易に創作できる」ということを身を持って示すことにあると言っているのだが、乱歩の「レジームの下に、トリックが探偵小説の基本ではないという自由は失われてしまっ」たと嘆く本人が喜々としてトリックを開陳しているのはどういうことだろう。

 どうも著者の真意は、(どんな軋轢があったか知る由もないが)〈トリック絶対視説〉を主張する乱歩自身が〈トリック〉創案を苦手としたことに対する揶揄(「オレならいくらでも思いつくぞ」)にあったのではないかと思われる。
 即ちこの文章を突き詰めれば、「乱歩先生、あなたはもともと「本格」の資質ではなく、本領は耽美主義にあったのだから、早く目を覚まして通俗長篇に専念すれば、トリックに悩むこともなかったのだ。あとは私に任せなさい」と言うことになりはしまいか、穿ちすぎだろうか? もちろん穿ちすぎでしょうね。これは筆が滑りました。

序説
 著者は、密室犯罪はメルヘンだという。これまた、ミステリ鑑賞の本質をつく鋭い指摘である。先回取り上げた芦辺拓『地底獣国の殺人』は、まさに格好の例であろう。密室トリックが成立するためにはメルヘン(ファンタジー)であることが必須条件である。

 以下の講義で著者は「実際にトリックを作り、トリックに基づいていかに展開すべきか」を具体的に示したという。あるいは「1つの密室犯罪のトリックが着想されたとき、いかにそのトリックを効果的に現実化するかを問題にします。そのためにいかなる舞台を設定するか、いかなる人物を登場させるか、いかようなプロットを選べば、一番目的にふさわしいか」そういう問題を扱ったと述べる。

 私には、この文が著者自身によって要約された乱歩のテーゼ、すなわち「探偵小説の創作にあたっては、何をおいてもまずトリック[……]トリックを考案することから、そのトリックにふさわしい犯罪を囲む人間関係を生み出すべきで、その逆ではあり得ない(献詞)」というのと、同じことを言っているとしか思えないのだが。……

第1講 抜け穴密室 作例 「星の時間の殺人」
第2講 機械密室 作例 「村のUFO」
第3講 事故/自殺/密室 作例 「夏炎」
第4講 内出血密室 作例 「遠雷」
第5講 時間差密室(+) 作例 「火の島の花」
             作例 「朝凪の悲歌」
第6講 時間差密室(−) 作例 「怨みが浦」
第7講 逆密室(+) 作例 「むだ騒ぎ」
第8講 逆密室(−) 作例 「影の影」
第9講 超純密室 作例 「夏の時代の犯罪」

 とりわけ〈意識下密室〉とされる「超純密室」は興味深い。京極夏彦『姑獲鳥の夏』がまさにこの例だろう。本講を読んで改めて気づいたのだが、関口巽のキャラクタ設定は、ひとえにあの〈トリック〉(天城流に厳密に言えばトリックではない)を成立させる必須の条件として導入されたものであるに違いない。それゆえ以後のシリーズ作品では(元来不要のキャラクタなのであるから)、関口という存在を作者が持て余している印象が強いのも納得できるのである。

終講 むすび
 (乱歩の)「テーゼが誤りであることを」「立証し得た」と著者は述べるのであるが、上述のように本書が乱歩のテーゼに対立するものであるとは、私には思えないのである。結局、(個々の鋭い指摘には感心したものの)失礼ながら衛星が惑星をやっかんでいるという印象しか残らなかったのだが。……


掲載 1999年10月21日(7月−9月)、11月2日(10月)、12月3日(11月)、2000年1月2日(12月)