ヘテロ読誌
大熊宏俊

2000年 下半期

7月

寺山修司
『畸形のシンボリズム』
(白水社)

 乱歩の『一寸法師』への言及で始まる本書は、著者の身体論的演劇論の一環として書かれたものであることは疑いないが、たとえば私のような演劇に無縁な読者が読んでも一種<人間の版図論>として十分に興味深いものがある。

 <畸形>を、超自然的な存在から与えられる「罰」としてとらえることによって「見世物」が誕生したことを著者は強調する。著者によれば、<畸形>としてこの世に生を享けた者は、大抵見世物小屋へ引きとられ罰の哲学の犠牲として商品化されるのであり、見世物小屋は「見せしめ小屋」として機能することによって因果道徳用の教材に供されてきたとする。(畸形の通時性)

 即ち私たちの未反省的なこの世界における一般的な<畸形>の存在形態(私との交通)とは、常に「見られるもの」(見世物)と、「見るもの」(見物客)という一方通行な二分法的関係なのであり、<私(=見るもの)>と<彼(=見られるもの)>の間には、はっきりと区別が――いわばアチラとコチラといった彼我的(主客的)関係が――截然としてあるということだ。ちなみに我−彼(ワ・カレ)は「分かれ」に通ずるのであって、そのような二分法的態度がおそらくは私たちにはごく「自然な」態度なのだろう。

 『一寸法師』において、小林紋三と明智小五郎の一寸法師(畸形)に対する態度の差異に著者は注目する。著者によれば明智探偵にとって一寸法師は上述のごとき彼我的(主客的)な因果的見世物であるにとどまるのに対し、一寸法師と「同じ時を生きてしまった」小林紋三にとっては、一寸法師はまさに「主客一如」の共時的存在なのである。夕暮れの浅草は、そのとき日常と非日常とが、秩序と混沌とが、境界を見喪なって、いわば<混在郷>と化すのであるが、結局乱歩の「秩序感覚」はそれを許さず、「法則も幾何学もなく散乱することによって生まれかける神話的宇宙を整序し、日常の倫理によって裁こうとする」と、著者は不満を述べている。もとよりその<裁き>を体現するのが、他ならぬ<明智小五郎>なのである。結局乱歩のこの小説の眼目は、「畸形は常に悪徳であり犯人は常に一寸法師だった」と言っているのだと著者はいう。

 私なりに言い換えるなら、乱歩の小説世界は、一見反日常的な世界を描きながらも、結果において自然的態度の自動律に支配される未反省的なこの日常世界――主客的世界――を擁護し補強する方向に働きかける類の、或る種コンサ−バティヴな小説であるということになろう。あるいは乱歩の(明智の)根強い人気は、かかる乱歩世界の<結論としての通俗性>によって保証されていると言えるかもしれない。なにせ怖いもの見たさの善男善女の欲望をきっちり満たしてくれた上、しかして安全なる主客的現実世界へと間違いなく連れ帰してくれる(「畸形は常に悪徳であり犯人は常に一寸法師だった」)のだから。

 上に述べたように、生産や交換が日常的に行われている俗なる空間では、<畸形>は<ふつうの人間>からその「異形性」において差別され、「異物」として二分法的に排除されることになるのだが、しかしそれは完全なる独立的な分離とはならない。かれら(畸形)はいわば私たち(普通の人間)の衛星的存在として私たちの世界に依存しなければ生きていけない。寺山が挙げる「御伽草子」の一寸法師がまさにその例である。

 さあらばと彼ら<畸形>を日常性から切離し、神話的な聖なる空間(祝祭的空間)に置いたとしても、著者によれば、彼の同一化は得られない。そこには呼び込み式の口上によって彼の畸形の原因を、因果として語り起こす見世物の「通時態」が待ち受けているだけであり、それはまた別の「監禁」でしかないとして、著者は独自の演劇論に入っていくのである。

 さて著者は本書で、乱歩とは対極的な形で身体的畸形に拘った広津柳浪という小説家を評価している。寺山は次のように分析する。
 <思えば日本的近代とは、平均的身体によって形成された一つの倫理であった。西洋近代思想の摂理の表現として登場した啓蒙思想は、民衆の身体の画一性を制度として規範化し、一般的理性として「等身大」という概念を民衆に押しつけ>たのだと。

 まさに乱歩はこの位置にとどまっているのである。かかる等身大人間の一般理性は、
 <柳浪の作り出した蜘蛛男や一寸法師を[……]前近代の遺物として[……]自然主義という制度の中へ[……]規範化してしまった>のだが、実は柳浪の描く畸形は<「新聞の片隅を賑わす前近代の亡霊」ではなく、近代化への異議申し立てのシンボルだった>のであり、それゆえ「天地ハ理ヅメ也」として身体感を捨象してしまった近代啓蒙思想によって圧殺されようとしていた一寸法師や蜘蛛男の逆説を敢えて呼び戻した柳浪の意味は、きわめて重要だったという。
 しかしこれは、逆の意味で一面的な気がしなくもない。ともあれ広津柳浪という作家を、私は全く知らなかったのだが、機会があれば読んでみたいと思ったのだった。


倉阪鬼一郎
『田舎の事件』
(幻冬舎)

 主客的世界において、「平均的な身体」からの逸脱が「畸形」ならば、「平均的な精神」からの逸脱は「狂気」と呼ばれるだろう。本書では、まさにかかる意味における「狂気」が描かれている。
 本書には「狂気」がからむ「田舎の事件」が13話収録されている。

 村の奇想派>かつて神童と呼ばれた男が「脳を病んで」田舎に帰郷してくるが。――無惨な話である。
 無上庵崩壊>妥協を許さぬそば職人が田舎に究極のそば屋を開店するが。――愛ちゃんというキャラクタ−が無惨である。
 恐怖の二重弁当>杉野高校と杉野実業(エテ実)は野球のライバル校だが、学業では天と地ほどの差があった。両校の仕出し弁当は互いにOBの会社が担当していたが、ひょんなことでエテ実の仕出し弁当屋善太郎が杉高に出入りすることになるのだが。――弁当屋善太郎、無惨である。 
 郷土作家>万年作家志望の俊介は、魔がさしたように同県生まれおない年の新鋭作家の名を騙ってしまう。それが地獄の始まりであった。――俊介、無惨である。
 銀杏散る>東大の近所の東海林大学に合格した耕作は、ほんの冗談で「わい、東大に受かってん」と言ってしまう。それが地獄の始まりであった。――耕作、無惨である。
 亀旗山無敵>村から相撲取りが生まれる。竹山三郎は自分が果たせなかった夢を亀吉に託すが。無惨なことは全然なく、人生の無常を10ペ−ジに凝集した佳篇。
 頭のなかの鐘>歌手志望の健一は引くに引けず、本当は落ちたのど自慢に合格したと嘘をつく。それが地獄の始まりであった。――健一、無惨である。
 涙の太陽>西田耕造27才、最年少村会議員であったが、緑ゆたかなこの村で主張は一貫、地球環境保護と太陽エネルギーの活用なのだった。案の定次の選挙で落選。しかし本人は国政にうって出るのだが。――西田耕造、無惨である。
 赤魔>かつて赤魔とも恐れられた校正の鬼・三山一夫は、その狷介な性格から会社を追われ郷里に帰るが。――赤魔、無惨である。
 源天狗退散>源三は元八百屋のコンビニ経営者だったが、商売敵が出来てあえなく倒産、商売敵にお門違いの殺意を燃やす。――源三、無惨である。
 神洲天誅会>会長一名、会員一名の弱小愛国団体神洲天誅会の会長寺田は会員の元ボクサ−で頭を強打されて引退した森本相手に講釈をぶっておればそれで満足だったが。……
 文麗堂盛衰記>往生寺文夫は郷里でインタ−ネット古書店を開くが。……
 梅の小枝が>選句をしていた権藤梅風人が発狂したのは、次の一句を見た瞬間だった。「書斎の窓まで梅の小枝がこんにちは」……

 本書の主人公たちは、何らかの意味において何程か「平均的な精神」から<逸脱>している。その逸脱ぶりが共感的にほほえましく感じられればユーモア小説としてオッケーなのだけど、私には(フキダシの類には反応したものの)しかし<無惨さ>しか伝わってこなかった。
 先走るが、本書を面白がれる読者は、意識しているか無意識かは別にして自己のエリート性に対する同一性を(まだ)保持している人々(その殆どは所謂「若者」であろう)ではないだろうか。

 形式的に同趣向である北杜夫のユーモア小説は私には面白いものである。それは<逸脱>した主人公に著者が感情移入して書いているのが明瞭に読者に読みとれるからなのだ。つまり北の場合、自己の立脚点を<逸脱>の側に置いていることは明らかであると思われる。
 ユーモアはかかる「自虐」に裏打ちされていてこそユーモアたり得るのだと思われるが(むろんかかる立場も前段で取り上げた寺山作品のひそみにならえば衛星的呪縛を裁ち切るものではないのは勿論である)、本書にそれを感じることは殆どなかった。

 むしろ「こんな愚かな連中笑い飛ばしたれ」といった主客的、彼我的な二分法が作品をあまねく支配しているように思われてならなかった。極言すれば正なるこの世界によって不正なる狂気が断罪されているのである。「狂気は常に悪徳であり犯人は常にキチガイだった」というわけだ。
 著者はあとがきで、この作品集について(というか自己の資質性について)「私小説(私小説作家)」との類似を示唆しているが、まさにその通りと思われる。後段で取り上げる山下真治論文にあるように、「大正末に起こった新感覚派や前衛詩運動は[……]リアリズムを支えていた「主−客」図式の認識論を覆そうとした点で画期的であった」のだとしたら、それ以前の「写実主義による旧世代の作家たち」すなわち「私小説作家たち」は、まさに主客的世界に幽囚されていたのであるから。……

 ここで私は、<ホラー小説>というジャンルに思いをいたさないではいられない。
 以前私は、ホラ−について、「キングやクーンツに代表されるモダンホラーにおいて殊に顕著であるが、かかる超自然に対峙する登場人物の〔態度/精神〕は、(少なくとも最初は)常識的(=小市民的)であることが必須である。小市民(常識人)がこの世界に出現した超自然現象に巻き込まれ、対峙しなければならないところから、モダンホラーの恐怖は醸成されるのだ。」(ヘテロ読誌1999年9月「19世紀フランス幻想短篇集」参照)と書いたことがあるが、この文はまさにホラーの彼我的(旧世代的)性格を述べたものに他ならない。

 また同じ項目のジャン・ロラン「マンドラゴラ」についての感想「最初、超自然的現象は恐怖を読者にもたらすだろう。しかし読みすすむにつれ、恐怖の源泉たる蛙少女は読者の共感を獲得するに違いない。本書は怪物小説ではあっても異形小説すなわちホラ−ではない。ホラ−は常に読者に対して向かってくる超自然であり、超自然が恐怖ではなく共感されるものに変わるとき、その小説はホラ−であることをやめる。」において、私はホラーの「版図」を明らかにしたつもりである。

 「向かってくる超自然」とは、勿論「主客的な超自然」ということである。ホラーにおける恐怖とはとりもなおさず「客体としての恐怖」に他なるまい。
 「超自然」ではなく「狂気」においてであるけれども、同様の事態が本書には描かれている。即ち本書に描かれている諸「狂気」は、まさに「客体としての狂気」なのであり、本書はホラ−小説ではないけれど疑いなくホラー小説の筆法で執筆されていることが明瞭である。

 唯一「亀旗山無敵」だけは、筆者が作中の一人物に対して、一種共感的態度において交通しているのが読者に伝わってくるのだが、この作品を私が好ましく思うのは、まさにかかる自虐的筆法によっているからに他ならない。この作品の竹山三郎の愚直さ鈍感さは、ホラー的版図を飛び越えて、たしかに文学たりえていると思う。本篇では「田舎」というテ−マが十全に結実している。

 最終の三篇は、とりわけ著者が「狂気」という状態をまったく外在的にとらえることによって成立している作品であるように思う。前段に写したように寺山は畸形を論じて、日本的近代とは平均的身体によって形成された一つの倫理であったとのべているが、上述したようそれは狂気についても同様なことがいえる。すなわち日本的近代とは、平均的精神(すなわち正気という幻想)によって形成された一つの倫理であったと。
 著者は田舎の「空気」に対する嫌悪感を小説化したのだと思うが、その嫌悪感は、まさしく日本的近代の立場からの嫌悪であることは明白である。このあたりは乱歩と同じ視点に立っているのではないだろうか。 
 どっちがよいとか悪いとか、正しいとか正しくないとか言っているのではない。私自身は狂気とは世界と相関的なものだと考えている(というより考えたい)ので、その辺の認識の差異が感想に影を落としているだけの話である。狂気を一括りに外に出して排除してしまう認識は象徴的に言えばフ−コ−以前の狂気観であるが、もとより俗世巷間の善男善女の間ではごく一般的な自然的態度であるに違いない。加賀乙彦『荒地を旅する者たち』を読み返したくなった。


山下真史
「江戸川乱歩における人間の研究」
 
<『新青年』趣味>8号所収(『新青年』研究会)

