ヘテロ読誌
大熊宏俊

2002年 上半期

1月

横田順彌
『はるかなる旅路』
(大陸書房ネオファンタジー文庫)

 大河ショ−トショ−ト「宇宙船スロッピイ号の冒険」の第2弾である。10枚程度のショートショートが30篇収録されている。
 全篇「オチる」ショートショートで、この作者らしい長閑でホンワカした調子がたのしめるのだが、落とし方が全部同じパターンである。それゆえ、いささか退屈してくるのは否めない。どういうオチかというと、いわゆる「語り」オチである。作中話者がオチの部分を<語って>落とすというパターンなのだ。

 たとえば第3話「治安不良」は――

 スロッピイ号が訪れたトランという惑星は治安が非常に悪く、白昼、乗組員がトラン人の強盗に襲われて金塊を奪われてしまうが、幸い犯人は捕まる。乗組員が犯人に訊く。
 乗組員「君も大胆だね、この種の事件は夜起こるものだが、白昼堂々襲ってくるとは」
 犯人「そりゃ、おれだって夜の方がいいさ。でも、この星の夜は物騒で、おちおち強盗もやってられないんだよ」

 かくのごとく、まさに落とし話。落語なんである。それがなんと全作品、30篇ともがそうなのだ。
 ショ−トショ−トにオチがあるのは、あたりまえである。しかしその落とし方にはいろいろバリエーションがあり得る。すべてが「語り」で落ちるとは限らないのである。
 地の文で落ちるもの、描写で落とすものなど、いろんなオチがあり得る筈である。ところがこの作品集には、落語的なオチしかない。

 落語は、もともと語りの芸なので、本質的に「一回的」(同じネタでも演じるたびに皆違う)という特徴がある。
 つまり、表情やしぐさ、語りの調子など諸々の要素が重要なのだ。したがってオチもそれらの合わせ技のなかで、輝きもすれば、くすんだりもする。たとえば枝雀の落語は、(演じている姿が見えない)ラジオでは半分も面白さは伝わらないと思う。

 それに対して、文字芸術である小説、就中ショ−トショ−トには、伝達を担うものは文字しかない。合わせ技の〈束〉は、落語のそれよりずっとやせ細っている。それゆえ、文字芸術は、文字としてできる趣向の限りをつくさなければ落語にかなわないだろう。

 ところが作者は、本書では「語りオチ」という形式にこだわっているので、いきおい30篇も読まされれば、読者は単調さを覚えずにはいられない道理なのである。雑誌の中に、あるいはアンソロジーのなかに、ぽつんとひとつある分には問題あるまい。しかしショートショートという形態で出版されることを想定するならば、上記のこだわりは、読者に形式的な「単調さ」を感じさせてしまうに違いない。

 「字で演ずる落語」という趣向は、ショートショートのヴァリエーションのひとつとして、有効な手段であるのは間違いない。しかしそれに固執したことは、「ショートショート集」としてはマイナスであったように思う。

 ベスト7は
 第5話 少年と犬
 第12話 記憶喪失
 第16話 大名人
 第20話 もっともな理由
 第23話 春の惑星
 第28話 インド大魔術
 第30話 ある創世記


石井真清
『誰のために』
(中公文庫)

 石光真清の手記(4)
 三等郵便局長として小市民生活の喜びに足ることをおぼえた石光であったが、世間はそれを許してはくれない。
 大正五年、みたび石光は大陸に渡り、錦州に満蒙貿易公司という会社の商品陳列館を立ち上げる。これは成功し、順風満帆に見えたが、またしても石光にアムール行きの密命が下る……

 ロシアに革命が起こったのであった。革命後のシベリア情勢の情報収集が任務である。
 20年ぶりのブラゴベシチェンスクには暗い影が忍び寄っていた。革命の意義をはき違えた労働者の専横(バローズ金星シリーズに出てくる共産主義国家の描写との驚くべき類似。そういう極端な様相が革命の最初期にはやはりあったのだなと認識を改めた)、そういうなかでアムール州ボリシェビキ指導者ムーヒンとの思想信条を越えた友情がすがすがしい。
 「シベリアに合衆国を夢見た男」クラスノシチョウコフやコザック大尉セミョウノフら大物がぞくぞく舞台に登場するなか、ついに日本軍のシベリア出兵が始まる。しかし出兵のモチベーションに乏しい日本軍は(日露戦争とはうって変わった)軍隊としてのモラルも低い「旅の恥はかき捨て」の兵隊の集合に過ぎなかった。

 石光「一体シベリア出兵の目的が何であるか、私にも判らなくなりました」
 司令官大井成元は不快の色を浮かべて、「君は……何を報告に来たのかね、日本軍に忠告に来たのかね」
 石光は、潔く撤兵すべきであると述べる。
 「もう聴かんでもええ!」
 大井司令官は顔面を真っ赤にして立ち上がった。「君は一体、誰のために働いとるんだ。ロシアのためか」

 すべてを捨て、帰ってきた錦州商品陳列館は、しかし石光のいない間に莫大な負債を抱えていた!

 ――時代に翻弄された一人の男の半生。


草上仁
『スター・ハンドラー(上下)』
(ソノラマ文庫)

 ゲリー・カーライルの日本版といえなくもない。ただしあっちは単に異星動物をつかまえて動物園に引き渡すハンターだけど、こちらはつかまえた上で馴致する異生物訓練士。ともあれスペオペである。それもなかなか快調なスペオペだった。

 ひょんなことで異生物訓練士として雇ってもらえた主人公の女の子ミリの初仕事は、まだまともに飼い慣らされたことのない怪獣ヤアブの捕獲と馴致訓練である。仲間(すべておかしな連中であるのはお約束どおり)と共にボロ宇宙船で出発したミリであったが……

 ドタバタの積み重ねで進行していくストーリーは、小ネタも(ジュヴナイルには過剰なほど)贅沢にばらまかれていて、まさに良質のスペオペとして申し分のない仕上がりになっている。

 たとえば、真空球というアイデアは、気球が空気より軽いヘリウムや水素を注入して浮き上がるのに対して、球体内を<真空>で「満たす」もの。真空は水素やヘリウムより「軽い」ので、真空球はふわりと浮かぶのだ! このアイデアは個人的に大受けだった。そんな魅力的なアイデアがこれでもかと詰め込まれているので、読むのに時間のかかること。

 これはメインアイデアだが、怪獣ヤアブは自分プラス素数で群を形成する特性があり、そのため素数の識別と未知数を素数に分解する演算に特化した神経系が備わっている。このヤアブの能力を、巨大数を瞬時に素因数分解する回路として利用すれば、利用者は汎銀河暗号通信(素数から作られている)のすべてを解読できるのだ。これに着目したギャングがヤアブを盗み、取り戻そうとするミリたちに、ギャングの元愛人やら演芸艦隊(笑)やらが絡んで、ストーリーはシッチャカメッチャカとすすんでいく。そういう意味では数学SFでもあるといってもウソにはなるまい。

 スペオペであることは間違いないとしても、むしろハリー・ハリスンの書くようなスペースオペラに近い印象を受けた(特に軍隊の描き方など)。ユーモアに批評性があり、反スペオペ的スペオペとして読むこともできるわけである。
 そこら辺にころがっているミリタリーなスペオペとは一線を画す、ビシッと<意志>が通った快作である。カバーの「スペオペ新喜劇」という惹句は言い得て妙。


