ヘテロ読誌 |
大熊宏俊
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2000年 ●下半期
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7月
●寺山修司 乱歩の『一寸法師』への言及で始まる本書は、著者の身体論的演劇論の一環として書かれたものであることは疑いないが、たとえば私のような演劇に無縁な読者が読んでも一種<人間の版図論>として十分に興味深いものがある。 <畸形>を、超自然的な存在から与えられる「罰」としてとらえることによって「見世物」が誕生したことを著者は強調する。著者によれば、<畸形>としてこの世に生を享けた者は、大抵見世物小屋へ引きとられ罰の哲学の犠牲として商品化されるのであり、見世物小屋は「見せしめ小屋」として機能することによって因果道徳用の教材に供されてきたとする。(畸形の通時性) 即ち私たちの未反省的なこの世界における一般的な<畸形>の存在形態(私との交通)とは、常に「見られるもの」(見世物)と、「見るもの」(見物客)という一方通行な二分法的関係なのであり、<私(=見るもの)>と<彼(=見られるもの)>の間には、はっきりと区別が――いわばアチラとコチラといった彼我的(主客的)関係が――截然としてあるということだ。ちなみに我−彼(ワ・カレ)は「分かれ」に通ずるのであって、そのような二分法的態度がおそらくは私たちにはごく「自然な」態度なのだろう。 『一寸法師』において、小林紋三と明智小五郎の一寸法師(畸形)に対する態度の差異に著者は注目する。著者によれば明智探偵にとって一寸法師は上述のごとき彼我的(主客的)な因果的見世物であるにとどまるのに対し、一寸法師と「同じ時を生きてしまった」小林紋三にとっては、一寸法師はまさに「主客一如」の共時的存在なのである。夕暮れの浅草は、そのとき日常と非日常とが、秩序と混沌とが、境界を見喪なって、いわば<混在郷>と化すのであるが、結局乱歩の「秩序感覚」はそれを許さず、「法則も幾何学もなく散乱することによって生まれかける神話的宇宙を整序し、日常の倫理によって裁こうとする」と、著者は不満を述べている。もとよりその<裁き>を体現するのが、他ならぬ<明智小五郎>なのである。結局乱歩のこの小説の眼目は、「畸形は常に悪徳であり犯人は常に一寸法師だった」と言っているのだと著者はいう。 私なりに言い換えるなら、乱歩の小説世界は、一見反日常的な世界を描きながらも、結果において自然的態度の自動律に支配される未反省的なこの日常世界――主客的世界――を擁護し補強する方向に働きかける類の、或る種コンサ−バティヴな小説であるということになろう。あるいは乱歩の(明智の)根強い人気は、かかる乱歩世界の<結論としての通俗性>によって保証されていると言えるかもしれない。なにせ怖いもの見たさの善男善女の欲望をきっちり満たしてくれた上、しかして安全なる主客的現実世界へと間違いなく連れ帰してくれる(「畸形は常に悪徳であり犯人は常に一寸法師だった」)のだから。 上に述べたように、生産や交換が日常的に行われている俗なる空間では、<畸形>は<ふつうの人間>からその「異形性」において差別され、「異物」として二分法的に排除されることになるのだが、しかしそれは完全なる独立的な分離とはならない。かれら(畸形)はいわば私たち(普通の人間)の衛星的存在として私たちの世界に依存しなければ生きていけない。寺山が挙げる「御伽草子」の一寸法師がまさにその例である。 さあらばと彼ら<畸形>を日常性から切離し、神話的な聖なる空間(祝祭的空間)に置いたとしても、著者によれば、彼の同一化は得られない。そこには呼び込み式の口上によって彼の畸形の原因を、因果として語り起こす見世物の「通時態」が待ち受けているだけであり、それはまた別の「監禁」でしかないとして、著者は独自の演劇論に入っていくのである。 さて著者は本書で、乱歩とは対極的な形で身体的畸形に拘った広津柳浪という小説家を評価している。寺山は次のように分析する。 まさに乱歩はこの位置にとどまっているのである。かかる等身大人間の一般理性は、 ●倉阪鬼一郎 主客的世界において、「平均的な身体」からの逸脱が「畸形」ならば、「平均的な精神」からの逸脱は「狂気」と呼ばれるだろう。本書では、まさにかかる意味における「狂気」が描かれている。 村の奇想派>かつて神童と呼ばれた男が「脳を病んで」田舎に帰郷してくるが。――無惨な話である。 本書の主人公たちは、何らかの意味において何程か「平均的な精神」から<逸脱>している。その逸脱ぶりが共感的にほほえましく感じられればユーモア小説としてオッケーなのだけど、私には(フキダシの類には反応したものの)しかし<無惨さ>しか伝わってこなかった。 形式的に同趣向である北杜夫のユーモア小説は私には面白いものである。それは<逸脱>した主人公に著者が感情移入して書いているのが明瞭に読者に読みとれるからなのだ。つまり北の場合、自己の立脚点を<逸脱>の側に置いていることは明らかであると思われる。 むしろ「こんな愚かな連中笑い飛ばしたれ」といった主客的、彼我的な二分法が作品をあまねく支配しているように思われてならなかった。極言すれば正なるこの世界によって不正なる狂気が断罪されているのである。「狂気は常に悪徳であり犯人は常にキチガイだった」というわけだ。 ここで私は、<ホラー小説>というジャンルに思いをいたさないではいられない。 また同じ項目のジャン・ロラン「マンドラゴラ」についての感想「最初、超自然的現象は恐怖を読者にもたらすだろう。しかし読みすすむにつれ、恐怖の源泉たる蛙少女は読者の共感を獲得するに違いない。本書は怪物小説ではあっても異形小説すなわちホラ−ではない。ホラ−は常に読者に対して向かってくる超自然であり、超自然が恐怖ではなく共感されるものに変わるとき、その小説はホラ−であることをやめる。」において、私はホラーの「版図」を明らかにしたつもりである。 「向かってくる超自然」とは、勿論「主客的な超自然」ということである。ホラーにおける恐怖とはとりもなおさず「客体としての恐怖」に他なるまい。 唯一「亀旗山無敵」だけは、筆者が作中の一人物に対して、一種共感的態度において交通しているのが読者に伝わってくるのだが、この作品を私が好ましく思うのは、まさにかかる自虐的筆法によっているからに他ならない。