ヘテロ読誌 |
大熊宏俊
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2002年 ●上半期
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1月 ●横田順彌 大河ショ−トショ−ト「宇宙船スロッピイ号の冒険」の第2弾である。10枚程度のショートショートが30篇収録されている。 たとえば第3話「治安不良」は―― スロッピイ号が訪れたトランという惑星は治安が非常に悪く、白昼、乗組員がトラン人の強盗に襲われて金塊を奪われてしまうが、幸い犯人は捕まる。乗組員が犯人に訊く。 かくのごとく、まさに落とし話。落語なんである。それがなんと全作品、30篇ともがそうなのだ。 落語は、もともと語りの芸なので、本質的に「一回的」(同じネタでも演じるたびに皆違う)という特徴がある。 それに対して、文字芸術である小説、就中ショ−トショ−トには、伝達を担うものは文字しかない。合わせ技の〈束〉は、落語のそれよりずっとやせ細っている。それゆえ、文字芸術は、文字としてできる趣向の限りをつくさなければ落語にかなわないだろう。 ところが作者は、本書では「語りオチ」という形式にこだわっているので、いきおい30篇も読まされれば、読者は単調さを覚えずにはいられない道理なのである。雑誌の中に、あるいはアンソロジーのなかに、ぽつんとひとつある分には問題あるまい。しかしショートショート集という形態で出版されることを想定するならば、上記のこだわりは、読者に形式的な「単調さ」を感じさせてしまうに違いない。 「字で演ずる落語」という趣向は、ショートショートのヴァリエーションのひとつとして、有効な手段であるのは間違いない。しかしそれに固執したことは、「ショートショート集」としてはマイナスであったように思う。 ベスト7は ●石井真清 石光真清の手記(4) ロシアに革命が起こったのであった。革命後のシベリア情勢の情報収集が任務である。 石光「一体シベリア出兵の目的が何であるか、私にも判らなくなりました」 すべてを捨て、帰ってきた錦州商品陳列館は、しかし石光のいない間に莫大な負債を抱えていた! ――時代に翻弄された一人の男の半生。 ●草上仁 ゲリー・カーライルの日本版といえなくもない。ただしあっちは単に異星動物をつかまえて動物園に引き渡すハンターだけど、こちらはつかまえた上で馴致する異生物訓練士。ともあれスペオペである。それもなかなか快調なスペオペだった。 ひょんなことで異生物訓練士として雇ってもらえた主人公の女の子ミリの初仕事は、まだまともに飼い慣らされたことのない怪獣ヤアブの捕獲と馴致訓練である。仲間(すべておかしな連中であるのはお約束どおり)と共にボロ宇宙船で出発したミリであったが…… ドタバタの積み重ねで進行していくストーリーは、小ネタも(ジュヴナイルには過剰なほど)贅沢にばらまかれていて、まさに良質のスペオペとして申し分のない仕上がりになっている。 たとえば、真空球というアイデアは、気球が空気より軽いヘリウムや水素を注入して浮き上がるのに対して、球体内を<真空>で「満たす」もの。真空は水素やヘリウムより「軽い」ので、真空球はふわりと浮かぶのだ! このアイデアは個人的に大受けだった。そんな魅力的なアイデアがこれでもかと詰め込まれているので、読むのに時間のかかること。 これはメインアイデアだが、怪獣ヤアブは自分プラス素数で群を形成する特性があり、そのため素数の識別と未知数を素数に分解する演算に特化した神経系が備わっている。このヤアブの能力を、巨大数を瞬時に素因数分解する回路として利用すれば、利用者は汎銀河暗号通信(素数から作られている)のすべてを解読できるのだ。これに着目したギャングがヤアブを盗み、取り戻そうとするミリたちに、ギャングの元愛人やら演芸艦隊(笑)やらが絡んで、ストーリーはシッチャカメッチャカとすすんでいく。そういう意味では数学SFでもあるといってもウソにはなるまい。 