末永昭二
『貸本小説』
(アスペクト)

 昭和30年代前半、貸本店という商売が成り立っていた。全盛期には全国で2万から3万軒の貸本店が営業していたという。今日のコンビニが全国で3万6000店(H9年)ということだから、これはものすごい数字である。

 この貸本店の隆盛は、しかしアッという間にテレビの普及と生活行動(住郊外化に伴う職住離間、冷蔵庫の普及による買い物のまとめ買い化等)の構造的変化によって、主たる顧客である「非学生ティーンエイジャー」を根こそぎ奪われ、35年をピークに急速に衰退し40年代に至って完全に終息したという(私自身は貸本屋が近所にあったことは記憶しているが、利用したことはなかった。まあ小学生だから当然ですが)。

 考えてみるまでもなく、かかる貸本業の衰退は、同時期、急速に拡大したスーパーの勃興と同じ原因によるものであろう(サバーバン化と週末まとめ買い)。

 このように僅かな期間に興り消滅した貸本店であるから、貸本店専門に供給された所謂「貸本小説」は、資料もなくこれまでまともに調査研究されたことがなかったという。
 「名張人外境」ご常連の末永昭二さんがお書きになった本書は、初めてこの未踏の分野に取り組まれた労作である。

 取り上げられた作家は、城戸禮、宮本幹也、九鬼紫郎、園生義人、栗田信、野村敏雄、保篠龍緒、瀬戸口寅雄、井上孝、高樹純之(水野泰治)、風巻弦一、若山三郎、三橋一夫、竹森一男、鳴山草平、太田久行(堂門冬二)、太田瓢一郎(太田蘭三)、和巻耿介、南美穂(南美穂子)、萩原秀夫、中野俊介。

 このなかで、私が辛うじて知っている作家名は、城戸禮、三橋一夫くらい(現役名の水野泰治、堂門冬二、太田蘭三を除けば)。
 彼らの、もはや顧みられることもない小説が、簡潔に紹介されている。

 それを読むと、なかなかおもしろそうなのだが、しかしこれが曲者。
 本書のスタンスは、野田昌宏が「SF英雄群像」でアメリカのスペオペを紹介したのと同じといえる。「SF英雄群像」でキャプテンフューチャーを知り、こんなおもしろいSFがあるんかと、さっそく当時出ていた銀背のキャプテフューチャー三部作を買ってきた私は愕然としたものだった。野田さんの紹介ではあんなに輝いていた小説が、実際読んでみると、どうも違うのだ。

 これは野田さんの紹介の筆力がすごすぎて、実作がそれに負けてしまったのである。
 末永さんの本書も、同じではないのかな。どうも紹介だけで満足していた方が無難なような気がする。
 ともあれ、この「貸本小説」自体は大変おもしろい本である。一読の価値あり。


長山靖生編著
『懐かしい未来――甦る明治・大正・昭和の未来小説』
(中央公論)

 日本の「SF以前」の未来小説、科学小説のアンソロジーである。
 テーマ別に分けられている。

 「夢の月世界旅行」>月世界跋渉記(江見水蔭)/月世界競争探検(押川春浪)
 「いつも世界は滅亡する」>太陽系統の滅亡(木村小舟)/超γ線とQ家(南沢十七)
 「革命的に実現する理想社会」>下女の時代(生方敏郎)/建設義勇軍(宮野周一)
 「完全無欠の医学神話」>人工心臓(小酒井不木)/人間の卵(高田義一郎)
 「全知全能のロボット伝説」>人造恋愛(蘭郁二郎)/ロボットとベッドの重量(直木三十五)
 「幻想は未来を創る」>夜のロマンツェ(中谷栄一)/人間レコード(夢野久作)
 「摩訶不思議な発明」>試薬第607号(竹村猛児)/地軸作戦(海野十三)

 各テーマ毎に編者によって著された解説が付いている。
 この解説の部分だけ取り出せば、「SF英雄群像」や「貸本小説」と同じスタンスの読み物となる。小説よりこの部分の方が私には面白かった。

 ただ「SF英雄群像」と違うのは、著者がここで、19世紀後半から20世紀初頭にかけての内外の未来小説、科学小説を「近代」との関わりにおいて考察しようとしている点である。以下、私の感想。

 著者はいう。
 「これらの作品すべてを貫くある共通性が存在する。それはいずれの作品も、未来の可能性に対する強い意志を帯びているということだ。」(6頁)
 「近代がそれまでの時代と決定的に違っていたのは、「未来」を創り出したことにある。」(9頁)
 「江戸時代には、今日的な意味での「未来」は存在しなかった。」(9頁)
 「近代の自然科学は、回帰することなき進歩を高らかに謳い上げた。ひたすら右肩あがりの、輝かしい未来だ。/なかでもひろく庶民にまで浸透し、徹底的な意識改革をもたらしたのは、ダーウィンの進化論だった。」(10頁)

 という認識は全くその通りであり、近代はまさに「未来の発見」を契機として成立したのである。未来の発見とは、すなわちリニアな時間の発見=因果律の発見と同義である。因果律が近代を創り上げたといっても過言ではない。
 因果の論理を契機とするSFは、まさに近代の申し子なのであり、かかる未来(あるいは時間)の発見なしには成立しえなかったジャンルといえる。

 それは、「いつも世界は滅亡する」で明らかなように、薔薇色の未来だけを志向するものではない。事実SFは、当初の薔薇色の未来から、次第にペシミスティックな未来にとって変わられる。
 とはいえ、それは「江戸時代」に回帰することを意味しない。

 明るい未来に進もうと、暗い未来にぶれようと、SFは、リニアな時の矢すなわち因果的思考によって支えられている。脳天気なスペオペも、悲観的なアンチユートピアも、ともに「未来」を契機とする同じSFである。同じSFの両面に過ぎない。「未来」は近代を成立させ、SFをも成立させたのである。

 ただし、本書はかかる問題意識に特化したものではない。次第にレトロSF観覧記的筆致に変質していき、「SF英雄群像」のレベルに降りてくる。それはそれで面白いのだが、わたし的にはすこし残念だった。


五島勉
『狙われた地球――新版・ツングース恐怖の黙示』
(ノン・ポシェット)

 平成2年の刊。元版は「ツングース恐怖の黙示」のタイトルで昭和52年ノンブックから出ていて、そちらはリアルタイムで読んでいる。新版と謳われているが、ほとんど内容に変更はない模様(別に比較対照したわけではないが)。ゴルバチョフの名前とかが追加された程度ではないかと思われる。

 1907年シベリアを襲った<ツングース謎の大爆発>は、木星の雲のなかをフワフワただよっているアンモニア生物が、彼らの最も厭う酸素やCO2(つまり緑)に溢れた地球を撃ち滅ぼすために、木星族(木星軌道付近に遠地点がある短周期の彗星群。太陽と木星を2心とする楕円軌道を持っているわけではない。作者はそのように思っているようだが)の小彗星を改造した超水爆彗星によって引き起こされたものだった!
 そして、それ以前にも、地球は彼らからのアタックを受けていた!?

