ヘテロ読誌 |
大熊宏俊
|
2001年 ●上半期
|
|
1月 ●横田順弥 本書をひとことで言えば、ショ−トショ−トの積み重ねによる長編宇宙SF(?)といえるか。宇宙調査のために恒星間宇宙へと船出した宇宙船[スロッピイ号]の冒険(?)をショ−トショ−ト形式で綴っていくという試み。 したがってベスト5はオチの秀逸さで決まる(以下、掲載順)。 スペースオペラ(?)の開幕にふさわしい壮大(笑)なるオチ>「メッセージ」 ●柄谷行人 著者の論考には、常に刺激を受ける。その刺激は、私にはSFのセンス・オブ・ワンダーに似ているように思われる。 この瞬間、私は「あ、なるほど!」と膝を叩いたのだったが、この「なるほど」という言葉が含意する快感は、私の認識が<一般的理解>より高次のパースペクティブに移行した快感であることは疑いない。それはSFのセンス・オブ・ワンダーに等しい。もちろん、それは柄谷の解釈が事実かどうかとは、全然関係ないことである。 もうひとつ――これは以前から気にしてはいたのだが、現象学的還元において自然的態度をカッコで括るその「私」の根拠は、一体どこに求められるのだろうか、という根源的疑問に対して実は目をつぶっていた。というか、考えても分からなかった。 著者が鋭いのは、そのうえに「現象学そのものをもたらすようなその「場所」は、現象学的な対象ではありえない」ことを論理的に導いている点であろう。 かくのごとく「場所」という概念の導入で、フッサ−ルのなかにシュッツとメルロ=ポンティと(したがって構造主義人類学と)を畳み込んでしまう強腕は、まさにこの上ないセンス・オブ・ワンダーではないだろうか! ●眉村卓 教育テレビで表題作がドラマ化された。眉村ジュブナイルとしては久々のTVドラマ化である。 「まぼろしのペンフレンド」>主人公とコミュニケーションをとるうちに、しだい次第に人間らしくなっていくオリジナルアンドロイドの本郷令子が可哀想でいじらしい。著者はロボットや宇宙人など<人間以外>を描かせたら天下一品である。この素晴らしい話を、テレビドラマはどう料理していくのだろうか、興味津々。 「テスト」、「時間戦士」は、ともに主人公は<決断>(前月掲載『ねじれた町』参照)をせまられる。 角川文庫版の本書は絶版であるが、表題作はハルキ文庫『閉ざされた時間割』で読むことができる。 ●佐治芳彦 ミステリの愉しみの原理は、作者が作中にばらまいた諸<手がかり>から探偵(読者)が真犯人を特定する(あるいはトリックを見破る)、一種帰納論理の愉しみであるといえよう。もちろん作者の側から言えばそれは逆で、まず「真犯人ありき」(あるいはトリックありき)なのであって、真犯人を真犯人たらしめるための(トリックをトリックたらしめるための)諸<手がかり>が演繹的に考えられ、(ミスディレクションも含めて)作中にばらまかれるのである。すなわちミステリ作家自身の創作の愉しみは演繹的であることになる。 超古代史の愉しみ方は、ミステリ作家の愉しみに近い。というかミステリ作家の創作過程を追体験する愉しみに近い。本書で言えば、古史古伝のひとつ宮下文書が正しいとしたら、それはどのような条件においてであるか、という命題に対して作者が提出する諸<仮説>を愉しむのである。 その為に作者は、それを担うにたる理屈を古今東西の資料から探してこなくてはならない。その意味で、閉鎖系で成立するミステリとは逆に超古代史は開放系において存立しうる。 もちろん超古代史の作家たちが皆この原理に気づいているわけではなく、いわば「信念」派の人もいるわけで(歴史物で言えば郷土史家に対応)、そう言う人の作物は当然面白くない。 ●奥村宏 現代の日本社会は「会社本位」社会であり、「会社絶対主義」とでもいうべき原理で貫かれている。これを法人資本主義として著者は規定する。 これは日本独自の存在形態であり、これによって70年代の日本の繁栄はもたらされたのだが、株式相互持ち合いは虚構の株価つりあげを招来し80年代の「大投機時代(バブル)」へと走らた(株主割り当て・額面発行から時価発行増資への移行)。 その結果大企業の管理主義に破綻が生じ(4大証券と発行会社によって管理されていた株式の需給関係が管理不能となり)、ついに90年の株価大暴落に至る。91年の証券スキャンダルも管理不能化の結果であり、法人資本主義(会社本位主義)そのものがひびわれを呈し始めていると著者は言う。 すなわち日本的な(出世原理とノルマ制による)会社本位主義では立ちいかなくなっているのであり、新しい企業像が模索されねばならないと著者は提言する。著者によれば個人レベルでは会社人間からの脱却、企業レベルでは大企業の解体による「第3のイタリア」的方向への移行によってフォ−ディズム(大量生産・大量消費主義)時代の終焉に、日本は適応していくべきではないかと示唆する。 かかる結論はありきたりだが、法人資本主義の分析自体は明快で刺激的。実に体系的な所論であり、読んでいて頭がすっきりする。本書の論の進め方にも、私はセンス・オブ・ワンダ−を感じてしまうのである。やはりセンス・オブ・ワンダーはSFの専売特許ではないのかも知れない。 ●永瀧五郎 「大阪物語ともいうべきドラマも、文筆家が書く大阪紹介も、学識経験者という人々の大阪論も、大阪と言えば横堀川であり船場だ。北は曽根崎あたりから、南は難波・天王寺である。東は上町・寺町・地蔵坂だ。