ヘテロ読誌 |
大熊宏俊
|
2003年 ●上半期
|
|
5月 ●ニール・R・R・ジョーンズ スペオペの古典として名高い〈ジェイムスン教授シリーズ〉の第1巻。「あとがき」によれば、1931年2月から1938年4月にかけて最初の12編が<アメージング誌>に、その後1940年4月から42年10月まで<アストニッシング誌>に4編。間があいて戦後の1949年9月から1951年8月まで<スーパー・サイエンス・ストーリーズ誌>に5編が、それぞれ掲載された(計21編)。 そしてシリーズ終了20年目にしてエースブックスで単行本化。ということだから、1971年刊行開始ということになる。わずか1年の時差で翻訳が始まったのですね。 第1話「機械人21MM−392誕生! ジェイムスン衛星顛末記」 第2話「奇怪! 二重太陽系死の呼び声」 事実機械人たちは、青色の太陽のが出ているとき、不可解な自死衝動に捉えられ、次々飛び降り自殺を試みる。不老不死の体を持つゾル人だが、さしもの彼らも脳が破損すれば死んでしまうのだ。 ゾル人は壊滅的な打撃を受け、一旦宇宙に逃れようとする。が、コウモリ人の精神攻撃によって残されたゾル人も次々やられてしまい、唯一教授のみが奇跡的に宇宙船でのがれる。しかし壊れた宇宙船は第1惑星と第2惑星の中間で二重星系を公転する人工惑星と化してしまう。 宇宙船を修理するすべもなく、たったひとり残された不老不死の機械の体を持つジェイムスン教授は、死ぬこともかなわず、かといって救助の宇宙船がやってくる確率は万に一つもない。ジェイムスン教授の運命やいかに! 第3話「仇討ち! 怪鳥征伐団出撃す!」 実はかれらは、700年前に既に一度、第1惑星に到達しており、そのときゾル人と同じように鳥人に壊滅させられていたのだ。その後第2惑星はテクノロジー的に退化、ようやく再び第1惑星めざして700年前の仇を討つべく第1惑星をめざしていたのであった。そうして彼らは教授と共に、勇躍第1惑星に乗り込み…… この物語の凄いところは、4000万年が数ページで過ぎ去り、600年が、いとも無造作に1ページで飛び去っていく時間感覚だ。まさにセンス・オブ・ワンダー爆発で、スペオペの名作と謳われるのも納得できる。 訳文は快調至極で──これはこれで勿論いいのだが、「である」調ではなく「です、であります」調、すなわち講談風な語り口調に訳されたら、また別の雰囲気が出たのではないだろうか。 ●大塚英志 先月読んだ『キャラクター小説の作り方』と同様のコンセプト、すなわち小説の書き方の具体的指導、マニュアル化された技術論が、そのまま小説(文学)とは何かという問題へのアプローチになっている。 小説なんて、作家という〈選ばれし者〉の秘儀などではなくて、誰にでも書けるものなのではないだろうか、という立場から、こう書けば小説になるという手法(マニュアル)を公開している、その上で、ではそうやって書き上げられた小説は、「従前の秘儀としての小説」を放逐しうるものたり得るか? と著者は問う。 その結果として〈秘儀〉の領域はどれほど残されるのか、あるいは全く残らないのか、そのことを確かめてみようと思います。(10p) 著者は、小説が誰にでも書けるものとなった暁には、小説家と読者の境界が、 解体してしまって一向に構わない(214p) と(一応)切り捨てるのだが、それは他面、小説家と称する人種への(希望を棄てきれない)最後通牒でもあるようだ。逆説というのはそういうことなので、おそらく著者は、文学の現状には絶望しつつも、(心の片隅では)まだ〈文学〉を信じているのではないだろうか。 どこのサイトであったか、(若い論者であろうが)大塚の論は技術ばかりで心がない、と書いてあるのを見かけた。まさに 逆説が通じない(222p) 例であろう。この例から、むしろ私は、このような逆説を読みとれないマニュアル世代に期待は持てないなあ、と感じた次第なのだが、ともあれ〈心〉のないマニュアル小説を睥睨するだけの高さがない「文学」なるものの現状に、引導を渡しあぐねている著者の姿が、本書にはほの見えているような気がするのだ。 ●久野四郎 この作品集が、著者の唯一の本(文庫タイトルは「砂上の影」)なのである。 この作家が断筆せずに書きつづけていたら、どんなすごい作品群を生み出したことだろう。