この作品の竹山三郎の愚直さ鈍感さは、ホラー的版図を飛び越えて、たしかに文学たりえていると思う。本篇では「田舎」というテ−マが十全に結実している。 最終の三篇は、とりわけ著者が「狂気」という状態をまったく外在的にとらえることによって成立している作品であるように思う。前段に写したように寺山は畸形を論じて、日本的近代とは平均的身体によって形成された一つの倫理であったとのべているが、上述したようそれは狂気についても同様なことがいえる。すなわち日本的近代とは、平均的精神(すなわち正気という幻想)によって形成された一つの倫理であったと。 ●山下真史 乱歩の処女作と第二作すなわち「一枚の切符」と「二銭銅貨」は、日本初の本格探偵小説の成果として定評を得ているわけだが、論者によれば、この2作品を厳密に読めば「事件の真相が明らかにされ」て「いない」ことは明らかで、[謎→解明]の構造が契機である探偵小説としては破格の作品であるといわざるを得ず、しかも「これは乱歩の初期作品にしばしば見られる特徴」と分析する。 乱歩が「なぜこのような小説を書いたのだろうか」という設問に対しては、論者は新感覚派の主張を引用しつつ乱歩が旧来の「主−客」図式の認識論に対して懐疑ないしは不信感を持っていた証左であり、「謎解きを主眼とする探偵小説を書くことは乱歩にとってそもそも不似合いな課題だった」とする。 かかる乱歩の小説の特質を論者は『不連続殺人事件』の主客的なゲーム専一主義と対比しつつ、乱歩の小説の主眼が<主客一如>な「〈混沌〉に直面する感覚」の描出にあり、(主客的世界に住む読者が)「その不安(寺山のいう「混在郷」に直面した不安>大熊註)から〈混沌〉に形を与えていく過程(宙づり状態から着地していく過程)はそれに比すれば従属的」とする。 ――以上の論旨はなかなかに説得的だが、しかし論者が「従」とみなした部分をなぜ乱歩が(たとえ不完全にしろ)律儀にも書き続けていったかを説明していないように思われる。 さて、「混沌との対面」すなわち「日常世界を越えた世界を描くこと」によって、乱歩は逆に「〈人間〉であることの版図を見極めようとしているように思われる」と論者はいう。 この一文を勘案するに、乱歩とっては「〈人間〉の版図」は固定されたものであって、それから外れる者は、もはや人間とは認めなかった、ということになるのではないだろうか。 論者によれば『パノラマ島』の人見は、「もはや〈人間〉に戻ることはできない」から「身体を粉微塵にする最期を選んだ」のであり、『芋虫』の須永は「自殺することで〈人間〉の尊厳を守った」のだとする。 論者が言うように、「語り手は常に常識の側にいて、そうした人物への嫌悪を隠さない。〈人間〉の版図を乗り越えようとする人間を描きながら、安吾のようにはそれを肯定しない」のであって、「乱歩の眼が〈混沌〉としての〈人間〉に向いていたこともまた確かである」のはその通りだとしても、それは結局寺山のいう「見世物」、彼我的に「アチラ」を羨望するまなざしに他ならず、一旦「コチラ」に侵入してくるや、それは一瞬にして嫌悪のまなざしに替わりうるものだったといえるのではないか。 いずれにしても客観世界にあっては混沌たる<混在郷>の引力を受け続け、<混在郷>にあっては客観世界の法則性に引き寄せられる乱歩の<両義性>と<二律背反>のダイナミズムこそが、乱歩をして大乱歩たらしめていることは間違いないだろう。 ●眉村卓 「あまから手帳」という食と味の月刊誌に連載されたということで、食を主題にしたショートショート集ということになっている。実際、律儀にも全篇その方針は貫かれているが、それは「表向き」であって、このショートショート集の「内的」テーマは<時>なのである。 今は贅沢な食生活を送っているが、若い頃食ったあの安食堂の味にかなわないのはなぜか、という設問から、それが契機となって「現在」の裡に「過去」が甦ってくる、というか過去によって現在が批評される……そんな一種フィニ−的な世界がバラエティゆたかに変奏されていて、楽しませてもらいつつ、いろいろ考えさせられる。いい作品集(内的連作集?)だと思った。 |
●岩井志麻子 「ぼっけえ、きょうてえ」 ホラ−大賞受賞作であるが、私は「怖い」という感覚は覚えなかったのである。この話は、少なくとも私にとっては<怖い話>ではなかった。 もとより「自分自身」が怖い、自らの「内なる何か」が怖いという状態はありうるだろう。しかしそれは、「自分自身」が<私>にとって「他者」であるような状態、つまり「自分自身」が<私>によってしっかりと把握・了解されず、未知のものとしてあるように感じられたときであることは、少し反省的に体験を振り返ればおのずと明らかだろう。 本篇において私が感ずるのは、<怖さ>ではなくむしろ<辛さ>や<切なさ>というべきものである。<辛さ>や<切なさ>は<共感>に発する。つまり<即自的>な感情であるといってよいだろう。 最後のきぬぎぬの場面は、巻末講評で荒俣宏がいうように、蛇足であるばかりか、本篇の奇跡的な漲った持続をぶち壊しにしかねないものであるのは間違いない。が、さりとて公募作品である本篇に、他にどのようなエンディングがありうるだろうか、と考えれば致仕方ないかとも思うのである。そんな好意的な思いにさせられるほど、本篇は読書の喜びに満ちていたということに他なるまい。 「密告函」 以下、「あまぞわい」「依って件の如し」も構造は同様で、読者は主客二分的認識構造に支えられ、くっきりと輪郭によって縁取られた近代合理主義的世界とは対極的な、混沌と分かちがたい「彼我一如」の、あれでもあればこれでもある黄昏の混在郷にいざなわれ溺れるばかりである。 本書は、まさに「怪談」中の怪談(バタ臭く言い換えるなら幻想小説の傑作)集であるが、しかし乱歩的=倉阪的小説世界とは対蹠的な世界を描いているのであり、主客的・対自的な<恐怖>に依拠するところの「ホラ−小説」とは全然別種の小説タイプであると私は思うのだが、ホラ−という名称に拘泥るのであれば、ミステリでいうところのアンチミステリと同じ位置付けで「アンチホラ−」と呼ぶことは可能かもしれない。 ●福島正実 著者は本書の刊行(76年4月30日)直前の4月9日に47才の若さで亡くなった。つまり本書は遺作と言うことになる。 ニュ−・ポ−ルはいざ知らず、コ−ンブル−スとコンビを組んでいたころのポ−ルは、間違いなく社会派の暁将だった。 そのポ−ルに自らを擬すからには、著者も当然小説家としての自分の本領は社会的なテ−マにあると思いさだめていたに違いない。 