ヘテロ読誌 |
大熊宏俊
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2003年 ●下半期
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7月 ●小原秀雄/羽仁進 東浩紀の所謂<動物化>を、動物学の視点から基礎づける内容ではないかな、という見当のもとに読み始めたのだが、もとよりそのような目的で書かれたものではなく、結局のところ一種の管理社会論であった。とはいえ、上のような観点から読んで決して読めないものではない。 著者によれば、<家畜化>とは、任意の野生動物に対して、その自然な性質のうちから人間にとって好ましい性質を選択的に強化していく(逆に好ましくない性質を退化させる)「人為淘汰」である。 かかる<家畜化>にともなって、いくつかの興味深い特徴が発現することが明らかになっている。例えばそれは、家畜化されたウマの前髪が野生種よりも伸び、たてがみも長くなるといった部分長毛化(それと裏腹な部分脱毛化)であったり、イヌの場合のように品種の増加であったり、繁殖期の制限がなくなったりする、というものである。 これらの特徴は、実のところどれを取り上げても、ヒトに認められるものなのだそうだ。一例をあげれば、(野生種である)類人猿では繁殖期以外は雌の胸は膨らまないのに、人間の女性ではいつも胸が膨らんでいること……。 このように、人間には<家畜化>の特徴が明らかにそなわっており、そして<家畜化>しているのは、他ならぬ当の人間であるわけだから、いわば人間は「自己を家畜化している」といえるのである。 ただし、この見解には反対意見がある。それは、一般に<家畜化>は脳の低質化、縮退傾向を示すものであるのに対して、人類では逆に脳が大容量化している点を根拠としている。 これに対して著者は、<家畜化>が、上述のように「人為淘汰」であるからには、人間は、ある意味<大脳化>を選択したのだとみなしうると述べる。或いは<自己家畜化>が開始された(社会的システムが整ってきた)3万年前からは、それまで拡大してきた大脳化が止まっていることに着目し、<自己家畜化>の開始にともなって<大脳化>を促進する要因が消えたとも考えられると示唆する。 かかる<自己家畜化>は、人類の<社会化>と連動しているというか、同じ現象の表裏であるといえるわけだが、著者は、産業革命以後、この傾向は急速化し、現在にいたって(とりわけ先進国においては)それは<自己ペット化>という、<自己家畜化>が含意する「管理・保護と人工化」のより進行した一種末期的な状況を呈しているとする。 すなわち、「もの」の質・量的発達→大量生産大量消費が極限に達した日本のような先進国の社会では、ひとつひとつ脈絡のない「もの」が、子供に対して大量多量に影響を及ぼしており、その結果、一貫した考えが育たず、歴史的発想(因果的把握)と無縁になりがちになっているのではないか、と著者たちは考える。 以上、かいつまんで(強引に)要約したのであるが、そうであるとすれば、先月取り上げた「SFM7月号」で鈴木謙介が、1995年(オウム)以降「自然と調和し、与えられるものをそのまま受け入れて満足する」<動物化の時代>が始まったという、当の<動物化>とは、<野生動物化>という意味に捉えるわけにはいかない。すなわち<動物化>とは、<自己家畜化>の行き着く先、最終段階ともいうべき<自己ペット化>と同義であるといえるように思われる。 東も鈴木も、かかる動物化(ペット化)を鋭く察知しているのはさすがあるが、なぜ動物化するに至ったか、というその因果関係(メカニズム)は説明されていない。本書はその辺の空白を埋めるものとして読めるものである。 そういう意味で、近来の小説の<キャラクター小説化>は、あるいは人間の自己家畜化(管理社会化)の末期的事態である<自己ペット化>の文学的反映なのかも知れない。 ●平谷美樹 驚くべきリーダビリティの高さ、巻を措くあたわずとはまさにこのことだろうか。1100枚の大作を、途中滑らず走らず、かといって滞りもさせず、きっちり描ききっていて(それは前作『ノルンの永い夢』でも感心したことである)読者を逸らせることがない。その(東北人らしいというべきか)ねばり強い筆力は大したもの。 ことに特筆すべきは描写の確実さである。実に<映像的>なのだ。あたかも映画のシーンを見ているように、各場面がくっきりと「見えて」くる。作者は美術の先生とのことだが、なるほどさもありなん。読者に絵を見せる技倆は、「現役」のSF作家のなかでもひときわ抜きん出たものがあるように思う。 さて、本書は「スラン」以来のSFの定番中の定番、<迫害される超能力者>テーマである。 《余談──これは嵐山薫さんもおっしゃっていたと記憶するのだが、ミステリ系の作家が描く<超能力者>ものには、<迫害されるマイノリティ>という観念が希薄で、ある種<横丁の超能力者>(つまり近所に超能力者が住んでいてその行使する超能力をだれも不思議とも脅威とも思わず雑居している)とでもいうべきスタンスのものが多いようだ。それはそれで、変化球としては面白いといえるのだけれども、純SF読者としては、折角の<装置>を十全に使いこなしてないというもどかしさを覚えないではいられない。その点、本書はまさに「直球一直線」(SFMの風野春樹さんの評)の(70年代)SFらしい超能力者ものである。》 