ヘテロ読誌
大熊宏俊

2000年 上半期

1月

M・P・シール
『プリンス・ザレスキーの事件簿』
中村能三訳(創元文庫)

 ザレスキーもの4篇、モンクもの3篇と共作1篇を収録。ファイロ・ヴァンスに負けず劣らずのペダントリーを作中にまき散らして独特の〈非現実〉な雰囲気を醸し出しているザレスキーものが一等よい。

 「オーヴンの一族」は、1から10まで安楽椅子もの。ザレスキーの推理は、まさにホームズばりの牽強附会ぶりであるが、最初から〈非現実〉感が作品をオーラのように包み込んでいるので全然気にならない。

 「エドマンズベリー僧院の宝石」は、伝奇小説的雰囲気が横溢する設定が好い。土耳其石のトリックは眉唾であるが、もともと設定自体が〈非現実〉的なので納得してしまう。

 「S・S」は、3週間のうちにドイツ、フランス、イギリスで8000人が謎の死を遂げる、わが国のポスト新本格のようなド派手な作品で、事件の背後には古代スパルタの影が……。活劇場面もあるスケールの大きな伝奇ミステリ。開陳される文明批評もヒューマニズムから外れたものであり、私の感覚では充分にSFである。

 「プリンス・ザレスキー再び」は、小品ながら、一ヶ月の間に7人のスペイン人と6人のロンドン市民が殺され、事件はザレスキーの許へ持ち込まれるが、ザレスキーは金田一と違って14人目の犯行を予見し、未然に防ぐ。

 モンクものでは、「モンク、木霊を呼び醒ます」がよい。ゴシック的ムードに包まれた一種マッドサイエンティストもので、雰囲気はホラーだが、超自然的な要素はない。

 全体を通してムードたっぷりであるが、ホラーではない。文明批評性が強く、SFとミステリのあわいに位置するもので、私の個人的な用法での〈怪奇小説〉に属するものである。


フリッツ・ライバー
『死神と二剣士』
大谷圭二訳(創元文庫)

 ファファード&グレイマウザー・シリーズの第2巻。
 原書は70年の出版。第1巻がまあそこそこの出来映えだったので、大して期待もせずに読み始めたのだが――とんでもない傑作だった! 
 「凄涼の岸」(訳題が素晴らしい)で波長が同期し、あとは、どんどん凄くなっていくのだった。センス・オヴ・ワンダーの無限上昇(アセンション)。

 「円環の呪い」は、書き下ろし。第一巻との間を繋ぐだけの意味しかない幕間的作品。

 「森の中の宝石」(アンノウン39年8月号)
 「盗賊の館」(アンノウン・ワールズ43年2月号)

 「凄涼の岸」(アンノウン40年11月号)は17頁の小品ながら(あるいはゆえに)硬質のファンタジー。もはや散文詩である。

 「泣き叫ぶ塔」(アンノウン41年6月号)は、惨殺された犬たちの怨念が解き放たれる因果応報譚。

 「沈める国」(アンノウン・ワールズ42年2月号)は、ホジスンに勝るとも劣らない海洋怪異譚。

 「七人の黒い僧侶」(アザー・ワールズ53年5月号)は、この世界(ネーウォン)のマントルそのものが人間を操り英雄の人身供犠を求める。

 「夜の鉤爪」(サスペンス51年秋季号)は、哀切な妖鳥変身譚。

 「痛みどめの代価」(書き下ろし、のちF&SF71年11月号)前は、後の辻褄を合わせる幕間作品。

 「珍異の市」(ファンタスティック63年8月号)は、ネーウォン版〈イシャーの武器店〉。サイエンス・フィクションではないが、素晴らしいSF。


加納朋子
『魔法飛行』
(東京創元社)

 庄司薫(あるいはサリンジャー)的感性(作者がかつて庄司薫を愛読したことは間違いない)を小説世界の基層に孕む(些か少女趣味な)ミステリだなと思いながら、半分眠るようにゆるゆると読んでいたら、最後の話「ハロー、エンデバー」で叩き起こされた。
 これはメタフィクションに入っていくのかなと身構えたのだが、そうはならず、しかし最後のメリーゴーラウンドの場面まで心地よく主人公たちと共に引き回されてしまった。

 ミステリである前によくできた小説であると、つい口をすべらせて言ってしまいそうだが、そうではない。
 随所に仕掛けられたトリック(謎)が、最後ですべて明らかになる構成は、疑いなく本書が優れたミステリであることを示している。そう、本格ミステリはメルヘンなのだ。


フリッツ・ライバー
『霧の中の二剣士』大谷圭二訳(創元文庫)

 ファファード&グレイマウザー・シリーズの第3巻。

 「憎しみの雲」(ファンタスティック63年5月号)→余裕綽々の筆致はいかにも円熟の技倆を感じさせる。その分食い込んでくるものがない。

 「ランクマーの夏枯れ時」(ファンタスティック55年11月号)→著者のカムバック作品にして、内容はコンビ復活譚。フォーミュラ小説として壺を押さえている。そういう意味で「シリーズ屈指の出来映え」(訳者あとがき)なのだろうが、わたし的には食い足りない。

 「海こそは恋人」(書き下ろし)→間奏曲的作品ながら、自己陶酔に浸る北杜夫かと見紛うばかりのロマンティシズムに偏した表現が素晴らしい。
 ……だが、おもに二人が話し合ったのは、海という恋人のことだった。いまや、海のまろやかな動きに二人はふたたび悩殺され、とりわけ暗闇の中では、不可思議にも彼女の気分に同調するのを感じていた。彼女の怒りと愛撫について、彼女の冷ややかさについて、ときには軽やかなメヌエットから、ときには激しい足踏みまでを混じえた、彼女の果てしない踊りについて、そして彼女の数かぎりない秘所について、二人は語り合った。……(109頁)

 「海王の留守に」(ファンタスティック60年5月号)→ストーリーが動いていく話ではなく、海王の居城(?)見聞録の趣。海中に気道を作り出す仕組みとそれを操る老婆がよい。船を呼び寄せるオチも納得できる。しかしいまいち物足りない。

 「間違った枝道」(書き下ろし)→つじつま合わせの間奏曲。次篇で二人組は紀元前200年頃のシリア辺で活動するのである。そのためにニンゴブルの洞窟から二人は次元を超えて出発する。

 「魔道士の仕掛け」(『夜の黒い使者』47年刊)→150頁の中篇で読み応え十分。二人組が〈旧神〉の後裔であることが明らかになる。シリーズ中最も原型的ファンタジーに近い。本書中では一番書かれた時期が早いのに、ユーモアを交えたその悠揚迫らざる筆致に驚かされる。それともあとで手が加えられているのだろうか。

 ――訳者あとがきで、第4巻の予告があるが、今日に至るまで出版された形跡はない。


芦辺拓
『歴史街道殺人事件』(徳間ノベルズ)

 神戸から伊勢にのびる〈歴史街道〉に沿って、女性のバラバラ死体の部分が発見される。奈良の郵便ポストから右腕、宝塚の廃館から胴体、伊勢志摩イスパニア村から左足が、そして天王山トンネル付近から頭部が……
 ところが、それらをつなぎ合わせてみると、「寸法が足りない」という謎を、名探偵森江春策はいかに解明するのか?

 タイトルに騙されて、トラベルミステリのつもりで気を抜いてゆるゆると読んでいた読者は、だしぬけに後ろから殴られたような衝撃を受けるだろう。「あっ」と声をあげて、手にしていた本をパタリと取り落とすかも知れない。
 それほどこのトリックは凄い! (その上、おぞましい!)

 こんな鬼畜なトリックを考える作家とはどんな冷酷なヤツだと、人は思うに違いない。
 ところが、どうも森江春策には作者の素顔が投影されている気配もあり、そうだとすると、作者は冷酷非情とは正反対の性格になる。
 なぜなら森江探偵は、本格ものには珍しくエキセントリックなところの全くない探偵なのである。むしろお人好しである。どこかで作者自身が書いていたと思うが、「日本一地味な探偵」である。
 その上、どうも惚れっぽいたちのようでもある。寅さんシリーズみたく、毎回あわい恋心をいだく設定なのかも知れない。
 おぞましいトリックと、それを解くどこまでも人が良い探偵――この落差が、また何ともいえぬ味わいを出している。

 作者と主人公の距離が小さい作家として、まず思い出すのは眉村卓である。そういえば、眉村卓は「日本で一番地味なSF作家」ではないだろうか? 著者も眉村卓も、同じく大阪を離れない作家であるが、どことなく似通った感性があるような気がしてならない。

 構成的には、作りが少し丁寧すぎたように思う。僅かしか出てこない端役にまで名前があり、それなりの心の内が描写されるのだ。
 人物造型がしっかりしているわけで、もとよりそれは、作家が十全に作品世界に沈潜して書き上げた証左でもあるわけだが、しかし結局、それは読む立場から言えば、山・谷というか、濃淡の差が小さく全体に同じ色調が拡がっている印象に向かわざるを得ない。

 枝雀流に言えば、「緊張と緩和」のメカニズムが、結果的に、充分には回り出さなかったといえるか。作家的誠実さが、逆に裏目に出たのではないかと思わぬでもないが、とはいえ、トラベルミステリの衣を被った本格ミステリという趣向は、それ自体が既に<批評的>であり、作家としての主張が清々しい。
 これは創案したトリックに対する絶大な自信がなければできないことであり、事実このトリックは、かかる批評性を支えるに足る独創性を、十二分に備えている。