 地球に逃れてきた第五惑星人(小惑星帯にかつてあったと仮想された未知の惑星。ちなみに小惑星帯は第5惑星が破壊された結果ではなく、木星の重力干渉で惑星に成長しきれなかったというのが正解で、第5惑星は現在も過去も存在したことはない)やベリコフスキーの金星についても言及しつつ、この壮大な謎を、著者はひとつひとつ解明していく(汗)。

 面白いです! 惜しむらくは小説の体を成していないこと。え、小説じゃない? こりゃまたしつれいしましたー。

2月

石原藤夫
『卑彌呼と日本書紀』
(栄光出版社)

 本書は、意外にも日本ハードSFのパイオニアによる邪馬台国本である。
 石原博士が邪馬台国論争という斗いのマット上に、(「信念」が幅をきかせるこの分野においては)掟やぶりな「理科的方法」なる木刀を振り回しながら乱入してきたのである。これはエラいことになった!

 邪馬台国は大和であり、女王卑弥呼は「日本書紀」の中にいた!!というのが著者の結論。この結論に至る出発点として、著者はまず「魏志倭人伝」の資料性に疑義を呈する。

 1)「熱意不明の使者が実力不明の通訳を介して聞いた記録の又聞きや書写という文献に、どれほどの信憑性があるのか?」(116p)
 2)「不正確な地理的知識を元にして書かれた文献に、どれほどの信憑性があるのか?」(129p)
 3)「周辺国については伝統的に侮蔑的で間違いの多い正史を書くシナの古い史書中のごく短い文献に、どれほどの信憑性があるのか?」(134p)

 以上の3点より、「倭人伝」の資料性は「記紀」に及ぶべくもなく、「記紀」の補足として参照するに留めるべき文献なのだ、ということを論理的に導いてくる。つまり古田武彦に喧嘩を売っているのである(ウソです)。

 #確かにそれはそのとおりなんだけど、邪馬台国所在地論の楽しみ方のひとつに、そのような欠陥文献である倭人伝を、各論者がいかにひねくりまわして面白い解釈を引っぱり出してくるか、という面もあるように思う。欠陥文献だからこそ、1ジャンルを形成するほど沢山の邪馬台国論が出版され、かつ読まれるという現象を惹起し得ているのではあるまいか。

 さて、かかる認識の前提にたって、著者は「日本書紀」を(不必要なほど)詳細に語りつつ(まるで大学の講義録みたい。クリアーなので書紀の整理に最適ではあるが)、卑弥呼=天照大神説、卑弥呼=神功皇后説、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命説、等を順に検討、整理する。
 むしろ「書紀」の整理を著者はやっておきたかったのだろう(#原則として万世一系を認めているが、これは容認できない。管見では記紀のかかる姿勢は一種「書式」に他ならないと考える。おそらく書式を貫く原理原則があるはずと予想している)。

 そして著者は、ここでとっておきの隠し玉を提出する。
 それは「勘注系図」という古系図である。この新資料が「書紀」と付き合わされる。
 さらに、「年輪年代法」という最新の科学的測定法を取り入れ、近年めざましい考古学的発掘の成果と共に重ね合わされると……
 おお! なんとなんと、女王卑弥呼が「日本書紀」の中から浮かび上がってきたではないか!!

 ううむ。
 困るのよねえ、こんな戦い方されると……

 何を隠そう、私は「邪馬台国九州説」である。具体的には、当時は現在より海面が高かったことから、宮崎康平の仮説「二日市水道」を認め、かつ現在の筑後平野は浅い海というか、干潮の時は干潟になるような広大な沼沢地であった。そして二日市水道を介して博多湾と水運が通じていた、ということを前提とした上で、筑後川左岸水縄山地山麓、現在の福岡県八女郡から山門郡付近に比定するものである――将来、かかる観点で邪馬台国論を発表する予定だったのである。

 ほーんと困るのよねえ……私は20年かけて、上述の邪馬台国=山門八女説に辿り着いたというのに、この本を読み出してわずか数日にして、自説を放棄しなくてはいけなくなったのである! つまり将来書く予定の邪馬台国論がご破算になったということである!! どうしてくれるんだ、といってもどうにもなりません。

 本書が邪馬台国九州説にとどめを刺すものであることは明らかである。九州説論者は、こうなったからには倭人伝の語句をもてあそんでいる場合ではない。もはやマット上の戦い方は変わってしまったのだ! この鉄壁の石原理論を破る新たな視点と論理を発見しなければならない。それは当然「信念」だけでは駄目なのであって、本書に拮抗しうる理科的態度を根底に持つものでなければなるまい。できるか?


残雪
『蒼老たる浮雲』近藤直子訳
(河出書房)

 中篇の表題作と短い短篇を3本収録。著者は中国の現代作家であるが、本国では、その特異な作風から必ずしも発表の機会にめぐまれてはいないらしい。

 表題作>これはすごい小説だ。とにかくすごい小説である。ただ、どうすごいのかを説明するのはとても難しい。
 最初、全然パースペクティヴが開けず、すごく戸惑った。しかし読みすすむうちに、ここに表現されている小説世界が、実は夢と(小説内)現実が区別されず、同等の「確かさ」をもって渾然と交じり合って存在している世界なんだということが判ってきて、それですこし見通しが開けてきて、それからがぜん面白くなった。

 ストーリーはないに等しい。夢と現実が同一地平上に重なった世界が、どんどん猥雑にグロテスクに歪んでいく。「ぐぢゃ〜」となっていく。その展開がすさまじい。まるで分厚く重ね塗りされたシュールレアリスム絵画を見ているようである。
 圧巻は「結末」で、「ぐぢゃ〜」が「ぐぢゃ〜」のまま昇華され、その歪みが極致に達して、作品世界がふいに不思議な、幻想的な色合いに変化するのである。ここは圧倒的である。

 作中人物たちの奇矯な言動、振る舞いに、最初違和感があったのだが、香港映画(ジャッキー・チェンやデブゴン、ミスターブーなど)でおなじみの大袈裟な身振り手振りと同じであると気づいてから、気にならなくなった。実際こういうオーバーアクションは、中国人には普通の姿なのかもしれないと思った。

 ともあれ、ちょっと類例が見当たらない作風で、強いて挙げるならバ−セルミのそれに似ていなくもない。もっとも、使用されるモチーフは全然似ていないのだが、一読、度肝を抜かれる不思議な小説である。

 上述の表題作中篇の他に、短い短篇が3本。短篇は、表題作品を読んだ後だからか、やはり夢と現実の区別がない、同様の小説世界であるとはいえ、ずっとあっさりしていて淡い。表題作が分厚く塗り込まれた油絵ならば、短篇は水彩画のような印象である。なかでも「山の上の小屋」は幻想短篇として出色で気に入った。この作品はSFMに掲載されていても(SFM読者にも)全然違和感がないだろう。


田中啓文
『禍記(マガツフミ)』
(徳間書店)

 カタロヒナ文字と称される神代文字で書かれた古史古伝「禍記(マガツフミ)」に材を取った短篇集。「カタロヒナ文字」にタナカヒロ文が隠れているのは、偶然の一致というにはあまりにも怖ろしい暗合ではあるまいか(?)
 著者こそ70年代日本SFの衣鉢を継ぐ直系の後継者であるに違いない。そう思った。兎に角面白い。

「取りかえっ子」
 <風体小童に似て容貌老翁に似(……)蝗の引きたる小車に乗り(……)生後間もなき幼児をおのれの持ちきたる鬼子と取りかえる(「注釈禍記考」より)>「取りかえ坊」なる怪異がモチーフ。実は設定に無理があり破綻しているのだが、読中はさほど気にならない。それだけ読者を引きずり込む力が強いということであろう。

「天使蝶」
 モチーフの、人間の赤ん坊に寄生しその体内を喰って成長する結果、外見赤ん坊の胴をもった巨大蝶に変ずる「ミツカイさま」は、オールディスの描く異生物に勝るとも劣らない出色の異生物。ミツカイさまは、しかし超自然ではない。(UMAかも知れないが)ただの生物である。だからこの小説はホラーではなく純然たるSFなのだ。傑作!