作品構成的には、筒井康隆の「俗物図鑑」と同一構造である。前半、それぞれ得意技(?)を持った各超能力者(「俗物図鑑」では各評論家)が集まって来る。後半、彼らが籠もった「約束の地」(「俗物図鑑」では梁山泊ビル)が官憲によって包囲攻撃される。超能力者は、むしろ忍法帖の忍者のイメージか。あるいはサイボーグ009の世界かも。 SFMで風野春樹さんが「70年代日本SFの再来を思わせる力作」と手放しで褒めておられる。まさにそのとおりで、半村良と平井和正の良質なところだけを混ぜ合わせたような面白小説である。 たしかに本書は「あまりにも面白すぎて、逆にSFらしさが損なわれた」面がなきにしもあらずかも知れない。ただしこれはあくまで純SF読者限定の感覚である。 けれども、少なくとも本書に関してはそれはまったく的をはずした読み方というべきだろう。この小説は、もはやSFという枠に収まりきらないのだ。また収める必要もない。むしろSFという枠に押し込んでしまってはいけない、そのような類の小説なのではないだろうか。それほど「大きい」物語なのだともいえよう。 さはさりながら──この<物語>は、とはいえ実はそのような「面白小説」にとどまるものではないのかも知れない。私にはそう思われてならないのだ。何となれば、本書の(一応の)結末から勘案するに、今後書かれるであろう続編は、小説の必然に導かれるならば、純然たるSFとなるほかないからである。結末の行く末を素直に望見すれば、私にはそうとしか思えないのだ。いやこれは楽しみである。続編を刮目して待ちたい。 ●山形浩生 ウィリアム・バロウズの初見は、メリルの『年間傑作選7』だった(「おぼえていないときもある」)。よくわからないながらもふしぎな雰囲気が気に入って、サンリオ文庫から出たとき、早速手をのばしたのだったが、こりゃかなわん、と早々に撤退した。 造語やフレーズや場面に認められる雰囲気はすごくよいのだけれど、なにせ因果的な「流れ」がないので(それもそのはず、本書によれば、積極的に破壊しようとしていたのだから)感情移入の余地を見出せず、通読することができなかった。 本書は、「難解なバロウズ」に関する本ではあるが、だからといってバロウズの小説のように、難解なわけではない。むしろ研究書としては実に平易で、しかもきちんと書かれている。労作である。 私もこれを機に、バロウズ再挑戦してみようかな、という気持ちになってきた(大丈夫か?)。一応『裸のランチ』と『ソフトマシーン』を持っているはずだが、それよりもカットアップの比率が減って後ろ向きになったという短篇集『おぼえていないときもある』や『ワイルドボーイズ』あたりが私向きのような気がする。探してみよう。 ●ウィリアム・S・バロウズ この本、102pしかない。しかもそのうち半分が解説なのだ。実質50pに足りない本文も1p=35字×14行なので異様に薄い。そのなかにごく短い話が7篇収録されている。アッという間に読み終わった。 正直なところ「小説」としてはもの足りない。 たとえば冒頭の「感謝祭 一九八六年十一月二十八日」という作品は、小説というよりも詩。それも聴衆に向かって訴えるような形式で、私は最初期の岡林信康のフォークソングを思い出した(たとえば「くそくらえ節」)。活字化すると非常に浅薄なのだが、現場の聴衆にはワーッと受けたのではないだろうか。 感謝を捧げよう。/ クー・クラックス・クラインに。/ 黒んぼ殺しの、誇り高き保安官に。/ 教会通いのご立派な女どもに。 「証券取引所、襲撃」ではワスプが嘲笑される。聴衆はバロウズによって朗読されるワスプの戯画化された姿にどっと笑ったのだろう。 「ジョー・ザ・デッドのかわりに話そう」は、「典型的な社会病質者」「生まれついての与太者」であるFU(FUCK UP)が殺人事件を起こし、かれの精神科医(上のカッコ内の規定はこの医者の言葉)が、やってきた当のFUを拳銃で撃ち殺す。 「悪臭を放つ街路の果て」は、これはバロウズらしいSF(?)。レジーの体からムカデと植物の合の子のようなものが繁殖する。何とか助けようとするが卵や幼虫を吐き出し始めるに及び、医師たちは救出をあきらめ灯油で焼き払う。医師たちはレジーが実験室での実験中に何かが起こったのだと考え、実験室を破壊するために出発する。「実験室がどこにあるか知っているのか?」「もちろんだ。行くべきところはわきまえている」夜明けとともに出発する。行き先は「ドンづまりの街路の果て」── 「堕天使(オチコボレ)」。これが一番「小説」らしい。老家主の部屋に、娘を慰みものにされたインディアンが押し入ろうとする。家主は警察に連絡し、押し破って入ってきたインディアンの足を狙ってぶっぱなす。ちょうどそこへ警官が駆けつけ、拳銃を構えた家主を犯人と早とちりして撃ち殺す。失態に気が付いた警官はインディアンを射殺し、インディアンが老家主を殺したように細工する。しかしそんな細工はすぐにばれ、警察署長の知るところとなる。所長は警官に名誉挽回のチャンスを与える。それは署長をいらつかせるコラムニストやリベラル派を片っ端から抹殺すること。 「影の書」。バロウズの分身めいたリー・アイスは癌で余命一、二か月と医師に言われる。痛み止めの(モルヒネかヘロインの)処方箋を書いてもらうリーに、モルヒネを打ち始めたきっかけの事件の記憶がよみがえる。……(この話は朗読のあと、客席がしんと静まり返った?) 