スペオペであることは間違いないとしても、むしろハリー・ハリスンの書くようなスペースオペラに近い印象を受けた(特に軍隊の描き方など)。ユーモアに批評性があり、反スペオペ的スペオペとして読むこともできるわけである。 ●末永昭二 昭和30年代前半、貸本店という商売が成り立っていた。全盛期には全国で2万から3万軒の貸本店が営業していたという。今日のコンビニが全国で3万6000店(H9年)ということだから、これはものすごい数字である。 この貸本店の隆盛は、しかしアッという間にテレビの普及と生活行動(住郊外化に伴う職住離間、冷蔵庫の普及による買い物のまとめ買い化等)の構造的変化によって、主たる顧客である「非学生ティーンエイジャー」を根こそぎ奪われ、35年をピークに急速に衰退し40年代に至って完全に終息したという(私自身は貸本屋が近所にあったことは記憶しているが、利用したことはなかった。まあ小学生だから当然ですが)。 考えてみるまでもなく、かかる貸本業の衰退は、同時期、急速に拡大したスーパーの勃興と同じ原因によるものであろう(サバーバン化と週末まとめ買い)。 このように僅かな期間に興り消滅した貸本店であるから、貸本店専門に供給された所謂「貸本小説」は、資料もなくこれまでまともに調査研究されたことがなかったという。 取り上げられた作家は、城戸禮、宮本幹也、九鬼紫郎、園生義人、栗田信、野村敏雄、保篠龍緒、瀬戸口寅雄、井上孝、高樹純之(水野泰治)、風巻弦一、若山三郎、三橋一夫、竹森一男、鳴山草平、太田久行(堂門冬二)、太田瓢一郎(太田蘭三)、和巻耿介、南美穂(南美穂子)、萩原秀夫、中野俊介。 このなかで、私が辛うじて知っている作家名は、城戸禮、三橋一夫くらい(現役名の水野泰治、堂門冬二、太田蘭三を除けば)。 それを読むと、なかなかおもしろそうなのだが、しかしこれが曲者。 これは野田さんの紹介の筆力がすごすぎて、実作がそれに負けてしまったのである。 ●長山靖生編著 日本の「SF以前」の未来小説、科学小説のアンソロジーである。 「夢の月世界旅行」>月世界跋渉記(江見水蔭)/月世界競争探検(押川春浪) 各テーマ毎に編者によって著された解説が付いている。 ただ「SF英雄群像」と違うのは、著者がここで、19世紀後半から20世紀初頭にかけての内外の未来小説、科学小説を「近代」との関わりにおいて考察しようとしている点である。以下、私の感想。 著者はいう。 という認識は全くその通りであり、近代はまさに「未来の発見」を契機として成立したのである。未来の発見とは、すなわちリニアな時間の発見=因果律の発見と同義である。因果律が近代を創り上げたといっても過言ではない。 それは、「いつも世界は滅亡する」で明らかなように、薔薇色の未来だけを志向するものではない。事実SFは、当初の薔薇色の未来から、次第にペシミスティックな未来にとって変わられる。 明るい未来に進もうと、暗い未来にぶれようと、SFは、リニアな時の矢すなわち因果的思考によって支えられている。脳天気なスペオペも、悲観的なアンチユートピアも、ともに「未来」を契機とする同じSFである。同じSFの両面に過ぎない。「未来」は近代を成立させ、SFをも成立させたのである。 ただし、本書はかかる問題意識に特化したものではない。次第にレトロSF観覧記的筆致に変質していき、「SF英雄群像」のレベルに降りてくる。それはそれで面白いのだが、わたし的にはすこし残念だった。 ●五島勉 平成2年の刊。元版は「ツングース恐怖の黙示」のタイトルで昭和52年ノンブックから出ていて、そちらはリアルタイムで読んでいる。新版と謳われているが、ほとんど内容に変更はない模様(別に比較対照したわけではないが)。ゴルバチョフの名前とかが追加された程度ではないかと思われる。 1907年シベリアを襲った<ツングース謎の大爆発>は、木星の雲のなかをフワフワただよっているアンモニア生物が、彼らの最も厭う酸素やCO2(つまり緑)に溢れた地球を撃ち滅ぼすために、木星族(木星軌道付近に遠地点がある短周期の彗星群。太陽と木星を2心とする楕円軌道を持っているわけではない。