ヘテロ読誌
大熊宏俊

2003年 上半期

5月

ニール・R・R・ジョーンズ
二重太陽系死の呼び声野田昌宏訳(ハヤカワ文庫、1972)

 スペオペの古典として名高い〈ジェイムスン教授シリーズ〉の第1巻。「あとがき」によれば、1931年2月から1938年4月にかけて最初の12編が<アメージング誌>に、その後1940年4月から42年10月まで<アストニッシング誌>に4編。間があいて戦後の1949年9月から1951年8月まで<スーパー・サイエンス・ストーリーズ誌>に5編が、それぞれ掲載された(計21編)。

 そしてシリーズ終了20年目にしてエースブックスで単行本化。ということだから、1971年刊行開始ということになる。わずか1年の時差で翻訳が始まったのですね。
 第1巻の本書には、アメージング誌に載った最初の3編が収録されている。

 第1話「機械人21MM−392誕生! ジェイムスン衛星顛末記」
 主人公のジェイムスン教授は、死後(未来の医療技術に期待をかけ)棺桶衛星を仕立てる。地球周回軌道をまわって蘇生を待つのだったが、その甲斐なく地球文明は滅び去る。人類の滅びた地球を空しくジェイムスン衛星は回り続け、待ちに待ったり、実に4000万年(!)の後、機械人間(ロボットの体に脳を移植し不老不死となった宇宙人)ゾル人の探検隊に発見救助される。ゾル人同様の機械人間として蘇生した教授は、彼らの仲間となって宇宙探検に加わる……。シリーズ全体のプロローグといえる話。

 第2話「奇怪! 二重太陽系死の呼び声」
 この話において、初めてジェイムスン教授の活躍が、実質的に始まる。
 教授を含むゾル人の探検宇宙船がめざすは、オレンジ色の太陽と青色の太陽が、互いの回りを回転する2重星系の第1惑星。着陸した教授たちは、オレンジの太陽が出ているときは異常がないのだが、オレンジの太陽が沈み、青い太陽だけになると異様な感覚を覚える。

 事実機械人たちは、青色の太陽のが出ているとき、不可解な自死衝動に捉えられ、次々飛び降り自殺を試みる。不老不死の体を持つゾル人だが、さしもの彼らも脳が破損すれば死んでしまうのだ。
 やがてこの惑星には隣り合わせにというか、重ね合わせになって別の次元が存在していて、その次元世界の住人(コウモリのような翼人)は、青い太陽のみが出ているときだけ、こちらの世界に精神的に影響を及ぼすことができることが判ってくる。

 ゾル人は壊滅的な打撃を受け、一旦宇宙に逃れようとする。が、コウモリ人の精神攻撃によって残されたゾル人も次々やられてしまい、唯一教授のみが奇跡的に宇宙船でのがれる。しかし壊れた宇宙船は第1惑星と第2惑星の中間で二重星系を公転する人工惑星と化してしまう。

 宇宙船を修理するすべもなく、たったひとり残された不老不死の機械の体を持つジェイムスン教授は、死ぬこともかなわず、かといって救助の宇宙船がやってくる確率は万に一つもない。ジェイムスン教授の運命やいかに!

 第3話「仇討ち! 怪鳥征伐団出撃す!」
 ジェイムスン教授はどうなったのだろうか? どうもなりません。ただ待ち続けていたのである。
 そして、またもや(今度は意識を保ったまま)待ちつづけて(第2惑星の1年で)571年! 第2惑星人が宇宙航行の技術を獲得し(実は再発見)、第1惑星めざしてやってくるとき、教授は彼らに救助される。

 実はかれらは、700年前に既に一度、第1惑星に到達しており、そのときゾル人と同じように鳥人に壊滅させられていたのだ。その後第2惑星はテクノロジー的に退化、ようやく再び第1惑星めざして700年前の仇を討つべく第1惑星をめざしていたのであった。そうして彼らは教授と共に、勇躍第1惑星に乗り込み……

 この物語の凄いところは、4000万年が数ページで過ぎ去り、600年が、いとも無造作に1ページで飛び去っていく時間感覚だ。まさにセンス・オブ・ワンダー爆発で、スペオペの名作と謳われるのも納得できる。

 訳文は快調至極で──これはこれで勿論いいのだが、「である」調ではなく「です、であります」調、すなわち講談風な語り口調に訳されたら、また別の雰囲気が出たのではないだろうか。
 そういえば石原藤夫の『タイムマシン惑星』とよく似ているな、と感じた。「タイムマシン惑星」も、講談口調がよく似合う話だと私は思っている。本書も背景がもう少し「科学的」だったら、おそらく石原SFそっくりの触感があったのではないだろうか。
 ともあれ、本書は思わぬ拾いものだった。続編もぜひ読んでみたい。


大塚英志
物語の体操──みるみる小説が書ける6つのレッスン』(朝日文庫、2003)

 先月読んだ『キャラクター小説の作り方』と同様のコンセプト、すなわち小説の書き方の具体的指導、マニュアル化された技術論が、そのまま小説(文学)とは何かという問題へのアプローチになっている。
 まことに「文庫版あとがき」で著者自身がほのめかしているように、本書は「逆説」なのだ。

 小説なんて、作家という〈選ばれし者〉の秘儀などではなくて、誰にでも書けるものなのではないだろうか、という立場から、こう書けば小説になるという手法(マニュアル)を公開している、その上で、ではそうやって書き上げられた小説は、「従前の秘儀としての小説」を放逐しうるものたり得るか? と著者は問う。

 その結果として〈秘儀〉の領域はどれほど残されるのか、あるいは全く残らないのか、そのことを確かめてみようと思います。(10p)

 著者は、小説が誰にでも書けるものとなった暁には、小説家と読者の境界が、

 解体してしまって一向に構わない(214p)

 と(一応)切り捨てるのだが、それは他面、小説家と称する人種への(希望を棄てきれない)最後通牒でもあるようだ。逆説というのはそういうことなので、おそらく著者は、文学の現状には絶望しつつも、(心の片隅では)まだ〈文学〉を信じているのではないだろうか。

 どこのサイトであったか、(若い論者であろうが)大塚の論は技術ばかりで心がない、と書いてあるのを見かけた。まさに

 逆説が通じない(222p)

 例であろう。この例から、むしろ私は、このような逆説を読みとれないマニュアル世代に期待は持てないなあ、と感じた次第なのだが、ともあれ〈心〉のないマニュアル小説を睥睨するだけの高さがない「文学」なるものの現状に、引導を渡しあぐねている著者の姿が、本書にはほの見えているような気がするのだ。


久野四郎
夢判断』(HSFS、1968)

 この作品集が、著者の唯一の本(文庫タイトルは「砂上の影」)なのである。
 そのため、というわけでもないのだが、ついつい後回しになってしまっていた。今回読んでみて、予想をはるかに上回る質の高さに、本当に驚いてしまった。