 乱歩の処女作と第二作すなわち「一枚の切符」と「二銭銅貨」は、日本初の本格探偵小説の成果として定評を得ているわけだが、論者によれば、この2作品を厳密に読めば「事件の真相が明らかにされ」て「いない」ことは明らかで、[謎→解明]の構造が契機である探偵小説としては破格の作品であるといわざるを得ず、しかも「これは乱歩の初期作品にしばしば見られる特徴」と分析する。

 乱歩が「なぜこのような小説を書いたのだろうか」という設問に対しては、論者は新感覚派の主張を引用しつつ乱歩が旧来の「主−客」図式の認識論に対して懐疑ないしは不信感を持っていた証左であり、「謎解きを主眼とする探偵小説を書くことは乱歩にとってそもそも不似合いな課題だった」とする。

 かかる乱歩の小説の特質を論者は『不連続殺人事件』の主客的なゲーム専一主義と対比しつつ、乱歩の小説の主眼が<主客一如>な「〈混沌〉に直面する感覚」の描出にあり、(主客的世界に住む読者が)「その不安(寺山のいう「混在郷」に直面した不安>大熊註)から〈混沌〉に形を与えていく過程(宙づり状態から着地していく過程)はそれに比すれば従属的」とする。

 ――以上の論旨はなかなかに説得的だが、しかし論者が「従」とみなした部分をなぜ乱歩が(たとえ不完全にしろ)律儀にも書き続けていったかを説明していないように思われる。
 「混沌との対面」が主眼であるなら、何も「従」の部分は不要ではないだろうか。ある種の幻想小説は、まさにかかる「混沌との対面」を主題にしているが、別に着地に考慮を払っているということはない。
 むしろ幻想小説的なシチュエーションから無理矢理「着地」をめざすその過程こそが、実は乱歩の特質であるといえるのではあるまいか。本稿を読んで、まずそんなことを感じた。

 さて、「混沌との対面」すなわち「日常世界を越えた世界を描くこと」によって、乱歩は逆に「〈人間〉であることの版図を見極めようとしているように思われる」と論者はいう。
 「『パノラマ島奇談』では神に駆け上がろうとする人間が描かれ、『芋虫』では動物に落ちんとする人間が描かれ」るのだが、これを「〈人間〉の版図を越え出ていく過程」が描かれていると言い換えてもよいだろう。

 この一文を勘案するに、乱歩とっては「〈人間〉の版図」は固定されたものであって、それから外れる者は、もはや人間とは認めなかった、ということになるのではないだろうか。

 論者によれば『パノラマ島』の人見は、「もはや〈人間〉に戻ることはできない」から「身体を粉微塵にする最期を選んだ」のであり、『芋虫』の須永は「自殺することで〈人間〉の尊厳を守った」のだとする。
 しかし私には、この記述というか小説内行為こそ上述の「混沌」とは対極にある主客的世界への「着地」そのものではないかと思われる。

 論者が言うように、「語り手は常に常識の側にいて、そうした人物への嫌悪を隠さない。〈人間〉の版図を乗り越えようとする人間を描きながら、安吾のようにはそれを肯定しない」のであって、「乱歩の眼が〈混沌〉としての〈人間〉に向いていたこともまた確かである」のはその通りだとしても、それは結局寺山のいう「見世物」、彼我的に「アチラ」を羨望するまなざしに他ならず、一旦「コチラ」に侵入してくるや、それは一瞬にして嫌悪のまなざしに替わりうるものだったといえるのではないか。

 いずれにしても客観世界にあっては混沌たる<混在郷>の引力を受け続け、<混在郷>にあっては客観世界の法則性に引き寄せられる乱歩の<両義性>と<二律背反>のダイナミズムこそが、乱歩をして大乱歩たらしめていることは間違いないだろう。
 とまれ乱歩を読む「目」が変わる好論文である。


眉村卓
『発想力獲得食』
(三一書房)

 「あまから手帳」という食と味の月刊誌に連載されたということで、食を主題にしたショートショート集ということになっている。実際、律儀にも全篇その方針は貫かれているが、それは「表向き」であって、このショートショート集の「内的」テーマは<時>なのである。

 今は贅沢な食生活を送っているが、若い頃食ったあの安食堂の味にかなわないのはなぜか、という設問から、それが契機となって「現在」の裡に「過去」が甦ってくる、というか過去によって現在が批評される……そんな一種フィニ−的な世界がバラエティゆたかに変奏されていて、楽しませてもらいつつ、いろいろ考えさせられる。いい作品集(内的連作集?)だと思った。
 全30篇中ベスト5(順不同)をあげると
 「若い日の味」→大学の同窓会の目玉は学生食堂の再現であった。何から何まで、あのときを再現するのだ。食べる。うまい! あの頃の記憶の味なのだ……。それは心理的な過去還りが引き寄せた味覚の過去還りだったのか。
 「おまかせ定食」→10年近い海外出張後戻った本社勤務の初仕事は、入社当時配属された工場への出張だった……。現在は言うまでもなく過去ではないのだ郷愁。
 「山口先生のうどん」→3年前定年退職した美術の山口先生はその後世に認められるようになったこともあり、わが高校で講演してもらうことに話はなる。交渉に赴いた私は先生のアトリエが完全に過去を再現していることに驚く。それ以上に驚いたのは先生が若返っていたことだった……。BGMタイム・イズ・オン・マイ・サイド(Rストーンズ)
 「親子」→私は魚を食べるのが苦手だった。死んだ父が上手すぎて反動形成されてしまったのだが一念発起して練習し、見違えるように上手になった。あるとき亡父の遺品の日記を整理していると……。時は繰り返す切ない佳篇。
 「ドタ」→ドタは秋山の出世と共に肥え太り、やがてやせはじめ、退任し年金生活者となったある日、もう存在していなかった。秋山は泣いた。私も思わずもらい泣き感動の名篇。

8月

岩井志麻子
『ぼっけえ、きょうてえ』(角川書店)

 「ぼっけえ、きょうてえ」
 まるで一人芝居を見ているよう――そんな錯覚に陥りそうになる。
 真っ暗な舞台、その中央、一ヵ所だけスポットライトが当たっていて、そこに演者がいる……そんな情景すらまぶたに浮かんでくる。
 ――明治末の岡山を背景に、ひとりの女郎が寝物語に語る身の上話は……

 ホラ−大賞受賞作であるが、私は「怖い」という感覚は覚えなかったのである。この話は、少なくとも私にとっては<怖い話>ではなかった。
 先回でも書いたように、「怖い」という感情は、<コチラ>に向かってくるものに対する防衛的感覚なのであり、<私>の外に存在する何かに対して発せられるものなのである。
 先回の繰り返しになるが、「恐怖」を喚起させるもの、「恐怖」の源泉は、必ず<非・私>すなわち<アチラ>の側に存するのである。

 もとより「自分自身」が怖い、自らの「内なる何か」が怖いという状態はありうるだろう。しかしそれは、「自分自身」が<私>にとって「他者」であるような状態、つまり「自分自身」が<私>によってしっかりと把握・了解されず、未知のものとしてあるように感じられたときであることは、少し反省的に体験を振り返ればおのずと明らかだろう。
 ラカンによれば無意識とは他者の言表なのであるが、上の状態は、換言すれば<私>の外在化された私すなわち他者としての私に対する恐怖であるわけで、「恐怖」の源泉は、必ず<非・私>の側に存するというテーゼに対して何ら抵触するものではない。かように恐怖とは<対自的>な感覚なのである。

 本篇において私が感ずるのは、<怖さ>ではなくむしろ<辛さ>や<切なさ>というべきものである。<辛さ>や<切なさ>は<共感>に発する。つまり<即自的>な感情であるといってよいだろう。
 このあとに述べるが、本作品集に共通しているのは、描写される<超自然的>な現象が、主人公に対して、必ずしも<対自的>には現れないということである(このことは爾余のホラ−小説と比較して本書の際立った特徴であると思われる)。
 それは主人公をおびやかしもするが、主人公と同類であるような振る舞いも見せる。寺山修司の言葉を借りるなら、「混在」的に立ち現れるのだ。

 最後のきぬぎぬの場面は、巻末講評で荒俣宏がいうように、蛇足であるばかりか、本篇の奇跡的な漲った持続をぶち壊しにしかねないものであるのは間違いない。が、さりとて公募作品である本篇に、他にどのようなエンディングがありうるだろうか、と考えれば致仕方ないかとも思うのである。そんな好意的な思いにさせられるほど、本篇は読書の喜びに満ちていたということに他なるまい。

 「密告函」
 コレラが流行する明治末の岡山の山村が舞台である。
 密告函の係にさせられてしまう主人公は、役所内で軽んじられているがゆえにその係に任命されたのであることが明らかにされる。すなわち前作品の女郎同様、主人公はもともと「ふつう」の側には属してはいないのである。かれをとりこんでしまうお咲という娘と、実は同じ側に属しているのだ。いわば「畸形」の側に。
 主人公に裏切られ、お咲を焼き殺したかもしれない主人公の妻トミもまた、だれもが賢夫人と認める良妻であるが、やはり「畸形」の側に棲むものであることが次第に明らかになっていく。大体「畸形」と「ふつう」を截然と分けられるものだろうか。
 主人公が体験する怪現象、超自然的現象も、主人公に対して必ずしも対自的に現れてくるわけではない。いわば作品自体が「混在郷」を体現しているのである。

 以下、「あまぞわい」「依って件の如し」も構造は同様で、読者は主客二分的認識構造に支えられ、くっきりと輪郭によって縁取られた近代合理主義的世界とは対極的な、混沌と分かちがたい「彼我一如」の、あれでもあればこれでもある黄昏の混在郷にいざなわれ溺れるばかりである。
 本書中のどの作品も、作品世界的には互いに遜色ない出来であるが、とりわけ「依って件の如し」が小説的には優れていると思う。

 本書は、まさに「怪談」中の怪談(バタ臭く言い換えるなら幻想小説の傑作)集であるが、しかし乱歩的=倉阪的小説世界とは対蹠的な世界を描いているのであり、主客的・対自的な<恐怖>に依拠するところの「ホラ−小説」とは全然別種の小説タイプであると私は思うのだが、ホラ−という名称に拘泥るのであれば、ミステリでいうところのアンチミステリと同じ位置付けで「アンチホラ−」と呼ぶことは可能かもしれない。


福島正実
『虚妄の島』
(角川文庫)

 著者は本書の刊行(76年4月30日)直前の4月9日に47才の若さで亡くなった。つまり本書は遺作と言うことになる。
 ところで、編集者でありかつ作家でもあった著者は、思うに同様にエディタ−にしてライタ−だったフレデリック・ポ−ルに、自らを擬していたのではないだろうか。
 そう思うのは、著者唯一の共作長篇SFである『飢餓列島』のパ−トナ−に、眉村卓を指名していることからの想像である。
 日本SF社会派のリ−ド・オフ・マンと謳われた眉村卓は、著者の目には日本のC・M・コ−ンブル−スとして映じていたのではないだろうか。
 つまり著者にとって、『飢餓列島』は日本版『宇宙商人』だったのだ、そう私には思われてならない。

 ニュ−・ポ−ルはいざ知らず、コ−ンブル−スとコンビを組んでいたころのポ−ルは、間違いなく社会派の暁将だった。
 私はポ−ルをさほど読んでいるわけではないが、今パッと思い出すのは、昔SFMに掲載された「ハピバ−スデイ、イエスさま」という短篇で、それはクリスマスが最大の商チャンスで年がら年中クリスマスセ−ルに明け暮れる近未来社会を描いた切れのよい佳品であった。

 そのポ−ルに自らを擬すからには、著者も当然小説家としての自分の本領は社会的なテ−マにあると思いさだめていたに違いない。
 たしかに初期のSF百貨店的な諸作は、SF立ち上げの必要から書き上げられたものに相違なく、著者の意に染まぬものであっただろう。そういう反動もあってか、晩期の著者は、ひたすら本書や、同系列の『出口なし』(角川文庫)に収録された作品群を書き続けたのだったが、これらの作品は、おしなべて現代や現未来の日本を舞台にした、形式的にはいわゆる社会派の範疇におさまる作品だったのである。
 「鬼哭啾々」は、飛行機墜落事故を取り扱っているが、夢中夢というか、どこまでが現実でどこからが主人公の夢なのか判然としない。

 「緊急連絡」では「東京地区一帯に大規模な異変が起こる」という内容のアマチュア無線グル−プの違法なデマ通信が、実際にパニックを誘発する。主人公と女友達は実際にその騒動に巻き込まれるが……

 「同窓会」、30年ぶりのそれに参加した主人公は、既に死んでいるはずのかつての親友柿尾に出会う。二人はひょんな偶然で幽明を別にしたのだと柿尾は言い、主人公はいつの間にか過去に来てしまっている自分を発見する。

 「虚妄の島」は本土復帰を記念して開催される海洋博前夜の沖縄が舞台。折しも米兵の婦女暴行事件が頻発しており、海洋博の仕事で沖縄にやってきた主人公は街中に異様な雰囲気が漲っているのを感じる。偶然米兵を殺害した女の脱出を助ける事態に立ち至った主人公は、逃走の途中コザの街が燃えているのを目撃する。沖縄反乱? ……。

 「破瓜」ではインベ−ダ−妄想をもったキチガイと思われた男が次第に賛同者を集めていく。かれは本物の超能力者だったのか?