「怖い目」
 <腐肉の塊に無数の目を蒔いたるが如き(禍記目録抄)>「ひゃくめ」なる怪異がモチーフ。
 このひゃくめも、最後に超自然存在ではなく自然生物であることが明らかにされるので、ホラーではなくSFである。なぜなら、自然生物と設定されていても、実際には存在しない空想上の生物だからで、それはミツカイさまも同じ。傑作!
 ただし同じように黄泉津戸喰いしている仲間が発症しなかったり、消失したりする理由が明らかでないのは、ホラー的で不満。

「妄執の獣」
 これも面白い。この妄執の獣は前2作とは異なって自然生物ではない。いわば<滅ボサレタモノ>の念の具象化であり、このままではホラーだが、最後に念は念なりに因果関係が明らかにされ(同時に子供と共闘する理由にも筋が通り)SFとなりました。傑作!

「黄泉津鳥舟」
 純然たるSFである。「あの世」を通過するワープ航法が完成し、そのため乗員乗客はワープ航行中は一度「死」ななければならない。荒巻カルナック航法に比肩するユニークな航法が引き起こすなんともいえぬ大騒動。傑作!

 以上の諸短篇を結合する「禍記」という小説が3分割されてプロローグ、幕間、エピローグを形成するのだが、別にそんな仕掛けはなくてもよかったように思った。

 ところで「発症しなかったり、消失したりする理由が明らかでないのは、ホラー的で不満」(「怖い目」)と述べたが、だからといって謎はすべて解明されなければならない、と思っているわけではないので為念。たとえば「天使蝶」では、キリスト教との関連が暗示されているのであるが、なぜキリスト教のモチーフがあらわれるのかという謎解明はなされていない。だがこの場合はそれで別に構わないのである。なぜならそれがメインのストーリーに絡んでくるものではないからだ。
 しかしながら、「怖い目」における上述の謎は、メインのストーリーを構成するものであるのだから、その理由が明らかにされなければ、ラストに必然性がなくなってしまように思われる。まあSF読みというスタンスから感じた問題点だといえばそれまでだが。


東海洋士
『刻Y卵』
(講談社ノベルス)

 一体、この小説は幻想小説だろうか? 幻想小説かと言えば、そうとも言える。たしかに幻想的なシーンはある。ただしそれは一ヵ所だけ。しかも確実ではない。主人公の錯覚なのかもしれない。
 また重要な登場人物で副主人公といってもよい六囲という男が不思議な死に方をするのだが、それにはあくまで「現実」的な理由がついている。刻Y卵のせいだという証拠はどこにもない。ただ状況証拠があるばかりだ。

 この小説、ある意味、実は何も起こらなかったのである。天草四郎因縁の計時機<刻Y卵>は、しばらく音信のなかった二人の登場人物をふたたび巡り会わせ、片方の死に立ち会わせるという役割を果たしはしたにせよ。

 そういうわけで、読みすすんでいくにしたがって、幻想小説だとか、SFだとか、ミステリーだとかいった意識は次第に消えていき、最後には小説を読んでいる、という意識だけが残るばかり……。結局、本書はただの小説なのだ。ただの小説として見事に豊かなのである。

 それにしても、巻末の竹本健治の解釈はいかにも「読みすぎ」だろう。「それがどうした、だから何なのだ」という感じ。何の解答にもなっていない。意味がないし、理由もない解釈である。

 おそらく竹本解釈は、本書で用いられた「破格の描写法」を、著者がなぜ採用したのか、それを説明しようという意図なのだと思われるが、それに関しては、私は別に事改めて説明する必要はないと考える。
 この小説を執筆中、けだし著者には、登場人物たちの思考感情がすべてきこえ見えていたのであろう。あるいはむしろ自動筆記に近い(小説の神様が降りてきた)状態で書き上げられたというべきか。

 当然ながら、発声された言葉だけが言葉ではないのである。むしろ発声した言葉は、発声されたその時点で既に、発声者の真意からすれば必ず何ほどか「ずれ」を生じているものなのではあるまいか。たとえば、アトランダムに今ぱっと開けた53pの最後の文章はこうである。

 《「壊すなよ」まァ既に壊れておったりしてな。》

 いうまでもなくこういうニュアンスが、乖離が、言葉と思考の間には不可避である。
 ある意味、著者はそれを忠実に表現しようとしたにすぎない。破格かもしれないが、別に独創でもない。ここまで積極的に採用した例はないにしても。
 ともあれ、執筆の過程で登場人物たちが、著者の手を離れて勝手に動きだし、血肉を備えていったのは確実である。著者はそれをすべて書き取ろうとした、そしてそれを表現する手法が上述の描写法だった。というだけの話ではないのか。

 実は、ストーリーだけ取り出せば、大したことがないのである。
 例えが悪いがこの小説、コンビニ弁当のエビフライなのである。コンビニ弁当のエビフライをつぶさに観察するとよい。コロモが付いて結構なボリュームに見えるエビフライだが、肝腎のエビのなんと細いこと!

 断っておくが、だから本書がまがい物だと言いたいのではない。
 この小説全体がエビフライだとしたら、ストーリーはエビの身である。コロモが上述の描写法の採用であり、ウンチクなのである。小説もかかるコロモの部分が大事であることは言うまでもない。いうまでもなくストーリーだけが小説を構成するものではない。エビの身とコロモは相互に支え合っているのであって、小説の豊穣さ自体はむしろコロモが保証するのではないだろうか。ヴァンダインからウンチクを取ったら何が残りましょう。

 というわけで、本書は一見ストーリーの進行には不要な部分が多いと思われるかも知れない。しかしそれは見当違いな見方なのである。
 もっと短くできる筈だ? とんでもない!
 だからストーリー=小説だと思っている人には、本書は面白くないかも知れない。この小説は、とりわけコロモの部分によってその豊かさを支えられているのだから。
 ラストの、何ともほのぼのと切ない情景も、そこに至るまでに分厚いコロモを通過してきたからこそ、納得して読み終えることができるのではないだろうか。


津原泰水
『ペニス』
(双葉社)

