ヘテロ読誌
大熊宏俊

2001年 下半期

7月・8月

コリン・ウィルソン
『スパイダ−・ワ−ルド』小森健太朗訳(講談社ノベルス)

 ……時は25世紀。人類の文明は失われ、心を読む<意志の力>を獲得した蜘蛛が支配する地球。人間たちはその下で、下僕または奴隷として働いている。砂漠で育った少年ナイアルは、ひとり、人類の自由を求めて闘いを始め……(カバ−に記された粗筋から引用)という話。
 590ページの分厚い本で3部構成、しかも完結していない。読み終わった段階でも、物語はまだ始まったばかり、という感じだ。

 主人公たちの砂漠での生活を描いた第1部がすばらしい。ふしぎな、しかし魅惑的な<異風景>が、何の説明も解説もなしに、ただあるがままに描写されている。この第1部、私は『地球の長い午後』を連想した。描かれた世界風景はそれほど「この世界」からの「断絶」を感じさせるものだ。

 第2部で、この世界がいかにして「(小説上の)いまここ」に存在しているのかが解説される。ここに至って異世界ファンタジーは(良くも悪くも)SFへと変貌する。
 なぜならこのスパイダ−ワ−ルドが我々の「この世界」とは「断絶」した<どこにもない場所>ではなく、とにもかくにも、この地球の<未来>なのであり、いかに変容著しかろうとこの時間線上に繋がった25世紀の世界であることがあきらかにされるからである。

 良くも悪くもと書いたのは、このままファンタジーとして突っ走ってくれてもよかったような気もしているからだ。
 とはいえ、主人公がなぜ特異な能力を持っているのかとか、蜘蛛や他の昆虫が巨大化した理由などは、まだ(今のところ)読者には明らかにされていない。
 この第2部以降において私が連想せずにはいられなかったのは『都市と星』であった。
 おそらく本書の主人公ナイアル少年は、『都市と星』のアルヴィン少年に対応する存在なのではないだろうか。

 第3部に至って、いよいよ蜘蛛族に対する最初のレジスタンスが開始される。この部分は冒険小説的と言えようか。
 しかしながら、第1部において、人間には理解を絶する、全く異質な存在として描かれていた蜘蛛が、ここにいたって非常に人間的な、というか人間(読者)に理解可能な存在に変化してしまった。

 私は蜘蛛族に相互理解の絶対的不可能性(ソラリスや人類皆殺しのような)を想定して読んでいた(というより読みたかった)ので、それが少し残念といえば残念だったのだが、後述するように、それは作者の意図とは違うのだから、ないものねだりであったというほかあるまい。

 しかしながら、このまま路線を行くと、どんどん冒険的な、エンドレスな伝奇小説の方向に移行していくように(SF読みの立場としては)危惧される。
 まさに著者があとがきで書いているように、スパイダ−ワ−ルドの続編をライタ−を雇って専門の文筆工房が大量生産しているというロシアの状況が、端的に本書の陥るかもしれない危険を予め示しているように思われる。
 この辺、未訳部分ではどうなっているのだろうか、興味深いところ。

 もっとも、いまだ回収されていない謎、すなわち上述の二点や、地球に災厄をもたらした巨大彗星の尾が太陽の方向に伸びていた(もちろん彗星の尾は太陽のほうへ向くことはない)という謎が、物語を再びSFへ戻してくれるのかもしれない。

 それに訳者あとがきに引用された笠井潔との対談で、著者は、

 「主人公ナイアルは、「ひと」が再び世界を支配するようになることが果たして素晴らしい状況なのか、という哲学的な問いかけを提示してきます」

 と語っているのであるが、蜘蛛族の世界観と人間のそれとを対比しようとする手法は、『都市と星』におけるダイアスパーとリス、あるいは『消滅の光輪』における人類とラグザーンの原住種族とを対比させる手法に対応するものであり、人間とは何か(人間の版図論)というきわめてSFとして正統的なテーマをSFとして極めて正統的な筆法で考えようとしている。

 かくのごとく本書は、著者の筆が達者すぎて(逆に)いささか危ういところがあるものの、クラ−ク、オ−ルディスの系譜に連なる堂々たるイギリス本格SFの傑作となる可能性を確保している。
 続編(デルタ編、マジシャン篇)の翻訳の早期実現と共に、著者による完結を期待したいものである。


木田元
『偶然性と運命』(岩波新書)

 私はサルトルの「すべては偶然だ(だからこの世界は不条理である)」という考え方(曲解?)が好きだ。この不条理は「あっけらかんとした不条理」という感じでマイナスの意味は持っていないと理解している。つまり予定的に決定されたものは何もないということで、われわれは根源的に「自由」なのである。

 他方、運命とか宿命といった予定論的な発想は、一種他力本願的なニュアンスが感じられて好まない。
 運命や天命とは、とりもなおさず「必然」の言い換えに他ならない。つまり運命という言葉には、本義的に神(絶対者=世界を統べるもの)の存在が前提されている。つまりある出来事に対して「あれは(決定された)運命だった」と言った瞬間、その人は「私」を放棄したことになると私は思う。

 さて著者は、しかし運命について、私のように決定論的に固定的にとらえず、「人がなぜ偶然にしか過ぎないものに運命を感じるのか」と柔軟に考えるのである。結局、自分にとって決定的な意味を持つ人や事物との邂逅を、爾余の偶然と同じと思いたくないない無意識のメカニズムが、偶然に必然を見るのではあろう。

 偶然と運命を突き詰めるのではなく、そのまわりを遊覧するようなエッセイ風の著述で、私の期待した内容とは少しずれていたのだけれど、著者の融通無碍の思考が楽しめた。

 ところで、本書において[偶然→運命]のメカニズムのひとつとして、再帰的な体験の再構造化が紹介されている。ここに紹介されたドイツの心理学者カール・ビューラーの用語「Aha-Erlebunisアッハ・エアレブニス」(「ああ、そうか」という体験)は、まさにセンス・オブ・ワンダーと同じメカニズムではないだろうか。


寺山修司
『ぼくは話しかける』
(ハルキ文庫)

 本書は、著者が「家出のすすめ」を提唱、実践していた頃の著述を集めたもののようだ。著者のテーマは次の文章に端的に表現されている。

母親は、仏壇と子供は自分のそばに置くものだと思っている。
「おまえを育て、かわいがってきたのは、この私であって、おまえの恋人ではない」
という母親がいる。こうした息子ほど母親のそばを離れなくてはならないのである。」(94頁)

 「母親のそばを離れ」るという行為(思考)は、とりもなおさず偶然性の(不条理の)大海に「私」という小舟をこぎ出すことに他ならない。そうしてはじめて私は「人間」のとば口に立つ。私は社会の内にあり、社会は私の内にある。自立は孤立であるが、孤立なしに共生はない。


小松左京
『SFへの遺言』(光文社)

 いささか刺激的なタイトルであるが、内容はタイトルから連想されるものとは違った。
 森下一仁を司会進行役に(小松自身の要請ということだが適任であった)、小松左京が石川喬司(これも適役)と対談する、という形式で、小松が自身のSFとの関わりを回顧している(高橋良平、巽孝之、笠井潔らが適宜サポート)。
 「果しなき流れの果に」など自作長篇への本人自身の言及があり、これがなかなかおもしろかった。ふむ。小松SF、初期のやつ順番に読み返してみようかしらん。


わかぎえふ
『OL放浪記』
(集英社文庫)

 作者は中島らも劇団<リリパットアーミー>の実質的団長として有名な人らしい。私はその方面に全く疎いのだが、たまたまラジオで著者のトークを聴いて、どんな人なのか少し興味を持った(「上方演芸」誌が松竹新喜劇を特集している。どうすれば松竹新喜劇が復活できるか識者に提言させている。もとより藤山直美の復帰を挙げる人が多い。その中で新作をわかぎえふに書かせては、という意見があった。へえ、どんな台本を書くのだろう)。

