ヘテロ読誌
大熊宏俊

2001年 上半期

1月

横田順弥
『さらば地球よ!――宇宙船[スロッピイ号]の冒険』
(徳間文庫)

 本書をひとことで言えば、ショ−トショ−トの積み重ねによる長編宇宙SF(?)といえるか。宇宙調査のために恒星間宇宙へと船出した宇宙船[スロッピイ号]の冒険(?)をショ−トショ−ト形式で綴っていくという試み。
 無数のショートショートを積み重ねて、結果ものすごいセンス・オブ・ワンダ−に満ちた世界が開示されるようなものを期待したのだが、そういう風にはならない。むしろ4コママンガの集積を読んでいるような印象であった。

 したがってベスト5はオチの秀逸さで決まる(以下、掲載順)。

 スペースオペラ(?)の開幕にふさわしい壮大(笑)なるオチ>「メッセージ」
 うまい!と膝を叩く>「ある患者」
 オチではなく余韻の>「宇宙怪物ハンター」
 自分が冷蔵庫であると思い込んだ男のハタ迷惑>「妻たちの会話」
 250億年前に作られたコンピュータの望みは>「漂流物体Z」


柄谷行人
『批評とポストモダン』
(福武文庫)

 著者の論考には、常に刺激を受ける。その刺激は、私にはSFのセンス・オブ・ワンダーに似ているように思われる。
 たとえばマルクスの有名な「宗教はアヘンである」という言葉は、一般的理解である「宗教批判」として発言されたのではなく、「宗教批判」への批判として書かれたのだと著者はいう。
 ――すなわち大衆が宗教に救いを求めるのは現実的な不幸があるからで、それを批判(啓蒙)したって仕方がないのであって、宗教批判は宗教を必要とさせる現実世界の批判にとって変わらなければならない(モトから断たなきゃダメ)、というのがマルクスの本意であったとするのである。

 この瞬間、私は「あ、なるほど!」と膝を叩いたのだったが、この「なるほど」という言葉が含意する快感は、私の認識が<一般的理解>より高次のパースペクティブに移行した快感であることは疑いない。それはSFのセンス・オブ・ワンダーに等しい。もちろん、それは柄谷の解釈が事実かどうかとは、全然関係ないことである。

 もうひとつ――これは以前から気にしてはいたのだが、現象学的還元において自然的態度をカッコで括るその「私」の根拠は、一体どこに求められるのだろうか、という根源的疑問に対して実は目をつぶっていた。というか、考えても分からなかった。
 しかし柄谷を敷衍すれば、それは自明な「空間」をカッコに入れることによって「場所」を見出すということであり、自然的態度への疑いを呼び起こすのは、差異化としての、そのような「場所」の確保によって「私」が対象に対して「異人化」(シュッツ)することによってなのであることが理解される。

 著者が鋭いのは、そのうえに「現象学そのものをもたらすようなその「場所」は、現象学的な対象ではありえない」ことを論理的に導いている点であろう。
 この対象外の「場所」を還元するためには、「私」はさらなる「場所」を見出さねばならず、それは際限のないイタチごっこであり、すなわちメルロ=ポンティの「現象学的還元は無限に続く」(大意)というテ−ゼに対応するわけだ。

 かくのごとく「場所」という概念の導入で、フッサ−ルのなかにシュッツとメルロ=ポンティと(したがって構造主義人類学と)を畳み込んでしまう強腕は、まさにこの上ないセンス・オブ・ワンダーではないだろうか!
 頭がすっきりリフレッシュする快著。


眉村卓
『まぼろしのペンフレンド』
(角川文庫)

 教育テレビで表題作がドラマ化された。眉村ジュブナイルとしては久々のTVドラマ化である。
 昔、「タイムトラベラー(時をかける少女)」や「なぞの転校生」を筆頭にぞくぞくとジュブナイルSFがテレビドラマ化された時期があった。これらの少年ドラマがSF盛期の基層ファン層を創出したことは間違いない。今回の「まぼろしのペンフレンド2001」が、再び往時の繁栄を甦らせる口火となってほしいと願っているのだが……さて。

 「まぼろしのペンフレンド」>主人公とコミュニケーションをとるうちに、しだい次第に人間らしくなっていくオリジナルアンドロイドの本郷令子が可哀想でいじらしい。著者はロボットや宇宙人など<人間以外>を描かせたら天下一品である。この素晴らしい話を、テレビドラマはどう料理していくのだろうか、興味津々。

 「テスト」、「時間戦士」は、ともに主人公は<決断>(前月掲載『ねじれた町』参照)をせまられる。

 角川文庫版の本書は絶版であるが、表題作はハルキ文庫『閉ざされた時間割』で読むことができる。


佐治芳彦
『謎の宮下文書』(徳間書店)

 ミステリの愉しみの原理は、作者が作中にばらまいた諸<手がかり>から探偵(読者)が真犯人を特定する(あるいはトリックを見破る)、一種帰納論理の愉しみであるといえよう。もちろん作者の側から言えばそれは逆で、まず「真犯人ありき」(あるいはトリックありき)なのであって、真犯人を真犯人たらしめるための(トリックをトリックたらしめるための)諸<手がかり>が演繹的に考えられ、(ミスディレクションも含めて)作中にばらまかれるのである。すなわちミステリ作家自身の創作の愉しみは演繹的であることになる。

 超古代史の愉しみ方は、ミステリ作家の愉しみに近い。というかミステリ作家の創作過程を追体験する愉しみに近い。本書で言えば、古史古伝のひとつ宮下文書が正しいとしたら、それはどのような条件においてであるか、という命題に対して作者が提出する諸<仮説>を愉しむのである。
 それらの仮説が論理的に首尾一貫していて、読者に宮下文書が真であることを納得させられるかどうかがその愉しみの質を保証する。

 その為に作者は、それを担うにたる理屈を古今東西の資料から探してこなくてはならない。その意味で、閉鎖系で成立するミステリとは逆に超古代史は開放系において存立しうる。
 もとよりその真は、現実的な(史的な)正しさとは別種であることは言うまでもない。あくまでもゲームである。

 もちろん超古代史の作家たちが皆この原理に気づいているわけではなく、いわば「信念」派の人もいるわけで(歴史物で言えば郷土史家に対応)、そう言う人の作物は当然面白くない。
 本書の著者は、その原理が見えているほうなので、私も愛読している。本書も前半は面白かった。後半はちょっと夢から覚めたというか正気にかえりかけていて、話が小さくなってしまった。竜頭蛇尾の典型で、超古代史にはこのパターンが多いのである。


奥村宏
『解体する「系列」と法人資本主義』
(現代教養文庫)

 現代の日本社会は「会社本位」社会であり、「会社絶対主義」とでもいうべき原理で貫かれている。これを法人資本主義として著者は規定する。
 それは大企業を中心に組織され、大企業によって管理された資本主義であり、大企業が多数の企業を(内部化するのではなく)系列化し(二重構造の活用・リスクの外在化)、そして大企業同士が相互に結合することによって(株式相互持ち合い)成り立っていた。

 これは日本独自の存在形態であり、これによって70年代の日本の繁栄はもたらされたのだが、株式相互持ち合いは虚構の株価つりあげを招来し80年代の「大投機時代(バブル)」へと走らた(株主割り当て・額面発行から時価発行増資への移行)。

 その結果大企業の管理主義に破綻が生じ(4大証券と発行会社によって管理されていた株式の需給関係が管理不能となり)、ついに90年の株価大暴落に至る。91年の証券スキャンダルも管理不能化の結果であり、法人資本主義(会社本位主義)そのものがひびわれを呈し始めていると著者は言う。

 すなわち日本的な(出世原理とノルマ制による)会社本位主義では立ちいかなくなっているのであり、新しい企業像が模索されねばならないと著者は提言する。著者によれば個人レベルでは会社人間からの脱却、企業レベルでは大企業の解体による「第3のイタリア」的方向への移行によってフォ−ディズム(大量生産・大量消費主義)時代の終焉に、日本は適応していくべきではないかと示唆する。

 かかる結論はありきたりだが、法人資本主義の分析自体は明快で刺激的。実に体系的な所論であり、読んでいて頭がすっきりする。本書の論の進め方にも、私はセンス・オブ・ワンダ−を感じてしまうのである。やはりセンス・オブ・ワンダーはSFの専売特許ではないのかも知れない。


永瀧五郎
『市岡パラダイス』
(講談社)

 「大阪物語ともいうべきドラマも、文筆家が書く大阪紹介も、学識経験者という人々の大阪論も、大阪と言えば横堀川であり船場だ。北は曽根崎あたりから、南は難波・天王寺である。東は上町・寺町・地蔵坂だ。大阪の西は全く紹介されていない。それは知らないのだと思う。俗に築港線と言われる野田・福島・川口・本田・九条・松島・市岡元町・夕凪橋など、特に市岡元町については、その紹介も皆無に等しい。心斎橋や道頓堀だけが大阪ではない。」と、著者はいう。

 「沼を埋め立てて市岡新田を整地し、住宅が建ちはじめた大正末期から、遊園地・市岡パラダイスを中心に住みよい場所として繁栄した市岡を紹介しないといけない[……]誰も知らない、誰も書かなかった、いや誰も書けない市岡の、昭和元年から戦争の始まる昭和16年までの、市岡の歴史というものを紹介したい。」という意図でまとめられたのが本書である。

 著者は放送作家だがもともとは市岡にある寺の次男坊で、市岡界隈に暮らした(最初の確かな記憶のある)6才から(応召して入隊する)22才までの16年間の、いわば青春記である。
 読み終えて、そのまま最初のペ−ジに戻り、私はつづいて二度読んでしまった。