作者はそのように思っているようだが)の小彗星を改造した超水爆彗星によって引き起こされたものだった! 地球に逃れてきた第五惑星人(小惑星帯にかつてあったと仮想された未知の惑星。ちなみに小惑星帯は第5惑星が破壊された結果ではなく、木星の重力干渉で惑星に成長しきれなかったというのが正解で、第5惑星は現在も過去も存在したことはない)やベリコフスキーの金星についても言及しつつ、この壮大な謎を、著者はひとつひとつ解明していく(汗)。 面白いです! 惜しむらくは小説の体を成していないこと。え、小説じゃない? こりゃまたしつれいしましたー。 |
●石原藤夫 本書は、意外にも日本ハードSFのパイオニアによる邪馬台国本である。 邪馬台国は大和であり、女王卑弥呼は「日本書紀」の中にいた!!というのが著者の結論。この結論に至る出発点として、著者はまず「魏志倭人伝」の資料性に疑義を呈する。 1)「熱意不明の使者が実力不明の通訳を介して聞いた記録の又聞きや書写という文献に、どれほどの信憑性があるのか?」(116p) 以上の3点より、「倭人伝」の資料性は「記紀」に及ぶべくもなく、「記紀」の補足として参照するに留めるべき文献なのだ、ということを論理的に導いてくる。つまり古田武彦に喧嘩を売っているのである(ウソです)。 #確かにそれはそのとおりなんだけど、邪馬台国所在地論の楽しみ方のひとつに、そのような欠陥文献である倭人伝を、各論者がいかにひねくりまわして面白い解釈を引っぱり出してくるか、という面もあるように思う。欠陥文献だからこそ、1ジャンルを形成するほど沢山の邪馬台国論が出版され、かつ読まれるという現象を惹起し得ているのではあるまいか。 さて、かかる認識の前提にたって、著者は「日本書紀」を(不必要なほど)詳細に語りつつ(まるで大学の講義録みたい。クリアーなので書紀の整理に最適ではあるが)、卑弥呼=天照大神説、卑弥呼=神功皇后説、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命説、等を順に検討、整理する。 そして著者は、ここでとっておきの隠し玉を提出する。 ううむ。 何を隠そう、私は「邪馬台国九州説」である。具体的には、当時は現在より海面が高かったことから、宮崎康平の仮説「二日市水道」を認め、かつ現在の筑後平野は浅い海というか、干潮の時は干潟になるような広大な沼沢地であった。そして二日市水道を介して博多湾と水運が通じていた、ということを前提とした上で、筑後川左岸水縄山地山麓、現在の福岡県八女郡から山門郡付近に比定するものである――将来、かかる観点で邪馬台国論を発表する予定だったのである。 ほーんと困るのよねえ……私は20年かけて、上述の邪馬台国=山門八女説に辿り着いたというのに、この本を読み出してわずか数日にして、自説を放棄しなくてはいけなくなったのである! つまり将来書く予定の邪馬台国論がご破算になったということである!! どうしてくれるんだ、といってもどうにもなりません。 本書が邪馬台国九州説にとどめを刺すものであることは明らかである。九州説論者は、こうなったからには倭人伝の語句をもてあそんでいる場合ではない。もはやマット上の戦い方は変わってしまったのだ! この鉄壁の石原理論を破る新たな視点と論理を発見しなければならない。それは当然「信念」だけでは駄目なのであって、本書に拮抗しうる理科的態度を根底に持つものでなければなるまい。できるか? ●残雪 中篇の表題作と短い短篇を3本収録。著者は中国の現代作家であるが、本国では、その特異な作風から必ずしも発表の機会にめぐまれてはいないらしい。 表題作>これはすごい小説だ。とにかくすごい小説である。ただ、どうすごいのかを説明するのはとても難しい。 ストーリーはないに等しい。夢と現実が同一地平上に重なった世界が、どんどん猥雑にグロテスクに歪んでいく。「ぐぢゃ〜」となっていく。その展開がすさまじい。まるで分厚く重ね塗りされたシュールレアリスム絵画を見ているようである。 