 昔はエッセイ(随筆)の類いをよく読んだものだ(北杜夫、遠藤周作、五木寛之『風に吹かれて』etc)。
 最近はほとんど読まない。なぜかなと改めて考えてみると、小説は作家の意図を越えたものを発見できるけど、エッセイは作家の範囲に収まるからに違いない。
 つまり、エッセイは作家への興味にそのほとんどを負っている。作家のことをもっとよく知りたいという(ミーハー的)欲求がなければ、エッセイなど読めないのではないだろうか?
 私の場合も、若いころは作家に興味があった。最近はそれがなくなってしまったということなのだろう。少なくとも作家の日常生活には全く興味がなくなった(寺山修司のエッセイはいささか毛色が違う。身辺雑記(随筆)というより、私には観念雑記に見える。したがって読むたびに新しい発見がある)。

 さて、本書も最初はイマイチ乗れなかった。けれども、だんだん面白くなって一日で読了。
 読んでいるうちに“わかぎえふ”という人の一種独特の魅力に波長が合ってきたのだ。大阪弁の小気味よいツッコミが心地好い。最初は無色中立だったのが、だんだん好ましい色合いを帯びてきたというわけだ。
 まさにエッセイの魅力は作家自身の魅力の反映なのであります。


ホーキング青山
『七転八転(ななころびやころび)』
(幻冬舎文庫)

 乙武クンのベストセラー『五体不満足』を私は読んでない。それにしても私の周囲で読んだ人は(すべて女性である<偏見)、みな乙武クンと<クン>付けする。なぜ?
 本書の解説で中森明夫は、北島行徳という人の『五体不満足』を批判した文章を引用する。

 「バスケットでドリブルができる自慢をするくらいなら、家ではだれに風呂を入れてもらっているか、ウンコをした後は誰に尻を拭いてもらっているのか、そんな生活の根っ子の部分を書くべきだろう。また、恋愛のことに触れるのなら、セックスについて書くことだって避けてとおれないはずだ」

 そして中森はこう言う。→「三年前に出たホーキング青山の本には全部書いてあったよ」

 すなわち本書である。面白くて数時間で読んでしまった(本自体も薄く150ページ足らず)。
 第一種一級障害者のお笑い芸人の作者は、しかし哲学者でもあった。 
 「何も言わずに持ってって」と叫びながら作者の胸元に千円札をねじ込み、走り去るオバサンの考察など、実に冷静まさに「没価値的」で深い。障害を持つ自分自身をさらけ出すことで、逆に著者と出会う人の「未知との遭遇」行動ををひき出し、それを冷静(冷酷?)に観察し、その「可笑しさ」を暴き出している。

9月

上田閑照
『私とは何か』
(岩波新書)

 私とは何か?
 「私は私である」と著者は言う。
 さらに補足して「私は私であると言っている当の私である」と言う。

 さて、「私は私である」と言うとき、必ず他者の存在が前提になっていることは、少し考えれば明らかだろう。他者なくして私はありえない。これは「私」の基礎的事態といえる。
 したがって、「私」とは他者と私が共にある場所において「私」なのだ。この事態を指して著者は「私は私ならずして私である」と表現するのである。

 話は飛ぶが、私は学生時代、青木保さんの講義を取っていた。
 ちょうど青木さんが上智から阪大に移ってきたとき。人気学者が関西に来たということで、私の大学も客員として招いたのだろう。文学部だったが、文化人類学に興味があった私はわざわざ履修手続きをして受けに行った。
 で、後期試験が小論文だった。課題名は忘れた。ともあれ、私が書いたのは、<私>の範囲論というべきものだった。

 その論旨は、私が私(体験我)として認識するのは身体とイコールではなく、もっと流動的に拡大縮小するものであるというもので、たとえば抜け落ちた髪の毛はたとえ自分の髪の毛であっても触りたくないだろう。抜け落ちる前と後では印象が全然変わってしまう。これは前者は私の範疇だが、後者は私の範疇ではなくなってしまい、ただの物質になってしまうからだ。逆にカーライルの衣装哲学ではないが、通常身に付けた衣装は私の範疇として認識されているように思われる。

 このように私が私として認識する範疇は流動的で、恋人とは身体丸ごと私の範疇に含まれた状態(相手側でも同じことが起こっているとは限らない)といえるし、赤ちゃんの食べかけを母親が食べるのは、それは母親にとって赤ちゃんは私そのものだから。
 これを突き詰めると、私の最小形態は認識するだけの無色透明な観察主観としての我(点我)であり、私の最大形態はこの世界、宇宙すべてを包含するようなキリストの境地(全体我)といえ、この間で我々の私は膨らんだり縮んだりしている。タバコをポイ捨てする人は道路まで私を拡張できてない人。

 ――と言うようなことを書いた。これなら体験我と認識我を同じフィールドで捉えることが出来るわけで、我ながらよく書けたと思っていた(優もらえたし(^^;)。

 これに対して、拙掲示板ご常連のスーガク者河本さんが、次のように反応して下さった。

      ――――――――
 普通、自分の身体や恋人が「私の範囲」に含まれると考える場合、人にはそれらの物を所有しているという意識があるのではないでしょうか?      
 ほんとうに相手を思いやり、愛するがゆえに、恋人も自分のことのように感じられるというのではなく、恋人は自分のものだから、他人と親しくしていると嫉妬を感じたり、自分の思い通りにあってくれと願ったり……、かなり利己的な所有感を持っているように思われます。じぶんの身体についても愛していると言えるでしょうか? お酒を飲みたばこを吸い健康に悪いことをしても、自分の身体なのだから好きにしても構わないだろう、と勝手に考えたりしますよね。
 この考え方で行く限り、どんなに私の範囲を広げても仏陀やキリストの全体我にはたどり着かないと思います。
      ――――――――

 たしかに。おっしゃるとおりです(^^;ゞ。
 私は自分の思考の至らなさを恥じた次第だが、さすがに本書の著者の思考は周到(当然か)であった。
 著者は言う。
 ――「私」が「私」と言うとき、言うことによって「私になる」そのあり方に自我というあり方と自己というあり方とがあり、またその際、自我と自己との連関の如何が当の「私である」質になってくる――と。
 結局著者は「私は私ならずして私である」と開かれていくところの私は自己であり、「私は私である」と閉じてしまう私は自我(我執)であるという。

 これを私なりに咀嚼するなら、恋人のために死ねる私は自己であり、恋人を所有しようとする私は自我であるといえよう。
 とはいえ、著者も指摘するように、多くの場合、我々の「私」は、閉じた自我にとどまっている(逆に「私は私ならずして……」で停まってしまい「……私である」に帰ってこない場合は自己喪失、自己無化という状態と言える)。

 心理学の用語をほとんど使わない思索に最初は戸惑うが、読めば読むほど面白くなること請け合い。


内藤遊人
『ジャズ・ガイドブック』
(ちくま新書)

 この手のガイドブック(ジャズだけでなく音楽一般における)を、私はまず読まない。というのも、ジャズと言ってもイージーリスニング風からフリーまで裾野が広く、かたや当方の聴くものはジャズの領域の中でも、非常に偏ったごく狭い範囲に限られているので、そのような体系的な知識を必要としなかったからということもあるが、むしろジャズ(に限らず音楽)は聴くものであって、読むものではないだろう、という気持ちが強いからでもある。
 そういうわけで、私にはジャズの体系的な知識が殆どない。

 今回たまたま図書館でパラパラとめくっていたら、ローランド・カークに関する記述(といってもわずか数行ですが)を見つけ、丁度田中啓文さんがHPで誉めているのを読んだところだったので何となく読み出した次第。
 そういうわけで、右から左へぬけてしまうような読み方だったわけだが、なかなかおもしろい記述があったので書き写しておきたい。

 まず作者はベン・ウェブスターの演奏はジャズと呼ばれるのに、同じテナーサックス奏者でもシル・オースティンやサム・テイラーの演奏はムード・テナーとか呼ばれて、ジャズとは呼ばれないと前振りする。

 ――変な話、なのである。同じ曲で同じように聞こえたとしても、一方はジャズで、もう一方はジャズではない。一体どういうことなのだろう? ジャズとジャズでないものとのあいだには、初心者には見えない壁が何かあるのではないか。
(中略)
 実際には、そうした壁などは全く存在しないのだが、しかし、そうは言っても、音楽を組み立てる方法論や感覚の違いはある。だからジャズはジャズと呼ばれ、似てはいるけれどあれはジャズではない(強調、大熊)、という言い方も可能となってくる。
 では、その演奏方法の違いとは? と、もしそのことに疑問を持ったとしても、最初はただ何も考えずに聞き続けるだけでいい。それだけで、いつのまにかその違いが聴き取れるようになって来る(強調、大熊)。それがジャズという音楽のまたおもしろいところなのである。――

 なんか既知感がありはしまいか。左様、この言葉、ジャズをSFと言い換えても通ずるのだ。
 「あれはジャズではない」→「あれはSFではない」(^^;ゞ
 著者の主張は(現実的に)正しい。当然「いつのまにか聴き取れるようになってくる」はSFにも当てはまる。読み続けりゃ、そのうち判ってくるものなんである。

 ところがSFの特殊(?)な点は、SFファンはSFファンになるや否や、その区別を体系付けたいと、皆が皆、考え始めるところなのだ。つまり「SFとは何か」を考え始めないファンは、まだSFファンではない――と言えるのでは?