大阪の西は全く紹介されていない。それは知らないのだと思う。俗に築港線と言われる野田・福島・川口・本田・九条・松島・市岡元町・夕凪橋など、特に市岡元町については、その紹介も皆無に等しい。心斎橋や道頓堀だけが大阪ではない。」と、著者はいう。 「沼を埋め立てて市岡新田を整地し、住宅が建ちはじめた大正末期から、遊園地・市岡パラダイスを中心に住みよい場所として繁栄した市岡を紹介しないといけない[……]誰も知らない、誰も書かなかった、いや誰も書けない市岡の、昭和元年から戦争の始まる昭和16年までの、市岡の歴史というものを紹介したい。」という意図でまとめられたのが本書である。 著者は放送作家だがもともとは市岡にある寺の次男坊で、市岡界隈に暮らした(最初の確かな記憶のある)6才から(応召して入隊する)22才までの16年間の、いわば青春記である。 持ちネタを全部著者の前で演じて、 実は私は本書にも出てくる「野田の藤」の下福島公園のとなりに18才まで住んでおり、そして、 ●浅暮三文 第1世代のそれを継承する正真正銘のジュヴナイルである。 ●井上俊夫 今でこそ影もかたちも判らないが、明治の末まで、堂島川を挟んで中之島の対岸の堂島は、文字通り〈島〉だったのである。 本書の見開きにのせられた古地図を見ると、堂島川に掛かる大江橋のすこし東側、ちょうど裁判所のあたりで堂島川から北西方向へ別れた蜆川は北新地の南側を流れて、桜橋の交差点の南辺で南西へ方向を変え、阪大病院の北側を過ぎ、本遇寺の前辺りを通って、下福島公園の手前、堂島大橋で再び堂島川に合流していたようだ。 深夜の堂島新地を/辛うじて脱出した/天満屋の遊女お初と/その馴染み客、醤油屋の手代徳兵衛は/蜆川にかかる梅田橋を渡り/北岸の堤防づたいに曾根崎の森へぬけでて/そこで心中をとげる[……]。(13頁) 本書は近松や西鶴を読み込んだ筆者が、その作品群に材をとって自在に空想の世界に飛翔し、かつ現代人の目からみた疑問点を追求する、遊び心に溢れた本である。多彩で華麗なエッセイと詩文で構成されていて読者を飽きさせない。 著者に触発され、私も少し遊んでみた。 前掲の古地図を見ると、現在の梅田からはかなり西に外れていて、梅田橋を渡って右(東)に行けば浄祐寺、左(西)に行けば上福島天神となっている。 お初と徳兵衛は、阪大病院跡から蜆川の堤沿いに、とぼとぼと、曾根崎の森いわゆるお初天神まで歩いて行くのだが、大阪の方はお分かりでしょうが、これはなかなかの距離である。死にに行くのであるから、足も遅れがちだろう。小一時間はかかったのではあるまいか。 お初と徳兵衛は梅田橋で7つの時(午前3時)の鐘をきいている。とすれば、お初天神に着いたのはおそらく午前4時前。季節は旧暦4月の夏の初めであるから、もう少ししたら東の空が白んで来ようかという刻限である。案の定鶏も鳴き出した。 ところが徳兵衛は手が震え目も眩んで、刀が左右にぶれてなかなかお初を刺し殺せない。おそらくお初は何カ所も浅傷を作られ血みどろの凄惨な姿だったのではないかと思われる。もはや真っ暗闇ではない暁のほの白さの中で、徳兵衛にもお初の血まみれのあわれな姿はうっすらと見えていた可能性が高いのではないかと私は想像したのだが、さて実際はどうだったのだろう? ●東秀三 本書は大阪に縁のある文学作品を網羅的に紹介していて興味深い。 たとえば平成3年の直木賞作品である古川薫『漂泊者のアリア』(文芸春秋)は、オペラ歌手の藤原義江の話である。義江は下関の琵琶芸者とスコットランド人の間に生まれたハーフであるが、父親に母親ともども捨てられ大変な辛酸を舐める。小学3年生の時大阪に出てきて、母親は北新地で琵琶芸者を始め、義江は学校へも行けず仕事を転々とする。 貿易会社のボーイをしているとき、父親が下関で羽振りがいいと分かって夜汽車で一人会いに出かける。結果は惨めで父親は会ってもくれず、「まるで荷物のようにまた同じ鉄道を走る列車に乗せられて」大阪へ追い返される。夜汽車で眠っていた義江は、姫路まで来たとき「大阪北区は昨夜からの大火で、目下延焼中です」という車掌の知らせを聞くのだが、この大火こそ明治42年7月31日の北の大火として有名な、通称天満焼けである。 空心町から出た火は折からの東風にあおられて西へ西へと燃え広がり、福島区までを総なめにして1万1365戸を焼きつくしたという。 ――さて、現在の北新地は四つ橋筋と御堂筋の間であるが、消滅した曾根崎新地は、桜橋の西側が中心だったようだ。 ●大谷晃一 本書によると、「曽根崎心中」の成功を期に、近松は京都から大阪(天満)に移ってくる。宝永二年(1705)近松53才のことである。これから20年間近松は主に竹本座のために浄瑠璃を書き続けるのだが、おりしもこの間に曾根崎新地が開発され、遊里は堂島から次第に曾根崎新地へ移っていったのだという。 つまり、お初徳兵衛の頃はまだいわゆる曾根崎新地はなかったのだ。殷賑を極めたのは天満屋のあった堂島新地すなわち蜆川の南岸だったのである。 だからこそ、梅田橋を渡ったお初と徳兵衛に、近松は南岸のどことも知れぬ店での遊女と客の狂態を振り返らせているわけだ。 ところで、本書には西鶴も取り上げられているのだが、この本に描かれた西鶴と、眉村さんとがなんかよく似ているのでニヤリとしている。 あるとき西鶴は、24時間に俳句(俳諧)を何句詠めるかという、ヘンな試みをした。1600句一人で詠みきった。