 持ちネタを全部著者の前で演じて、
 「ボン、ボンに聞かせるはなしは全部してしもた。もう、わたいにはなんにもおまへん。頭の中はからっぽや。ボン、お達者でな。ほなサイナラ」
 といって、翌朝首をくくった桂ざこばのエピソードはすさまじいし、ひどい貧乏暮しで教科書も鉛筆も帳面もないのに明朗優秀なゆみちゃんのエピソードは、明るいだけに哀しく切ない。

 実は私は本書にも出てくる「野田の藤」の下福島公園のとなりに18才まで住んでおり、そして、
 「中等学校野球で有名な学校があった。市岡元町2丁目の電停前だ」
 と本書にもある高校(旧制中学)に進んだ者である。まさに時代は違うが本書の空間に生活していたのである。それだけに感懐もひとしおなのだが、そんなことは無関係に本書は一読の価値がある。


浅暮三文
『夜聖の少年』
(徳間デュアル文庫)

 第1世代のそれを継承する正真正銘のジュヴナイルである。
 登場人物はちゃんとしたジュヴナイル語をしゃべる。「たく!」なんてYAコトバは一言もないのが非常に好ましい。
 内容的にもハインラインのジュヴナイルに匹敵する力作! もっともSFというよりは反ユートピア教養小説というべきか。


井上俊夫
『蜆川の蛍』
(編集工房ノア)

 今でこそ影もかたちも判らないが、明治の末まで、堂島川を挟んで中之島の対岸の堂島は、文字通り〈島〉だったのである。
 即ち南を堂島川、北を今はない蜆川によって堂島は島をなしていた。

 本書の見開きにのせられた古地図を見ると、堂島川に掛かる大江橋のすこし東側、ちょうど裁判所のあたりで堂島川から北西方向へ別れた蜆川は北新地の南側を流れて、桜橋の交差点の南辺で南西へ方向を変え、阪大病院の北側を過ぎ、本遇寺の前辺りを通って、下福島公園の手前、堂島大橋で再び堂島川に合流していたようだ。
 この蜆川、近松の曽根崎心中や心中天の網島の舞台である。

 深夜の堂島新地を/辛うじて脱出した/天満屋の遊女お初と/その馴染み客、醤油屋の手代徳兵衛は/蜆川にかかる梅田橋を渡り/北岸の堤防づたいに曾根崎の森へぬけでて/そこで心中をとげる[……]。(13頁)

 本書は近松や西鶴を読み込んだ筆者が、その作品群に材をとって自在に空想の世界に飛翔し、かつ現代人の目からみた疑問点を追求する、遊び心に溢れた本である。多彩で華麗なエッセイと詩文で構成されていて読者を飽きさせない。

 著者に触発され、私も少し遊んでみた。
 ――お初と徳兵衛が手に手を取り合って、蜆川にかかる梅田橋にさしかかったとき、これが今生のききおさめの七つの時の鐘が鳴り響いた。思わず見上げた空には燦然と輝く北斗七星、天の川。ここでふたりは梅田の橋をかささぎの橋と見立て、われとそなたはめおと星、かならず添うと、抱き合って泣くのであったが、その梅田橋とは、いったい現在のどの場所に当たるのだろう? 

 前掲の古地図を見ると、現在の梅田からはかなり西に外れていて、梅田橋を渡って右(東)に行けば浄祐寺、左(西)に行けば上福島天神となっている。
 この辺りに詳しい蜆川漁人氏によると、この両宗教法人は現存しており、そうすると梅田橋は旧阪大病院跡の北あたりと思われる。やはり現在の梅田辺からはずいぶん西である。

 お初と徳兵衛は、阪大病院跡から蜆川の堤沿いに、とぼとぼと、曾根崎の森いわゆるお初天神まで歩いて行くのだが、大阪の方はお分かりでしょうが、これはなかなかの距離である。死にに行くのであるから、足も遅れがちだろう。小一時間はかかったのではあるまいか。

 お初と徳兵衛は梅田橋で7つの時(午前3時)の鐘をきいている。とすれば、お初天神に着いたのはおそらく午前4時前。季節は旧暦4月の夏の初めであるから、もう少ししたら東の空が白んで来ようかという刻限である。案の定鶏も鳴き出した。

 ところが徳兵衛は手が震え目も眩んで、刀が左右にぶれてなかなかお初を刺し殺せない。おそらくお初は何カ所も浅傷を作られ血みどろの凄惨な姿だったのではないかと思われる。もはや真っ暗闇ではない暁のほの白さの中で、徳兵衛にもお初の血まみれのあわれな姿はうっすらと見えていた可能性が高いのではないかと私は想像したのだが、さて実際はどうだったのだろう?


東秀三
『大阪文学地図』
(編集工房ノア)

 本書は大阪に縁のある文学作品を網羅的に紹介していて興味深い。

 たとえば平成3年の直木賞作品である古川薫『漂泊者のアリア』(文芸春秋)は、オペラ歌手の藤原義江の話である。義江は下関の琵琶芸者とスコットランド人の間に生まれたハーフであるが、父親に母親ともども捨てられ大変な辛酸を舐める。小学3年生の時大阪に出てきて、母親は北新地で琵琶芸者を始め、義江は学校へも行けず仕事を転々とする。

 貿易会社のボーイをしているとき、父親が下関で羽振りがいいと分かって夜汽車で一人会いに出かける。結果は惨めで父親は会ってもくれず、「まるで荷物のようにまた同じ鉄道を走る列車に乗せられて」大阪へ追い返される。夜汽車で眠っていた義江は、姫路まで来たとき「大阪北区は昨夜からの大火で、目下延焼中です」という車掌の知らせを聞くのだが、この大火こそ明治42年7月31日の北の大火として有名な、通称天満焼けである。

 空心町から出た火は折からの東風にあおられて西へ西へと燃え広がり、福島区までを総なめにして1万1365戸を焼きつくしたという。
 この大火で曾根崎新地(北新地)は消滅してしまう。義江は母親と生き別れとなり、ふたたび下関へと送り帰されるのだが、焼けた家の瓦が新地を流れる蜆川を埋め尽くし、このとき、前項で取り上げた「曽根崎心中」や「心中天の網島」などの舞台になった蜆川そのものがなくなってしまう。それは取りも直さず、堂島が、島でなくなってしまう瞬間だった。

 ――さて、現在の北新地は四つ橋筋と御堂筋の間であるが、消滅した曾根崎新地は、桜橋の西側が中心だったようだ。
 なるほど!
 それで前項で不審だった梅田橋の異様な西寄りが私にも納得できた。梅田(の中心部)は天満焼けによって東へ移動したのかも知れない。


大谷晃一
『大阪学 文学編』
(編集工房ノア)

 本書によると、「曽根崎心中」の成功を期に、近松は京都から大阪(天満)に移ってくる。宝永二年(1705)近松53才のことである。これから20年間近松は主に竹本座のために浄瑠璃を書き続けるのだが、おりしもこの間に曾根崎新地が開発され、遊里は堂島から次第に曾根崎新地へ移っていったのだという。

 つまり、お初徳兵衛の頃はまだいわゆる曾根崎新地はなかったのだ。殷賑を極めたのは天満屋のあった堂島新地すなわち蜆川の南岸だったのである。
 梅田の橋を北へ渡れば、そこははや黒々と闇が包む人家もまれなそんな場所だったに違いない。

 だからこそ、梅田橋を渡ったお初と徳兵衛に、近松は南岸のどことも知れぬ店での遊女と客の狂態を振り返らせているわけだ。
 川の南と北のこの落差……。蜆川は当時の大阪の人には賑わいと空虚、光と闇、生と死、を分かつ川だと認識されていたのではないだろうか。
 蜆川の北岸いわゆる梅田の堤こそ(あるいは梅田橋を北へ渡るという行為こそ)道行きに相応しい空間(象徴)だったのであろう。

 ところで、本書には西鶴も取り上げられているのだが、この本に描かれた西鶴と、眉村さんとがなんかよく似ているのでニヤリとしている。
 どこが似ているかというと、それはヘンにこだわるところなのだ。

 あるとき西鶴は、24時間に俳句(俳諧)を何句詠めるかという、ヘンな試みをした。1600句一人で詠みきった。これが評判になった。評判になると対抗する者が現れる。西鶴の記録を破る。
 西鶴も負けていない。一日一夜に4000句詠んだ。見物衆はヤンヤヤンヤである。
 するとまた破る者が現れる。西鶴は黙っていない。息も切らせず句を繰り出し、24時間でとうとう2万3500句に達した。3.7秒に一句である! これで打ち止めになったが、西鶴はこの張り合いの気持ちを終生失わなかったという。

 かたや眉村さんも、現在「日課・一日3枚以上」に挑戦中で、平成9年7月16日から今日まで、一日たりと欠かさずショートショートを書き続け、遂に3年6ヶ月・1280日に達した。
 他にも『一分間だけ』というショートショート集では登場する主人公の名前をアキラ、イサム……とアイウエオ順に名付け、最後の作品の主人公は「ンチャカ」で終わる。

 こういう(どうでもいい)制約を自作に課すことが、眉村さんにはよくある。ある意味<無意味>な「こだわり」が、眉村さんはお好きなようだ。もちろん病床の奥さんに毎日自作を読んで差し上げることが無意味なことだと言っているのではない。<無意味>な「こだわり」では語弊があるなら、<稚気あふるるこだわり>と言い換えよう。

 西鶴の「負けず嫌い」も、眉村さんのそれと同じものではないだろうか?
 著者はこういう、「西鶴のそのすべてが、その矛盾も含めて、まぎれもなく大阪人である」と。
 眉村さんにも当てはまる言葉ではないだろうか。


眉村卓
『日課・一日3枚以上(第4巻)』
(真生印刷)

 本書には、平成10年5月12日から8月19日までの100編が収録された。通番では301から400である。
 今回は全体に長めの作品がふえたようでほとんど500ペ−ジに達するボリューム。平均1編5ペ−ジ、枚数にして10枚弱程度か。
 ベスト10は以下のとおり。