中村うさぎ 
『だって、欲しいんだもん!――借金女王のビンボー日記――』
(角川文庫)

 面白い! 面白いのは面白いのだが、なんというか、唖然とする。同じ人間とは思えない!
 著者は買い物依存症(?)なんだそうで、そのハンパじゃないブランド品等への衝動買いの実態を赤裸々に語っている。
 75万円のカーテンを買って大いに反省した翌日、今度は90万円のソファーを買ってしまう、あげくが450万円!のカード請求(^^;しかし税金は(取り立てがないので)払わない(^^;ゞ。

 こう書くとなにやら重い鬱陶しい内容かと思われるかも知れないが、全然違う。弾けるような文章と相俟って、あっけらかんと明るい。もう抱腹絶倒ものなんである。
 それは、著者が自分を、ここまで暴くかというくらい突き放して、ああ、どうぞこのバカな私を笑ってやって下さいと、徹底的にさらけ出しているからだと思われる。寺山修司のいわゆる「見世物小屋」に通ずるものがある。
 その姿勢はいさぎよい。というか全然懲りていない(^^;。だからこそ明るいのかも知れないが。

 それにしても、こんな生活はよっぽど神経が図太くなければ出来ない、というか、それゆえに心の病いなんだろうが、私には絶対マネできないなあ。


鳴海章
『ネオ・ゼロ』
(集英社文庫)

 最初はいらいらさせられた。物語が動き始めてからは一気。面白かった。
 架空戦記ものかと思っていたら、そうではなかった。ネオ・ゼロという<未来>なしには物語が成り立たないという意味で、ストーリーも(架空戦記的な)恣意性を免れており、かつ形式としてのSFを満たしている。しかしこれは素直に国際謀略/航空小説として楽しんだらいい話である。

 基本的に「字で書いた映画」なので、悪者は悪者でオッケーなんだが、トリプルスパイの人はなぜそういう(トリプルスパイのような)道を選んだのか、金なのか、親の遺言(教育の結果?)なのか、思想なのか、をもう少し書き込んでくれたら、もっと必然性のある話になったのではあるまいか。そういうおさえがない分、ちょっと絵空事に過ぎたように感じた。


竹島将
『ファントム強奪』
(講談社文庫)

 先に読んだ『ネオ・ゼロ』は「字で書いた映画」だったが、本書はさしづめ「字で書いたマンガ(劇画?)」だ。
 マンガなんだからこんな事を言うのは筋違いなのだろうが、作中人物に全然立体感(陰影)がない。特に女の描写がなってない(と私には思われる)。ここまで存在感のないヒロイン(まあ脇役なんだけど)も珍しいのでは。

 ――といったことを除けば、一応読ませる。マンガなんだと思って読めば、そこそこ楽しめる仕上がりにはなっている。pastime(文字通り)に最適な一冊。
 主人公がF4EJファントムを飛ばすのは、実に最後の10ページだけ。最終場面は絵的には決まっているとはいえ、荒唐無稽であることは間違いない。続篇への惹きは完璧。これは続きを買ってしまいますな。


高井信
『超能力パニック』
(講談社Jノベルズ)

 短編集である。<SFアイデアびっくり箱>と副題されている。まさにそのとおりの内容。
 以前『ダモクレス幻想』(出版芸術社)の感想でも書いたことだが、著者の短篇の特徴は、等身大のレベルに世界設定したまま、プロパーなSFを起動し回転させ着地させるという、ケレン味たっぷりな大技にある。

 ちょっと見には、軽く書き流しているように見えるかも知れないが、どうしてどうして、実は大変な力技なのだ。日常的等身大世界で非日常なSFの論理を貫徹させるというのは、なかなか精妙なコントロールを必要とするのではあるまいか。変な例だが、阪神タイガースの星野投手の超スローカーブと同じで、ほんの僅かでも球道を誤れば目もあてられないけれど、決まればこれほど大向こうを唸らせるものはないのである。その点、本書はまさに読者を唸らせる出来映えになっている。

 たとえば「突然チャック」は、青木睦五郎という大学一年生の男が主人公。この男、入学以来10回目の合コンも不発で、足取りも重く帰宅するのであるが、そういうことが重大事な、まさに平凡きわまる男として描かれており、しかもこの男の意識のレベルは最後までこのままなのだ。

 一般にSFの主人公は、たとえ最初は平凡に登場しようとも、小説の進行に伴って、好むと好まざるとに関わらず、天下国家のレベルあるいは大自然宇宙のレベルに意識を拡大していくのが通例で、それは作品世界のSF的拡大に相関するのだが、この短篇では、青木睦五郎の意識は最初から最後までそういうレベルのまま。
 だからこそ、つづいて現れるSF的アイデアとの落差が大きく、独特のセンス・オブ・ワンダーを放つのである。星野のカーブが、直前に投じた直球とのスピードの落差に大きく依存しているのと同じである。

 彼がアパートに帰ってくると、ドアになぜかチャックが付いている。チャックの金具を下ろすとチャックが開き、そこから部屋に入れた。入ってみれば、部屋の中はチャックだらけ。部屋の様々な場所に大小いろいろなチャックがうじゃうじゃいて、それがゲジゲジのように動き回っている……。この辺の描写は実にキモチが悪い。「奇ッ怪陋劣潜望鏡」を彷彿させる。
 チャックは分裂で増殖し、どんどん増殖し、大繁殖し、やがて地球の赤道上に集まり、今度は一本に融合する。赤道を一周する一本の長大なチャックと化すのである。と、突然チャックの金具が勝手に動き出し、数時間で地球を一周し、チャックが開くと……!!
 ――日常的作品世界と最後のとんでもないオチの落差が、何ともいえぬ効果を上げている。

 ベスト5は、他に

 電球のように目玉が切れてしまう不条理小説>「点滅の顛末」

 テレポーテーションを会得した男がはじめて接触した同類の女性との、束の間の、しかし悲しい顛末が50年代短篇SFを彷彿とさせる佳篇>「シャドウ効果」

 悪魔と契約した者たちの魂を運ぶ容器にされた男のシェクリイな話>「回収の日」

 時震で恐竜の時代へタイムスリップした町の住民の身に起こった悲喜劇>「突発性タイムスリップ」

10月

高井信
『スプラッタ・ラブ』
(ケイブンシャ文庫)

 短編8編を収録。エロチックSF集と銘打たれている。表紙絵もそれ風であるが、それ風なのを期待して読むと肩すかしを喰わされる。
 たしかに下ネタ(?)の作品が集められているのであるが、どこがエロチックなものか(笑)! むしろおぞましい。可笑しくケッタイで、そう、シュールなのだ。(本書で著者は、男性性器をジュニアとかペニスとか、様々に言い換え表現しているが、ここではPで代用する。以下あまりに頻出する故に)

 「進行性ボカシ症候群」>なぜかポルノ映画のボカシのようなソフトフォーカスが現実の人間の局部を覆ってしまう。それが次に(より技術の高い?)モザイクになり(つまり症状が進行し)、つづいて白ヌキになる。やがてそれは転移し……主人公が部屋の窓から見下ろすと、地上を埋め尽くす無数の通行人は、一人の例外もなく……
 その絵柄を思い浮かべてほしい。馬鹿馬鹿しくも壮大にして、シュールな感動に包まれることでありましょう(ホントか)。