これが評判になった。評判になると対抗する者が現れる。西鶴の記録を破る。 かたや眉村さんも、現在「日課・一日3枚以上」に挑戦中で、平成9年7月16日から今日まで、一日たりと欠かさずショートショートを書き続け、遂に3年6ヶ月・1280日に達した。 こういう(どうでもいい)制約を自作に課すことが、眉村さんにはよくある。ある意味<無意味>な「こだわり」が、眉村さんはお好きなようだ。もちろん病床の奥さんに毎日自作を読んで差し上げることが無意味なことだと言っているのではない。<無意味>な「こだわり」では語弊があるなら、<稚気あふるるこだわり>と言い換えよう。 西鶴の「負けず嫌い」も、眉村さんのそれと同じものではないだろうか? ●眉村卓 本書には、平成10年5月12日から8月19日までの100編が収録された。通番では301から400である。 ライターのコレクション>Qさんの気持ちの変化が簡潔に、しかしあざやかに語られる。 |
●吉田知子 短篇集だが、作中話者の名前(頭文字)が共通していたりして、一種内的連作集といえる。 案の定もどかしい曖昧さがあり、輪郭の画然としない遠近法の欠如があり、読者は終始ぬかるみに足を取られたような感覚から逃れられない。そのような世界が次々に立ち現れる。 そして、最後にオチがつく場合とつかない場合がある。 祇樹院/迷蕨/門/海梯/お供え/逆旅/艮 ●山田正紀 著者十八番の「素人チ−ムがプロに勝つ」ノンストップアクション小説――というよりも字で書いた映画というべきか。 実は本書、意識して映画を見るようなつもりで読んだ。著者がそのようなものとして書いたことは明らかだからだ。 そしてそれはたしかに正解だったと思われる。 ●藤本泉 山田作品が面白かったので、今回も映画を見るつもりで本棚(というか段ボ−ル箱)を物色していたら本書が出てきた。山田作品同様の、シベリアが舞台の冒険小説かと読み始めたら、全然違った。切実な話である。これは読み飛ばしできない。 極北の民族シュチーヤ族の描写が克明で、一種ルポルタージュを読んでいるような印象。ストーリーも小説の作りとしては目的性に欠け(つまり作り物らしくなくて)体験談を下敷きにしているのではないかと思わせるふしがある。 旧ソビエトの少数民族問題を取り上げて、本来の共産主義(もちろん世界革命を契機とする)から道を外れてしまったソ連という「ロシア国家」を批判している。共産主義とは名ばかりのロシア民族国家を糾弾している。 しかしながら、著者が本書においてスターリン主義の対極に称揚する原始共産制は、もとよりトロツキーが志向した共産主義とは別物であるはずで、おそらく著者はシュチーヤ族の社会制をいつのまにか理想化してしまっている。上に克明な描写と書いたが、この部面に関しては事実を<解釈>して描いているように思われる。 一種神話的な荘厳な物語であった。 ●山田正紀 字で読む航空アクション映画である。 今回は(航空アクションという制約のせいか)登場人物たちの肉体的な動きが少ない。そのうえ行為が描写されず説明される。これは山田正紀の低調なときの特徴である。案の定変に内省的で暗く、華に乏しい。なかなかのっていけなかったのだが、終盤に俄然盛り上がって何とか着地。まあよしとしよう。 今回も内面説明文は読み飛ばしたのだが、次の一文はあまりにも面白かったので引用する。ハイジャックされた旅客機内でなされたスチュワーデスとハイジャッカーのやりとり(65頁)。 (引用始)「どうも嫌なことをさせて申し訳ありませんでした、恵子さん」ホセが恵子の手から受話器を取り、そう優しい声でいった。 このくだりを読んで、さすがに私も笑ってしまった。もちろん笑いを取ろうとして書かれたものではないことは明らかである。印象だが、こういう例が山田正紀には多く見られるような気がする。筆が滑ったのだと思うが、案外そんな部分に作者のホンネが現れたりするのではないだろうか? 藤本泉の苛烈な女性観を読んだ後なので殊更気になってしまった。 ●宮本昌孝 これは面白い。 歴史小説的なアイデアも秀逸で、謙信庇護下の越後幕府構想とか尊氏西国落ちのひそみにならって倭寇を巻き込んでの捲土重来作戦とかは、おお、と肌に粟を生じさせるほどのインパクトがあった。 とはいえ、義輝に感情移入して読んできた私は、終盤に来て<歴史的事実>にどんどん屈服していくストーリーがやけに悔しかったりするのだった。せめて義経がモンゴルに逃れたり為朝が琉球に逃れたように、小説の掉尾に、一説としてでいいから倭寇船に救出された義輝が後年東シナ海に活躍したという類の憶説を、著者は仄めかしてくれてもバチはあたらんだろう、と恨まずにはいられないのであった。 ●吉田知子 著者最初期の作品が集められている。 「寓話」は書の大家の話。非常に視線が意地悪で、私は筒井康隆を連想したのだが、昭和41年に発表された本篇に筒井が影響を及ぼした可能性は低そうだ。もともと資質が似ているのかも知れない。同い年だし。 「豊原」は植民地小説。終戦前後の樺太が舞台である。著者も一時期過ごしたことがあるのだろう、郷愁と嫌悪がない交ぜになった筆致である。リアリスティックな自然主義小説と思いきや、この著者がそんな生易しいものを書くはずもない。世界はどんどんよじれていき、引き上げのその日に死ぬ主人公の母親の姿は圧巻である。 「静かな夏」は、これも奇妙な小説である。小さなスーパーに勤める女の日常? 