ヴァン・ヴォクト
『宇宙嵐のかなた』浅倉久志訳(ハヤカワ文庫)

 ――大マゼラン雲を航海中の地球船スタークラスター号は、偶然文明種族の存在を探知する。それは1万5千年前に迫害を避けて地球から脱出したデリアン・非デリアンのグループの末裔だった。彼らは<五十の太陽>という星間連合を大マゼラン雲内に作り上げていたのだ……

 主人公のモルトビーはデリアン・非デリアンに迫害される混成人(デリアン・非デリアンの混血)の世襲指導者にして(デリアン・非デリアンが組織する)<五十の太陽>軍士官である。しかも彼は(やがて)地球船スタークラスター号の女性艦長の夫になる人物である。

 かかる設定によってモルトビーは、入れ子構造的に互いに対立する([混成人(M)/デリアン・非デリアン(D)]/[地球人(E)])3グループを媒介する文化英雄であることが明らかである。この3項は、いずれも主人公モルトビーにおいて接続しているのである。

 この3項は、3個の2項対立(E/MD、M/ED、D/EM)を可能ならしめる。事実この小説ではかかる3様の対立が発生するのであるが、この全ての状況において、モルトビーは文化英雄らしく媒介項として行動する。つまりモルトビーは、両義的な境界人(マージナルマン)であり、その「特権」において、最終的に3項を統合するのである。まさにmyth-making (訳者あとがき)な物語であり、いかにもヴォクトらしい趣向といえよう。

 ところで、本書は非常に読み易く、私は半日で読了した。
 というのも、上の芦辺作品とは対称的に、省けるところはどんどん省いてあるからで、良くも悪くも転がるように読めるのである(繰り返すが良くも悪くもだ)。

 したがってこの作家にしてはずいぶんあっさりした仕上がりになっており、ヴォクトらしいごった煮感が乏しいのは残念だが、逆にストーリーで読ませる物語になっている。存外ストーリーテリングが巧みであるのは、意外な発見だった。

 大マゼラン雲を舞台に、無限の〈空間感覚〉を追感できる(表層的には)ストレートなスペースオペラであり、まさに『スラン』のマゼラン星雲版(訳者あとがき)といえる。しかしながら深層的には上述のように構造論的ダイナミズムが明瞭で、『スラン』より面白い。

2月

藤田宜永
『探偵・竹花 失踪調査』(光文社文庫)

 私立探偵・竹花を主人公に据えたハードボイルド小説集。中篇3本を収載する。

 「苦い雨」→竹花は、台湾人の夫婦に、戦前現地の小学校で教えをうけた教師を捜してほしいと依頼される。
 「凍った魚」→竹花は、サハリンからやって来た日系二世のロシア人弁護士に、報酬を未払いの漁船船長を捜してほしいと依頼される。

 この2篇はそれなりによくできた小説だと思う。しかしハードボイルド小説を読む楽しみを、私に与えてくれるものではなかった。
 私は、久しぶりにハードボイルド小説でも読んでみようかと思って、本書を手に取った次第なので、これでは不満である。
 〈傑作ハードボイルド〉と表紙カバーに謳っているにしては、「ハードボイルドらしさ」に欠けるような感じがしてならなかった。思うに、それはどうやら解説的、説明的文章が多すぎるからのようで、これは私の感覚では決定的にハードボイルドらしくない要素なのだ。叙述を三人称にしたこともそれを助長しているように思われる。
 大体、この2篇のモチーフは、国際情勢や現代史など、まるで冒険小説のような素材ではないか。これでは嫌でも説明しなければならないことが多くならざるを得ない。
 「男は黙って……」というのがハードボイルドだと(勝手に)思いこんでいる私には、上の二篇を読んだ段階では、本書は、ハードボイルド小説集としてはいささか違和感を否めなかったのだった――
 ところがところが、最後の3作目、これが実に逆転満塁ホームランだったのだ。……

 「レニー・ブルースのように」→竹花は、関西のとある組長から家出した娘を捜してほしいと依頼される。竹花が調査すると、娘は京葉線沿いの工場地帯の小屋でストリッパーをやっていた。竹花が小屋に来たときには、すでに娘は消えている。娘の恋人で小屋付きコメディアン西関は、ダスティン・ホフマン演じるレニー・ブルースのようになりたくて医大を中退した男。その西関を温かく見守る小屋通いの老人には、西関と同級生だった孫がいる。孫は、西関みたくドロップアウトせずスクエアに生きていて、老人はそれが物足りない。そして探偵がジャズマンだった過去が明かされる。マイルス「死刑台のメロディ」がBGMのように作品世界に流れる。西関のテレビには「レニー・ブルース」のビデオが音もなく映っている。やがて娘は死体で発見されるが……。
 うーん、堪能した。感傷に充ちた哀切きわまるストーリーは、まさに正統的な私立探偵小説の傑作といってもよかろう。
 前2作とはまるで反対に、素材はいかにも私立探偵小説らしいもので、京葉線沿い(関西でいえば尼崎か)という舞台設定もイメージとしてよく効いていると思う。やくざの組長が(これも一種の類型だろうが)くっきりと描かれていて存在感がある。

2作目と3作目の間に一年のブランクがあり、「あとがき」によれば、作者はこの間に長篇「ボディピアスの女」を書き上げているらしい。作者は非常に間口の広い、ある意味小器用な作家だが、あるいはこの長篇で、正統ハードボイルドのスタイルを会得したかも知れない。「ボディピアスの女」、是非読んでみたいと思う。


ハリイ・ハリスン
『銀河遊撃隊』浅倉久志訳(ハヤカワ文庫)

 ハリスンはうまい。本当にうまい。改めてそう思った。ハリスンにすれば余技的な作品であるが、まさに職人芸というほかない。しかもその芸の冴えは、こういうのが本職のブラウンと比べても決してひけをとらないだろう。
 本書、プールに行けば必ずある長大な滑り台みたいなもので、いったんページを繰りはじめるや最終ページにたどり着くまで、加速がついて行きこそすれ、間違っても読者は途中で止まることなどできないはず。
 まるで映画か連続活劇ドラマを見ているような気がしてくるほど、その描写はスピーディかつヴィジュアルである。贅肉の全くない筋肉質の文章で、当然ながら、ストーリーを前に押し出していくに必要のないエピソードや描写は、一切省かれている。快調そのもの、タッタカ、タッタカとストーリーは進んでいく。

 本書は、形式的にはスカイラークシリーズとレンズマンシリーズのパロディにしてオマージュであるが、その一方で広くスペースオペラ一般に対する批評性を有する作品である。
 たとえば、美しいけどドジなヒロインが、お約束どおり凶悪なバグ・アイド・モンスターに担がれて連れ去られる。しかしガニメデ上での出来事なので、薄着のヒロインはカチンカチンに凍り付いてしまうのだった(笑)。その氷漬け美女を触手で愛撫するBEMの王様の図やいかに(いやはや)。
 また、本書の世界では、どの星の連中も地球のラジオ放送の電波を傍受しているので、みんな英語がペラペラである。言葉には全然不自由しないのだ(なんともはや)。
 主人公たちをあわやの所で救い出すのはなんでもありの御都合主義。いやもうばかばかしさの極致に開示される可笑しさは、もとより作者の目論見どおり。
 ここではスペオペの女性蔑視やWASP主義が「あたたかく」笑い飛ばされる。
 というのは、実は違っていて、頭の良すぎるハリスンは(親友のオールディスに馬鹿にされないように?)かような知的煙幕を張ることによって、はじめて心よりスペオペ執筆を楽しんだのではないだろうか(屈折してるなあ)。

 それでもなお、本書はスペースオペラとして一級品である。良くも悪くもスペースオペラの全てがぶち込まれている。作者はもちろん分かってやっているのだ。スカイラークシリーズ、読み返したくなった。


松尾由美
『バルーン・タウンの殺人』(ハヤカワ文庫)

 《近未来の東京、人工子宮の普及によって女性が妊娠・出産から解放された時代に、あえて昔ながらの出産を選んだ女性たちがいた。東京都第七特別区(通称バルーン・タウン)はそんな女性たちが天然記念物並みの保護を受けて暮らす妊婦の町である。殺人事件の捜査のため、別世界同然の町に派遣された女性刑事・江田茉莉奈は、町に住む妊娠中の友人・暮林美央の協力を得て、数々の難事件に挑むことになる》
 ――お隣の臼田惣介さんの「読んでも死なない」より無断引用。手抜きでスイマセン(笑)。

 表題作→ハヤカワSFコンテスト入選作品である。「お腹以外は透明人間」である妊婦は、なぜ引っ越しを繰り返したのか?
 「バルーン・タウンの密室」→妊婦にとってのみ密室である「穴だらけの密室」と消えた「珊瑚のネクタイピン」の謎は?
 「亀腹同盟」→「赤毛連盟」、「六つのナポレオンの胸像」、「踊る人形」と、ホームズもののモチーフが踏襲される理由は?
 「なぜ、助産婦に頼まなかったのか?」→アジアの小国の女性首相の出産に〈助産婦〉を立ち会わせないように画策したのはなぜ?