 しかしながら、社会派とは云い定、本書の諸作品は、眉村社会SFとはずいぶん肌合が異なるものである。予知能力、終末予言、UFO等、全篇を通して色濃い<終末感>に覆われている。書かれた時代がそういう時代だったのかもしれないが、むしろ著者自身の内面世界を反映したものであるように私には思われる。
 すなわち、著者のセルフイメ−ジはどうであれ、実のところ、この作品集は、結果的に、社会を描くというよりはむしろ著者自身の内宇宙を描いたものになっているのである。
 確かにここに取り扱われた題材は、社会的なものである。が、その扱い方には、著者に社会派を冠することを躊躇わせるなにかがあるのである。つまりどうも認識が一面的で、ある意味歪んでおり、読者の了解を得がたいような気がする。眉村卓のように題材がきっちり対象化されて著者に把握されていないのではないかと疑わせる。

 むしろ、その<歪んだ>作品世界が開示しているのは、実のところ著者自身の<内宇宙>なのではないだろうか。
 そう思い定めて本書を見直せば、読者の目の前には、剥き出しになった内臓のような著者の内面が、とぐろを巻いてそこにあることに気づいてギョッとさせられる筈である。

 著者には、「不定愁訴」(『出口なし』所収)という作品があるが、本作品集をあまねく支配している雰囲気こそ、まさにかかる<不定愁訴>の感覚なのである。対象の判然としない苛立ちである。
 ではそれは、一体どこから生まれてきたのだろうか。残された生と遣り残した膨大な宿題のギャップだったのだろうか。巻末の常盤新平の解説にあるように、晩期になっても著者の仕事量は凄まじいものであったという。

 ともあれ、作品中に読者が発見するのは、理由のない苛立ち、ザラザラした焦り、ギトギト脂ぎった疲れ、そんなものである。そんな、どこにもぶつけるあてのないものを、著者は原稿用紙にぶつけていたのかも知れぬ。福島正実という作家にとって作品は「排泄物」であったのかも知れない。もとよりその「排泄物」は、読者が味わうに値する「排泄物」である。

 眉村卓のように対象化の安定した理屈の通った見通しのよい作風とは正反対の、著者の作風は、たしかにある意味非常に読みづらく意味を取りにくいものである。が、排泄され濡れギラギラと蠕動する不定愁訴のかたまりのような<内宇宙>を味わってみることもまた、読書の別の喜びであるのは間違いないことであると私は思う。

 * 本書は(『出口なし』もだけど)極端に入手が困難となっている。私は本書を溝口哲郎@書物の帝国さんとK.Shikadaさんのご厚意によって漸く読むことを得ました。ご両人には深く感謝する次第ですが、少なくとも福島正実のこの2冊は、なし崩し的に消え去らせてしまってよい本ではないと私は思います。何とかならないものか、ネットならできることがあるのではないかと思う今日この頃です。


眉村卓
『テキュニット』
(三一書房)

 著者の最初期の作品群を含む短篇集。あとがきによれば、「終りとはじまり」、「紋章と白服」、「エピソ−ド」、「影の影」、「表と裏」(以上、1群とする)は、昭和36年から39年にかけて書かれたものであり、「信じていたい」、「コピ−ライタ−」、「泣いたらあかん」、「テキュニット」(以上、2群とする)は「つい最近のもの」ということで、あとがきの末尾に「1969年9月」と記されていることから、2群はおそらく昭和44年頃の作品と思われる(別資料に拠れば「終りとはじまり」は61年、「紋章と白服」は62年、「エピソ−ド」「影の影」は63年、「表と裏」は64年に脱稿したものである。また「信じていたい」は調べがつかなかったが、「コピ−ライタ−」は69.4/10、「泣いたらあかん」は69.3/14の脱稿、「テキュニット」はSFM69.11月号の掲載である)。

 著者によってこうして年代別に分けられた2グル−プ間には、たしかに歴然とした「差」が認められる。言うまでもなく2群のほうが小説として格段にすぐれている。昭和9年生まれの著者が、昭和39年から44年にかけて、すなわち30歳から35歳の頃に、技量的にも思索においても長足の進歩、深化を遂げていることが窺えて興味深い。

 「信じていたい」(2群)
 は、多元宇宙テ−マなのだが、初期の筒井康隆を読んでいるような雰囲気がある。
 就職したての新入社員が、なぜか多元宇宙の錯綜現象のなかに投げ入れられる。原因は説明されない。けれども<新入社員>という、身分は社会人ながら、心構えではまだ学生気分をひきずっているという「両義性」が惹起したものであることは容易に知れよう。多元宇宙テ−マを日本的な<新入社員>という「場」に導入してみせた佳品であり、かつて山野浩一が分析した「SFの日本建築化」(だったか)の典型的な例であろうか。

 「コピ−ライタ−」(2群)
 は、小さなデザインル−ムが舞台。売上げの60%を占める最大の得意先である大阪工業が発注をやめると言い出す。コピ−が気に入らないらしい、ということで、急きょ捜し出してきた新しいコピ−ライタ−は「掘り出し物」だったが……。

 「泣いたらあかん」(2群)
 は、近未来というか、現未来の大阪の話。この時期東京への極端な一極集中があらゆる部面で起こっている(この予測はまさに的中している)。主人公竹内は、マイクロフィルムを使った雑誌を発行しているが、このような事態に対して大阪が対抗力を発揮しなければならないという考えの持ち主。
 ――はからずも、これは前回取り上げた[ふつう対畸形]の構図に対応する事態である。まさに構造の構造たる所以だが、ともあれ、ここでいわば「畸形」の立場に立つ主人公は、東京の<感覚テ−プ(?)>会社がそのユニ−クな感覚そのものを買いたいと申し出たとき、次のようにいう。
 「すると……わたしのいうことが、ユニ−クでおもろいというわけでんな? つまり、見世物のタネになれるというわけでっか?」
 というわけで、ここでも寺山修司が見通した<畸形の構造>が浮き彫りにされているわけである。
 さて、主人公は机を叩いて飛び出して帰ってくるのだが、しかし会社で待っていたのは、「チンドンヤ」という、やはり見世物の道具一式だったのだ!
 うまい! と思わず膝を打つ快作。

 「影の影」(1群)
 は、近未来が舞台。出版物が多すぎてどれを読んだらいいかが深刻な課題となっている(この予測も的中している)。
 そのとき現れたのが、感情投影器。前作の感覚テ−プと同種の機器である。これを付けたモニタ−が本を読むと、そのときの感情が記録されるのである。この感情の再生機が書店の店頭に置かれていて、客はかぶってその感情を追体験することができる。
 これが本を買う際の重要な選択要素となるのだ。いわば近ごろの「帯惹句」の実感版である。本の売れ行きを左右するわけだから非常に影響力がある。そのモニタ−に現役の作家が志願してくる。自分の本を自分が読めば、すばらしい読後感が記録される……はずだったのだが。皮肉な小品。

 「紋章と白服」(1群)
 のちに『EXPO'87』において見事に造型される<ビッグ・タレント>の、前身みたいなタレント業<貴族>が描かれるが、最終場面が活劇に流れた。

 「終りとはじまり」(1群)
 遠未来の地球、衰亡し孤立したシテ(シティ)は修復機能を失っており、テックと呼ばれる一種の万能修繕屋が放浪の途中に立ち寄ってくれるのを待つばかり。
 そんなテックたちが、テックだけのシテを建設するが、そこにロケットが降りてくる。設定にいささか無理があるので、登場人物も自在に動き出さない。通り一遍なストーリーになってしまった気がする。

 「表と裏」(1群)
 これはよくできた短篇である。宇宙空軍の若い将校がひょんなことで無人ロケットに閉じ込められ、ロケットは出発する。ここまでの話はまるで絵に描いたように(映画のシ−ンのように)よくできている。閉じ込められた将校をロケットの人工頭脳は、かれの手足となるべく乗せられるはずのロボットと認識し、何ともおかしい悲喜劇が開始される。こういう<人外>との交流を描かせたら著者の右に出るものはいないだろう。オレ的にはいさましいちびのトースター的傑作。

 「エピソ−ド」(1群)
 光瀬龍のある種の作品を彷彿とさせる「地球を舞台とした宇宙小説」。問答無用の名篇。

 「テキュニット」(2群)
 ほとんど鎖国状態の火星の都市群テキュニットは、苛酷な自然条件からきわめて全体主義的な<ユ−トピア>を作りあげていた。……
 中篇であるが、ストーリーもその長さに十分耐えるもので、各登場人物の造形もきっちり整理されている。終盤の展開なども、同趣向の「紋章と白服」と比べると一目瞭然、技術的にも思弁的にも格段の進歩である

 1群と2群、結局どこが違うかというと、思うに小説を作る段階での<対象化>と<整理>の差だと思われる。かかる客観化の力が、眉村作品を見通しのよい読みやすいものとしているのだと思われる。

9月

T・M・ディッシュ
『プリズナ−』
永井淳訳(ハヤカワ文庫)

 諜報員らしい主人公が引退して田舎に引っ込もうと列車に乗るが、着いたところは不可解な、<村>だった。……

 カフカの『城』が、目的地の<城>にどうしてもたどり着けない話であるのに対し、本書は<村>から脱出しようとして果たせない話である。
 主人公の、<村>からの脱出の試みを描いているのだが、物語は決して「お約束」どおりには進まない。通俗的展開を裏切り続けて、ヴォクトの秀作がそうであるように、くるくると二転し三転していくのだ。読者は筋を追うことで手いっぱい、ただ作者が周到に用意した坂道をひたすら転げ落ちていくばかり。
 <村>とはなにか? NWらしく多様な解釈を許容する重層的な小説であり、それこそスパイ謀略小説として読んでも十分に面白いのであるが(だがそう読むと破綻がある)、私は上述の『城』などと同様の<不条理小説>として読んだ。

 本書において、著者は<私>の連続性信念に疑問を提出する。昨日までの私は、本当に今日のこの<私>と同じ私なのだろうか? この<記憶>は、本当に私が経験した<記憶>なのか? すべては「藪の中」である。
 最終シ−ンで、NO.1の正体が暴かれるのだが、このコミック・ストリップ的な荒唐無稽な結末はいったい何だったのか?
 それはおそらく主客的世界構造への懐疑の表明なのであり、事物は因果によらず、すべては偶然の所産である。実存は不条理である。というのが著者の基本的認識態度なのだろう。

 ところで本書を読むことで、パトリック・マッグーハン監督主演の、あの連続TVドラマを追体験しようなどとはゆめゆめ思うなかれ。実は読みはじめてすぐ「これは読んだことがあるな」と感じた。そしてすぐに中学生の時、友人に貸してもらった記憶が甦ってきた。しかし、どうもそのときはおそらく最後まで辿り着けなかったようだ。思い出したのは前半部(檻を利用して脱出するところまで)で、後半は全く記憶が甦らなかったから、たぶん挫折したのだろうと思う。

 中学生には難しかった(?)のかも知れないが、それよりもむしろ、檻で逃げるシーンはTV版にはなかったはずで、TVの追体験をしたかった当時の私は「これはプリズナーNo.6とちゃうがな!」と、怒って読むのをやめたのではないだろうか?
 TVのそれとは全然別個の、まったく違う物語なので念のため。それにしてもこんなノベライゼーションありか、といえば、もちろんありなのだ。
 いい小説です。


森下一仁
『思考する物語』
(東京創元社)

 SFとは何かを真っ向から論じる本書は、いわば「SF原論」と副題するが適当な書物である。
 私自身も、SFとはなんぞやという主題で思いつきを羅列したことがある(「不定期連載SF伝説」)。もとより分析は精緻明晰にしてしかも文章平易な本書と拙稿を比べるもおこがましいことであるが、実は拙稿でブラウンの「みみず天使」や『天使と宇宙船』のまえがきを引用しているのだが、本書でも同じく「みみず天使」や『天使と宇宙船』のまえがきが引用されており、ビックリしてしまった。
 もちろん本書を読むのは今回が初めて。案外私のSF理解というのはSF界的にはオーソドックスなのかも、と思った次第だが、考えてみればSFのF派の人であれば、おおむねこのような目の付け方になってくるのかも知れない。

 もちろん、細かく見ていけば相違点(というより力点の相違)がないわけではない。管見では森下説は<センス・オブ・ワンダー>を過大視していると思う。すなわち本書の最大の力点がそこに置かれているわけで、「SFの本質はセンス・オブ・ワンダーにあり」という、実にオーソドックスなSF論である。
 SF読みなら、誰もが<判って>いるあの感覚、説明しろと言われても、いわくいいがたいあの感覚を、著者は認知科学の知見に拠って「定義」するのである。

 この定義、そういわれれば納得するしかないというか、SF読みは誰も反論できないのではないだろうか。
 SFを読むと、そこに何とも言えぬある種の快感を感ずることがあり、それはSFを読むときだけ感ずるもので、他のジャンルの小説ではそれを感ずることが出来ない、そんなSF小説独特の快感<センス・オブ・ワンダー>があることを、少なくとも私は、SFを読み始めていくらも経たないうちに<判って>いたと思う。
 おそらくSF読者は皆そうなのではないだろうか。SF読みは読み始めて比較的すぐにその感覚に気づいたはずだ。