「最後の場所」は、映画かドラマのシーンのような話。イシュメイル以下四人は隠れ家が見つかったような気がして脱出する。途中、地元の人間を捕まえ、FBIのふりをしてメキシコへの抜け道を聞き出す。しかしそれはバレバレだった。教えられた抜け道で、かれらは警官の待ち伏せに合う。銃撃戦。イシュメイルはうとうとしていた。撃ち合いの夢を見た。ここはメキシコ。メキシコシティで、初めてマリファナを吸った。少年がしゃれこうべをしゃぶっている。なぜいけない? それを覚えたのは感化院でだ。バニラのにおいがする。感化院ではよく飲んだ。少年と二人で花火をみつめる。2つのねずみ花火がそれぞれ逆方向に回転。その間にできた暗黒の空間が次第に広がり全世界を覆い尽くす。イシュメイルは担架の上で息絶える。…… ●眉村卓 かつては町といえども至るところに原っぱがあり、子供たちの遊び場となっていた。そこでは必ず年長のリーダーがいて、年少者にいろいろな遊びを伝授したり、威張っているんだけど、なかなか面倒見がよかったりして、子供たちは知らず知らず「社会」を触知したものだ。 けれども、いつしか町から原っぱが消え、そういうちびっ子ギャング集団も消滅してしまった。 そして、そんな風にしてできた原っぱに、どこからともなく現れ、近所の子供たちのリーダーになる小学5、6年生の子供がいるのだ。名前をテツオという。そういう原っぱに必ず現れ、低学年の子供たちを引き連れ、タケトンボを教えたりして遊び、また何かと元気づけてくれたりする少年、テツオ。 高校2年生になった「ぼく」は、学力コンクールでよその高校に赴いたとき、その近くの空き地で遊び回っている子供たちの中に、テツオを見つける。テツオは10年前と全く変わらず小学5、6年生の姿なのだった。…… ──現代社会の「遠野物語」というべき逸品。 ●高野史緒 設定を同じくする、一種のシェアワールドものの一環として書かれた作品。レストラン<ジル・ド・レ>の、海に向かって開けるバルコニーの向こうに見える、海と流星の描写が素晴しく美しい。まるでヴァーミリオンサンズのよう。 たとえ設定はオリジナルではなくても、その描写自体は、まさに作者のイマジネーションであり力量だ。全部合わせてもわずかに十数行の描写なのだが、この小説の「世界」をくっきりと読者の「脳内スクリーン」に刻み込む力に満ちている。 小説の構成は、一種の叙述トリックである。「例えば、この……」で鮮やかに切り替わっているのだが、初読では気づかず、最後のどんでん返しにまんまとはまった。 検証のための二読目で、その鮮やかな手口に感心させられたのだが、かかる構成の妙と軌を一にして、ラストでは主調音であった叙情的な装いがはらりとほどけ、乾いた、黒いといってもよい笑いが姿を現す、その転換も鮮やか。 典雅と下世話を入れ子にするこの傾向は『アイオーン』あたりからではないかと思うが、本篇ではそれがしっくりと融合して、自在感を増したように思う。著者の進境著しいエポックメイキングな作品といえる。 ●関裕二 「そうとしか考えられない」というフレーズが出たら警戒しなければならないことは知っていたけれども、「抹殺」というフレーズも、トンデモかどうかの有力な判定の手がかりになることを勉強することができた。 ●関裕二 前書に比べれば、ずいぶん面白く読めた。とはいえ、「抹殺」は249p中に16回出現した(わざわざ数えた)。 |
●井上荒野 1992年5月30日に癌でなくなった作家、井上光晴の、娘による回想記。 凸面の向こう側に住んでいた娘にとって、見えている父作家のイメージは、私の見る凸面の裏側、すなわち凹面なのだ。 井上光晴という作家は、私にとっては、日本のバラードに比すべき作家であり、ある種絶対的な小説家なのだが、最高傑作「妊婦たちの明日」の作品舞台となった崎戸廃坑島を、井上の死後、著者荒野と著者の母(井上光晴の妻)が訪れるシーンから始まる本書は、しかし私にとって神の如き作家も、やはり人間だったことを知らせてくれた。それがどうした、といえばどうもしないし、だからといって、作品の価値がいささかも減じるものでもないのだけれども。 ●キャロル・エムシュウィラー 120枚ほどの中篇だが一気に読んでしまった。でも急ぎすぎたのか、残った謎がいくつか…… この惑星は地球(の未来)のようだ。セイウチとかマナティーとかアザラシなど、地球の海棲動物が存在している世界である。 「まだ、ザットワンが来る前、わたしたちはマナティーをいじめなかった」とは、どういう意味か? こうしてみると、森の文明と海の文明を措定し、その対比を目論んでいる(現実の文明:理想の文明、男性原理:女性原理)という大枠は間違いないと思うのだが、、、うーむ。 などと考えあぐねていたら、らっぱ亭さんから情報をいただいた。 「私も未読のためアクア説の詳細はよく理解できていないのですが、人類はかつて半水中生活をおくっていたとすると、浮力による二足歩行の促進、体毛が薄いこと、皮下脂肪の発達などが合理的に説明がつくというあたり、本作に通じるものがあると思います。とすれば、現生する人類、すなわち彼女の子孫に対して、原母たるゾウが語りかけている話とも考えられ、地球の過去の物語なのかもしれませんね」とらっぱ亭さん。 なるほど、地球の過去の物語ですか。 「ビーナスの目覚め」を読むにあたって、あらかじめこの2つの文章には、目を通しておくべきだろう。