断筆はまことに日本SF界の損失だったのではないだろうか。長篇を読みたかったなあ、と惜しまずにはいられない。おそらく長篇を量産できた作家だったと思う。それは本書を読んでの私の確信である。 「砂上の影」(注意:オチを割ります) オチを割ると、その10年間はどうやら死にかけた彼が想像/創造した異世界であり、異世界で生き続ける彼を、上空の屍肉喰いの黒い鳥は食うわけにいかず、彼の創造世界に黒服の男として現れ、その世界を崩壊に至らしめるというわけ。 「夢判断」、「5分間」、「ワム」、「結婚エージェント」、「上流社会」、「見える理由は……」、「旅行案内」は、オチが効いているのは上記作品と同様ながら、社会というか生活人の感覚がよく描かれていて、眉村卓の初期短篇を彷彿とさせる。もっとも眉村が描くのはサラリーマンの感覚であるに対し、こちらは中小企業経営者(というか自営業者)の感覚かも。 「溶暗」、「悪酔い」、「グルルンガ・ジタ」、「再発」、「くり返し」、「オー・マイパパ」は純然たるオチ小説。 以上の作品群は、オチに結実する構成の妙がすばらしい。よく考え抜かれた作品という感じがする。 「獏くらえ」、「いなかった男」、「事故多発者」は、ホラーSFといえるもの。発表年月は記載されていないけれども、おそらくかなり書き慣れてきた時期の作品だと思われる。というのはずいぶん「小説らしい」結構をそなえてきているからで、作品がオチに依存しなくなっており、むしろストーリーを読んだという満足感を味わえた。 著者・久野四郎は、福島正実がSFMを降りると同時に作品を発表しなくなる。もともと別に仕事を持っていて、何が何でも作家になりたい、という欲求は希薄だったのだろうが、SF読者としては残念という他はない。 ●稲生平太郎 世評高く、以前から読みたいと思っていた小説。巻末解説にも書かれているが、この作品、もっと若いとき、中高生くらいに出会いたかった。元版は1990年なので不可能な話なのだが。 大塚英志がキャラクター小説を定義して、「角川スニーカー文庫に入るような小説」と書いている。そのスニーカー文庫で復刊された本書は、しかしながら、管見によればキャラクター小説とは対極的な小説である。 大塚が言うように、キャラクター小説が「文字で書かれたアニメやマンガ」、すなわち作中人物がアニメやマンガのキャラクターとして、読者に認識される小説だとするなら、本書は明らかにそうではない。 ストーリーは、結局最終に至っても、主人公の親友を殺しガールフレンドを拉致(?)した相手の正体は曖昧なままで、超自然的力が理不尽に主人公たちに影響を及ぼす理由が明らかになることはない。そう言う意味では、まさに定石どおりのホラー小説であるといえる。 実はブラッドベリっぽいファンタジーを予想していたのである。ところが「アクアリウム」や「カメラ・オブスキュラ」という〈情動装置〉に対するブラッドベリ的な耽溺はほとんどなく、ストーリーに奉仕する舞台装置のひとつでしかなかった。ちょっと想像していたのとは違っていたのだが、佳品であるのは間違いない。本書はホラー的恐怖に満ちたジュブナイル小説の佳品なのだ。 昨今、ヤング対象の出版界では、キャラクター小説でなければ相手にされないらしい。今がそんな時代であるからこそ、本書の復刊は格別の意義があると思う。出版社も冒険だったのではないだろうか。 ●江戸川乱歩 あるミステリ系の会合で、ひとしきり「孤島の鬼」が話題となった。初期の本格短篇も面白い、通俗長篇も面白いけど、「孤島の鬼」は合わなかった、という意見が出て、なるほどミステリ読みならば当然そうであろうな、と得心した。 「孤島の鬼」には、夥しい畸形や同性愛が登場する。動物(異形)の徘徊するサファリパーク(渾然郷)内を乗客(読者)を乗せて遊覧するバスのベテラン運転手として、乗客(読者)を、はらはらさせながらも無事に安全地帯へ帰還させるのが、常なる乱歩の本領だというのが私の認識なのだけれど、本篇では帰還しようと言う気持ちを一方で持ち続けながら、もう一方の欲求に負けて(衝動に駆られて・はからずも・やむなく)途中でバスの扉を大きく開けてしまった(見世物の観客を客席から舞台へ上げてしまった、あるいは見世物と見る者の垣根を取り払ってしまった)ような印象が強い(先走るが、その結果「思わぬ」傑作を乱歩は書いてしまったのである)。 <『新青年』趣味>10号(『新青年』研究会、2002)所収の山下真史「『孤島の鬼』論」で論者は、本作を最高傑作であるとした上で、(この小説で乱歩は)ドストエフスキーの小説に匹敵する小説を書きたかったのに実現できなかった、その理由は、プロレタリア小説的な社会性を忌避したためと述べているが、ドストエフスキーがプロレタリア作家ではないのだから些か筋が違っているように思われる。 乱歩は、もともとは安全に着地する通俗長篇を書こうとしたのだと私は思う。それが結果として(内からわき上がってくる切実なものに負けて)達成できず通俗長篇としては歪んだかたちのものが出来上がってしまった。その歪みの部分は、たしかにドストエフスキー的といえるかも知れない。とはいえ、もともとそちらをめざしたものではないので、そう言う観点から見れば、十全に「実現」できてないと言い得る作品ではあるだろう。しかしながら「人間の心の闇を描くという<意図>が社会性に踏み出さなかったために実現できなかった」というものではないように思うのである。 乱歩自身が本篇に就いて、 《前以てやや筋が出来ていたものであるが、いざ書いて見ると、おぼろげに考えていたのが間違いだったりして、やっぱり毎月の締切りごとに困らなければならなかった。そして、結局あんなものしか出来なかった》と「否定的な言辞を連ねている」(山下99p) のは、そう言う意味で正直な感想のような気がする。つまり運転手としての職務を忘れて安全地帯に帰着し得なかったことに対するアンビバレンツ。 けだし著者に宿った「孤島の鬼」というコンセプトに、乱歩自身が引きずられて、はからずも「運転手」に収まりきれない(乱歩としてはあらわにしたくなかった)作家的資質が一瞬むき出しになったのが本篇なのではないだろうか。 もっとも私自身は、常々感じていた乱歩への不満、結局<境界線のこちら側>へ帰着するという不満を、本篇ではほとんど感じることはなかった。だからこそ、傑作であると感じたわけだ。 ●眉村卓 ──ふと気がつくと、クロネは戦国時代の荒れた村境に居る。なぜそんな所にいるのか判らない。そういえばそれまでの記憶もない。そんなクロネの傍らを、野伏りの一団が、やせこけた小さな少女ヌジを縄で括って通りかかる。…… 水彩画めいた淡い筆致で描かれていて、謎は謎のままの、切ない小説。やはりクロネは眉村さんで、ヌジは奥さんなのではないだろうか。 ●小林泰三 短篇集で、書き下ろし3篇含む7篇が収録されている。 この作品の面白さは、上述の仕掛け、あるいは仕掛けを施された設定にある。最後に仕掛けが明らかになり、今まで読者の目の前に見えていた・見えていると思っていた世界が、実は錯覚で、本当は別の現実がその裏に隠れていて、作者がポンと手をたたくと、舞台がくるりと回転し真相が明らかになる──その手際、転換の鮮やかさに驚かされる、そんな小説なのだ。 本書はホラー短篇集であるが、この表題作はホラーではない。ホラーなのは、最初に見えていた・見えていると思っていた世界の方で、それは錯覚だったわけだから、ホラーであるはずがない。 結局この小説の面白さである、かかる超自然から(超)現実への転換を支えているのは、実に「因果論」的な論理性なのであり、読者はパズラー小説の読後そうするように、解明された地点から遡行して、作者の手並みを確認してみるとよろしい。 そうやって振り返ってみれば、この小説には、もともと謎めいた、すなわち曖昧な所は(いちおう)一カ所もなく、少なくともミスディレクションに誘う記述はすべて論理的に回収されることを発見して、著者の周到さに舌を巻くに違いない。 そう言う意味でこの作品は、合理性を契機としないホラーではありえず、合理性において共通するミステリとかSFの側に属すものといえるように思う。 |