作中人物たちの奇矯な言動、振る舞いに、最初違和感があったのだが、香港映画(ジャッキー・チェンやデブゴン、ミスターブーなど)でおなじみの大袈裟な身振り手振りと同じであると気づいてから、気にならなくなった。実際こういうオーバーアクションは、中国人には普通の姿なのかもしれないと思った。 ともあれ、ちょっと類例が見当たらない作風で、強いて挙げるならバ−セルミのそれに似ていなくもない。もっとも、使用されるモチーフは全然似ていないのだが、一読、度肝を抜かれる不思議な小説である。 上述の表題作中篇の他に、短い短篇が3本。短篇は、表題作品を読んだ後だからか、やはり夢と現実の区別がない、同様の小説世界であるとはいえ、ずっとあっさりしていて淡い。表題作が分厚く塗り込まれた油絵ならば、短篇は水彩画のような印象である。なかでも「山の上の小屋」は幻想短篇として出色で気に入った。この作品はSFMに掲載されていても(SFM読者にも)全然違和感がないだろう。 ●田中啓文 カタロヒナ文字と称される神代文字で書かれた古史古伝「禍記(マガツフミ)」に材を取った短篇集。「カタロヒナ文字」にタナカヒロ文が隠れているのは、偶然の一致というにはあまりにも怖ろしい暗合ではあるまいか(?) 「取りかえっ子」 「天使蝶」 「怖い目」 「妄執の獣」 「黄泉津鳥舟」 以上の諸短篇を結合する「禍記」という小説が3分割されてプロローグ、幕間、エピローグを形成するのだが、別にそんな仕掛けはなくてもよかったように思った。 ところで「発症しなかったり、消失したりする理由が明らかでないのは、ホラー的で不満」(「怖い目」)と述べたが、だからといって謎はすべて解明されなければならない、と思っているわけではないので為念。たとえば「天使蝶」では、キリスト教との関連が暗示されているのであるが、なぜキリスト教のモチーフがあらわれるのかという謎解明はなされていない。だがこの場合はそれで別に構わないのである。なぜならそれがメインのストーリーに絡んでくるものではないからだ。 ●東海洋士 一体、この小説は幻想小説だろうか? 幻想小説かと言えば、そうとも言える。たしかに幻想的なシーンはある。ただしそれは一ヵ所だけ。しかも確実ではない。主人公の錯覚なのかもしれない。 この小説、ある意味、実は何も起こらなかったのである。天草四郎因縁の計時機<刻Y卵>は、しばらく音信のなかった二人の登場人物をふたたび巡り会わせ、片方の死に立ち会わせるという役割を果たしはしたにせよ。 そういうわけで、読みすすんでいくにしたがって、幻想小説だとか、SFだとか、ミステリーだとかいった意識は次第に消えていき、最後には小説を読んでいる、という意識だけが残るばかり……。結局、本書はただの小説なのだ。ただの小説として見事に豊かなのである。 それにしても、巻末の竹本健治の解釈はいかにも「読みすぎ」だろう。「それがどうした、だから何なのだ」という感じ。何の解答にもなっていない。意味がないし、理由もない解釈である。 おそらく竹本解釈は、本書で用いられた「破格の描写法」を、著者がなぜ採用したのか、それを説明しようという意図なのだと思われるが、それに関しては、私は別に事改めて説明する必要はないと考える。 当然ながら、発声された言葉だけが言葉ではないのである。むしろ発声した言葉は、発声されたその時点で既に、発声者の真意からすれば必ず何ほどか「ずれ」を生じているものなのではあるまいか。たとえば、アトランダムに今ぱっと開けた53pの最後の文章はこうである。 《「壊すなよ」まァ既に壊れておったりしてな。》 いうまでもなくこういうニュアンスが、乖離が、言葉と思考の間には不可避である。 実は、ストーリーだけ取り出せば、大したことがないのである。 断っておくが、だから本書がまがい物だと言いたいのではない。 というわけで、本書は一見ストーリーの進行には不要な部分が多いと思われるかも知れない。しかしそれは見当違いな見方なのである。 ●津原泰水 これは濃密な小説である。 読み出してすぐ、ははァこれは「心地よく秘密めいたところ」だなと思った。 