 この作家が断筆せずに書きつづけていたら、どんなすごい作品群を生み出したことだろう。断筆はまことに日本SF界の損失だったのではないだろうか。長篇を読みたかったなあ、と惜しまずにはいられない。おそらく長篇を量産できた作家だったと思う。それは本書を読んでの私の確信である。

 「砂上の影」(注意:オチを割ります)
 サウジアラビアの砂漠で遭難した彼は、渇きで死にかけている。上空には、彼の死を待つ黒い鳥が。そのとき彼は、念力で砂漠の底から水を噴出させる能力を獲得する。その能力で、彼は10年かけてザウジの砂漠を緑に変える。その彼の前に黒服の男が現れ……

 オチを割ると、その10年間はどうやら死にかけた彼が想像/創造した異世界であり、異世界で生き続ける彼を、上空の屍肉喰いの黒い鳥は食うわけにいかず、彼の創造世界に黒服の男として現れ、その世界を崩壊に至らしめるというわけ。
 完璧なオチではないだろうか! ラストのダブルイメージが秀逸。(10年間を死の直前に見た幻覚と読むことも可能。いずれにしてもオチは有効)

 「夢判断」、「5分間」、「ワム」、「結婚エージェント」、「上流社会」、「見える理由は……」、「旅行案内」は、オチが効いているのは上記作品と同様ながら、社会というか生活人の感覚がよく描かれていて、眉村卓の初期短篇を彷彿とさせる。もっとも眉村が描くのはサラリーマンの感覚であるに対し、こちらは中小企業経営者(というか自営業者)の感覚かも。

 「溶暗」、「悪酔い」、「グルルンガ・ジタ」、「再発」、「くり返し」、「オー・マイパパ」は純然たるオチ小説。

 以上の作品群は、オチに結実する構成の妙がすばらしい。よく考え抜かれた作品という感じがする。

 「獏くらえ」、「いなかった男」、「事故多発者」は、ホラーSFといえるもの。発表年月は記載されていないけれども、おそらくかなり書き慣れてきた時期の作品だと思われる。というのはずいぶん「小説らしい」結構をそなえてきているからで、作品がオチに依存しなくなっており、むしろストーリーを読んだという満足感を味わえた。
 上に長篇を読みたい、量産できたはずと書いたのは、この3編を読んだ印象だ。それまでの作品では、切れ味勝負の短編作家という印象だったのが、この3編で180度印象が変わった。ひょっとしたら半村良のような作家になり得たのではないだろうか。

 著者・久野四郎は、福島正実がSFMを降りると同時に作品を発表しなくなる。もともと別に仕事を持っていて、何が何でも作家になりたい、という欲求は希薄だったのだろうが、SF読者としては残念という他はない。


稲生平太郎
アクアリウムの夜』(角川スニーカー文庫、2002)

 世評高く、以前から読みたいと思っていた小説。巻末解説にも書かれているが、この作品、もっと若いとき、中高生くらいに出会いたかった。元版は1990年なので不可能な話なのだが。

 大塚英志がキャラクター小説を定義して、「角川スニーカー文庫に入るような小説」と書いている。そのスニーカー文庫で復刊された本書は、しかしながら、管見によればキャラクター小説とは対極的な小説である。
 実際この小説は、眉村卓や筒井康隆らによって1970年代に多く上梓された「ジュブナイル小説」の正統な嫡子ではないだろうか。

 大塚が言うように、キャラクター小説が「文字で書かれたアニメやマンガ」、すなわち作中人物がアニメやマンガのキャラクターとして、読者に認識される小説だとするなら、本書は明らかにそうではない。
 本書に登場する作中人物を、おそらく読者はアニメのキャラクターとして認識しないと思うのだ。読者は、旧来の小説同様に、生身の人間として、作中人物を想起して読んだに違いない。本書の表紙カバーや口絵が、なんとなく本書にそぐわないと感じるのは、まさにそのせいだろう。

 ストーリーは、結局最終に至っても、主人公の親友を殺しガールフレンドを拉致(?)した相手の正体は曖昧なままで、超自然的力が理不尽に主人公たちに影響を及ぼす理由が明らかになることはない。そう言う意味では、まさに定石どおりのホラー小説であるといえる。

 実はブラッドベリっぽいファンタジーを予想していたのである。ところが「アクアリウム」や「カメラ・オブスキュラ」という〈情動装置〉に対するブラッドベリ的な耽溺はほとんどなく、ストーリーに奉仕する舞台装置のひとつでしかなかった。ちょっと想像していたのとは違っていたのだが、佳品であるのは間違いない。本書はホラー的恐怖に満ちたジュブナイル小説の佳品なのだ。

 昨今、ヤング対象の出版界では、キャラクター小説でなければ相手にされないらしい。今がそんな時代であるからこそ、本書の復刊は格別の意義があると思う。出版社も冒険だったのではないだろうか。
 そうであればなおさら、往年のジュブナイルを知らない年若い読者には、ぜひ手に取ってもらいたいと思う。キャラクター小説とはまた違う面白さが存在することを、知ってほしいと願わずにはいられない。


江戸川乱歩
孤島の鬼』(創元推理文庫、1987/初出1930)

 あるミステリ系の会合で、ひとしきり「孤島の鬼」が話題となった。初期の本格短篇も面白い、通俗長篇も面白いけど、「孤島の鬼」は合わなかった、という意見が出て、なるほどミステリ読みならば当然そうであろうな、と得心した。
 私自身、本書に10代で出合っていたなら、どんな評価を抱いただろう。いささか心許ないところである。この歳で読めたことは幸運だったに違いない。ともあれ、本篇はまぎれもない傑作である。

 「孤島の鬼」には、夥しい畸形や同性愛が登場する。動物(異形)の徘徊するサファリパーク(渾然郷)内を乗客(読者)を乗せて遊覧するバスのベテラン運転手として、乗客(読者)を、はらはらさせながらも無事に安全地帯へ帰還させるのが、常なる乱歩の本領だというのが私の認識なのだけれど、本篇では帰還しようと言う気持ちを一方で持ち続けながら、もう一方の欲求に負けて(衝動に駆られて・はからずも・やむなく)途中でバスの扉を大きく開けてしまった(見世物の観客を客席から舞台へ上げてしまった、あるいは見世物と見る者の垣根を取り払ってしまった)ような印象が強い(先走るが、その結果「思わぬ」傑作を乱歩は書いてしまったのである)。

 <『新青年』趣味>10号(『新青年』研究会、2002)所収の山下真史「『孤島の鬼』論」で論者は、本作を最高傑作であるとした上で、(この小説で乱歩は)ドストエフスキーの小説に匹敵する小説を書きたかったのに実現できなかった、その理由は、プロレタリア小説的な社会性を忌避したためと述べているが、ドストエフスキーがプロレタリア作家ではないのだから些か筋が違っているように思われる。