 発表順に並べられた中短篇4篇。前の2作品より、後ろの2作品のほうが優れている。著者は書きながら作家として成長していくタイプだったようだ。
 たとえば文章もそうで、簡潔平明であるのは同じだけれど、表題作は殆どショートショートの筆法であるのに対し、のちの作品ほど小説らしい文体になっている。

 謎解きは、どれもそれなりの切れ味で満足できるものであるが、表題作は解明に至るプロセスに「妊婦特有のカン」が介在するので少し不満。個人的には最後の作品が一番面白かった。「謎のエバンス」は読んでないので、どの程度パロディなのか判らないが、一番熱中して読み終えた。小説としてバランスのよい出来上がりになっている。
 それにしても妊婦とは、げにおぞましき生き物であるよ、と感慨を新たにしたことである。いやはや。


本多正一
『プラネタリウムにて―中井英夫に―』(葉文館出版)

 私は、所謂文壇事情などということについてはとんと興味がなく、晩年の中井英夫に助手なる者のあったことを、つい最近まで知らなかった。
 本書はその助手であった著者が、中井英夫との、死が二人を分かつまでの4年半に撮った写真と共に、中井の逝去後、中井について書かれた文章が収められている。

 パラパラとめくっているうちに、いつしか端座して読み耽っていた。
 ひょんな偶然から、1人の狷介な老作家の身の回りの世話をするようになった(1ファンの)青年が、好むと好まざるとに関わらず、否応なくひとりの作家の状況の渦の中に巻き込まれ、振り回されつつも、一種諦念にも似た愛情をもって献身に勤める姿には、深い感動がある。

 一読、私が感じたのは、意外にも「羨ましい」という思いだった。
 ある意味、著者の経験した4年半というのは、一面どうしようもなく暗澹たる日々であったかも知れないが、同時に「なにものにも替えがたい日々」(107ペ−ジ)でもあった。おそらくは「生」の明証性が直截的に実感できた日々であったに違いない。これほど濃密な時間を、普通、人は経験できないのだ。
 巻末に付された「中井英夫と本多正一」という小論の中で、論者である田中幸一は「そこには純粋に他人を愛し、その人のために精一杯力を尽くすことが出来た時だけ得られる、幸福な満足感が必ずあるはず」と書いているが、けだしその通りだろう。

 ところでそれは、実のところ、中井英夫本人にも言えることで、著者本多正一との最晩年の4年半は、中井にとっても苦しいけれども「幸福な」日々であったはずだ。中井は至福のさなかでその生を終えたのである。それは間違いないことである。
 それが証拠に写真を見られたい。どの写真をとっても中井英夫の表情が素晴らしい。変幻自在というか、実に表情豊かではないか。笑っている顔も拗ねている顔も、何の衒いもなく心情が素直に出ている(ように私には見える)。もっとも、目だけはどうしようもなくアル中の目だけれど。

 だとすれば、著者の「なにものにも替えがたい」至福と、中井の(写真の表情に窺える)至福は、実は相関していた、というよりひとつの至福の両面だったのではないだろうか。

 著者が巻き込まれることになった取っ掛かりは、もとより敬愛する作家ということだったにせよ、そのうちそんなことはどうでもよくなっていったのではないかと推察される。
 「中井さんてホントはニセモノなんでしょ。ホンモノの中井英夫は本の中にいるんだよね」(90頁)
 という著者の感懐は、まさにその事実を表現しているように私には思われてならない。
 ある時期以降、著者にとって中井英夫は、敬愛する作家としての中井英夫でありながら、一方でそんな名前を取っ払った、名前以前の、「存在」そのものとして著者の前にあり(対自)、さらにそのうち著者の前からも消え、著者に寄り添うようにあるようになり、やがては著者である「私」そのものに同化し尽くしたのではないだろうか(即自)。

 「無私の愛」という表現があるが、蓋し片手落ちな表現で、実際は相対していた二つの「私」が互いを求め合い、支え合ううちに融合し、ひとつの「私」にまで昇華した状態を表しているとするなら、著者と中井英夫はまさにそのようなひとつの「私」に達していたのであろう。
 とすれば上に書いた「献身」という表現も、厳密には片手落ちな表現ということになろう。他人の世話でなく畢竟自分自身の世話なのだから、例え辛くとも止めるわけにはいかない、というより――止めない。
 つまりもっと恬淡とした平常の行為なのだ。その心安らかなところが、読者にして深い感動を与えるのである。そしてその感動は共感というよりも、むしろ羨望からもたらされるのである。なぜならこれほど濃密な〈関係〉を、普通、人は経験できないからだ。

 本書が個別的中井英夫の晩年に関わるエピソードだから、感動するのではない。一般的には稀有に近い濃密な関係に、即ち二つの「私」が互いに今一方の「私」を呑み込んでひとつの「私」となったという事実に対しての感動なのだ。著者と中井が二人ながらに〈大きな私〉に達し得た事実に対しての感動なのである。素晴らしいと思う。

3

フレドリック・ブラウン
『天使と宇宙船』小西宏訳(創元文庫)

 「序」は、実にクリアーなSF論となっている。
 ファンタジーは存在せぬもの、存在し得ぬものを扱う。SFは存在しうるもの、将来存在するかもしれぬものを扱う。ファンタジーでは作者が提出したものをア・プリオリに受け入れることが要請される。SFでは作者はそれを説明しなければならない。……いかなる超越的存在も、自然の生物として描くことによって、超自然的なものを排するように説明されなければならない。もっともらしい説明が必要なのだ。
 (そして論理的に説明された結果がいかに非論理的、非現実的なものとなろうと、読者はそれを受け入れなければならない。いや、喜々として受け入れるのだ。例えそれが「天国」であったとしても)。

 「悪魔と坊や」→坊やのいたずらがこの世界を救う。気の利いたショ−トショ−ト。

 「死刑宣告」→タイムスケ−ルの差異が死刑を一転天国に変える。ショ−トショ−ト。しかしオチは8行目でバレバレ(笑)。

 「気違い星プラセット」も面白い。ここにはいろんなアイデアが投入されているが、殊にも私が気に入ったのは、次のアイデア。
 この星の核はきわめて密度の高い物質でできており、その密度からすれば地殻など我々にとっての空気みたいな存在で、事実地殻の中を高密度の鳥が飛び回っているのである。
 つまり地球人はこの星の生物にとっての空気の層の上に植民しているというわけだ。スケ−ルの桁を変えることによる認識の変革効果が実に心地好い。 

 「非常識」→驚異の未来社会においてもなお、「アスタウンディング誌」は非常識な雑誌なのだ。SFファンのファン心をくすぐるショ−トショ−ト。

 「諸行無常の物語」→驚異の学習能力(ただし批判的に読まず、すべてを無批判的に吸収する)を備えた機械は、あっという間に涅槃に達する。これはオウムの信者を予見した作品である(ウソ)。

 「フランス菊」→「家政婦は見ていた」ならぬ、草花は見ていたというショートショート。

 「ミミズ天使」については、〈人外境だよりバックナンバー〉収録の「不定期連載SF伝説」第八回に詳述した。そちらを読まれたい。

 「大同小異」→これもスケ−ルの差異に基づくセンス・オブ・ワンダ−ねらいのショートショート。
 地球にやってきた身長1マイルの巨大宇宙人は、人間にとって空気程度の分子密度しか持たないがゆえに触ることもできなければ、コミュニケ−ションも不能なのだった(ソラリスの先駆的アイデア?)……。
 惜しむらくはスケ−ルネタと最後のオチが連動しないこと。それとも宇宙人には地球人はムシのようには見えているのだろうか(人類皆殺しの先駆的アイデア?)。しかしその解釈ではスケ−ルネタが無化してしまう。

 「ユ−ディの原理」はなんとも洒落た傑作。完成度では「ミミズ天使」より上かもしれない。ブラウンに多いモチーフ(てことは星新一的モチーフでもある)「世の中そんな甘いモンやおまへんでェ」を踏襲するものだが、アイデアが素晴らしい。
 チャ−リ−が発明したヘッドバンド型の機械を着けて、私が酒を持ってこいと命令をして頷くと、一瞬のうちにグラスが手の中にある。まるでユ−ディ(こびと)がやってくれたように。しかし「存在しないものは存在しない」のだとチャ−リ−はいう。この装置は細胞の運動を数千倍も早めるのであり、酒を持ってきたのは実は本人なのだが、動作があまりに早いのでそれが記憶に残らないのだという。ところが酔っぱらった私が機械を着けたまま、売り言葉に買い言葉で、「死んじまえ」といって頷いた途端……
 この結末はファンタジ−なのか、SFなのか。いうまでもなくSFなのだ。「存在しないものは存在しない」のだから、存在するものは存在するのだ。という背理からこびとを存在させてしまう論理のアクロバットがすばらしい。

 「探索」→犬にとって人間が神ならば、人間の神は犬にとって何なのだろうか。

 「不死鳥への手紙」→適当に文明が進めば、最終戦争を起こして退化する――このサイクルをくり返す「懲りない」人類の特性ゆえに、人類は不死鳥である。皮肉なショートショート。