「緊急連絡」では「東京地区一帯に大規模な異変が起こる」という内容のアマチュア無線グル−プの違法なデマ通信が、実際にパニックを誘発する。主人公と女友達は実際にその騒動に巻き込まれるが…… 「同窓会」、30年ぶりのそれに参加した主人公は、既に死んでいるはずのかつての親友柿尾に出会う。二人はひょんな偶然で幽明を別にしたのだと柿尾は言い、主人公はいつの間にか過去に来てしまっている自分を発見する。 「虚妄の島」は本土復帰を記念して開催される海洋博前夜の沖縄が舞台。折しも米兵の婦女暴行事件が頻発しており、海洋博の仕事で沖縄にやってきた主人公は街中に異様な雰囲気が漲っているのを感じる。偶然米兵を殺害した女の脱出を助ける事態に立ち至った主人公は、逃走の途中コザの街が燃えているのを目撃する。沖縄反乱? ……。 「破瓜」ではインベ−ダ−妄想をもったキチガイと思われた男が次第に賛同者を集めていく。かれは本物の超能力者だったのか? しかしながら、社会派とは云い定、本書の諸作品は、眉村社会SFとはずいぶん肌合が異なるものである。予知能力、終末予言、UFO等、全篇を通して色濃い<終末感>に覆われている。書かれた時代がそういう時代だったのかもしれないが、むしろ著者自身の内面世界を反映したものであるように私には思われる。 むしろ、その<歪んだ>作品世界が開示しているのは、実のところ著者自身の<内宇宙>なのではないだろうか。 著者には、「不定愁訴」(『出口なし』所収)という作品があるが、本作品集をあまねく支配している雰囲気こそ、まさにかかる<不定愁訴>の感覚なのである。対象の判然としない苛立ちである。 ともあれ、作品中に読者が発見するのは、理由のない苛立ち、ザラザラした焦り、ギトギト脂ぎった疲れ、そんなものである。そんな、どこにもぶつけるあてのないものを、著者は原稿用紙にぶつけていたのかも知れぬ。福島正実という作家にとって作品は「排泄物」であったのかも知れない。もとよりその「排泄物」は、読者が味わうに値する「排泄物」である。 眉村卓のように対象化の安定した理屈の通った見通しのよい作風とは正反対の、著者の作風は、たしかにある意味非常に読みづらく意味を取りにくいものである。が、排泄され濡れギラギラと蠕動する不定愁訴のかたまりのような<内宇宙>を味わってみることもまた、読書の別の喜びであるのは間違いないことであると私は思う。 * 本書は(『出口なし』もだけど)極端に入手が困難となっている。私は本書を溝口哲郎@書物の帝国さんとK.Shikadaさんのご厚意によって漸く読むことを得ました。ご両人には深く感謝する次第ですが、少なくとも福島正実のこの2冊は、なし崩し的に消え去らせてしまってよい本ではないと私は思います。何とかならないものか、ネットならできることがあるのではないかと思う今日この頃です。 ●眉村卓 著者の最初期の作品群を含む短篇集。あとがきによれば、「終りとはじまり」、「紋章と白服」、「エピソ−ド」、「影の影」、「表と裏」(以上、1群とする)は、昭和36年から39年にかけて書かれたものであり、「信じていたい」、「コピ−ライタ−」、「泣いたらあかん」、「テキュニット」(以上、2群とする)は「つい最近のもの」ということで、あとがきの末尾に「1969年9月」と記されていることから、2群はおそらく昭和44年頃の作品と思われる(別資料に拠れば「終りとはじまり」は61年、「紋章と白服」は62年、「エピソ−ド」「影の影」は63年、「表と裏」は64年に脱稿したものである。また「信じていたい」は調べがつかなかったが、「コピ−ライタ−」は69.4/10、「泣いたらあかん」は69.3/14の脱稿、「テキュニット」はSFM69.11月号の掲載である)。 著者によってこうして年代別に分けられた2グル−プ間には、たしかに歴然とした「差」が認められる。言うまでもなく2群のほうが小説として格段にすぐれている。昭和9年生まれの著者が、昭和39年から44年にかけて、すなわち30歳から35歳の頃に、技量的にも思索においても長足の進歩、深化を遂げていることが窺えて興味深い。 「信じていたい」(2群) 「コピ−ライタ−」(2群) 「泣いたらあかん」(2群) 「影の影」(1群) 「紋章と白服」(1群) 「終りとはじまり」(1群) 「表と裏」(1群) 「エピソ−ド」(1群) 「テキュニット」(2群) 1群と2群、結局どこが違うかというと、思うに小説を作る段階での<対象化>と<整理>の差だと思われる。かかる客観化の力が、眉村作品を見通しのよい読みやすいものとしているのだと思われる。 |
●T・M・ディッシュ 諜報員らしい主人公が引退して田舎に引っ込もうと列車に乗るが、着いたところは不可解な、<村>だった。…… カフカの『城』が、目的地の<城>にどうしてもたどり着けない話であるのに対し、本書は<村>から脱出しようとして果たせない話である。 本書において、著者は<私>の連続性信念に疑問を提出する。昨日までの私は、本当に今日のこの<私>と同じ私なのだろうか? この<記憶>は、本当に私が経験した<記憶>なのか? すべては「藪の中」である。 ところで本書を読むことで、パトリック・マッグーハン監督主演の、あの連続TVドラマを追体験しようなどとはゆめゆめ思うなかれ。実は読みはじめてすぐ「これは読んだことがあるな」と感じた。そしてすぐに中学生の時、友人に貸してもらった記憶が甦ってきた。しかし、どうもそのときはおそらく最後まで辿り着けなかったようだ。思い出したのは前半部(檻を利用して脱出するところまで)で、後半は全く記憶が甦らなかったから、たぶん挫折したのだろうと思う。 中学生には難しかった(?)のかも知れないが、それよりもむしろ、檻で逃げるシーンはTV版にはなかったはずで、TVの追体験をしたかった当時の私は「これはプリズナーNo.6とちゃうがな!」と、怒って読むのをやめたのではないだろうか? ●森下一仁 SFとは何かを真っ向から論じる本書は、いわば「SF原論」と副題するが適当な書物である。 もちろん、細かく見ていけば相違点(というより力点の相違)がないわけではない。管見では森下説は<センス・オブ・ワンダー>を過大視していると思う。すなわち本書の最大の力点がそこに置かれているわけで、「SFの本質はセンス・オブ・ワンダーにあり」という、実にオーソドックスなSF論である。 この定義、そういわれれば納得するしかないというか、SF読みは誰も反論できないのではないだろうか。 