ヘテロ読誌 |
大熊宏俊
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2000年 ●上半期 |
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1月 ●M・P・シール ザレスキーもの4篇、モンクもの3篇と共作1篇を収録。ファイロ・ヴァンスに負けず劣らずのペダントリーを作中にまき散らして独特の〈非現実〉な雰囲気を醸し出しているザレスキーものが一等よい。 「オーヴンの一族」は、1から10まで安楽椅子もの。ザレスキーの推理は、まさにホームズばりの牽強附会ぶりであるが、最初から〈非現実〉感が作品をオーラのように包み込んでいるので全然気にならない。 「エドマンズベリー僧院の宝石」は、伝奇小説的雰囲気が横溢する設定が好い。土耳其石のトリックは眉唾であるが、もともと設定自体が〈非現実〉的なので納得してしまう。 「S・S」は、3週間のうちにドイツ、フランス、イギリスで8000人が謎の死を遂げる、わが国のポスト新本格のようなド派手な作品で、事件の背後には古代スパルタの影が……。活劇場面もあるスケールの大きな伝奇ミステリ。開陳される文明批評もヒューマニズムから外れたものであり、私の感覚では充分にSFである。 「プリンス・ザレスキー再び」は、小品ながら、一ヶ月の間に7人のスペイン人と6人のロンドン市民が殺され、事件はザレスキーの許へ持ち込まれるが、ザレスキーは金田一と違って14人目の犯行を予見し、未然に防ぐ。 モンクものでは、「モンク、木霊を呼び醒ます」がよい。ゴシック的ムードに包まれた一種マッドサイエンティストもので、雰囲気はホラーだが、超自然的な要素はない。 全体を通してムードたっぷりであるが、ホラーではない。文明批評性が強く、SFとミステリのあわいに位置するもので、私の個人的な用法での〈怪奇小説〉に属するものである。 ●フリッツ・ライバー ファファード&グレイマウザー・シリーズの第2巻。 「円環の呪い」は、書き下ろし。第一巻との間を繋ぐだけの意味しかない幕間的作品。 「森の中の宝石」(アンノウン39年8月号) 「凄涼の岸」(アンノウン40年11月号)は17頁の小品ながら(あるいはゆえに)硬質のファンタジー。もはや散文詩である。 「泣き叫ぶ塔」(アンノウン41年6月号)は、惨殺された犬たちの怨念が解き放たれる因果応報譚。 「沈める国」(アンノウン・ワールズ42年2月号)は、ホジスンに勝るとも劣らない海洋怪異譚。 「七人の黒い僧侶」(アザー・ワールズ53年5月号)は、この世界(ネーウォン)のマントルそのものが人間を操り英雄の人身供犠を求める。 「夜の鉤爪」(サスペンス51年秋季号)は、哀切な妖鳥変身譚。 「痛みどめの代価」(書き下ろし、のちF&SF71年11月号)前は、後の辻褄を合わせる幕間作品。 「珍異の市」(ファンタスティック63年8月号)は、ネーウォン版〈イシャーの武器店〉。サイエンス・フィクションではないが、素晴らしいSF。 ●加納朋子 庄司薫(あるいはサリンジャー)的感性(作者がかつて庄司薫を愛読したことは間違いない)を小説世界の基層に孕む(些か少女趣味な)ミステリだなと思いながら、半分眠るようにゆるゆると読んでいたら、最後の話「ハロー、エンデバー」で叩き起こされた。 ミステリである前によくできた小説であると、つい口をすべらせて言ってしまいそうだが、そうではない。 ●フリッツ・ライバー ファファード&グレイマウザー・シリーズの第3巻。 「憎しみの雲」(ファンタスティック63年5月号)→余裕綽々の筆致はいかにも円熟の技倆を感じさせる。その分食い込んでくるものがない。 「ランクマーの夏枯れ時」(ファンタスティック55年11月号)→著者のカムバック作品にして、内容はコンビ復活譚。フォーミュラ小説として壺を押さえている。そういう意味で「シリーズ屈指の出来映え」(訳者あとがき)なのだろうが、わたし的には食い足りない。 「海こそは恋人」(書き下ろし)→間奏曲的作品ながら、自己陶酔に浸る北杜夫かと見紛うばかりのロマンティシズムに偏した表現が素晴らしい。 「海王の留守に」(ファンタスティック60年5月号)→ストーリーが動いていく話ではなく、海王の居城(?)見聞録の趣。海中に気道を作り出す仕組みとそれを操る老婆がよい。船を呼び寄せるオチも納得できる。しかしいまいち物足りない。 「間違った枝道」(書き下ろし)→つじつま合わせの間奏曲。