ヘテロ読誌 |
大熊宏俊
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2001年 ●下半期
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7月・8月 ●コリン・ウィルソン ……時は25世紀。人類の文明は失われ、心を読む<意志の力>を獲得した蜘蛛が支配する地球。人間たちはその下で、下僕または奴隷として働いている。砂漠で育った少年ナイアルは、ひとり、人類の自由を求めて闘いを始め……(カバ−に記された粗筋から引用)という話。 主人公たちの砂漠での生活を描いた第1部がすばらしい。ふしぎな、しかし魅惑的な<異風景>が、何の説明も解説もなしに、ただあるがままに描写されている。この第1部、私は『地球の長い午後』を連想した。描かれた世界風景はそれほど「この世界」からの「断絶」を感じさせるものだ。 第2部で、この世界がいかにして「(小説上の)いまここ」に存在しているのかが解説される。ここに至って異世界ファンタジーは(良くも悪くも)SFへと変貌する。 良くも悪くもと書いたのは、このままファンタジーとして突っ走ってくれてもよかったような気もしているからだ。 第3部に至って、いよいよ蜘蛛族に対する最初のレジスタンスが開始される。この部分は冒険小説的と言えようか。 私は蜘蛛族に相互理解の絶対的不可能性(ソラリスや人類皆殺しのような)を想定して読んでいた(というより読みたかった)ので、それが少し残念といえば残念だったのだが、後述するように、それは作者の意図とは違うのだから、ないものねだりであったというほかあるまい。 しかしながら、このまま路線を行くと、どんどん冒険的な、エンドレスな伝奇小説の方向に移行していくように(SF読みの立場としては)危惧される。 もっとも、いまだ回収されていない謎、すなわち上述の二点や、地球に災厄をもたらした巨大彗星の尾が太陽の方向に伸びていた(もちろん彗星の尾は太陽のほうへ向くことはない)という謎が、物語を再びSFへ戻してくれるのかもしれない。 それに訳者あとがきに引用された笠井潔との対談で、著者は、 「主人公ナイアルは、「ひと」が再び世界を支配するようになることが果たして素晴らしい状況なのか、という哲学的な問いかけを提示してきます」 と語っているのであるが、蜘蛛族の世界観と人間のそれとを対比しようとする手法は、『都市と星』におけるダイアスパーとリス、あるいは『消滅の光輪』における人類とラグザーンの原住種族とを対比させる手法に対応するものであり、人間とは何か(人間の版図論)というきわめてSFとして正統的なテーマをSFとして極めて正統的な筆法で考えようとしている。 かくのごとく本書は、著者の筆が達者すぎて(逆に)いささか危ういところがあるものの、クラ−ク、オ−ルディスの系譜に連なる堂々たるイギリス本格SFの傑作となる可能性を確保している。 ●木田元 私はサルトルの「すべては偶然だ(だからこの世界は不条理である)」という考え方(曲解?)が好きだ。この不条理は「あっけらかんとした不条理」という感じでマイナスの意味は持っていないと理解している。つまり予定的に決定されたものは何もないということで、われわれは根源的に「自由」なのである。 他方、運命とか宿命といった予定論的な発想は、一種他力本願的なニュアンスが感じられて好まない。 さて著者は、しかし運命について、私のように決定論的に固定的にとらえず、「人がなぜ偶然にしか過ぎないものに運命を感じるのか」と柔軟に考えるのである。結局、自分にとって決定的な意味を持つ人や事物との邂逅を、爾余の偶然と同じと思いたくないない無意識のメカニズムが、偶然に必然を見るのではあろう。 偶然と運命を突き詰めるのではなく、そのまわりを遊覧するようなエッセイ風の著述で、私の期待した内容とは少しずれていたのだけれど、著者の融通無碍の思考が楽しめた。 ところで、本書において[偶然→運命]のメカニズムのひとつとして、再帰的な体験の再構造化が紹介されている。ここに紹介されたドイツの心理学者カール・ビューラーの用語「Aha-Erlebunisアッハ・エアレブニス」(「ああ、そうか」という体験)は、まさにセンス・オブ・ワンダーと同じメカニズムではないだろうか。 ●寺山修司 本書は、著者が「家出のすすめ」を提唱、実践していた頃の著述を集めたもののようだ。著者のテーマは次の文章に端的に表現されている。