だからこそ、SF読みなら皆が判っている(意識的に認知しているかどうかは別にして)ものであるからこそ、逆に<センス・オブ・ワンダー>というか、「驚き」に乏しいのだ本書は。逆説である。隔靴掻痒感というか本書のつらいところである。 さて、私は、たしかに上の定義は、それはその通りだとは思うのだけど、センス・オブ・ワンダーがSFの本質だとすると、初期のスペオペはSFではなくなってしまうし、逆にある種の科学論や哲学がSFに含まれてしまうのではないかと最近考えはじめているのだ。 スペオペをまず例に挙げたが、もうひとつ日本SFはどうだろうか? さらに言えば、センス・オブ・ワンダー=SF説の弱点であると私が思うところは、センス・オブ・ワンダーが「読者の感性」に、一義的に依存する点である。すなわち作家の側の「SFを書くぞ!」という意志(志向性)が読者の感性にねじ伏せられてしまうわけだ。しかも読者個々の感性は、ある程度客観性があると言っても当然同じの筈がなく、Aの読者がセンス・オブ・ワンダーを感じ、SFであると認識した作品に対し、Bという読者が同じ認識に達するかどうかは確定できない。 逆にセンス・オブ・ワンダーがあれば、ある種の純文学も哲学も映画もシュールレアリスム絵画もプログレッシブロックも「SF」になってしまう。これは私自身の正直な<感覚>である。他のSF読みの方も、個々に少しずつズレはあるだろうが、やはりSF小説をその内側に包摂するもっと大きい彼ら自身の<センス・オブ・ワンダー>の領域を持っているはずだ。 SFに対する「思い入れ」を一旦括弧で括り、虚心坦懐に上を敷衍するならば、(いろんな分野において感ずることが出来る)センス・オブ・ワンダーは、別にSFの専売特許ではないことを端的に示しているのではないのだろうか? 分類したり分析したりするためには、もっと客観的な、誰が用いても(理想的には)誤差が出ない尺度が必要なのではないだろうか。 ●アーサー・K・バーンズ 言わずと知れたスペオペの定番で、スペオペを論じるときには必ず引き合いに出されるゲリー・カーライル・シリーズの、30年代後半から40年代前半にかけて雑誌掲載された中短篇を集めた作品集である。資料的義務感で読み始めたのだが、これが存外によくできていて一日で読了。 本書の特徴は、いかにもアメリカ的=成功物語的なシチュエーションにあるように思う。主人公の勝ち気な女ハンター、ゲリー・カーライルに惚れられて<逆玉の輿>に乗るトミー・ストライクのなんとも飄々たるキャラ設定がずばり効いていて、ふたりの掛け合いが実に<現在的>にリアルでおもしろい。 ●中村融・編訳 副題に<ホラーSF傑作選>とある。私は、しかしそんな曖昧な表現をせずとも、本書は<SF(エスエフ)小説傑作選>でよかったのではないかと考えるものである。 「消えた少女」リチャ−ド・マシスン 「悪夢団」ディ−ン・R・ク−ンツ 「群体」シオドア・L・ト−マス 「歴戦の勇士」フリッツ・ライバ− 「ボ−ルタ−のカナリヤ」キ−ス・ロバ−ツ 「影が行く」ジョン・W・キャンベル・ジュニア 作品自体は『盗まれた街』と同様な<地球侵略テーマ>あるいは<すり替わる宇宙人テーマ>で、(スペオペ的にではなく)シリアスに扱ったものとしては<はしり>になるものではないだろうか? 「探検隊帰る」フィリップ・K・ディック 「仮面」デ−モン・ナイト 「吸血機伝説」ロジャ−・ゼラズニイ 「ヨ−・ヴォムビスの地下墓地」クラ−ク・アシュトン・スミス 「五つの月が昇るとき」ジャック・ヴァンス 「ごきげん目盛り」アルフレッド・ベスタ− 「唾の樹」ブライアン・W・オ−ルディス とはいえモチーフの根本は(訳者も明記しているように)ラブクラフトのある作品そっくり。かりにもオールディスなのだから偶然の一致とは考えられず、面白くて夢中で読み終わったのだけど、読後その意図をはかりかねていたのだった。 結局上に書いたように著者のもうひとつの顔の方が書いたものなのだと納得したのだが、ウェルズSFの主要モチーフは、実はモデルがあったというアイデアを思いついた著者がノリまくって「異次元の色彩」を下敷きに、得意の19世紀描写を振りかけて、いたずら小僧のように目を輝かせて一気に書き上げたものではないだろうか、私にはそう思われてならない。つまり作風的には著者の親友のハリイ・ハリスンが本領とするものであり、おそらくオールディスは書き上げたとき、ハリスンに得意げに電話したのではないだろうか。そんなほほえましい情景が目の前に浮かんでくるのだが、たしかにハリスンに威張ってもよい<ごきげん>な作品に仕上がっていることは確かである。 ――いや、今回は「傑作」ということばを連発しちまいました。 ●大石英司 なぜかツングースカ隕石テーマが大好きなのだ。本書も古本屋でタイトルを見て、衝動的に買い求めたのだったが……「ツングースカ隕石」はほとんどメインのストーリーには関係なく(「極北」に至っては本文のどこにも記載はなく)、このタイトルまさに「北京の秋」! ●眉村卓 本書を一言で言うなら、それはショ−トショ−ト日記といってよいのではないだろうか。著者が病床の奥様のために毎日欠かさず書いたショ−トショ−トが3年足らずで1000篇を越えたので、とりあえず100話ずつ10巻に纏められることになった、その第1巻なのだ。 そういう意味では多少とも著者のお住まい付近を知っているほうが面白さは倍増する。小生にはその昔、毎月のように著者眉村先生のアトリエに通っていた時期があり、現在も仕事でその辺りを車で通過することが少なくなく、そういう関係で[あ、これはあそこだな]といちいち腑に落ちて興味深かったものである。 当然作中人物は作者と等身大である場合が多く、たとえば「階段の数」は地下から上がる階段の段数が常と違うという差異から異世界に紛れ込むという実に巧みな導入部なのだが、「わけのわからない異世界にまぎれ込むよりは、ずっとましなのではないだろうか」と現実世界に戻ってしまう。往年の著者ならこういう終わり方は決してしなかったはずである。いいとか悪いとかではなく、現在の著者の心境が素直に出ているだけの話で、なるほどと納得した次第である。 ベスト10は上掲作の他に、 |