次篇で二人組は紀元前200年頃のシリア辺で活動するのである。そのためにニンゴブルの洞窟から二人は次元を超えて出発する。 「魔道士の仕掛け」(『夜の黒い使者』47年刊)→150頁の中篇で読み応え十分。二人組が〈旧神〉の後裔であることが明らかになる。シリーズ中最も原型的ファンタジーに近い。本書中では一番書かれた時期が早いのに、ユーモアを交えたその悠揚迫らざる筆致に驚かされる。それともあとで手が加えられているのだろうか。 ――訳者あとがきで、第4巻の予告があるが、今日に至るまで出版された形跡はない。 ●芦辺拓 神戸から伊勢にのびる〈歴史街道〉に沿って、女性のバラバラ死体の部分が発見される。奈良の郵便ポストから右腕、宝塚の廃館から胴体、伊勢志摩イスパニア村から左足が、そして天王山トンネル付近から頭部が…… タイトルに騙されて、トラベルミステリのつもりで気を抜いてゆるゆると読んでいた読者は、だしぬけに後ろから殴られたような衝撃を受けるだろう。「あっ」と声をあげて、手にしていた本をパタリと取り落とすかも知れない。 こんな鬼畜なトリックを考える作家とはどんな冷酷なヤツだと、人は思うに違いない。 作者と主人公の距離が小さい作家として、まず思い出すのは眉村卓である。そういえば、眉村卓は「日本で一番地味なSF作家」ではないだろうか? 著者も眉村卓も、同じく大阪を離れない作家であるが、どことなく似通った感性があるような気がしてならない。 構成的には、作りが少し丁寧すぎたように思う。僅かしか出てこない端役にまで名前があり、それなりの心の内が描写されるのだ。 枝雀流に言えば、「緊張と緩和」のメカニズムが、結果的に、充分には回り出さなかったといえるか。作家的誠実さが、逆に裏目に出たのではないかと思わぬでもないが、とはいえ、トラベルミステリの衣を被った本格ミステリという趣向は、それ自体が既に<批評的>であり、作家としての主張が清々しい。 ●ヴァン・ヴォクト ――大マゼラン雲を航海中の地球船スタークラスター号は、偶然文明種族の存在を探知する。それは1万5千年前に迫害を避けて地球から脱出したデリアン・非デリアンのグループの末裔だった。彼らは<五十の太陽>という星間連合を大マゼラン雲内に作り上げていたのだ…… 主人公のモルトビーはデリアン・非デリアンに迫害される混成人(デリアン・非デリアンの混血)の世襲指導者にして(デリアン・非デリアンが組織する)<五十の太陽>軍士官である。しかも彼は(やがて)地球船スタークラスター号の女性艦長の夫になる人物である。 かかる設定によってモルトビーは、入れ子構造的に互いに対立する([混成人(M)/デリアン・非デリアン(D)]/[地球人(E)])3グループを媒介する文化英雄であることが明らかである。この3項は、いずれも主人公モルトビーにおいて接続しているのである。 この3項は、3個の2項対立(E/MD、M/ED、D/EM)を可能ならしめる。事実この小説ではかかる3様の対立が発生するのであるが、この全ての状況において、モルトビーは文化英雄らしく媒介項として行動する。つまりモルトビーは、両義的な境界人(マージナルマン)であり、その「特権」において、最終的に3項を統合するのである。まさにmyth-making (訳者あとがき)な物語であり、いかにもヴォクトらしい趣向といえよう。 ところで、本書は非常に読み易く、私は半日で読了した。 したがってこの作家にしてはずいぶんあっさりした仕上がりになっており、ヴォクトらしいごった煮感が乏しいのは残念だが、逆にストーリーで読ませる物語になっている。存外ストーリーテリングが巧みであるのは、意外な発見だった。 大マゼラン雲を舞台に、無限の〈空間感覚〉を追感できる(表層的には)ストレートなスペースオペラであり、まさに『スラン』のマゼラン星雲版(訳者あとがき)といえる。しかしながら深層的には上述のように構造論的ダイナミズムが明瞭で、『スラン』より面白い。 |