とはいえ、「心地よく……」は純然たるファンタジーなので、ストーリーは(ある意味)とおり一遍に進行し、想定された大団円に向かって心地よく着地するのであるが、本書は違う。 とくに終盤に入ってストーリーは奔流のように流れはじめる。流されないように意識してゆっくり読まないと溺れてしまいそうになる。 ともあれ、濃厚なコクは最後まで持続し、ふんだんに投入されたエピソードを、とにもかくにもひとつのストーリーに纏め上げ組み伏せた力量は大したものである。『蘆屋家の崩壊』の感想文でも書いたと思うが、遠からず津原泰水の時代が来ることは間違いない。 |
●山之口洋 15世紀フランス最大の詩人にして泥棒、奇しくもジャンヌ・ダルク処刑の年にパリに生を受けたフランソワ・ヴィヨンの伝記小説である(とりあえずそう言っておく)。 一応、ピカレスクなヴィヨンの生涯を忠実にあとづけているようにみえる。しかし当然ながら、単なる伝記小説を、「オルガニスト」の作家が書くはずがないのである。それについては後で述べるが、ともあれ、15世紀パリの市井の雰囲気が目に見えるようにありありと描かれている。描写に喚起力がある。もちろん資料も縦横に駆使されているのだろうが、資料的事実の隙間に、作者の想像力がわかちがたく埋め込まれての(内的)リアリティであろうと思われる。 ヴィヨンの生涯はトラブルの連続。とにかくやることなすこと、目が悪い方へと回っていくヴィヨンの人生は、読んでいて切ない。 さて、本書が単なる伝記小説ではない所以だが―― ヴィヨンは、史実的には、パリ追放の宣告を受けてから以降の足取りが、全く不明となるのであるが、作者はそこに、あっと驚くとてつもないアイデア(解釈)をすべり込ませ(当然伏線が張られてある)、パリ追放後のヴィヨンの足跡を、想像力をふくらませて描くと同時に、再帰的に、いいことが何もなかった前半生が照らし返され、その遠因が解明されるのである。この辺はわたし的にはセンス・オブ・ワンダー爆発で、おお、と膝を打たずにはいられなかった。そういう意味で、本書は(わたし的)SFである。 ただこのアイデアは、しかし一種先入見(ある意味偏見)に基づくものであるのがちょっと困惑させられるところ。でも、とりあえず小説内事実として認めてしまえばノープロブレム。本書はノンフィクションではなく小説、それもリアルなふりをしたノンリアル小説、即ちSFという、実に周到に用意された<たくらみ>なのだから。 ●林譲治 読み始めたら終ってしまった。短かすぎ。 そのような次第で、本書で重要な役割を果たす太田のおばちゃん@「実は」が、なぜ民間宇宙艇に乗っていたのか、というストーリーの根幹に関わる理由が私にはよく判らなかった。 私の憶測が事実に近いとすれば、これは作者が可哀想というしかない。 私自身、だんだんと引き込まれて来て、さあ、これからどうなるのかな、と期待が膨らんできたところで、ふと、ページがほとんど残ってないことに気づいたときは、のけぞった。 ●高井信 西暦2182年、24才の新入社員である「おれ」は、過去の世界でサバイバル研修をするために、1997年の東京に向けタイムマシンで出発した。ところが手違いがおこり、着いた先は1997年の名古屋だった! 鎖国市・名古屋の描写が、なんとも「異世界(いせきゃあ)」感を醸し出しとって、どえりゃあ面白うてかんわ。 コミカルな名古屋弁の効能で、そっちにばっか目が行ってしみゃあがちなんじゃけど、世界構築(せきゃあこうちく)というSF的見地からみとっても、いや、なかなかのもんだて。 ところでこの本、標題が古くっしゃあなってもたで、改題(かいでゃあ)して『名古屋の逆襲』のテャートルで双葉文庫から新しく出とるんだと、まあいっぺん、さがして読んでみてちょ。 ●草上仁 スターハンドラー・シリーズの第2弾である。 惑星ヴィニヤードの<生きている水>は、「ソラリスの海」とは違って、正確には水そのものではない。