 「回答」→神は存在するかの問いに「今こそ神は存在する」と答えたものは……

 「帽子の手品」→「人間というものは、まったく信じられないことを理解することが不可能である」ということを提示するホラ−・テイスト横溢する掌篇。

 「唯我論者」→ウォルタ−・B・エホバは唯我論者だった。彼はすべてを消すことを果たしたが、当然ながら自分の存在だけは消せない。自分自身を消すためには……

 「ウァヴェリ地球を征服す」→ラジオの発明が28光年の彼方から電気を喰うラジオ電波型のインベーダーを呼び寄せる(この小説内世界の時点で56年前にマルコーニが初めて送信した電信符号を宇宙空間に発見したときに地球への接近を開始したと仮定されている)。昔の電波が順番に戻ってくるところはセンス・オブ・ワンダー的に圧巻。
 彼らが地球にとりついた結果、電気エネルギーに支えられた文明は崩壊し、一挙に馬と蒸気の文明に地球世界は立ち戻る。この世界の政府はかかるエネルギ転換を上手に指導する姿が描かれる。ふと私は、ブラウンてアメリカ共産党員だったのではないか、と感じた。
 やがて新しい文明が落ち着き、二人の登場人物が再会する場面がある。一人が昔のようには酒を呑まなくなったというと、もうひとりが「なぜきみがやめたのか、おれにはちゃんとわかる――というのは、おれも同じ理由から深酒をしなくなったんだ。お互いに飲む必要がないから、飲まないってことだな」と頷く。電気文明がいかに人間性を抑圧していたかが暗示される(現在的見地からはありふれた感想かも知れない。でも本書の原書の出版は1954年なのだ)。インベーダーによってもたらされた老子的ユートピア世界の実現。ラストの家族演奏会の情景は、ブラッドベリを彷彿とさせる美しさに溢れている。

 「挨拶」→両性具有の金星人への最も適切な挨拶とは……

 センス・オブ・ワンダ−たっぷりの作品集。この本にかぎらず、ブラウンは「気違い」という言葉をよく使う。よほど思い入れがあるらしい。私はブラウンの用いる「気違い」はセンス・オブ・ワンダーと同義だと思う。司修の挿画がすばらしい。


本多正一
『彗星との日々―中井英夫との四年半―』(BeeBooks)

 前月掲載『プラネタリウムにて―中井英夫に―』(葉文館出版)の拙文を読んで下さった著者から本書を頂戴する。ありがとうございました。
 本書は写真集である。全てではないが『プラネタリウムにて』に白黒で収録されていた写真が、こちらにはカラーで収録されている。カラーで見ると、同じ写真なのにまた別のイメージが備わっていて驚かされる。写真とは不思議なものである。

 14,15ページの写真は、白のトラッシュボックスになすりつけられた血のりが生々しい。そのトラッシュボックスを照れたような顔で提げ持つ中井の媚びるような、申し訳なさそうな表情が、血のりの色を受けてほんのりと赧らんでいるようで、深刻な事態なのに妙にほのぼのとしていて、いい絵だと思ってしまった。

 全体に赤い色(あるいは夕色)が中井のいる風景の中に意識的に配置されているようである(6頁、12頁、16頁、19頁、20頁、21頁、32頁、34頁、36頁、38頁、40頁、42頁、45頁、52頁)。それが中井英夫という存在を、まさにくっきりと際立たせているように私には感じられる。この事実は流薔園園丁を名乗った中井自身が、しかし「赤」とは対極的な、むしろ寒色系の人だったということだろうか。

 写真の下には、中井英夫の日記からの引用が添えられている。セレクションは著者によるものだろうが、これがまた実に写真とマッチしているのである。9頁など、写真と文章がひとつに融け合って得もいわれずユーモラスだ。

 「写真はついに、セルフ・ポートレイトを免れることはできないのではないか」(本書、帯より)と著者は言う。そんなことはない、と私は思う。この写真集は中井英夫の「何か」を確実にとらえ、表現している。それは間違いなく本書を手にした人々に伝わっているはずだ。仮に百歩譲ってセルフ・ポートレイトだとしても、前回描いたように、中井と著者二人で一人の、セルフ・ポートレイトであろう。
 本書は、著者の「思い入れ」を既に越えて、もはや客観的な一個の「作品」として自己主張している。


リイ・ブラケット
『赤い霧のローレライ』鎌田三平編(青心社文庫)

 本書は、著者の金星を舞台にした作品を日本で独自にコレクトしたもの。
 昔懐かしい<高温多湿>の、目もあやな蠱惑に充ちた金星世界が展開する。それもとびきり奇妙奇天烈な世界で、赤い霧が渦巻き、呼吸できる海(実は密度の高い気体の海)は燃えており、水棲人や植物人間が跋扈する。

 表題作(1946、プラネット・ストーリーズ)は、レイ・ブラッドベリとの共作。
 「消滅した月」(1948、スリリング・ワンダー・ストーリーズ)は、集中のベスト。
 「消えた金星人」(1945、プラネット・ストーリーズ)は、植民者の生存意志が原住種族の植物人を焼き滅ぼしてしまう哀切なストーリー。
 「金星の魔女」(1949、プラネット・ストーリーズ)は、今一つの原題「City of the Lost Ones」のほうが適切だろう。そういうコンセプトなのだから。

 こうやって書き写していると、発表された時期が意外に新しいことに気づく。ハインラインの未来史シリーズなどSF黄金期の作品とほぼ同時代の作品なのだ。ところが、彼我の間には20年くらいのタイムラグがありそうな感じがする。どうも本書の発散するムードは、実年代より1世代は古いようなのだ。
 しかし30年代SFと40年代SFが、後世から見て截然と違っているといっても、10年なんてあっという間なのだから、現在進行形の観点からすれば、新旧のSFが雑誌中に混在していたというのが、アメリカSF界の実際のところであったのだろう。それだけこの時期のSFは、急激に変貌をしていったと言うことかも知れない。

 とはいえ、本書が詰まらないと言っているのでは決してない。著者の作風は、いわばスペオペモードのブラッドベリといったおもむきがあり、その原色で塗りたくられた、安っぽいけれどもしかし濃厚な小説世界は、些か奥行きに欠けるにしても、独特の雰囲気が横溢していて、十分に魅力的で愉しめる一個の作品世界を充分に形成している。


ハーラン・エリスン
『世界の中心で愛を叫んだけもの』伊藤典夫/浅倉久志訳(ハヤカワ文庫)

 私は、エリスンが本当に巷間評価されるほどの実力をそなえた作家なのだろうかと、ずっと疑っていた。兎に角、小説世界がどうしようもなく安普請で、薄っぺらなのが気に入らなかったのである。
 ところが今回、初めて(SFMで単発で読むのではなく)まとめて一冊分読んだわけだが、その思いは変わらないながら、玉石混淆、安普請は安普請なりに、奇妙な魅力があることに気づかないわけにはいかなかった。

 アメリカンコミックストリップ的な全然リアリティのない世界と、類型は類型だけれども黄金時代のSFには絶対見られなかった、所謂ヒップな人物造型とがないまぜになって、一種不思議な効果を上げているのである。
 効果といっても、いわゆる「計算された」それではなさそうだ。むしろその対極に立つもので、ぶっつけ本番、ただ情念だけを頼りに力まかせに書きつけられたような印象が強い。その辺は平井和正の筆法に似ているかも知れない。

 ベスト5は、
 「少年と犬」(1968〜69)→短篇SFとして完璧である。エリスン独特の凶暴で退廃的な未来世界の魅力が、存分に味わえる傑作!
 「ガラスの小鬼が砕けるように」(1967)→いかにも60年代風のジャンキー小説が、最後に硬質の幻想小説に変成する。傑作。
 「聞いていますか?」(1958)→透明人間の新解釈は今となってはありふれたアイデアだが、それでも十分読ませる。
 「鈍いナイフで」(1963)→独特の安っぽい未来社会(?)がよいのだけれど、取って付けたようなオチが作品を分裂させてしまった。
 「101号線の決闘」(1968/69)→非常によくできたアイデアストーリーであり、珍しくきっちりとオチがつく。

 その他に、
 表題作(1968)→実験小説風の結構であるが、いまいち伝わってこない。
 「不死鳥」(1968)→ニューヨーク浮上。循環する時間テーマのアイデアストーリー。
 「眠れ、安らかに」(1968)→???
 「サンタ・クロース対スパイダー」(1968)→まさしくチープなコミックストリップ。リーガンやウォーレスを実名で登場させるカゲキさが当時は受けたのだろうか。まさに60年代末期を感じさせる。
 「ピトル・ポーウォブ課」(1968)→凡庸なアイデアストーリー。
 「名前のない土地」(1964/68)→???
 「雪よりも白く」(1968)→???
「星ぼしへの脱出」(1957)→ベスターを彷彿とさせるスペオペ風復讐譚。そういえばこの作家、ベスターにも似ている。
 「満員御礼」(1956)→宇宙人の興業、実は……。一種人類家畜テーマ。
 「殺戮すべき多くの世界」(1968)→スペオペ風なマンガ的世界。

4

倉阪鬼一郎
『死の影』(廣済堂文庫)

 久かたぶり(1年ぶり?)の倉阪ホラー。一読驚倒。本書は、これまで読んだ作品(怪奇十三夜、百鬼譚の夜、妖かし語り)とは雰囲気・スタイルを随分異にする作品だった。
 読み易いといえば読み易い。スルスルと読める。もとよりそれまでの諸作が読み難かったわけでは決してない。が、本書の読み易さは上記既読作のそれとは決定的に違うものであるように思われる。
 本書はズバリ、ホラー映画を<字>で観ている、そういう感じなのだった。そういう意味合いにおいて読み易かったのである。これはもちろん本書における著者の狙いのひとつであったことは疑いないように思われる。すなわち読者にホラー映画を観ているような感覚にさせてしまうという狙い。それは大いに成功している。