●藤田宜永 私立探偵・竹花を主人公に据えたハードボイルド小説集。中篇3本を収載する。 「苦い雨」→竹花は、台湾人の夫婦に、戦前現地の小学校で教えをうけた教師を捜してほしいと依頼される。 この2篇はそれなりによくできた小説だと思う。しかしハードボイルド小説を読む楽しみを、私に与えてくれるものではなかった。 「レニー・ブルースのように」→竹花は、関西のとある組長から家出した娘を捜してほしいと依頼される。竹花が調査すると、娘は京葉線沿いの工場地帯の小屋でストリッパーをやっていた。竹花が小屋に来たときには、すでに娘は消えている。娘の恋人で小屋付きコメディアン西関は、ダスティン・ホフマン演じるレニー・ブルースのようになりたくて医大を中退した男。その西関を温かく見守る小屋通いの老人には、西関と同級生だった孫がいる。孫は、西関みたくドロップアウトせずスクエアに生きていて、老人はそれが物足りない。そして探偵がジャズマンだった過去が明かされる。マイルス「死刑台のメロディ」がBGMのように作品世界に流れる。西関のテレビには「レニー・ブルース」のビデオが音もなく映っている。やがて娘は死体で発見されるが……。 2作目と3作目の間に一年のブランクがあり、「あとがき」によれば、作者はこの間に長篇「ボディピアスの女」を書き上げているらしい。作者は非常に間口の広い、ある意味小器用な作家だが、あるいはこの長篇で、正統ハードボイルドのスタイルを会得したかも知れない。「ボディピアスの女」、是非読んでみたいと思う。 ●ハリイ・ハリスン ハリスンはうまい。本当にうまい。改めてそう思った。ハリスンにすれば余技的な作品であるが、まさに職人芸というほかない。しかもその芸の冴えは、こういうのが本職のブラウンと比べても決してひけをとらないだろう。 本書は、形式的にはスカイラークシリーズとレンズマンシリーズのパロディにしてオマージュであるが、その一方で広くスペースオペラ一般に対する批評性を有する作品である。 それでもなお、本書はスペースオペラとして一級品である。良くも悪くもスペースオペラの全てがぶち込まれている。作者はもちろん分かってやっているのだ。スカイラークシリーズ、読み返したくなった。 ●松尾由美 《近未来の東京、人工子宮の普及によって女性が妊娠・出産から解放された時代に、あえて昔ながらの出産を選んだ女性たちがいた。東京都第七特別区(通称バルーン・タウン)はそんな女性たちが天然記念物並みの保護を受けて暮らす妊婦の町である。殺人事件の捜査のため、別世界同然の町に派遣された女性刑事・江田茉莉奈は、町に住む妊娠中の友人・暮林美央の協力を得て、数々の難事件に挑むことになる》 表題作→ハヤカワSFコンテスト入選作品である。「お腹以外は透明人間」である妊婦は、なぜ引っ越しを繰り返したのか? 発表順に並べられた中短篇4篇。前の2作品より、後ろの2作品のほうが優れている。著者は書きながら作家として成長していくタイプだったようだ。 謎解きは、どれもそれなりの切れ味で満足できるものであるが、表題作は解明に至るプロセスに「妊婦特有のカン」が介在するので少し不満。個人的には最後の作品が一番面白かった。「謎のエバンス」は読んでないので、どの程度パロディなのか判らないが、一番熱中して読み終えた。小説としてバランスのよい出来上がりになっている。 ●本多正一 私は、所謂文壇事情などということについてはとんと興味がなく、晩年の中井英夫に助手なる者のあったことを、つい最近まで知らなかった。 パラパラとめくっているうちに、いつしか端座して読み耽っていた。 一読、私が感じたのは、意外にも「羨ましい」という思いだった。 ところでそれは、実のところ、中井英夫本人にも言えることで、著者本多正一との最晩年の4年半は、中井にとっても苦しいけれども「幸福な」日々であったはずだ。中井は至福のさなかでその生を終えたのである。それは間違いないことである。 だとすれば、著者の「なにものにも替えがたい」至福と、中井の(写真の表情に窺える)至福は、実は相関していた、というよりひとつの至福の両面だったのではないだろうか。 著者が巻き込まれることになった取っ掛かりは、もとより敬愛する作家ということだったにせよ、そのうちそんなことはどうでもよくなっていったのではないかと推察される。 「無私の愛」という表現があるが、蓋し片手落ちな表現で、実際は相対していた二つの「私」が互いを求め合い、支え合ううちに融合し、ひとつの「私」にまで昇華した状態を表しているとするなら、著者と中井英夫はまさにそのようなひとつの「私」に達していたのであろう。 本書が個別的中井英夫の晩年に関わるエピソードだから、感動するのではない。一般的には稀有に近い濃密な関係に、即ち二つの「私」が互いに今一方の「私」を呑み込んでひとつの「私」となったという事実に対しての感動なのだ。著者と中井が二人ながらに〈大きな私〉に達し得た事実に対しての感動なのである。素晴らしいと思う。 |