今となっては60年代という時代色が滲み出ているが、それは作者の意図外だろう。 「終わりのない夜」は、『お供え』などの近作に通じる悪夢小説。曖昧とした不思議な<夜世界>を話者の私は歩き続ける。 「生きものたち」では、一転して河野典生『街の博物誌』風の淡い世界が点描される。が、もちろんそこはこの著者である。河野よりもダークで突き放している。 「わたしの恋の物語」は金井美恵子風実験小説。しかしながら成功しているとは言いがたい。抽象化を得意とする金井とは資質が違うのだろう。 「無明長夜」は本書中では一番長い。しかも女性の「ですます」調の独白文であるせいか、緊張感に乏しいというか、冗長である。上で抽象化と書いたが、著者はこの作品に限っては思いついた設定(世界)自体に圧倒されてしまっている。本当は組み伏せてしまわないといけないのだが、その辺の操作が少し甘かったのではないだろうか? バラエティに富んだ作品集であるが、逆にいえば、まだ自分の場所を発見できず試行錯誤しているということかも。そういう意味では全体に習作という印象を拭いきれないが、「静かな夏」や「終わりのない夜」が本領なのだろう、前段で取り上げた『お供え』など近年の作風はこの延長線上にあるようだ。 ●小川一水 パニック映画には、救出される側からではなく、救出する立場から描いたものがあるが、本書はその小説版。 惜しむらくは小さくまとまってしまった。山田正紀だったらたぶんヘリをもっとバージョンアップさせるだろう(超越性の獲得)。そのあたりのつきぬけ方(ホラの吹き方)が奔放でなく、その分作品的にも大人しめになっているのが、個人的には残念に思った。 |
●森内俊雄 前に読んだ『晒し井』という長篇がよかったので、期待して読んだのだが、これは期待はずれだった。 ●クライン・ユーベルシュタイン この小説が好きで、今回が四読目の筈。 ――南極で直径20キロもある巨大な円筒型の建造物が発見される。この円筒、実は宇宙人が建造した重力波検出装置で、宇宙人は遥かな昔からこれで人類の進化を制御していた。 円筒は長大で、下端が地球内核の流体部分にまで達している。それが宇宙人の送り出す重力波に感応して振動し、地球内核の流体を攪拌する。 寒冷化は人間の細胞膜を厚くし、耐寒性を増すためにACTH(副腎皮質刺激ホルモン)が多量に作り出され、その分だけ脳の機能を活性化するβ−MSHホルモンの量が減り、すなわち人類は耐寒性と頭脳の働きとをトレ−ド・オフされる。このメカニズムを使って人類はコントロールされていたのだ! 気宇壮大な話である。 以前読んだときはそのばかばかしいほどの壮大さに感動(?)したのだが、今回読み返しは苦しかった。上述以外にも面白いアイデアがいっぱい出てくるのであるが、それらが全然有機的に絡み合っていかず、ある種アイデアの見本帳という感じ。もっとうまく書けば傑作になったのに、という感想は初読以来変わらない。 ●田中啓文 というふざけた表題とは裏腹に、本書は、実に懐かしい30年代SFを彷彿とさせる元気あふれる作品集だと私は思った。駄洒落に充ちた外見に騙されてはいけない。本書にはパルプ雑誌風のカバ−画そのままにごきげんな古き良きスペ−スオペラの香りが満ちている。 本書には人類圏シリ−ズとも言うべきひとつの設定された宇宙を共有する作品が集められている。 もちろんSF(スペオペ)としても良くできていて、脳たちの記憶が実体化する因果関係はきちんと説明されているし、最後に明かされる<ファントム>(バーサーカーを彷彿とさせる)の起源説明には、まさにアッと驚かされるセンス・オブ・ワンダーがある(しかもこの結末は映画スタートレック第1作の<ヴィージャー>へのオマージュになっている)。 「銀河帝国の弘法も筆の誤り」は、これぞ本集唯一の駄洒落小説。 「火星のナンシ−・ゴ−ドン」も、最後のオチ(駄洒落)に向かって収斂していくだけの駄洒落小説というには、あまりにもその過程が豊穣である。 「嘔吐した宇宙飛行士」も、外見とは裏腹に内実はしっかりと構成されたスペオペの典型作である。時間経過に矛盾があるが、前半の鬼軍曹による部下いじめのモチーフは、スペオペではおなじみの掛け合いであるし、後半の放浪から救出されるにいたるまでの顛末も、いちおう説明がなされている。「それは生物学上の奇跡としか言いようがなかった」というのももちろん説明なのである。 「銀河を駆ける呪詛――あるいは味噌汁とカレ−ライスについて」における通信ネットワークシステムは、これこそSFの典型というべき整合性に対する留意が(つまり説明への意志が)明瞭である。理屈があるのである。 かくのごとく、本短編集『銀河帝国の弘法も筆の誤り』はSFである。それも日本では珍しい典型的30年代スペオペの雰囲気を持ったSFであると私は思う。 そういう意味で、編集による(のだろう)本書の「過剰な演出」(各作品ごとに付された冗談めかした解説)は全く不必要であった。 この本はSF作品集として充分自立的で、何の演出も必要としない立派な本だと私は思う。 編「ワシはオモロイと思うんやけど、このままスッピンで出すにはちと弱いかなあ、大体やね、この話一般の読者に理解できるやろか、どうも心配や、よし、そんなら太鼓持ち解説5本大奮発じゃ!」 こんなまっとうなSFを、仮にもハヤカワがなぜに色物扱いするかなあ、と私は悲しい。 ●藤本泉 作者はどうやらトロツキズムに好意的な意見の持ち主らしく、本書もヘテロ読誌で取り上げた『オーロラの殺意』同様、そういう「らしさ」が随所にうかがえる問題作であった。 ――戦国時代、加賀一向宗徒が守護富樫政親を倒して日本史上空前の宗教国家「百姓馬借の国」を打ち立てる経緯が、高麗王朝の宝探しあり、女真族の助っ人ありと、伝奇的ムードも絡めてドラマティックに描かれている。 しかしながら、本書の読みどころは主人公の女性の生きざまにある。これは凄い! 「オーロラの殺意」もそうだったが、男性作家の描く「願望的ヒロイン像」(たとえば「MGH」)に慣れた読者には、少なからざる衝撃があるはず。 ところで、本書にトロツキズムの影をほのめかしたが、それをいうなら半村良の伝奇SF「妖星伝」に言及しないわけにはいかない。山野浩一が書いていたと思うが、「妖星伝」は永久革命がテーマである。 後者の大局観において藤本泉は半村良に及ばないのだが、反面その純粋性によって半村に見られる日和見主義を回避し得ているように思われる。 余談になるが、永久革命とは個人レベルでは「絶えざる自己否定」に対応するものだが、前言否定の積み重ねに基づくネバーエンディングストーリーである伝奇小説は、まさに永久革命を描くに相応しい小説形態であるのかも知れない。そんなことも読みながら思ったものであった。 ●福島正実編 内田庶、福島正実、眉村卓、光瀬龍による54篇を収録。 冬の午後 → 冬の午後、水の張ってないプールでぼくらが体験したのは……ひとときの非日常。 ●筒井康隆 筒井康隆の小説を読むのはずいぶん久しぶりである。それにしてもこの作品集の(69、70年頃)の筒井康隆は本当に面白い。当時はさほど気がつかなかったが、今読むと、いかにも才気ばしっている。才能がはじけ、ほとばしり出ている感じ。改めてこの作者の凄さを実感した。 と同時に、作者が<経験>から小説を作っていくタイプではなく、仕込んだ<知識>から作っていくタイプであることが改めてよくわかった。 「穴」は、集中のベスト作品。精神病院を抜け出した患者を捜しに院長の息子のおれは二人の患者を供に街へと出かけるが……。 ●眉村卓 今回は作品番号401から500までを収録。 411宝物との再会 421蟻を見て 442話し手と聞き手 458天与のとき 今回の特徴は気に入った作品が連続する傾向が現れたこと。たとえば421から432、442から454は殆ど途切れない。 私は本集を一気に通読したわけではなく、何度かに分けて読み終えた。その<何度か>の読書場面において、私の心身の状態がつねに同一の条件であったわけではもちろんない。 さらに思い起こしてみると、同期しにくい時の読みは、結果として「小説」の要素を重視していたように思われる。 本集にはこのような展開が実に多い。つまり幻想的世界が最後で現実的なけりを付けられてしまうのである。 最後の3行は一般的見地からは不要だと思う。ところが本集の成立事情を考えると、この話は原則として特定単数の読者に向けて語られたものに他ならない。とすれば私の不満は実はお門違いなのである。最後は読者に対する語りかけなのだが、その「読者」に私は当然ながら含まれていないのだ。それが私に疎外感をもたらすのだろうか? うーむ、難しい。 |
●椎名麟三 新潮文庫版『重き流れのなかに』の収録作品はどれも傑作だった。本書はそれらの作品群(「深夜の酒宴」1947年2月、「重き流れのなかに」同年6月、「深尾正治の手記」1948年1月)にひき続いて1948年6月に書き下ろしで発表された長篇である。ほとんど同時期というわけで作品世界的にも引き継いでおり、そのあくまでも暗く観念的な小説世界を、極端に歪曲された奇怪な登場人物たちが徘徊する。 作者は純文学界のヴァン・ヴォークトと言っても過言ではないのではないだろうか、本書もまことに謎めいた奇怪な話である。 死の実感が生の感動を基礎付けるというのは、一見ありがちな展開である。が、小説として定着された具体的な生活世界の描写は、そのような通り一遍な評論家的感想を打ち砕いてしまう破壊力がある。 ●グレッグ・イ−ガン 本書には、日本作家を読んでいるような肌触りがある。そう感じた。 本書の特徴は、英米的な疑いなき<自明な私>ではなく、<私>とはいかなる存在(状態)であるのか、あるいは、どこからどこまでが〈私〉という範囲であるのかという<私>の境界(限界)が考察されている点である。 「貸金庫」→私はこの作品が一番気に入った。自己の脳内に場所を失った<私>の意識は1000人の<仲間>に1000分の1ずつ場所を分けてもらってこの世に残る……ラストに感動! それにしても眉村さんにも同様のモチーフがあったような、というか書きそうな話ではある(>日記でアイデンティティを継続させる)。 「キューティ」→人間の生殖細胞から作り出されたキューティは、いかに人間そっくりだろうと、4才で「死ぬ」ように設定された人工のペット以外の何ものでもないはずだったが……これも眉村さんの<人外もの>に通ずる話。人間の共感能力は、人間の範囲をしばしば越境してしまう。範囲の確定しがたい曖昧とした、すなわち非常に日本的な感性を私は感じる。生物としてのヒトと人間はイコールではないのだ。 「ぼくになることを」→人間は、いかに頑健だろうと、30代を過ぎると脳は衰退しはじめる。あらかじめ脳に埋め込まれた<宝石>は、脳の最高の状態をコピーしたもので、その機能は永久に衰えない。