 「日替り息子」>本集のベスト作品。
 ある朝目覚めると、小指とPの機能が入れ換わってしまっている(小指は勃起するし、Pには関節ができボキボキ折れ曲がることができる)。
 その事態は進行し、Pと鼻が入れ替わったり(肛門と鼻が接近するわけであるから、当然、大便の際まともにその臭いを嗅ぐことになる)、口と入れ替わったり(その日は水しか摂取することができない、もちろんPから吸うのである)と、毎朝Pが何かと入れ替わる。この描写が全くもって実にシュール。Pと目が入れ替わった状態なんて、これ想像できるだろうか(現実にはありえない絵を想像しなければいけないのだから、読者が具体的にイメージできるかどうかが読者の側における評価の分かれ目となる)。

 やがてと言うか、ついにと言おうか、Pは「体全体」と入れ替わってしまう。これは圧巻である。すなわちPが体全体で、体全体がPになっちゃうのである。いやあ恐れ入る、これをシュールレアリスムと言わずして何と言おう。本篇はオールディスの秀作にも引けを取らない、まさに「想像できないものを想像する」というSFのなかのSFである。

 「コタツの異常な愛」>冬場のコタツは貧乏学生にとってなくてはならない、ないことは想像すらできない、まさに恋人にも等しい存在である。――と言う論理を、作者は強引に展開させる。つまり論理が現実を打ち破るのである。即ちそんな主人公の貧乏下宿生のこたつを愛おしむ気持ちに、コタツが応えてくれる――それどころか(さらに論理は暴走し)、コタツは何と主人公の肉体まで要求するのである。とんでもない話である!

 「呪われた血」>血液型B型の主人公は、5人に1人の確率で、「あの」瞬間Pに斥力が働き挿入できないことに気づく。そしてそれが同じB型の女性の場合であることに気づく(この解明の過程が面白い)。その事態を避けるために男が考えついた方法は……。ストンと落ちた。

 「よけいなお世話」>ひょんなことで悪魔と契約してしまった男の話。願い事は、まずとびきりの美女と「いたす」こと。次に金、と考えていたら、契約はとびきりの美女が3人となっていた。いくら美女とはいえ、たった3回で魂を取られてしまうのでは、と男は何とか「いたさない」ようあれこれ抵抗するのであったが――親切(?)な悪魔は……

 「スプラッタ・ラブ」>女はあの瞬間、プツンと意識がなくなり、無意識に異常な力で相手の男をねじ切ってしまう能力?の持ち主だった。ダジャレオチ。これはもうひとひねり欲しかったかも。

 「放蕩息子」
 「続・放蕩息子」
 この2作は連作。ある日、男のPが意識を持ち、男から独立して行動し始める。勃起が収まると帰ってくるのだ。やがてPは仲間(?)を覚醒させ、100本のPが男の体のいたる所に……。非常にシュールな絵だが、おぞましい!

 というわけで、本書は「エロチックSF集」ではなく、「シュール下ネタ不条理小説集」と銘打つべきであると思われる。


横田順彌
『横田順彌(ヨコジュン)のハチャハチャ青春記』
(東京書籍)

 抜群の面白さである。久しぶりにヨコジュンの、あの達意(?)の文章に接し、懐しく笑わせてもらった。
 著者の、高校時代からSF作家として一本立ちするまでの回想記で、SF交友録の部分は全体の3分の1くらい。あとは大学落研仲間とのまさにハチャメチャの限りを尽くした青春謳歌(?)の記録。

 著者は、私より10歳歳上なだけなんだけど、私自身の大学生活とは全く違う印象。バンカラ的というのか、本書に描かれた学生生活は、私自身の学生生活と比較して、ずっとマンボウ的(旧制高校的)な成分が強い。
 それはおそらく60年代の青春と70年代の青春の差とも言えるが、むしろ旧制高校以来の学生の伝統が、70年代にいたって断絶したというか、引き継がれなかったことを意味しているのではあるまいか。「万博」以前と以後(あるいは安田講堂落城以前と以後というべきか)――ここで大きなパラダイムの転換があったと言えるのではないだろうか。


森下一仁
『天国の切符』
(新潮文庫)

 短篇12篇を収録した作品集。非常に個人的恣意的で強引な分け方をすると、
 1)「天国の切符」「スコンブ」「記念品」「スターシップ・ドリーミン」「ガチャガチャゴンゴン」「森」「とぎれた未来」は、(いちおう)地球の話である。
 そして2)「森に棲むもの」「アホイ伝」「時間陥没域」「成熟」「海辺の町」は宇宙や他の星の話。

 総体的には、1)群の地球の話の方がわたし的には良かった。
 2)群の作品は、最初に設定ありきというか、無理にそのような設定で書いているような気がして、それが作品への没入を妨げたように思う。具体的には、舞台が地球とは隔絶した環境なのに、登場人物たちの意識思考行動は、まったく現代人そのままであるように感じられ、非常に違和感が強かった。

 ところが、2)群でも「時間陥没域」はあまり違和感がなかった。ベイリー的バカSFで実に面白かったのである。
 それは思うに、この作品に登場する2人の登場人物に「センチメントな交通」が殆どなく、アイデアストーリーに徹しているからだと思われる(もっとも、ラストにそれが少し出て、わたし的にはちょっと興ざめ)。

 かくのごとく著者のSFは、SFとしては過剰に「心の交流」に筆をさく作風なのである。その「センチメンタリティ」は、当然ながら常に現代人(現代日本人)のそれなのであり(でなければセンチメンタリティとはなりえない)、SF的に言えば時間的空間的に限定されたセンチメントに他ならない。
 宇宙環境に置かれたかかる限定的センチメンタリティが、いかに環境によって変容していくかを書かなければ、いくらカタチがSFでも、私にはSFとして中途半端に感じられてしまう。

 翻って、1)群の地球を舞台にした話では、そのようなSF的要請を比較的感じなくてすむせいか、変な違和感もなく実によく楽しめるものであった。

 「天国の切符」は、バミューダ海域に発見された異次元への通路の、通行許可証の発給をじっと待ち続ける人々の倦怠を描いたNW小説。
 「スコンブ」は、突如地球にやってきた宇宙人が、日本の都昆布と邂逅して引き起こされる笑うしかない顛末を描いた正調ユ−モアSF。
 「記念品」は、見事なSFショートショート。オチた後にセンス・オブ・ワンダーがぐわーんと膨張する!
 「スターシップ・ドリーミン」は、世代宇宙船かと思いきや……! 学校の校舎か巨大な工場かと思わせる船内描写が、落差があってよかった。
 「ガチャガチャゴンゴン」は、これもよくできたショートショート。一連の展開の後、突然静まり返った地球。その静寂感にセンス・オブ・ワンダーが炸裂!
 「森」は、集中のベスト作品! 本集では唯一の現代日本の話。こういう設定が本来の著者の資質ではないかと思った。著者のセンチメントと作品世界が完璧に合致した。
 「とぎれた未来」は、超高齢化を迎えた近未来ディストピア。テロに巻き込まれる主人公。リーダビリティの高い近未来SF。


森敦
『月山』
(河出書房新社)

 中篇の表題作と短篇の「天沼」の二篇収録。

 「月山」>出羽三山のひとつ、月山の山ふところ、といっても盆地ではなく、山また山のひとつの天地、その注連寺という、寺男の老人が一人守るさびれ果てた寺に、夏の終わり、「下界」(という言葉はいっさい使われてないが)からやってきて、何となく居座った「わたし」が、長いひと冬を過ごすのである。挟み込みの付録に小島信夫はこう書いている。

 ――「私」は夢の世界に入るかのように月山の中へバスに乗って行く。バスに? と人はいうかもしれない。違いますね、バスに乗って行くことこそが大切だ、と作者はいうだろう。俗世間の運び屋だからだ。

 ストーリーらしいストーリーはない。さあれ、夏の終わりから遅い春の訪れまでの間に「わたし」が見、聴き、触れる事どもの、なんと玄妙なことか!
 ……紅葉、吹雪、雪おろし、ヨイショ、ヨイショと一足ごとにかけ声をかけながら雪道を踏み固める足の不自由な寺のじさま(じいさま)、村が雪に閉ざされ始めるとやってくる行商人、セロファン菊、老人たちの好色な酒宴、悪臭を放つ無数のカメ虫、等々……
 それらが月山のまどかな白さに照らされて、淡々と、点々と、「わたし」の前に展開するばかり。これぞ究極の異世界幻想譚、神韻縹渺たる稀有の名品!!