●フレドリック・ブラウン 「序」は、実にクリアーなSF論となっている。 「悪魔と坊や」→坊やのいたずらがこの世界を救う。気の利いたショ−トショ−ト。 「死刑宣告」→タイムスケ−ルの差異が死刑を一転天国に変える。ショ−トショ−ト。しかしオチは8行目でバレバレ(笑)。 「気違い星プラセット」も面白い。ここにはいろんなアイデアが投入されているが、殊にも私が気に入ったのは、次のアイデア。 「非常識」→驚異の未来社会においてもなお、「アスタウンディング誌」は非常識な雑誌なのだ。SFファンのファン心をくすぐるショ−トショ−ト。 「諸行無常の物語」→驚異の学習能力(ただし批判的に読まず、すべてを無批判的に吸収する)を備えた機械は、あっという間に涅槃に達する。これはオウムの信者を予見した作品である(ウソ)。 「フランス菊」→「家政婦は見ていた」ならぬ、草花は見ていたというショートショート。 「ミミズ天使」については、〈人外境だよりバックナンバー〉収録の「不定期連載SF伝説」第八回に詳述した。そちらを読まれたい。 「大同小異」→これもスケ−ルの差異に基づくセンス・オブ・ワンダ−ねらいのショートショート。 「ユ−ディの原理」はなんとも洒落た傑作。完成度では「ミミズ天使」より上かもしれない。ブラウンに多いモチーフ(てことは星新一的モチーフでもある)「世の中そんな甘いモンやおまへんでェ」を踏襲するものだが、アイデアが素晴らしい。 「探索」→犬にとって人間が神ならば、人間の神は犬にとって何なのだろうか。 「不死鳥への手紙」→適当に文明が進めば、最終戦争を起こして退化する――このサイクルをくり返す「懲りない」人類の特性ゆえに、人類は不死鳥である。皮肉なショートショート。 「回答」→神は存在するかの問いに「今こそ神は存在する」と答えたものは…… 「帽子の手品」→「人間というものは、まったく信じられないことを理解することが不可能である」ということを提示するホラ−・テイスト横溢する掌篇。 「唯我論者」→ウォルタ−・B・エホバは唯我論者だった。彼はすべてを消すことを果たしたが、当然ながら自分の存在だけは消せない。自分自身を消すためには…… 「ウァヴェリ地球を征服す」→ラジオの発明が28光年の彼方から電気を喰うラジオ電波型のインベーダーを呼び寄せる(この小説内世界の時点で56年前にマルコーニが初めて送信した電信符号を宇宙空間に発見したときに地球への接近を開始したと仮定されている)。昔の電波が順番に戻ってくるところはセンス・オブ・ワンダー的に圧巻。 「挨拶」→両性具有の金星人への最も適切な挨拶とは…… センス・オブ・ワンダ−たっぷりの作品集。この本にかぎらず、ブラウンは「気違い」という言葉をよく使う。よほど思い入れがあるらしい。私はブラウンの用いる「気違い」はセンス・オブ・ワンダーと同義だと思う。司修の挿画がすばらしい。 ●本多正一 前月掲載『プラネタリウムにて―中井英夫に―』(葉文館出版)の拙文を読んで下さった著者から本書を頂戴する。ありがとうございました。 14,15ページの写真は、白のトラッシュボックスになすりつけられた血のりが生々しい。そのトラッシュボックスを照れたような顔で提げ持つ中井の媚びるような、申し訳なさそうな表情が、血のりの色を受けてほんのりと赧らんでいるようで、深刻な事態なのに妙にほのぼのとしていて、いい絵だと思ってしまった。 全体に赤い色(あるいは夕色)が中井のいる風景の中に意識的に配置されているようである(6頁、12頁、16頁、19頁、20頁、21頁、32頁、34頁、36頁、38頁、40頁、42頁、45頁、52頁)。それが中井英夫という存在を、まさにくっきりと際立たせているように私には感じられる。この事実は流薔園園丁を名乗った中井自身が、しかし「赤」とは対極的な、むしろ寒色系の人だったということだろうか。 写真の下には、中井英夫の日記からの引用が添えられている。セレクションは著者によるものだろうが、これがまた実に写真とマッチしているのである。9頁など、写真と文章がひとつに融け合って得もいわれずユーモラスだ。 「写真はついに、セルフ・ポートレイトを免れることはできないのではないか」(本書、帯より)と著者は言う。そんなことはない、と私は思う。この写真集は中井英夫の「何か」を確実にとらえ、表現している。それは間違いなく本書を手にした人々に伝わっているはずだ。仮に百歩譲ってセルフ・ポートレイトだとしても、前回描いたように、中井と著者二人で一人の、セルフ・ポートレイトであろう。 ●リイ・ブラケット 本書は、著者の金星を舞台にした作品を日本で独自にコレクトしたもの。 表題作(1946、プラネット・ストーリーズ)は、レイ・ブラッドベリとの共作。 こうやって書き写していると、発表された時期が意外に新しいことに気づく。ハインラインの未来史シリーズなどSF黄金期の作品とほぼ同時代の作品なのだ。ところが、彼我の間には20年くらいのタイムラグがありそうな感じがする。どうも本書の発散するムードは、実年代より1世代は古いようなのだ。 とはいえ、本書が詰まらないと言っているのでは決してない。著者の作風は、いわばスペオペモードのブラッドベリといったおもむきがあり、その原色で塗りたくられた、安っぽいけれどもしかし濃厚な小説世界は、些か奥行きに欠けるにしても、独特の雰囲気が横溢していて、十分に魅力的で愉しめる一個の作品世界を充分に形成している。 ●ハーラン・エリスン 私は、エリスンが本当に巷間評価されるほどの実力をそなえた作家なのだろうかと、ずっと疑っていた。兎に角、小説世界がどうしようもなく安普請で、薄っぺらなのが気に入らなかったのである。 アメリカンコミックストリップ的な全然リアリティのない世界と、類型は類型だけれども黄金時代のSFには絶対見られなかった、所謂ヒップな人物造型とがないまぜになって、一種不思議な効果を上げているのである。 ベスト5は、 その他に、 |
●倉阪鬼一郎 久かたぶり(1年ぶり?)の倉阪ホラー。一読驚倒。本書は、これまで読んだ作品(怪奇十三夜、百鬼譚の夜、妖かし語り)とは雰囲気・スタイルを随分異にする作品だった。 もともと著者の文体は、本格的な怪奇小説の作風でありながら、案外常套句に頼るものなのであるが(少なくとも私にはそう感じられるのだが)、本書ではその傾向がとりわけ明瞭に現れたように思われる。 「殺人マシーン」というタームは、私の記憶ではこの場面以前には出てこなかった単語である。そのような単語が地の文中に現れたということは、それはつまり夏木エリカに対する著者倉阪鬼一郎の「主観」なのだといえよう。 そのあたりは乱歩の筆法に似ているかも知れない。乱歩もまた、〈描写〉というよりは〈語り〉の小説家であった。 たとえばこの宗教団体の存在理由であるとか(SFなら<あの昆虫>まで説明し尽くしてしまうのだがそれは別の話)、もっと細かくは主人公の作家の亡妻の骨壺がなぜそこに存在しているのか、とか、仔細に見ていくと疑問点が次々現れてくるのだが、それが読んでいる最中はとりあえずあまり<引っかからない>のだ。実は私も読中はこれらの点についてさほど気にならなかったのである。むしろ読了後に続々と疑問がわき上がってきたのだった。 そのことは反面、著者が意識したという小池真理子作品(わたし的には怪奇小説の傑作である)と比べて、良いとか悪いとかを越えた全然別種の作品になってしまったということに等価である。 結局のところ倉阪鬼一郎は(少なくとも)二人(怪奇小説家としての著者とホラー作家としての著者)いると考えるべきだろう。それを同一の基準で評価することは杜撰のそしりを免れ得まい。つまり怪奇小説家倉阪鬼一郎なる標準で本書を評価してはいけないのだ。それぞれ別の基準で評価するべきなのだ。 ●倉阪鬼一郎 前段で取り上げた『死の影』とは違って、本書は著者従来の路線上にある本格的なホラー小説である。 とはいえ、「本格ホラ−にして本格ミステリ」という目論見は成功しているとは言い難い。 実際本格ミステリらしい要素といえるのは、探偵役が現象に対して謎を解かんと行動する、そのスタイル(形式)のみである。頻出するアナグラム趣味はむしろ煩わしい。 ●倉阪鬼一郎 結局今月は倉阪月間になってしまった(笑)。 |
●レイ・ブラッドベリ 「霧笛」→限り無くホラ−に近いSF。典型的ホラーであるキングの「霧」と違うのは、キングの怪物が名無しなのに対して、本篇の怪物が恐竜であることが明らかなところ。つまり<名づけられたもの>として存在している。「命名という説明」があるので、SFなのだ。 「歩行者」→2053年の孤独な散歩者の受難。硬質のきらめきを宿すSF。ここに色濃いペシミズムは日本第一世代に継承されている。 「四月の魔女」→ファンタジ−である。魔女の存在がアプリオリに受容されているので、SFではない。 「荒野」→火星へ飛び立つ前夜の不安と希望と故郷への惜別の情を写し取ったシャガ−ルの絵のように冷たくて暖かい一幅の絵。もちろんSF。 「鉢の底の果物」→神経症的な異常心理を扱ったサスペンスフルな普通小説。 