人々は30前後で<私>を<宝石>にバトンタッチするのだが……トリッキーなオチ。いったい意識とは何だろうか? 「繭」→妊娠中のストレスはコルチゾールという物質を母体の血中に発生させる。胎児がそれを受けた時期の違いによって同性愛者、両性愛者、性同一性障害者が決定する。LEI社の新薬はコルチゾールが胎児に届かなくする効果があり、その結果脳のジェンダーと肉体的なそれと完全に一致する。すなわち現存する「変種」は抹消されるのだ。そのLEI社が何者かに爆破された……。(コーンブルースが言う)未来のスリック誌に載るような話。 「百光年ダイアリー」→ビッグクランチ(再収縮)を示す時間逆転銀河が発見された。その結果「未来の記録を知る」ことが可能になった。詳しい日記を付ければ詳しく、簡単にしかつけない人はそれなりに。だが記録を残していないことは?…… 珍しくアイデアストーリー。 「誘拐」→妻が誘拐される――正しくはネット上にある(私のイメージのなかの)妻のデータが……。肉体的に死んでも電脳空間で永遠に生きていける時代だが、しかしデータがなければ……私は身代金を払う(現実の妻は生きているのに!)。生体としてのヒトと「人間」の範囲を考察。 「放浪者の軌道」→突然、<観念>が空間的に巣くい始める(実体化する)。ある観念の(実体化した)空間に入り込むと、人間はその観念の虜になってしまう。観念の虜になってしまわないためには、観念と観念の境の細い通路(フリーウェイ)を常に移動していなくてはいけない。……ベイリーを彷彿とさせるアイデアストーリー(観念小説)。 「祈りの海」→神との一体感、法悦は単にプランクトンの排泄物が人間に多幸症的効果を及ぼす結果だった。オールディスならきっと手をたたいて喜ぶだろう、皮肉なアンチクライマックスがよい。 他に、「ミトコンドリア・イヴ」、「無限の暗殺者」、「イェユーカ」。 ●フレドリック・ブラウン 第1部SFの巻>22篇 ●佐江衆一 表題作は170頁の長中篇。歯槽膿漏と股間に生えたカビで余命の見えた男が、死ぬまでにマイホームをと、一念発起して土地を買う。ところがその土地は、市長が革新系に替わったため環境保全地区に指定される。売った不動産屋は夜逃げしてしまい、男は堀立て小屋を自力で建て、家族と共に立てこもる…… シチュエーションは深刻で笑えないものである。しかし実際は、主人公を襲う病魔でも分かるように非常に極端な、一種ばかばかしい設定で、ドタバタ喜劇的な作りになっている。 「裸の騎士」とは主人公の男のことで、だんだんと「壊れて」行くのであるが、男の、エスカレートしていく市や付近の住民に対する抗戦の姿は、まさに風車に挑んだかのラ・マンチャの男を彷彿とさせる。いや、もっとみじめか。 30頁の幕間的短篇「小人の口上」は、リリパット国のその後を語ったユートピア小説? 全体に北杜夫のユーモア小説風のデフォルメなのであるが、もっと深刻である。 ●エーコ 一冊の書物の存在が、大僧院を焼亡に至らしめる皮肉にして壮大な物語。たっぷりと堪能した。面白い! 犯行の<動機>がチマチマした個人的なものではなく、いわば世界観の犯罪であり、ある観念が個人を使嗾して行わせたものということもできよう。ともあれ中世の僧院を舞台に旧来の観念ときたるべきルネッサンスの観念がぶつかりあう<大きな>ミステリで、十分満足した。 また本書は非常に視覚的な作品で、私は映画の方をまだ見ていないのだけれど、あたかもスクリーンを観ているように映像が目前に浮かんできた。これは映像化しやすかろうと思ったものだ。 とにかくこれは面白かった! ところが、この過剰な部分がわたし的には好いのだ。たとえばこの時代、イギリス人とかイタリア人といった<民族意識>というものが、現代ほど明確には意識されていない。そういったことがこの本では十分留意されているのである。 ●荒巻義雄 <空白シリーズ>を全巻完集(!)したので、未読だった第一巻を読んでみた(第2巻「空白のアトランチス」と第3巻「空白のムー大陸」は既に読んでいる)。本書、石川喬司がカバーに「劇画世代のための楽しいSFロマン」などと書いていたので、ずっと敬遠していたのだ。今回読んでみて全然そのようなものではなかった。大体アクション場面は皆無なのだから。 UFOと超古代史の知識を恣意的にかきまぜたペダンティックな会話や独白の間に、登場人物が東京と北海道を往還するだけの話(イギリスにも行きますが)なのである。というとミもフタもないが、実際そういう話なのだ。 ところが、「それだけ」の話が、なぜかめっぽう面白いのである。文章も引き締まっていて(自己陶酔で弛んでいきがちな)著者の文章とは思えないほどである。 ●豊田有恒 <進化>をテーマとする作品を集めた連作集。最初の生命藍藻から人類を経て未来の地球の支配者までを<進化>にポイントを絞って俯瞰する。 <進化>という超人間的な(人間の時間スケールとは桁違いの)ものを(人間の間尺に合わせた)小説として語るのだから、これは当然ながら折り合いが難しい。むしろNHKなどでよく見かけるCGを使った特別番組のシナリオっぽくなるのもある意味仕方がないのかも知れない。小説としてはうすっぺらいけれども、面白かった。 大体において私の豊田読みは、「不満を感じ続けながらも読み終えて、結果オーライ」という感じになる。 