 乱歩は、もともとは安全に着地する通俗長篇を書こうとしたのだと私は思う。それが結果として(内からわき上がってくる切実なものに負けて)達成できず通俗長篇としては歪んだかたちのものが出来上がってしまった。その歪みの部分は、たしかにドストエフスキー的といえるかも知れない。とはいえ、もともとそちらをめざしたものではないので、そう言う観点から見れば、十全に「実現」できてないと言い得る作品ではあるだろう。しかしながら「人間の心の闇を描くという<意図>が社会性に踏み出さなかったために実現できなかった」というものではないように思うのである。

 乱歩自身が本篇に就いて、

 《前以てやや筋が出来ていたものであるが、いざ書いて見ると、おぼろげに考えていたのが間違いだったりして、やっぱり毎月の締切りごとに困らなければならなかった。そして、結局あんなものしか出来なかった》と「否定的な言辞を連ねている」(山下99p)

 のは、そう言う意味で正直な感想のような気がする。つまり運転手としての職務を忘れて安全地帯に帰着し得なかったことに対するアンビバレンツ。
 (前以て出来ていた筋とは異なる)ドストエフスキー的な小説に仕上げてしまったことに対する「しまった」という舌打ちしたいような気持ちが、乱歩をして「否定的な言辞」を吐かしめた理由ではないだろうか。

 けだし著者に宿った「孤島の鬼」というコンセプトに、乱歩自身が引きずられて、はからずも「運転手」に収まりきれない(乱歩としてはあらわにしたくなかった)作家的資質が一瞬むき出しになったのが本篇なのではないだろうか。
 そういう意味で、本篇は「引き裂かれて」いるのだ。かかるアンビバレンツ(ある意味、乱歩の意識と無意識の葛藤)が、冒頭に書いたような通俗長篇読者の違和感と、ドストエフスキー的な観点からの不全感の、両方の元にあるのである。

 もっとも私自身は、常々感じていた乱歩への不満、結局<境界線のこちら側>へ帰着するという不満を、本篇ではほとんど感じることはなかった。だからこそ、傑作であると感じたわけだ。
 中相作は、「本邦近代文学史上にひとつの奇蹟として記録されるべき稀有な傑作」と本篇について語っていたが、もとよりそれは私も同感なのだが、この<奇蹟>という語に、私としては、「図らずも意図から外れた」(言い換えれば堅牢な意識の隙間から無意識を噴出させ得た)ことによって成就した、いわば「結果オーライの傑作」という意味を含意させたいと思うのである。


眉村卓
ヌジ」(『ふりむけば闇』廣済堂出版2003、所収)

 ──ふと気がつくと、クロネは戦国時代の荒れた村境に居る。なぜそんな所にいるのか判らない。そういえばそれまでの記憶もない。そんなクロネの傍らを、野伏りの一団が、やせこけた小さな少女ヌジを縄で括って通りかかる。……

 水彩画めいた淡い筆致で描かれていて、謎は謎のままの、切ない小説。やはりクロネは眉村さんで、ヌジは奥さんなのではないだろうか。 
 大江健三郎が「個人的な体験」以降、すべて息子の話であるように、眉村さんも同じような創作傾向になっていくのかも、とふと思った。


小林泰三
家に棲むもの』(角川ホラー文庫、2003)

 短篇集で、書き下ろし3篇含む7篇が収録されている。
 集中、表題作がずば抜けている。仕掛けがあるので粗筋を書くわけにはいかないのが残念。

 この作品の面白さは、上述の仕掛け、あるいは仕掛けを施された設定にある。最後に仕掛けが明らかになり、今まで読者の目の前に見えていた・見えていると思っていた世界が、実は錯覚で、本当は別の現実がその裏に隠れていて、作者がポンと手をたたくと、舞台がくるりと回転し真相が明らかになる──その手際、転換の鮮やかさに驚かされる、そんな小説なのだ。

 本書はホラー短篇集であるが、この表題作はホラーではない。ホラーなのは、最初に見えていた・見えていると思っていた世界の方で、それは錯覚だったわけだから、ホラーであるはずがない。
 ホラーかと思わせておいて、著者がポンと回転させて見せてくれる真相は、超自然とはなんの関係もない(ただし、いささか強引ではあるとはいえ全くあり得ないわけではないところの)、この世界の一現実、あるいは超現実なのである。

 結局この小説の面白さである、かかる超自然から(超)現実への転換を支えているのは、実に「因果論」的な論理性なのであり、読者はパズラー小説の読後そうするように、解明された地点から遡行して、作者の手並みを確認してみるとよろしい。

 そうやって振り返ってみれば、この小説には、もともと謎めいた、すなわち曖昧な所は(いちおう)一カ所もなく、少なくともミスディレクションに誘う記述はすべて論理的に回収されることを発見して、著者の周到さに舌を巻くに違いない。

 そう言う意味でこの作品は、合理性を契機としないホラーではありえず、合理性において共通するミステリとかSFの側に属すものといえるように思う。

6月

井田茂
異形の惑星──系外惑星形成理論から』(NHKブックス、2003)

 前著『惑星学が解いた宇宙の謎』(ヘテロ読誌02年5月参照)は序論でしかなかった。本書を読んだ読者は皆そう思ったに違いない。だが著者のこの次の著作を読んだとき、私たちは、本書もまた序論であったと思うかも知れない。それほどこの分野の知見は日進月歩している。

 ──1995年以来、観測技術の精密化と観測行為の無意識的な先入観からの離脱により、太陽系外惑星の発見ラッシュが始まる。
 それら系外惑星の様相は、たとえば木星質量で中心星の直近を高速で周回するホットジュピターであったり、長円軌道で灼熱と酷寒を繰り返すエキセントリックプラネットであったりと、従来の惑星形成理論ではおよそ考えられない異形の姿を示していることが判ってきた。
 すなわち、従来の(太陽系モデルの)「惑星形成理論」は、普遍的な惑星形成理論ではないことが明らかになった。

 本書で著者は、かかる異形の惑星たちの形成メカニズムを解き明かし、普遍的な惑星形成理論の構築をめざす「最新」の惑星学を紹介するとともに、著者自身の「一般惑星形成理論」の試論を展開し、生命誕生の条件を備えた地球型惑星が、いかなるパラメータにおいて存在確率を有するかを検討してみせる(ホットジュピターやエキセントリックプラネットが存在する恒星系では、地球型惑星がハビタブルゾーンに存在することができないのだ)。

 なにぶんまだ10年にもならない新しい分野である。まだまだ定説といえる説明体系は出てきていない。むしろ日進月歩で拡大する系外惑星の知見に、理論が追いついていない状況であるようだ。さまざまな仮説が百花繚乱している。そういう仮説の数々を、私のような文系人間にも理解できるよう、因果関係をいささかもゆるがせにせず解説してくれている(文系読者がこの種の科学一般書で困惑させられるのは、往々にして、著者ら当該分野の専門家にとっての常識が公理化されてしまって、説明を省かれてしまう場合が多いことである)。そのような次第で、本書はとても判りやすく、理論形成段階のスリリングな仮説展開の快感をいささかも損なわず追体験することができた。

 最終章が、(紙幅の関係か)駆け足になっているのは残念。あるいは別途出版されるものであるのかも知れない。楽しみに待ちたいところ。

 ところで、かかる系外惑星像は、ハードSFにとって未開拓の分野といえるのではないだろうか。本書に記述された系外惑星の奇妙奇天烈な異相は、実にSF心を刺激する魅力に満ちている。こういう世界を舞台にしたハードSFを早く読みたいと思った。たぶんまだ一度も書かれたことがないのではあるまいか。ハードSFの世界を一挙に拡大するに違いない。
 ──などと言っているうちに、早くもSFM8月号に、ホットジュピターを舞台にしたハードSFが掲載されたのには驚いた(小川一水「老ヴォールの惑星」)。いや素早い!