 これは濃密な小説である。
 予想とは違って、『蘆屋家の崩壊』のようなSFのF派作品ではなく、本格的な幻想小説であった。

 読み出してすぐ、ははァこれは「心地よく秘密めいたところ」だなと思った。
 主人公は初老の公園管理人。詰め所の管理事務所に私物のステレオセットを持ち込み、冷蔵庫には缶ビールが並んでいる。自宅にはほとんど帰らず管理事務所に寝起きしている。
 一方「心地よく秘密めいたところ」の主人公は、これまた初老の男であるが、公園墓地を住処とするルンペンで町なかへ出ていくことはない。
 つまりこの両者にとって、公園事務所や墓地は心地よく秘密めいた「隠れ家」、一種個人的ユートピアなのである。

 とはいえ、「心地よく……」は純然たるファンタジーなので、ストーリーは(ある意味)とおり一遍に進行し、想定された大団円に向かって心地よく着地するのであるが、本書は違う。
 それはもう、ヴォクトなみにエピソードがこれでもかと投入され、事実も夢も妄想も同一レベルで語られ、その結果リニアなストーリーは歪み撓み、読者を混乱させないではおかない。

 とくに終盤に入ってストーリーは奔流のように流れはじめる。流されないように意識してゆっくり読まないと溺れてしまいそうになる。
 それに輪をかけるのが、いわゆる実験的な手法の多用で、そこまで衒わなくてもいいのではないかとさえ思われるほど。最後にいくつかの伏線が解決されるのだが、これはあらずもがなで、ややサービス過剰かなと思った。つまり終盤で、それまで剛性を保っていた幻想小説の結構がくずれ、いささか通俗に流れたように思われる。

 ともあれ、濃厚なコクは最後まで持続し、ふんだんに投入されたエピソードを、とにもかくにもひとつのストーリーに纏め上げ組み伏せた力量は大したものである。『蘆屋家の崩壊』の感想文でも書いたと思うが、遠からず津原泰水の時代が来ることは間違いない。

3・4月

山之口洋
『われはフランソワ』
(新潮社)

 15世紀フランス最大の詩人にして泥棒、奇しくもジャンヌ・ダルク処刑の年にパリに生を受けたフランソワ・ヴィヨンの伝記小説である(とりあえずそう言っておく)。

 一応、ピカレスクなヴィヨンの生涯を忠実にあとづけているようにみえる。しかし当然ながら、単なる伝記小説を、「オルガニスト」の作家が書くはずがないのである。それについては後で述べるが、ともあれ、15世紀パリの市井の雰囲気が目に見えるようにありありと描かれている。描写に喚起力がある。もちろん資料も縦横に駆使されているのだろうが、資料的事実の隙間に、作者の想像力がわかちがたく埋め込まれての(内的)リアリティであろうと思われる。

 ヴィヨンの生涯はトラブルの連続。とにかくやることなすこと、目が悪い方へと回っていくヴィヨンの人生は、読んでいて切ない。
 傍目から見ればゴロツキ以外の何ものでもないヴィヨンである。そんなゴロツキであっても両親にとってはかけがえのない子供なのだ。親不孝を幾重にも積み上げるヴィヨンを、育ての親も生みの母親も最後まで見捨てることをしない。
 親とはまあ、そんなものなんでありましょう。ヴィヨン同様に親不孝者の私には、とりわけ身につまされたところであった。そんな私も、自分の子供に対してはやはり親、同じようなことをするのだろうな、サガというのか本能なのか。
 ともあれ、私よりずっと若い作者が、こういう情景を書けるというのは驚きだった。蓋し作家とは<共感の人>なのであろう。

 さて、本書が単なる伝記小説ではない所以だが――
 璧頭に引用された「おれはフランソワ フランス人だ こればっかりは気が重い」という詩片が、キイワードである。
 作者は、かかる「視点」に立って、ヴィヨンの生涯を物語っているのである。この「視点」のユニークさが、本書を単なる伝記小説に終わらせず、一種想像的な物語に仕立て変えている。

 ヴィヨンは、史実的には、パリ追放の宣告を受けてから以降の足取りが、全く不明となるのであるが、作者はそこに、あっと驚くとてつもないアイデア(解釈)をすべり込ませ(当然伏線が張られてある)、パリ追放後のヴィヨンの足跡を、想像力をふくらませて描くと同時に、再帰的に、いいことが何もなかった前半生が照らし返され、その遠因が解明されるのである。この辺はわたし的にはセンス・オブ・ワンダー爆発で、おお、と膝を打たずにはいられなかった。そういう意味で、本書は(わたし的)SFである。

 ただこのアイデアは、しかし一種先入見(ある意味偏見)に基づくものであるのがちょっと困惑させられるところ。でも、とりあえず小説内事実として認めてしまえばノープロブレム。本書はノンフィクションではなく小説、それもリアルなふりをしたノンリアル小説、即ちSFという、実に周到に用意された<たくらみ>なのだから。


林譲治
『大赤班追撃』(デュアル文庫)

 読み始めたら終ってしまった。短かすぎ。
 それもその筈、帯に謳われているように、本書は《ALL500円デュアルノヴェラシリーズ》の一冊として出版されたもの。つまり、最初から枚数の上限が設定されていたのであろう。結局170頁に収まるよう、作者はストーリーを削りに削っているように思われる。
 その結果、説明が省略され、ストーリーが端折られ、最終ページなんか、本当に紙幅がなくなってしまったんだろう、5頁分くらいの内容が1頁に詰め込まれてしまっている。

 そのような次第で、本書で重要な役割を果たす太田のおばちゃん@「実は」が、なぜ民間宇宙艇に乗っていたのか、というストーリーの根幹に関わる理由が私にはよく判らなかった。
 この民間宇宙艇が秘密裏に大赤班へ侵入しなければならない理由を、太田のおばちゃん@「実は」が最初に説明しているのであるが、読み終わった段階(すべてが明らかになった段階)ではその説明では意味をなさないように思われた。
 想像を逞しくするなら、おそらく本来はもっと別の「理由」(別のストーリー)があったのではないだろうか。しかしそれでは絶対命令の170頁に収まりきらなくなるので、作者はその辺をばっさり刈り取ってしまったのではないか。

 私の憶測が事実に近いとすれば、これは作者が可哀想というしかない。
 せっかく、木星気圏を舞台に、追う者と追われる者が知力と技倆のかぎりをつくして闘う(だまし合う)コンゲーム風テクノハードSFになるはずが(一定の長ささえあれば確実にそうなっただろう)、浜辺の打ち上げ花火みたいに、上がったと思ったら落ちてしまったという感じを否めない。
 オンボロの民間宇宙艇を撃墜するために、宇宙軍の最新鋭鑑がわざわざ木星大気圏に降りてきたというのに、ちょっとつばぜり合いをしただけで、あっさりストーリーが腰砕けてしまうのだから。

 私自身、だんだんと引き込まれて来て、さあ、これからどうなるのかな、と期待が膨らんできたところで、ふと、ページがほとんど残ってないことに気づいたときは、のけぞった。
 案の定、そこからストーリーは駆け足となり、ばたばたと話は片づいていき終わってしまった。いや残念。
 作者には本書の長篇化を希望したい。


高井信
『名古屋1997』(トクマノベルス・ミオ)