 もともと著者の文体は、本格的な怪奇小説の作風でありながら、案外常套句に頼るものなのであるが(少なくとも私にはそう感じられるのだが)、本書ではその傾向がとりわけ明瞭に現れたように思われる。
 たとえば205頁、
 《殺人マシーン・夏木エリカは、こうして恐怖の第一歩を踏み出した。》
 このくだりには、実は思わず笑ってしまったのだが、存外この一文は、この長篇小説の創作の作法(筆法)を暗示するものかも知れない。

 「殺人マシーン」というタームは、私の記憶ではこの場面以前には出てこなかった単語である。そのような単語が地の文中に現れたということは、それはつまり夏木エリカに対する著者倉阪鬼一郎の「主観」なのだといえよう。
 即ち、(少なくとも本書においては)著者は、〈描写〉でなく、〈語り〉をしているのである。描写とは、簡単に言えば神の目で見たものであるのに対し、語りとは、作者の目で見たものである。即ち主観が表出されるのを厭わない筆法であるといえる。

 そのあたりは乱歩の筆法に似ているかも知れない。乱歩もまた、〈描写〉というよりは〈語り〉の小説家であった。
 かかる乱歩の筆法との近似が示すように、本書には、一種「講談本」に近い趣があるように思われる。どうやら上記の「映画を<字>で観ている」ような、という感覚もそこから由来しているものであるらしい。
 同様の理由から、《小説》としてみた場合はレゾン・デートル(もしくは現実感)の薄弱さが気になる部分も、講談本的な〈リズム〉と〈速度〉が、読者をそこに留まらせず素通りさせてしまう。〈語り〉の〈騙り〉たる所以である。

 たとえばこの宗教団体の存在理由であるとか(SFなら<あの昆虫>まで説明し尽くしてしまうのだがそれは別の話)、もっと細かくは主人公の作家の亡妻の骨壺がなぜそこに存在しているのか、とか、仔細に見ていくと疑問点が次々現れてくるのだが、それが読んでいる最中はとりあえずあまり<引っかからない>のだ。実は私も読中はこれらの点についてさほど気にならなかったのである。むしろ読了後に続々と疑問がわき上がってきたのだった。
 本書は講談本的な「語り」の構造を持つが故に、限りなく映画に近い印象を読者にいだかせる効果を発揮しており、その結果、上述のごとき疑問を読者(観客)は持ついとまもなく、ストーリーの急流に身をまかせてしまうことになる。これが映画だとしたらきわめて面白い「B級ホラー映画」の傑作であるといえよう。

 そのことは反面、著者が意識したという小池真理子作品(わたし的には怪奇小説の傑作である)と比べて、良いとか悪いとかを越えた全然別種の作品になってしまったということに等価である。
 本書がホラーであるのは疑いないが、すくなくとも怪奇小説ではなさそうだ。本書に怪奇「小説」としての豊穣さを求めても、それはお門違いというほかないだろう。

 結局のところ倉阪鬼一郎は(少なくとも)二人(怪奇小説家としての著者とホラー作家としての著者)いると考えるべきだろう。それを同一の基準で評価することは杜撰のそしりを免れ得まい。つまり怪奇小説家倉阪鬼一郎なる標準で本書を評価してはいけないのだ。それぞれ別の基準で評価するべきなのだ。
 本書は、案外乱歩亡きあと後継者のなかった通俗長篇(怪奇スリラー)を現代に甦らせるものかも知れない。少なくともそれは意義のある企てであるように私には思われる。本書の向こうに(未生の、あるいは跡絶えていた)新たなジャンルの可能性を私は感じる。


倉阪鬼一郎
『赤い額縁』(幻冬舎)

 前段で取り上げた『死の影』とは違って、本書は著者従来の路線上にある本格的なホラー小説である。
 著者十八番の所謂<メタ>もので、読み進むにつれ、次々と<前言否定>が積み重ねられていく果てに、読者は、いつしか現実と虚構のあわいで途方に暮れてしまうことになる。確かに踏みしめていたはずの足下の地面が、いつの間にやら底無しの泥濘に変じている、そんな立脚点喪失の不安な眩暈感に、読者はどっぷりと浸け込まれている自分を見出すに違いない。
 これぞ著者にしか書けない倉阪ホラ−の真髄的作品であろう。

 とはいえ、「本格ホラ−にして本格ミステリ」という目論見は成功しているとは言い難い。
 二人の探偵は、それなりに状況に巻き込まれていくにせよ、基本的にホラ−的状況をただ整理するにとどまっている。
 別に突出した謎ときの論理があるわけではない。もとより<本>が超越的現象を惹起するその理由については(ホラーとして当然ながら)作中で解明されないどころか、言及もされないのである。読者は<本>が引き起こす現象をただ事実として(ア・プリオリに)受け入れる以外にない。

 実際本格ミステリらしい要素といえるのは、探偵役が現象に対して謎を解かんと行動する、そのスタイル(形式)のみである。頻出するアナグラム趣味はむしろ煩わしい。
 私個人的には『死の影』より本書を好むものであるし、本書のほうが小説的にも優れていると思う。
 けれども、ホラ−というジャンルを立ち上げる意味においては、『死の影』のほうがより重要だろう。
 なぜなら本書はミステリのスタイルを採用することによって、ある意味で裾野の広いミステリジャンルに(現象的に言って)取り込まれ呑み込まれてしまったということもできるからだ。ホラー小説の純正な(プロパーの)旗手である著者のこの戦略は疑問である。
 もしSF勃興期に小松左京がミステリ風のSFばかり発表していたとしたら、70年代のSFの繁栄(ジャンルとしての独立)はなかっただろう。ホラージャンルの立ち上げは、まじり気のない純正ホラー小説によってのみなしえるのではないだろうか。
 原稿枚数666枚というのは、いかにもという感じ。著者らしい茶目っ気が好い。


倉阪鬼一郎
『緑の幻影』(出版芸術社)

 結局今月は倉阪月間になってしまった(笑)。
 3冊目である本書はクトゥルーもの。著者の間口の広さに感心する。
 本書においても、前言否定の繰り返しによる眩暈の感覚が効果的に使われている。とはいえ筆法としては『死の影』に近く、映像的シーンが頻出する。どちらかといえば<字>で観るホラー映画の路線であろう。
 わたし的には本書が一番肌に合っていたようで、三作中では随一の面白さだった。
 もとよりクトゥルーものというのは、煎じ詰めればSFである(クトゥルーの神々は超自然的存在でなく外宇宙からやって来たのだ)から、当然といえば当然かも知れないが。
 上述したように、前言否定の手法による眩暈の効果は十二分に生かされていて、たとえば205頁の、
《いま白坂が存在していると思い込んでいる現実が実在しているという保証はどこにあるのだろう。(……)そもそも、現実は絶え間ない不連続の連続で、いともたやすく悪夢に変容するのではあるまいか》
 云々のくだりでは、私はSF特有の「どれが現実だ?」的な感覚浮揚(センス・オブ・ワンダー)すら感じて、ゾクゾクとしたのだった。
 そういう意味で<エピローグ>は、無数の揺れ動く「現実」から一個の「現実」を抜き取り固定してしまうものであり、ちょっと肩すかしでがっかりしないでもなかったのも事実である。わたし的には<エピローグ>は不要と感じたのだが、<字>で観るホラー映画という見地からは当然必要なシーンではあったろう。

5月

レイ・ブラッドベリ
『太陽の黄金の林檎』小笠原豊樹訳(ハヤカワ文庫)

 「霧笛」→限り無くホラ−に近いSF。典型的ホラーであるキングの「霧」と違うのは、キングの怪物が名無しなのに対して、本篇の怪物が恐竜であることが明らかなところ。つまり<名づけられたもの>として存在している。「命名という説明」があるので、SFなのだ。

 「歩行者」→2053年の孤独な散歩者の受難。硬質のきらめきを宿すSF。ここに色濃いペシミズムは日本第一世代に継承されている。

 「四月の魔女」→ファンタジ−である。魔女の存在がアプリオリに受容されているので、SFではない。

 「荒野」→火星へ飛び立つ前夜の不安と希望と故郷への惜別の情を写し取ったシャガ−ルの絵のように冷たくて暖かい一幅の絵。もちろんSF。

 「鉢の底の果物」→神経症的な異常心理を扱ったサスペンスフルな普通小説。

 「目に見えぬ少年」→純然たるファンタジ−のようだが、普通小説である。なぜならここでは魔女のような老婆が登場するけれど、超自然現象など何も起こってないのだから。自分のことを魔女と思い込んでいる半分気の触れた婆さんなのかも知れないではないか。心に残る佳篇。

 「空飛ぶ器械」→西暦400年の元(?)の国の皇帝と、王宮近くの空に飛行器械で飛び上がった男の話。申し分のない名篇。形式的にはファンタジ−だが、私は(「黄漠奇聞」などと同種の)幻想小説と呼びたい。

 「人殺し」→今日の<携帯電話>を予見した秀作。「無線腕時計」(携帯電話)が隅々まで行き渡った世界、携帯電話が個人を管理し、圧殺する状況を見事に予見し活写している。瑞々しい想像力の賜物。SF。

 「金の凧、銀の風」→一応シナが舞台となっているが、一種の寓話であろう。眉村卓に「いたちごっこ」というショ−トショ−トがある。本篇と同一のテ−マながらアプロ−チがまったく違う。なかなか興味深い。