江戸川乱歩
蜘蛛男』(角川文庫) 

 拙稿を掲載して頂いている当「名張人外境」のサイト内コンテンツ、「江戸川乱歩執筆年譜」で確認したところによれば、「蜘蛛男」の初出連載は1929年8月〜1930年6月、先月読んだ「孤島の鬼」のほうは1929年1月〜1930年2月となっている。ほぼ同時期であるが、「蜘蛛男」のほうが半年ほど遅く連載が始まっている(途中並行して書かれた時期がある)。
 さて、本書「蜘蛛男」は、いわゆる通俗長篇第1作という定評である。「孤島の鬼」も、通俗長篇をめざした筈なのに、なぜかそうならず、むしろ「文学」的な傑作に仕上がってしまったことは先月記した。それではこの2長篇はどこで違ってしまったのか? それを確認するために、数十年前に読んだきりの『蜘蛛男』を引っぱり出してきた。

 数十年ぶりに再読してみて、畔柳博士が蜘蛛男であることと、博士邸がアジトと接している錯覚トリックは覚えていたのだが、あとはほとんど記憶に残ってなく、存外残酷な話だったので驚かされた(もっと少年探偵団的な話のような印象があったのだ)。読み終えて、「孤島の鬼」と「蜘蛛男」の違いをおぼろげながら確認できたように思う。

 その前に、「孤島の鬼」に対する乱歩自身の「否定的な評価」の真意について、私の理解を整理しておく。
 管見では、乱歩は「孤島の鬼」に於いて通俗小説を目論んだのに、初めての通俗ものであったため計算が狂ったのか、出来上がった当の「孤島の鬼」が、通俗小説に収まり切らぬ、通俗小説にあるまじき(と乱歩は思った?)根源的な「人間の謎」に触れるものとなってしまった。それを乱歩は肯定できなかった……。そのように理解している。
 乱歩の、決してよい読者ではない私の、ほとんど思いつきに近いかかる認識が、どれくらい的を射ているのか、外しているのか、とにかくこれが私の前提だ。

 それでは、この2作品、どこが違うのか。
 思うに、「孤島の鬼」が(中井英夫がいうように)「人間の謎を秘めている」(山下真史、99p)のに対して、「蜘蛛男」にはそれがほとんど認められない点ではないだろうか。
 前者では、丈五郎の内面に(山下論考にあるように間接的であるにせよ)立ち入って、いわば丈五郎は如何に丈五郎になりしか、がそれなりに語られ、読者に丈五郎へのある一定の理解(了解)をもたらす。それはすなわち丈五郎を、仕切線の向こう側からこちら側へ引き戻すものである(ヘテロ読誌2000年7月寺山修司〜倉阪鬼一郎〜山下真史を参照されたい)。山下さんの言葉を使えば彼我一如の混在境が、「孤島の鬼」においては出現しているのである。このことは、(私の想像する)乱歩の立場からいえば、通俗小説に図らずも混在境を現出させてしまった、ということになるわけだ。

 ところが、「蜘蛛男」の場合、稀代の「悪魔」たる蜘蛛男の内面は、読者には全く明らかにされていない。そういう描写はただの一片もない。それ故読者は、蜘蛛男と混在境を同じくすることが出来ず、読者と蜘蛛男の間には永遠の一線があり、彼我は断絶されたままである。これは重要な構成上の相違点であると思われる。

 山下論考の眼目は、丈五郎の内面への踏み込みが不十分であった(社会小説を忌避した)点が乱歩の不満だったと述べられていたと思う。私は逆に、繰り返しになるが、通俗小説を目指しながら内面に踏み込んでしまった(何とか間接的なところで踏みとどまったにせよ)点が(職人としての乱歩には)不満だったのではないかと想像したわけだ。

 乱歩は「孤島の鬼」で、おそらく「学習」したのだろう、「江戸川乱歩執筆年譜」によれば「孤島の鬼」の連載8回目に始まった「蜘蛛男」では、それ故、蜘蛛男の内面への踏み込みは周到に回避されている。
 その結果、「蜘蛛男」は乱歩が企図した通俗小説の理想に限りなく近づき、その意味に於いて傑作となり得たのではあるまいか。そして本作によって乱歩は、通俗長篇の筆法を体得したのだ。以降その方法論に従って通俗長篇が量産されることになるのである。

 先月、ミステリファンの反応を紹介したが、けだし(一般的な)ミステリ読者にとって「孤島の鬼」は「生々しすぎる」のかも知れない。通俗長篇の方がゲーム的な遊びの要素があって、気楽に楽しめる、というような意見もきいた。確かにゲームに於いては彼我一如の混在境は原理的にありえないことだ。
 そう言う意味で、乱歩の軌道修正は、ミステリ的には正しいものだったといえよう。中井英夫にとっては残念至極であっただろうけれども……


安田喜憲
古代日本のルーツ長江文明の謎』(プレイブックス・インテリジェンス、2003)

 世界の4大文明といえば、メソポタミア文明、インダス文明、エジプト文明、黄河文明である。著者によれば、あと何年か後には、ここに「長江文明」が付け加えられるに違いないという。

 言うまでもなく「長江」とは揚子江のこと。これまで長江流域には、都市を形成するような文明は存在しないと言われていた。しかし、近年、5000年前の都市らしい遺跡が続々と発見され(5000年前はメソポタミアやインダス文明が興った時期に等しい)、それらは従来の文明の概念を覆すものだった。

 すなわち従来の4大文明が、おしなべてユーラシア大陸の湿潤と乾燥のはざまに位置する大河のほとりに、遊牧民と農耕民によって生み出された畑作牧畜文明であったのに対し、ひとり長江文明は湿潤地帯のどまんなかの大河流域の照葉樹林帯に花開いた米作漁労文明であった(その照葉樹林の東端は日本列島にまで伸びている)。

 なぜ4大文明がほぼ同時に興り、また同じ時期に長江文明が花開いたのか、著者は環境考古学の手法を駆使してそのメカニズムにせまる。この辺、ちょっと初心者向きすぎてやや歯ごたえがない(この部分が一番読みたかったのだ。本書は180pの小著だが、もうちょっと書き込んで250pくらいでも良かったのではないか)。