●井田茂 前著『惑星学が解いた宇宙の謎』(ヘテロ読誌02年5月参照)は序論でしかなかった。本書を読んだ読者は皆そう思ったに違いない。だが著者のこの次の著作を読んだとき、私たちは、本書もまた序論であったと思うかも知れない。それほどこの分野の知見は日進月歩している。 ──1995年以来、観測技術の精密化と観測行為の無意識的な先入観からの離脱により、太陽系外惑星の発見ラッシュが始まる。 本書で著者は、かかる異形の惑星たちの形成メカニズムを解き明かし、普遍的な惑星形成理論の構築をめざす「最新」の惑星学を紹介するとともに、著者自身の「一般惑星形成理論」の試論を展開し、生命誕生の条件を備えた地球型惑星が、いかなるパラメータにおいて存在確率を有するかを検討してみせる(ホットジュピターやエキセントリックプラネットが存在する恒星系では、地球型惑星がハビタブルゾーンに存在することができないのだ)。 なにぶんまだ10年にもならない新しい分野である。まだまだ定説といえる説明体系は出てきていない。むしろ日進月歩で拡大する系外惑星の知見に、理論が追いついていない状況であるようだ。さまざまな仮説が百花繚乱している。そういう仮説の数々を、私のような文系人間にも理解できるよう、因果関係をいささかもゆるがせにせず解説してくれている(文系読者がこの種の科学一般書で困惑させられるのは、往々にして、著者ら当該分野の専門家にとっての常識が公理化されてしまって、説明を省かれてしまう場合が多いことである)。そのような次第で、本書はとても判りやすく、理論形成段階のスリリングな仮説展開の快感をいささかも損なわず追体験することができた。 最終章が、(紙幅の関係か)駆け足になっているのは残念。あるいは別途出版されるものであるのかも知れない。楽しみに待ちたいところ。 ところで、かかる系外惑星像は、ハードSFにとって未開拓の分野といえるのではないだろうか。本書に記述された系外惑星の奇妙奇天烈な異相は、実にSF心を刺激する魅力に満ちている。こういう世界を舞台にしたハードSFを早く読みたいと思った。たぶんまだ一度も書かれたことがないのではあるまいか。ハードSFの世界を一挙に拡大するに違いない。 ●江戸川乱歩 拙稿を掲載して頂いている当「名張人外境」のサイト内コンテンツ、「江戸川乱歩執筆年譜」で確認したところによれば、「蜘蛛男」の初出連載は1929年8月〜1930年6月、先月読んだ「孤島の鬼」のほうは1929年1月〜1930年2月となっている。ほぼ同時期であるが、「蜘蛛男」のほうが半年ほど遅く連載が始まっている(途中並行して書かれた時期がある)。 数十年ぶりに再読してみて、畔柳博士が蜘蛛男であることと、博士邸がアジトと接している錯覚トリックは覚えていたのだが、あとはほとんど記憶に残ってなく、存外残酷な話だったので驚かされた(もっと少年探偵団的な話のような印象があったのだ)。読み終えて、「孤島の鬼」と「蜘蛛男」の違いをおぼろげながら確認できたように思う。 その前に、「孤島の鬼」に対する乱歩自身の「否定的な評価」の真意について、私の理解を整理しておく。 それでは、この2作品、どこが違うのか。 ところが、「蜘蛛男」の場合、稀代の「悪魔」たる蜘蛛男の内面は、読者には全く明らかにされていない。そういう描写はただの一片もない。それ故読者は、蜘蛛男と混在境を同じくすることが出来ず、読者と蜘蛛男の間には永遠の一線があり、彼我は断絶されたままである。これは重要な構成上の相違点であると思われる。 山下論考の眼目は、丈五郎の内面への踏み込みが不十分であった(社会小説を忌避した)点が乱歩の不満だったと述べられていたと思う。私は逆に、繰り返しになるが、通俗小説を目指しながら内面に踏み込んでしまった(何とか間接的なところで踏みとどまったにせよ)点が(職人としての乱歩には)不満だったのではないかと想像したわけだ。 乱歩は「孤島の鬼」で、おそらく「学習」したのだろう、「江戸川乱歩執筆年譜」によれば「孤島の鬼」の連載8回目に始まった「蜘蛛男」では、それ故、蜘蛛男の内面への踏み込みは周到に回避されている。 先月、ミステリファンの反応を紹介したが、けだし(一般的な)ミステリ読者にとって「孤島の鬼」は「生々しすぎる」のかも知れない。通俗長篇の方がゲーム的な遊びの要素があって、気楽に楽しめる、というような意見もきいた。確かにゲームに於いては彼我一如の混在境は原理的にありえないことだ。 ●安田喜憲 世界の4大文明といえば、メソポタミア文明、インダス文明、エジプト文明、黄河文明である。著者によれば、あと何年か後には、ここに「長江文明」が付け加えられるに違いないという。 言うまでもなく「長江」とは揚子江のこと。これまで長江流域には、都市を形成するような文明は存在しないと言われていた。