 だからこそ、SF読みなら皆が判っている(意識的に認知しているかどうかは別にして)ものであるからこそ、逆に<センス・オブ・ワンダー>というか、「驚き」に乏しいのだ本書は。逆説である。隔靴掻痒感というか本書のつらいところである。

 さて、私は、たしかに上の定義は、それはその通りだとは思うのだけど、センス・オブ・ワンダーがSFの本質だとすると、初期のスペオペはSFではなくなってしまうし、逆にある種の科学論や哲学がSFに含まれてしまうのではないかと最近考えはじめているのだ。
 私自身は、センス・オブ・ワンダーは「先在する」SFから二次的に発見されたものであり、二次的生成物でSF自体を定義することは、論理的矛盾になるのではないか、そう思い始めている。その辺りは「不定期連載SF伝説」に書いているのでここで繰り返すことはしないが(興味のある方はご一読下さい。「名張人外境」の<人外境だよりバックナンバー>に格納されています)、上述のようにセンス・オブ・ワンダーがSFの、爾余のジャンルからの独立性を保証するものだとしたら、かかる定義から落っこちてしまう<SF>がたくさん出てくるのは明らかである。

 スペオペをまず例に挙げたが、もうひとつ日本SFはどうだろうか?
 たとえば眉村卓の初期名作『EXPO'87』を読んでセンス・オブ・ワンダーを感じるだろうか? 少なくとも私は感じない。にもかかわらずこの作品はSF以外の何ものでもないと私には思われる。
 日本SFで真にセンス・オブ・ワンダーを感じる作品といえば、光瀬龍の『たそがれに還る』、『百億の昼と千億の夜』といくつかの初期短篇、小松左京の『果しなき流れの果に』と初期短篇のいくつか。そんなところではないだろうか? センス・オブ・ワンダーでSFをくくれば、日本SFの殆どは括りの外にはじき出されてしまうはずだ。

 さらに言えば、センス・オブ・ワンダー=SF説の弱点であると私が思うところは、センス・オブ・ワンダーが「読者の感性」に、一義的に依存する点である。すなわち作家の側の「SFを書くぞ!」という意志(志向性)が読者の感性にねじ伏せられてしまうわけだ。しかも読者個々の感性は、ある程度客観性があると言っても当然同じの筈がなく、Aの読者がセンス・オブ・ワンダーを感じ、SFであると認識した作品に対し、Bという読者が同じ認識に達するかどうかは確定できない。

 逆にセンス・オブ・ワンダーがあれば、ある種の純文学も哲学も映画もシュールレアリスム絵画もプログレッシブロックも「SF」になってしまう。これは私自身の正直な<感覚>である。他のSF読みの方も、個々に少しずつズレはあるだろうが、やはりSF小説をその内側に包摂するもっと大きい彼ら自身の<センス・オブ・ワンダー>の領域を持っているはずだ。
 SFバブル期によく聞かれた「あれもSFこれもSF」式のSFの極端な拡張主義は実に上述の<感覚>を契機とするのである。

 SFに対する「思い入れ」を一旦括弧で括り、虚心坦懐に上を敷衍するならば、(いろんな分野において感ずることが出来る)センス・オブ・ワンダーは、別にSFの専売特許ではないことを端的に示しているのではないのだろうか?
 それより以前に<あなたまかせ(読者の感覚まかせ)>のセンス・オブ・ワンダーは、SFの拡がり(もしくは境界)を指示する分析概念としては相応しくないのではないだろうか。もちろんそういいたくなる気持ちは、私もSF読みの端くれだから、痛いほどよく判る……にしてもだ。
(余談になるが、<ホラー小説>という括りも、実のところ<あなたまかせ>の分類概念なのだと私は思う。それゆえ<ホラー小説>も無限に拡大解釈を許容するのであって、事実私には「SFのいつか来た道」をふたたび辿っているように思えてならないのだが……)

 分類したり分析したりするためには、もっと客観的な、誰が用いても(理想的には)誤差が出ない尺度が必要なのではないだろうか。
 とはいえSFの「版図」を離れた<センス・オブ・ワンダー発現のメカニズム>の分析自体は極めて精緻明晰であり、SF読者必携の名著であることに疑問の入る余地はない。


アーサー・K・バーンズ
『惑星間の狩人』
中村能三訳(創元文庫)

 言わずと知れたスペオペの定番で、スペオペを論じるときには必ず引き合いに出されるゲリー・カーライル・シリーズの、30年代後半から40年代前半にかけて雑誌掲載された中短篇を集めた作品集である。資料的義務感で読み始めたのだが、これが存外によくできていて一日で読了。

 本書の特徴は、いかにもアメリカ的=成功物語的なシチュエーションにあるように思う。主人公の勝ち気な女ハンター、ゲリー・カーライルに惚れられて<逆玉の輿>に乗るトミー・ストライクのなんとも飄々たるキャラ設定がずばり効いていて、ふたりの掛け合いが実に<現在的>にリアルでおもしろい。
 玉石混淆なのであろうスペオペのなかでも、本シリーズは間違いなく玉の部類であることは間違いない。とはいっても、<センス・オブ・ワンダー>はかけらもないのである。


中村融・編訳
『影が行く』
(創元文庫)

 副題に<ホラーSF傑作選>とある。私は、しかしそんな曖昧な表現をせずとも、本書は<SF(エスエフ)小説傑作選>でよかったのではないかと考えるものである。
 トートロジーめくが、サイエンスフィクションならぬSF(エスエフ)小説とは、元来このアンソロジーに集められた類の小説群を指すものだったのではないだろうか。結局煎じ詰めれば、エスエフとは「読む」ウルトラQやトワイライトゾーンではないのか、と私などは思ってしまうのである。

 「消えた少女」リチャ−ド・マシスン
 少女が異次元に落ち込み、救出されるまでの顛末。
 本篇における<異次元テ−マ>の扱い方は、今となってはナイ−ブ過ぎるという見方もあるだろう。しかし本篇は、アイデアではなくプロットを楽しまなくてはいけない。
 愛犬の使い方が絶妙。(登場人物によって推定された)異次元の裂け目の構造と愛犬の絡ませ方がワクワクさせる(つまりホラーのようにゾゾーッとさせるのではないということ)。もちろん筋(論理)は通っている。
 「読む」ウルトラQ(というよりトワイライト・ゾ−ンやアウタ−・リミッツ)を目ざした本アンソロジ−のトップにふさわしいよく出来たエスエフ好篇。

 「悪夢団」ディ−ン・R・ク−ンツ
 リ−ダ−の若者が絶対的な権力を行使する暴走団の一員のおれには、過去の記憶がなかった……。
 超能力テ−マと甦る死者をかけ合わせたもの。とはいえ、やっぱりクーンツの書き方はSF読みの琴線に触れる筆法ではないように感じた。面白かったけど違うのだ。

 「群体」シオドア・L・ト−マス
 あらゆる化学物質が廃棄物として流れ込む大都市の下水道管の中では、どんな化学変化が起こっても不思議ではない。本書ではそれが起こってしまい、そうして生まれた不定形の怪物が都市を制圧する。その誕生から都市を埋めつくすまでの増殖過程が異様な迫真性をもって描写される。そのアセンションのもって行き方が、まさにエスエフの筆法なので嬉しくなる。
 短篇というより長篇のシノプシスに近い。これは長編で書いてくれなきゃと思ったら、まえがきにケイト・ウィルヘルムとの共作で長編化されているとあった。こっちも読んでみたいと思った。

 「歴戦の勇士」フリッツ・ライバ−
 いわゆる<永久戦争>もの。
 専ら主人公の下宿の一室で物語は推移するのであるが、その向こうに膨大な時空間の存在が読者には否応なく感知せられる。下宿の一室と膨大な時空間――その落差がクラクラするような(本書収録作品では唯一であろう)センス・オブ・ワンダ−を読者にもたらす。
 しかも本篇は、典型的<うしろを見るな>小説でもあり、背筋がゾクゾクする恐怖感にどっぷりと浸かることが出来る。
 ラストの通信文のアイデアが秀逸。「読む」絵としても決まっていて、テレビでも表現できるかも知れないが、読む方がさらに鮮明なイメージを与えてくれる。

 「ボ−ルタ−のカナリヤ」キ−ス・ロバ−ツ
 いわゆる超自然現象を「科学的」に理解しようとする(私の用語で)<怪奇小説>の範疇に含まれる作品。最終的に当該の超自然現象が一体いかなる自然現象(未知の生物なのか宇宙からの来訪者なのか)であるかは明らかにされないにしても、(それはソラリスの海が人間の理解を超越するのと同断である)物理的客観的存在であることは、読者には自明なものと読後にはなっているはずで、いわゆるホラー小説とは筆法が違うのである。
 未知に対して、ホラーは防御的拒絶的であることによって<ぞーっとする冷気>をたのしむ(うしろ向き)ものなのだが、SF(<怪奇小説>)は未知に対して好奇心に満ちており共感的であることによって、<わくわくするような恐怖感(奇怪感?)>をたのしむ(前向き)ジャンルなのだ。

 「影が行く」ジョン・W・キャンベル・ジュニア
 知らなければ本篇が1938年の(つまり60年以上前に書かれた)作品であるとは誰も思わないだろう。舞台が南極基地と言うことで、古びさせる要素が殆どない(60年前のNYを描写するのとは訳が違う)のが第一の理由だろうが、もう一つ重要なのは、登場人物たちが科学者らしく科学的合理的な認識態度を取って行動する(ように作者によって描かれている)ことも大きくあずかっているように思われる。
 科学的な議論というものは、(扱う要素は古びてしまっても)それ自体は(論理を用いる限りにおいて)古びることはないのである。

 作品自体は『盗まれた街』と同様な<地球侵略テーマ>あるいは<すり替わる宇宙人テーマ>で、(スペオペ的にではなく)シリアスに扱ったものとしては<はしり>になるものではないだろうか?
 100頁の中篇ながら、緊密感は一定で間然するところは毫もない。サスペンスフルな展開はまさに往時のSFファンに<新しいSF>の登場を印象づけたことだろうと思われる。もとより現代の読者にも充分通用する時代を超越した傑作である。

 「探検隊帰る」フィリップ・K・ディック
 この<無限に繰り返すニセモノ>は哀しい。この<哀しさ>はまさに「文学」そのものである。そう私には思われる。
 (おそらく意識的だと思うのだが)ブラッドベリを模倣した文体と風景を用いて、作者はブラッドベリの達成をはるかに凌駕したのである。名作!

 「仮面」デ−モン・ナイト
 読んでいて思い出したのは、コードウェイナー・スミスの「星の海に帆をかけた少女」(タイトル自信なし)であった。スミスの主人公は自身の肉体的な改変に対して全く何の感懐も持たないのに対して、本篇の主人公はずっと<人間的>である。編者はプレ・サイバーパンクと書いているが、わたし的には失敗したNWであった。

 「吸血機伝説」ロジャ−・ゼラズニイ
 いかにもゼラズニイらしい皮肉で哀しい掌篇。

 「ヨ−・ヴォムビスの地下墓地」クラ−ク・アシュトン・スミス
 1932年の作品。「影が行く」とは対称的に作品世界的には<古びてしまった>小説である。しかし――全くもって古くさいのに<面白い>のだ。この面白さを支えているのは、どうやら「筆力」と「妄想力」であるように思われる。文体と世界が渾然となったとき、本篇のような一種屹立した傑作が生まれるのかも知れない。

 「五つの月が昇るとき」ジャック・ヴァンス
 これもソラリステーマの一変種といえるかも知れない。惑星に5つの月が同時に昇るとき、何かが起きる!?……
 色彩豊かな幻想譚で、その作品世界の豊穣さはSFと呼ぶことを躊躇わせるものがある。とはいえここに描かれた現象を引き起こすのは惑星と衛星の関係性という一種歴然たる<法則性>(臨床的因果関係)であるのだから、かかる論理的根拠が作品成立の根底にあるかぎり、本篇は堂々とSF(エスエフ)と呼んで差し支えない。F派SFの傑作。

 「ごきげん目盛り」アルフレッド・ベスタ−
 タイトル同様、<ごきげんな>SF(エスエフ)である。<いかれたロボットテーマ>。いかにもベスターらしいソフィストィケートされた独特のオフ・ビートが心地よい。編者が書いているように「あと一冊は短編集がほしいところだ」けれど、その唯一の短編集『世界のもうひとつの顔』(旧題『ピー・アイ・マン』)は現在入手可能なのだろうか?