 さて、かかる4大文明と長江文明の相違は、文明を担う当の人々の心性にも影響を及ぼしたと、著者は考える。今日の文明の行き詰まりは、4大文明的な「力と闘争」の文明の必然的な帰結であり、いま必要なのは長江文明的な「再生と循環」の思想を持つ「美と慈悲」の文明ではないかと著者は主張する。

 言いたいことは判るが、そのような記述によって、本書はオピニオンメッセージ的な性格が強くなってしまい、しかしそれを支える環境考古学的な事実の確認がおろそかになっていて、いささかバランスの悪さを感じないわけにはいかない。
 長江文明の延長線上に縄文や弥生の文化を認める論旨も、事実を離れた想像的・理念的な信念の発露になってしまって、やや残念。安田喜憲も歳を取ったか……


SFマガジン7月号(早川書房、2003)

 特集《ぼくたちのリアル・フィクション》。リアル・フィクション、て何?
 通読しても意味がよく判らなかった。ライトノベルやキャラクター小説とどう違うのか? まあ雑誌の惹句に厳密な意味を求める方が間違っているのかも。まずは評論から──

 三村美衣「表現とリアリズムの変遷──ライトノベル25年史」

 副題どおりライトノベル(ヤングアダルト小説)と呼ばれる作品群の始まりから現在までを簡潔に振り返ったもの。
 まず、<1977年──ジュヴナイルからヤングアダルトへ>という小見出しの下、論者は同年に開始されたクラッシャー・ジョウシリーズをもって、かかる新ジャンル小説の嚆矢の一とする。
 その理由として、次の5要素を挙げる。
  1)主人公が10代ながらプロフェッショナル。
  2)主人公も含む10代の登場人物が武器で戦い殺人も犯す。
  3)展開が早く映像的。
  4)主人公だけでなくチーム全員のキャラクタ−が書き込まれている。
  5)イラストにアニメ絵。読者はイラストのイメ−ジをそのまま受け入れる。
 そして、これらの要素は一つずつを取り上げればこれまでもあったが、全てを同時に備えた作品は以前にはなかったとする。

 嚆矢の二として挙げられているのは、やはり同年の新井素子のデビューである。新井の小説の特徴は、以下の3点。
  1)「あたし」という1人称。
  2)会話のみならず地の文まで女の子の話口調を採用。
  3)等身大の女子高生を描いた。

 論者はジュヴナイルとライトノベルの違いを、前者が大人が子供に向かって書いている小説であるのに対して、後者は同じ視線で書かれており読者はそこに敏感に反応した、とする。

 また「SFの人たちはヤングアダルト小説を低く見ている」というYAサイドの見解に対しては、論者は「SFインサイダーたちが、ヤングアダルトを新しい小説形態、別のジャンルと見ることができず、ジュヴナイル同様にSF入門ツールと考え続けたのは(……)誤謬だった」とする。これに関しては異論がある。[註1]

 その後、80年代は夢枕獏、菊地秀行らが輩出し、ライトノベルは盛り上がっていくのだが、特筆すべきは笹本祐一の登場で、主人公がプロではなく、ただのマニアックな高校生で彼らのオタク的な知識が世界を救うところが新鮮だったとする。
 「アニメや特撮ものを共通基盤にした(……)同時代的情報を共有する小説の流れはこの小説から始まった」(30p)

 このようにして論者によれば、
  1)イラストによるイメージの具象化
  2)情報の共有
  3)日常的な会話と段差のない文体 
 によって、「小説からあらゆるストレスが取り払われようとしていた」とする。この部分にも異論あり。[註2]

 80年代は日本にTRGPが紹介され、国産本格TRGPも発売され始め、そのタイアップ的にゲーム小説が誕生し、盛行する。論者は、これらの作品がSFやファンタジーの直系ではなく、ゲームを経て受け継がれたもので、「そこには従来の小説がもつリアリズムとは別の文脈が加わっている」とする。この辺は大塚英司の説と大差ないのでとばす。

 以上簡単に要約したが、最後に私が違和感を覚えたことを記す。

 [註1]私は、ヤングアダルト小説とSFは根本的に別の分類概念であって、分類基準の位相からして全く異なるものだと考える。そう言う意味で論者はこれを混同している。
 論者もヤングアダルトとSFを別のジャンルであると考えているようだが、そのとらえ方は、<SF>集合の外に<YA>を想定しているように読める。そうではないだろう。<ヤングアダルト>というジャンルと<SF>というジャンルは、そもそもジャンルとしての切り口が位相的に異なっている。論者の態度は、基準が異なるものを同じまな板の上にのせており、そもそも比較できないものを比較しようとしている。なぜならヤングアダルトであってもSFジャンル作品であることは可能だし、逆にヤングアダルトではあるがSFではないという作品もありうる。

 [註2]かかる3点によって「小説からあらゆるストレスが取り払われようとしていた」とされているが、それがはたして「好ましい」ことなのか(好ましいことのように読めた)。
 管見によれば、イラストによるイメージの具象化とは、見方を変えればイメージの固定化、他者による一つのイメージの押しつけということであり、「絵」を想像する楽しみを奪われることに他ならない。小説とは畢竟文字による描写から、読者が自由に(ただし描写に導かれて)イメージを造形する喜びなのではないだろうか。

 >日常的な会話と段差のない文体
 日常的な会話を文字で連ねても、それは文体ではないと思う。たとえば鏡花の小説の面白さは、あの文体があったればこそのもので、もし「高野聖」が普通の現代会話文で書かれていたら、きっとつまらないものだろう。文体(スタイル)も、読書の大きな楽しみの一つであるはずだ。

 そうすると、論者が言うところの「ストレス」は、ストレスでもなんでも無く、読むことの楽しみの大きな部分を占めるものではないのか。
 >小説からあらゆるストレスが取り払われようとしていた
 というのは言い換えれば、「小説からあらゆる読むことの楽しみが取り払われようとしていた」と言うに等しいのではあるまいか。

 もっとも論者自身本心から書かれているのではなさそうだ。それは次の一文から推測できる。
 「イラストによって絵を思い浮かべるストレスから解放され、文体によって読書の努力から解放された読者が、今度は嗜好の判断を短絡化させたととるべきなのかどうか、長らく確信が持てないでいる」(35p)

 なんだ、判ってるんじゃないですか。
 私には、その行き着く先は明らかであるように思われる。それは読者の「読む能力」の無際限な右肩下がり、徹底的な退化に他ならない。その結果が、「嗜好の判断の短絡化」という、与えられなければ反応できない、判断を回避する主体性の発達不全なのではないか(事実はこんな単純な因果関係ではないだろうが)。