 ライターのコレクション>Qさんの気持ちの変化が簡潔に、しかしあざやかに語られる。
 バーン!>学生のやさしさが清々しい。
 もと踏切>線路が高架になって廃止された開かずの踏切。幻覚か、男の前を列車が通りすぎる。
 酔っての記録>酔うと記憶がなくなる男、メモをつけることにするが……
 レポーターになった記憶>20年前レポーターの仕事で訪問した会社の前に偶然行き当たる。若い専務から経営論をとうとうと聞かされたその会社は、無人で放置されていた。
 驟雨>通り雨に雨宿りした喫茶店で感じた一瞬の衝動……
 研究室の鏡>見られるために存在する鏡が見られることを妨げられたとき……
 薬と空腹>最後の一行、「テレビを見て、あはは、あははと笑っていたが、そのうち涙が出てきた。空しいのであった。」 まるで人生のよう。
 日記の記述>私の日記の記述が現実と違う? あやふやな時間線の恐怖。
 使わなかった手帳>一度も使われない手帳は、ひとことさよならと文字を残して行ってしまう。

2月

吉田知子
『お供え』
(福武書店)

 短篇集だが、作中話者の名前(頭文字)が共通していたりして、一種内的連作集といえる。
 石川喬司に「夢書房シリーズ」があるが、本書もおそらく同様の試みなのである。作中話者は著者の<夢中主体>と思われる。
 各話はそれぞれ、夢そのものではないにしても著者が見た夢を核に持つものであることは疑いない。もとよりその夢は悪夢である。石川作品と違うのはその点であろう。

 案の定もどかしい曖昧さがあり、輪郭の画然としない遠近法の欠如があり、読者は終始ぬかるみに足を取られたような感覚から逃れられない。そのような世界が次々に立ち現れる。
 その薄闇のような世界は、しかし奇妙に蠱惑的なのであって、読み出した読者を、否応なくその世界に引きずり込まずにはおかない。

 そして、最後にオチがつく場合とつかない場合がある。
 オチは「考えられた」ものである。したがってそのオチで、読者は悪夢的世界から浮かび上がれる。オチがないときは、その世界に絡め取られたまま終わる。どちらもよい。

 祇樹院/迷蕨/門/海梯/お供え/逆旅/艮


山田正紀
『謀殺の弾丸特急』
(ノンノベル)

 著者十八番の「素人チ−ムがプロに勝つ」ノンストップアクション小説――というよりも字で書いた映画というべきか。
 文句なしに面白い!
 国鉄を定年退職した元機関士の運転する蒸気機関車C57が、カンボジア(と、おぼしい)ジャングルを爆走する!

 実は本書、意識して映画を見るようなつもりで読んだ。著者がそのようなものとして書いたことは明らかだからだ。
 したがってシナリオならぬ小説の構成上、書かないわけにはいかない――しかし映画なら不要の――くだくだしい内面説明文(恋情等の)は、これはスッパリと読み飛ばした。本来映画にするべき物語なのだからそれでいいのである(と思ったから)。

 そしてそれはたしかに正解だったと思われる。
 ご都合主義の極みのようなストーリーの展開なのだが、それが全然気にならなかった。なんたって映画なのだから。時間も2時間半で読了。ちょうど映画一本分の長さ。なんか山田正紀の超冒険ものにはまりそうな予感。


藤本泉
『オーロラの殺意』
(ハヤカワ文庫)

 山田作品が面白かったので、今回も映画を見るつもりで本棚(というか段ボ−ル箱)を物色していたら本書が出てきた。山田作品同様の、シベリアが舞台の冒険小説かと読み始めたら、全然違った。切実な話である。これは読み飛ばしできない。

 極北の民族シュチーヤ族の描写が克明で、一種ルポルタージュを読んでいるような印象。ストーリーも小説の作りとしては目的性に欠け(つまり作り物らしくなくて)体験談を下敷きにしているのではないかと思わせるふしがある。
 本書はモデルがあるのではないだろうか。

 旧ソビエトの少数民族問題を取り上げて、本来の共産主義(もちろん世界革命を契機とする)から道を外れてしまったソ連という「ロシア国家」を批判している。共産主義とは名ばかりのロシア民族国家を糾弾している。

 しかしながら、著者が本書においてスターリン主義の対極に称揚する原始共産制は、もとよりトロツキーが志向した共産主義とは別物であるはずで、おそらく著者はシュチーヤ族の社会制をいつのまにか理想化してしまっている。上に克明な描写と書いたが、この部面に関しては事実を<解釈>して描いているように思われる。
 とはいえ、この民族に仮託して述べられた「女性」論はきわめて根源的である。フェミニストを名乗る人はこの本をどう読むだろうか?

 一種神話的な荘厳な物語であった。


山田正紀
『謀殺の翼747』
(中公文庫)

 字で読む航空アクション映画である。
 ――アジアの小国P国の反政府ゲリラによってボーイング747がハイジャックされた。犯人は30億円相当のダイヤを要求する。それは「出来レース」の筈だったのだが。747機の背後にF−16戦闘機がせまる。……

 今回は(航空アクションという制約のせいか)登場人物たちの肉体的な動きが少ない。そのうえ行為が描写されず説明される。これは山田正紀の低調なときの特徴である。案の定変に内省的で暗く、華に乏しい。なかなかのっていけなかったのだが、終盤に俄然盛り上がって何とか着地。まあよしとしよう。

 今回も内面説明文は読み飛ばしたのだが、次の一文はあまりにも面白かったので引用する。ハイジャックされた旅客機内でなされたスチュワーデスとハイジャッカーのやりとり(65頁)。

 (引用始)「どうも嫌なことをさせて申し訳ありませんでした、恵子さん」ホセが恵子の手から受話器を取り、そう優しい声でいった。
 恵子はその声にふと涙ぐみそうになった。ハイジャッカーに慰められ、こんな気持ちになるのはバカげていたが、それでもこの若くハンサムな男に優しい言葉をかけられるのが嬉しかった。(引用終)

 このくだりを読んで、さすがに私も笑ってしまった。もちろん笑いを取ろうとして書かれたものではないことは明らかである。印象だが、こういう例が山田正紀には多く見られるような気がする。筆が滑ったのだと思うが、案外そんな部分に作者のホンネが現れたりするのではないだろうか? 藤本泉の苛烈な女性観を読んだ後なので殊更気になってしまった。


宮本昌孝
『剣豪将軍義輝』
(徳間書店)

 これは面白い。
 13代将軍足利義輝の少年期から最期までを描いた小説だから通時的な歴史小説なのだが、そういう印象は薄い。
 むしろ共時的な時代小説の楽しみがまさった小説であった。そのうえ伝奇小説的な要素も色濃く、純日本的なヒロイックファンタジーとはこういうものだろうな、と思わされる場面が随所にあり、いろんな面で楽しめるものだった。

 歴史小説的なアイデアも秀逸で、謙信庇護下の越後幕府構想とか尊氏西国落ちのひそみにならって倭寇を巻き込んでの捲土重来作戦とかは、おお、と肌に粟を生じさせるほどのインパクトがあった。
 ところが架空戦記(改変世界SF)ならぬ単線歴史観を踏襲せざるを得ない歴史・時代小説の哀しさ、それらの試みは失敗せざるを得ない。まことに残念である。もちろんそれは当方の勝手な願望なのであって、歴史を安易に変えないのはひとつの見識である。

 とはいえ、義輝に感情移入して読んできた私は、終盤に来て<歴史的事実>にどんどん屈服していくストーリーがやけに悔しかったりするのだった。せめて義経がモンゴルに逃れたり為朝が琉球に逃れたように、小説の掉尾に、一説としてでいいから倭寇船に救出された義輝が後年東シナ海に活躍したという類の憶説を、著者は仄めかしてくれてもバチはあたらんだろう、と恨まずにはいられないのであった。 


吉田知子
『無明長夜』
(新潮文庫)

 著者最初期の作品が集められている。

 「寓話」は書の大家の話。非常に視線が意地悪で、私は筒井康隆を連想したのだが、昭和41年に発表された本篇に筒井が影響を及ぼした可能性は低そうだ。もともと資質が似ているのかも知れない。同い年だし。

 「豊原」は植民地小説。終戦前後の樺太が舞台である。著者も一時期過ごしたことがあるのだろう、郷愁と嫌悪がない交ぜになった筆致である。リアリスティックな自然主義小説と思いきや、この著者がそんな生易しいものを書くはずもない。世界はどんどんよじれていき、引き上げのその日に死ぬ主人公の母親の姿は圧巻である。

 「静かな夏」は、これも奇妙な小説である。小さなスーパーに勤める女の日常? 今となっては60年代という時代色が滲み出ているが、それは作者の意図外だろう。

 「終わりのない夜」は、『お供え』などの近作に通じる悪夢小説。曖昧とした不思議な<夜世界>を話者の私は歩き続ける。

 「生きものたち」では、一転して河野典生『街の博物誌』風の淡い世界が点描される。が、もちろんそこはこの著者である。河野よりもダークで突き放している。

 「わたしの恋の物語」は金井美恵子風実験小説。しかしながら成功しているとは言いがたい。抽象化を得意とする金井とは資質が違うのだろう。

 「無明長夜」は本書中では一番長い。しかも女性の「ですます」調の独白文であるせいか、緊張感に乏しいというか、冗長である。上で抽象化と書いたが、著者はこの作品に限っては思いついた設定(世界)自体に圧倒されてしまっている。本当は組み伏せてしまわないといけないのだが、その辺の操作が少し甘かったのではないだろうか?