 「二度と見えない」→<貧しき人々>を描くO・ヘンリ−風の哀切な普通小説。

 「ぬいとり」→5時になったら<起こる>ことを、登場人物達は知っている。知っていて針仕事をしながらその時を待っている。針仕事は待つことに対する気散じなのだ。その証拠に夕餉の支度の時間が近づいても、彼女らは腰を上げない。5時になった。しかし何も起こらない。少し希望が湧き女がやっぱり夕餉の支度をしなければと、つぶやいたとき、ついにそれは<起こる>……
 わずか数頁に世界の終末を縫い止めた絶品。ここには<説明>は一切ない。それでも本篇はSFなのだ。なぜならSF読者は、何も説明されずとも、いったい何が起こったのか明瞭に理解できるからだ。<説明>はSFを読み込んだ読者の側に、あらかじめ用意されている。

 「黒白対抗戦」→年に一度の黒白対抗戦。その日、町は白人と黒人に別れて野球の試合。案の定事件が起こり……
 切なくも懐かしい《アメリカ・リアリズム小説》。

 「雷のような音」→タイムマシンで恐竜狩り。ただし歴史が変わらぬよう細心の注意を払って。ところが主人公の靴は小さな蝶を踏んづけていたのだ……
 純然たるSF。ストーリーは定石どおりながら、煌めくような描写が本篇を第一級の読み物に仕立て上げている。

 「山のあなたに」→ある夏の日、甥のベンジーが彼女の家に来た。一ヶ月の休暇の間彼女の家で過ごすのだ。ベンジーは字が書ける。彼女はベンジーに手紙を書いてほしいと頼む。彼は了解し……
 普通小説とはいえないほど誇張、歪曲された世界が舞台の、切なくも奇妙なお話。普通小説とファンタジーの境界作品か?

 「発電所」→母の危篤で実家へ向かう途中、雨宿りした発電所で主人公の身に起こった不思議な体験……
 超越的体験に対する説明がないのでSFではない。ファンタジーか。

 「夜の出来事」→夫を兵隊に取られた夫人の日毎夜毎の嘆きを止める手段は……
 微苦笑を誘う小品。

 「日と影」→うらぶれひび割れた壁がつづく下町。それを背景にモデルを撮影しようとするカメラマンに、リカルドは猛然と抗議する。……
 まるで一幕ものの芝居を観ているような気持ちになる。<貧しき人々>をみまもる著者の視線はかぎりなく優しい。そういえば、本短編集の、普通小説の主人公達は、メキシコ系とか黒人とか、いわゆる社会的弱者である場合が多いようだ。

 「草地」→ハリウッドの書き割りの都市が並ぶ一角。明日にも取り壊されるその一角。ロンドン、ポートサイドは既に滅ぼされた。夜警のスミスじいさんは、30年来その都市群を見回ってきたのだった。……
 心暖まるファンタジー。

 「ごみ屋」→トラックでゴミ回収をなりわいとする主人公は、ゴミ回収車が原爆投下の際は死体回収を受け持つことが決まったとき、この仕事を辞めようと考える。……
 合理的、効率的な役所的思考と、実感的、体感的な思考(死体を積み上げるのか、積み上げていいのか、何段まで積み上げるのか)をする主人公とのギャップが考えさせられる。

 「大火事」→燃えだしたのはマリアンでだれも消火することはできなかった……
 皮肉な、「よくできた」小説。

 「歓迎と別離」→43歳ながら12歳のままのウィリーは、3年住み慣れたここを、また出て行かなくてはならなかった。……
 超越的設定だが、解釈がないのでSFではない。ボールを投げ上げる回想の場面が素晴らしい。

 「太陽の黄金の林檎」→エネルギーの枯渇した地球のために、ロケットは太陽の一切れを取りに(盗りに)「南」を目指す……
 象徴的な散文詩のように美しい掌編。

 31年ぶりの再読。当時読んだ銀背版が行方不明、返却を希望(笑)。
 なんとか記憶があったのは表題作と「霧笛」と「雷のような音」のみ。こうして読み返すと、SFあり普通小説あり、ファンタジーありホラーあり、と形式的には実にバラエティに富んでいるわけだが、全体を通して作風は一貫している。まさにブラッドベリ調としかいえない作風で。
 集中の「ごみ屋」における役所的発想に陥りやすい大多数のSF作家とは違い、貧しき善男善女の側に立つブラッドベリの基本的態度は、やはりSF作家らしくないという印象である。ジョセフ・ムニャーニの挿画がよくマッチしている。


河野典生
『いつか、ギラギラする日々』(集英社文庫)

 表題作→ジャズバンドで「ぼうや」をやっていた吾郎は、日野皓正がモデルらしいジャズトランペッタ−の演奏を聞き、「所詮やつは別人種」だ、と思う以外にない。絶望的な苛々した気分は、いったん別れてまた吾郎のもとへ戻った恋人トコの、前の男の仕種に暴発する。……

 「羽根のない鳩」→幻想の鳩に関するふたつの挿話。
 <激しい鳩>→男の部屋の、下の部屋に住む母子家庭の、小学校に入る前の少年が部屋に飼っていた見えない鳩は、急激に大きくなり、窓枠をふっとばし、少年を乗せて大空へと飛び出す……。ウルトラQの一篇を彷彿させる。
 <悩ましい鳩>→僕の<分身>が肩にのっけていた鳩を奪うため、ぼくは分身をプラットホ−ムから突き落とすが……

 「チャイ売りの声」→インド旅行中、たまたま列車に乗り合わせたやさしい童顔の若者は……

 「驟雨の街」→沙子は、婚約者のマンション近くの河川敷でバイクに乗った若者に暴行されるが、そのとき沙子が見た現場から逃げたカップルの片割れは、あれは婚約者ではなかったか……。その婚約者が若者に刺される。沙子は河川敷きで若者を待つ。若者は片足が悪かった。それはかつて若者の恋人が暴行されかかったとき、助けようとしてうけた傷だった。沙子は若者とモ−テルに入るが……。アンチクライマックス(?)がよい。

 「殺戮の夏」→妹の同棲相手の紹介で外車のセ−ルスマンをするはめになったおれは、自由ケ丘の「別人種」佐々木家の連中と関わりを持つ。山下トリオとおぼしいバンドの演奏がおれをたかぶらせる……

 ――全体を通して、「別の人種」に頭を押えつけられて身動き取れない若者たちの焦燥、殺意、幻想、一瞬の狂気を、狂騒的なジャズをバックに、感傷に流れがちな文体でピンナップ。初出1974年ながら60年代後半のム−ドが横溢する作品集。


クリフォ−ド・D・シマック
『小鬼の居留地』足立楓訳(ハヤカワ文庫)

 良くも悪しくも、<シマック・ワ−ルド>としか言いようがない独特の「濃い」小説世界が展開される。
 登場人物は、宇宙開闢の前から存在する「透明の星」に転送され複製されたマックスウェルという超自然現象学部教授、オリジナル(?)の方はどうやら殺害されている。次にオップという、タイムマシンで過去から連れてこられたネアンデルタ−ル人の侠客。自分がだれだか知らない「おばけ」(幽霊)。遺伝子工学で作り出された剣歯虎(しかし性格は小猫)シルベスタ−をペットに持つ女性キャロル。

 さらには、小人族や小鬼や妖精や霊魔など、おなじみの古きものたち(この未来では、彼らは「透明な星」からの移民者であり、リアルな存在として人間と共存している。が、その共存のあり方はかつてのアメリカインデアンのように居留地をあてがわれている)。その他、宇宙からやってきた(?)群体生物・車輪人等々。
 これら多種多様な者たちが大騒動を繰り拡げる。理屈も何もあったものではない。その場の思い付きで話が進んでいく(と、私には思われる)のである。
 どっちかというとキャラが立っていくタイプの話で、そういう意味で「マンガ」に近いところがある。いや、マンガなのだ。本来、マンガとして完成されるべきお話なのだと私は思ったのだった。

 新井苑子のイラストが随所に挿入されていて、そう描かれていればそういうイメ−ジなのだけれど、マンガ化という観点で言えば、坂田靖子みたいな作風が合うのではないだろうか?
 ギャラクシ−賞受賞作ということだが、SF「小説」的見地からは大したことはないと思われる(訳文がそぐわないのかも)。


豊田有恒
『荒野のフロンティア――陸奥の対決 第一部』
(徳間文庫)

 読み始めたのは、実は昨年末のこと。したがって読了までおおよそ半年かかったことになる。しかもこの半年という時間の大半は、最初の三分の一、およそ120頁くらいまでに費やされたのだった。
 あとの三分の二は、たった一日で読み尽くした。いや途中で抛り出さなくてよかった。

 時は延暦12年(793年)秋、舞台は陸奥(みちのく)、和人の前進拠点である多賀城からさらに深く分け入った――今の宮城県北部から岩手県南部あたり。この辺は当時の和人の北限であり、蝦夷との境界というか雑居地帯、和人から言えば最前線すなわちフロンティアなのであった。その向こうには、蝦夷の大酋長(コタンコルクル)アテルイの領する広大な荒野が拡がっているのだった……。

 一介の風来坊大野の雄麻呂は、因縁浅からぬ上野の翁率いる開拓団(かれらは上野国より陸奥の黄金を求めてはるばるこの地に来ていた)が、蝦夷の領内深く入り込んでしまったのを知り、救出に向かう。そうして雄麻呂は、蝦夷の大酋長アテルイにまみえる。……
 ――というようなストーリーは、しかしいたって凡庸である。