 併録の「天沼」も同じ世界の話。単品で読めば佳い作品と思うが、「月山」を堪能した直後では、すっきり(私の裡で)完結した話を蒸し返されるようで、やや興ざめだった(時間をおいて読めばよかったかも)。


三田村信行
『おとうさんがいっぱい』
(フォア文庫)

 児童書というと何となく「ためにする」話だという「思い込み」が私にはある。本書はぜんぜん違った。
 ただ純粋に(なんの倫理的要請からも自由に)奇妙なお話を作者は書きたかったのであろうし、そんなお話で子供たちを驚かせたかったのだろうということが伝わってくる作品集であった。

 「ゆめであいましょう」>ミキオは毎夜同じ子供の夢を見る。その日によって赤ちゃんであったり、5歳くらいであったり、1年生だったりするのだが、同じ子供であることは間違いない。ついにある夜、ミキオはその子供と話をする。子供は「なぜ、おまえは毎晩夢の中にあらわれるのか」とミキオに問いつめる。これはミキオの夢なのか、それともミキオが子供に見られた夢なのか……

 「どこへもゆけない道」>〈ぼく〉は駅を出てふと、なぜ同じ道を帰らなければならないのかと疑問に思う。普段と違う道を通って帰ると、家には両親はおらず、2匹のクラゲのようなものがいた。道を変えたせいでこうなったのだろうか、と駅に戻っていつもの道を辿ると、今度は家自体が存在しない。それではと最初とも違う別の新しい道を通って帰ると、家はあり、両親もいたが……

 「ぼくは五階で」>アパートの5階、501号室の家に帰っても誰もいない。両親は共働きなのだ。ナオキはつまらないので遊びに出かけようと、ドアを開けて出ると……そこはナオキの家だった。ベランダから隣家に飛び移ったつもりが、やはりそこは501号室。あげくはシーツをひものように垂らして伝い降りて下の階に降りたつもりが、なぜか501号室に戻っている。ナオキは自分の家に閉じ込められて出られなくなっている。両親が帰ってくる時間になってもどちらも帰ってこない。丁度その頃5階の501号室では……

 「おとうさんがいっぱい」>つぎつぎお父さんが帰ってくる。ある日突然、全国的にお父さんが5、6人に増殖する。それぞれがホンモノだと主張する。政府はその家の家族に一人選ばせて、残りは連れていってしまう法律を作り実施するが、すると……

 「かべは知っていた」>いつもの夫婦喧嘩でお母さんに罵られたお父さんが、壁の中に逃げ込んでしまう。壁の中に異空間があるのだ。それを知っているのはカズミだけ。お母さんは最初はおろおろするが、仕事も見つけ自活してやって行き始める。お父さんがいた頃より生き生きして生まれ変わったようになる。その頃アパートが取り壊しになり、お父さんのいる壁もあっけなく崩壊する。

 これらの話は、眉村卓や星新一ら第1世代が好んで書いた「日常のなかの怪奇と幻想」と一体どう違うのか。全然違いませんね。書かれた時期も60年代後半のようで、第1世代と重なる。まったく同じ方法論である。
 また本書は、60年代の(今はない)家族生活が描かれていて(私の世代には)非常に懐しいものがある。お父さんとお母さんの関係も、児童書らしくなく(というのは偏見?)建前に流れずシビアなところを活写していて大人が読んだ方が面白い。一種不条理小説集としても読め、大人こそ読むべき小説集といえる。


上野哲也
『雨を見たかい(Have you ever seen the rain?)』
(講談社)

 書き下ろしの中篇「雨を見たかい」、1999年の小説現代新人賞受賞作の短篇「海の空 空の舟」、小説現代掲載の短篇「鯉のいた日」を収録。
 作者のことはなにも知らないが、この本は掘り出し物だった。今年一番の収穫だったかも。

 「海の空 空の舟」は、九州の海辺の町が舞台。その町は西日本随一といわれた造船所で成り立っていたのだが、今、その造船所は巨大な廃墟となって海岸線に沿ってうずくまり、鉄錆のきつい臭いが漂ってくるばかり。
 働いていた人々は町を出ていき、造船会社の社宅も今は無人で荒れるがままに放置されている。主人公の中学3年生の辰雄も明日、母親と共にこの町を離れ、東京へ向かう。辰雄は教師に転校を告げても「そうか」としか言ってもらえない乱暴者。最後の新聞配達を終え、給料をもらうと、辰雄は、体の内よりわき上がってくるなんともしれない衝動に突き動かされて、町中を経巡る……

 中上健次の初期短篇にも通ずる力強い作品。ほとんど神話的な高みに達した傑作。

 「鯉のいた日」は、うって変わって松竹新喜劇風(?)家庭小説。仕事柄GWも最後の日である明日しか休みがない主人公、39歳の津村は終電近い電車で疲れ切って帰宅すると、家の風呂場に鯉が泳いでいる。
 妻によると、息子が隣の伊藤さんに連れていってもらった釣り堀でつり上げたものだという。お父さんに見せるのだと言ってきかない息子のために、伊藤さんが交渉して持ち帰ってきたのだ。しかし飼うわけには行かない。明日の休み、そのGW唯一の家族サービスがてら、鯉を多摩川に放しに行く。

 軽妙な会話にニヤリとさせられつつも、同じ世代の「お父さん」のガンバる姿に思わずホロリ。

 「雨を見たかい」は、20年前、勝手に大学を辞めて以来、物理的にも心理的にも疎遠になった母親が、最近少しおかしい(過去と現在が判らなくなってしまう)というので、久しぶりに九州の廃鉱の町に帰ってきた茂・39歳は、母の変容におびえ町へ逃避する。町をめぐりながら、意識の流れ的に過去を甦らせる。そのようにしてやがて母親を受け入れ、自らも再起を小説にかける。

 最初は(母の様子に)ギョッとするが、そういう方向へは踏み込まず、自らの再生へと話が進んでいく、非常に向日的な作風で、ぐいぐい引き込まれる。この向日性は(作者の本領だろう)通俗性と紙一重なのだが、作者は危うげもなく踏みとどまって描ききっている。それは最近の作家としては抜群の文体が下ざさえしているからでもあろう。

 それにしても有望な新人が登場したものだ。この人は遠からずぽんと抜け出てくるに違いない。昨年は長篇『ニライカナイの空で』(講談社)で坪田譲治文学賞を受賞しているらしい。これも読まなくては。

11月

池田次郎
『日本人の起源』
(講談社現代新書)

 著者は自然(形質)人類学者。発掘された骨から日本人の起源を考察している。
 これは概説書としてよく書けていると思う。19年前に上梓されたものだが、当時の最新知見をきっちりと紹介した上で、自説を展開している。このような新書では、前者(諸学説の紹介)だけとか後者(文献的押さえをすっ飛ばした自己主張)だけということが多いのである。

 当時、埴原和朗が先陣を切り、山口敏、尾本恵市ら人類学者が、コンピュータをひっ提げて華々しく考古学に参入し、安田喜憲が壮大な環境考古学を立ち上げた時代で、その辺りを私は食い散らかしっぱなしにしていたのだった。本書ではそのあたりの業績を要領よく纏めてくれており、私のなかで乱雑にあった知識がすっきり整理してもらえた。

 著者の説は、現在も歴然としてある(もちろん証明している)西日本人と東日本人の差異は、実に二万年前の旧石器時代にその端緒を開くという壮大なもので、ウルム氷期極相期、いずれも古モンゴロイドながら、シベリアから樺太、北海道を経て南下した一群と、アジア大陸南部を進発し、海を渡ってきた一群が本州中部で遭遇したとする。
 この事実は、安田喜憲による石器の製作技術の東日本と西日本の差によっても裏付けられるそうだが、かかる東西並立を起点に縄文、弥生、古墳時代へと日本人はどう変遷してきたのかを、形質人類学の立場から復原していく壮大な概説である。壮大だからといって荒唐無稽ではない。きちんと論理の筋は通っている。まあ、思いつきで書かれたものではないのだから、それは当然ではあるが。

 また、戦後、顕著になった日本人の大型化(体位の向上)は、必ずしも食生活の改善によるのではなく、通婚圏の拡大(外婚)による「新しい血の獲得」(という言葉は使われていないが)に由来するものであることを統計的に証明している。たとえば同じ日本人と言っても、東北人(東)と近畿人(西)では、戦前までほとんど血の交流がなかったので、外婚に相当する。従って、正調怪奇小説家N氏ご夫婦のお子さんは、きっとすくすくと大きくお育ちになるはずである。