●宮田昇 宮田昇という著者名には見覚えがないが、著者のペンネーム「内田庶」のほうは、私にとって懐かしい名前だ。アシモフの『裸の太陽』を初めて読んだのは、内田庶訳の『ロボット国ソラリア』(講談社・世界の科学名作7)でだったのである。 この双書から私のSF腐れ縁は始まったというのは余談だが、実はこの*印を付した名前は本書にも顔を出す方たちなのだ! つまりロシア語のふたりとドイツ語のひとり以外、ということは英米語担当者はすべて(プラス袋一平)この本に少なくとも名前は言及されていることになる。戦後の翻訳事情は実にこんな狭い世界だったということだろうか。 本書は、戦後の翻訳小説の黎明期に活躍した翻訳家(と出版人)で、もはや故人となられた方と著者との交友録、思い出話である(もちろん矢野、野田両氏はご健在。したがってちょこっと顔を見せるだけ)。 上掲の名前も含めて、若かりし頃の私がずいぶんお世話になったお馴染みの名前ばかりだ。そんな方々の行状である。 ●クライヴ・バーカー <血の本>第3巻。第1巻を読んだときにも書いたと思うのだが、バーカーの筆法は根本的にSFのそれである。たしかにスプラッタ風の描写が多いとはいっても、このような傾向の他の作家と比較してずば抜けて多いというわけではない。 表題作「セルロイドの息子」に登場する<超自然>は次のようなものである・・・ そこに生命力旺盛な「ガン細胞」が「置かれた」のだ! かくのごとくバーカーにあっては、<超自然>はその存在形態が過不足なく具体的に「説明」されるのである。このような<超自然>が、いわゆる超自然的存在であるはずがないのは理の当然であろう。 「好色稼業・屍衣の告白」では、悪人の奸計で殺害された男の魂が、この世に恨みを残し、「ロニーの霊魂は肉体を飛び出していった。液体状の魂がほんの少し染み出したのである。ロニーの意志や自我を含んだ分子は、ティッシュペーパーに染み込む涙のように、屍衣に吸い取られた」――つまり肉体を覆っていた屍衣に男の魂が宿ったのだ、という説明がなされる。 「魂の抜け殻」には、意志を持った木製の人形が登場する。それは気に入った人間そっくりになっていく能力があるのだが、主人公の問いに、人形は「ぼくは、ぼくさ。これまで同類にお目にかかったことは一度もないけど[……]ほかにもいると思う。何人もいるはずだ」――と答える。 「髑髏王」は、封印が破れて甦る場面はいかにもホラー的であるが、著者はこの超自然的存在の視点からも描き、その思考は一向に超自然的ではなく粗野な乱暴者すなわち人間と動物との中間的なイメージが強い。 「生贄」は、本書中唯一のホラー小説かもしれない。堂々たる海洋怪異譚。 というわけで、「髑髏王」以外は甲乙つけがたいが、リーダビリティで「生贄」、小説としての完成度では「好色稼業・屍衣の告白」が優れていると思った。 ●ワインバーグ&グリーンバーグ編 ミステリにおいては「ネタバレ」は最大の犯罪行為なのだそうだ。SFの場合はどうだろうか。どうもちょっと違うように思う。 さて本書はもちろんミステリではありません。為念(^^;。 かかる編集方針が奏効したのか、本書はバラエテイにとんだ<ラヴクラフト小説>集となっている。 巻頭の レイ・ガートン「間男」 モート・キャッスル「吾が心臓の秘密」 グレアム・マスタートン「シェークスピア奇譚」 ブライアン・ラムレイ「大いなるC」 ゲイリー・ブランナー「忌まわしきもの」 ヒュー・B・ケイヴ「血の島」 ジョゼフ・C・シトロ「霊魂の番人」 チェット・ウィリアムスン「ヘルムート・ヘッケルの日記と書簡」 ブライアン・マクノートン「食屍姫メリフィリア」 ジーン・ウルフ「黄泉の妖神」 ゲイアン・ウィルスン「ラブクラフト邸探訪記」 エド・ゴーマン「邪教の魔力」 F・ポール・ウィリアムスン「荒地」 ――100%純粋なSFとかホラーというのは現実には存在しない。事実はSFとかホラーとかファンタジーとかの要素が何程か混じ合いブレンドされた状態の作品が現前するばかりである。 たとえばゴーマン作品は形式的にSFであるが、読者が直感する印象はやはりホラーのそれであろう。<形式>に盛られた<内容>にホラーの要素が大きな割合を占めているからに他ならない。 ●小森健太朗 著者が在籍した1985年頃の東大駒場キャンパスが舞台の一種キャンパス青春小説で、わたし的にはとても好ましい小説だった。 天才的な勧誘活動を行なう、勧誘女王(バーカー・クイーン)の女子学生が魅力的。主人公とふたりで深夜の駒場キャンパスに潜入し、胎内巡りめいた冒険をする場面は、本書の一番の読みどころで本当によく書けている。しかし最後の(対決?の)場面は唐突。話自体は途中という感じ。続編の『本郷の九つの聖域』がたのしみである。 謎解きは、大トリックがあるわけではなく、「見えない人間」は面白いけどストーリーに劇的に介入していくものではない。機械トリックはありがち、というか機械トリックで驚かせることはもはやできないだろうと私は思っているのだ。ネヌウェンラーの機械トリックは、トリックそれ自体が凄かったのではなく、それによって認識系が変革される<触媒>の役割を担うものだったから凄かったのである。 ●眉村卓 第一巻同様、著者の身辺から取材されたとおぼしい創作やエッセイがない混ぜになった101日目から200日目までの(奥様への)日報である。 さてベスト10だが、 空き地のタイムマシン>ふと入り込んだ空地では、奇妙な風体の男がタイムマシンを修理していた……。日常と非日常の遭遇のさせ方が絶妙である。 一号館七階>私が昔住んでいた団地は、近いのでよく通るのだが、しかし二十年以上その中に入ったことはなかった……。 電飾看板のある屋上>男がよく泊まるホテルの屋上には上品な電飾看板が立っていた。男は一度それを間近に見たいと思っていたが……。 床の焦げ跡>新幹線の床に見つけたたばこの焦げ跡は、二十年前に私がつけたものなのか?…… 予測された顔>友人の父が残していた私の「未来の顔」はあまりにも威厳に満ち立派だった……。 マンホ−ルのお化け>たまたま口の端にのぼった漢文に触発されて現れたのは、遠い少年時代の怪談だった……。ブラッドベリ的郷愁にみちた小品。 地下鉄代>この寸借詐欺は私(大熊)も遭っている。30年ほど前だが……。してみるとかれの次元は時間を超えてこの世界と接続しているらしい。 ロフトから>建て直したロフトからは昔なくしたものが出てくるのだった……。ショートショートは勿体ない。私なら脱獄囚の視点からも描いてバ−カ−風の短編にするのだが(ああ、また勝手なことを言ってる)。 隣の物音>そのマンションは先住者の抑圧された欲求が現住者に聞こえるのだった……。長編ホラ−にするべき秀逸なアイデア。 昔の流行歌>へたばるまでやればいいのだ。昔のように……。そうそう、これこそ眉村SFの主人公である。 相乗効果>夕暮れ、デパートの屋上の回転木馬に乗る女の子は一回りして少女になっていた!? 若年>人生とは何か、若さとは何か? 象徴主義的ショ−トショ−ト。 大晦日>「私、大晦日のお化けですよ」とそいつはいった……。ツボどまんなかの可笑しな怪奇小説。 ある議論>認識論的本格SF! 老人と犬>町で見かけた老人と犬……。エリスン「少年と犬」に勝るとも劣らない哀感溢れる秀作。 異世界への投げ釣り>次元の境目へ釣ざおを伸ばしている青年は何かを釣ろうとしているのではなく、釣られようとしていたのだ……。 来てくれ>自身喪失の男が自信回復のために試したまじないは……。これは長編ホラ−のアイデア。それを3枚程度に納めてしまうとは、何たる贅沢! 満月の階段>満月の夜、その階段を使うものは……学校の怪談。 ――あれれ、ベスト10を選ぶつもりがベスト20になってしまった(笑)。 |