「母親のそばを離れ」るという行為(思考)は、とりもなおさず偶然性の(不条理の)大海に「私」という小舟をこぎ出すことに他ならない。そうしてはじめて私は「人間」のとば口に立つ。私は社会の内にあり、社会は私の内にある。自立は孤立であるが、孤立なしに共生はない。 ●小松左京 いささか刺激的なタイトルであるが、内容はタイトルから連想されるものとは違った。 ●わかぎえふ 作者は中島らも劇団<リリパットアーミー>の実質的団長として有名な人らしい。私はその方面に全く疎いのだが、たまたまラジオで著者のトークを聴いて、どんな人なのか少し興味を持った(「上方演芸」誌が松竹新喜劇を特集している。どうすれば松竹新喜劇が復活できるか識者に提言させている。もとより藤山直美の復帰を挙げる人が多い。その中で新作をわかぎえふに書かせては、という意見があった。へえ、どんな台本を書くのだろう)。 昔はエッセイ(随筆)の類いをよく読んだものだ(北杜夫、遠藤周作、五木寛之『風に吹かれて』etc)。 さて、本書も最初はイマイチ乗れなかった。けれども、だんだん面白くなって一日で読了。 ●ホーキング青山 乙武クンのベストセラー『五体不満足』を私は読んでない。それにしても私の周囲で読んだ人は(すべて女性である<偏見)、みな乙武クンと<クン>付けする。なぜ? 「バスケットでドリブルができる自慢をするくらいなら、家ではだれに風呂を入れてもらっているか、ウンコをした後は誰に尻を拭いてもらっているのか、そんな生活の根っ子の部分を書くべきだろう。また、恋愛のことに触れるのなら、セックスについて書くことだって避けてとおれないはずだ」 そして中森はこう言う。→「三年前に出たホーキング青山の本には全部書いてあったよ」 すなわち本書である。面白くて数時間で読んでしまった(本自体も薄く150ページ足らず)。 |
●上田閑照 私とは何か? さて、「私は私である」と言うとき、必ず他者の存在が前提になっていることは、少し考えれば明らかだろう。他者なくして私はありえない。これは「私」の基礎的事態といえる。 話は飛ぶが、私は学生時代、青木保さんの講義を取っていた。 その論旨は、私が私(体験我)として認識するのは身体とイコールではなく、もっと流動的に拡大縮小するものであるというもので、たとえば抜け落ちた髪の毛はたとえ自分の髪の毛であっても触りたくないだろう。抜け落ちる前と後では印象が全然変わってしまう。これは前者は私の範疇だが、後者は私の範疇ではなくなってしまい、ただの物質になってしまうからだ。逆にカーライルの衣装哲学ではないが、通常身に付けた衣装は私の範疇として認識されているように思われる。 このように私が私として認識する範疇は流動的で、恋人とは身体丸ごと私の範疇に含まれた状態(相手側でも同じことが起こっているとは限らない)といえるし、赤ちゃんの食べかけを母親が食べるのは、それは母親にとって赤ちゃんは私そのものだから。 ――と言うようなことを書いた。これなら体験我と認識我を同じフィールドで捉えることが出来るわけで、我ながらよく書けたと思っていた(優もらえたし(^^;)。 これに対して、拙掲示板ご常連のスーガク者河本さんが、次のように反応して下さった。 ―――――――― たしかに。おっしゃるとおりです(^^;ゞ。 これを私なりに咀嚼するなら、恋人のために死ねる私は自己であり、恋人を所有しようとする私は自我であるといえよう。 心理学の用語をほとんど使わない思索に最初は戸惑うが、読めば読むほど面白くなること請け合い。 ●内藤遊人 この手のガイドブック(ジャズだけでなく音楽一般における)を、私はまず読まない。というのも、ジャズと言ってもイージーリスニング風からフリーまで裾野が広く、かたや当方の聴くものはジャズの領域の中でも、非常に偏ったごく狭い範囲に限られているので、そのような体系的な知識を必要としなかったからということもあるが、むしろジャズ(に限らず音楽)は聴くものであって、読むものではないだろう、という気持ちが強いからでもある。 今回たまたま図書館でパラパラとめくっていたら、ローランド・カークに関する記述(といってもわずか数行ですが)を見つけ、丁度田中啓文さんがHPで誉めているのを読んだところだったので何となく読み出した次第。 まず作者はベン・ウェブスターの演奏はジャズと呼ばれるのに、同じテナーサックス奏者でもシル・オースティンやサム・テイラーの演奏はムード・テナーとか呼ばれて、ジャズとは呼ばれないと前振りする。 ――変な話、なのである。同じ曲で同じように聞こえたとしても、一方はジャズで、もう一方はジャズではない。一体どういうことなのだろう? ジャズとジャズでないものとのあいだには、初心者には見えない壁が何かあるのではないか。 なんか既知感がありはしまいか。