「目に見えぬ少年」→純然たるファンタジ−のようだが、普通小説である。なぜならここでは魔女のような老婆が登場するけれど、超自然現象など何も起こってないのだから。自分のことを魔女と思い込んでいる半分気の触れた婆さんなのかも知れないではないか。心に残る佳篇。 「空飛ぶ器械」→西暦400年の元(?)の国の皇帝と、王宮近くの空に飛行器械で飛び上がった男の話。申し分のない名篇。形式的にはファンタジ−だが、私は(「黄漠奇聞」などと同種の)幻想小説と呼びたい。 「人殺し」→今日の<携帯電話>を予見した秀作。「無線腕時計」(携帯電話)が隅々まで行き渡った世界、携帯電話が個人を管理し、圧殺する状況を見事に予見し活写している。瑞々しい想像力の賜物。SF。 「金の凧、銀の風」→一応シナが舞台となっているが、一種の寓話であろう。眉村卓に「いたちごっこ」というショ−トショ−トがある。本篇と同一のテ−マながらアプロ−チがまったく違う。なかなか興味深い。 「二度と見えない」→<貧しき人々>を描くO・ヘンリ−風の哀切な普通小説。 「ぬいとり」→5時になったら<起こる>ことを、登場人物達は知っている。知っていて針仕事をしながらその時を待っている。針仕事は待つことに対する気散じなのだ。その証拠に夕餉の支度の時間が近づいても、彼女らは腰を上げない。5時になった。しかし何も起こらない。少し希望が湧き女がやっぱり夕餉の支度をしなければと、つぶやいたとき、ついにそれは<起こる>…… 「黒白対抗戦」→年に一度の黒白対抗戦。その日、町は白人と黒人に別れて野球の試合。案の定事件が起こり…… 「雷のような音」→タイムマシンで恐竜狩り。ただし歴史が変わらぬよう細心の注意を払って。ところが主人公の靴は小さな蝶を踏んづけていたのだ…… 「山のあなたに」→ある夏の日、甥のベンジーが彼女の家に来た。一ヶ月の休暇の間彼女の家で過ごすのだ。ベンジーは字が書ける。彼女はベンジーに手紙を書いてほしいと頼む。彼は了解し…… 「発電所」→母の危篤で実家へ向かう途中、雨宿りした発電所で主人公の身に起こった不思議な体験…… 「夜の出来事」→夫を兵隊に取られた夫人の日毎夜毎の嘆きを止める手段は…… 「日と影」→うらぶれひび割れた壁がつづく下町。それを背景にモデルを撮影しようとするカメラマンに、リカルドは猛然と抗議する。…… 「草地」→ハリウッドの書き割りの都市が並ぶ一角。明日にも取り壊されるその一角。ロンドン、ポートサイドは既に滅ぼされた。夜警のスミスじいさんは、30年来その都市群を見回ってきたのだった。…… 「ごみ屋」→トラックでゴミ回収をなりわいとする主人公は、ゴミ回収車が原爆投下の際は死体回収を受け持つことが決まったとき、この仕事を辞めようと考える。…… 「大火事」→燃えだしたのはマリアンでだれも消火することはできなかった…… 「歓迎と別離」→43歳ながら12歳のままのウィリーは、3年住み慣れたここを、また出て行かなくてはならなかった。…… 「太陽の黄金の林檎」→エネルギーの枯渇した地球のために、ロケットは太陽の一切れを取りに(盗りに)「南」を目指す…… 31年ぶりの再読。当時読んだ銀背版が行方不明、返却を希望(笑)。 ●河野典生 表題作→ジャズバンドで「ぼうや」をやっていた吾郎は、日野皓正がモデルらしいジャズトランペッタ−の演奏を聞き、「所詮やつは別人種」だ、と思う以外にない。絶望的な苛々した気分は、いったん別れてまた吾郎のもとへ戻った恋人トコの、前の男の仕種に暴発する。…… 「羽根のない鳩」→幻想の鳩に関するふたつの挿話。 「チャイ売りの声」→インド旅行中、たまたま列車に乗り合わせたやさしい童顔の若者は…… 「驟雨の街」→沙子は、婚約者のマンション近くの河川敷でバイクに乗った若者に暴行されるが、そのとき沙子が見た現場から逃げたカップルの片割れは、あれは婚約者ではなかったか……。その婚約者が若者に刺される。沙子は河川敷きで若者を待つ。若者は片足が悪かった。それはかつて若者の恋人が暴行されかかったとき、助けようとしてうけた傷だった。沙子は若者とモ−テルに入るが……。アンチクライマックス(?)がよい。 「殺戮の夏」→妹の同棲相手の紹介で外車のセ−ルスマンをするはめになったおれは、自由ケ丘の「別人種」佐々木家の連中と関わりを持つ。山下トリオとおぼしいバンドの演奏がおれをたかぶらせる…… ――全体を通して、「別の人種」に頭を押えつけられて身動き取れない若者たちの焦燥、殺意、幻想、一瞬の狂気を、狂騒的なジャズをバックに、感傷に流れがちな文体でピンナップ。