 この、混血による大型化現象は、しかしコーカソイドとモンゴロイドでは顕現因子が違うというのが面白い。そのメカニズムは不明だそうな。ロバと馬の雑種であるラバが頑健であるのは、同じ理屈から結果されるものらしい。もっともラバは、馬とロバが離れすぎているので子孫を残すことができない(>ファウンデーションのミュール)。


石光真清
『曠野の花』
(中公文庫)

 石光真清の手記の(二)である。石光は、出生の明治元年に始まり、大正、昭和に亘る膨大な手記を残しており、それを長子、石光真人が年代順に整理編集し、4巻に纏めたのものが公刊されている。

 私は、理由は不明ながら、なぜか沿海州、シベリアに対する憧れがあり、特にロシア革命―シベリア出兵頃のかの地に格別の興味を持っている。
 一巻をとばして本書を読んだのも、その辺の興味からで(手記(一)『城下の人』は、生まれてから日清戦争に参加し台湾に遠征、帰国してロシア研究の必要を痛感するまでの記録。ちなみにシベリア出兵当時の記録は手記(四)『誰のために』に収められている)、私の想いは十二分に満たされた。

 第二巻の本書は、明治32年、石光が特別任務を帯び、私費遊学の名目でウラジオストックに渡り、37年の日露開戦により本国へ送還されるまでの足かけ6年にわたる沿海州、満州での波瀾万丈の記録である。

 これが滅法面白いのだ。石光は、要するにロシアの北満進出を諜報する密偵(スパイ)なのだが、スパイでありながら、人情に厚い馬賊、さらには当のロシア人とも友誼を結びつつ、あるいは男たちに率先して満州―シベリアの曠野に拡がった日本娘たちの哀感に接しながら、持ち前の行動力で満州の広大な荒野を縦横無尽に駆けめぐるのである。まさに大陸浪人、日本男児に相応しい大活躍。

 中国の人にはけしからん事であろうが(とはいえ本書によれば、中国人つまり漢民族自身が満州に広がり得たのは、実にロシアが鉄道を敷設した結果なのであって、それ以前は少数の満人以外は無人の曠野だったらしい。つまり漢民族にとっても満州は外地、植民地だったのであり、それも日本人にたかだか十数年先んじたに過ぎなかったとも言えるのである)、こんなロマンにみちた時代、空間があったのだなあ、と時代の閉塞感に窒息しそうな私は、羨ましさすら覚えたのだった。
 バローズ「火星シリーズ」が好きな人ならきっと愉しめる痛快篇である。


石光真清
『望郷の歌』
(中公文庫)

 石光真清の手記の(三)。(二)が「夢」の世界(明)の話なら、この巻は「夢」が「現実」に蚕食されていく話(暗)といえよう。
 明治37年、母国に引き上げた石光は、自宅に帰り着いたその日、妻から召集令状を手渡される。
 本書を読むと、対露のこの戦争が、何の作戦もないノーガードでロシアに撃たせつづけるだけの凡戦であったことがよく判る。ロシアは撃ちに撃って、撃ち疲れて敗戦したのであった。

 戦争が終わり、平和の世となると、石光に居る場所はない。またしても大陸へと引き寄せられていく。が、戦後の満州は、もはや嘗ての満州ではなかった。人情よりも法が、幅を利かせ、馬賊も海賊も出る幕がない。石光もやることなすこと裏目裏目にまわり、尾羽うち枯らして日本に帰らざるを得ない。
 大平原を疾駆した大陸浪人も、三等郵便局の局長となり、平々凡々たる小市民の生活に喜びを覚え始めるのであったが、時あたかも明治45年、鈴の音もけたたましく号外売りが呼び走り、明治の御代の焉りを告げる。石光45歳の夏であった。


小澤重男
『元朝秘史』
(岩波新書)

 「元朝秘史」12巻(15巻本もあり)とは、チンギス汗の1代記と言うべき正集10巻と続集2巻からなる13世紀モンゴル語で書かれた原典(現存せず)の特異な漢訳である。
 正確には、漢字の音を借りてモンゴル語を表記する「漢字音写モンゴル語」の本文(原文)に、逐語的な漢語訳(傍訳)が付され、さらに段落ごとに総訳が施された三者セットによって構成されたもの。

 モンゴル語学者の著者は、この特異な形式を手がかりにして、「元朝秘史」(言うまでもなく漢語名である)の失われたモンゴル語原典の原題は何であったか? 原典の著者は誰か? いつ書かれたのか? という謎に挑戦している。

 原典の原題は何であるかなどは、あっと驚く謎解きで、著者は古田武彦かと思ったことであった(汗)。
 限られた手掛かりから、著者は、まるで手品師のように、しかし説得力のある謎解きを展開し、明快に論証する。その手さばきは本格ミステリと同じで、読後、霧がさっと晴れるようなすっきりとした気分にさせてもらえる。


マーガレット・アトウッド
『ダンシング・ガールズ』岸本佐知子訳
(白水社)

 著者はカナダの人気作家で、SFにも手を染めているらしい(ACクラーク賞、ネビュラ賞受賞の長篇がある)。
 本書は短編集、収録作品はいずれも底に不安感を潜ませた不思議な感覚があって、面白い。

 「火星から来た男」
 他文化の人には友好を示さなくてはいけない、ということでちょっと親切心を起こしたばかりに、大学生のクリスティーンはアジア人の留学生につきまとわれるはめに……
 いわゆるストーカーものである。しかしホラーにはならない。
 留学生のアジア人の行動は、確かに共感できるものではないが、しかし異邦の(それも白人が殆どを占める)大学町にたったひとり暮らす立場では、このような行動を取らないとは言い切れない、そのような含みを持たせた描写を、著者はしている。全く拒絶した書き方ではないのだ。

 <通俗>ホラーでは、このようなストーカーは「外者」として描かれる。「こいつ人間じゃねえ」といった<断絶>を契機としてホラーは成立する。そうでなければ、読者は怖さを楽しめない。
 この作品はそのような要請によって書かれたものでは当然なく(倫理的要請はなく)、むしろこのストーカー男は、私のなかにもいると思わせる何かを感じさせるように書かれているように思われる。

 このように、作者の視点は非常に多面的で、ある意味意地が悪い。
 それは女子学生の描き方に顕著で、クリスティ−ンはストーカー行為を繰り返されてほとほと困り果てるものの、心の一方では自尊心をくすぐられている。だからといってそれだけの意味しかない体験ではなく、この体験を契機として何程か内面において変化していくさまも描かれている。
 かかる多様な相を、そのまま、あるがままに写し取るばかりで、作者は何かを言おうとするわけではない。しかし読者は、その全体から、何かしら生きることの澱のようなもの、生存の不安めいたことを感じて重い感興を覚えるのだ。

 他に、「ベティ」、「キッチン・ドア」、「旅行記者」、「訓練」、「ダンシング・ガールズ」
 「キッチン・ドア」は、著者がどんなSFを書くのか、なんとなく判るような話で、本集中のベスト。

 全篇を通じて、何とも知れぬ、原因の判然としない不安感(生の不安)が通奏低音のように響いており、そのあたり福島正実に似ているかなと思った。「不定愁訴」という作品があるが、晩期の福島正実は、まさにこの題が示すような、原因もなくしくしくと痛むような不安な感覚を、これでもかと書きつづけた。しかし作品としてはほとんど成功させることができなかったのだけれど、こういうものを書きたかったんだろうなあ。

12月

森内俊雄
『翔ぶ影』
(角川書店)

 第1回泉鏡花賞を『産霊山秘録』(半村良)と分け合ったことで、SF読者の記憶に強く刻印された書名である。一読、同時授賞も当然と納得できた。すぐれた作品集である。
 幻想的作風のものから普通の純文学、純文学の枠からはみ出した作品まで、バラエティにとんだ品揃えで、それぞれに愉しめるものであった。以下、読んだ順に感想。

 「翔ぶ影」
 本篇は、純文学という範疇から少しはみ出した作品ではないだろうか?
 パッと思い浮かんだのは矢作俊彦の最初期作品群。矢作の「マイク・ハマーへ伝言」や「神様のピンチヒッター」 は、日活無国籍映画(もちろん私はリアルタイムで知っているわけではない。たまにテレビで放映されたのを子供の頃何となく見ていた程度だ)を小説で復活させようとしたものといわれているが、本篇もまさにそんな話なのだ。