左様、この言葉、ジャズをSFと言い換えても通ずるのだ。 ところがSFの特殊(?)な点は、SFファンはSFファンになるや否や、その区別を体系付けたいと、皆が皆、考え始めるところなのだ。つまり「SFとは何か」を考え始めないファンは、まだSFファンではない――と言えるのでは? ●中村うさぎ 面白い! 面白いのは面白いのだが、なんというか、唖然とする。同じ人間とは思えない! こう書くとなにやら重い鬱陶しい内容かと思われるかも知れないが、全然違う。弾けるような文章と相俟って、あっけらかんと明るい。もう抱腹絶倒ものなんである。 それにしても、こんな生活はよっぽど神経が図太くなければ出来ない、というか、それゆえに心の病いなんだろうが、私には絶対マネできないなあ。 ●鳴海章 最初はいらいらさせられた。物語が動き始めてからは一気。面白かった。 基本的に「字で書いた映画」なので、悪者は悪者でオッケーなんだが、トリプルスパイの人はなぜそういう(トリプルスパイのような)道を選んだのか、金なのか、親の遺言(教育の結果?)なのか、思想なのか、をもう少し書き込んでくれたら、もっと必然性のある話になったのではあるまいか。そういうおさえがない分、ちょっと絵空事に過ぎたように感じた。 ●竹島将 先に読んだ『ネオ・ゼロ』は「字で書いた映画」だったが、本書はさしづめ「字で書いたマンガ(劇画?)」だ。 ――といったことを除けば、一応読ませる。マンガなんだと思って読めば、そこそこ楽しめる仕上がりにはなっている。pastime(文字通り)に最適な一冊。 ●高井信 短編集である。<SFアイデアびっくり箱>と副題されている。まさにそのとおりの内容。 ちょっと見には、軽く書き流しているように見えるかも知れないが、どうしてどうして、実は大変な力技なのだ。日常的等身大世界で非日常なSFの論理を貫徹させるというのは、なかなか精妙なコントロールを必要とするのではあるまいか。変な例だが、阪神タイガースの星野投手の超スローカーブと同じで、ほんの僅かでも球道を誤れば目もあてられないけれど、決まればこれほど大向こうを唸らせるものはないのである。その点、本書はまさに読者を唸らせる出来映えになっている。 たとえば「突然チャック」は、青木睦五郎という大学一年生の男が主人公。この男、入学以来10回目の合コンも不発で、足取りも重く帰宅するのであるが、そういうことが重大事な、まさに平凡きわまる男として描かれており、しかもこの男の意識のレベルは最後までこのままなのだ。 一般にSFの主人公は、たとえ最初は平凡に登場しようとも、小説の進行に伴って、好むと好まざるとに関わらず、天下国家のレベルあるいは大自然宇宙のレベルに意識を拡大していくのが通例で、それは作品世界のSF的拡大に相関するのだが、この短篇では、青木睦五郎の意識は最初から最後までそういうレベルのまま。 彼がアパートに帰ってくると、ドアになぜかチャックが付いている。チャックの金具を下ろすとチャックが開き、そこから部屋に入れた。入ってみれば、部屋の中はチャックだらけ。部屋の様々な場所に大小いろいろなチャックがうじゃうじゃいて、それがゲジゲジのように動き回っている……。この辺の描写は実にキモチが悪い。「奇ッ怪陋劣潜望鏡」を彷彿させる。 ベスト5は、他に 電球のように目玉が切れてしまう不条理小説>「点滅の顛末」 テレポーテーションを会得した男がはじめて接触した同類の女性との、束の間の、しかし悲しい顛末が50年代短篇SFを彷彿とさせる佳篇>「シャドウ効果」 悪魔と契約した者たちの魂を運ぶ容器にされた男のシェクリイな話>「回収の日」 時震で恐竜の時代へタイムスリップした町の住民の身に起こった悲喜劇>「突発性タイムスリップ」 |
●高井信 短編8編を収録。エロチックSF集と銘打たれている。表紙絵もそれ風であるが、それ風なのを期待して読むと肩すかしを喰わされる。 「進行性ボカシ症候群」>なぜかポルノ映画のボカシのようなソフトフォーカスが現実の人間の局部を覆ってしまう。それが次に(より技術の高い?)モザイクになり(つまり症状が進行し)、つづいて白ヌキになる。やがてそれは転移し……主人公が部屋の窓から見下ろすと、地上を埋め尽くす無数の通行人は、一人の例外もなく…… 「日替り息子」>本集のベスト作品。 やがてと言うか、ついにと言おうか、Pは「体全体」と入れ替わってしまう。これは圧巻である。すなわちPが体全体で、体全体がPになっちゃうのである。いやあ恐れ入る、これをシュールレアリスムと言わずして何と言おう。本篇はオールディスの秀作にも引けを取らない、まさに「想像できないものを想像する」というSFのなかのSFである。 