一種のプランクトンで、ヴィニヤードの水には、すべてそのプランクトンが満ちていて、それらがネット状に結合して内部に水を抱え込む構造になっているので、事実上海も河川も地下水もすべて結合して、一種巨大生命体を形成しているのだ。 さてこの上巻では、驚くことに、かかる縦糸には全然進展がない! とにかく、この巻では、一体だれが主人公なのか判らないほど。で、ようやく<生きている水>が、意識的(?)な行動を起こしはじめたところで、上巻終わっちゃった。 ●武光誠 「通説を問い直す20の視点」という副題が付されている。 ただ、一般書として書かれたものだからかも知れないが、そう言うわりには結論に至る論証が省略されていて、不満が残った。内容的にも、少なくとも私には、そんなに驚かされるものはなかった。もっとも、教科書的な歴史しか知らない読者を想定して書かれているのであって、私を読者に想定したものではないのだから、致し方ないかも知れない。 一、日本列島における原人の存在は否定できない 私の関心が、せいぜい6世紀までなので、後半になるにしたがってつまらなくなってくるのはこちらの事情であろう。けれども、客観的にも後半は切れ味が鈍いような気がした。 |
●古山高麗雄 戦後30年、朝鮮からの引揚者である吉岡久治は、現在はデパ−トの保安係をしている。ひょんなことで、かつて住んでいた鴨緑江南岸の都市・新義州の日本人町の市街図を作り始める。それは存在しない都市の地図。引揚者たちのそれぞれの記憶の中にしか、もはや存在しない町のたたずまいを、白地図上に復元していく作業である。 新義州からの引揚者に連絡を取り、それぞれが住んでいた家の、向こう三軒両隣の情報を求め、それを白地図に記入していくのである。 互いに未知の男女の心に甦る植民地の日々――そして、ふたりの「現在」がすれ違う。 ●小川未明 読んでいて、卒然と子供の頃「童話」が好きではなかったことを思い出した。理由は、蓋し「道徳」的な「為にする」話が多かったからではないかと思い返す。 本集にも「道徳」的な話が録られているが、そうでない話も多く、そのような、「為にする」のではない話は楽しめた。 ダンセイニに言及したが、未明が好んで用いる北方的モチーフ(荒れた北の海、波、雪と氷etc)など、まさにダンセイニ風という以外にない(たとえば「赤いろうそくと人魚」では、最後に町が滅びて滅くなってしまう)。 特に気に入ったのは、 「眠い町」>世界を旅行している少年が、そこにいると不活発になってしまう「眠い町」を通りかかり、その町をつくったという老人に出会う。老人(神?)は最近の人間が休むことなく鉄道を敷いたり電信をかけたりするので、そのうちに地球が砂漠化するのではないかと憂えて「眠い町」を作ったのだと言う。少年に不活発化させる砂の入った袋を渡して、世界中をまわって、この砂で人間を不活発化してきてほしいと頼む。少年は世界を回り、砂を振りまいて、また眠い町へ戻ってくると…… 同様に道徳性が無化される話としておもしろいのが、 その他に、妖精(精霊)物語風の「月夜と眼鏡」、「港に着いた黒んぼ」、「島の暮れ方の話」がフィオナ・マクラウドっぽくてよかった。 ●小林泰三 これは傑作。なんとハル・クレメントに始まり、クラ−クに終わるという話である。ラストの超ヒューマニズム的センス・オブ・ワンダーに感動! わたし的には、純然たる本格SFである。 おばあさんの顔をお尻に融合されてしまったおじいさんのエピソードなど、「果しなき……」のラストに勝るとも劣らぬ名シーンであると思う。涙なしには読むことあたわざるも、その一方では、おかしくて吹き出してしまう場面も多々ある。著者は、自在にストーリーを「もてあそんで」いるかのようだ。手練れである。 この30年間、日本SFのベスト作品選びの企ては、常に「果しなき流れの果に」と「百億の昼と千億の夜」の2作品によって争われてきた。しかし今後、この種のベスト選びは、前2作に、この「ΑΩ」が絡んでくるのではないか。そう言いきっても決して言いすぎにはならないと思う。 ヘテロ読誌の『人獣細工』や『密室・殺人』の感想にも書いたが(古いのでネット以前の紙媒体版所収)、著者の作品には所謂<謎>が謎のまま残る余地はない。