そうでなければ、私のような一般の読者は半分も理解できないどころか、半可通に解釈してとんでもない誤読をしてしまうに違いない。毛がないことに何度も言及する理由や、ザットワンが涙を流さないという記述の謎も、氷解した。あらためて、らっぱ亭さんに感謝いたします。 結局、本篇はモーガン説にインスパイアされたエムシュが、人類のミッシングリンクの時代をモーガン説に沿って幻視したもので、ザットワンの地球漂着によって進化が動き出し、人類が再び陸上に戻っていくきっかけとなった場面を描いたものであることになるだろう。 エムシュの考えでは、ザットワンが来なかったら人類は海に留まったままだった。ザットワンは火をもたらし、道具を工夫する(彫刻する)という行動形式をもたらし、それによって人類は今日の(物質)文明に向かって進化を開始するわけだ。 こうやってすこしずつ判ってくると、なおさら本篇の壮大さが明らかになってくる。これは大きな物語です! まさにSFの真骨頂ではないでしょうか。傑作! とはいえ、別にエムシュが要求する前提知識がなくても十分に楽しめるものになっていることは間違いない。しかしそれでは「ビーナスの目覚め」は単なるファンタジーでしかないことになるわけで、著者の意図としては不本意であるとはいえるだろう。そういう意味でもSFMは、翻訳するかぎりは以上のような前提を、少なくとも特集解説に於いて注意を促してほしかったものだと思う。ていうか絶対必要でしょう。モーガンの邦訳もあるわけだし。 ●W・S・バロウズ ・薄暗い場末の星が吹き散らされて横切る輝く虚空、猛血者微笑(246p) 小説というより散文詩ととらえたほうがいいのではないか。延々とうねうねと続く文法を無視したカットアップ(活字を切り抜いて貼り付ける一種のコラージュ)された文章のなかに、上のようなキラリと光る新傾向俳句のような語句がときどき現れる。 カットアップではないふつうの文章も使われているのだがそれは平凡、たとえ読みにくくとも(意味が分からずとも)、カットアップの部分のほうが「立って」いて面白い。読み慣れてくると得も言われぬ不思議な魅力がある。(初出は1971) ●田中啓文 読み始めてすぐに、これは「宇宙の孤児」だな、とあたりをつけたのだったが、そんなべたべたでことたれりとする著者のはずがなく、2転3転のラスト堪能した。「もはや駄洒落の余地もない」(帯の惹句)なんて、嘘ばっかり。駄洒落やん(^^;ゝ 岡本俊弥さんのレビューによれば、本書は「都市と星」+ブラウンのショ−トショートとのこと。「都市と星」は全然気が付かなかった。一方、ブラウンのショートショートはすぐに判った。「報復宇宙船隊」でしょう。しかし「宇宙の孤児」も絶対に作者は意識していると思う。 さて、嵐山薫さんが本書を(主人公の)「ブルーが苦悩し、成長する」ビルドゥングスロマンとおっしゃっている(ここ)が、私は、ブルーはいわゆる成長物語の主人公ではないように思う。そうではなく単なるチェスの駒(それも捨て駒)だったのではないだろうか? 私は最初から、ブルー(の行為)に全く共感を抱けず、違和感を感じ続けていたのだが、最後に捨て駒である事実が明らかになって、やっぱりな、と非常に納得したのである。 いかにも田中啓文らしい意地悪な、もといソフィスティケートされた、突き放したようなブルーの描写にニヤリとさせられたのだが、ともあれ最後までブルーは、苦悩はしても喉元過ぎればすぐ忘れるし、成長していないのは間違いない。作者の愛のない筆致それ自体が、そのことを証明しているのではないだろうか。 ●石原藤夫 「ブラックホール惑星」、「ホワイトホール惑星」、「情報惑星」の3編が収録されている。これらは長篇「タイムマシン惑星」の前日譚にあたるお話で、当然というか「タイムマシン惑星」と作風が非常によく似ており、期待通り、同じように楽しめた。 とにかく面白い。とはいっても各作品、傑作とか力作という言葉からはほど遠いのもたしか。 この海野調だが、初期の「ハイウエイ惑星」などの作風(も軽妙は軽妙なんだけれども)とはかなり変化している(ただし「情報惑星」は初期の作風)。 私は、著者の短篇はHSFSの3冊しか読んでおらず、つまり最初期しか知らなかったので、これらシリーズ後期の作風の変化がとりわけ印象ぶかく、一体どの時点で作風が変化したのか、という点に興味がひかれてならない。というわけで、<惑星シリーズ>をしばらく追っかけたいと考えています。 |
●浅暮三文 意識を失っていた聖地エルサレム旧市街(正確には、旧市街を乗せている土地)が、死に瀕したベツレヘム(の土地)の呼びかけに突如目覚め、その背に一匹の犬を乗せて、母なる水を求め土の死屍累々たるネゲブ砂漠を南下、アカバ湾へと至るまでを描いたとんでもないファンタジー。 アイデアは、とんでもなく素晴らしいのだが、書き方がいかにも拙い。 ドタバタの部分にとっては、エルサレムが意識をもち思考する擬似人格的な描写は、実は不要なのである。 たぶんハチャハチャの部分だけで短篇にすれば、切れ味のよい傑作になったように思われる。ドタバタの部分だけで仕上げれば、つまりエルサレムがなぜ移動しはじめたのかを説明せずに(小説内)事実のみを外在的に描き、エルサレムによる独白をやめれば、これまた不条理小説としてすっきりまとまったのではないかと思う。 しかしながら、かかる著者による二つの意図は合体できないものなのだろうか? 