しかし、当時中学生の私には、騎馬民族征服説というのは(著者の独創ではないにせよ)、「度肝を抜かれる」、「常識を超越した」アイデアだったのだ、何せ万世一系と教えられた天皇家が、朝鮮半島から食い詰めてやってきた一種ゴロツキの頭目だったというのだから……まさにセンス・オブ・ワンダーだったのである。 かくして「それだけ」で充分に<認識>を揺るがしてもらったので、あとはすべて許すという感じである。小説としての出来とかはもうどうでもよくなってしまったものだった。 ●武光誠 出雲は卑弥呼の時代より30年早く一国のまとまりが完成した。出雲の統一は、邪馬台連合の商業的契機による統一とは違って、大国主信仰に基づく宗教的統一であった。出雲は一国の範囲より拡大することはなかったが、大国主信仰は北九州から関東にまで広がった。 ――といったことを、荒神谷発掘以降の最新(1996年第1版)の考古学的知見にもとづいて考察している。 従来、出雲古代史テーマとしては門脇禎二や松前健の論考が有名であるが、これらはもとより荒神谷以前のものだから、考古学的な裏付けが弱かった。本書ではその辺りがしっかりしているので、私などは本書を読むことで門脇説のよく判らなかった点が逆に理解できたように思う。 ●眉村卓 作品ナンバー501から600まで。例によって、気に入った作品にチェックを入れながら読む。チェックした作品は、全部で22篇になった。 508 切り換え機 >近未来社会テーマ。週3日労働制社会、4日の休日のあとの出勤日の悲喜劇。 とりわけ「Dからの便り」「焚き火」「店の終わり」はすばらしい。この三篇を読むだけでも本書を購う価値あり。 |
●中村雄二郎 同一のテーマをめぐるエッセイ風論文集。パラパラ読んでいたら恰好の記述につきあたった。 《私たち近・現代人は、近代科学の分析的な知、機械的な自然観に基づく知によって、事物や自然をひたすら対象化し、事物や自然の法則を知ってそれを支配し、それに働きかけようとしてきた。そうすることによって、人間の支配圏と自由を拡大しようとしてきた。そしてたしかに、そのような近代科学の知にのっとった技術文明は、世界的な規模で衣・食・住にわたって人類の生活に大きな変革をもたらした。 しかし現実はそういう方向にばかりは進まなかった――と、著者の考察はかかる近代知批判へと向かうのだが、それは只今の私の関心とは外れるので、とりあえず横に置いておきたい。 わざわざ長文を引用したのは他でもないのであって、上の能動的で楽観的な<近代原理(近代科学知)>が、とりもなおさず初期SFの契機・根本原理でもあったのではないかと私が思ったからに他ならない。 これまで私が読んできた1920年代、30年代のSFには(今月は下述するようにレイ・カミングスとエドモンド・ハミルトンを読んでみたが)、ほとんどセンス・オブ・ワンダーの香りはみとめられない。この時代のSF作家は、現代のSF作家のようにセンス・オブ・ワンダーを目的として書いていたわけではなさそうだ。 では当時のSFの契機(もちろんそれは現代SFにも「原則的には」当てはまるものでなければならない)は何かと言うと、すなわちSFが他の夢物語やファンタジー(以降一括して<想像的物語>とする)と違うところは何かと考えると、当時のSFが、「現在未解決の問題も、やがては科学によって解決される」に違いないという信念、暗黙の了解事項によって成り立っているという、その一点においてではないだろうか。かかる一点においてSFは爾余の想像的物語と明確に区別されるのではないだろうか。 たとえば、宇宙ロケット、タイムマシンという装置は異世界(想像的世界)へ向かうための道具であるが、この道具自体が既にして「現在はまだ存在してはいないが、やがては科学的技術的に存在可能ならしめられるに違いない」という「暗黙の了解」においてその存在を可能とさせられていることが明らかであろう(したがって、「ふっとめまいがして、気が付くと男は異世界にいた」という異世界移行はSFではあり得ない。ちなみにドラえもんはSFである。なぜなら「どこでもドア」の原理は全く説明されていないにせよ、それが未来(21世紀?)の製品である、という説明はあり、かかる説明こそ「現在はまだ存在してはいないが、やがては科学的技術的に存在可能ならしめられるに違いない」というSFの原理が疑いなく含意させられているからだ)。 これを私は仮に<未来志向>と名付けたいと思う。<未来志向>はむろん<近代原理>とイコールで結ぶことができる。即ちSFとは<未来志向>を契機として成立する想像的物語と定義できるのではないだろうか。 ●レイ・カミングス 本書は1929年の作品。ちなみにガーンズバックによるアメージング誌の創刊が1926年であるから、ほとんどSF立ち上げ期の作品といえる。 主人公が二万八千年の未来へ向かうために作り上げたタイムマシンには原理的説明があり、「時間、空間、物体はわれわれの知覚する宇宙を構成する三大要素であり、これらは混ざり合っている。われわれが日ごろ体験する諸現象の基礎となる実在は、(……)これら三者全部の混合物なのだ。この統一されている原型を、われわれが勝手に時間だの空間だの物体だのという別の概念に分割して理解している」(10頁)というように、アインシュタインに発する「今はまだ存在しない」<未来科学>によって根拠付けられているのである。 これは他の想像的物語においては決して見つからない理屈であり、まさにSFと<近代科学知>とのパラレルな関係性を明らかにしている。 