 西暦2182年、24才の新入社員である「おれ」は、過去の世界でサバイバル研修をするために、1997年の東京に向けタイムマシンで出発した。ところが手違いがおこり、着いた先は1997年の名古屋だった!
 その頃の名古屋は、<排他都市宣言>をし、よそ者を追放して、事実上鎖国状態にあった。名古屋弁をしゃべれないものは生きていけない世界と化していたのだ!!
 「おれ」は必死に名古屋弁を習得し、完璧な名古屋弁をしゃべれるまでに上達する。ところが、それが悲喜劇の始まりであった……

 鎖国市・名古屋の描写が、なんとも「異世界(いせきゃあ)」感を醸し出しとって、どえりゃあ面白うてかんわ。
 ブラウンの『発狂した宇宙』を、ちーと思い出したがや。それほど魅力的な世界設定(せきゃあせってー)だぎゃ。いちおう単線時間ものなんじゃけど、むしろ複線多元宇宙ものに仕立てとったほうが自然だったんではあるみゃあか。まあ私の個人的見解(けんきゃあ)だがや。

 コミカルな名古屋弁の効能で、そっちにばっか目が行ってしみゃあがちなんじゃけど、世界構築(せきゃあこうちく)というSF的見地からみとっても、いや、なかなかのもんだて。

 ところでこの本、標題が古くっしゃあなってもたで、改題(かいでゃあ)して『名古屋の逆襲』のテャートルで双葉文庫から新しく出とるんだと、まあいっぺん、さがして読んでみてちょ。
 263項目の詳細な日本語−名古屋弁対訳註や、名古屋弁活用表も付いとるでよ!


草上仁
『さまよえる海(上)』(ソノラマ文庫)

 スターハンドラー・シリーズの第2弾である。 
 本書では、「ソラリスの海」ならぬ惑星ヴィニヤードの<生きている水>を、ご存じ「スター・ハンドラー」のスチャラカチームが飼い馴らそうとして大騒動を繰り広げている。

 惑星ヴィニヤードの<生きている水>は、「ソラリスの海」とは違って、正確には水そのものではない。一種のプランクトンで、ヴィニヤードの水には、すべてそのプランクトンが満ちていて、それらがネット状に結合して内部に水を抱え込む構造になっているので、事実上海も河川も地下水もすべて結合して、一種巨大生命体を形成しているのだ。

 さてこの上巻では、驚くことに、かかる縦糸には全然進展がない!
 というか、登場人物それぞれが、前作にもまして異様にキャラ立ちしているのである。皆が皆、ウケ狙いのスタンドプレイに走るので(誇張)、ストーリーがなかなか前に進んでいかないのだ。まさにスペオペ新喜劇の惹句にうそ偽りなし。

 とにかく、この巻では、一体だれが主人公なのか判らないほど。で、ようやく<生きている水>が、意識的(?)な行動を起こしはじめたところで、上巻終わっちゃった。
 うわー、これからというところなのに……。これはたまりません。著者には速やかに下巻を出してもらわねば。


武光誠
『古代史大逆転』(PHP文庫)

 「通説を問い直す20の視点」という副題が付されている。
 著者自身も「本書は、これまでにない視点から日本の古代史を見直したものである。ただし(……)単なる思いつきによるものではない。文献史学の立場で正当とされる方法を用いて導き出したものである」として、トンデモ本とは一線を画したものであることを強調している。

 ただ、一般書として書かれたものだからかも知れないが、そう言うわりには結論に至る論証が省略されていて、不満が残った。内容的にも、少なくとも私には、そんなに驚かされるものはなかった。もっとも、教科書的な歴史しか知らない読者を想定して書かれているのであって、私を読者に想定したものではないのだから、致し方ないかも知れない。

 一、日本列島における原人の存在は否定できない
 二、邪馬台国以前に存在した出雲神政王国
 三、卑弥呼は魏の策士に暗殺された
 四、神武東征伝説にはモデルがあった
 五、秦の始皇帝と大和朝廷成立の関係
 六、朝鮮半島に侵攻した日本軍は存在しない
 七、古代文化のふるさとは百済ではなく高句麗にあった
 八、日本府は任那を支配していない
 九、聖徳太子は渡来系勢力に操られていた
 十、ついに天皇陵が発掘された
 十一、蘇我氏を滅ぼした黒幕は秦氏だった
 十二、藤原氏は天智天皇の後胤だった
 十三、天武天皇は天智天皇の弟ではなかった
 十四、奈良はなぜ都に選ばれたのか
 十五、長屋王は皇位を狙っていた
 十六、弓削道鏡は後胤だった
 十七、平安遷都は秦氏の陰謀
 十八、在原業平は反藤原の闘士だった
 十九、民衆の反政府活動が道真の祟りを生んだ
 二〇、平将門は関東独立をはかった

 私の関心が、せいぜい6世紀までなので、後半になるにしたがってつまらなくなってくるのはこちらの事情であろう。けれども、客観的にも後半は切れ味が鈍いような気がした。

5月

古山高麗雄
『小さな市街図』
(講談社文庫)

 戦後30年、朝鮮からの引揚者である吉岡久治は、現在はデパ−トの保安係をしている。ひょんなことで、かつて住んでいた鴨緑江南岸の都市・新義州の日本人町の市街図を作り始める。それは存在しない都市の地図。引揚者たちのそれぞれの記憶の中にしか、もはや存在しない町のたたずまいを、白地図上に復元していく作業である。

 新義州からの引揚者に連絡を取り、それぞれが住んでいた家の、向こう三軒両隣の情報を求め、それを白地図に記入していくのである。
 その情報提供を求める手紙を受取った高原綾子の胸中に、引揚げ前夜の新義州がまざまざとよみがえる……。

 互いに未知の男女の心に甦る植民地の日々――そして、ふたりの「現在」がすれ違う。
 淡々とした筆致で「人生」をピンナップした佳品。ひきこまれて読んでしまった。年齢限定、40歳以上の人のために書かれた小説であると思った。それより若い人は、40になるまで本書を読むのは我慢すべし。きっと何が書かれているか判らないだろうから。


小川未明
『小川未明童話集』
(新潮文庫)

 読んでいて、卒然と子供の頃「童話」が好きではなかったことを思い出した。理由は、蓋し「道徳」的な「為にする」話が多かったからではないかと思い返す。

 本集にも「道徳」的な話が録られているが、そうでない話も多く、そのような、「為にする」のではない話は楽しめた。
 「世界」を読者の前に現前させる小説(ダンセイニを私は念頭にしている)が「ファンタジー」であるのなら、本集中の多くの作品はまさしく「ファンタジー」に違いない。

 ダンセイニに言及したが、未明が好んで用いる北方的モチーフ(荒れた北の海、波、雪と氷etc)など、まさにダンセイニ風という以外にない(たとえば「赤いろうそくと人魚」では、最後に町が滅びて滅くなってしまう)。
 そのためであろうか――とにかく暗いのである。こんなの子供に読ませていいのかと心配になるほど暗くて哀しい話が多い。むしろ大人が読むべきファンタジー小品集だと感じた。

 特に気に入ったのは、
 「野ばら」>それぞれの国から国境を守るために派遣されたふたりの兵士が、国境をはさんで対峙するうちに仲良くなるが、やがて二つの国に戦争が起こって……