「コタツの異常な愛」>冬場のコタツは貧乏学生にとってなくてはならない、ないことは想像すらできない、まさに恋人にも等しい存在である。――と言う論理を、作者は強引に展開させる。つまり論理が現実を打ち破るのである。即ちそんな主人公の貧乏下宿生のこたつを愛おしむ気持ちに、コタツが応えてくれる――それどころか(さらに論理は暴走し)、コタツは何と主人公の肉体まで要求するのである。とんでもない話である! 「呪われた血」>血液型B型の主人公は、5人に1人の確率で、「あの」瞬間Pに斥力が働き挿入できないことに気づく。そしてそれが同じB型の女性の場合であることに気づく(この解明の過程が面白い)。その事態を避けるために男が考えついた方法は……。ストンと落ちた。 「よけいなお世話」>ひょんなことで悪魔と契約してしまった男の話。願い事は、まずとびきりの美女と「いたす」こと。次に金、と考えていたら、契約はとびきりの美女が3人となっていた。いくら美女とはいえ、たった3回で魂を取られてしまうのでは、と男は何とか「いたさない」ようあれこれ抵抗するのであったが――親切(?)な悪魔は…… 「スプラッタ・ラブ」>女はあの瞬間、プツンと意識がなくなり、無意識に異常な力で相手の男をねじ切ってしまう能力?の持ち主だった。ダジャレオチ。これはもうひとひねり欲しかったかも。 「放蕩息子」 というわけで、本書は「エロチックSF集」ではなく、「シュール下ネタ不条理小説集」と銘打つべきであると思われる。 ●横田順彌 抜群の面白さである。久しぶりにヨコジュンの、あの達意(?)の文章に接し、懐しく笑わせてもらった。 著者は、私より10歳歳上なだけなんだけど、私自身の大学生活とは全く違う印象。バンカラ的というのか、本書に描かれた学生生活は、私自身の学生生活と比較して、ずっとマンボウ的(旧制高校的)な成分が強い。 ●森下一仁 短篇12篇を収録した作品集。非常に個人的恣意的で強引な分け方をすると、 総体的には、1)群の地球の話の方がわたし的には良かった。 ところが、2)群でも「時間陥没域」はあまり違和感がなかった。ベイリー的バカSFで実に面白かったのである。 かくのごとく著者のSFは、SFとしては過剰に「心の交流」に筆をさく作風なのである。その「センチメンタリティ」は、当然ながら常に現代人(現代日本人)のそれなのであり(でなければセンチメンタリティとはなりえない)、SF的に言えば時間的空間的に限定されたセンチメントに他ならない。 翻って、1)群の地球を舞台にした話では、そのようなSF的要請を比較的感じなくてすむせいか、変な違和感もなく実によく楽しめるものであった。 「天国の切符」は、バミューダ海域に発見された異次元への通路の、通行許可証の発給をじっと待ち続ける人々の倦怠を描いたNW小説。 ●森敦 中篇の表題作と短篇の「天沼」の二篇収録。 「月山」>出羽三山のひとつ、月山の山ふところ、といっても盆地ではなく、山また山のひとつの天地、その注連寺という、寺男の老人が一人守るさびれ果てた寺に、夏の終わり、「下界」(という言葉はいっさい使われてないが)からやってきて、何となく居座った「わたし」が、長いひと冬を過ごすのである。挟み込みの付録に小島信夫はこう書いている。 ――「私」は夢の世界に入るかのように月山の中へバスに乗って行く。バスに? と人はいうかもしれない。違いますね、バスに乗って行くことこそが大切だ、と作者はいうだろう。俗世間の運び屋だからだ。 ストーリーらしいストーリーはない。さあれ、夏の終わりから遅い春の訪れまでの間に「わたし」が見、聴き、触れる事どもの、なんと玄妙なことか! 併録の「天沼」も同じ世界の話。単品で読めば佳い作品と思うが、「月山」を堪能した直後では、すっきり(私の裡で)完結した話を蒸し返されるようで、やや興ざめだった(時間をおいて読めばよかったかも)。 ●三田村信行 児童書というと何となく「ためにする」話だという「思い込み」が私にはある。本書はぜんぜん違った。 「ゆめであいましょう」>ミキオは毎夜同じ子供の夢を見る。その日によって赤ちゃんであったり、5歳くらいであったり、1年生だったりするのだが、同じ子供であることは間違いない。ついにある夜、ミキオはその子供と話をする。子供は「なぜ、おまえは毎晩夢の中にあらわれるのか」とミキオに問いつめる。これはミキオの夢なのか、それともミキオが子供に見られた夢なのか…… 「どこへもゆけない道」>〈ぼく〉は駅を出てふと、なぜ同じ道を帰らなければならないのかと疑問に思う。普段と違う道を通って帰ると、家には両親はおらず、2匹のクラゲのようなものがいた。