しかし、近年、5000年前の都市らしい遺跡が続々と発見され(5000年前はメソポタミアやインダス文明が興った時期に等しい)、それらは従来の文明の概念を覆すものだった。 すなわち従来の4大文明が、おしなべてユーラシア大陸の湿潤と乾燥のはざまに位置する大河のほとりに、遊牧民と農耕民によって生み出された畑作牧畜文明であったのに対し、ひとり長江文明は湿潤地帯のどまんなかの大河流域の照葉樹林帯に花開いた米作漁労文明であった(その照葉樹林の東端は日本列島にまで伸びている)。 なぜ4大文明がほぼ同時に興り、また同じ時期に長江文明が花開いたのか、著者は環境考古学の手法を駆使してそのメカニズムにせまる。この辺、ちょっと初心者向きすぎてやや歯ごたえがない(この部分が一番読みたかったのだ。本書は180pの小著だが、もうちょっと書き込んで250pくらいでも良かったのではないか)。 さて、かかる4大文明と長江文明の相違は、文明を担う当の人々の心性にも影響を及ぼしたと、著者は考える。今日の文明の行き詰まりは、4大文明的な「力と闘争」の文明の必然的な帰結であり、いま必要なのは長江文明的な「再生と循環」の思想を持つ「美と慈悲」の文明ではないかと著者は主張する。 言いたいことは判るが、そのような記述によって、本書はオピニオンメッセージ的な性格が強くなってしまい、しかしそれを支える環境考古学的な事実の確認がおろそかになっていて、いささかバランスの悪さを感じないわけにはいかない。 ●SFマガジン7月号(早川書房、2003) 特集《ぼくたちのリアル・フィクション》。リアル・フィクション、て何? 三村美衣「表現とリアリズムの変遷──ライトノベル25年史」 副題どおりライトノベル(ヤングアダルト小説)と呼ばれる作品群の始まりから現在までを簡潔に振り返ったもの。 嚆矢の二として挙げられているのは、やはり同年の新井素子のデビューである。新井の小説の特徴は、以下の3点。 論者はジュヴナイルとライトノベルの違いを、前者が大人が子供に向かって書いている小説であるのに対して、後者は同じ視線で書かれており読者はそこに敏感に反応した、とする。 また「SFの人たちはヤングアダルト小説を低く見ている」というYAサイドの見解に対しては、論者は「SFインサイダーたちが、ヤングアダルトを新しい小説形態、別のジャンルと見ることができず、ジュヴナイル同様にSF入門ツールと考え続けたのは(……)誤謬だった」とする。これに関しては異論がある。[註1] その後、80年代は夢枕獏、菊地秀行らが輩出し、ライトノベルは盛り上がっていくのだが、特筆すべきは笹本祐一の登場で、主人公がプロではなく、ただのマニアックな高校生で彼らのオタク的な知識が世界を救うところが新鮮だったとする。 このようにして論者によれば、 80年代は日本にTRGPが紹介され、国産本格TRGPも発売され始め、そのタイアップ的にゲーム小説が誕生し、盛行する。論者は、これらの作品がSFやファンタジーの直系ではなく、ゲームを経て受け継がれたもので、「そこには従来の小説がもつリアリズムとは別の文脈が加わっている」とする。この辺は大塚英司の説と大差ないのでとばす。 以上簡単に要約したが、最後に私が違和感を覚えたことを記す。
>日常的な会話と段差のない文体 そうすると、論者が言うところの「ストレス」は、ストレスでもなんでも無く、読むことの楽しみの大きな部分を占めるものではないのか。 もっとも論者自身本心から書かれているのではなさそうだ。それは次の一文から推測できる。 なんだ、判ってるんじゃないですか。 むしろこういった方がいいだろう。本来きわめて想像力を要求される主体的な行為である「読書」の、そのかなりの部分をヤングアダルト小説は(自発的に)取り払った(というか迎合した)。その結果、読者の読力の低下をきたし、本来それによって形成されるべき想像力(主体性)が発達しなかったと。 なんのことはない、出版社が率先して(読書という行為の肝であるところの)読者の想像力のレベル低下に協力していたのである。今日の出版界の惨状は自業自得というほかないのではないか。 ヤングアダルト小説に現れる(多元性に思いもよらない)世界の小ささや(他者との距離を測れない)未熟な感情の乱舞は、そういう読者への作り手の側の「懲りない」迎合ではないだろうか──そんなことを考えてしまう私は、「次世代フィクション」について来れない「前世代」の遺物なのだろうか。 