 「唾の樹」ブライアン・W・オ−ルディス
 本篇は、オールディスのネビュラ賞作品だからといって、正座して読んだりしてはいけない。この中篇はオールディスのもうひとつの顔(茶目っ気たっぷりのお調子者)の方が書いたものだからだ。
 19世紀末ヴィクトリア朝英国の、ウェルズとも親交のある文学趣味の田舎の高等遊民の若者が飛来した邪悪な透明エーリアンと遭遇するという、いかにもオールディス好みの屈折した設定がよい。

 とはいえモチーフの根本は(訳者も明記しているように)ラブクラフトのある作品そっくり。かりにもオールディスなのだから偶然の一致とは考えられず、面白くて夢中で読み終わったのだけど、読後その意図をはかりかねていたのだった。

 結局上に書いたように著者のもうひとつの顔の方が書いたものなのだと納得したのだが、ウェルズSFの主要モチーフは、実はモデルがあったというアイデアを思いついた著者がノリまくって「異次元の色彩」を下敷きに、得意の19世紀描写を振りかけて、いたずら小僧のように目を輝かせて一気に書き上げたものではないだろうか、私にはそう思われてならない。つまり作風的には著者の親友のハリイ・ハリスンが本領とするものであり、おそらくオールディスは書き上げたとき、ハリスンに得意げに電話したのではないだろうか。そんなほほえましい情景が目の前に浮かんでくるのだが、たしかにハリスンに威張ってもよい<ごきげん>な作品に仕上がっていることは確かである。

 ――いや、今回は「傑作」ということばを連発しちまいました。


大石英司
『極北に大隕石を追え(制圧攻撃機出撃す6)』
(ノン・ノベル)

 なぜかツングースカ隕石テーマが大好きなのだ。本書も古本屋でタイトルを見て、衝動的に買い求めたのだったが……「ツングースカ隕石」はほとんどメインのストーリーには関係なく(「極北」に至っては本文のどこにも記載はなく)、このタイトルまさに「北京の秋」!
 悪くはなかったが(よくもなかったのだが)、しかしここまで人間の葛藤が描かれてない小説も珍しいと思った。
 別に男と女あるところに恋愛有りとは思わないが、これなら登場人物に性別は不要で、固有名詞も不要でロシア人Aとか科学者Bとかで十分。あらゆる意味で清潔(?)な小説なのであった。
 しかし事件(ストーリー)の前と後とで、人間として「変わってない」話って、小説と言えるのだろうか?


眉村卓
『日課・一日3枚以上』第1巻
(真生印刷)

 本書を一言で言うなら、それはショ−トショ−ト日記といってよいのではないだろうか。著者が病床の奥様のために毎日欠かさず書いたショ−トショ−トが3年足らずで1000篇を越えたので、とりあえず100話ずつ10巻に纏められることになった、その第1巻なのだ。
 ――という執筆の経緯からも推測できるように、作品のほとんどは著者自身がその日遭遇した出来事を核に書き上げたものに相違なく、もとよりSF作家の書くショートショートであるから、事実は極端にねじ曲げられ、もとのカタチは欠片もなくなっているに違いないにしても、その想像力と妄想力にとんだショートショートの向こうに、著者のその日一日が隠しようもなく透けていて(もちろん隠そうなどという意図は著者にもなく)、奥様は、読むことで著者のその日が想像できるという寸法である。もちろん本書を読む読者にも伝わってくるわけで、実にユニ−クなショートショート集に出来上がっているといえよう。

 そういう意味では多少とも著者のお住まい付近を知っているほうが面白さは倍増する。小生にはその昔、毎月のように著者眉村先生のアトリエに通っていた時期があり、現在も仕事でその辺りを車で通過することが少なくなく、そういう関係で[あ、これはあそこだな]といちいち腑に落ちて興味深かったものである。

 当然作中人物は作者と等身大である場合が多く、たとえば「階段の数」は地下から上がる階段の段数が常と違うという差異から異世界に紛れ込むという実に巧みな導入部なのだが、「わけのわからない異世界にまぎれ込むよりは、ずっとましなのではないだろうか」と現実世界に戻ってしまう。往年の著者ならこういう終わり方は決してしなかったはずである。いいとか悪いとかではなく、現在の著者の心境が素直に出ているだけの話で、なるほどと納得した次第である。

 ベスト10は上掲作の他に、
不思議な地下街をさまよう「ビッグコ−ス」
奇妙にリアルな「立ち入り禁止」
せめて短篇に纏めてほしいイメ−ジ豊かな幻想譚「ある夜の夢」
ポジがネガに変相する恐怖譚「城跡」
こういう話は天下一品の一種ロボットテ−マ「扇風機」
『発想力獲得食』と同テ−マ「時代定食」
これぞショートショート「短刀」
切ない佳篇「歩道橋で歌う男」
理屈のあるホラ−「本」

10月

宮田昇
『戦後翻訳風雲録――翻訳者が神々だった時代――』
(本の雑誌社)

 宮田昇という著者名には見覚えがないが、著者のペンネーム「内田庶」のほうは、私にとって懐かしい名前だ。アシモフの『裸の太陽』を初めて読んだのは、内田庶訳の『ロボット国ソラリア』(講談社・世界の科学名作7)でだったのである。
 ちなみに講談社・世界の科学名作シリーズ全15巻のタイトルと訳者の名等を列挙すると以下のとおりである。
 1)少年火星探検隊/イーラム、白木茂*
 2)星雲から来た少年/ジョーンズ、福島正実*
 3)地球さいごの日/ワイリー、亀山龍樹*
 4)宇宙探検220日/マルチノフ、木村浩
 5)見えない生物バイトン/ラッセル、矢野徹*
 6)赤い惑星の少年/ハインライン、塩谷太郎*
 7)ロボット国ソラリア/アシモフ、内田庶*
 8)海底5万マイル/アダモフ、工藤精一郎
 9)百万年後の世界/ハミルトン、野田宏一郎*
10)宇宙戦争/ハインライン、塩谷太郎*
11)狂った世界/ベリャーエフ、袋一平*
12)ロボット星のなぞ/カポン、亀山龍樹*
13)未来への旅/ハインライン、福島正実*
14)ハンス、月世界へいく/ガイル、植田敏郎
15)なぞの惑星X/ライト、内田庶*

 この双書から私のSF腐れ縁は始まったというのは余談だが、実はこの*印を付した名前は本書にも顔を出す方たちなのだ! つまりロシア語のふたりとドイツ語のひとり以外、ということは英米語担当者はすべて(プラス袋一平)この本に少なくとも名前は言及されていることになる。戦後の翻訳事情は実にこんな狭い世界だったということだろうか。

 本書は、戦後の翻訳小説の黎明期に活躍した翻訳家(と出版人)で、もはや故人となられた方と著者との交友録、思い出話である(もちろん矢野、野田両氏はご健在。したがってちょこっと顔を見せるだけ)。
 メインに取り上げられる方(すなわち物故者)を列挙すると、中桐雅夫、鮎川信夫、田村隆一、高橋豊、宇野利泰、田中融二、亀山龍樹、福島正実、清水俊二、斎藤正直、早川清。

 上掲の名前も含めて、若かりし頃の私がずいぶんお世話になったお馴染みの名前ばかりだ。そんな方々の行状である。
 思い出話といってもお座なりな美化では決してない。ここに記された彼らのその凄まじい行状の数々には唖然呆然するばかり、面白すぎ(^^;。
 圧巻は福島正実だろう。まさに「闘う家長」!!
 翻訳小説黎明期も神話になってしまう時代に入ってしまったのですな。つくづく。


クライヴ・バーカー
『セルロイドの息子』
宮脇孝雄訳(集英社文庫)

 <血の本>第3巻。第1巻を読んだときにも書いたと思うのだが、バーカーの筆法は根本的にSFのそれである。たしかにスプラッタ風の描写が多いとはいっても、このような傾向の他の作家と比較してずば抜けて多いというわけではない。
 ホラー読みの人は、本書の諸短篇を読んで「ああ、たっぷりホラーをたのしんだなァ」といった堪能感を感じるのだろうか? 一度聞いてみたいような気がする。

 表題作「セルロイドの息子」に登場する<超自然>は次のようなものである・・・
 ――映画館のスクリーンの裏側にあるだれもその存在を知らない空間で男が死ぬ。男はガンで死ぬのだが、男の死んだスクリーン裏のその場所は、図らずも50年間、「興奮に高ぶった何千人、何万人もの視線を、貯水池のように溜め込んできた」――場所であった。
 「映画ファンはこの劇場のスクリーンに自分の人生を投影し、光のまぼろしに同情を寄せ、情熱を託した。この情念のエネルギーは、隠された風の通い道に忘れられたコニャックのように巨大な力を蓄え、いずれ爆発するのは避けられなかった。欠けているのは触媒だけだった」――という実に特殊な空間だったのである。

 そこに生命力旺盛な「ガン細胞」が「置かれた」のだ!
 死んだ男のガン細胞は50年間溜りにたまっていた<視線>を浴びて別の存在へと変生する。それはジョン・ウェインにもマリリン・モンローにも姿を変える不定形の怪物だった。……

 かくのごとくバーカーにあっては、<超自然>はその存在形態が過不足なく具体的に「説明」されるのである。このような<超自然>が、いわゆる超自然的存在であるはずがないのは理の当然であろう。
 上に「ホラー読みの方は、本書の諸短篇を読んで「ああ、たっぷりホラーをたのしんだなァ」といった堪能感を感じるのだろうか? 一度聞いてみたいような気がする」――と書いたのはこのような理由からなのだ。
 けだしホラー原理主義者にとっては、このような<説明>は耐えられない余剰物なのではないのだろうか。

 「好色稼業・屍衣の告白」では、悪人の奸計で殺害された男の魂が、この世に恨みを残し、「ロニーの霊魂は肉体を飛び出していった。液体状の魂がほんの少し染み出したのである。ロニーの意志や自我を含んだ分子は、ティッシュペーパーに染み込む涙のように、屍衣に吸い取られた」――つまり肉体を覆っていた屍衣に男の魂が宿ったのだ、という説明がなされる。
 かくして意志を持った屍衣という<超自然>が誕生するわけだが、この超自然現象は因果的な<説明>がきちんとなされた結果のそれであることはいうまでもない。かくして屍衣は生前の恨みを晴らそうと哀しくも喜劇的な行動を開始する。……

 「魂の抜け殻」には、意志を持った木製の人形が登場する。それは気に入った人間そっくりになっていく能力があるのだが、主人公の問いに、人形は「ぼくは、ぼくさ。これまで同類にお目にかかったことは一度もないけど[……]ほかにもいると思う。何人もいるはずだ」――と答える。
 超自然的な人形を期待したホラー読者は、ここで顔をしかめるのではないだろうか。ホラー的な超自然的位置から、SF的な(未知の)自然物に移行する瞬間である。

 「髑髏王」は、封印が破れて甦る場面はいかにもホラー的であるが、著者はこの超自然的存在の視点からも描き、その思考は一向に超自然的ではなく粗野な乱暴者すなわち人間と動物との中間的なイメージが強い。
 髑髏王の思考が描かれることからホラー的な怖さはほとんどなく、SF的な説明も中途半端でまさに出来損ないのキメラの印象。

 「生贄」は、本書中唯一のホラー小説かもしれない。堂々たる海洋怪異譚。

 というわけで、「髑髏王」以外は甲乙つけがたいが、リーダビリティで「生贄」、小説としての完成度では「好色稼業・屍衣の告白」が優れていると思った。


ワインバーグ&グリーンバーグ編
『ラヴクラフトの遺産』
夏来健次/尾之上浩司訳(創元文庫)

 ミステリにおいては「ネタバレ」は最大の犯罪行為なのだそうだ。SFの場合はどうだろうか。どうもちょっと違うように思う。
 その昔のSF仲間の間では、オススメの作品の紹介はその作品の根幹となるアイデアの紹介と同義だったのである(つまりネタバレです)。そして場合によっては、当該の作品を読むよりも、バカばなし風にデフォルメされて語られるアイデア紹介のほうが、ずっと面白く衝撃力があったりしたものだ。
 私はそのような環境で育った者であることを最初にお断わりしておきます(笑)。

 さて本書はもちろんミステリではありません。為念(^^;。
 しかも本書は、ありがちなクトゥルー競作ものでもなく、いわばラヴクラフト(という作家)に(内的)負債を負う作家たちが、HPLの生誕100周年を記念し、その債務を作品で返済しようとしたアンソロジーなのだ(作家たちは、各作品末に付されたコメントでラヴクラフトに対する熱い想いを語っている)。

 かかる編集方針が奏効したのか、本書はバラエテイにとんだ<ラヴクラフト小説>集となっている。
 ウルフ、ゴーマン、F・ポール・ウィルスン以外は、私には未知の作家ばかりだったが、どの作品も(SF読みの私が読んで)非常に面白いものであった。
 以下、意識的にそういう「SF性」にこだわりながら感想を述べてみたい。

 巻頭の
 ロバート・ブロック「序――H・P・ラヴクラフトへの公開書簡」
 は、小説ではなく、HPLへのオマージュに溢れたエッセイである。

 レイ・ガートン「間男」
 幽体離脱テーマ。オチが決まった。論理オチである。なるほど! 一つの肉体にはひとつの魂しか宿れないのだ。理屈である。それにしても不倫(?)を成就させるためにアストラル・プロジェクションが活用されるわけで、鶏をさくに牛刀をもってする、このまことに不経済な(?)展開は、まさにSFの筆法であると言う以外にない。アストラル界という非・現世的次元が現世そのものの思惑のために利用されてしまう……この落差の感覚はまさにSFの醍醐味といえよう。本篇はゲーム的なミステリを愛好する読者にも面白がってもらえる作品だと私は思うのだが、翻ってホラー読みの方には、さてどうだろう?