初出1974年ながら60年代後半のム−ドが横溢する作品集。 ●クリフォ−ド・D・シマック 良くも悪しくも、<シマック・ワ−ルド>としか言いようがない独特の「濃い」小説世界が展開される。 さらには、小人族や小鬼や妖精や霊魔など、おなじみの古きものたち(この未来では、彼らは「透明な星」からの移民者であり、リアルな存在として人間と共存している。が、その共存のあり方はかつてのアメリカインデアンのように居留地をあてがわれている)。その他、宇宙からやってきた(?)群体生物・車輪人等々。 新井苑子のイラストが随所に挿入されていて、そう描かれていればそういうイメ−ジなのだけれど、マンガ化という観点で言えば、坂田靖子みたいな作風が合うのではないだろうか? ●豊田有恒 読み始めたのは、実は昨年末のこと。したがって読了までおおよそ半年かかったことになる。しかもこの半年という時間の大半は、最初の三分の一、およそ120頁くらいまでに費やされたのだった。 時は延暦12年(793年)秋、舞台は陸奥(みちのく)、和人の前進拠点である多賀城からさらに深く分け入った――今の宮城県北部から岩手県南部あたり。この辺は当時の和人の北限であり、蝦夷との境界というか雑居地帯、和人から言えば最前線すなわちフロンティアなのであった。その向こうには、蝦夷の大酋長(コタンコルクル)アテルイの領する広大な荒野が拡がっているのだった……。 一介の風来坊大野の雄麻呂は、因縁浅からぬ上野の翁率いる開拓団(かれらは上野国より陸奥の黄金を求めてはるばるこの地に来ていた)が、蝦夷の領内深く入り込んでしまったのを知り、救出に向かう。そうして雄麻呂は、蝦夷の大酋長アテルイにまみえる。…… ちょうど並行してアンソニイ・ギルモアの歴史的な中篇「太陽系無宿」(初出、アスタウンディング誌1931年11月号)を読んでいたのだが、「太陽系無宿」が西部劇を宇宙空間に移植したものであるなら、本書は西部劇の舞台を古代の東北に求めたものに他ならない。発想は同じなのだが、ストーリーはギルモアの方がはるかに起伏がある。主人公のホーク・カースは超人的なガン・マンながら、ちょっとした不注意や部下のミスでなんどもあわやという危機に見舞われる。ところが、大野の雄麻呂はほとんどそんな不注意にもミスにも見舞われることなく、話は(そっけないほど)淡々と進んでいく。 この違いは奈辺に存するか、というに、けだし豊田有恒の創作の動機がストーリー作りにはないからに他ならない。作者の意図というか関心は、むしろ現代的(現在的)な、<異文化接触>論の考察のほうへと向かう。 さて、そういうものとしてある本書を愉しむためには、まず前提として次の点を受け入れなければならない。すなわち蝦夷が現在のアイヌに系譜的に繋がる民族であるという仮設である。個人的にはかかる仮設の検討をもっとしてほしかった気がする。たしかにアイヌがどこからやってきたかということに関しては北方説と南方説(≒列島原住民説)があり、もはや南方説が定説である。私自身も南方説が妥当と考えるが、だとすればかかるアイヌと縄文人との関係はどうだったのだろうか? 本書に於いて著者は、蝦夷に就いて、放牧を行っており「日本史上唯一といってよい、騎馬遊牧民の生活を送っていた」(30頁)と述べている。ところで現在のアイヌよりも、8世紀の蝦夷よりも、さらにずっと古い東北の縄文文化の担い手たちは、当時(1万2千年前から2千数百年前)の温暖な気候に後押しされた豊かな森の恩恵を蒙った<森の民>すなわち狩猟採集民であったはずだ。だとすれば著者のイメージする蝦夷(→アイヌ)は、縄文人とは無関係な、北方よりやってきた民族ということにならざるを得ないのではないだろうか。 私自身は、アイヌは北海道の縄文人の後裔であり(北海道にも勿論縄文遺跡はある。弥生文化はほとんど入ってこず、北海道では引き続き<続縄文文化>が7、8世紀までつづく)、東北の縄文人は弥生文化に融合吸収されて蝦夷になり、北海道の縄文人は、弥生文化の影響を受けないまま、気候寒冷化でそれまでの伝統的文化を放棄せざるを得なくなりアイヌ化したのではないかと考えている(九州の縄文人は熊襲となった。ただし隼人はインドネシア系海洋民。本州でも南朝を支えた勢力はおそらく縄文人の後裔ではないでしょうか)。 以上は本書の前提に対する異論である。 本書の手法は、SFのいわゆるエクストラポレーションの応用である。通常SFではエクストラポレーションは未来に向かって外挿されるのであるが、本書は古代の和人と蝦夷の文化接触に適用されている。したがって登場人物の行動や言説は、古代人らしくなく、まったく現代人なのである。ここで著者が行っているのは、現代日本人の<異文化受容>の問題点の指摘である。すなわち一種の<日本人論>なのである。 |