 「眠い町」>世界を旅行している少年が、そこにいると不活発になってしまう「眠い町」を通りかかり、その町をつくったという老人に出会う。老人(神?)は最近の人間が休むことなく鉄道を敷いたり電信をかけたりするので、そのうちに地球が砂漠化するのではないかと憂えて「眠い町」を作ったのだと言う。少年に不活発化させる砂の入った袋を渡して、世界中をまわって、この砂で人間を不活発化してきてほしいと頼む。少年は世界を回り、砂を振りまいて、また眠い町へ戻ってくると……
 この話は一見「為にする」話なのだが、最後でそれがひっくり返され、道徳性が無化される。

 同様に道徳性が無化される話としておもしろいのが、
 「兄弟のやまばと」>山奥に住むやまばとの兄弟が、遠出をした海辺で町の白いはとに出会う。兄弟は町のたのしさを聞き、町が危険なことに注意を促す母ばとを残して町に出かける。案の定兄弟は帰ってこず、母ばとは悲嘆にくれる。と、ここまでは定石どおりなのだが、それから半月も立った頃、突然疲れ果てた様子の兄弟が現れ、「町の空は真っ赤だ。(……)みんな焼けてしまった。私たちはやっと逃げて、ここまで来た」という。上述の定石が、全くもってだしぬけに倒立させられ、アナーキーに破壊されてしまうのである。うーむ。

 その他に、妖精(精霊)物語風の「月夜と眼鏡」、「港に着いた黒んぼ」、「島の暮れ方の話」がフィオナ・マクラウドっぽくてよかった。
 ――と書いてきて、未明はケルト的な作風の持ち主だったのだなと、遅まきながら気づいた。それともケルト風物語を、未明は読んでいて、影響された、ということだろうか。


小林泰三
『ΑΩ(アルファ・オメガ)』
(角川書店)

 これは傑作。なんとハル・クレメントに始まり、クラ−クに終わるという話である。ラストの超ヒューマニズム的センス・オブ・ワンダーに感動! わたし的には、純然たる本格SFである。 
 全然小難しい話ではない。むしろものすごく読みやすく、途中、まるで半村良を読んでいるような錯覚さえ覚えた。

 おばあさんの顔をお尻に融合されてしまったおじいさんのエピソードなど、「果しなき……」のラストに勝るとも劣らぬ名シーンであると思う。涙なしには読むことあたわざるも、その一方では、おかしくて吹き出してしまう場面も多々ある。著者は、自在にストーリーを「もてあそんで」いるかのようだ。手練れである。

 この30年間、日本SFのベスト作品選びの企ては、常に「果しなき流れの果に」と「百億の昼と千億の夜」の2作品によって争われてきた。しかし今後、この種のベスト選びは、前2作に、この「ΑΩ」が絡んでくるのではないか。そう言いきっても決して言いすぎにはならないと思う。

 ヘテロ読誌の『人獣細工』や『密室・殺人』の感想にも書いたが(古いのでネット以前の紙媒体版所収)、著者の作品には所謂<謎>が謎のまま残る余地はない。すべては理屈のもとに解明され、説明し尽くされてしまう。本書もこれまでの作品同様、やはり解明されずに残った謎は皆無であった。

 とはいえ途中気になった事項が二つあった。まず、杉沢村の湖に現れた恐竜状のキメラである。複製なのだが、オリジナルが絶滅しているのにどうして複製できるんだ、と思っていたら、あとであっさり説明があった。うーむ。

 もうひとつ、だいぶ後ろの方に出てくる、「(わからない。一億年前は天体から作られた巨大な機械を太陽系に送り込もうとしていた)」の「太陽系」であるが、「銀河系」の書きミスとちゃうんか、とツッコミを入れていたら、最後でちゃんと整合性が保証されてしまった。しかもその結果、最初の方に出てくる「太陽系」の位置も確定した。むむう。

 ――つまり、まんまと著者の術中にはまってしまっただけの話だったのだ。いや悔しい。
 とにかく精巧に構築されているので、本格パズラー同様に、読み終わった後、その構築具合をチェックしながらもう一度読み返すと、面白さも倍増するタイプの小説なのだろう。

 そういうわけで、本書は「ホラー」ではないのである。すべてが解明されてしまうホラーなんて(原理上)ありえないのだから。したがって帯の「ホラー」は虚偽である。疑いもなく本書はSF――ハードSFにして本格SFである。しかも(というか、にもかかわらずというか)70年代SFに拮抗しうるエンタテインメント性にとんだ、リーダビリティの高い、「面白い」小説でもある。


吉川良太郎
『ペロー・ザ・キャット全仕事』
(徳間書店)

 カバ−に「近未来フランスを舞台にした、スピーディー&スタイリッシュ、クール&テクニカルな新感覚SFノワール」とあるが、看板に偽りなし。
 第2回日本SF新人賞受賞作とのことであるが、とても新人のデビュー作品とは思えない。抜群のうまさである。ところが著者は、まだ20代なかばらしい。驚くべき若書き。怖いもの知らずの才気ばしった文体が実によろしい。

 ストーリーはだいたい今から50年後、<第3次非核戦争>が終結した2060年代(?)のフランス。パパ・フラノというギャングの大ボスが支配する歓楽街<パレ・フラノ>を舞台に、偶然にも、サイボーグ化された猫に精神を憑依させ自在に操ることができる電脳技術を手に入れたペローという名の、まさに「猫のように」群れを厭う精神の持ち主の若者が、その技術を保持するが故に、暗黒街の抗争にまきこまれ、組織に取り込まれるも、自らの自由を求めて大活躍をするという話。

 電脳技術についてのSF的説明はほとんどなく、読者はそういうことが可能であるということをアプリオリに受け入れなければならないところが、SFとしてはちと弱い。

 表面いかにもサイバーパンクの洗礼を受けた、今日的なストーリーなのだが、私自身は、非常に懐かしい印象を持った。
 それもそのはず、本書の作品世界は、いかにも新奇な電脳SFの姿をしているが、その表面を剥いでみれば、そこにはかつてのフランス映画、ジャン・ポール・ベルモントやアラン・ドロンが競い合っていた時代のフランス流ヤクザ映画という地金が姿をあらわすだろう。

 懐かしさの印象は、それだけではなく、これは私だけの感覚かも知れないのだが、本書は、FLNとのアルジェリア戦争から5月革命あたりの、パリが最も騒然とし、輝いていた時代の空気が色濃く反映されているように思われてならなかった(毛沢東語録などというものが小道具として使われていたりするのだ)。

 つまり第3次非核戦争というのが、第2次大戦に比定できるのではないかと思われるのだ。想像をふくらませれば、たぶんこの世界で、第3次非核戦争は2045年に終結したのではないだろうか(よく読めば2052、3年のようだ―後に記す―)。一見近未来世界を描いているように見せながら、本書が描き出しているのは、というか下敷きにしているのは、実に1950年代、60年代の、パリなのではないか。
 著者は仏文でバタイユを専攻しているらしい。だとすれば、私の想像はあながち見当はずれでもないように思われるのだが……。

 SF度はさほど濃くないにせよ、また内容的にも全然新しくもないにせよ、抜群の面白小説であることは間違いない。


関裕二
『検証 邪馬台国論争』
(ベスト新書)