 バラエティに富んだ作品集であるが、逆にいえば、まだ自分の場所を発見できず試行錯誤しているということかも。そういう意味では全体に習作という印象を拭いきれないが、「静かな夏」や「終わりのない夜」が本領なのだろう、前段で取り上げた『お供え』など近年の作風はこの延長線上にあるようだ。


小川一水
『回転翼の天使――ジュエルボックス・ナビゲイター』
(ハルキ文庫)

 パニック映画には、救出される側からではなく、救出する立場から描いたものがあるが、本書はその小説版。
 弱小ヘリコプター会社のチームが、いろんな抵抗に晒されながらも、ヘリによる救出活動を継続していく、明朗青春連続テレビドラマの趣。
 登場人物が等身大でジュブナイルに近い肌触りだが、それが本書のようなストーリーにはマッチしているようで、実に気分良く読めた。

 惜しむらくは小さくまとまってしまった。山田正紀だったらたぶんヘリをもっとバージョンアップさせるだろう(超越性の獲得)。そのあたりのつきぬけ方(ホラの吹き方)が奔放でなく、その分作品的にも大人しめになっているのが、個人的には残念に思った。
 著者はリアリスティックなSFが書ける人だと思う。小さくまとまらず、もっと八方破れな大きさを見せて欲しい。今後の活躍を期待したい。

3月

森内俊雄
『天の声』
(福武書店)

 前に読んだ『晒し井』という長篇がよかったので、期待して読んだのだが、これは期待はずれだった。
 サンライズ・クラブ/隣人/眼/病み蛍/白い日々/ウツウツ/峠/天の声
 チャンドラーがするように視界に映ずるものを執拗に列挙するのだが、鬱陶しいばかり。
 辛うじて「白い日々」が記憶の剥落をテーマにして異様な雰囲気を醸成している。こういう異様なのを読みたかったのだ。


クライン・ユーベルシュタイン
『白い影』
(日刊工業新聞社ウィークエンドブックス)

 この小説が好きで、今回が四読目の筈。
 テーマは<宇宙から制御される人間>というわけで、形式的には本格SFである。

 ――南極で直径20キロもある巨大な円筒型の建造物が発見される。この円筒、実は宇宙人が建造した重力波検出装置で、宇宙人は遥かな昔からこれで人類の進化を制御していた。
 そのコントロールのメカニズムがすごい(?)。

 円筒は長大で、下端が地球内核の流体部分にまで達している。それが宇宙人の送り出す重力波に感応して振動し、地球内核の流体を攪拌する。
 そうするとダイナモ理論により地球磁場を形成する磁力線密度が変化し、地球近傍のイオン層に影響を及ぼす。その結果、太陽からやってくるエネルギーが遮られ、地球は寒冷化する……。

 寒冷化は人間の細胞膜を厚くし、耐寒性を増すためにACTH(副腎皮質刺激ホルモン)が多量に作り出され、その分だけ脳の機能を活性化するβ−MSHホルモンの量が減り、すなわち人類は耐寒性と頭脳の働きとをトレ−ド・オフされる。このメカニズムを使って人類はコントロールされていたのだ!

 気宇壮大な話である。
 風が吹けば桶屋が儲かる式といおうか、鶏口を割くに牛刀を以てするといおうか……。なぜそんなことを宇宙人がするのか、読んでもさっぱりわからない、というか、謎のままなんだけど、その置き去りの仕方が拙い。
 本格SFの結構を持つが、間違ってもハードSFではない。あえていうなら学術語が無闇やたらと頻出するワイドスクリーンバロックでろうか。要するにバカSFである(しかしオフビートな要素は全くない、あくまで行進曲風にきまじめに進行していく)。

 以前読んだときはそのばかばかしいほどの壮大さに感動(?)したのだが、今回読み返しは苦しかった。上述以外にも面白いアイデアがいっぱい出てくるのであるが、それらが全然有機的に絡み合っていかず、ある種アイデアの見本帳という感じ。もっとうまく書けば傑作になったのに、という感想は初読以来変わらない。
 というわけで、ベイリーが好きな人くらいにしか勧められないかも。


田中啓文
『銀河帝国の弘法も筆の誤り』
(ハヤカワ文庫)

 というふざけた表題とは裏腹に、本書は、実に懐かしい30年代SFを彷彿とさせる元気あふれる作品集だと私は思った。駄洒落に充ちた外見に騙されてはいけない。本書にはパルプ雑誌風のカバ−画そのままにごきげんな古き良きスペ−スオペラの香りが満ちている。

 本書には人類圏シリ−ズとも言うべきひとつの設定された宇宙を共有する作品が集められている。
 ことにも巻頭の「脳光速――サイモン・ライト二世号、最後の航海」は集中の白眉である。これは内宇宙小説ではないだろうか!! めくるめくイメージの乱舞がすばらしい。たとえば宇宙船内に出現するジャングルは、私には横尾忠則の描くそれのような色彩に満ちているように感じられた。

 もちろんSF(スペオペ)としても良くできていて、脳たちの記憶が実体化する因果関係はきちんと説明されているし、最後に明かされる<ファントム>(バーサーカーを彷彿とさせる)の起源説明には、まさにアッと驚かされるセンス・オブ・ワンダーがある(しかもこの結末は映画スタートレック第1作の<ヴィージャー>へのオマージュになっている)。

 「銀河帝国の弘法も筆の誤り」は、これぞ本集唯一の駄洒落小説。

 「火星のナンシ−・ゴ−ドン」も、最後のオチ(駄洒落)に向かって収斂していくだけの駄洒落小説というには、あまりにもその過程が豊穣である。
 官憲に追われて辿り着いた無人の筈の惑星に彼の到来を今や遅しと待っていたロボットの一群……実に魅惑的なイメージである。ホークカースシリーズにでもありそうなオープニング、これぞ30年代スペースオペラ的世界である。

 「嘔吐した宇宙飛行士」も、外見とは裏腹に内実はしっかりと構成されたスペオペの典型作である。時間経過に矛盾があるが、前半の鬼軍曹による部下いじめのモチーフは、スペオペではおなじみの掛け合いであるし、後半の放浪から救出されるにいたるまでの顛末も、いちおう説明がなされている。「それは生物学上の奇跡としか言いようがなかった」というのももちろん説明なのである。

 「銀河を駆ける呪詛――あるいは味噌汁とカレ−ライスについて」における通信ネットワークシステムは、これこそSFの典型というべき整合性に対する留意が(つまり説明への意志が)明瞭である。理屈があるのである。

 かくのごとく、本短編集『銀河帝国の弘法も筆の誤り』はSFである。それも日本では珍しい典型的30年代スペオペの雰囲気を持ったSFであると私は思う。

 そういう意味で、編集による(のだろう)本書の「過剰な演出」(各作品ごとに付された冗談めかした解説)は全く不必要であった。
 個人的な読書という体験において、私は各短篇満足して読了し、さあ次はどんなおもしろい話を読ませてくれるのかなと期待してページを捲るたびに、要らずもがなの楽屋落ちめいた仲間ボメを読まされて、いちじるしく興趣を醒めさせられてしまったことであった。

 この本はSF作品集として充分自立的で、何の演出も必要としない立派な本だと私は思う。
 演出とは「お化粧」を施すこと。いわゆる「厚化粧」が自信のなさの表明であるなら、本書の「過剰演出」は編集者の自信のなさのあらわれなのかも知れない。それは1)著者田中啓文の作品に対する自信のなさということになるし、2)読者に対する自信のなさといえるかも知れない。

 編「ワシはオモロイと思うんやけど、このままスッピンで出すにはちと弱いかなあ、大体やね、この話一般の読者に理解できるやろか、どうも心配や、よし、そんなら太鼓持ち解説5本大奮発じゃ!」
 てな具合で出来上がったのなら(そんなことはないと思いたいが)、この演出自体が、作品(作者)と読者を愚弄している事にはならないのだろうか。

 こんなまっとうなSFを、仮にもハヤカワがなぜに色物扱いするかなあ、と私は悲しい。
 色物とは正統に対する異端の俗称であろう。「最高級有機質肥料」の伝統ある日本SF界において本書が異端の筈がないではないか。


藤本泉
『秘聞一向一揆』
(廣済堂ブルーブックス)

 作者はどうやらトロツキズムに好意的な意見の持ち主らしく、本書もヘテロ読誌で取り上げた『オーロラの殺意』同様、そういう「らしさ」が随所にうかがえる問題作であった。
 といってしかつめらしい小説では決してない、抜群のリーダビリティで読み始めたら決して読者をそらさない面白さに溢れている。

 ――戦国時代、加賀一向宗徒が守護富樫政親を倒して日本史上空前の宗教国家「百姓馬借の国」を打ち立てる経緯が、高麗王朝の宝探しあり、女真族の助っ人ありと、伝奇的ムードも絡めてドラマティックに描かれている。
 作者は加賀一向一揆衆に蓮如を批判させることで、宗教国家であるこの国に「百姓、馬借の国」即ち労農国家を投影していることは明らかである。

 しかしながら、本書の読みどころは主人公の女性の生きざまにある。これは凄い! 「オーロラの殺意」もそうだったが、男性作家の描く「願望的ヒロイン像」(たとえば「MGH」)に慣れた読者には、少なからざる衝撃があるはず。

 ところで、本書にトロツキズムの影をほのめかしたが、それをいうなら半村良の伝奇SF「妖星伝」に言及しないわけにはいかない。山野浩一が書いていたと思うが、「妖星伝」は永久革命がテーマである。
 私流に言い換えるなら永久革命の必然性とその不可救済性を見切った傑作SFである。

 後者の大局観において藤本泉は半村良に及ばないのだが、反面その純粋性によって半村に見られる日和見主義を回避し得ているように思われる。

 余談になるが、永久革命とは個人レベルでは「絶えざる自己否定」に対応するものだが、前言否定の積み重ねに基づくネバーエンディングストーリーである伝奇小説は、まさに永久革命を描くに相応しい小説形態であるのかも知れない。そんなことも読みながら思ったものであった。


福島正実編
『SFショートショート傑作集』
(秋元文庫)