●津原泰水 日本人作家がものした短篇集で、文句なしの傑作というのに出会ったのは、実に久しぶりのような気がする。収録のどの作品も水準以下のものはない。著者は、最近の邦人作家のなかではとび抜けた才能の持ち主だと私は感心した。とにかく文章がうまいのに舌を巻く。筆力だけ取り上げても怪奇・幻想系のジャンル作家のなかでは一段頭抜けているように思う。 怪奇小説というのか幻想小説というのか、そういう作風なのだが、特徴はそのような作風にしては非常に珍しく、きっちり「オチ」がつくこと、そして意外にも小説中で起きる怪異に「理屈がある」ことなのだ。 それについては個々の作品で明らかにして行くつもりだけど、本書は、おれ(猿渡)とその友人である伯爵(というニックネームの怪奇小説家)の二人組が遭遇する怪現象奇現象を、話者であるおれが記述するという形式で統一された連作集である。 「反曲隧道」 つまり因縁が潜んでいるのは、トンネルではなく車のほうであって、トンネルはそれを映し出す鏡に過ぎないのではないかと伯爵は推理する――即ちトンネルを通るとき車自身の過去の記憶(すなわち事故の記憶)がフラッシュバックして、現在の持ち主である(つまり知らず事故車を買ってしまった)運転者に、当然彼が見たこともない光景を、見せるのではないだろうかと。…… 本篇は都筑道夫が「古くてつまらない」と否定した古いタイプの因縁話をまさに現代的にリニューアルした「新しい因縁譚」、すなわち<理屈のある怪談>なのだ。つまり私の個人的な用法での「怪奇小説」そのものなのである。(拙文「不定期連載SF伝説」第12回、参照) 「蘆屋家の崩壊」 ひょんなことでおれと伯爵は、遊離子の実家に泊まることになる。その夜、おれは遊離子と関係をもつが、その後おれは秦家の連中に襲われる。 「猫背の女」 「カルキノス」 「ケルベロス」 榛名川沿いのその村は荒れ果てていた。花代は、自分と双子の姉妹の葉子が生まれて以来、怪異が続いているという。実は双子はその片割れを榛名川の「オキナさん」に捧げる風習が大昔この村にあって、そんな迷信はとうに廃れていたのだが、姉妹が生まれてから怪異が続くもので、そんなことを言い出す村人も出てきていたのだ。 伯爵は川沿いの神社に変わった一組の狛犬を見出す。伯爵はそれが地獄の番犬ケルベロスであることを看破する。聞けば三代前の宮司はイタリア人だったという。ケルベロスだとしたら三体でワンセットのはずであり、三体で結界を張っていたはず、と伯爵。それでは残りのもう一体は?…… 「埋葬虫」 「水牛群」 著者のホラ−小説界における位置は(内容ではなく相対的な位置関係だ)、かつてSF界において筒井康隆が占めたのと同じポジションに位置しているのではないだろうか(精力的な倉阪鬼一郎はさしずめ小松左京、耽美的な井上雅彦は光瀬龍であろうか)。 ●澁澤龍彦 幻想の南海諸国歴訪博物記。いろんな不思議な生き物が登場してきて読んでいて愉しい。 ●ジャック・サドゥール 原著は1973年初版、1976年に増補改訂版が出ており、本書は後者を底本とする(余談ながら、著者は1934年生まれのフランス人で、奇しくも眉村卓と同い年である)。 著者のSF観は私のそれと非常に近しく、既読作品に対するコメントにはいちいち納得できる。最近私が拘っているSFの範囲論だが、それも著者の観念するそれとほとんど重なっているようだ。2、3例を挙げてみよう。 1926年4月の歴史的なアメ−ジング誌創刊号にガ−ンズバックが執筆した論説「新しいタイプの雑誌」のタイトルペ−ジの頭には、 ●アンソニイ・ギルモア他 アンソニイ・ギルモア「太陽系無宿」 エドモンド・ハミルトン「鉄の神経お許しを」 ヘンリー・カットナー「大作〈破滅の惑星〉撮影始末記」 フランク・B・ロング「月面植物殺人事件」 この二篇は良くも悪くも当時のスペオペの水準を体現している。上述のように《センス・オブ・ワンダー》発見以前のSFであり、資料的知識欲を考慮しない純粋な読書に耐えるものではない。 |
●掲載 2000年2月3日(1月)、3月4日(2月)、4月5日(3月)、5月10日(4月)、6月3日(5月)、7月4日(6月)