私はそんなことはないように思う。 本篇はおそらく300枚足らずの中篇小説であるが、あと100枚は書き込む必要があった。そうすれば知の部分がうまく情の部分に糖衣されて絶妙のバランスを保ったファンタジーの佳作になり得たのではないだろうか。やや拙速に書いてしまったように感じられたのだった。残念。 ●ひかわ玲子 これはとても良いファンタジー論である。私説と銘打たれていることからも判るように、著者の体験に即して論が立てられているのだ。すなわち「私は何十年もファンタジーを読み、書いてきた。したがって私は意識すると無意識とに関わらずファンタジーを根源的に了解している。私の中にファンタジーの本質は既に在るのだから、ファンタジーとは何かを知りたければ、私の中を捜せばよい」という認識が含意された、いわば現象学的体験構造分析という方法論によって記述されているわけなのだ。 たとえば、私が以前からことあるごとに言っている「日本人作家のファンタジーなのになぜ金髪碧眼?」という問題に対して、著者は、デジャー・ソリスが黒髪であることを引き合いに出しつつ、 「金髪の髪をしていようと、緑色の瞳をしていようと、とても日本的な考え方をしていると思います。おそらく、わたし自身の、ひとつの想像力の限界として」(111p) と、かかる現状を(よかれ悪しかれ)認めてしまうのだ。 一方SFはそうではない。我々の裡に透明なものとして無意識化されているかかる<認識の慣性>を白日の下に晒す方向に働くのが、実にSFのメカニズムであるわけだ。 本書収録の豊田有恒との対談で、上に挙げたような「限界」を差して、 ひかわ 「自分で書いていても笑っちゃうんですが、最終的にこういう結論に達してしまうファンタジーというのが日本には山のように存在しているんです。この呪縛からは、だれも逃げることができないって感じで……」 これに対して、SF作家の豊田は、 豊田 「それは、無意識のうちにそうなっているんだね。私の場合も意識しないで物語を書いているとだいたいそんな結末になってしまう」 と答えている。これを深読みするなら、もっと意識して書かなきゃ駄目じゃない、と言っているように、私には思えてならないのである。けだしSFとファンタジーの基本的立ち位置の違いがよく現れているなあと思ったことだった。 ところで著者は、ムアコックのファンタジーが非・欧米的である点を評価しているのだけれど、これは 「『指輪物語』はとてもイギリス的で、『ドラゴンランス戦記』はアメリカ的です。/そういう意味で、無国籍な世界は,どうやっても、作者の心の背景にある文化・風俗・社会からまぬがれないように感じます」(118−119p) という著者のファンタジー論(自国文化に従属的)からは導出できないものではないのだろうか。これはとりもなおさず、ムアコックのファンタジーが、SF作家の書いたファンタジーであることに起因するものであるというほかないように思われるのだ。 結局、ファンタジーはおおむね現状肯定的で、現状否定的なSFとははっきり一線を画すジャンルであることが、本書を読むことで明確に認識できたように思う。 ●紺野あきちか これは不条理小説である。 そういう意味で本書は、カフカの「城」やディッシュの「プリズナー」と同様の、不条理小説として読むべきだと私は思った。 本書にも同じことがいえると思う。同じJコレクションの一冊だからといって、最終的に謎は一切残らない小林泰三作品を読むのと同じ読み方をしても、つまりSFとして読もうとしても、それは詮無いことのように思われるのだ。 「城」が<城>にどうしてもたどり着けない話であり、「プリズナー」が<村>から脱出しようとして果たせない話であるように、本書は<フィニイ128>とは何なのかを尋ねていくうちに、どんどん目的が変貌していき、結局<フィニイ128>を求める当初の目的はいつの間にか脇にどけられてしまう(集中の断章にフィニイ128を入手する話が挿入されているが、本篇を読む限りでは繋がりのないエピソードでしかない)。だからといって本篇の面白さがいささかも減じないのは「城」の場合と同様。 本書は新人とは思えない手練れを示す軽妙洒脱なプロットを、そしてプロットとプロットのふしぎな連鎖の効果を楽しめばいいのだと思う。 ●石原藤夫 長中篇の表題作と「海神惑星」、「ホイール惑星」を収録。 ●石原藤夫 ハヤカワ文庫版<惑星シリーズ>も、あとは『ハイウェイ惑星』を残すのみとなった。 本書あたりでは、初期の作風がまだそのまま引き続いており、結局「タイムマシン惑星」に顕著な、あたかも講談を彷彿とさせる八方破れのルーズな作りになったのは、どうやら「ブラックホール惑星」からのようで、それはちょうどロボットのアールが仲間に加わったことによる変化であるといえるように思われる。 アールというキャラクターが導入されたことで(それ以前にマツリカとスーザンという女性キャラを導入しているのだけれど、これはうまく機能しなかったようだ)、ギャグのやりとりが格段に自由闊達になり、それにともなって作品構造もルーズなものに変わっていったように思われる。 本書には「システム化惑星」、「コンピュータ惑星」、「エラスティック惑星」、表題作、「パラサイト惑星」、「愛情惑星」の6編が収録されており、とりわけ「エラスティック惑星」と表題作は、初期作風の到達点というべき、ラストの壮大なイメージにおいて、まさに本格SFの香りを感じさせてくれる秀作である。 