 モート・キャッスル「吾が心臓の秘密」
 不老不死テーマ。主人公の、不老不死を成就するに至るまでが語られるのだが、その根拠は<蕃神>の恩寵に依る。かかる<蕃神>が「アプリオリに受け入れられた超自然的存在」ならばむろんホラーといえるだろうが、本篇の<蕃神>は明らかに<クトゥルー>に系譜付けられる、宇宙からやってきた物理的存在なのであるから、かかる<蕃神>の恩寵とは<説明>に他ならない。
 かくの如く<クトゥルー神話>という「体系」に依拠する物語は、おしなべて(形式論的に)説明的(あるいは解釈的)たらざるを得ない。「説明への志向」はSFの契機である。
 最終のエピソードはご愛敬だが、作者はこの場面こそが書きたかったのだろう。

 グレアム・マスタートン「シェークスピア奇譚」
 わが国の<伝奇ミステリー>タイプの作品といえるか。前掲作品同様<クトゥルー神話>体系に形式的に依拠した作品。
 かつてシェークスピアが自作を初演した劇場<グローブ座>の発掘現場で、昨日死んだばかりのような真新しい死体が発掘される。しかしその死体が1613年の<グローブ座>焼失の際のものであることは明らかだった……その死体はシェークスピア本人なのか? だとしたら現在ウィリアム・シェークスピアの亡骸が眠っているとされるストラトフォード・アポン・エイヴォンの墓所に埋葬されているのはいったい誰?
 謎ときの要素もある非常によくできた面白い小説。

 ブライアン・ラムレイ「大いなるC」
 近未来(といっても2010年代から2020年代)月から50万マイルのあたりに<第二の月>が発見され、それが地球の人間に深甚な<影響>を及ぼしていることが明らかになる。調査のため「癌」に冒され余命わずかなスマイラー・ウィリアムズが死を賭して<第二の月>に派遣される。結果は……
 かくの如く、純然たるSFである(ビッグC内の描写はバラードのある作品を彷彿とさせる)。クトゥルー神話の<形式>がただちにSFへと変換しうることを端的に示した作品と言えよう。結局クトゥルーもSFもその小説としての構造は同一なのである。というよりクトゥルーは広義のSFなのである。

 ゲイリー・ブランナー「忌まわしきもの」
 マーレイ・クラインが蚤の市で掘り出してきたプラスチック塊に閉じ込められたトカゲ(?)は生きていた!?
 <説明>は一切ない。本作品中はじめて現れた真正<ホラー小説>といえよう。
 夫婦の不仲、共同経営者という現世的なるものと、トカゲという超自然的存在の対比が絶妙である。キレのよい傑作短編。

 ヒュー・B・ケイヴ「血の島」
 マーク・キャノンが妻を伴ってやって来たハイチは、今も呪術や超自然現象が生きている土地だった。……
 本篇もよくできた<ホラー小説>。「ハイチ」なる幻想空間の描写が圧倒的。素晴らしいの一語。

 ジョゼフ・C・シトロ「霊魂の番人」
 「間男」と同じ意味でオチが面白い。なるほど! 二階が天国なら地獄は……理屈である。
 形式的には普通小説(サイコサスペンス?)である。クトゥルー的原理も超自然も何も出てこない。しかし上の理由で、わたし的にはSFと呼びたい(というかSFに囲い込みたい)佳品。

 チェット・ウィリアムスン「ヘルムート・ヘッケルの日記と書簡」
 「吾が心臓の秘密」同様の愛すべきラヴクラフト小説。

 ブライアン・マクノートン「食屍姫メリフィリア」
 架空の、中世的な市クロタローンが舞台の(本書中唯一の)ファンタジー。メリフィリアという女食屍鬼(グール)が主人公の一種異様な恋愛小説といえよう(この市の墓地には<食屍鬼(グール)>が生息しているのである)。
 不思議な魅力を発散している。この世界、もっと読みたいと思った。著者紹介によると、本篇を含んだ短編集で世界幻想文学大賞短編集部門を受賞の由。肯なるかな。

 ジーン・ウルフ「黄泉の妖神」
 本集中の白眉ともいうべき濃密な傑作本格小説。
 古伝や民間伝承の採録のためクーパー老人の家を訪ねた(大学の先生らしい)主人公<ネブラスカからきた男>は、そこで老人から<魂抜き鬼>(描写されたイメージがすごい)の話を聞く。老人とその孫娘は男に泊まっていくように勧めるが、孫娘は男と二人だけになったとき、自分を連れてここから逃げてほしいと男に懇願する……。
 小説として高度に完成された作品で、最初から終わりまでケチの付けようがなくすべての面で申しぶんない。
 クトゥルー的描写もあるのだが、こういうアンソロジーの中に置かれているからそれとわかる程度であって、(<魂抜き鬼>とエジプト神話との類似が語られるにせよ)説明はないに等しい。最後の場面も<謎>に充ちており、作者側からの誘導は一切なく、結末は読者の解釈に委ねられている。

 ゲイアン・ウィルスン「ラブクラフト邸探訪記」
 典型的なラヴクラフト小説だが、ラヴクラフトが生き長らえた結果、現実のラヴクラフトが決して手に入れることができなかった経済的成功を本篇のHPLが手に入れてしまうという設定が面白い。

 エド・ゴーマン「邪教の魔力」
 どうしても女を殺さずにいられない主人公は夢に導かれて27年ぶりに故郷の町に帰ってくる。主人公が27年ぶりに見る変わり果てた故郷の描写が後の展開を暗示するようで素晴らしい。クトゥルーのバリエーションだと思うが、ドルイド教の一派がこの町で人身御供の儀式を行い、爾来邪教の神は近郷の住人の中からおのが手先を選び、かれに生け贄を供給させているのだ、ということが<説明>される。主人公は邪神に選ばれし者だったのだ。不条理な暗い情感にみちた秀作。

 F・ポール・ウィリアムスン「荒地」
 ジョナサン・クレイトンがミスカトニック大学(!)から持ち出した書物『罪の書』には次のように書かれていた、「世界中に分散して4ヵ所、年に2度、春分と秋分の<昼夜平分時>に短時間だけ未知の現実が出現する<接合地点>があり、おそれを知らぬ魂だけがそこで人間が知ってはならぬ世界の真の実像を知ることを許される」と。
 その4ヵ所のうちの1ヵ所がニュージャージー州南端に広がる広大な<松類荒原>パイン・バレンズのどこかであることが分かる。クレイトンはこの地の出身者で昔のガールフレンド、キャサリーン・マッケルストン(わたし)に道案内を依頼する。……
 本篇の<超自然現象>である「松光」(パインライツ)や「荒地」に関する<説明>や<仮説>はない。100ページの中篇ながら、典型的なモダンホラーで巻措くあたわずの面白さであった。

 ――100%純粋なSFとかホラーというのは現実には存在しない。事実はSFとかホラーとかファンタジーとかの要素が何程か混じ合いブレンドされた状態の作品が現前するばかりである。
 本書の作品の半数は形式的にSFに属すものであることを見てきたわけだが、それらの作品が直ちにSF的な興趣(センス・オブ・ワンダー)にとんでいるかといえばそうではない。

 たとえばゴーマン作品は形式的にSFであるが、読者が直感する印象はやはりホラーのそれであろう。<形式>に盛られた<内容>にホラーの要素が大きな割合を占めているからに他ならない。
 社会学は(没価値的な)社会の形式を研究する社会静学と、社会の(価値を含む)内容である具体的な(生きられた)現実を考察する社会動学に分化したが、小説のジャンル論も、本来かかる二方向があって互いに補い合うことが必要なのだろう。
 そういう意味で、私が近頃、この読誌で試みているのは<静学>的(没価値的)な分類論なのであり、対して森下一仁氏に代表される<SF=センス・オブ・ワンダー>論は<動学>的理念論であり、価値論なのである。そのことを強く意識させられた作品集だった。


小森健太朗
『駒場の七つの迷宮』
(カッパノベルス)

 著者が在籍した1985年頃の東大駒場キャンパスが舞台の一種キャンパス青春小説で、わたし的にはとても好ましい小説だった。
 新興宗教サークルに属する学生たちの日常が描かれていて興味深く読んだ。それにしても登場する学生たちが15年前の世界とは思えないほど時代がかっているように感じた。ニセ学生がいたり、左翼系学生の言動などにそれを感じたのだが、蓋し東大という特殊性だろうか? 主人公も含めてサークル員の学生たちの日常生活も合コンとかやっていそうもない雰囲気、かといって、宗教団体に複数入会するのはざらであるという記述などは新しい人間像を描いているようで面白い。

 天才的な勧誘活動を行なう、勧誘女王(バーカー・クイーン)の女子学生が魅力的。主人公とふたりで深夜の駒場キャンパスに潜入し、胎内巡りめいた冒険をする場面は、本書の一番の読みどころで本当によく書けている。しかし最後の(対決?の)場面は唐突。話自体は途中という感じ。続編の『本郷の九つの聖域』がたのしみである。

 謎解きは、大トリックがあるわけではなく、「見えない人間」は面白いけどストーリーに劇的に介入していくものではない。機械トリックはありがち、というか機械トリックで驚かせることはもはやできないだろうと私は思っているのだ。ネヌウェンラーの機械トリックは、トリックそれ自体が凄かったのではなく、それによって認識系が変革される<触媒>の役割を担うものだったから凄かったのである。
 残念ながら本書は本格ミステリの観点からはやや物足りなかった。著者には宗教の教義にまで踏み込んだトリックのある本格宗教ミステリを期待したいものだ。


眉村卓
『日課・一日3枚以上(第二巻)』
(真生印刷)

 第一巻同様、著者の身辺から取材されたとおぼしい創作やエッセイがない混ぜになった101日目から200日目までの(奥様への)日報である。
 著者は近作に自身の手になるオバQに似ていなくもないイラストを付けることが多い。それがなかなか可愛いのである。本シリ−ズでも扉ペ−ジや挟み込みの「卓通信」という付録にこのキャラクタ−が描かれている。その「卓通信」で著者はこのキャラ(仮称卓ちゃん人形)の名前を募集しているのだが、(タックンはどうかといった人もいたとか)、私はタッキ−というのはどうだろうかと提案したい。宇多田ヒカルはヒッキ−というらしいのでそれに対抗したわけだ。というのは余談である。

 さてベスト10だが、
 作りものの夏>老人向けのリフレッシュクラブの人工の海岸は眩しい光が溢れていた……。私自身も昔はもっと世界は明るかったはずだ、と最近よく思うもので、切実な共感をおぼえたのも事実である。

 空き地のタイムマシン>ふと入り込んだ空地では、奇妙な風体の男がタイムマシンを修理していた……。日常と非日常の遭遇のさせ方が絶妙である。

 一号館七階>私が昔住んでいた団地は、近いのでよく通るのだが、しかし二十年以上その中に入ったことはなかった……。

 電飾看板のある屋上>男がよく泊まるホテルの屋上には上品な電飾看板が立っていた。男は一度それを間近に見たいと思っていたが……。

 床の焦げ跡>新幹線の床に見つけたたばこの焦げ跡は、二十年前に私がつけたものなのか?……

 予測された顔>友人の父が残していた私の「未来の顔」はあまりにも威厳に満ち立派だった……。

 マンホ−ルのお化け>たまたま口の端にのぼった漢文に触発されて現れたのは、遠い少年時代の怪談だった……。ブラッドベリ的郷愁にみちた小品。

 地下鉄代>この寸借詐欺は私(大熊)も遭っている。30年ほど前だが……。してみるとかれの次元は時間を超えてこの世界と接続しているらしい。

 ロフトから>建て直したロフトからは昔なくしたものが出てくるのだった……。ショートショートは勿体ない。私なら脱獄囚の視点からも描いてバ−カ−風の短編にするのだが(ああ、また勝手なことを言ってる)。

 隣の物音>そのマンションは先住者の抑圧された欲求が現住者に聞こえるのだった……。長編ホラ−にするべき秀逸なアイデア。

 昔の流行歌>へたばるまでやればいいのだ。昔のように……。そうそう、これこそ眉村SFの主人公である。

 相乗効果>夕暮れ、デパートの屋上の回転木馬に乗る女の子は一回りして少女になっていた!?

 若年>人生とは何か、若さとは何か? 象徴主義的ショ−トショ−ト。

 大晦日>「私、大晦日のお化けですよ」とそいつはいった……。ツボどまんなかの可笑しな怪奇小説。

 ある議論>認識論的本格SF!

 老人と犬>町で見かけた老人と犬……。エリスン「少年と犬」に勝るとも劣らない哀感溢れる秀作。

 異世界への投げ釣り>次元の境目へ釣ざおを伸ばしている青年は何かを釣ろうとしているのではなく、釣られようとしていたのだ……。

 来てくれ>自身喪失の男が自信回復のために試したまじないは……。これは長編ホラ−のアイデア。それを3枚程度に納めてしまうとは、何たる贅沢!