●三雲岳斗 第1回日本SF新人賞受賞作という知識は一応あり、注目してはいたのだが、SFミステリであるという情報が伝わってきて、つまり世界設定だけSFのミステリ作品かと思い込んでしまい、今まで敬遠していたのだった。どうしてどうして、きっちり書き込まれた「紛う方なき」SFだった。 系譜的には、高斎正の延長線上に位置づけられる作風ではないだろうか。前半は、いかにも高斎的な(きちんと説明された)宇宙ステ−ション内の描写が臨場感たっぷりで、加えて最近のSFのお約束(?)電脳空間の生き生きした描写と相俟って、一気に作品世界に引きずり込まれてしまった。 殺人事件が起こるのは、スト−リ−もほとんど半ば近くにきてから。しかもふたつ起きる殺人事件は、どちらも宇宙ステ−ションという「SF的場」がトリックを成立させる契機となっているので、そういう意味で本書は「世界設定だけSFのミステリ作品」とは一線を画すものである。SFであることが、ミステリの前提条件となっているのである。そのあたりが非常に好ましい。 第一の殺人である「無重力下の墜死」のトリックよりも、第二の「ほぼ常気圧下での真空暴露」のトリックの方が(犯人のアリバイ工作も含めて)わたし的にはよかったし、優れていると思った。 電脳空間へ去ったマッドサイエンティストが、また好い。 ●山之口洋 ――2010年、深刻な環境破壊などの危機を打開するため、クロ−ン技術によって優秀な人材を<大量生産>する計画に協力したマカロフは、千人のマルチプリカンド(増殖個体群)の父となった。70年の人工冬眠から目覚めたかれが見たのは、成長した分身たちだったが…… 巷間話題の400円文庫である。このコンセプトがどうもきな臭くて(?)いささか危惧しながら本書を手にしたのだったが、大丈夫、作者は(不自由な舞台であるにもかかわらず)しっかりとSFを書いている。その意気やよし。 とはいえ……やはり本書はあまりにも短かすぎる。正味120〜130枚ではないだろうか。おそらくはこの文庫、依頼時に枚数の上限規制があったのだろう。そのためか書き込みが十分ではない。話がさくさくと進んでいく。まるでシナリオを読んでいるような気分になった。 しかしながらこの話、最低でも倍は書き込まないと、折角のアイデアが勿体ない。したがって前作『オルガニスト』の濃密さを期待するわけにはいかない。その辺は不満。 とにかくこの中篇SFは、わたし的には合格点だった。先日読んだ三雲岳人には高斎正を感じたのだったが、山之口洋はそのヨーロッパ趣味といいテーマといい、上述したように荒巻義雄のマニエリスムSFを継いでくれそうな気がした。それだけの逸材であることは疑いない。期待できる! 最近ぽつぽつと登場してきた新人たちは、それぞれ、おや?と思わせる何かを持っていそうな気がする。ふたたび日本SFの黄金時代が来るのではないだろうか? どうもそんな気がしてきた。しばらくは、期待の新鋭たちに付き合ってみようと思っているのだ。 ●藤崎慎吾 ――2071年、火星の北極冠で甲殻類に似た古代生物の遺骸(殻だけ)が大量に発掘された。それは火星人(?)が遺した貝塚なのか? 調査のために縄文時代を専門とする生命考古学者のサヤは、恋人を地球に残して火星へ向かった…… 力作である。登場人物(?)は人間だけではないところがすごい。生体ですらない。これこそSFである! ネット存在が、仮想空間を自在に行動するというか動き回る場面は、まるでベスターを読んでいるような感興があった。これは最近の海外SFを読んでないせいかも知れないが、私は本書に「新しさ」を感じた。 このところ続けている第1期の誰を継いでいるのかと言えば、うーむ、難しい。そういえばベスターの影響を受けた日本作家っていないのではないか(平井和正がベスターの影響を語っているが、平井が引き継いだのはベスターではなく『虎よ、虎よ!』なのだと思う。ベスター本来の軽業的なストーリーを継承したのではない)。「大説」的要素もあるので、やっぱり小松だろうか。いやいや、短絡的に決めつけてはいけない。もう少し様子を見よう。次作の可及的速やかな発表を期待したい。 ●北野安騎夫 一気に読み尽くす。<ウィルスハンター>というシリーズものの1冊ということである。悪性のコンピュータウィルスを退治するのが仕事の美人電脳免疫学者浅倉ケイを主人公に据えたアクションSF。 『クリスタルフラワー』の余韻醒めやらぬなか、本書も電脳空間にもぐり込んでのアクションSFかと思って読み始めたのだが、そういうシーンは一切なし。主人公のケイは(少なくともこの長篇では)ほとんどコンピュータに触らない。期待していたものとは全然違っていて、ちょっと拍子抜け…… ――といった、そんな思惑違いの悔恨を引きずっていたのも前半まで。物語が半ばを過ぎる頃には、完全に作品世界にハマッてしまい、時速100ページの(私としては)能力一杯のスピードで読み尽くしたのだった。 ●古井由吉 かなり初期の作品集である。「街道の際」、「畑の声」、「駆ける女」、「夜の香り」の4篇を収録。 別に重信逮捕に触発されたわけではないのだが、積読本の中からふと手に取り、戯れに頁を繰った「街道の際」が、「大学紛争」後の教師たちの<喪失>感を著者独特のタッチに塗り込めた名品で、思わず一冊読んでしまった。 相変わらずの古井節。これが私にはたまらなく好いのである。見方によれば臭い「美文」といえるかも知れない。が、いったんこの文体の虜になるともう止められないのだ。その辺は干魚のくさや(あるいは琵琶湖のフナ寿司?)