この惑星シリーズ、すでに20年以上新作が出ていないはずで、まったく惜しい話だ。ぜひ続編を書いていただきたいものである。 ●井辻朱美 13篇収録の短篇集だが、表題作が6話と間奏曲、終曲で構成されているので、結局ほとんどが20枚以内の掌篇といえる。掌篇というより、いっそショートショートというべきかも知れない。掌篇というコトバのニュアンスには近代小説的要素が色濃いようなイメージがあるので。 本書がいわゆる安直なファンタジーと一線を画すところは、作中人物が「現代日本人(の若者)」とはきっぱりと違うところである。あとがきで著者は、 「わたしのほんとうにひかれるのは、もとの(アーサー王やローランの歌のような)叙事詩や伝説に漂う古い時代の匂い、香り、響きといったようなものかも知れません。そしてそういう物語は、とほうもなく非合理で、小説のようなちゃんとした結構をもっていなくて、断片的(……)」 と述べているのだが、本書の作中人物たちは、まさにそのような(「今」「此処」の我々の行動原理とは全く別個の)、いわば神話的・元型的な思惟と行動に象られている。 もっとも、異世界ファンタジーという小説世界に生きる作中人物たちの行為が、このような神話性を帯びるのは、しかしある意味当然のことなのであって、そのような小説世界に現代日本人(の若者)しかいない通俗ファンタジーのほうが、きわめて奇形的であるわけなのだが。 かかる神話性を獲得し得た理由として、本書が掌篇小説集であることも大きく与っているように思われる。すなわちファンタジーといえども長い物語になればなるほど、登場人物が近代人的思惟に傾いていきがちだからで、長くなればなるほど、作者はその傾向を御しがたくなると想像されるからです。そういう意味で著者の長い物語を読んでみたい気がする。 ともあれ本書は金髪碧眼の描かれたファンタジーであるが、「日本人なのに何故に金髪碧眼?」という不満を全く感じないで読了することができた。とりわけ表題作の第4話「イニスフレイ姫」は、「小説」としてもよく出来た小品でたのしめた。 ●兵藤裕己 日本が近代国家としてスタートするにあたり、天皇を親とする<日本人>の民族意識を形作ったのは、近代的な法制度や統治機構などではなく、浪花節芸人の発する<声>だった。とするユニークな視点が面白い。隣接領域としての講談についてもくわしく述べられていて勉強になった。 明治10年代、日本の急速な資本主義化と軌を一にして膨張する芝新網町など東京の貧民窟に、チョボクレやカッポレを母胎に大道芸として発生した浪花節は、明治20年代半ばに寄席への進出を果たすや、またたくまに講談・落語を凌駕し、明治30年以降は「一人勝ち」の様相さえ呈するに至る。 浪花節が調子のよい節にのせて語るのは、任侠、義侠のモラルと法制度とのあつれきである(赤穂義士伝)。そのようなアウトローの物語が、体制内の日常を生きる庶民大衆にカタルシスを与えたわけだが、とはいえそれは、いわば制度外のファミリーの物語なのであった。すなわち忠孝一体のモラルが、社会の良俗から逸脱した部分において典型的に担われるという、体制側からすれば逆説的なものを含んでいた。 かかる法制度の枠組みを相対化する擬似的ファミリーのモラルは、モラルの向かうべき対象として、日本という普遍的レベルの(地域や階層を超えた)親方を見出す。 国家とは法制度のロジックで構成される世界であり、たとえ君民一体の家族主義を国是としていようと、家共同体の拡大・延長線上に存在する国家などあり得ない。近代国家とは、いわば「超個人的」な装置といえる。 ところが、かかる天皇を親としていただく国民国家は、国民的統合の代償として、みずからの内部に(制外的な)テロルを許容する論理を抱え込まざるを得ない。 こうして2.26事件は、赤穂義士伝のように「浪花節」的に国民に包摂され、日本は易々と国家社会主義ファシズムの道へと走り始める。…… 「君側の奸」を暴力的に排除したさきに「国民大衆を大御宝又は赤子」(井上日召)と慈しむ天皇のもとでの絶対平等の楽土が実現されるのだという、均質で親和的な「日本」が幻想されるのだが、このような幻想を容易に共有してしまう国民のメンタリティは、浪花節と不可分に、むしろ浪花節による一種の「布教」の結果、形成されたのだとする。 日本という国が、いとも易々と官民一丸となって戦争へ突っ走っていった理由の一端に浪花節があったとする考察はユニークで、ある意味納得もできる。面白かった。 ●原田実 吉野ヶ里遺跡見学のガイドブック的な本の体裁ではあるが、内容は堂々たる吉野ヶ里概論となっている。 わたし的には魏志倭人伝が逆照射されて、読んでも目が上滑りしていた記述、例えば青玉とか、絳青[糸兼](こうせいけん)であるとか絳地交竜錦であるとかの絹製品が、具体的なものとして感じ取れるようになったように思う。 つづいて吉野ヶ里=邪馬台国説や吉野ヶ里=旁国説が整理されるわけだが、特筆すべきは、今年5月19日に発表された弥生時代の開始が通説の紀元前5世紀より一挙に500年遡る(詳しくは弥生後期の開始は通説通り動かず弥生前期・早期が大幅に引き延ばされる)新説が早くも取り入れられ消化されていることだ。 この結果、弥生中期に栄え、その後衰退していく吉野ヶ里は、邪馬台国の時代より一時代前のクニであることが導出されてしまった。さらに邪馬台国畿内説に追い風となる発表だったわけであるが、しかしながらこれによって弥生時代の開始のきっかけとなった(かもしれない)のは、呉越の滅亡ではなく、周初以来の(召公に代表される)淮河下流の淮夷・徐夷の征伐に関係があるのではないかと示唆される。 かくのごとく本書はしっかりと考古学的事実に根ざした軽やかな想像力が、読者の古代史心をビンビン刺激しまくる快著である。 ●井上史雄 うーん、、、面白いといやあ面白いんだけどね。 |