 むしろこういった方がいいだろう。本来きわめて想像力を要求される主体的な行為である「読書」の、そのかなりの部分をヤングアダルト小説は(自発的に)取り払った(というか迎合した)。その結果、読者の読力の低下をきたし、本来それによって形成されるべき想像力(主体性)が発達しなかったと。

 なんのことはない、出版社が率先して(読書という行為の肝であるところの)読者の想像力のレベル低下に協力していたのである。今日の出版界の惨状は自業自得というほかないのではないか。
 出版社が読者のレベルに迎合すると、当然読者のレベルがそれを越えて行くはずはなく、全体としてはむしろ下方へ傾斜する。その結果出版社はさらにレベルを下げ……といういたちごっこ。本来出版社には読者のレベルを引き上げる使命があった筈なのに、現実は果つる底なき縮小再生産。

 ヤングアダルト小説に現れる(多元性に思いもよらない)世界の小ささや(他者との距離を測れない)未熟な感情の乱舞は、そういう読者への作り手の側の「懲りない」迎合ではないだろうか──そんなことを考えてしまう私は、「次世代フィクション」について来れない「前世代」の遺物なのだろうか。

 鈴木謙介「物語なき時代に物語を紡ぐこと──バーチャルとフィクション」

 本論は、三村の論を社会的な文脈において補足するものとなっている。
 論者はまず、社会学者・大澤真幸の所説に拠って戦後日本の時代精神の変遷を解説する。
 1945年から1970年頃までの日本においては、「現実」の対義語は「理想」だったとする(理想の時代)。この「理想の時代」は連合赤軍事件で終わり、目指されるべき理想(大きな物語)が「虚構」としてしか存在し得ない「虚構の時代」が始まる。つまり「現実」に対して「虚構」が対置される時代である。

 枚数の関係もあってか、論者の論はコンパクトに纏められ過ぎていて、逆に理解が難しい面があるのだが、この「虚構の時代」を私なりに類推するならば、1970年代以降、社会の多様化相対化に伴い、大きな共通の「理想」というものは存立し得なくなる。その結果、理想は社会的属性や信条によって分化、相対化してしまう。いわば無数の小さな物語が並立する状況といえよう。この時代は1995年のオウムの事件によって幕が引かれる。

 では、1995年以降、我々はどのような社会に生きているのか。論者によれば、それは東浩紀の所謂「動物化の時代」であるとする。
 「近代の理性が目指すものが、自然を克服し、自然に働きかけて理念を現実のものにするということであるとすれば、〈動物〉とは自然と調和し、与えられるものをそのまま受け入れて満足するような存在だ」(36p)
 この記述は、三村の(上に引用した)「嗜好の判断を短絡化させた」という記述に対応するものであろう。
 この時代の物語は、諸要素に分解され、物語の各パーツ自体が単体として機能する。つまり各パーツの任意の組み合わせとしてしか物語は存在できなくなる(データベース消費)。
 「あらゆる物語はパーツの順列組み合わせとしてしか見なされないことになり、物語の「大きさ」を維持することが不可能になる」(37p)

 かかる「物語の困難」に対抗するために、たとえば近年のハリウッド映画はCGを多用することで観客の感覚に直接働きかけるようになる。すなわち直接的な「感覚操作」に頼りはじめるのである。
 この「直接的」というのはこういうことだ。「例えば演劇であれば、明らかに恐竜に見えない人間や大道具を、心的な作用によって恐竜に「見立てる」という作業が発生する」(37p)わけだが、このような(「見立て」のような)想像力を介在させる「間接的な」能力(読みとる力)を、観客(読者)に期待できなくなったので、「この種の想像力を必要としない表現を可能とする」(37p)直接的な感覚操作(たとえばCG)に頼るようになり始めたということであろう。

 感覚操作によって支えられた作品においては、観客は「物語の流れを読みとらなくてよい」。観客(読者)は、さながらジェットコースターに乗ったように、制作者の運転のまま、はい、ここで笑って下さい、というところで笑い、次ここで怖がって下さい、というところで怖がり、ここで泣いて下さい、というところで泣き、はい終着点に到着しました。お疲れさまでした、で、映画館を出るなり、本を閉じる、ということになる(ノンストップムービーとは、まさにこういった手法に依拠した作品のことだろう)。なぜ泣くのか、といった「悲しみの理由」やなぜ怖いのか、といった「恐怖の理由」は、考えるいとまもなく置いてけぼりにされてしまう。……(注1)
 物語を読み、因果を関連づけ、行間を想像し、場合によっては深読みする、そういう作業は全く必要としない。なるほどこれでは「映画を見て感想が言えるなんてすごいですね」(37p)ということになるのは当然ではないか。

 筒井康隆『小説のゆくえ』(中央公論新社、2003)を、パラパラと拾い読みしていたら、こんな文章があった。
 ──宮沢章夫の「サーチエンジン・システムクラッシュ」は読んでいてとても懐かしい気分になれた。(……)池袋をほとんど知らない小生にも既視感のようにそのリアリティが感じられ、作中にも出てくる「いま、池袋」というフレーズには実感があった。(筒井、150p)

 挙げられた作品を未読なので断定することはしないが、鈴木のいう「体験操作」の手法というのは、つまるところ、これなのではなかろうか。もしそうであるのなら、「体験操作」の手法とは、小説のもっとも本来的な機能そのもののことのように思われる。それが証拠に、筒井はこうも述べている。

 ──手法が古めかしい、とか、七〇年代の小説みたいだ、という否定的な意見もあった(この文章は三島由紀夫賞の選評である。大熊註)。(……)カフカに始まる徘徊もの彷徨ものの文学的伝統すべてが思い出され、まさにそこにこそ前記の「懐かしさ」を感じたのである。これを一概に古さと言うべきなのだろうか。(同、150p)

 これを、以下の鈴木の文章と比べていただきたい。
 ──「ああ、自分にもこんなことがあったな」という感情・記憶を喚起させられる。そこで私たちはこの物語を「自分の来歴」と重ね合わせて受け取ることができる。(……)前半において観客は物語をすでに自分の記憶の中の物語の再現として見せられている。 ので、それが「ありえなかった話」に展開したとしても、それがまるで自分の記憶の延長にあるもののように受け取られてしまう。(……)観客を物語に引きずり込むために「記憶」というデバイスを利用するのである。(鈴木、38p)

 大塚英志の所論でも感じたことだが、この鈴木の「体験操作論」にせよ、著者は新しいことを言っているつもりが、実は旧来の読書人にはあたりまえの議論であったりするのは、案外論者の読書経験の浅さを反映しているのかも知れない。

 ひきつづいて「次世代型フィクション(?)」4篇──

 冲方丁「マルドゥック・スクランブル"104"」

 平井和正っぽいアクション小説。そこそこ面白い。が、マンガの原作という感じ。ウルフガイ系のお話が好きな読者なら充分楽しめるだろう。ただ主人公の内部告発者の女性の、トラウマに支配される行為(思惟+行動)が、観念的でリアリティがないのがちょっといただけない。またボイルドとウフコックという「兵器」も、あまりに絵空事めいて現実感がない。もっともシリーズ作品ということで、設定に埋没してしまえばどうと言うことはなくなるだろうが。
 それから、作中頻出する「煮え切る」という言葉の使い方が特殊で、とても気になった。