 ――主人公小胎が付き合っていた女子大生が実はヤクザの親分の娘で、付き合っていることが父親にばれ(なんとこの父親は自分の手で娘を女にしようと思っていたのだ)、小胎は娘の父親が放った追っ手に左手をフォークで串刺しにされる。小胎と娘は東北本線で青森へ逃げるが、追っ手も同じ電車に乗っている。宿で、ラリった主人公は眠っている娘に書き置きを残し、宿の外に停めた車で見張っている追っ手のほうへ、自ら近づいていく……。

 かくのごとくリニアなストーリーは、まさに出来損ないのB級映画(ATG系か)というか、クサい劇画そのままである。
 しかしその現実離れした世界には、それゆえにか濃密な、薄闇にも似た何かがみちていて、それが小説世界の輪郭を曖昧にしている。距離感方向感覚の一定しない悪夢めいた世界が現出している。読者はつかの間その粘着的な世界に絡め取られ、何とも知れぬ眩暈感を味わうことができる。

 「架空索道」
 入江に下りると、漁師たちが集まっている。一人の漁師が〈私〉に、一緒に小舟に乗ってもらえないか、〈あれ〉を確かめてもらえないか、という。〈私〉は了承し小舟に乗る。――海底には、親指だけで舟の3倍はある巨大な〈左手〉が、断末魔の爪を立てている……

 男は喀血し、病院につれて行かれ、即入院させられる。病室で様々な幻覚を見る。不思議なのは、幻覚の筈の、座っている男の足に、幻覚ではない配膳係のおばさんが躓き、ごめんなさいとあやまったこと。おばさんが出ていき、振り返ると、男はいない。

 〈私〉が視る幻覚や悪夢のイメージが素晴らしい。ただし、
 「人を、妻を、私の神を呼び求めたことが一度だってあるだろうか。求めることを知らない人間に、あの苦悶する〈大いなる手〉の意味が理解できようはずがない。」(268頁)
 というような一文はしらける。書きすぎである。そういう〈解釈〉は全く不要であった。

 「暗い廊下」
 〈私〉は女と別れ、しかし女は身籠もっていた。女は3年間無言電話をかけ続け、常態ではなくなり、子を姉夫婦に預け、療養所に入所する。その療養所の所長から、「患者は安定していて〈私〉に面会を求めている、よかったら望みを叶えてやってはどうか」という文面の封書が届く。
 そして女の「子供の写真をとって持ってきて欲しい」と、あまりにも整いすぎていて逆に常態でないことがわかる文字で綴られた短い紙片が同封されている。
 男はとりあえず子供の写真をとるが、間際まで行くかどうか迷い続ける。そして意を決して電車に乗るが……

 「盲亀」
 若い女の〈岬〉はヌマさんを待っていた。なぜなら会社でヌマさんが「合図」をよこしたから。岬は理由を作って早退し、アパートでヌマさんがやってくるのを待ち続ける。

 ヌマさんという人物が会社にいるのは事実だが、岬と関係が本当にあるのかはわからない。管理人のおばさんが言うように、「ヌマさんはいない、ヌマさんはどこにもいない」のかもしれない。
 実験小説風だが、言葉だけが先走った作品のように思える。著者の「小賢しさ」が鼻につく。

 「春の往復」
 うって変わって、さわやかな(とまでは言えないが)少年小説。200枚ほどの中篇。上の諸篇とは筆法が異なり、仕掛けのない素直な筆致で書かれていて、流れるように読める。
 自伝的要素が多いのだろうか、戦後(昭和28年頃か)、大阪本町辺の繊維問屋の高校生の〈ぼく〉は、友人の弓積と、春休み、自転車で白浜へ向かって無銭旅行を敢行する。その間に〈ぼく〉の過去の体験(戦争中から戦後すぐ頃)が挿入される。

 個人的に、私の住んでいる地域が舞台なので、昭和20年代後半の(現在からは想像できない貧しさも含めて)ミナミや大阪南部から和歌山の描写が興味深く、面白かった。

 ただし、
「おれたち、これからずっとこうして友達で居ような」/「うん」/お互いの声は隧道の暗闇で見えない湿っぽい壁にはねかえって、不安定にふるえながら谺した。(102頁)
 は書きすぎ。全く不要な文である。せっかくの雰囲気をぶちこわしてまでも、作者は説明したくて仕方がなくなるようだ。
 これは蓋し作者が「いらち」な大阪人であるからかも知れない、とふと思った。佳作であることは間違いない。

 「駅まで」
 一幕ものの劇のような掌篇。
 桑野は病気で昼から出勤するようになり、いままで忙しさに取り紛れていた小二の息子が気になりだす。ふたりだけで会話したいという思いが差し迫ってくる。今日も昼過ぎに家を出た桑野は、学校から帰宅する息子と途中で出会うのではないか、と思いつつ歩いている。

 子供を持つ父親として、非常に身につまされ、共感する話である。最後の、改札口で振り返った桑野の目に、息子の(桑野にそっくりになってきたと妻がなじるように言った)後ろ姿が映る場面はすばらしい。

 ――全体に質の高い作品集であったが、部分部分に、作者の「書きすぎ」が私には認められ、気になって仕方がなかった。それはこの作者の「小賢しさ」であって、それは(小松左京作品にも看取できるものであるから)大阪的「いらち」に由来するものかも知れない。
 「書きすぎ」はSFなら許せる(逆に必要である)場合があるけれども、説明より描写が優先さるべき普通小説ではもっと「押さえ」を効かせなければならないのではないだろうか。そういう意味で、著者は、熱くなって書きすぎた部分を、もう一回冷静に取捨選択する作業が必要だったのではないか。惜しまれてならない。


飛鳥昭雄
『古代日本と失われた環太平洋文明の謎』
(アスペクトブックス)

 古代史界では有名な、「混一彊理歴代国都之図」という地図は、日本列島が時計回りに90度以上回転した、九州を北端に日本列島が南へ向かってのびているように描かれていて、通説では当然ながら錯誤とされているものであるが、本書ではこの図は正しく、当時(3世紀?)の日本列島はまさに南へ伸びていたとする。

 その根拠として、「魏志倭人伝」の記述が南方的であること。当時のプレート運動が現在とは格段の高速運動をしていたこと(また、その前段階として別の島だった西日本と東日本が2世紀後半に地殻変動で合体した。これが倭国大乱の直接的原因であるとする)を「スーパープリューム理論」で説明する。

 私は地球物理学については何も言う資格はないけれど、たとえば本書は「東日流外三郡誌」の記述を全面的に採用するばかりか(これからして既に問題あり。この書が偽書である可能性は100%に近く、殆ど戦後書かれたものであると現在では見なされている。まず資料批判が全くなされてない)、「津保化族」をアイヌに比定し、「阿蘇辺族」は何とエスキモーに比定している。
 3世紀にアイヌやエスキモーが存在したのか!? 現代日本人だって、当時の倭人とは違うはずなのに。

 アイヌ人に関しては、「琉球民族」(ママ)共々、モンゴロイドではないという、これはまた古くさい理論を持ち出してくる。最近(といっても20年来の)言語学的アプローチは等閑視されているのである。

 本書のスタンスは、「報告があるのに公表されない新発見や、未公開にして隠してしまおうと決めた物事にスポットを当て、最先端科学で理論武装しながら、5年、10年後にようやく認められる理論体系を、はるか手前の段階で公表してしまうのを目的とする」というものだが、その実態は、とうに研究者によって検討され廃棄された理論であったり、なんの資料批判もなされていない臆説であったりする。

 では、なぜこんな箸にも棒にもかからないものを読むかというと、「面白い」からというほかない。ただしそれは、「フィクション」として面白いのだ。
 私は、たぶん作者自身、この本の内容を信じちゃいないだろうと睨んでいる。
 それならなぜフィクションと銘打って出版しないのか、と私は思うのである。それもできれば小説の形にして欲しかった。しかしそのためには、当然ながらリニアなストーリー(たて糸)を付加しなければならないのだが。


丸山健二
『野に降る星』
(文藝春秋)