すべては理屈のもとに解明され、説明し尽くされてしまう。本書もこれまでの作品同様、やはり解明されずに残った謎は皆無であった。 とはいえ途中気になった事項が二つあった。まず、杉沢村の湖に現れた恐竜状のキメラである。複製なのだが、オリジナルが絶滅しているのにどうして複製できるんだ、と思っていたら、あとであっさり説明があった。うーむ。 もうひとつ、だいぶ後ろの方に出てくる、「(わからない。一億年前は天体から作られた巨大な機械を太陽系に送り込もうとしていた)」の「太陽系」であるが、「銀河系」の書きミスとちゃうんか、とツッコミを入れていたら、最後でちゃんと整合性が保証されてしまった。しかもその結果、最初の方に出てくる「太陽系」の位置も確定した。むむう。 ――つまり、まんまと著者の術中にはまってしまっただけの話だったのだ。いや悔しい。 そういうわけで、本書は「ホラー」ではないのである。すべてが解明されてしまうホラーなんて(原理上)ありえないのだから。したがって帯の「ホラー」は虚偽である。疑いもなく本書はSF――ハードSFにして本格SFである。しかも(というか、にもかかわらずというか)70年代SFに拮抗しうるエンタテインメント性にとんだ、リーダビリティの高い、「面白い」小説でもある。 ●吉川良太郎 カバ−に「近未来フランスを舞台にした、スピーディー&スタイリッシュ、クール&テクニカルな新感覚SFノワール」とあるが、看板に偽りなし。 ストーリーはだいたい今から50年後、<第3次非核戦争>が終結した2060年代(?)のフランス。パパ・フラノというギャングの大ボスが支配する歓楽街<パレ・フラノ>を舞台に、偶然にも、サイボーグ化された猫に精神を憑依させ自在に操ることができる電脳技術を手に入れたペローという名の、まさに「猫のように」群れを厭う精神の持ち主の若者が、その技術を保持するが故に、暗黒街の抗争にまきこまれ、組織に取り込まれるも、自らの自由を求めて大活躍をするという話。 電脳技術についてのSF的説明はほとんどなく、読者はそういうことが可能であるということをアプリオリに受け入れなければならないところが、SFとしてはちと弱い。 表面いかにもサイバーパンクの洗礼を受けた、今日的なストーリーなのだが、私自身は、非常に懐かしい印象を持った。 懐かしさの印象は、それだけではなく、これは私だけの感覚かも知れないのだが、本書は、FLNとのアルジェリア戦争から5月革命あたりの、パリが最も騒然とし、輝いていた時代の空気が色濃く反映されているように思われてならなかった(毛沢東語録などというものが小道具として使われていたりするのだ)。 つまり第3次非核戦争というのが、第2次大戦に比定できるのではないかと思われるのだ。想像をふくらませれば、たぶんこの世界で、第3次非核戦争は2045年に終結したのではないだろうか(よく読めば2052、3年のようだ―後に記す―)。一見近未来世界を描いているように見せながら、本書が描き出しているのは、というか下敷きにしているのは、実に1950年代、60年代の、パリなのではないか。 SF度はさほど濃くないにせよ、また内容的にも全然新しくもないにせよ、抜群の面白小説であることは間違いない。 ●関裕二 「邪馬台国論は江戸時代に始まり、いまだに結論が出ていない」(本書カバー)。本書では、その百家鳴争(迷走)する邪馬台国論争の歴史を、簡明に整理し、解説していて、非常に便利である。読者は必要に応じて明記されている原著(というのか元本)にあたればよい。 以前、<季刊邪馬台国>で那珂通世を再評価した邪馬台国論争史の特集号があったが、入手は困難だろう。私ももはや手許にない。当時なかった年輪年代法の紹介もなされており、過日紹介した石原藤夫さんの『卑弥呼と日本書紀』を読む前にざっと目を通しておくと、石原博士の方法論が堅実なものであることに気づかされるだろう。 さて、論争史を概観したあと、著者は「悲しいことに、文献から邪馬台国を探し出す作業は、頓挫したと言わざるをえない。