道を変えたせいでこうなったのだろうか、と駅に戻っていつもの道を辿ると、今度は家自体が存在しない。それではと最初とも違う別の新しい道を通って帰ると、家はあり、両親もいたが…… 「ぼくは五階で」>アパートの5階、501号室の家に帰っても誰もいない。両親は共働きなのだ。ナオキはつまらないので遊びに出かけようと、ドアを開けて出ると……そこはナオキの家だった。ベランダから隣家に飛び移ったつもりが、やはりそこは501号室。あげくはシーツをひものように垂らして伝い降りて下の階に降りたつもりが、なぜか501号室に戻っている。ナオキは自分の家に閉じ込められて出られなくなっている。両親が帰ってくる時間になってもどちらも帰ってこない。丁度その頃5階の501号室では…… 「おとうさんがいっぱい」>つぎつぎお父さんが帰ってくる。ある日突然、全国的にお父さんが5、6人に増殖する。それぞれがホンモノだと主張する。政府はその家の家族に一人選ばせて、残りは連れていってしまう法律を作り実施するが、すると…… 「かべは知っていた」>いつもの夫婦喧嘩でお母さんに罵られたお父さんが、壁の中に逃げ込んでしまう。壁の中に異空間があるのだ。それを知っているのはカズミだけ。お母さんは最初はおろおろするが、仕事も見つけ自活してやって行き始める。お父さんがいた頃より生き生きして生まれ変わったようになる。その頃アパートが取り壊しになり、お父さんのいる壁もあっけなく崩壊する。 これらの話は、眉村卓や星新一ら第1世代が好んで書いた「日常のなかの怪奇と幻想」と一体どう違うのか。全然違いませんね。書かれた時期も60年代後半のようで、第1世代と重なる。まったく同じ方法論である。 ●上野哲也 書き下ろしの中篇「雨を見たかい」、1999年の小説現代新人賞受賞作の短篇「海の空 空の舟」、小説現代掲載の短篇「鯉のいた日」を収録。 「海の空 空の舟」は、九州の海辺の町が舞台。その町は西日本随一といわれた造船所で成り立っていたのだが、今、その造船所は巨大な廃墟となって海岸線に沿ってうずくまり、鉄錆のきつい臭いが漂ってくるばかり。 中上健次の初期短篇にも通ずる力強い作品。ほとんど神話的な高みに達した傑作。 「鯉のいた日」は、うって変わって松竹新喜劇風(?)家庭小説。仕事柄GWも最後の日である明日しか休みがない主人公、39歳の津村は終電近い電車で疲れ切って帰宅すると、家の風呂場に鯉が泳いでいる。 軽妙な会話にニヤリとさせられつつも、同じ世代の「お父さん」のガンバる姿に思わずホロリ。 「雨を見たかい」は、20年前、勝手に大学を辞めて以来、物理的にも心理的にも疎遠になった母親が、最近少しおかしい(過去と現在が判らなくなってしまう)というので、久しぶりに九州の廃鉱の町に帰ってきた茂・39歳は、母の変容におびえ町へ逃避する。町をめぐりながら、意識の流れ的に過去を甦らせる。そのようにしてやがて母親を受け入れ、自らも再起を小説にかける。 最初は(母の様子に)ギョッとするが、そういう方向へは踏み込まず、自らの再生へと話が進んでいく、非常に向日的な作風で、ぐいぐい引き込まれる。この向日性は(作者の本領だろう)通俗性と紙一重なのだが、作者は危うげもなく踏みとどまって描ききっている。それは最近の作家としては抜群の文体が下ざさえしているからでもあろう。 それにしても有望な新人が登場したものだ。この人は遠からずぽんと抜け出てくるに違いない。昨年は長篇『ニライカナイの空で』(講談社)で坪田譲治文学賞を受賞しているらしい。これも読まなくては。 |
●池田次郎 著者は自然(形質)人類学者。発掘された骨から日本人の起源を考察している。 当時、埴原和朗が先陣を切り、山口敏、尾本恵市ら人類学者が、コンピュータをひっ提げて華々しく考古学に参入し、安田喜憲が壮大な環境考古学を立ち上げた時代で、その辺りを私は食い散らかしっぱなしにしていたのだった。本書ではそのあたりの業績を要領よく纏めてくれており、私のなかで乱雑にあった知識がすっきり整理してもらえた。 著者の説は、現在も歴然としてある(もちろん証明している)西日本人と東日本人の差異は、実に二万年前の旧石器時代にその端緒を開くという壮大なもので、ウルム氷期極相期、いずれも古モンゴロイドながら、シベリアから樺太、北海道を経て南下した一群と、アジア大陸南部を進発し、海を渡ってきた一群が本州中部で遭遇したとする。 また、戦後、顕著になった日本人の大型化(体位の向上)は、必ずしも食生活の改善によるのではなく、通婚圏の拡大(外婚)による「新しい血の獲得」(という言葉は使われていないが)に由来するものであることを統計的に証明している。