ところでこの描写は「永続的かつ無限に発展するもの」というテーゼに反する思考ではないかと疑問を持たれるかも知れない。 そういう意味で本書は、のちに盛行する「ディストピア小説」がやはりSFの範疇に含まれることを示すと共に、1929年という<SFの誕生>のほぼ同時期において、オプティミズムを乗り超える萌芽が認められる点においてなかなか示唆的である。 このような次第で、本書は紛れもないSFである。とはいっても、面白い、面白くないは、また別問題。いや、若いとき読んでいたら面白かったと思いますが(^^;。 ●エドモンド・ハミルトン 本書は1929年にウィアード・テールズ誌に連載された<星間パトロール>シリーズものの長編で、ハミルトン25才(デビュー後3年目)の作品である。巻末の森優解説にあるように、E・E・スミスの<銀河パトロール(レンズマン)>シリ−ズに、9年も先立って書かれた元祖的作品なのだが、残念ながら面白さでは<銀河パトロール(レンズマン)>シリーズに遥かに及ばない。知名度・人気に於いて後塵を拝したのも当然と思われる。 その理由は、上述のように、デビューしたての若書きのせいか、いまだ小説の体を成していない点。主人公の独白体で話が進行するのだが、語り口が非常に単調で、主人公に延々と粗筋を語らせているの感が強い。 一応地球人の主人公にアンタレス人の金属人間とスピカ人の甲殻人間のトリオがメインキャラクターなのであるが、同じキャラ構成を持つのちの<キャプテン・フューチャー>シリーズ(キャプテン・フューチャー、ロボットのグラッグ、アンドロイドのオットー)に見られる自在な会話のやり取りの軽妙さはまだ現れていない。 さて本書も当然SFである。いや上のカミングス作品よりさらに楽観的(原型的)である。 さて、言うまでもなく上に述べてような定義論と小説としての面白さは、基本的には別物なのであって、「SFであるかどうかよりも面白いかどうかのほうが大事」といった(私などもよく遭遇する)ありがちな反応は、(発言者は意識していないだろうが)実は強引な関係付けによる詭弁なのであり全く根拠がない。当然ながらSFにも、面白いSFもあればつまらないSFもある、というのは全く当たり前ののことなのだが。 ●高井信 著者の小説は、雑誌掲載では昔読んだことがあるのだが、一冊を通して読むのは本書がはじめて。 山野浩一流に纏めると、第1世代は、欧米風の建て売り住宅に入居し、その不具合をどう日本風に改造していくかで、それぞれ独自性を出していったのに対し、つづく第2世代は、海外SFに(第1世代以上に)どっぷりと浸かりつつも、第1世代をお手本により日本的な方向に活路を開いていった。それは「等身大の作品世界」とも言うべき方向で、第1世代に比べてスケールが小さいともいえるが、逆に私たちの生活感覚に密着した作品世界を構築していった。たとえば梶尾真治や横田順彌がそう。 著者は、この路線を極限におしすすめて、ひとつの完成型をなしえているように思われる。 しかし、だからといってSF的展開部分の手を抜いているわけではない。というより、そういう卑近な作品世界から、なんの齟齬もなくSF的状況が立ち上がってくるのである。そこが凄い! カタチとしては、SF的現象が(社会や世界にではなく)あくまで個人に対して起こる(これが特徴と言えよう)。それが次第に周囲の現実を変容させてい過程で、笑いを誘ったり、同情を引いたり、あきれたりさせるのだ。 たとえば「ロ−ルプレイング・ワイフ」という話は、ロ−ルプレイングゲ−ムに嵌まった妻が、日常の行動にまでサイコロを振るようになるのだが、ここまでならよくできた拡大ネタものにおさまる。著者の真骨頂はここからで……現実までが変容していく内容は明かさないけれど、一種筒井的状況に立ち至るこの変容の理屈は、まさにSF以外の何ものでもないのである。 とにかく、とても面白く、満足させてもらった。著者はアイデアストーリーを書かせたら当代屈指ではないだろうか。本書の10篇も面白くないものは皆無なのだが、とりわけ後半の5篇がわたし的にはツボだった。 ●依井貴裕 まだ肯定と否定とが葛藤している(^^;。 パズル小説である。そうとしか言いようがない。とはいえ、そこら辺にありふれたパズラーではない。 昔、井上秀雄が「三国史記」の倭に関する記述を、北九州の倭と半島の倭とに、あざやかな手際で解き分けたが、それをを思い出した。まさにマジシャンの手際! ●依井貴裕 ウーン、ややこしい。というか、かなり急いで読んだので完全には把握できてないのかも。 たとえば、人物Aが、自分よりBに興味を示したCに対するちょっとした意趣返しのイタズラが発端になっていることが解決編で述べられるのだが、問題編には一言も言及がない(私の読み落としでないなら)。 最大の難点は文章力。前作では文章の下手さが、逆に意図した文章の拙さを紛れこませて(木の葉は森に隠せ)、意図せざる(?)効果を上げていたのだが、毎度そんな訳にはいかないだろう。 ●依井貴裕 おお、そう来ましたか(^^; ただし、作者は「トリックを成立させること」のみに知恵を絞って小説を作っているので、通常のミステリのように動機とかを忖度していては楽しめないのでご注意。最後のひっくり返しもあざやか。 |
●掲載 2001年2月6日、3月6日(2月)、4月4日(3月)、6月5日(4月・5月)、7月11日(6月)