この結果、『魏志』倭人伝を読む限り、邪馬台国は日本のどこにでも比定できる という、なんとも情けない結論をわれわれは得たのである。そしてこうなった以上、確かな物証を待つしか手はない」(131p)。として、近年の考古学者の発言力の高まりに理解を示す。実際、近年の考古学的的発見は想像以上であり、「ほとんどの考古学者は、邪馬台国畿内説を取っている」(131p)のは、石原博士の著書にも言及されていたところ。本書でも考古学(他、科学的アプローチ)による新知見を紹介している。 本書の3分の2はかくのごとくよく整理された邪馬台国の入門書である。ところが、残りの3分の1で、著者は突然とち狂っちゃうのだ! 結局、著者が表現したかったのは、かかる幻想邪馬台国だったのであろう。ところが今日の状況は、紙面の3分の2を消費してでも、あらかじめ逃げを打っておかなければならない状況なのだろう。 ちなみに、著者の本は6年ほど前に『謎の出雲・伽耶王朝』を読んでいるのだが、本書では若干論旨が変わっているように思われる(紙媒体「ヘテロ読誌」1996)。ある意味それは当然で、考古学的知見が日進月歩の今日、10年前の持論を堅持している人の方がよほど怪しいのである。 ●野尻抱介 2006年、高校2年生の天文部員、白石亜紀は水星の太陽面通過を観測中、水星の赤道部分から立ち上がり、水星直径の約3倍まで延びる奇怪な塔状の物体を目撃した。それが彼女の後半生を数奇な運命に巻き込む<事件>との、まさに<運命的>な邂逅であった。…… それは何者かが、水星を解体し材料にして、太陽を取り巻く直径8000万キロのリングを形成しようとしていたのだ。リングが形成されるにつれ、日照量が減少、地球は寒冷化にむかう。 2021年、目撃をきっかけに科学者となった白石亜紀は、地球の危機的状況を救うための破壊ミッションをになう宇宙艦の搭乗員となっている。 2041年、いよいよ異星人の宇宙船が太陽系に姿を見せる。時に51才の白石亜紀は、コンタクト艦の艦長として高速で接近してくる異星船に向かって出発するのだったが…… ――本書はオーソドックスなファーストコンタクトテーマのハードSFである。 本来なら、白石亜紀は、高校を卒業し大学を出、恋愛をして結婚し、母親となり……というきわめてありふれた、しかしそれなりに自足した後半生を送ったのかも知れない。 とはいえ、私はどちらがいいとか悪いとか言っているのではない。ひょんなことから人生が180度変わってしまう<ふしぎ>を、本書は描いているように思われてならない。 一方、地球人によって、異星人の未来も180度変わってしまうのであり、結果的に一万年を越えてしまった異星人の移住ミッションも、やがて終了するのであるが、かかるふたつのミッションが交差する、言い換えれば<天文学的時間>と<日常的時間>の交差を現前させる感動のラストは、(たとえ折角構築した異星人描写と矛盾しようとも)まさにセンス・オブ・ワンダーの醍醐味である。めくるめく時間的感覚に圧倒されるばかり。 ●井田茂 5月23日に出たばかりの、ということはつまり、(現在のところ)日本で最新の惑星学の現状を概観した本と言える。 百花繚乱の宇宙論、太陽系形成論の歴史、天体物理学の進展が観測手段の進化と相関的であることなど、古代史や邪馬台国論と考古学その他の技術の進展の関係に似ていて興味深い。 著者の立場はいわゆる「平民論」。太陽系の形成→地球の誕生→知的生命体=人間の誕生は、ごくふつうの現象という立場だ。これに対して「選民論」が10年ほど前にもてはやされた。ソウヤーがよく描くような「宇宙の人間原理」と呼ばれる立場である。 太陽系外惑星の発見が、観測方法の進展につれずいぶん成果を上げていること本書ではじめて知った。太陽系とはかなり異質なその世界像はとても謎めいていて魅惑的。今後どのような一般化がなされて太陽系と他星系を統一する形成論が「平民論」的に生み出されるのか、楽しみ。 |
●掲載 2002年1月28日、3月13日(2月)、2003年4月27日(3・4月)、4月29日(5月)