 内田庶、福島正実、眉村卓、光瀬龍による54篇を収録。
 編者のまえがきによれば、このショートショート集は、北は北海道から南は沖縄まで、日本中の新聞のヤングのページに数年間にわたって掲載されたSFから選んだ傑作集ということ。
 眉村作品(7篇)のみ読む。

 冬の午後 → 冬の午後、水の張ってないプールでぼくらが体験したのは……ひとときの非日常。
 おくりもの → 大嫌いなライバルの少年がくれた誕生日のお祝いは……
 時間銀行 → 男は時間銀行員だと名乗った。時間が足りなくて困っている人に時間を貸し、あとで利子を付けて、時間が余っているときに少しずつ返してもらう、返さないときは寿命の最後の瞬間からさかのぼって、その分だけをいただくのだと説明する。ぼくは迷う……凝集されたSFの粋。
 晩めし → 勉強部屋から階下に降りる階段がなぜか反対で、とにかく降りると、そこは貧乏ながら会話の絶えない団らんだった。ぼくが二階へ上がり、振り返ると階段は元に戻っていて、階下から父母の諍い合う声が……あり得たかも知れない時間線。
 忘れもの → PTAの会合の日、友人たちと帰宅途中で忘れものに気づいたぼくは取りに戻るが……シュールな佳品。
 お客さん → そのお客さんは月に一回必ずわが家を訪れるのだった……理由の不在が恐いホラー。
 ボディガード → 大金持ちの山中氏がふつうの家事ロボットをボディガード用に特別に訓練したのだったが……皮肉なオチ。


筒井康隆
『国境線は遠かった』
(集英社文庫)

 筒井康隆の小説を読むのはずいぶん久しぶりである。それにしてもこの作品集の(69、70年頃)の筒井康隆は本当に面白い。当時はさほど気がつかなかったが、今読むと、いかにも才気ばしっている。才能がはじけ、ほとばしり出ている感じ。改めてこの作者の凄さを実感した。

 と同時に、作者が<経験>から小説を作っていくタイプではなく、仕込んだ<知識>から作っていくタイプであることが改めてよくわかった。

 「穴」は、集中のベスト作品。精神病院を抜け出した患者を捜しに院長の息子のおれは二人の患者を供に街へと出かけるが……。
 「夜を走る」は、禁酒中のアル中タクシードライバーのある一日。
 「たぬきの方程式」は、輸送宇宙船内でタヌキが檻から逃げ出し、女の密航者が発見される。密航者はタヌキがばけたのか? 方程式ものの設定を踏んだ切れ味鋭い(本集唯一のストレ−トな)短編SFの佳作。
 「欠陥バスの突撃」は、仕掛け(設定)がワンアイデアのSF的拡大だけなので、あからさまな分、小説としてはやせている。
 「ビタミン」は、コラージュ小説。ビタミンをめぐる虚実とりまぜた知識の断片のみで小説(?)を成立させてしまうセンスと剛碗には脱帽。
 「フル・ネルソン」も、何が何やら具体的なものは見えてこないのに、どんどんセンス・オブ・ワンダーが膨脹してくる。前作同様構成力を見せつける作品。
 「国境線は遠かった」は、「アフリカの爆弾」と同系列のナンセンスなドタバタもの。私はこの系列の作品群が、筒井のなかでは一等好きである。不機嫌さも高圧さもここでは姿を消していて(あるいはまだ姿を現しておらず)、他の誰でもない筒井康隆ワールドが融通無碍に開かれている。


眉村卓
『日課・一日3枚以上』第5巻
(真生印刷)

 今回は作品番号401から500までを収録。
 眉村さんのこのシリーズを読むときは、私は鉛筆を手にして読み始める。気に入ったのがあると、目次に印を打つのだ。100篇もあると、さすがに読了後、目次に戻ってタイトルを眺めても、内容を思い出せないことが多いからだ。
 今回、印を付したタイトルが30篇になった。いつもより多いのである。

411宝物との再会
415襖とハーモニカ
417半透明の弁

421蟻を見て
422助手席の男
423花の野原
424夜中のわらび餅
425勧誘の標的
427閉じ込められて……
428ユセムネ、ハナミシヤ、オンザノウ
429地上経由と地下経由
430男とビル
432無数のチャンネル

442話し手と聞き手
444壁に張る紙
445G氏のこと
446出してやる
447地下道で見た男
449人工音がなければ……
450コップを割る
452頑張ろう!
453気分レコーダー
454リタイヤ半年

458天与のとき
462机上の小人
464窓の赤い光
478天狗の絵の人相見
487愚痴男
488小さな駅で
494睡眠不足

 今回の特徴は気に入った作品が連続する傾向が現れたこと。たとえば421から432、442から454は殆ど途切れない。
 実はこれ、私の精神状態に相関するものなのだ。

 私は本集を一気に通読したわけではなく、何度かに分けて読み終えた。その<何度か>の読書場面において、私の心身の状態がつねに同一の条件であったわけではもちろんない。
 つまり私の側の事情で作品にA同期しやすい場合とB同期しにくい場合があったものと思われる。

 さらに思い起こしてみると、同期しにくい時の読みは、結果として「小説」の要素を重視していたように思われる。
 たとえば427の「閉じ込められて……」は最初、作家志望者が主人公の実に迫真的な不条理小説(幻想小説)なのだが、最後にいたってそれ自体が小説であって、(創作教室の?)先生が感想を述べるかたちで締めくくられるという、ある意味メタな構造を取るのである。

 本集にはこのような展開が実に多い。つまり幻想的世界が最後で現実的なけりを付けられてしまうのである。
 私の精神状態がBの場合、このような結末に同期できないのである。478「天狗の絵の人相見」では、圧倒的なホラーが展開される。凄いアイデアだと思う。ところが最後の最後で、作者が顔を出す。

 最後の3行は一般的見地からは不要だと思う。ところが本集の成立事情を考えると、この話は原則として特定単数の読者に向けて語られたものに他ならない。とすれば私の不満は実はお門違いなのである。最後は読者に対する語りかけなのだが、その「読者」に私は当然ながら含まれていないのだ。それが私に疎外感をもたらすのだろうか?
 その点、464「窓の赤い光」はメタ構造に持ち込まれず物語として終始するので申し分ないのだ。

 うーむ、難しい。

4月・5月

椎名麟三
『永遠なる序章』
(新潮文庫)

 新潮文庫版『重き流れのなかに』の収録作品はどれも傑作だった。本書はそれらの作品群(「深夜の酒宴」1947年2月、「重き流れのなかに」同年6月、「深尾正治の手記」1948年1月)にひき続いて1948年6月に書き下ろしで発表された長篇である。ほとんど同時期というわけで作品世界的にも引き継いでおり、そのあくまでも暗く観念的な小説世界を、極端に歪曲された奇怪な登場人物たちが徘徊する。

 作者は純文学界のヴァン・ヴォークトと言っても過言ではないのではないだろうか、本書もまことに謎めいた奇怪な話である。
 主人公は余命3ヵ月と宣告されてから突然「生の感動」とらえられ、その後自らの死にいたるまで関わった人々に、異様なまでに<献身>する。その姿は、私にはキリストを彷彿とさせる。本書は<終戦直後>という混乱期に現れたキリストの物語なのかも知れない。

 死の実感が生の感動を基礎付けるというのは、一見ありがちな展開である。が、小説として定着された具体的な生活世界の描写は、そのような通り一遍な評論家的感想を打ち砕いてしまう破壊力がある。
 前掲書同様「人生は偶然である」という実存的認識は引き続いているのだが、本書ではその偶然性を許容し肯定しているかのようにみえる。そのあたりが前著の作品群とは異なる点であろうか。そしてその分、衝撃力が減殺されているように私には思われる。
 このあと著者はキリスト教に接近していき、さらに肯定的な「美しい女」を書く。本書は『美しい女』と『重き流れのなかに』の中間地点的作品といえる。


グレッグ・イ−ガン
『祈りの海』
(ハヤカワ文庫)

 本書には、日本作家を読んでいるような肌触りがある。そう感じた。
 それはなぜだろうと考えてみるに、本書には英米SFに顕著な「私」に対する自信とでも言うべき強さ(が高じた傲慢さ)が感じられず、むしろ、極めて日本的な、と言えなくもない「私」に対する「距離」が読みとれるからであろうか。それは著者が西欧の辺縁オーストラリアの出身であることも、あるいは関係しているのかも知れない。

 本書の特徴は、英米的な疑いなき<自明な私>ではなく、<私>とはいかなる存在(状態)であるのか、あるいは、どこからどこまでが〈私〉という範囲であるのかという<私>の境界(限界)が考察されている点である。
 それは、本作品集のどの収録作品においても(多種多様なアイデアで読者を楽しませつつも)、結局人間とは何か、私とは何か、という問題に立ち還って来るという構成を取ることからも明らかである。少なくとも「私」を自明なものとして出発する従来の英米SFとははっきりと違うものを私は感じた。いやあ面白かった!!

「貸金庫」→私はこの作品が一番気に入った。自己の脳内に場所を失った<私>の意識は1000人の<仲間>に1000分の1ずつ場所を分けてもらってこの世に残る……ラストに感動! それにしても眉村さんにも同様のモチーフがあったような、というか書きそうな話ではある(>日記でアイデンティティを継続させる)。

「キューティ」→人間の生殖細胞から作り出されたキューティは、いかに人間そっくりだろうと、4才で「死ぬ」ように設定された人工のペット以外の何ものでもないはずだったが……これも眉村さんの<人外もの>に通ずる話。人間の共感能力は、人間の範囲をしばしば越境してしまう。範囲の確定しがたい曖昧とした、すなわち非常に日本的な感性を私は感じる。生物としてのヒトと人間はイコールではないのだ。

「ぼくになることを」→人間は、いかに頑健だろうと、30代を過ぎると脳は衰退しはじめる。あらかじめ脳に埋め込まれた<宝石>は、脳の最高の状態をコピーしたもので、その機能は永久に衰えない。人々は30前後で<私>を<宝石>にバトンタッチするのだが……トリッキーなオチ。いったい意識とは何だろうか?