 満月の階段>満月の夜、その階段を使うものは……学校の怪談。

 ――あれれ、ベスト10を選ぶつもりがベスト20になってしまった(笑)。

11月

三雲岳斗
『MGH』
(徳間書店)

 第1回日本SF新人賞受賞作という知識は一応あり、注目してはいたのだが、SFミステリであるという情報が伝わってきて、つまり世界設定だけSFのミステリ作品かと思い込んでしまい、今まで敬遠していたのだった。どうしてどうして、きっちり書き込まれた「紛う方なき」SFだった。

 系譜的には、高斎正の延長線上に位置づけられる作風ではないだろうか。前半は、いかにも高斎的な(きちんと説明された)宇宙ステ−ション内の描写が臨場感たっぷりで、加えて最近のSFのお約束(?)電脳空間の生き生きした描写と相俟って、一気に作品世界に引きずり込まれてしまった。

 殺人事件が起こるのは、スト−リ−もほとんど半ば近くにきてから。しかもふたつ起きる殺人事件は、どちらも宇宙ステ−ションという「SF的場」がトリックを成立させる契機となっているので、そういう意味で本書は「世界設定だけSFのミステリ作品」とは一線を画すものである。SFであることが、ミステリの前提条件となっているのである。そのあたりが非常に好ましい。

 第一の殺人である「無重力下の墜死」のトリックよりも、第二の「ほぼ常気圧下での真空暴露」のトリックの方が(犯人のアリバイ工作も含めて)わたし的にはよかったし、優れていると思った。
 ミステリ的には、第二の犯行の<動機>が気に入った。そうそう、本格探偵小説の(名探偵の名推理が帰納する)犯人はこうでなくちゃ! 僭越ながら私はクイーンの描く(泰山鳴動してネズミ一匹的な)犯人は好きではないのであります。

 電脳空間へ去ったマッドサイエンティストが、また好い。
 まさに好い好い尽くしになってしまったが、正統的SFにして本格ミステリというアシモフ顔負けの本作品、第一回受賞に相応しい日本SFの成果だと思った。


山之口洋
『0番目の男』
(祥伝社文庫)

 ――2010年、深刻な環境破壊などの危機を打開するため、クロ−ン技術によって優秀な人材を<大量生産>する計画に協力したマカロフは、千人のマルチプリカンド(増殖個体群)の父となった。70年の人工冬眠から目覚めたかれが見たのは、成長した分身たちだったが……

 巷間話題の400円文庫である。このコンセプトがどうもきな臭くて(?)いささか危惧しながら本書を手にしたのだったが、大丈夫、作者は(不自由な舞台であるにもかかわらず)しっかりとSFを書いている。その意気やよし。
 舞台はウズベキスタンの首都タシュケントであり、(『オルガニスト』もそうだったが)日本人をひとりも登場させなかったのはさすが。SF作家の見識であった。

 とはいえ……やはり本書はあまりにも短かすぎる。正味120〜130枚ではないだろうか。おそらくはこの文庫、依頼時に枚数の上限規制があったのだろう。そのためか書き込みが十分ではない。話がさくさくと進んでいく。まるでシナリオを読んでいるような気分になった。

 しかしながらこの話、最低でも倍は書き込まないと、折角のアイデアが勿体ない。したがって前作『オルガニスト』の濃密さを期待するわけにはいかない。その辺は不満。
 この作者、資質的には初期荒巻に近いのではないだろうか。ごったごったとあらゆる知識を詰め込んでいく書き方をしていく方が合っていると思うのだ。

 とにかくこの中篇SFは、わたし的には合格点だった。先日読んだ三雲岳人には高斎正を感じたのだったが、山之口洋はそのヨーロッパ趣味といいテーマといい、上述したように荒巻義雄のマニエリスムSFを継いでくれそうな気がした。それだけの逸材であることは疑いない。期待できる!

 最近ぽつぽつと登場してきた新人たちは、それぞれ、おや?と思わせる何かを持っていそうな気がする。ふたたび日本SFの黄金時代が来るのではないだろうか? どうもそんな気がしてきた。しばらくは、期待の新鋭たちに付き合ってみようと思っているのだ。


藤崎慎吾
『クリスタルサイレンス』
(朝日ソノラマ)

 ――2071年、火星の北極冠で甲殻類に似た古代生物の遺骸(殻だけ)が大量に発掘された。それは火星人(?)が遺した貝塚なのか? 調査のために縄文時代を専門とする生命考古学者のサヤは、恋人を地球に残して火星へ向かった……

 力作である。登場人物(?)は人間だけではないところがすごい。生体ですらない。これこそSFである!
 私はサイバーパンクを読んでないので、オリジナリティについてはあまり語る資格はない。けれども、ネット存在の描写は(少なくともわたし的には)ツボにはいった。こうなってくると、SFの描ける範囲は一挙に拡がってしまうのではないか? 妖精物語や民話が「SFとして」出来るようになっていくのだろうか?

 ネット存在が、仮想空間を自在に行動するというか動き回る場面は、まるでベスターを読んでいるような感興があった。これは最近の海外SFを読んでないせいかも知れないが、私は本書に「新しさ」を感じた。

 このところ続けている第1期の誰を継いでいるのかと言えば、うーむ、難しい。そういえばベスターの影響を受けた日本作家っていないのではないか(平井和正がベスターの影響を語っているが、平井が引き継いだのはベスターではなく『虎よ、虎よ!』なのだと思う。ベスター本来の軽業的なストーリーを継承したのではない)。「大説」的要素もあるので、やっぱり小松だろうか。いやいや、短絡的に決めつけてはいけない。もう少し様子を見よう。次作の可及的速やかな発表を期待したい。


北野安騎夫
『電脳ルシファー』
(廣済堂ブルーブックス)

 一気に読み尽くす。<ウィルスハンター>というシリーズものの1冊ということである。悪性のコンピュータウィルスを退治するのが仕事の美人電脳免疫学者浅倉ケイを主人公に据えたアクションSF。

 『クリスタルフラワー』の余韻醒めやらぬなか、本書も電脳空間にもぐり込んでのアクションSFかと思って読み始めたのだが、そういうシーンは一切なし。主人公のケイは(少なくともこの長篇では)ほとんどコンピュータに触らない。期待していたものとは全然違っていて、ちょっと拍子抜け……

 ――といった、そんな思惑違いの悔恨を引きずっていたのも前半まで。物語が半ばを過ぎる頃には、完全に作品世界にハマッてしまい、時速100ページの(私としては)能力一杯のスピードで読み尽くしたのだった。
 「舞台だけSF」のSFなのだが、著者の筆力に乗せられてしまった。物語る技術は『クリスタルサイレンス』の作者より上だろう。面白かった。とはいえ、もう少しタテ糸にSF的な仕掛けをしてもらわないと、たぶん飽きてくるはず。その辺り克服できれば田中光二である。


古井由吉
『夜の香り』
(福武文庫)

 かなり初期の作品集である。「街道の際」、「畑の声」、「駆ける女」、「夜の香り」の4篇を収録。 

 別に重信逮捕に触発されたわけではないのだが、積読本の中からふと手に取り、戯れに頁を繰った「街道の際」が、「大学紛争」後の教師たちの<喪失>感を著者独特のタッチに塗り込めた名品で、思わず一冊読んでしまった。

 相変わらずの古井節。これが私にはたまらなく好いのである。見方によれば臭い「美文」といえるかも知れない。が、いったんこの文体の虜になるともう止められないのだ。その辺は干魚のくさや(あるいは琵琶湖のフナ寿司?)に似ているかも(例えが悪いか(^^; )。

 歳を取ってきて、次第に文体以外の面も了解できるようになってきたような気がする。今回特に感じたのは、否応なくわきたつように匂い立ってくる60年代という時代の匂いである。初期の大江が真っ正面から60年代を描いたのだとしたら、古井由吉はいわば裏口から、60年代を燻しだしている。

 本書収録の4作品とも、舞台を60年代特有の<開発にさらされ日々変貌していく郊外>に設定している。
 以前から、著者の作品に対して、私は同じ日本を描いているにもかかわらず、そこがどこか見知らぬ異国の場所であるかのような不思議な感覚を覚えることが多かった。しかもそれは一種懐かしさを伴うものであったのだが、今にして思えば、それは60年代の風景だったのだ。その<場所>において描出されるのは、かかる60年代という空間に投企された男女の営みであり、ことにもお馴染みの、浸食してくる外界に対して必死に内面を突っ張らせて生きる女たちなのだ。

 そうして私はふと思い当たったのだ。著者は女性を「理解の外の存在」として描いているのではないか、と……。そういえばたしかに著者の描写は、決して女の内面に立ち入っていかない。徹底して「外」からなぞるばかりである。
 だとすれば、著者は女性を描ける作家という定評だが、実はそうではなく、著者には未知の「宇宙人としての女」を、その独特の細密な観察眼で描写しているのではないか。そんな気がしたのだった。


眉村卓
『日課・一日3枚以上』第三巻
(真生印刷)

 201日目から300日目までのショートショート風日報。折り込みの<卓通信>によれば、長篇『カルタゴの運命』の連載が終了した直後で、時間的余裕が出来た分、「アイデアによってはゆっくり時間と枚数をかけ出来た」ということである。

 マイベスト10は――
 「チャンネルを変える男」>昔食堂でよく出会った傍若無人にテレビのチャンネルを変える男。30年後の今日、私は入った食堂で、年月のうちに髪も髭もあらかた白くなっていたが紛れもない件の男が、テレビの番組を変えるのを目撃する……目撃した私の髪もあらかた白くなっていることが、言外に表現されているのである。時の理不尽。

 「古い硬貨」>券売機が受けつけない古い硬貨、よくみると小さくABCDEと印が付けられている。大学時代、暇つぶしに硬貨にAという印を刻んだことを思い出す。45年巡り巡って、再び手許に帰ってきたのだろうか。その間にBCDEと印を増やしていったのか? 私は保管することにするが、折角Eまで来た印を止めてしまってよいのだろうかとも考える……時の奇跡。

 「STTC」>60歳以上で今さらパソコン通信など、と考える人向けの電話によるサービスの顛末……でもネットにも同様の効用があってなかなか楽しいもんですよ>先生(^^)

 「乗り降りする青年」>バス停で下車した青年は次のバス停で乗ってきた。バス停で停車するたびに降り、また次のバス停で乗ってくるのだ。お化けだとしてもちゃんと料金を払うのだ……奇妙な怪談。

 「先月の成績」>不思議な手紙が毎月届く。あなたの先月の成績とあり、生活態度、意欲、達成度、持久力、自戒と言う項目が5段階で評価されている。毎月来ると、成績を比較しないではいられない。評価が上がってくる。やがて終了の通知がくるが僕の気持ちは……共感。

 「異常記憶」>男には異常記憶という写真のように精緻な記憶能力が……。だがそれが重要なことに対して働くわけではなかったのだ……時の不条理。

 「定年前」>定年を前にしてV氏の性格が変わった。執着が消えて角が取れたのか? だが、私は深夜ビルの前でわめいているV氏を目撃する……しみじみ。

 「鏡の中から」>ドッペルゲンガーか? 鏡に映った自分にウインクして背を向けたボクの背中に「替わってやるよ」と言う声が…… 幻聴? 翌日目覚めたぼくはテレビの中の子供が左手で字を書いていることに気づくが……アッ!

 「物干し場とココアピーナツ」>ココアピーナツを物干し場に出しておいたらなくなっていた。5夜つづける。6夜目出さなかったら……怖い!

 「学校へ」>電車のなかで本を読んでいたので降りる駅に着いたとき現実感覚が後ろに退いていた。スクールバスに乗ろうとして、逃げたいと思った。男は衝動的に路線バスにのる。そうして次第に現実感覚が戻ってくると……傑作!