 「邪馬台国論は江戸時代に始まり、いまだに結論が出ていない」(本書カバー)。本書では、その百家鳴争(迷走)する邪馬台国論争の歴史を、簡明に整理し、解説していて、非常に便利である。読者は必要に応じて明記されている原著(というのか元本)にあたればよい。

 以前、<季刊邪馬台国>で那珂通世を再評価した邪馬台国論争史の特集号があったが、入手は困難だろう。私ももはや手許にない。当時なかった年輪年代法の紹介もなされており、過日紹介した石原藤夫さんの『卑弥呼と日本書紀』を読む前にざっと目を通しておくと、石原博士の方法論が堅実なものであることに気づかされるだろう。

 さて、論争史を概観したあと、著者は「悲しいことに、文献から邪馬台国を探し出す作業は、頓挫したと言わざるをえない。この結果、『魏志』倭人伝を読む限り、邪馬台国は日本のどこにでも比定できる という、なんとも情けない結論をわれわれは得たのである。そしてこうなった以上、確かな物証を待つしか手はない」(131p)。として、近年の考古学者の発言力の高まりに理解を示す。実際、近年の考古学的的発見は想像以上であり、「ほとんどの考古学者は、邪馬台国畿内説を取っている」(131p)のは、石原博士の著書にも言及されていたところ。本書でも考古学(他、科学的アプローチ)による新知見を紹介している。

 本書の3分の2はかくのごとくよく整理された邪馬台国の入門書である。ところが、残りの3分の1で、著者は突然とち狂っちゃうのだ!
 以上の結論として、邪馬台国畿内説が「妥当」であることを認めた上で、いわば確率が高いからといって事実とは限らない(という言い方はしていませんが)として、大和岩雄の説を援用しつつ、次第に自らの幻想邪馬台国を開陳しはじめ、前半の科学的態度からは豹変してしまう。内容は書かないが、虚構としては大変楽しい。

 結局、著者が表現したかったのは、かかる幻想邪馬台国だったのであろう。ところが今日の状況は、紙面の3分の2を消費してでも、あらかじめ逃げを打っておかなければならない状況なのだろう。
 それほどまでに、従来の幻想古代史は考古学に追いつめられつつあるということなのかも知れない。

 ちなみに、著者の本は6年ほど前に『謎の出雲・伽耶王朝』を読んでいるのだが、本書では若干論旨が変わっているように思われる(紙媒体「ヘテロ読誌」1996)。ある意味それは当然で、考古学的知見が日進月歩の今日、10年前の持論を堅持している人の方がよほど怪しいのである。


野尻抱介
『太陽の簒奪者』
(ハヤカワSFシリ−ズ・Jコレクション)

 2006年、高校2年生の天文部員、白石亜紀は水星の太陽面通過を観測中、水星の赤道部分から立ち上がり、水星直径の約3倍まで延びる奇怪な塔状の物体を目撃した。それが彼女の後半生を数奇な運命に巻き込む<事件>との、まさに<運命的>な邂逅であった。……

 それは何者かが、水星を解体し材料にして、太陽を取り巻く直径8000万キロのリングを形成しようとしていたのだ。リングが形成されるにつれ、日照量が減少、地球は寒冷化にむかう。

 2021年、目撃をきっかけに科学者となった白石亜紀は、地球の危機的状況を救うための破壊ミッションをになう宇宙艦の搭乗員となっている。
 彼女はリングに降り立ち、リングが、あとからやってくる異星人の移住船団のブレーキの役目を担うものであることを突きとめ、さらにその破壊に成功する。その功績により、白石亜紀はノーベル平和賞を受賞。
 やがて、異星人が1380年に44光年離れた母星を出発したことも判明する。

 2041年、いよいよ異星人の宇宙船が太陽系に姿を見せる。時に51才の白石亜紀は、コンタクト艦の艦長として高速で接近してくる異星船に向かって出発するのだったが……

 ――本書はオーソドックスなファーストコンタクトテーマのハードSFである。
 併し私には、それ以上に、人間の営為とはなにか、人間の生涯とは何か、に思いを馳せさせてくれるものだった。
 本書は、いわばごくふつうの高校生の少女が、運命的なきっかけで、関わってしまった35年にわたるミッション(使命)の、始まりからその終了までを描いた話として読める。

 本来なら、白石亜紀は、高校を卒業し大学を出、恋愛をして結婚し、母親となり……というきわめてありふれた、しかしそれなりに自足した後半生を送ったのかも知れない。
 ところが、水星から立ち上がる塔を観測した瞬間から、その人生は全く異なる方向へ向かってしまう。その35年は、まさにいまだ見ぬ異星人という恋人以外のすべてを(両親さえ)捨て去る35年だった。ある意味残酷な選択なのではないだろうか。

 とはいえ、私はどちらがいいとか悪いとか言っているのではない。ひょんなことから人生が180度変わってしまう<ふしぎ>を、本書は描いているように思われてならない。

 一方、地球人によって、異星人の未来も180度変わってしまうのであり、結果的に一万年を越えてしまった異星人の移住ミッションも、やがて終了するのであるが、かかるふたつのミッションが交差する、言い換えれば<天文学的時間>と<日常的時間>の交差を現前させる感動のラストは、(たとえ折角構築した異星人描写と矛盾しようとも)まさにセンス・オブ・ワンダーの醍醐味である。めくるめく時間的感覚に圧倒されるばかり。


井田茂
『惑星学が解いた宇宙の謎』
(洋泉社・新書y)

 5月23日に出たばかりの、ということはつまり、(現在のところ)日本で最新の惑星学の現状を概観した本と言える。
 概論だけに、ほんのさわり程度ですこし物足りないが(新書だから当然である)、まず宇宙論の歴史と到達点がしめされ、しかる後、宇宙のなかでの太陽系の形成→地球の誕生→他の地球型惑星の誕生→巨大惑星の誕生→太陽系外の惑星の発見→惑星学の今後の展望と論が進む。つまり、大から小へといわゆる水道方式になっているので、非常に理解しやすい。

 百花繚乱の宇宙論、太陽系形成論の歴史、天体物理学の進展が観測手段の進化と相関的であることなど、古代史や邪馬台国論と考古学その他の技術の進展の関係に似ていて興味深い。

 著者の立場はいわゆる「平民論」。太陽系の形成→地球の誕生→知的生命体=人間の誕生は、ごくふつうの現象という立場だ。これに対して「選民論」が10年ほど前にもてはやされた。ソウヤーがよく描くような「宇宙の人間原理」と呼ばれる立場である。
 私は松井孝典の著作を、一時期集中的に何冊か読んだことがあるのだが、本書には一回言及されるだけ。そういえば松井は「選民論」だった。

 太陽系外惑星の発見が、観測方法の進展につれずいぶん成果を上げていること本書ではじめて知った。太陽系とはかなり異質なその世界像はとても謎めいていて魅惑的。今後どのような一般化がなされて太陽系と他星系を統一する形成論が「平民論」的に生み出されるのか、楽しみ。


掲載 2002年1月28日、3月13日(2月)、2003年4月27日(3・4月)、4月29日(5月)