●川田武 元版は1978年の発行。 やがて、藤堂が藤原鎌足の直系の子孫であり、全国の籐氏が彼の計画の元にはせ参じていることが明らかになってくるとともに、彼に反感を示すグループが、かつて古代に藤原(中臣)氏と神祇において相競った忌部氏の子孫であることがわかる。 しかしその強引ともいえる計画の実行は、忌部の策謀もあって次第に人心を乖離させる方向に進み、宇陀は自衛隊によって攻撃される。 という話。かくのごとく非常に荒っぽい、強引なストーリー展開なのだが(なに半村良だって結構強引だった)、読んでいる最中はそんなに違和感を感じないで読めた。いやむしろ大変面白く、ページを繰るのももどかしく読了したのだった。 中臣と忌部の古代氏族の抗争を現代に甦らせた設定が面白い(ムリムリですが)。まさに半村的な伝奇SFのパターンを踏襲した作品で、期を画するような傑作ではないけれども、いかにも70年代SFらしい、エンターテインメントとして十分娯しめる出来上がりとなっていると思った。 こんな面白い話を作れる作家が、どうして書くのをやめてしまったのだろうか。それはおそらく、本業のテレビディレクターの仕事が忙しくなってきて、最終的に本業の方を選択したということなのだろうが、まことに残念だったというほかない。 もっとも、久野四郎のケースとは違って作家としての意欲はもっておられるようで、最近また書き始めているようだ。この人、もう還暦は越えたはずで、本業も第一線からは退いて、また執筆する環境が整ってきたのかも。楽しみ。どんどん書いていただきたい。 ●桂米朝×筒井康隆 思わず衝動買い。 筒井 ところで、当時の寄席で浪花節というのは意外ですね。結構受けてたんですね。 これは先月読んだ『<声>の国民国家・日本』の傍証ですな。 筒井 それが(旭堂南陵の、大熊註)演目がいつも同じで「難波戦記」の「清正の鬚汁」(「荒大名の茶の湯」、大熊註)。あれが嫌いでね。 そうですか、名探偵ナンコの客は最低でしたか(笑)。 米朝さんが相手だからだろうが、最近の筒井らしくなく、傲慢ではない。上手に米朝さんから話題を引き出し、かつ自身でも語り、それがまた米朝さんの中にあるものを引き出す契機となっている。 ●高橋たか子 「そんな厄介なものを抱えて私がふらふら歩いていた道で、(……)私はアンドレ・ブルトンという人に出会った。その人は、すれ違った私に、ちょっと合図のような仕種をしてくれた。その瞬間、人に話してきかせようもなく話してきかせても納得してもらえそうにないと私が思っていたものに、文学的表現を与えることが可能なのだと私は悟ったのである。この本に納めたような小説が次から次へと私の頭のなかから出てきたのは、そのような次第である。きっかけとなったアンドレ・ブルトンという人には、私は一度すれ違っただけで、その後会ったこともなく、それにまた、これらの小説はその人にほとんど似ていないはずである。(あとがきより) 著者の第2短編集ながら、同人誌時代の作品を集めており、実質的にデビュー作といえる。 1)或る黄昏時、私(女)が見知らぬ駅で降り、迷路のように曲がりくねった道をあてもなく歩き回っていると、突然小さな野良犬がかみついてくる。思わず拳をふるうと、いつの間にか5,6歩先に子犬とそっくりな眼をした老婆と少女を二重写しにしたような婦人が立っていて、ぐんぐん近づいてきて、「私の魂をなぐったのね。私の魂にげんこつを喰らわしたのね」とかすれ声でいう── 2)冷害に襲われた地方に、私(女)は一枚の古い羽織を救済物資として供出する。その後その羽織が空を飛ぶ幻を、私は見るようになる。2年後、汽車旅行していた私は、或る駅で乗り込んできた若い女性が、くだんの羽織を身につけているのを見かける。衝動的に彼女の前の席に座り、話をする。10日後、彼女から手紙が届き、彼女の娘殺しの顛末を知る。それはまるで自分の過去そのものだった。私は彼女の家に赴き、羽織を燃やす。彼女の顔から過去の私にそっくりな表情は消え去り、そこにはありふれた農婦の顔があるばかりだった── 4)うらぶれて黒くすすけ、果てしなく入り組んだ裏街で、その女は突然私(女)に立ち現れた。それからは日々に現れるようになる。私たちは一日、また一日といっそう深い、いっそう強烈な感応を発見していく。私は問う「あなたは誰」。短刀を取り出し、「せめて私の名前を告げさせて下さい。私の頭文字をあなたの肩に彫らせて下さい」私は住宅街の闇のなかを盲滅法に歩いている。左肩がずきんずきんと痛んだ── 5)鏡と鏡の間に立って、私の前後に無限の私がいる。私はそのような鏡の一枚をめくる。それは硬い感触ではなく、妙にとろけたような手触りで、たちまち私を難なく通過させる。次の一枚をめくる。さらにもう一枚……鏡面の奥へ奥へとはいっていく── 7)私は一人で遠いところへ来ていた。そこで金色に光る髪と深い青い瞳を持った少年と知り合う。少年は私をいろんな所へ案内してくれる。