 こうして選んでいると、否応なく私自身の嗜好が顕われていて、なかなか興味深いのである。


眉村卓
「サバントとボク」
 
井上雅彦編『ロボットの夜』(光文社文庫)所収

 遠未来、人類は事実上ロボットに取って変わられており、人類自体も次第にその数を減少させていた。その結果、対人サ−ビスを専らとする個人用ロボット(サバント)も社会的遺物となりつつあった……
 本篇はまさに眉村卓にしか書けないであろうロボットテ−マの傑作であり、シマック『都市』を彷彿とさせる哀傷の名篇である。涙腺の弱い方はご注意。

12月

上遠野浩平
『ぼくらは虚空に夜を視る』
(徳間デュアル文庫)

 SF的設定は面白いのだが、どうも具体的な整合性がよくわからない。この設定、私なりに理解するところでは、

 人類は恒星間移民のためカプセル船という世代宇宙船で旅をしている。船内の人々は冬眠状態にあるが、夢を見ている。
 このカプセル船を襲う虚空牙という存在があり、防衛隊みたいなのが闘っている。この戦いは熾烈なのでパイロットは戦闘時以外はその精神を癒やすためバーチャル空間の地球(これが実は私たちのこの世界なのだ)の一人物をあてがわれている。パイロットたちのためにバーチャル現代地球(というより日本)はあり、そのリアリティのために冬眠中の人々のパーソナリティが利用されている。

 という前提的設定をこの小説は(たぶん)持っている。
 しかし、たとえば上にも書いたように、日本人しか出てこない理由の説明はない。個々に考えると設定に対するおさえが若干、というよりかなり甘いように思われる。根源的アイデアはSFだが、具体的な印象はファンタジーに近い。

 パイロットたちのバーチャル世界における対応人物が日本の、しかも同じ高校の同級生であるのは不自然だし、根本的になぜ高校生のような未成年に設定されているのか腑に落ちない。もちろん説明もない。
 しかもバーチャル世界での主人公の高校生が後半、突然スーパーマン的活躍を始めるのも興を削がれる。

 はじめに主人公の年齢設定ありきということならば、所詮はヤングアダルトだな、というのが読後感。SFとしては全然ダメ。


平谷美樹
『エンデュミオン・エンデュミオン』
(ハルキ・ノベルス)

 作者は「遅れて来た第1世代」ではないか。<70年代日本SF>というジャンル――そういうのがあるとすればだが――におさまるSFの新作を、久方振りに堪能した気分。
 著者の師匠は光瀬龍らしい。本書は中期の光瀬龍が繰り返し描いた<火星の幽霊>のモチ−フを深化させたものと言える。さらにその背後にはブラッドベリの影もほの見える。

 21世紀初頭、月面や地球上のいたる所で怪現象が発生し始めた。月面基地エンデュミオンの設置に参画した宇宙飛行士たちは、その現象をもたらす主が、人知に放逐され、月を最後のよすがとする神々であることを感知する……(裏表紙あらすじ)。

 この師匠にしてこの弟子あり、ではないだろうが、作者は細かいことには拘らないたちのようで、登場人物の連続性(一貫性)が了解のレンジを時に越えてしまううらみがある。が、大勢に影響はない。理屈でなく、感覚でストーリーをつないでいく筆法は師匠譲りといえよう。

 最後の100ページは一気呵成に読み尽くす。
 エンディングは小松左京だ。論理もヘッタクレもない。怒濤の日本的感性での強引ながぶり寄りに、読者はなすすべもなく寄り切られてしまうだろう。それもまたよきかな。
 ジャンル的にはF派というかサイエンスファンタジーの範疇に入るものであろうか。ハード志向の評論家がツッコミを入れそうな箇所があるが、それをしてはいけない。これはこれでよいのだ。

 ところで主人公は少年であるが、ヤングアダルトものではない。突然ですが、SFって大人の文学なのだ。しかも大人になったら読まれなくなる大人の文学なのである。じゃ、だれが読むのか。〈少年〉が読むのだ。〈少年〉が読む「大人の文学」なのである。つまり少年がすこし背伸びして読むものであり、読むことによって、彼は必ず時の存在に(あるいは因果関係の存在に)気づかされざるを得ない――そういう類の読み物なのである。
 だから主人公は必ず成長するのであり、形式的には通時的なビルドゥングス・ロマンの範疇にはいるものといえなくもない。

 かたやヤングアダルトが描くのは等身大の少年であり少女でありかれらの現在である。通時的ではなく共時的な事態を描く。そこに因果的物語性は希薄であり、いわんや主人公は成長しない。物語の始めと終わりで主人公は変わっていない。或いは世界は変容しない。おっと話が随分それてしまった。

 ともあれ、本書は紛れもないSFである。作者は本書の次の作品(『エリ・エリ』)で小松左京賞を受賞する。むべなるかな。


北原尚彦
『SF万国博覧会』
(青弓社・寺小屋ブックス)

 第1章空想科学叢書列伝、第2章バベルの塔から世界を眺めて、ともにSFマガジンに連載されたもの。

 第1章「空想科学叢書列伝」の主旨は、海外ものを出すハヤカワ文庫SFや創元SF文庫は現在も勿論健在だが、時の流れのなかにあっては消えてしまったSF叢書も多数存在したのであって、そういう今はもうない叢書を順番に取り上げて、それらの叢書に収められていた(今はもう読めない)個々の作品について解説するという趣向である。

 読中、非常に懐かしい感慨に浸ることができた。私自身は創元、ハヤカワ以外に目を向けることは、サンリオ文庫は別格としてほとんどなかったのだけど、それでも書名ぐらいは記憶があり、なるほどそういう話だったのかとうなずくこと屡々であった。

 ところで、この列伝、実は大変な叢書を見落としているのである。それはハヤカワSFシリ−ズいわゆる銀背である。この銀背シリーズ、めぼしい作品はハヤカワ文庫に移動しているのだろうが、それでもかなりの作品がシリ−ズそのものと無理心中させられている(たとえばブリッシュ『宇宙播種計画』)。本章では、銀背と共に消えていかざるを得なかったシリ−ズ収録作品を取り上げてほしかった。もっともそうするとボリュームは3倍ではきかなくなるだろうが……。

 そういう次第で<見捨てられた銀背>リストというのを作成してみました。私がよく利用させていただくAmemiyaさんのHP「海外SF翻訳作品集成」のデータを並べ替えただけのやっつけ仕事で、とても完成品とはいえませんが興味のある方はご覧下さい。→ http://www3.ocn.ne.jp/~kumagoro/ginse.htm
 リストアップして分かったことは、銀背318冊中ハヤカワ文庫化された作品は181冊分。つまり6割しか文庫化されなかったということである。これは予想以上に歩留まりが悪い。完全に見捨てられている作品が101冊もある。チャド・オリバーなどは全滅状態、オールディスやシェクリーも案外文庫化されていないことが判る。うーむ、これは問題ではないだろうか?

 第2章は英米以外の各国のSFを取り上げている。興味深い。フランス篇はことに興味深かった。
 視点が効いた好著。


眉村卓
『ねじれた町』
ハルキ文庫

 『ねじれた町』は、定評ある眉村ジュヴナイルのなかでも、とりわけ個人的に評価の高い作品である。
 たしか筒井康隆が「奇想天外」の連載時評で褒めていたはずと思い、連載をまとめた『みだれ撃ち涜書ノート』(集英社文庫版)の目次をながめているのだが、見あたらない。勘違いだろうか?(昔の記憶がどんどん薄れていくのであります)

 今回、本書を取り上げるのは、ひとつにはこの作品がサイエンスを取り扱わないSFの典型的なカタチを見ることができるということと、いまひとつはハルキ文庫版の瀬名秀明の巻末解説が力作で一読の価値があるからである。

 古い城下町で[……]いかにも平和な町Q市――ここに引っ越してきた和田行夫は、すぐにこの町の異様さに気が付いた。明治時代を思わせるポストや人力車、町の人々が信じて疑わない「鬼」、そして人間の意思力が生み出す超能力の存在……。時間・空間・生活、すべてがどこかでゆがんでいるこの町で行夫が体験する恐怖の世界とは?(ハルキ文庫版裏カバーより)

 少年が引っ越してきた地方の城下町Q市の住民には、なぜか超能力(テレパシー、サイコキネシスなど)が備わっていて、しかも市はどうやら過去のQ市ともつながっているようなのだ。やがて主人公の少年自身も超能力が使えるようになる。

 本書では<超能力>そのものに対しての「科学的」理屈付けはない。その点ではファンタジーやホラーと見紛うかも知れないが違うのである。
 物語も終盤に近づいた「ここは怨念の世界」の章で、かかるホラー的小説世界は、一転SFに変相する。

 ――すなわちその歴史を通じてQ市住民の意識に消しがたく刻印された旧弊な支配−被支配の傾斜が、見えざる制度として澱み固定化されることによって、否応なく生成され続ける虐げられた者の無意識的怨念が凝って実体化した一種<集合無意識>――かかる霊気が現実のQ市を包み込み、あわよくば介入しようと虎視眈々とねらっている。かかる霊気が<超能力>発現の源泉であるのだが、町の支配層は、しかしこの霊気を逆用してこれまで秩序を保ってきていた……という背理がここで説明される。

 そしてこのメカニズムに気づいた主人公の提案を受け入れ、<怨念>が介入をやめることによって、支配層の支配の根拠が(皮肉にも)消滅し、はからずも怨念の目的は達成されるのである。かくのごとく本書は非常にシステマティックな世界構造を描写することで小説世界が構築されているのだ。

 これは一種の<理屈>であることは疑いない。<怨念>や<超能力>それ自体はなんの根拠もない思弁であるが、一旦それを認めた上での展開において、この小説はSFなのだ。こうして本書は、結局超能力の無限定な受容を前提として成立するファンタジーとは一線を画すものであることが明らかとなるだろう……。

 次に瀬名論文であるが、上述したように眉村卓論として出色のできばえだと思った。
 瀬名論文のユニークな点は、眉村作品を読み解くときに誰もが必ず引き合いに出す「インサイダー文学論」をとりあえずカッコに括って、独自の切り口を提示している点である。

 すなわち「決断」と「通りすがりの感覚」という切り口である。前者について瀬名は「決断を強いられる自分と決断につきまとうためらい、そして決断後に感じるなんともいえない疲れ。これらこそが眉村卓の主要なテーマなのではないか」と分析する。
 これを読み私は全くその通りだと思った、というか読むことによってその(気づいてなかった)事実にはじめて気づかされたのだった。或いは眉村本人でさえ気づいてなかったのではあるまいか。
 著者の主張を代弁することが評論の任務ではあるまい。むしろ著者すら気づいてないモチーフや無意識的主張を作品から抽出してはじめて評論は自立的であり得る。

 この切り口は瀬名独自のものであるが、それが妥当かどうかは、かかる切り口を提出されたとき「私」において、眉村作品が(殆ど例外なく)その切り口に基づいて遡及的にパタパタパタと再編され収まるかどうかによって検証されるわけだ。
 そして上にも書いたように、それは「私」において「その通りだ」と納得されるものであった。つまり妥当な、有意な切り口であると検証されたわけである。

 瀬名の「ねじれた町」の解説は、このように批評として自立性を主張できる優れたものである。批評とはかくありたいものだ。
 とはいえ瀬名論文だけが唯一の「眉村解」ではないのはいうまでもない。別の切り口が必ずあるはずである。私も瀬名解に匹敵する切り口を発見したいものだと思った次第である。


眉村卓
『深夜放送のハプニング』
(角川文庫)

 表題作と「闇からのゆうわく」を収録。2作品とも前項で述べた瀬名の「決断」のモチーフが明瞭に現れている。いちいちここが、と説明はしない。そんなことをせずとも瀬名論文によって「決断」という認識の台座に立った者には、それは明瞭に視界に迫ってくるはずだ。

 表題作は「過去のないリクエスト・カード」「夜はだれのもの!?」「呪いの面」の3短篇からなる連作。この連作、深夜放送のパーソナリティが主人公の、一般小説である。今回が初読なのだったが、読んではじめてジュブナイルではないことに気づいた。

 拙HP(とべ、クマゴロー!)の眉村卓著書リストでもうっかりJV篇に含めてしまっている。実は巻末の新戸雅章の解説に「本書は作者お得意のジュヴナイルSF二篇を収めた中篇集である」とあったからで(と弁解する)、瀬名解説とは違ってずいぶん杜撰な解説である。その証拠に4ペ−ジあまりの長さのうち3ページ半をインサイダー文学論に当てていることからもわかる。つまり何も言っていないに等しい解説なのだ。

 深夜放送が舞台らしく、70年代初頭の洋楽ヒット曲が頻出する。懐かしい(しかしウソくさい曲名も散見する)。
 さて本篇はSFではない。第3話が一番SFに近いが<謎の面>にメカニズムはない。理屈はない。
 ここで明らかになるのは瀬名解が眉村SFではなく眉村描く小説にかかわる解である事実である。

 「闇からのゆうわく」は純然たるジュヴナイルSF。松葉という先生の超能力は新人類(ミュ−タント)という根拠をもつ。


浜尾四郎
『殺人鬼』
(春陽文庫)

 戦前(昭和6年)にこんな堂々たる本格探偵小説が書かれていたのか、と驚かされた。
 『グリーン家』の向こうを張る趣向で、しかも『グリーン家』よりも面白い。本格度においても上かも知れない。

 私の考える本格ものの理念型では、謎解きはシステム内において終始するべきで、システム外からの導入はアンフェアとなる。
 本書の場合、名探偵の名推理は、まさしく理念型どおりにシステム内の要素から帰納し、この者しかありえないと犯人を特定するにいたるのであるが(この過程は素晴らしいの一語)、しかし動機だけは判らない。

 結局動機は探偵が調査に赴いて、システム外部から持ち帰ってくる。つまりシステムにとどまる限り、動機は発見できないのである。これはアンフェアとはならないのであろうか? 本格読みの方にたずねたい気がする。

 それにしても(絢爛たる乱歩とは正反対の)冷静着実な文体で語られる論理の詰めは一読の価値あり。まさしく日本本格派の成果であろう。
 私は戦前の日本人の(西欧的)合理主義の受容度は、本格探偵小説を生み出すほどには成熟していなかったと認識していたのだが、考えを改める必要があるかも知れない。


掲載 2000年8月2日(7月)、9月9日(8月)、10月4日(9月)、11月8日(10月)、12月7日(11月)、2001年1月8日(12月)