 300年前、巡りケ原の北の外れに、箒星に似た尾を持った青い流星が、地響きをあげて落下した。それは谷間の流れが変わってしまうほどの衝撃で、闇夜だったにもかかわらず、本が読めるくらい明るく有明村を照らしたが、なぜか隣村の人々は全く気づかなかった。

 天から降ってきたその光と音に啓示を受けた通りすがりの修験者が、星のかけらを祀るために社(奥社)をたてた。修験者は神官としてそこに居つき、爾来300年、神官が重い病に倒れたり死んだりしたときは、いつのまにかどこからか別の男がやってきてそれをひきついだ。村人は神官の名を知らなかった。神官に戸籍はなかった。

 初代の神官は、猿を使者とした。使者は有明村の入口にあった家に文を差し込むと、巡りケ原へ帰っていった。
 文には、天から降ってきた石を包んでおいた麻の布が青い色に染まったこと、その布で旗を作ったことが記されてあり、それ以来、30年ごとに使者は訪れ、往復30キロの道無き原野を越えて旗を取りに行くのがその家の者のならわしとなった。

 使者は猿とはかぎらなかった。30年前、父のときの使者は盲目の物乞いだった。祖父のときは朝早く畑で引き抜いた大根に〈旗〉の一文字が隅で黒々と書かれていたという。
 しかしこの務めを二度はたしたものは皆無だった。最初の務めから30年後、二回目の使者を待ちに待ち続け、とうとうしびれを切らし、奥社へ出向いて直接確かめてくるといって、自転車に乗って出発した父は、巡りケ原に出たところで脳溢血で死んで発見された。
 埋葬し終え、父の布団を焼いているとき、原野の彼方から見かけない子供が現れた。〈私〉への使者だった……

 〈私〉の旗を取りに行く行為と、30年前の父のそれ(子供だった〈私〉は、そのとき同行していたのだ)が交互に語られ、30年前の事件が次第に明らかにされていく。猛吹雪の原野を渡りきり、神官に迎えられ、旗を受け取った私は、そのとき、30年間自らのうちに秘めていたものが浄化されていることに気づく。

 丸山健二版「妖星伝」である(丸山版「美しい星」という説も)。
 舞台の巡りケ原と有明村は、隕石の不可思議な力に守られた一種ユ−トピアとして描かれている。ただし著者(を代弁する作中の〈私〉)にとってのユ−トピアというべきであろうか。なぜならこの村は、著者自身の苛烈な信念を体現した世界であるからだ。

 とても不思議な小説だ(魔術的リアリズムというのだろうか)。そして非常に饒舌な小説でもある。
 丸山健二は、私はもっと寡黙な、全身これ筋肉といってもよいような引き締まったものを書く作家だと思っていたので、少々戸惑ったのも事実。

 すなわち本書は、小説形式で書かれた自己主張の一面があり(ウルフガイが平井和正のアジテ−ションでもあるのと同様な意味で)、そういう意味で小説としてはすこし痩せているかなと、途中単調さを感じたのだった。けれどもラストがよかった。ラストはそれを取り返してあまりある見事さで、「浄化(象徴的死)と再生」をイメ−ジ豊かに描ききっていたのだ。満足。


高井信
『うるさい宇宙船』
(集英社コバルト文庫)

 ショ−トショ−ト24篇収録した、著者初めての作品集である(1983年刊)。
 そのため、表現にやや若書きの憾みが残るが、本質的なものはその後の作品と異なるところはない。
 つまり最初から最後までアイデア真っ向勝負の突き押し相撲、ハマれば一直線の電車道だが、はずすと、いなされたりたぐられてあっさり土俵を割ってしまう。

 かくのごとくアイデア(オチ)に特化した作風であるがゆえに、「キミらにこのアイデア(オチ)が判るか」的な、非常に挑戦的なものも中にはあるわけで、「さあ、楽しませてくれ」的読書態度(ベストセラー小説を読むような)では、その面白さを見逃してしまう怖れが多分にある。非常に軽妙で読みやすい文章であるが故に、逆に通りいっぺんに走り読んでしまいがちなのが悩ましいところである。

 本書を読む場合には(著者の他の作品でも同じことが言える)「著者の挑戦を受けてやるぞ」的・能動的な読書態度(スタンス)が要求されるように思う。
 やはりナンセンスな不条理ものが著者の本領。わたし的ベスト10は――

 シミリ現象>先月の豊田有恒のアンソロジーにも収録されていた作品。オチショ−トショ−トの鑑のような傑作。

 忍耐の報酬>後半の怒濤のようなナンセンスな展開に呆然とするのみ。

 クロ−ン体質>発端の小指のクロ−ン人間化の描写が秀逸。

 気前のいい人>寓話的ナンセンスがいつの間にかホラ−に(私だけの感覚かもしれんが)。

 売り子>新幹線、売り子が後ろから前にいくばかり(戻って来ない)なことに気づいた男が遭遇する恐怖。不条理ホラ−。

 目は口ほどに>文字通り目が主人公に反旗を翻す。ゲラゲラ笑えるんだが、ホラ−である。

 念写男の末路>集中一番の傑作。ここまで読んで来て、著者のセンスが倉阪鬼一郎のそれと同種ではないかと思いはじめる。倉阪はホラ−+ユ−モアで著者はSF+ユ−モアなんだが、精神の向かう方向は同じなのではないか(後述)。

 因果応報>最後のオチがすごい。しかし判りにくいのである(難しいというか)。読者は読み流さず、しっかり頭の中に<絵>を描くべし。

 二人三脚>異世界ファンタジ−か。これも相当奇妙。異様なイメ−ジを味わうべき作品。

 目覚まし時計>オチがよい。しかし判りにくいのである。読者は読み流さずどういう理屈か考えるべし。

 (以上、掲載順)

 読み終えて振り返り、あらためて倉阪鬼一郎とのある共通性を感じないではいられない。作風は全然違うこの両者のどこが似ているのかというと、それは、作中人物の取り扱い方である。あるいは作中人物への接し方というべきか。

 一般に作家には、作中人物に感情移入してしまうタイプと突き放してしまうタイプがあるのではないだろうか。言い換えれば、作中主人公に対して<正>の接し方をするタイプと、<負>の接し方をするタイプがあるように思う。
 前者が甚だしいと、読む方は甘ったるくて辟易してしまう。

 高井信と倉阪鬼一郎は、ともに後者のタイプのようで、しかもかなり強烈に突き放して描く点が共通する特徴ではあるまいか。
 たとえば本集中「念写男の末路」だが、この話の可笑しさは、主人公の情けない姿を、作者がこれでもかといわんばかり、容赦なく描ききるところから強烈に発散してくるのである。まるで主人公をいじめて作者自身が喜んでいるように感じられなくもない(サドである)。
 倉阪のユーモアもの(たとえば「田舎の事件」)も、同じメカニズム(作者が作中人物に情け容赦しない)の産物であるように私には思われる。

 そういう共通性があるとはいえ、両者は全く同じというわけでもない。
 高井信の描く作中人物には、明らかに作者自身が投影されており、いわば自分自身を嗤う、というスタンスが認められる。すなわち作者のサディスティックな筆は、実は自分自身に向けられたものだったのだ(マゾである、いやサドマゾ両刀使いなのである)。作者自身がピエロとなり、作中で踊っているというのが高井作品の本質である。これは笑劇の根本原理なのであって、それゆえ読者は「バカだねぇ」と安心してあはあは笑えるのだ。

 それに対して倉阪鬼一郎の場合は異なる。倉阪作品では、徹底して作中人物は<他者>であり、そこには憎しみすら感じられるほど作者と作中人物の間には確然とした断絶がある(作者と作中人物の間にまで「ホラー」の原理が働いているのだ)。これでは「笑えない」のです。倉阪ユーモアものは、可笑しさが即イタさに変容するのである。従って倉阪ユーモア小説はあくまで倉阪ホラーの一分野であり続けるわけだ。

 (もっともさらに分析すれば、倉阪さんは自分自身の中の作中人物的要素を他者として憎んでいるのかも知れませんが)

 その辺が似て非なるところではあるが、どちらも自意識過剰で自我肥大したセンチな(正の)感情移入をする作家と比べて、非常に複雑な心理構造の持ち主ではあることは間違いない。


掲載 2001年9月4日、10月10日(9月)、11月13日(10月)、12月11日(11月)、2002年1月8日(12月)