 ちょうど並行してアンソニイ・ギルモアの歴史的な中篇「太陽系無宿」(初出、アスタウンディング誌1931年11月号)を読んでいたのだが、「太陽系無宿」が西部劇を宇宙空間に移植したものであるなら、本書は西部劇の舞台を古代の東北に求めたものに他ならない。発想は同じなのだが、ストーリーはギルモアの方がはるかに起伏がある。主人公のホーク・カースは超人的なガン・マンながら、ちょっとした不注意や部下のミスでなんどもあわやという危機に見舞われる。ところが、大野の雄麻呂はほとんどそんな不注意にもミスにも見舞われることなく、話は(そっけないほど)淡々と進んでいく。

 この違いは奈辺に存するか、というに、けだし豊田有恒の創作の動機がストーリー作りにはないからに他ならない。作者の意図というか関心は、むしろ現代的(現在的)な、<異文化接触>論の考察のほうへと向かう。
 したがって本書の読み方も、ストーリーを愉しむというより、古代東北において現実にあった蝦夷と和人による<異文化接触>を素材に具体的な小説形式で作者が論じるケーススタディを玩味するというかたちにならざるを得ないのである。

 さて、そういうものとしてある本書を愉しむためには、まず前提として次の点を受け入れなければならない。すなわち蝦夷が現在のアイヌに系譜的に繋がる民族であるという仮設である。個人的にはかかる仮設の検討をもっとしてほしかった気がする。たしかにアイヌがどこからやってきたかということに関しては北方説と南方説(≒列島原住民説)があり、もはや南方説が定説である。私自身も南方説が妥当と考えるが、だとすればかかるアイヌと縄文人との関係はどうだったのだろうか?

 本書に於いて著者は、蝦夷に就いて、放牧を行っており「日本史上唯一といってよい、騎馬遊牧民の生活を送っていた」(30頁)と述べている。ところで現在のアイヌよりも、8世紀の蝦夷よりも、さらにずっと古い東北の縄文文化の担い手たちは、当時(1万2千年前から2千数百年前)の温暖な気候に後押しされた豊かな森の恩恵を蒙った<森の民>すなわち狩猟採集民であったはずだ。だとすれば著者のイメージする蝦夷(→アイヌ)は、縄文人とは無関係な、北方よりやってきた民族ということにならざるを得ないのではないだろうか。

 私自身は、アイヌは北海道の縄文人の後裔であり(北海道にも勿論縄文遺跡はある。弥生文化はほとんど入ってこず、北海道では引き続き<続縄文文化>が7、8世紀までつづく)、東北の縄文人は弥生文化に融合吸収されて蝦夷になり、北海道の縄文人は、弥生文化の影響を受けないまま、気候寒冷化でそれまでの伝統的文化を放棄せざるを得なくなりアイヌ化したのではないかと考えている(九州の縄文人は熊襲となった。ただし隼人はインドネシア系海洋民。本州でも南朝を支えた勢力はおそらく縄文人の後裔ではないでしょうか)。

 以上は本書の前提に対する異論である。
 しかし本書の意図は個別的実体論的な<民族論>にあるのではなく一般的構造論的な<異文化接触>のケーススタディなのであるから、上の異論は本書の創作契機とは全くずれた議論である。すなわち余談ということになる(^ ^;。

 本書の手法は、SFのいわゆるエクストラポレーションの応用である。通常SFではエクストラポレーションは未来に向かって外挿されるのであるが、本書は古代の和人と蝦夷の文化接触に適用されている。したがって登場人物の行動や言説は、古代人らしくなく、まったく現代人なのである。ここで著者が行っているのは、現代日本人の<異文化受容>の問題点の指摘である。すなわち一種の<日本人論>なのである。

6月

津原泰水
『蘆屋家の崩壊』(集英社)

 日本人作家がものした短篇集で、文句なしの傑作というのに出会ったのは、実に久しぶりのような気がする。収録のどの作品も水準以下のものはない。著者は、最近の邦人作家のなかではとび抜けた才能の持ち主だと私は感心した。とにかく文章がうまいのに舌を巻く。筆力だけ取り上げても怪奇・幻想系のジャンル作家のなかでは一段頭抜けているように思う。

 怪奇小説というのか幻想小説というのか、そういう作風なのだが、特徴はそのような作風にしては非常に珍しく、きっちり「オチ」がつくこと、そして意外にも小説中で起きる怪異に「理屈がある」ことなのだ。
 つまり(牽強附会でもなんでもなく)作者の筆法はSFのそれとおおむね同じ構造をもっているのである。

 それについては個々の作品で明らかにして行くつもりだけど、本書は、おれ(猿渡)とその友人である伯爵(というニックネームの怪奇小説家)の二人組が遭遇する怪現象奇現象を、話者であるおれが記述するという形式で統一された連作集である。

 「反曲隧道」
 中古車に乗ったおれは、とあるトンネルでトンネル内を歩いていた伯爵をあやうく轢きかける。
 それが伯爵とおれの出会いであった。しかしその事故は偶然ではなかったのだ。実のところそのトンネルは幽霊の名所で(伯爵はそれを調べに来ていた)、しかも超常現象を体験するのは例外なく中古車でそこを通った者たちだった。

 つまり因縁が潜んでいるのは、トンネルではなく車のほうであって、トンネルはそれを映し出す鏡に過ぎないのではないかと伯爵は推理する――即ちトンネルを通るとき車自身の過去の記憶(すなわち事故の記憶)がフラッシュバックして、現在の持ち主である(つまり知らず事故車を買ってしまった)運転者に、当然彼が見たこともない光景を、見せるのではないだろうかと。……

 本篇は都筑道夫が「古くてつまらない」と否定した古いタイプの因縁話をまさに現代的にリニューアルした「新しい因縁譚」、すなわち<理屈のある怪談>なのだ。つまり私の個人的な用法での「怪奇小説」そのものなのである。(拙文「不定期連載SF伝説」第12回、参照)
 ――そうして、かかる「説明」(推理)があってはじめて、結末のオチは「意味を獲得」するのであって、読者は「腑に落ちる恐怖」へと突き落とされるのである。

 「蘆屋家の崩壊」
 半村良「能登怪異譚」にも通ずる若狭小浜が舞台のとびきりの怪談。
 おれが大学時代つき合っていた秦遊離子とは結局一線を越えなかった。遊離子が「きつねがついたら困る」と抵抗したからだ。
 小浜は遊離子の故郷であるが、この地で入定したとされる八百比丘尼の父親は秦道満、すなわち阿倍晴明の宿敵蘆屋道満であり、もとより晴明の母親は葛の葉物語の信太の狐であるから秦と狐は敵同士となる。

 ひょんなことでおれと伯爵は、遊離子の実家に泊まることになる。その夜、おれは遊離子と関係をもつが、その後おれは秦家の連中に襲われる。
 なぜならおれは(蘆屋家の純血を汚す)きつねだったのだ……二項対立の因縁(理屈)が物語を力強く推進していく弁証法的エネルギに充ちた傑作。

 「猫背の女」
 こ、怖い〜! これぞホラ−小説というべき超絶的傑作である。
 蛇足は不要、読んでこわがれ!

 「カルキノス」
 海遊館と思しい水族館の、昏い水底にゆらゆらと竚立する、差し渡し3メ−トルの高足蟹の、この世のものとは思われぬ映像に始まるこの蟹づくしの本篇は、あらかじめ描写されたその映像によって、最終場面の巨大紅蟹のリアリテイが保証されているのである。
 実にうまい。
一代の成功者・六郷の、その若く美しい細君に同情するおれは、細君の主張する「赤い巨人」の実在を<偽証>し、真相を闇へと葬ろうとする。著者特有の意識の流れ的構成がとりわけ効いた秀作。

 「ケルベロス」
 本篇も典型的な「理屈のある怪奇小説」。
 「カルキノス」事件の翌日である。二人組は六郷邸に招待されていた女優の花代に、彼女の実家の村が怪異に悩まされており相談に乗ってもらいたく、ついては村へ来てほしいと請われる。

 榛名川沿いのその村は荒れ果てていた。花代は、自分と双子の姉妹の葉子が生まれて以来、怪異が続いているという。実は双子はその片割れを榛名川の「オキナさん」に捧げる風習が大昔この村にあって、そんな迷信はとうに廃れていたのだが、姉妹が生まれてから怪異が続くもので、そんなことを言い出す村人も出てきていたのだ。

 伯爵は川沿いの神社に変わった一組の狛犬を見出す。伯爵はそれが地獄の番犬ケルベロスであることを看破する。聞けば三代前の宮司はイタリア人だったという。ケルベロスだとしたら三体でワンセットのはずであり、三体で結界を張っていたはず、と伯爵。それでは残りのもう一体は?……
 完璧な理屈が異形の空間を鋭利に切り開く。<怪奇小説>の傑作。

 「埋葬虫」
 アフリカ産の未発見のシデムシが主役を演じる。身中シデムシだらけ、皮膚の薄皮一枚で辛うじてヒト形を保っていた齊条が、金網にぶつかって、ふわりと頭髪と衣類だけになってしまい金網の向こうの草地がシデムシでぎらぎらと輝く描写は、悪夢のようにかぎりなく美しい。
 この虫が宇宙から来たというような仄めかしでもあれば、「人類家畜テ−マ」SFになりえたし、クトゥル−物として書く手もあったのではないか。これでも十分傑作だけど、個人的にはもう少しハッタリをかましてほしかった気がしないでもない。