に似ているかも(例えが悪いか(^^; )。 歳を取ってきて、次第に文体以外の面も了解できるようになってきたような気がする。今回特に感じたのは、否応なくわきたつように匂い立ってくる60年代という時代の匂いである。初期の大江が真っ正面から60年代を描いたのだとしたら、古井由吉はいわば裏口から、60年代を燻しだしている。 本書収録の4作品とも、舞台を60年代特有の<開発にさらされ日々変貌していく郊外>に設定している。 そうして私はふと思い当たったのだ。著者は女性を「理解の外の存在」として描いているのではないか、と……。そういえばたしかに著者の描写は、決して女の内面に立ち入っていかない。徹底して「外」からなぞるばかりである。 ●眉村卓 201日目から300日目までのショートショート風日報。折り込みの<卓通信>によれば、長篇『カルタゴの運命』の連載が終了した直後で、時間的余裕が出来た分、「アイデアによってはゆっくり時間と枚数をかけ出来た」ということである。 マイベスト10は―― 「古い硬貨」>券売機が受けつけない古い硬貨、よくみると小さくABCDEと印が付けられている。大学時代、暇つぶしに硬貨にAという印を刻んだことを思い出す。45年巡り巡って、再び手許に帰ってきたのだろうか。その間にBCDEと印を増やしていったのか? 私は保管することにするが、折角Eまで来た印を止めてしまってよいのだろうかとも考える……時の奇跡。 「STTC」>60歳以上で今さらパソコン通信など、と考える人向けの電話によるサービスの顛末……でもネットにも同様の効用があってなかなか楽しいもんですよ>先生(^^) 「乗り降りする青年」>バス停で下車した青年は次のバス停で乗ってきた。バス停で停車するたびに降り、また次のバス停で乗ってくるのだ。お化けだとしてもちゃんと料金を払うのだ……奇妙な怪談。 「先月の成績」>不思議な手紙が毎月届く。あなたの先月の成績とあり、生活態度、意欲、達成度、持久力、自戒と言う項目が5段階で評価されている。毎月来ると、成績を比較しないではいられない。評価が上がってくる。やがて終了の通知がくるが僕の気持ちは……共感。 「異常記憶」>男には異常記憶という写真のように精緻な記憶能力が……。だがそれが重要なことに対して働くわけではなかったのだ……時の不条理。 「定年前」>定年を前にしてV氏の性格が変わった。執着が消えて角が取れたのか? だが、私は深夜ビルの前でわめいているV氏を目撃する……しみじみ。 「鏡の中から」>ドッペルゲンガーか? 鏡に映った自分にウインクして背を向けたボクの背中に「替わってやるよ」と言う声が…… 幻聴? 翌日目覚めたぼくはテレビの中の子供が左手で字を書いていることに気づくが……アッ! 「物干し場とココアピーナツ」>ココアピーナツを物干し場に出しておいたらなくなっていた。5夜つづける。6夜目出さなかったら……怖い! 「学校へ」>電車のなかで本を読んでいたので降りる駅に着いたとき現実感覚が後ろに退いていた。スクールバスに乗ろうとして、逃げたいと思った。男は衝動的に路線バスにのる。そうして次第に現実感覚が戻ってくると……傑作! こうして選んでいると、否応なく私自身の嗜好が顕われていて、なかなか興味深いのである。 ●眉村卓 遠未来、人類は事実上ロボットに取って変わられており、人類自体も次第にその数を減少させていた。その結果、対人サ−ビスを専らとする個人用ロボット(サバント)も社会的遺物となりつつあった…… |
●上遠野浩平 SF的設定は面白いのだが、どうも具体的な整合性がよくわからない。この設定、私なりに理解するところでは、 人類は恒星間移民のためカプセル船という世代宇宙船で旅をしている。船内の人々は冬眠状態にあるが、夢を見ている。 という前提的設定をこの小説は(たぶん)持っている。 パイロットたちのバーチャル世界における対応人物が日本の、しかも同じ高校の同級生であるのは不自然だし、根本的になぜ高校生のような未成年に設定されているのか腑に落ちない。もちろん説明もない。 はじめに主人公の年齢設定ありきということならば、所詮はヤングアダルトだな、というのが読後感。SFとしては全然ダメ。 ●平谷美樹 作者は「遅れて来た第1世代」ではないか。<70年代日本SF>というジャンル――そういうのがあるとすればだが――におさまるSFの新作を、久方振りに堪能した気分。 21世紀初頭、月面や地球上のいたる所で怪現象が発生し始めた。月面基地エンデュミオンの設置に参画した宇宙飛行士たちは、その現象をもたらす主が、人知に放逐され、月を最後のよすがとする神々であることを感知する……(裏表紙あらすじ)。 この師匠にしてこの弟子あり、ではないだろうが、作者は細かいことには拘らないたちのようで、登場人物の連続性(一貫性)が了解のレンジを時に越えてしまううらみがある。が、大勢に影響はない。理屈でなく、感覚でストーリーをつないでいく筆法は師匠譲りといえよう。 最後の100ページは一気呵成に読み尽くす。 ところで主人公は少年であるが、ヤングアダルトものではない。突然ですが、SFって大人の文学なのだ。しかも大人になったら読まれなくなる大人の文学なのである。じゃ、だれが読むのか。〈少年〉が読むのだ。〈少年〉が読む「大人の文学」なのである。つまり少年がすこし背伸びして読むものであり、読むことによって、彼は必ず時の存在に(あるいは因果関係の存在に)気づかされざるを得ない――そういう類の読み物なのである。 かたやヤングアダルトが描くのは等身大の少年であり少女でありかれらの現在である。通時的ではなく共時的な事態を描く。そこに因果的物語性は希薄であり、いわんや主人公は成長しない。物語の始めと終わりで主人公は変わっていない。或いは世界は変容しない。おっと話が随分それてしまった。 ともあれ、本書は紛れもないSFである。作者は本書の次の作品(『エリ・エリ』)で小松左京賞を受賞する。むべなるかな。 ●北原尚彦 第1章空想科学叢書列伝、第2章バベルの塔から世界を眺めて、ともにSFマガジンに連載されたもの。 第1章「空想科学叢書列伝」の主旨は、海外ものを出すハヤカワ文庫SFや創元SF文庫は現在も勿論健在だが、時の流れのなかにあっては消えてしまったSF叢書も多数存在したのであって、そういう今はもうない叢書を順番に取り上げて、それらの叢書に収められていた(今はもう読めない)個々の作品について解説するという趣向である。 読中、非常に懐かしい感慨に浸ることができた。