「繭」→妊娠中のストレスはコルチゾールという物質を母体の血中に発生させる。胎児がそれを受けた時期の違いによって同性愛者、両性愛者、性同一性障害者が決定する。LEI社の新薬はコルチゾールが胎児に届かなくする効果があり、その結果脳のジェンダーと肉体的なそれと完全に一致する。すなわち現存する「変種」は抹消されるのだ。そのLEI社が何者かに爆破された……。(コーンブルースが言う)未来のスリック誌に載るような話。

「百光年ダイアリー」→ビッグクランチ(再収縮)を示す時間逆転銀河が発見された。その結果「未来の記録を知る」ことが可能になった。詳しい日記を付ければ詳しく、簡単にしかつけない人はそれなりに。だが記録を残していないことは?…… 珍しくアイデアストーリー。

「誘拐」→妻が誘拐される――正しくはネット上にある(私のイメージのなかの)妻のデータが……。肉体的に死んでも電脳空間で永遠に生きていける時代だが、しかしデータがなければ……私は身代金を払う(現実の妻は生きているのに!)。生体としてのヒトと「人間」の範囲を考察。

「放浪者の軌道」→突然、<観念>が空間的に巣くい始める(実体化する)。ある観念の(実体化した)空間に入り込むと、人間はその観念の虜になってしまう。観念の虜になってしまわないためには、観念と観念の境の細い通路(フリーウェイ)を常に移動していなくてはいけない。……ベイリーを彷彿とさせるアイデアストーリー(観念小説)。

「祈りの海」→神との一体感、法悦は単にプランクトンの排泄物が人間に多幸症的効果を及ぼす結果だった。オールディスならきっと手をたたいて喜ぶだろう、皮肉なアンチクライマックスがよい。

 他に、「ミトコンドリア・イヴ」、「無限の暗殺者」、「イェユーカ」。


フレドリック・ブラウン
『未来世界から来た男』
(創元文庫)

 第1部SFの巻>22篇
 第2部悪夢の巻>21篇
 ブラウン、やはり上手い。ブラッドベリは12才でも堪能できるが、ブラウンはせめて30を過ぎないと面白さ(読みどころ)が分からないのではないだろうか。私も若い頃はブラッドベリ派だったのだが、現在はブラウン派だな。


佐江衆一
『裸の騎士と眠り姫』
(文藝春秋)

 表題作は170頁の長中篇。歯槽膿漏と股間に生えたカビで余命の見えた男が、死ぬまでにマイホームをと、一念発起して土地を買う。ところがその土地は、市長が革新系に替わったため環境保全地区に指定される。売った不動産屋は夜逃げしてしまい、男は堀立て小屋を自力で建て、家族と共に立てこもる……

 シチュエーションは深刻で笑えないものである。しかし実際は、主人公を襲う病魔でも分かるように非常に極端な、一種ばかばかしい設定で、ドタバタ喜劇的な作りになっている。

 「裸の騎士」とは主人公の男のことで、だんだんと「壊れて」行くのであるが、男の、エスカレートしていく市や付近の住民に対する抗戦の姿は、まさに風車に挑んだかのラ・マンチャの男を彷彿とさせる。いや、もっとみじめか。
 最終的に家族も愛想を尽かして出ていくのだが、それも納得できる。
 とはいえ主人公のみじめさ、その駄目さ加減も含めて、私自身は非常に共感的に読み、身につまされた。

 30頁の幕間的短篇「小人の口上」は、リリパット国のその後を語ったユートピア小説?
 100頁の中篇「眠り姫」はどんどん太っていく女の話。
 どちらも極端な(反リアリスティックな)設定で、著者の糞尿に対する嗜好愛着がよく分かるとはいえ、凡夫の私には、ややついていけない話であった。

 全体に北杜夫のユーモア小説風のデフォルメなのであるが、もっと深刻である。
 著者の作品では『闇の向こうへ跳ぶものは』は読んでいたのだが、今回イメージが全然違っていた。こっちが本領かも知れない。


エーコ
『薔薇の名前』上下
(東京創元社)

 一冊の書物の存在が、大僧院を焼亡に至らしめる皮肉にして壮大な物語。たっぷりと堪能した。面白い!
 この書物(当然巻物である)、ほんとうに実在する(存在したことが確認されている)ものなのか気になったので、百科事典を牽いてみた。――「悲劇論についで喜劇を論じる第二部があったことは確実であるが、これは失われた」(エンサイクロペディア・ニッポニカ)とあった。なるほど、全く架空の書物ではなかったのである。架空の書物であれば、これはSFだと主張できたのだけど、というのは余談。
 それから文書館の蔵書の分類方法の解明は圧倒的であった。書庫について誰よりもよく知っている盲目の老僧ホルヘというのは、やはりボルヘスからきているのだろうか。

 犯行の<動機>がチマチマした個人的なものではなく、いわば世界観の犯罪であり、ある観念が個人を使嗾して行わせたものということもできよう。ともあれ中世の僧院を舞台に旧来の観念ときたるべきルネッサンスの観念がぶつかりあう<大きな>ミステリで、十分満足した。

 また本書は非常に視覚的な作品で、私は映画の方をまだ見ていないのだけれど、あたかもスクリーンを観ているように映像が目前に浮かんできた。これは映像化しやすかろうと思ったものだ。

 とにかくこれは面白かった!
 とはいえ万人にお勧めというわけには行かない。とりわけ謎解きの興味だけで読むと、少々かったるいかも知れない。この長篇、本格ミステリだけが目的なら、たぶんこれほどの厚さは必要ないのだ。謎解きミステリとしては過剰な部分が多い。

 ところが、この過剰な部分がわたし的には好いのだ。たとえばこの時代、イギリス人とかイタリア人といった<民族意識>というものが、現代ほど明確には意識されていない。そういったことがこの本では十分留意されているのである。
 また、科学的思考というものもまだ一般的ではなく、宗教的なものが非常に強く個人を規制していることがわかる。そういう世界でホームズ役のウィリアムは(ルネッサンスを体現しているともいえるが)一種精神的未来人といってもよい合理精神の持ち主として設定されている(でなければ推理小説にならない)。この辺は京極堂の設定と通ずるものがあるように思った(ワトソン役のドノソの娼婦への想いは、さすがにだるかったのだが、しかし見習い修道士という設定では当然の反応であるはずで、このかったるさも作者の計算の内ということかも知れない)。このような、一種<過剰>な部分が、本書に深い奥行きを与えているのである。


荒巻義雄
『空白の十字架』
(ノンノベル)

 <空白シリーズ>を全巻完集(!)したので、未読だった第一巻を読んでみた(第2巻「空白のアトランチス」と第3巻「空白のムー大陸」は既に読んでいる)。本書、石川喬司がカバーに「劇画世代のための楽しいSFロマン」などと書いていたので、ずっと敬遠していたのだ。今回読んでみて全然そのようなものではなかった。大体アクション場面は皆無なのだから。

 UFOと超古代史の知識を恣意的にかきまぜたペダンティックな会話や独白の間に、登場人物が東京と北海道を往還するだけの話(イギリスにも行きますが)なのである。というとミもフタもないが、実際そういう話なのだ。

 ところが、「それだけ」の話が、なぜかめっぽう面白いのである。文章も引き締まっていて(自己陶酔で弛んでいきがちな)著者の文章とは思えないほどである。
 本質的には冗談めいた設定で構築されているのであるが(たとえば印色入日子イニシキイリヒコをイニシ・キ(イ)リヒコと恣意的に区切って読ませ、イエス・キリストと似ているのは偶然の一致じゃないのである、とか)なぜか読まされてしまう。虚実の混ぜ方・シャッフルの仕方が絶妙なのだろうか。存外な拾いものだった。


豊田有恒
『進化の鎮魂曲(レクイエム)』
(トクマノベルズ)

 <進化>をテーマとする作品を集めた連作集。最初の生命藍藻から人類を経て未来の地球の支配者までを<進化>にポイントを絞って俯瞰する。
 巻頭の「進化の引金」はこういう話――
 地球上最古の生命とされる(核を持たない)藍藻は32億年前のものが確認されている。それは13億年を経た19億年前の藍藻と比べて全く違わない。つまり全然進化していないのだ。ところが真核細胞を持つ緑藻類が出現した9億年前から、進化は突然加速する。主人公は17億年前の<天然の原子炉>オクロ鉱山でその引き金を発見する……。
 この話が一番SF小説らしい。

 <進化>という超人間的な(人間の時間スケールとは桁違いの)ものを(人間の間尺に合わせた)小説として語るのだから、これは当然ながら折り合いが難しい。むしろNHKなどでよく見かけるCGを使った特別番組のシナリオっぽくなるのもある意味仕方がないのかも知れない。小説としてはうすっぺらいけれども、面白かった。

 大体において私の豊田読みは、「不満を感じ続けながらも読み終えて、結果オーライ」という感じになる。
 たとえば「倭王の末裔」は結果オーライのほうだが、最初SFMで読み、すごく興奮した(たぶん単行本の第一部の部分だった。単行本化するときに第二部を加えたのだと思うが、第二部は出来が良くない)。SFMヴァージョンのどこが良かったのかというと、ズバリ騎馬民族征服説という「アイデア」なのだ。それだけ。

 しかし、当時中学生の私には、騎馬民族征服説というのは(著者の独創ではないにせよ)、「度肝を抜かれる」、「常識を超越した」アイデアだったのだ、何せ万世一系と教えられた天皇家が、朝鮮半島から食い詰めてやってきた一種ゴロツキの頭目だったというのだから……まさにセンス・オブ・ワンダーだったのである。