たとえば同じ日本人と言っても、東北人(東)と近畿人(西)では、戦前までほとんど血の交流がなかったので、外婚に相当する。従って、正調怪奇小説家N氏ご夫婦のお子さんは、きっとすくすくと大きくお育ちになるはずである。 この、混血による大型化現象は、しかしコーカソイドとモンゴロイドでは顕現因子が違うというのが面白い。そのメカニズムは不明だそうな。ロバと馬の雑種であるラバが頑健であるのは、同じ理屈から結果されるものらしい。もっともラバは、馬とロバが離れすぎているので子孫を残すことができない(>ファウンデーションのミュール)。 ●石光真清 石光真清の手記の(二)である。石光は、出生の明治元年に始まり、大正、昭和に亘る膨大な手記を残しており、それを長子、石光真人が年代順に整理編集し、4巻に纏めたのものが公刊されている。 私は、理由は不明ながら、なぜか沿海州、シベリアに対する憧れがあり、特にロシア革命―シベリア出兵頃のかの地に格別の興味を持っている。 第二巻の本書は、明治32年、石光が特別任務を帯び、私費遊学の名目でウラジオストックに渡り、37年の日露開戦により本国へ送還されるまでの足かけ6年にわたる沿海州、満州での波瀾万丈の記録である。 これが滅法面白いのだ。石光は、要するにロシアの北満進出を諜報する密偵(スパイ)なのだが、スパイでありながら、人情に厚い馬賊、さらには当のロシア人とも友誼を結びつつ、あるいは男たちに率先して満州―シベリアの曠野に拡がった日本娘たちの哀感に接しながら、持ち前の行動力で満州の広大な荒野を縦横無尽に駆けめぐるのである。まさに大陸浪人、日本男児に相応しい大活躍。 中国の人にはけしからん事であろうが(とはいえ本書によれば、中国人つまり漢民族自身が満州に広がり得たのは、実にロシアが鉄道を敷設した結果なのであって、それ以前は少数の満人以外は無人の曠野だったらしい。つまり漢民族にとっても満州は外地、植民地だったのであり、それも日本人にたかだか十数年先んじたに過ぎなかったとも言えるのである)、こんなロマンにみちた時代、空間があったのだなあ、と時代の閉塞感に窒息しそうな私は、羨ましさすら覚えたのだった。 ●石光真清 石光真清の手記の(三)。(二)が「夢」の世界(明)の話なら、この巻は「夢」が「現実」に蚕食されていく話(暗)といえよう。 戦争が終わり、平和の世となると、石光に居る場所はない。またしても大陸へと引き寄せられていく。が、戦後の満州は、もはや嘗ての満州ではなかった。人情よりも法が、幅を利かせ、馬賊も海賊も出る幕がない。石光もやることなすこと裏目裏目にまわり、尾羽うち枯らして日本に帰らざるを得ない。 ●小澤重男 「元朝秘史」12巻(15巻本もあり)とは、チンギス汗の1代記と言うべき正集10巻と続集2巻からなる13世紀モンゴル語で書かれた原典(現存せず)の特異な漢訳である。 モンゴル語学者の著者は、この特異な形式を手がかりにして、「元朝秘史」(言うまでもなく漢語名である)の失われたモンゴル語原典の原題は何であったか? 原典の著者は誰か? いつ書かれたのか? という謎に挑戦している。 原典の原題は何であるかなどは、あっと驚く謎解きで、著者は古田武彦かと思ったことであった(汗)。 ●マーガレット・アトウッド 著者はカナダの人気作家で、SFにも手を染めているらしい(ACクラーク賞、ネビュラ賞受賞の長篇がある)。 「火星から来た男」 <通俗>ホラーでは、このようなストーカーは「外者」として描かれる。「こいつ人間じゃねえ」といった<断絶>を契機としてホラーは成立する。そうでなければ、読者は怖さを楽しめない。 このように、作者の視点は非常に多面的で、ある意味意地が悪い。 他に、「ベティ」、「キッチン・ドア」、「旅行記者」、「訓練」、「ダンシング・ガールズ」 全篇を通じて、何とも知れぬ、原因の判然としない不安感(生の不安)が通奏低音のように響いており、そのあたり福島正実に似ているかなと思った。「不定愁訴」という作品があるが、晩期の福島正実は、まさにこの題が示すような、原因もなくしくしくと痛むような不安な感覚を、これでもかと書きつづけた。しかし作品としてはほとんど成功させることができなかったのだけれど、こういうものを書きたかったんだろうなあ。 |