 元長柾木「デイドリーム、鳥のように」

 これは問題作。SFジャパンの秋口ぎぐるもそうだったが、SF雑誌という発表場所をトリックの前提に使った極めて意図的、挑発的な作品といえる。挑発的とは、上記三村論文で引用したような、SF読者の抱くYA小説観への挑発ということである。
 つまり私のようなヤングアダルトに「偏見」を持つSFファンの心理を見越したストーリーづくりがなされていて、思わずやられたと叫んでしまった。

 主人公の穴穂津里緒には特殊能力があり、それを買われてある機関の工作員をしている。今回のターゲットは啓市という高校生。里緒は啓市の恋愛感情に付け入って近づくのだが、この里緒、3年間恋人と同棲していたという経験があるにもかかわらず、啓市に対する態度が「異常に」ウブで、私は「だからYAはリアリティがないんだよ」とイライラしながらも、しかしYAの欠点を「十全に備えた」作品を読んでいることに故なき安心感、優越感を覚えつつ読み進めていたのである。啓市の好みに合わせて、それまでパンツルックしか穿いたことがなかった里緒は、啓市にプレゼントされたミニスカートを穿いてデートすることになる。そのときの里緒の羞恥心が、これも「異常に」強く、違和感を覚える。そして里緒の部屋で、遂に里緒は啓市に抱かれ、下半身に手が伸びて……

 ここで(専らSFしか読んでいない純粋SFM)読者は、その驚天動地の叙述トリックに、思わず持っていた雑誌をバッタと落としてしまったのではないだろうか。わお!と叫んで部屋中を走り回ったのではないだろうか。そしてそのあとで、嫌悪感に雑誌ごとゴミ箱に棄てた読者もいたかも知れない。これが、SF読者に対する確信的な挑発でなくて何だろう!

 もちろん私も仰天し、小林泰三の「家に棲むもの」のときと同様、「仕掛け(細工)」を遡行的に確認していったのだったが……ミスディレクションに誘う記述が余りにもアンフェアで、残念ながら小林作品のように持ち上げることはできない。
 とはいえ、この作品が(少なくとも純粋な)SF読者のYA観を前提とし、舞台を見定めた上で、揶揄することを目的としたものであることは明らかで、まさに道場破りという言葉が浮かんでくる。そういう蛮行を試みた作者の勇気と才気には脱帽。敵ながら天晴れ!

 吉川良太郎「ぼくが紳士と呼ばれるわけ」

 本特集中、一等頭抜けた作品。高野史緒にケンカを売る(?)19世紀の今一つのフランスを舞台にしたスチームパンクならぬアルケミーパンク!(よく判りませんが)。文体がちゃんとあるし、描写も、読んでいて世界がありありと迫ってくる力を持っている。この世界を舞台にした長篇を構想中とのことで楽しみ。
 一つ気になったのは、主人公のアルの正体が途中で明らかになることで、どうせ一回しか使えないオチなのだから、これは最後まで引っ張る方がよかったのではないか。

 長谷敏司「地には豊穣」

 これは本特集中唯一の凡作。吉川良太郎のあとに読んだせいか、とりわけ文体の凡庸さに苛立つ。内容もYAらしく観念的で、筒井の所謂「自動性」に埋没したまま飛躍できていない。自然的態度に埋もれたまま感情を垂れ流しても、それは小説ではない。


草上仁
ゲートキーパー)』(ソノラマ文庫、2003)

 スターハンドラーシリーズ(3作全6巻)の最終巻。これはスゴい! 本書において、シリーズを貫通する全ての謎が明らかになる。驚愕の大傑作!!

 観測しようとすると見えなくなってしまう謎の電波を捕まえようと宇宙空間に飛び出したスチャラカチーム。彼らを追ってこれまでに登場した全てのキャラクターたちが集まって来る。

 ──量子論とミトコンドリアが出合うとき、真空の宇宙空間に、嵐のような雨が降る!!

 そう、宇宙空間に、実際に雨を降らせてしまうのだ。驚くまいことか。このアイデアだけでも大概ややこしいのに、さらに話をややこしくするのがキャラクターたちのてんでに勝手な行動である。

 この野生の悍馬のように跳ね、走り出すストーリー相手に、さしもの作者も、今回は手綱さばきに苦労している気配。しかしそこは名手、この錯綜するストーリーを最終的に捌ききった果てにあらわれるのは、壮大な本格SFの極致なのであった。
 ──キャラクターたちの行動は、全てあらかじめ定められていたのか?
 戦いすんで、しばしの休暇を満喫するスチャラカチームの、収まるところに収まる大団円の図に、思わず滂沱。清々しい心地よさを残して、この素晴らしい大作はフェイドアウトしていくのだった。ああ〜〜、おもしろかった〜!

 このシリーズで、著者は何か「掴んだ」のではないだろうか?
 このスターハンドラーシリーズ、そもそもの最初からストーリーが輻輳していて、その一本一本の線(ストーリー)自体は時に散漫になる場合があった。ところが本篇にいたって、ストーリーの各線が、もっと有機的にネットを形成し始めて、諸ストーリーが束として太さと力強さとしなやかさを持ち始めたように思う。

 それはおそらく、このシリーズの特徴である、キャラクターが勝手に動くのを、あまり作者が規制せず、自由に振る舞わせるという、一種ルーズな小説づくりの手法に作者が完全に習熟したからではないだろうか。
 このような手法は、たぶん昔の(柴錬とかの)伝奇時代小説の書き手が、雑誌の連載という場において採用していたものと同じものではないかと思う(スターハンドラーは書き下ろしだが)。

 たとえば、本人かと思えば実は替え玉であったとか、エアがなくなって死んだ筈の人物が死んでなかったりとか、連載の各回をの終わりに必ず次回への「引き」を無理矢理つくっては、次の回で何とか辻褄を合わせる、あのおなじみの〈大衆小説〉のおおらかさに非常に近しいものを感じるのだ。それが実に効果的に作用して、この巻ではとりわけ、一種〈分厚い〉物語性が生み出されている。
 しかも最後には、ゆるめていた手綱をきりりと締め直して(ここが昔の伝奇時代物との違いかも)、きれいに着地するのだから恐れ入ってしまう。

 これまで草上仁といえば、版で押したように短篇の名手という冠詞が付いたものだ。私もそう思っていた。短篇とはいかに作者が作品をコントロールするかが問われる形式であろう。これまでの草上仁はかかるコントロールの名手であったわけだ(それがために一種「理に落ちる」味気なさも、著者の短篇のなかには、正直なところ、ないわけではなかったのだが)。
 ところが、このシリーズで著者は、あるところまでは手綱を引かない、コントロールしない、という小説手法上のコツを掴んだように思われる。