 「水牛群」
 本篇は幻想小説の傑作。初出の異形コレクション『グランドホテル』で読んだときの感想と基本的に違いはなかったので繰り返さないが、本篇で著者は、百間や露伴ら純然たる日本幻想小説の後継者たりうる力量の持ち主であることをも、満天下に広く示したのである。

 著者のホラ−小説界における位置は(内容ではなく相対的な位置関係だ)、かつてSF界において筒井康隆が占めたのと同じポジションに位置しているのではないだろうか(精力的な倉阪鬼一郎はさしずめ小松左京、耽美的な井上雅彦は光瀬龍であろうか)。
 十年後、津原泰水の時代がきっと来るに違いない。


澁澤龍彦
『高丘親王航海記』
(文春文庫)

 幻想の南海諸国歴訪博物記。いろんな不思議な生き物が登場してきて読んでいて愉しい。
 高丘親王の見る夢と小説世界の現実が渾然一体となって、不思議なエクゾティシズムを発揮している。エクゾティシズムとは云い丈、実は著者澁澤の博識と感性の協働による、いわば「内なる」エクソティシズムすなわち内部への脱出とでもよぶべき感性の方向であり、本書の南海諸国は内宇宙の国々と言える。その風物も、単なる想像力の賜物ではなく、描かれる幻想は必ず書物によって支えられているのが特徴であろう。
 儒艮→人語を喋るジュゴン。アンチポデスとしての大蟻喰い。
 蘭房→顔は女で体は鳥の迦陵頻伽(カリョ−ビンガ)。
 獏園→人の夢を喰う獏
 蜜人→犬頭人体の犬頭人。砂原を走る帆を張った丸木舟に乗り込んだ親王は遥か雲南へ空を飛ぶ。
 鏡湖→鏡像(分身)が主題である。集中の個人的ベスト作品。
 真珠→サルガッソ−海のような魔の海域に出没するひゃらひゃら笑う船幽霊。
 頻伽→人間の汁を吸って忽ちミイラと化さしめる人食い大花ラフレシア。死期を悟った親王は虎にわが身を食わせ腹中に納まって(餓虎投身)宿願の天竺をめざす。悼尾を飾るにふさわしい小説的な名品。


ジャック・サドゥール
『現代SFの歴史』鹿島茂・鈴木秀治訳(早川書房)

 原著は1973年初版、1976年に増補改訂版が出ており、本書は後者を底本とする(余談ながら、著者は1934年生まれのフランス人で、奇しくも眉村卓と同い年である)。
 1911年(実際はもう少し前から)に始まって1975年に至る英米(仏)におけるSFの歴史を、その間に発表された長短合わせて500篇に余るSF作品の具体的な紹介(数行から数ページの梗概)を兼ねて跡付けていく労作。
 本書を読むと、たかだか1世紀に満たないSFの歴史において析出された結晶物の半分も読んでないことに気づかされる。私に残された時間を思えば、新刊書など追いかけている時間などないのだ――と、そういう居ても立ってもいられないような気にさせられる(しかもなおSF以外にも読みたい本、読み残している本は膨大にあるのだ)。

 著者のSF観は私のそれと非常に近しく、既読作品に対するコメントにはいちいち納得できる。最近私が拘っているSFの範囲論だが、それも著者の観念するそれとほとんど重なっているようだ。2、3例を挙げてみよう。

 1926年4月の歴史的なアメ−ジング誌創刊号にガ−ンズバックが執筆した論説「新しいタイプの雑誌」のタイトルペ−ジの頭には、
 「今日はとてつもない絵空事(フィクション)、だが明日は現実」
と印刷されてあったらしい(78ぺ−ジ)。この言葉はまさにSFの範囲を一言で要約している。それに気づいたからこそ、著者はわざわざこの言葉を紹介しているのである。
 著者は、「SFは、幻想文学や超自然文学と並んで、想像力による文学の一翼を担うものである」と規定する。加えて「幻想文学や超自然文学の一部を十分吸収しうる」(サイエンス・ファンタジ−)ものであるとする。
 著者のSF定義は、具体的には
 「H・P・ラヴクラフトの作品は、ためらうことなく本書で取りあげたいと思う。なぜなら、彼の作品の登場する神がみや悪魔は、異次元や異時間から侵入した地球外生物だからである」(30P)
 という言葉に集約されるだろう。神という<超自然的存在>が、実は地球外生物すなわち我々と同じ<物理的存在>であったという(一見)合理的な説明によって、ラヴクラフト作品はSFに含まれると述べているのである。いわば「(一見)合理的な説明」の有無が、超自然文学からサイエンス・ファンタジ−(いわゆるF派)をSFの側に引き寄せるのである。
 「お伽噺と幽霊物語は対象外とする」と著者は書くが、上述を敷衍すれば幽霊の存在に対して「(一見)合理的な説明」が作中でなされているのであれば、それはもちろんSFであることになる。このようなSF観は、まさに私自身のSF観と響き合うものである。
 それでは純粋なSFはどうかというと、それはもとよりタイムマシンやロケットの出てくる小説なのであるが、タイムマシンやロケットというガジェットが含意するところのものは、まさに上述のアメ−ジング誌の標語「今日はとてつもない絵空事(フィクション)、だが明日は現実」」なのであり、それ自体のうちにすでに「(一見)合理的な説明」が含まれている。
 著者の立場は、「あれもSFこれもSF」という節操のない領土拡張主義者ではなく、かといって純然たるサイエンス・フィクシションだけをSFとする守旧派でもない。サイエンス・フィクションとサイエンス・ファンタジ−は、一見異なったジャンルに見えるけれども、実は<異化作用を読者の裡に醸造せしめる構造>は同じなのであり、それゆえSFとして一括できる。
 ところが、カフカ「変身」から受ける感興が、SFと同質だからといって「変身」がSFかというと、決してそうではない。それは筋道が逆なのであって、むしろ「変身」と同様、SF作品が広義の幻想文学の「一翼を担う」ものだから同質の感興があるのだと考えるべきなのだ。


アンソニイ・ギルモア他
『太陽系無宿──スペース・オペラ名作選〈1〉』
野田昌宏訳・編(ハヤカワ文庫)

 アンソニイ・ギルモア「太陽系無宿」
 アスタウンディング誌1931年11月号初出。宇宙に西部劇を持ち込んだ嚆矢的作品として史的意義の高いホーク・カース・シリーズの第1作。このシリーズは、32年11月までに同誌にあと3篇、とんで42年8月アメージング誌に1篇が掲載された。
 史的意義だけでなく、当時好評を博したという看板に偽りなくストーリーもよくできている。
 太陽系に比類なき早撃ちガンマンである鷹のカースだが、ちょっとした不注意や部下のミスで窮地に陥る。それを持ち前の機知とガンさばきと彼に絶対的な信頼を寄せるエクリプス(黒ん坊)のフライデイの協力で窮地を脱し、宿敵鳶のジェッドを倒すまで、ストーリーはよどみなく流れきる。
 しかしながら、後年SFに必須の条件といわれた広大な宇宙感覚に誘う描写は一切ない。本篇には《センス・オブ・ワンダー》などという感性に対する配慮は一切認められない。おそらく《センス・オブ・ワンダー》とは、これらスペース・オペラ群から読者が発見したところの<新しい感覚>なのであり、新しいSFの愉しみ方だったに違いない。

 エドモンド・ハミルトン「鉄の神経お許しを」
 キャプテン・フューチャー・シリーズ。初出の記載が一切ない。というよりギルモアの表題作以外はすべて初出が不明である。本アンソロジーの性格上書誌的記述にはもっと留意してほしかったと思う。
 ハミルトンという作家は、おそらくスペオペ作家のなかでもずばぬけた筆力の持ち主だったに違ない。本篇は実質スペオペのパロデイになっている。もっともキャプテン・フュ−チャ−・シリ−ズ自体がスペオペのパロデイといってもいいかも知れないのだが。つまり凡百のスペオペ作家と違って、ハミルトンは自己のジャンルを客観視することができたのだろう。本篇も、スト−リ−がぜんぜん古びてない。そればかりか、非常に皮肉でソフィストケイトされていて、洒落た感じすらする。さすがであるが、それも自在な筆力とあいまって、ジャンルを冷静に客体化して眺めることができたからに他なるまい。逆に言えばスペオペらしくない。むしろシェクリ−やブラウンら、50年代F派にちかい印象がある。そういう意味では本篇自体は秀作であるのは間違いないけれども、スペオペ傑作選に採録するのはやや違うような気がする。(*後日、さる方から情報を頂く。本篇は初出はStartling Stories 1950/11とのこと。やっぱりね)

 ヘンリー・カットナー「大作〈破滅の惑星〉撮影始末記」
 月世界ハリウッド・シリーズの1篇。このシリーズは1938年4月から45年の夏までに、スリリング・ワンダー誌に7篇が掲載された。

 フランク・B・ロング「月面植物殺人事件」
 植物学者探偵ジョン・カーステアズ・シリーズの1篇。このシリーズは1941年10月から1943年6月にかけてスリリング・ワンダー誌に7篇、45年夏のスタートリング誌に1篇が掲載された。

 この二篇は良くも悪くも当時のスペオペの水準を体現している。上述のように《センス・オブ・ワンダー》発見以前のSFであり、資料的知識欲を考慮しない純粋な読書に耐えるものではない。


掲載 2000年2月3日(1月)、3月4日(2月)、4月5日(3月)、5月10日(4月)、6月3日(5月)、7月4日(6月)