●森内俊雄 第1回泉鏡花賞を『産霊山秘録』(半村良)と分け合ったことで、SF読者の記憶に強く刻印された書名である。一読、同時授賞も当然と納得できた。すぐれた作品集である。 「翔ぶ影」 ――主人公小胎が付き合っていた女子大生が実はヤクザの親分の娘で、付き合っていることが父親にばれ(なんとこの父親は自分の手で娘を女にしようと思っていたのだ)、小胎は娘の父親が放った追っ手に左手をフォークで串刺しにされる。小胎と娘は東北本線で青森へ逃げるが、追っ手も同じ電車に乗っている。宿で、ラリった主人公は眠っている娘に書き置きを残し、宿の外に停めた車で見張っている追っ手のほうへ、自ら近づいていく……。 かくのごとくリニアなストーリーは、まさに出来損ないのB級映画(ATG系か)というか、クサい劇画そのままである。 「架空索道」 男は喀血し、病院につれて行かれ、即入院させられる。病室で様々な幻覚を見る。不思議なのは、幻覚の筈の、座っている男の足に、幻覚ではない配膳係のおばさんが躓き、ごめんなさいとあやまったこと。おばさんが出ていき、振り返ると、男はいない。 〈私〉が視る幻覚や悪夢のイメージが素晴らしい。ただし、 「暗い廊下」 「盲亀」 ヌマさんという人物が会社にいるのは事実だが、岬と関係が本当にあるのかはわからない。管理人のおばさんが言うように、「ヌマさんはいない、ヌマさんはどこにもいない」のかもしれない。 「春の往復」 個人的に、私の住んでいる地域が舞台なので、昭和20年代後半の(現在からは想像できない貧しさも含めて)ミナミや大阪南部から和歌山の描写が興味深く、面白かった。 ただし、 「駅まで」 子供を持つ父親として、非常に身につまされ、共感する話である。最後の、改札口で振り返った桑野の目に、息子の(桑野にそっくりになってきたと妻がなじるように言った)後ろ姿が映る場面はすばらしい。 ――全体に質の高い作品集であったが、部分部分に、作者の「書きすぎ」が私には認められ、気になって仕方がなかった。それはこの作者の「小賢しさ」であって、それは(小松左京作品にも看取できるものであるから)大阪的「いらち」に由来するものかも知れない。 ●飛鳥昭雄 古代史界では有名な、「混一彊理歴代国都之図」という地図は、日本列島が時計回りに90度以上回転した、九州を北端に日本列島が南へ向かってのびているように描かれていて、通説では当然ながら錯誤とされているものであるが、本書ではこの図は正しく、当時(3世紀?)の日本列島はまさに南へ伸びていたとする。 その根拠として、「魏志倭人伝」の記述が南方的であること。当時のプレート運動が現在とは格段の高速運動をしていたこと(また、その前段階として別の島だった西日本と東日本が2世紀後半に地殻変動で合体した。これが倭国大乱の直接的原因であるとする)を「スーパープリューム理論」で説明する。 私は地球物理学については何も言う資格はないけれど、たとえば本書は「東日流外三郡誌」の記述を全面的に採用するばかりか(これからして既に問題あり。この書が偽書である可能性は100%に近く、殆ど戦後書かれたものであると現在では見なされている。まず資料批判が全くなされてない)、「津保化族」をアイヌに比定し、「阿蘇辺族」は何とエスキモーに比定している。 アイヌ人に関しては、「琉球民族」(ママ)共々、モンゴロイドではないという、これはまた古くさい理論を持ち出してくる。最近(といっても20年来の)言語学的アプローチは等閑視されているのである。 本書のスタンスは、「報告があるのに公表されない新発見や、未公開にして隠してしまおうと決めた物事にスポットを当て、最先端科学で理論武装しながら、5年、10年後にようやく認められる理論体系を、はるか手前の段階で公表してしまうのを目的とする」というものだが、その実態は、とうに研究者によって検討され廃棄された理論であったり、なんの資料批判もなされていない臆説であったりする。 では、なぜこんな箸にも棒にもかからないものを読むかというと、「面白い」からというほかない。ただしそれは、「フィクション」として面白いのだ。 ●丸山健二 300年前、巡りケ原の北の外れに、箒星に似た尾を持った青い流星が、地響きをあげて落下した。それは谷間の流れが変わってしまうほどの衝撃で、闇夜だったにもかかわらず、本が読めるくらい明るく有明村を照らしたが、なぜか隣村の人々は全く気づかなかった。 天から降ってきたその光と音に啓示を受けた通りすがりの修験者が、星のかけらを祀るために社(奥社)をたてた。修験者は神官としてそこに居つき、爾来300年、神官が重い病に倒れたり死んだりしたときは、いつのまにかどこからか別の男がやってきてそれをひきついだ。村人は神官の名を知らなかった。神官に戸籍はなかった。 初代の神官は、猿を使者とした。使者は有明村の入口にあった家に文を差し込むと、巡りケ原へ帰っていった。 使者は猿とはかぎらなかった。30年前、父のときの使者は盲目の物乞いだった。