鈴木謙介「物語なき時代に物語を紡ぐこと──バーチャルとフィクション」 本論は、三村の論を社会的な文脈において補足するものとなっている。 枚数の関係もあってか、論者の論はコンパクトに纏められ過ぎていて、逆に理解が難しい面があるのだが、この「虚構の時代」を私なりに類推するならば、1970年代以降、社会の多様化相対化に伴い、大きな共通の「理想」というものは存立し得なくなる。その結果、理想は社会的属性や信条によって分化、相対化してしまう。いわば無数の小さな物語が並立する状況といえよう。この時代は1995年のオウムの事件によって幕が引かれる。 では、1995年以降、我々はどのような社会に生きているのか。論者によれば、それは東浩紀の所謂「動物化の時代」であるとする。 かかる「物語の困難」に対抗するために、たとえば近年のハリウッド映画はCGを多用することで観客の感覚に直接働きかけるようになる。すなわち直接的な「感覚操作」に頼りはじめるのである。 感覚操作によって支えられた作品においては、観客は「物語の流れを読みとらなくてよい」。観客(読者)は、さながらジェットコースターに乗ったように、制作者の運転のまま、はい、ここで笑って下さい、というところで笑い、次ここで怖がって下さい、というところで怖がり、ここで泣いて下さい、というところで泣き、はい終着点に到着しました。お疲れさまでした、で、映画館を出るなり、本を閉じる、ということになる(ノンストップムービーとは、まさにこういった手法に依拠した作品のことだろう)。なぜ泣くのか、といった「悲しみの理由」やなぜ怖いのか、といった「恐怖の理由」は、考えるいとまもなく置いてけぼりにされてしまう。……(注1) 筒井康隆『小説のゆくえ』(中央公論新社、2003)を、パラパラと拾い読みしていたら、こんな文章があった。 挙げられた作品を未読なので断定することはしないが、鈴木のいう「体験操作」の手法というのは、つまるところ、これなのではなかろうか。もしそうであるのなら、「体験操作」の手法とは、小説のもっとも本来的な機能そのもののことのように思われる。それが証拠に、筒井はこうも述べている。 ──手法が古めかしい、とか、七〇年代の小説みたいだ、という否定的な意見もあった(この文章は三島由紀夫賞の選評である。大熊註)。(……)カフカに始まる徘徊もの彷徨ものの文学的伝統すべてが思い出され、まさにそこにこそ前記の「懐かしさ」を感じたのである。これを一概に古さと言うべきなのだろうか。(同、150p) これを、以下の鈴木の文章と比べていただきたい。 大塚英志の所論でも感じたことだが、この鈴木の「体験操作論」にせよ、著者は新しいことを言っているつもりが、実は旧来の読書人にはあたりまえの議論であったりするのは、案外論者の読書経験の浅さを反映しているのかも知れない。 ひきつづいて「次世代型フィクション(?)」4篇── 冲方丁「マルドゥック・スクランブル"104"」 平井和正っぽいアクション小説。そこそこ面白い。が、マンガの原作という感じ。ウルフガイ系のお話が好きな読者なら充分楽しめるだろう。ただ主人公の内部告発者の女性の、トラウマに支配される行為(思惟+行動)が、観念的でリアリティがないのがちょっといただけない。またボイルドとウフコックという「兵器」も、あまりに絵空事めいて現実感がない。もっともシリーズ作品ということで、設定に埋没してしまえばどうと言うことはなくなるだろうが。 元長柾木「デイドリーム、鳥のように」 これは問題作。SFジャパンの秋口ぎぐるもそうだったが、SF雑誌という発表場所をトリックの前提に使った極めて意図的、挑発的な作品といえる。挑発的とは、上記三村論文で引用したような、SF読者の抱くYA小説観への挑発ということである。 主人公の穴穂津里緒には特殊能力があり、それを買われてある機関の工作員をしている。今回のターゲットは啓市という高校生。里緒は啓市の恋愛感情に付け入って近づくのだが、この里緒、3年間恋人と同棲していたという経験があるにもかかわらず、啓市に対する態度が「異常に」ウブで、私は「だからYAはリアリティがないんだよ」とイライラしながらも、しかしYAの欠点を「十全に備えた」作品を読んでいることに故なき安心感、優越感を覚えつつ読み進めていたのである。