私自身は創元、ハヤカワ以外に目を向けることは、サンリオ文庫は別格としてほとんどなかったのだけど、それでも書名ぐらいは記憶があり、なるほどそういう話だったのかとうなずくこと屡々であった。 ところで、この列伝、実は大変な叢書を見落としているのである。それはハヤカワSFシリ−ズいわゆる銀背である。この銀背シリーズ、めぼしい作品はハヤカワ文庫に移動しているのだろうが、それでもかなりの作品がシリ−ズそのものと無理心中させられている(たとえばブリッシュ『宇宙播種計画』)。本章では、銀背と共に消えていかざるを得なかったシリ−ズ収録作品を取り上げてほしかった。もっともそうするとボリュームは3倍ではきかなくなるだろうが……。 そういう次第で<見捨てられた銀背>リストというのを作成してみました。私がよく利用させていただくAmemiyaさんのHP「海外SF翻訳作品集成」のデータを並べ替えただけのやっつけ仕事で、とても完成品とはいえませんが興味のある方はご覧下さい。→ http://www3.ocn.ne.jp/~kumagoro/ginse.htm 第2章は英米以外の各国のSFを取り上げている。興味深い。フランス篇はことに興味深かった。 ●眉村卓 『ねじれた町』は、定評ある眉村ジュヴナイルのなかでも、とりわけ個人的に評価の高い作品である。 今回、本書を取り上げるのは、ひとつにはこの作品がサイエンスを取り扱わないSFの典型的なカタチを見ることができるということと、いまひとつはハルキ文庫版の瀬名秀明の巻末解説が力作で一読の価値があるからである。 古い城下町で[……]いかにも平和な町Q市――ここに引っ越してきた和田行夫は、すぐにこの町の異様さに気が付いた。明治時代を思わせるポストや人力車、町の人々が信じて疑わない「鬼」、そして人間の意思力が生み出す超能力の存在……。時間・空間・生活、すべてがどこかでゆがんでいるこの町で行夫が体験する恐怖の世界とは?(ハルキ文庫版裏カバーより) 少年が引っ越してきた地方の城下町Q市の住民には、なぜか超能力(テレパシー、サイコキネシスなど)が備わっていて、しかも市はどうやら過去のQ市ともつながっているようなのだ。やがて主人公の少年自身も超能力が使えるようになる。 本書では<超能力>そのものに対しての「科学的」理屈付けはない。その点ではファンタジーやホラーと見紛うかも知れないが違うのである。 ――すなわちその歴史を通じてQ市住民の意識に消しがたく刻印された旧弊な支配−被支配の傾斜が、見えざる制度として澱み固定化されることによって、否応なく生成され続ける虐げられた者の無意識的怨念が凝って実体化した一種<集合無意識>――かかる霊気が現実のQ市を包み込み、あわよくば介入しようと虎視眈々とねらっている。かかる霊気が<超能力>発現の源泉であるのだが、町の支配層は、しかしこの霊気を逆用してこれまで秩序を保ってきていた……という背理がここで説明される。 そしてこのメカニズムに気づいた主人公の提案を受け入れ、<怨念>が介入をやめることによって、支配層の支配の根拠が(皮肉にも)消滅し、はからずも怨念の目的は達成されるのである。かくのごとく本書は非常にシステマティックな世界構造を描写することで小説世界が構築されているのだ。 これは一種の<理屈>であることは疑いない。<怨念>や<超能力>それ自体はなんの根拠もない思弁であるが、一旦それを認めた上での展開において、この小説はSFなのだ。こうして本書は、結局超能力の無限定な受容を前提として成立するファンタジーとは一線を画すものであることが明らかとなるだろう……。 次に瀬名論文であるが、上述したように眉村卓論として出色のできばえだと思った。 すなわち「決断」と「通りすがりの感覚」という切り口である。前者について瀬名は「決断を強いられる自分と決断につきまとうためらい、そして決断後に感じるなんともいえない疲れ。これらこそが眉村卓の主要なテーマなのではないか」と分析する。 この切り口は瀬名独自のものであるが、それが妥当かどうかは、かかる切り口を提出されたとき「私」において、眉村作品が(殆ど例外なく)その切り口に基づいて遡及的にパタパタパタと再編され収まるかどうかによって検証されるわけだ。 瀬名の「ねじれた町」の解説は、このように批評として自立性を主張できる優れたものである。批評とはかくありたいものだ。 ●眉村卓 表題作と「闇からのゆうわく」を収録。2作品とも前項で述べた瀬名の「決断」のモチーフが明瞭に現れている。いちいちここが、と説明はしない。そんなことをせずとも瀬名論文によって「決断」という認識の台座に立った者には、それは明瞭に視界に迫ってくるはずだ。 表題作は「過去のないリクエスト・カード」「夜はだれのもの!?」「呪いの面」の3短篇からなる連作。この連作、深夜放送のパーソナリティが主人公の、一般小説である。今回が初読なのだったが、読んではじめてジュブナイルではないことに気づいた。 拙HP(とべ、クマゴロー!)の眉村卓著書リストでもうっかりJV篇に含めてしまっている。実は巻末の新戸雅章の解説に「本書は作者お得意のジュヴナイルSF二篇を収めた中篇集である」とあったからで(と弁解する)、瀬名解説とは違ってずいぶん杜撰な解説である。その証拠に4ペ−ジあまりの長さのうち3ページ半をインサイダー文学論に当てていることからもわかる。つまり何も言っていないに等しい解説なのだ。 深夜放送が舞台らしく、70年代初頭の洋楽ヒット曲が頻出する。懐かしい(しかしウソくさい曲名も散見する)。 「闇からのゆうわく」は純然たるジュヴナイルSF。松葉という先生の超能力は新人類(ミュ−タント)という根拠をもつ。 ●浜尾四郎 戦前(昭和6年)にこんな堂々たる本格探偵小説が書かれていたのか、と驚かされた。 私の考える本格ものの理念型では、謎解きはシステム内において終始するべきで、システム外からの導入はアンフェアとなる。 結局動機は探偵が調査に赴いて、システム外部から持ち帰ってくる。つまりシステムにとどまる限り、動機は発見できないのである。これはアンフェアとはならないのであろうか? 本格読みの方にたずねたい気がする。 それにしても(絢爛たる乱歩とは正反対の)冷静着実な文体で語られる論理の詰めは一読の価値あり。まさしく日本本格派の成果であろう。 |
●掲載 2000年8月2日(7月)、9月9日(8月)、10月4日(9月)、11月8日(10月)、12月7日(11月)、2001年1月8日(12月)