 おそらく今後、著者は、物語性豊かな、いわばエンドレスな大長編小説の書き手に変身していくのではないだろうか。
 とはいえ著者がSFを離れたものを書くはずがない。とすれば、それはつまり伝奇小説的な豊かな物語性を兼ね備えた本格ハードSFが期待できると言うことだ。半村良の物語性にハードSFを加えてスケールアップしたような、途轍もない大長編SFを、近いうちに披露してくれるのではないだろうか。これは楽しみだ。

 余談だが、本書はキャラクター小説である。そして同時に本格SFなのである。


小川一水
群青神殿』(ソノラマ文庫、2002)

 核融合や宇宙発電などの未来エネルギーまでのつなぎとして、21世紀のエネルギー問題を解決する切り札と目される「燃える氷」メタン・ハイドレート(MH)──民間会社に所属する俊機とこなみは、このMHを探すために作られた二人乗り中深海長距離試錐艇デビルソードの乗務員であり、恋人同士でもある。

 その彼らに、大型沈没船の調査が命じられる。沈船には破壊孔が開いていた。しかもそのささくれだった裂孔縁は、内側に向かって曲がっており、それは巨大で堅い物体がぶつかって開いたものであることを示していた。
 同様の原因不明の沈没事故が多発し始め、そこには必ず新種の海棲生物シーリボンが群をなしていることが判ってくる。やがてシーリボンを補食する未知の巨大海洋生物の存在が浮かび上がる。

 襟裳岬沖で巨大生物調査に従事していたデビルソードは、巨大生物と自衛隊の<衝突>に巻き込まれ、コントロールを失ったまま、8000メートルの日本海溝に沈む。やがて海溝底に到達した二人は、そこに月光下の雪面のように青くかがやく、見渡す限りの無数の列柱を見出す。それは巨大生物とシーリボンの生まれし場所だった……

 海洋UMA小説である。もちろんハードSF。巨大生物とシーリボンの正体が、「科学的想像力」を限界まで駆使して明らかにされるとともに、その結果、この地球は2万メートル級の海溝を持っていなければならないことが論理的に導出されてしまうのだ!
 このあたりの論理の弄び方は、本当にワクワクさせられた。まさに科学にこだわり、しかして科学に抑え込まれないハードSFの醍醐味!

 一方、ソノラマ文庫から出たこの長篇SFは、表紙絵がマンガ風であることからも明らかなように、ヤングアダルト小説(キャラクター小説)でもあるわけである。何度も言うが、SFであることとキャラクター小説であることは全く矛盾しない。切り口の異なる分類概念同士だからである。

 たしかにキャラクター小説らしく、民間会社で、しかも男性が圧倒的に多い職場でチームを組む二人が、会社公認の(一応理由があるとはいえ)恋人同士であるという、まさに非現実的な設定を、本書は持っており、主人公のひとりであるこなみは、いかにもマンガの登場人物のような、旧来の小説読みには一種耐えがたい非現実的な行動をとって私のような読者を萎えさせるのであるが、だからキャラクター小説は駄目なんだ、と私はいいたいのではない。むしろキャラクター小説として、この小説は中途半端なのだ。
 なぜなら、こなみ(と、もうひとりの女性キャラ)以外の登場人物は、ほとんど旧来の人物描写をなされているのだ。実写の中にアニメが合成された映画があったと思う。本書に私はそんなイメージを持った。そこに違和感を感じた。

 たとえば、上述の「スターハンドラー」、この作品には<生身の人間>は、たったひとりとして登場しない。全員どこか過剰なキャラクターばかり。その呆れるばかりの徹底ゆえに、この作品は、私のような者でも楽しめたような気がする。キャラクター小説だから面白くない、と決めつけているわけではないのである。

 そう言う意味で、本書はキャラクター小説として「不徹底」な印象を禁じ得なかった。実写部分の素晴らしい(ハードSF的)リアリティが、アニメ部分と馴染まなかった。アニメ的設定が、むしろ不要ではなかったかと思わないではいられないのである。

 ここからは想像(妄想)である──本来、初稿は旧来の、キャラクターに偏しないハードSFとして完成していたのではないだろうか。だがそれでは、ライトノベルの編集者は不満だった。「先生、もっとキャラを立てて下さいよ」
 作者は別段アニメ的人物を登場させたくなかったのだが、編集者の要請とあれば無碍に無視することもできなかった。カバーの作者の言葉で、「萌えを否定はしないが、美少女とともにどうしても年寄りを出したがる性癖がある」とわざわざ書いたりしているのは、あるいは意に反してキャラクターを書かざるを得なかった無念さの現れではないだろうか……

 いや妄想が過ぎましたか。ともあれ、20代の若きハードSFの担い手の登場に拍手を送りたい。


眉村卓
マントとマスク」(同人誌<寄港>創刊号(2003)、所収)

 ──森田泰治は70前後、10年前に妻と死別してから独り暮らしの引退生活者。新聞の死亡欄に五十嵐研介の名前を見出す。もう40年以上行き来の絶えてしまっていた五十嵐は、昔の「仲間」だった。その名前が、昔の記憶を引きずり出す……。

 腕におぼえのある森田や五十嵐ら道場仲間が練習からの帰途、神社の裏手で襲われていた男女を助ける。すると不思議な老人があらわれ、かれらにマントとマスクを手渡す。それは正義の使者が着けるもので、正義を信じている限り、マントを着けると空を飛べ、飛んでいる姿は人間には見えないという。

 それ以来、テレパシーで呼び出しがあると、彼らはマントとマスクを着け、空に飛び出す。すると自然に強盗などの現場に着き、やっつけるのだ。そういう出動が何回に及んだろう。次第に森田は疑問に感じるようになる。これが正義だろうか。もっと社会の構造や人間の在り方にかかわることをすべきではないのか。これでは命令者にとって都合のいい、ただの手先ではないのか?

 そう言う疑問にとらえられた彼は、ある日、自室の6階の窓から飛び出すことができず、階段を駆け下り地面から飛ぼうとするのだったが……

 死亡記事の五十嵐は、森田が飛べなくなってからも、出動し、戦っていたのだろうか?
 彼は押入の隅に突っ込んであったマントを引きずり出してくる。笑い出さずにはいられなくなり、止まらなくなる。ひいひいと涙まで出てくる。
 マントとマスクを仕舞い込み、かれは碁会所に出掛ける。その晩、森田はマスクとマントを着ける夢を見る。飛ぼうとした瞬間、足元に穴があき、彼はどこまでも落ちていく。……

 うーん、いいですねえ。まさにこれぞ文学の味わいというものではないだろうか。何度も味読したい短篇小説である。(なお本篇は、「眉村卓応援サイト とべ、クマゴロー!」にて近日ネット公開予定)


掲載 2003年8月6日、8月9日(6月)