啓市の好みに合わせて、それまでパンツルックしか穿いたことがなかった里緒は、啓市にプレゼントされたミニスカートを穿いてデートすることになる。そのときの里緒の羞恥心が、これも「異常に」強く、違和感を覚える。そして里緒の部屋で、遂に里緒は啓市に抱かれ、下半身に手が伸びて…… ここで(専らSFしか読んでいない純粋SFM)読者は、その驚天動地の叙述トリックに、思わず持っていた雑誌をバッタと落としてしまったのではないだろうか。わお!と叫んで部屋中を走り回ったのではないだろうか。そしてそのあとで、嫌悪感に雑誌ごとゴミ箱に棄てた読者もいたかも知れない。これが、SF読者に対する確信的な挑発でなくて何だろう! もちろん私も仰天し、小林泰三の「家に棲むもの」のときと同様、「仕掛け(細工)」を遡行的に確認していったのだったが……ミスディレクションに誘う記述が余りにもアンフェアで、残念ながら小林作品のように持ち上げることはできない。 吉川良太郎「ぼくが紳士と呼ばれるわけ」 本特集中、一等頭抜けた作品。高野史緒にケンカを売る(?)19世紀の今一つのフランスを舞台にしたスチームパンクならぬアルケミーパンク!(よく判りませんが)。文体がちゃんとあるし、描写も、読んでいて世界がありありと迫ってくる力を持っている。この世界を舞台にした長篇を構想中とのことで楽しみ。 長谷敏司「地には豊穣」 これは本特集中唯一の凡作。吉川良太郎のあとに読んだせいか、とりわけ文体の凡庸さに苛立つ。内容もYAらしく観念的で、筒井の所謂「自動性」に埋没したまま飛躍できていない。自然的態度に埋もれたまま感情を垂れ流しても、それは小説ではない。 ●草上仁 スターハンドラーシリーズ(3作全6巻)の最終巻。これはスゴい! 本書において、シリーズを貫通する全ての謎が明らかになる。驚愕の大傑作!! 観測しようとすると見えなくなってしまう謎の電波を捕まえようと宇宙空間に飛び出したスチャラカチーム。彼らを追ってこれまでに登場した全てのキャラクターたちが集まって来る。 ──量子論とミトコンドリアが出合うとき、真空の宇宙空間に、嵐のような雨が降る!! そう、宇宙空間に、実際に雨を降らせてしまうのだ。驚くまいことか。このアイデアだけでも大概ややこしいのに、さらに話をややこしくするのがキャラクターたちのてんでに勝手な行動である。 この野生の悍馬のように跳ね、走り出すストーリー相手に、さしもの作者も、今回は手綱さばきに苦労している気配。しかしそこは名手、この錯綜するストーリーを最終的に捌ききった果てにあらわれるのは、壮大な本格SFの極致なのであった。 このシリーズで、著者は何か「掴んだ」のではないだろうか? それはおそらく、このシリーズの特徴である、キャラクターが勝手に動くのを、あまり作者が規制せず、自由に振る舞わせるという、一種ルーズな小説づくりの手法に作者が完全に習熟したからではないだろうか。 たとえば、本人かと思えば実は替え玉であったとか、エアがなくなって死んだ筈の人物が死んでなかったりとか、連載の各回をの終わりに必ず次回への「引き」を無理矢理つくっては、次の回で何とか辻褄を合わせる、あのおなじみの〈大衆小説〉のおおらかさに非常に近しいものを感じるのだ。それが実に効果的に作用して、この巻ではとりわけ、一種〈分厚い〉物語性が生み出されている。 これまで草上仁といえば、版で押したように短篇の名手という冠詞が付いたものだ。私もそう思っていた。短篇とはいかに作者が作品をコントロールするかが問われる形式であろう。これまでの草上仁はかかるコントロールの名手であったわけだ(それがために一種「理に落ちる」味気なさも、著者の短篇のなかには、正直なところ、ないわけではなかったのだが)。 おそらく今後、著者は、物語性豊かな、いわばエンドレスな大長編小説の書き手に変身していくのではないだろうか。 余談だが、本書はキャラクター小説である。そして同時に本格SFなのである。 ●小川一水 核融合や宇宙発電などの未来エネルギーまでのつなぎとして、21世紀のエネルギー問題を解決する切り札と目される「燃える氷」メタン・ハイドレート(MH)──民間会社に所属する俊機とこなみは、このMHを探すために作られた二人乗り中深海長距離試錐艇デビルソードの乗務員であり、恋人同士でもある。 