祖父のときは朝早く畑で引き抜いた大根に〈旗〉の一文字が隅で黒々と書かれていたという。 〈私〉の旗を取りに行く行為と、30年前の父のそれ(子供だった〈私〉は、そのとき同行していたのだ)が交互に語られ、30年前の事件が次第に明らかにされていく。猛吹雪の原野を渡りきり、神官に迎えられ、旗を受け取った私は、そのとき、30年間自らのうちに秘めていたものが浄化されていることに気づく。 丸山健二版「妖星伝」である(丸山版「美しい星」という説も)。 とても不思議な小説だ(魔術的リアリズムというのだろうか)。そして非常に饒舌な小説でもある。 すなわち本書は、小説形式で書かれた自己主張の一面があり(ウルフガイが平井和正のアジテ−ションでもあるのと同様な意味で)、そういう意味で小説としてはすこし痩せているかなと、途中単調さを感じたのだった。けれどもラストがよかった。ラストはそれを取り返してあまりある見事さで、「浄化(象徴的死)と再生」をイメ−ジ豊かに描ききっていたのだ。満足。 ●高井信 ショ−トショ−ト24篇収録した、著者初めての作品集である(1983年刊)。 かくのごとくアイデア(オチ)に特化した作風であるがゆえに、「キミらにこのアイデア(オチ)が判るか」的な、非常に挑戦的なものも中にはあるわけで、「さあ、楽しませてくれ」的読書態度(ベストセラー小説を読むような)では、その面白さを見逃してしまう怖れが多分にある。非常に軽妙で読みやすい文章であるが故に、逆に通りいっぺんに走り読んでしまいがちなのが悩ましいところである。 本書を読む場合には(著者の他の作品でも同じことが言える)「著者の挑戦を受けてやるぞ」的・能動的な読書態度(スタンス)が要求されるように思う。 シミリ現象>先月の豊田有恒のアンソロジーにも収録されていた作品。オチショ−トショ−トの鑑のような傑作。 忍耐の報酬>後半の怒濤のようなナンセンスな展開に呆然とするのみ。 クロ−ン体質>発端の小指のクロ−ン人間化の描写が秀逸。 気前のいい人>寓話的ナンセンスがいつの間にかホラ−に(私だけの感覚かもしれんが)。 売り子>新幹線、売り子が後ろから前にいくばかり(戻って来ない)なことに気づいた男が遭遇する恐怖。不条理ホラ−。 目は口ほどに>文字通り目が主人公に反旗を翻す。ゲラゲラ笑えるんだが、ホラ−である。 念写男の末路>集中一番の傑作。ここまで読んで来て、著者のセンスが倉阪鬼一郎のそれと同種ではないかと思いはじめる。倉阪はホラ−+ユ−モアで著者はSF+ユ−モアなんだが、精神の向かう方向は同じなのではないか(後述)。 因果応報>最後のオチがすごい。しかし判りにくいのである(難しいというか)。読者は読み流さず、しっかり頭の中に<絵>を描くべし。 二人三脚>異世界ファンタジ−か。これも相当奇妙。異様なイメ−ジを味わうべき作品。 目覚まし時計>オチがよい。しかし判りにくいのである。読者は読み流さずどういう理屈か考えるべし。 (以上、掲載順) 読み終えて振り返り、あらためて倉阪鬼一郎とのある共通性を感じないではいられない。作風は全然違うこの両者のどこが似ているのかというと、それは、作中人物の取り扱い方である。あるいは作中人物への接し方というべきか。 一般に作家には、作中人物に感情移入してしまうタイプと突き放してしまうタイプがあるのではないだろうか。言い換えれば、作中主人公に対して<正>の接し方をするタイプと、<負>の接し方をするタイプがあるように思う。 高井信と倉阪鬼一郎は、ともに後者のタイプのようで、しかもかなり強烈に突き放して描く点が共通する特徴ではあるまいか。 そういう共通性があるとはいえ、両者は全く同じというわけでもない。 それに対して倉阪鬼一郎の場合は異なる。倉阪作品では、徹底して作中人物は<他者>であり、そこには憎しみすら感じられるほど作者と作中人物の間には確然とした断絶がある(作者と作中人物の間にまで「ホラー」の原理が働いているのだ)。これでは「笑えない」のです。倉阪ユーモアものは、可笑しさが即イタさに変容するのである。従って倉阪ユーモア小説はあくまで倉阪ホラーの一分野であり続けるわけだ。 (もっともさらに分析すれば、倉阪さんは自分自身の中の作中人物的要素を他者として憎んでいるのかも知れませんが) その辺が似て非なるところではあるが、どちらも自意識過剰で自我肥大したセンチな(正の)感情移入をする作家と比べて、非常に複雑な心理構造の持ち主ではあることは間違いない。 |
●掲載 2001年9月4日、10月10日(9月)、11月13日(10月)、12月11日(11月)、2002年1月8日(12月)