 かくして「それだけ」で充分に<認識>を揺るがしてもらったので、あとはすべて許すという感じである。小説としての出来とかはもうどうでもよくなってしまったものだった。
 この辺がSF読み独特の感覚であって、SFの場合、小説がへたくそで眠気を我慢して読んでいると突然センス・オブ・ワンダーがはじけて、おお、とうなることが少なくないのである。これは一般の<小説好き>には分かりにくい感覚なのだろう。SFが一定の読者層以上に広がらないのはその辺に理由があるのかも知れない。


武光誠
『真実の古代出雲王国』
(PHPビジネスライブラリー)

 出雲は卑弥呼の時代より30年早く一国のまとまりが完成した。出雲の統一は、邪馬台連合の商業的契機による統一とは違って、大国主信仰に基づく宗教的統一であった。出雲は一国の範囲より拡大することはなかったが、大国主信仰は北九州から関東にまで広がった。
 日本神話の中で出雲神話の占める比率は高い。それは大和朝廷成立以前に出雲で生まれた大国主命信仰が、全国の人々に受け入れられていたことによる。大和朝廷も最初は大国主命と同一神である大物主神を祀った(のちに天照大神を作る)。このような下地のもとに大和朝廷内における出雲の特殊性(たとえば西郷信綱が構造論的に考察したような)が形成される。

 ――といったことを、荒神谷発掘以降の最新(1996年第1版)の考古学的知見にもとづいて考察している。
 著者は、私見では古田−安本二極体制(笑)以降ではずばぬけたポピュラー古代史家である。本書も比較的信用できる記述だと思った。

 従来、出雲古代史テーマとしては門脇禎二や松前健の論考が有名であるが、これらはもとより荒神谷以前のものだから、考古学的な裏付けが弱かった。本書ではその辺りがしっかりしているので、私などは本書を読むことで門脇説のよく判らなかった点が逆に理解できたように思う。
 読みやすく手頃な一冊。


眉村卓
『日課・一日3枚以上』第6巻
(真生印刷)

 作品ナンバー501から600まで。例によって、気に入った作品にチェックを入れながら読む。チェックした作品は、全部で22篇になった。

 508 切り換え機 >近未来社会テーマ。週3日労働制社会、4日の休日のあとの出勤日の悲喜劇。
 510 知っているか? >前半の夢の宇宙人の部分と後半の現実部分の対比が鮮やか。膨張させる通常のSF手法とは逆に、ズームをギュッと引き絞って余情を漂わせる。いい話。
 511 Dからの便り >寄せる波、あるいは満ち潮とともに海辺の廃屋にやってくる海の者たち。やがて波が引き、潮が引いていくとき……。SFの理屈と幻想怪奇が幸福な結婚をした幻想ホラーSFの精華。
 512 廃品回収車 >その廃品回収車はちゃんと読んだものほど高く買うのだった。異形としての廃品回収車。
 513 ある会話 >純然たるショートショート。人類を継ぐものを待つ宇宙人……
 519 ある性格 >純然たる小説。勝ち負けを生き甲斐に生きてきた男の皮肉な幸福。
 521 変化の日 >不況下、個人消費の底上げのためにと制定された「変化の日」だったが……
 525 仮校舎の二階から >ふと立ち寄った高校には、卒業後取り壊された筈の仮校舎が建っていた……。著者十八番のインナータイムトリップもの。
 526 たわごと >民話風味の奇妙小説。ご神体の大岩は日々縮小していく。しかし重さは変わらない。次第に地面に沈んでいく……
 527 〈部下〉屋 >部下屋と書くと奇抜だが、要は派遣社員であろう。派遣社員を本採用にしたとき……
 528 ペットボトルの水の味 >この結末はよく判らない。単純に考えていいのだろうか?
 532 ポストを追う >題名通り、ポストが逃げていく話。発端の不条理小説っぽい雰囲気がいい。
 535 非常餅 >大晦日、過去と現在が出会い、明けて元日、いい正月である。
 537 焚き火 >冬、海辺の淋しい町、海岸の焚き火、夕暮れ……。完璧なる怪奇幻想掌篇。
 542 季節外れ >「季節外れ」という名のレストランは、その名の通り、季節はずれな企画が売りだったが、それは他方商店街としてのトータルイメージを乱すものだった……
 544 店の終わり >馴染みのスナックが閉店するというので、男は顔を出すことにするが……。インナースペース・ファンタジーとも言うべき傑作掌篇。
 550 絵の中の仙人 >その仙人の挿絵は、主人公が読む本の中にあらわれ、消え去る。しかしまた別の本の中にあらわれて笑いかける。押絵と旅する男か観画談か……神仙小説。
 555 出勤前 >団地の入口で「ぼく」の前に突如あらわれた2人連れは、団地が戻ってきたと叫ぶ。彼らによれば団地は3年間消えていたというのだ。男が相手にしないでいると……。視点の位置が<認識の変容>を誘う多次元小説。
 588ケースの中の宇宙人 >たわむれに切り抜いてケースに入れた宇宙人が、仕事疲れでぼうっとなってくると……動き出すのだ。なぜ?
 594 ビデオカメラのニュータウン >そのニュータウンではだれもがビデオカメラを携行していた。明るい農村小説?
 596 赤信号と子供 >信号を無視して横断するとき、必ずその子供は現れた。サイコホラー?
 599 こんにちは >公務員を揶揄するショートショート。同感。

 とりわけ「Dからの便り」「焚き火」「店の終わり」はすばらしい。この三篇を読むだけでも本書を購う価値あり。

6月

中村雄二郎
『パトスの知――共通感覚的人間像の展開』
(筑摩書房)

 同一のテーマをめぐるエッセイ風論文集。パラパラ読んでいたら恰好の記述につきあたった。
 本書において、著者は、近年公害問題・環境問題などの発生によって絶対的な信仰を失いつつある<近代原理>に代わるものとして<パトスの知>なるものを提出しているのだが、その前に、まず<近代原理>即ち<近代科学の知>そのものを要約してみせる。これが実に過不足ない要約なのであって、著者によれば、「科学的知は実践的な関心に沿い、因果律に即して成り立っている」として次のように言う。(太字化、大熊。以下同様)

 《私たち近・現代人は、近代科学の分析的な知、機械的な自然観に基づく知によって、事物や自然をひたすら対象化し、事物や自然の法則を知ってそれを支配し、それに働きかけようとしてきた。そうすることによって、人間の支配圏と自由を拡大しようとしてきた。そしてたしかに、そのような近代科学の知にのっとった技術文明は、世界的な規模で衣・食・住にわたって人類の生活に大きな変革をもたらした。
 しかも近代科学の知と技術文明は、それらのもたらしたものが大きかっただけではなく、人間の営みの中で、ただ一つ永続的かつ無限に発展するものと見なされてきた。従って現在未解決の問題も、やがては科学によって解決されるものと考えられた。近代生理学や医学はまさにそのような能動的で楽天的な科学的知の所産であり、そこでは痛みや苦しみをなくし、病を排除することができると確信された。また技術文明に基づく生産力が崇拝されて、富の量的増大、生活の<文明化>が人類を貧窮と不幸から救うものと考えられた。》(34〜35頁)

 しかし現実はそういう方向にばかりは進まなかった――と、著者の考察はかかる近代知批判へと向かうのだが、それは只今の私の関心とは外れるので、とりあえず横に置いておきたい。

 わざわざ長文を引用したのは他でもないのであって、上の能動的で楽観的な<近代原理(近代科学知)>が、とりもなおさず初期SFの契機・根本原理でもあったのではないかと私が思ったからに他ならない。

 これまで私が読んできた1920年代、30年代のSFには(今月は下述するようにレイ・カミングスとエドモンド・ハミルトンを読んでみたが)、ほとんどセンス・オブ・ワンダーの香りはみとめられない。この時代のSF作家は、現代のSF作家のようにセンス・オブ・ワンダーを目的として書いていたわけではなさそうだ。

 では当時のSFの契機(もちろんそれは現代SFにも「原則的には」当てはまるものでなければならない)は何かと言うと、すなわちSFが他の夢物語やファンタジー(以降一括して<想像的物語>とする)と違うところは何かと考えると、当時のSFが、「現在未解決の問題も、やがては科学によって解決される」に違いないという信念、暗黙の了解事項によって成り立っているという、その一点においてではないだろうか。かかる一点においてSFは爾余の想像的物語と明確に区別されるのではないだろうか。

 たとえば、宇宙ロケット、タイムマシンという装置は異世界(想像的世界)へ向かうための道具であるが、この道具自体が既にして「現在はまだ存在してはいないが、やがては科学的技術的に存在可能ならしめられるに違いない」という「暗黙の了解」においてその存在を可能とさせられていることが明らかであろう(したがって、「ふっとめまいがして、気が付くと男は異世界にいた」という異世界移行はSFではあり得ない。ちなみにドラえもんはSFである。なぜなら「どこでもドア」の原理は全く説明されていないにせよ、それが未来(21世紀?)の製品である、という説明はあり、かかる説明こそ「現在はまだ存在してはいないが、やがては科学的技術的に存在可能ならしめられるに違いない」というSFの原理が疑いなく含意させられているからだ)。

 これを私は仮に<未来志向>と名付けたいと思う。<未来志向>はむろん<近代原理>とイコールで結ぶことができる。即ちSFとは<未来志向>を契機として成立する想像的物語と定義できるのではないだろうか。
 SFは実践的な関心に沿い、因果律に即して成り立っている科学的知を契機とする<近代原理>の成立によってはじめて存在し得た想像的物語の一変種、いわば「近代科学知の申し子」と言えるのではあるまいか。


レイ・カミングス
『時間を征服した男』
(ハヤカワ文庫)

 本書は1929年の作品。ちなみにガーンズバックによるアメージング誌の創刊が1926年であるから、ほとんどSF立ち上げ期の作品といえる。
 読んでみて、上述のSFの契機(未来主義)は本書においても一貫されている。