その彼らに、大型沈没船の調査が命じられる。沈船には破壊孔が開いていた。しかもそのささくれだった裂孔縁は、内側に向かって曲がっており、それは巨大で堅い物体がぶつかって開いたものであることを示していた。 襟裳岬沖で巨大生物調査に従事していたデビルソードは、巨大生物と自衛隊の<衝突>に巻き込まれ、コントロールを失ったまま、8000メートルの日本海溝に沈む。やがて海溝底に到達した二人は、そこに月光下の雪面のように青くかがやく、見渡す限りの無数の列柱を見出す。それは巨大生物とシーリボンの生まれし場所だった…… 海洋UMA小説である。もちろんハードSF。巨大生物とシーリボンの正体が、「科学的想像力」を限界まで駆使して明らかにされるとともに、その結果、この地球は2万メートル級の海溝を持っていなければならないことが論理的に導出されてしまうのだ! 一方、ソノラマ文庫から出たこの長篇SFは、表紙絵がマンガ風であることからも明らかなように、ヤングアダルト小説(キャラクター小説)でもあるわけである。何度も言うが、SFであることとキャラクター小説であることは全く矛盾しない。切り口の異なる分類概念同士だからである。 たしかにキャラクター小説らしく、民間会社で、しかも男性が圧倒的に多い職場でチームを組む二人が、会社公認の(一応理由があるとはいえ)恋人同士であるという、まさに非現実的な設定を、本書は持っており、主人公のひとりであるこなみは、いかにもマンガの登場人物のような、旧来の小説読みには一種耐えがたい非現実的な行動をとって私のような読者を萎えさせるのであるが、だからキャラクター小説は駄目なんだ、と私はいいたいのではない。むしろキャラクター小説として、この小説は中途半端なのだ。 たとえば、上述の「スターハンドラー」、この作品には<生身の人間>は、たったひとりとして登場しない。全員どこか過剰なキャラクターばかり。その呆れるばかりの徹底ゆえに、この作品は、私のような者でも楽しめたような気がする。キャラクター小説だから面白くない、と決めつけているわけではないのである。 そう言う意味で、本書はキャラクター小説として「不徹底」な印象を禁じ得なかった。実写部分の素晴らしい(ハードSF的)リアリティが、アニメ部分と馴染まなかった。アニメ的設定が、むしろ不要ではなかったかと思わないではいられないのである。 ここからは想像(妄想)である──本来、初稿は旧来の、キャラクターに偏しないハードSFとして完成していたのではないだろうか。だがそれでは、ライトノベルの編集者は不満だった。「先生、もっとキャラを立てて下さいよ」 いや妄想が過ぎましたか。ともあれ、20代の若きハードSFの担い手の登場に拍手を送りたい。 ●眉村卓 ──森田泰治は70前後、10年前に妻と死別してから独り暮らしの引退生活者。新聞の死亡欄に五十嵐研介の名前を見出す。もう40年以上行き来の絶えてしまっていた五十嵐は、昔の「仲間」だった。その名前が、昔の記憶を引きずり出す……。 腕におぼえのある森田や五十嵐ら道場仲間が練習からの帰途、神社の裏手で襲われていた男女を助ける。すると不思議な老人があらわれ、かれらにマントとマスクを手渡す。それは正義の使者が着けるもので、正義を信じている限り、マントを着けると空を飛べ、飛んでいる姿は人間には見えないという。 それ以来、テレパシーで呼び出しがあると、彼らはマントとマスクを着け、空に飛び出す。すると自然に強盗などの現場に着き、やっつけるのだ。そういう出動が何回に及んだろう。次第に森田は疑問に感じるようになる。これが正義だろうか。もっと社会の構造や人間の在り方にかかわることをすべきではないのか。これでは命令者にとって都合のいい、ただの手先ではないのか? そう言う疑問にとらえられた彼は、ある日、自室の6階の窓から飛び出すことができず、階段を駆け下り地面から飛ぼうとするのだったが…… 死亡記事の五十嵐は、森田が飛べなくなってからも、出動し、戦っていたのだろうか? うーん、いいですねえ。まさにこれぞ文学の味わいというものではないだろうか。何度も味読したい短篇小説である。(なお本篇は、「眉村卓応援サイト とべ、クマゴロー!」にて近日ネット公開予定) |
●掲載 2003年8月6日、8月9日(6月)