 主人公が二万八千年の未来へ向かうために作り上げたタイムマシンには原理的説明があり、「時間、空間、物体はわれわれの知覚する宇宙を構成する三大要素であり、これらは混ざり合っている。われわれが日ごろ体験する諸現象の基礎となる実在は、(……)これら三者全部の混合物なのだ。この統一されている原型を、われわれが勝手に時間だの空間だの物体だのという別の概念に分割して理解している」(10頁)というように、アインシュタインに発する「今はまだ存在しない」<未来科学>によって根拠付けられているのである。

 これは他の想像的物語においては決して見つからない理屈であり、まさにSFと<近代科学知>とのパラレルな関係性を明らかにしている。
 ただ本書においては、小説上の現在から二万八千年後の世界へ向かう時間旅行の「車窓の風景」が、比較的詳しく叙述されており、文明が進歩し頂点に達し、やがて退歩していく姿が描かれている。

 ところでこの描写は「永続的かつ無限に発展するもの」というテーゼに反する思考ではないかと疑問を持たれるかも知れない。
 それはある意味そうなのである。とはいえこのような<展開>も、突き詰めれば「近代科学知」の契機である「因果律」に従った結果であるともいえる。
 すなわち、かかる「通時的(因果的)」思考こそ、実は科学的思考に特有のものなのであって、それ以前の「神によって創造された人間」観からは絶対出てくることはない思考であることは疑いない。たしかに進化論は、「退化」を説明しうるのである。

 そういう意味で本書は、のちに盛行する「ディストピア小説」がやはりSFの範疇に含まれることを示すと共に、1929年という<SFの誕生>のほぼ同時期において、オプティミズムを乗り超える萌芽が認められる点においてなかなか示唆的である。

 このような次第で、本書は紛れもないSFである。とはいっても、面白い、面白くないは、また別問題。いや、若いとき読んでいたら面白かったと思いますが(^^;。


エドモンド・ハミルトン
『星間パトロール 銀河大戦』
(ハヤカワ文庫)

 本書は1929年にウィアード・テールズ誌に連載された<星間パトロール>シリーズものの長編で、ハミルトン25才(デビュー後3年目)の作品である。巻末の森優解説にあるように、E・E・スミスの<銀河パトロール(レンズマン)>シリ−ズに、9年も先立って書かれた元祖的作品なのだが、残念ながら面白さでは<銀河パトロール(レンズマン)>シリーズに遥かに及ばない。知名度・人気に於いて後塵を拝したのも当然と思われる。

 その理由は、上述のように、デビューしたての若書きのせいか、いまだ小説の体を成していない点。主人公の独白体で話が進行するのだが、語り口が非常に単調で、主人公に延々と粗筋を語らせているの感が強い。

 一応地球人の主人公にアンタレス人の金属人間とスピカ人の甲殻人間のトリオがメインキャラクターなのであるが、同じキャラ構成を持つのちの<キャプテン・フューチャー>シリーズ(キャプテン・フューチャー、ロボットのグラッグ、アンドロイドのオットー)に見られる自在な会話のやり取りの軽妙さはまだ現れていない。
 ラストの蛇宇宙人(これはなかなかよい)の最終兵器を破壊するため、ガス状生物のアンドロメダ人の太陽移動光線で星団の星ぼしが一個に凝集して燃え上がる場面は、なかなかに壮大ではあったが。

 さて本書も当然SFである。いや上のカミングス作品よりさらに楽観的(原型的)である。
 当時の宇宙科学の成果が作品世界構築に利用されており、「今はまだ人類は地球にとどまっているが、科学の進歩は人類を銀河系にあまねく発展させるに違いない」といった「科学によって人類文明は永続的かつ無限に発展するもの」という進歩史観によって(原理的に)根拠付けられていることを疑う余地はあるまい。

 さて、言うまでもなく上に述べてような定義論と小説としての面白さは、基本的には別物なのであって、「SFであるかどうかよりも面白いかどうかのほうが大事」といった(私などもよく遭遇する)ありがちな反応は、(発言者は意識していないだろうが)実は強引な関係付けによる詭弁なのであり全く根拠がない。当然ながらSFにも、面白いSFもあればつまらないSFもある、というのは全く当たり前ののことなのだが。


高井信
『ダモクレス幻想』
(出版芸術社)

 著者の小説は、雑誌掲載では昔読んだことがあるのだが、一冊を通して読むのは本書がはじめて。
 一読喫驚する。いや、こんなすごい作家だとは……。
 本書は、純然たる「日本人の自前のSF」であると思った。こういうタイプは、英米には見あたらないはず。

 山野浩一流に纏めると、第1世代は、欧米風の建て売り住宅に入居し、その不具合をどう日本風に改造していくかで、それぞれ独自性を出していったのに対し、つづく第2世代は、海外SFに(第1世代以上に)どっぷりと浸かりつつも、第1世代をお手本により日本的な方向に活路を開いていった。それは「等身大の作品世界」とも言うべき方向で、第1世代に比べてスケールが小さいともいえるが、逆に私たちの生活感覚に密着した作品世界を構築していった。たとえば梶尾真治や横田順彌がそう。

 著者は、この路線を極限におしすすめて、ひとつの完成型をなしえているように思われる。
 主人公の設定はおしなべて30才プラスマイナス10才の独身男性である。別に美形でもスポーツマンでもない全く平凡な男として描かれている。したがって、彼らの思考内容もその年代の者らしい実にありふれたものであり、SFに多い哲学的なものは一切出てくることはない。
 すなわち作品世界が非常に卑近である、といえよう。

 しかし、だからといってSF的展開部分の手を抜いているわけではない。というより、そういう卑近な作品世界から、なんの齟齬もなくSF的状況が立ち上がってくるのである。そこが凄い!
 SF的なアイデアストーリーとして実に秀逸で、SFの部分はしっかりSFしているのであるが、だからといってそれが(等身大の)作品世界と乖離しないのがすごい。

 カタチとしては、SF的現象が(社会や世界にではなく)あくまで個人に対して起こる(これが特徴と言えよう)。それが次第に周囲の現実を変容させてい過程で、笑いを誘ったり、同情を引いたり、あきれたりさせるのだ。
 この辺は眉村卓の手法をさらに徹底させているようなところがある。

 たとえば「ロ−ルプレイング・ワイフ」という話は、ロ−ルプレイングゲ−ムに嵌まった妻が、日常の行動にまでサイコロを振るようになるのだが、ここまでならよくできた拡大ネタものにおさまる。著者の真骨頂はここからで……現実までが変容していく内容は明かさないけれど、一種筒井的状況に立ち至るこの変容の理屈は、まさにSF以外の何ものでもないのである。

 とにかく、とても面白く、満足させてもらった。著者はアイデアストーリーを書かせたら当代屈指ではないだろうか。本書の10篇も面白くないものは皆無なのだが、とりわけ後半の5篇がわたし的にはツボだった。
 SF雑誌にあまり書かないせいか、著者の作品はSF読者への露出度が低い。これは非常に残念なことである。もっと目立ってほしい作家である。


依井貴裕
『歳時記(ダイアリイ)』
(東京創元社)

 まだ肯定と否定とが葛藤している(^^;。

 パズル小説である。そうとしか言いようがない。とはいえ、そこら辺にありふれたパズラーではない。
 「単なるSFではない」というお馴染みの言いぐさがあるが、そういう意味で単なるパズラーではないと言っているのではない。パズラーに徹し尽くして、他の要素は何もない――そういう意味。徹底的というか、突き抜けてしまっている。

 昔、井上秀雄が「三国史記」の倭に関する記述を、北九州の倭と半島の倭とに、あざやかな手際で解き分けたが、それをを思い出した。まさにマジシャンの手際!
 解決篇を読むと、たしかに手がかりはすべて公開されていて、注意深く読みさえすれば、だれでも真相にたどり着くことができる、ような気持ちにさせられる。もちろんムリなんだけど、読者にそう思わせるだけの周到さがある。面白い。手がかりを確認しながら再読すると、さらに面白いに違いない。


依井貴裕
『肖像画(ポートレイト)』
(東京創元社)

 ウーン、ややこしい。というか、かなり急いで読んだので完全には把握できてないのかも。
 先に読んだ『歳時記』よりは落ちるのではないだろうか。というのも『歳時記』と比べると少しアンフェア。

 たとえば、人物Aが、自分よりBに興味を示したCに対するちょっとした意趣返しのイタズラが発端になっていることが解決編で述べられるのだが、問題編には一言も言及がない(私の読み落としでないなら)。

 最大の難点は文章力。前作では文章の下手さが、逆に意図した文章の拙さを紛れこませて(木の葉は森に隠せ)、意図せざる(?)効果を上げていたのだが、毎度そんな訳にはいかないだろう。
 しかしながら冗長な文に焦れてとばし読みすると、手がかりも読み落としてしまう効果はあるかも(もちろん意図してはいないだろうけど)。
 ともあれ、<専門店>としてひとつのカタチ(売り)は持っている作家です。好感は持てます。


依井貴裕
『夜想曲(ノクターン)』
(角川書店)

 おお、そう来ましたか(^^;
 今回もすべての手がかりは提示されている。読者も手がかりを再構成すれば答えを出せるはず(現実的には無理だろうが)。
 私も(見かけ上)第3の殺人の<記述>の異質さには気づいていたのだが、そう来るとはね……マジシャンの手さばきに拍手を送るのみであります。

 ただし、作者は「トリックを成立させること」のみに知恵を絞って小説を作っているので、通常のミステリのように動機とかを忖度していては楽しめないのでご注意。最後のひっくり返しもあざやか。
 トリック(ミステリ)とアイデア(SF)が幸福な結婚を遂げた作品として、『密室・殺人』(小林泰三)に肉薄する怪作だと思う。


掲載 2001年2月6日、3月6日(2月)、4月4日(3月)、6月5日(4月・5月)、7月11日(6月)