金色の木漏れ日がひらめく林の奥に深い青をたたえた神秘の湖があった。少年は湖の畔にいる。私はふらふらと少年を追いかける。少年が手招きする。気がつくと湖の漁師に助けられている。「季節はずれの宿になあ、女客が一人で泊まっていると、宿の者はひどく気にするもんでな」。「全然そんなつもりじゃ……」と私。「おじいさん、このあたりに外国人が住んでいますか。金髪の男の子が」そういった途端、私は酸っぱい水をたっぷり吐く── 8)私は廃墟への道を歩いている。「植物園」まで来ると今夜の夜会の出席者たちがたむろしていた。植物園は植物の芽をなかに閉じこめた結晶が転がっている。廃墟で行われるのは自殺パーティ。そこで私はリュミアと出会う。私は彼女を知っていた。なぜなら彼女がマネキン人形となって空を飛んでいるのを見たから。その後私はリュミアと親しくなり、彼女のアパルトマン(8階)へ招待される。その後アパルトマンへ出かけて行くが、エレベーターが5階までしかない。また出かけたとき、部屋に鍵が掛かっていない。私が扉を開くと、ベッドで、リュミアの上に巨大な爬虫類が覆い被さっている。私は広々とした草原にいる。遠くに何かが転がっている。近づくと、白いマネキンが草のなかに横たわっている。マネキンの股間から生々しい血が流れ出していた── 9)私が歩いていると、ビルとビルの間から、黄昏時の長い影が伸びていた。私が踏むと、叫び声が聞こえ、たどっていくと影の先に老人の首が突き出ていて、「わしの体を踏んだな」。左右両端からは生きた手が出ていて、ローラーの両端の鉄棒を握っている。老人は自らの体にローラーをかけて、眼だけを残して死に至る訓練というのをしているのだという。老人は女たちを捕まえてはローラーをかけるが、彼女らの影は黒くなく赤みを帯びている。それは女どもが肉の醜さを認識していないからだという。私は、策を弄して捕まり、ローラーにかけられる── 10)夕暮れが始まりかけていた。私は同窓会に出席するのだが、急がなければ間に合わない時間になっていた。何とか列車に間に合い、乗り込むが、じっと私を見つめる男の子が気になり、間違った駅で降りてしまう。次の列車は40分後。ところが案外早くやってきた列車に乗り込むと、それは違う方向に向かう列車だった。やむなく次の駅で下車し、夜道を歩き出す。矢印の張り紙があり、それをたどっていくと、一軒家が現れた。そこでは男たちが自殺について議論をしている。突然おまえは何者だと問いかけられる。黙っていると写真を撮られる。「外形を取るのではない。おまえの想いを撮るのだ」。写真に写っていたのは子宮で、その中にいるのはくだんの男の子だった。夜の次には夜があり、また夜の次には夜ばかりがあった── 主調音をなすのは、著者の、自身の内にもある「女性」あるいは(著者にとって同義なのだろう)「肉」、「業」への嫌悪である。それがすべての作品に共通するといってよいドッペルゲンゲル殺しというモチーフに結実しているわけだが、そういうことを措いても、上に要約したようにシチュエーションが奇妙でとても面白い。 (読んでから10ヶ月以上経ってこの文章を書いている。その間にケリー・リンクという作家を私は知ったのだが、高橋たか子とケリー・リンクはきわめて似ていることに、いま気づいた。) あんがい私自身にあう作風であることがわかった。今度は文芸誌デビュー当時の作品を集めた『彼方の水音』という作品集を読んでみようと思う。 ●深堀骨 とても面白かった。随分と奇妙な小説が8篇収められている。帯にスタージョンとラファティの名前が挙げられているけれど、これは全く別種の作風でしょう(大体スタージョンとラファティ自体が互いに異質である)。 たとえば、「バフ熱」(SFM99年9月)は、 また、「蚯蚓、赤ん坊、あるいは砂糖水の沼」(HMM92年11月)は、 あらすじ紹介はこれだけにしておくが、全篇このような、実にもって変てこりんな「日常だけど、ただしどこにもありはしない日常」が活写されている。 また著者は、落語の影響も強く受けているようで、プロットの展開の仕方は落語の定型を意識している部分が多々あるようだ。たとえば「バフ熱」22pで、矢田部医師と史郎がしゃべっている。当然場所は医院。まず矢田部医師が、 「そりゃあ、分かりませんや」 という風に、改行のみで、場面が変わってしまっている。この手法は本書では多用される。 本書ではこのような会話文が多用されている。会話文で進んでいく小説はあまたあるが、私はこれを「演劇的」と「落語的」に大別できるのではないかと思う。前者の代表は、いうまでもなく筒井康隆。本書の著者は後者にあてはまるのではないだろうか。そう推測させる手がかりが上の場面転換の手法である。 ところで、この落語風がさらに進化して、「演劇風」になった場合もある。とりわけ掉尾を飾る「闇鍋奉行」の最終部のナンセンスの極致は、さながら筒井康隆の再来かと見紛うばかりの華麗さで魅了されてしまったが、このような展開のもって行き方や速度感を、筒井は演劇から学び進化させたのだけれど、著者は(もし演劇体験がないのであれば)それを落語から独自に進化させたのではあるまいか。 このほか、「飛び小母さん」(SFM01年7月)の出だしが、まさに乱歩のパスティーシュであるように、乱歩以外にもミステリーの名作へのオマージュが散りばめられているようで、その辺の仕掛けもおさおさ怠りなく、ミステリファンをニヤリとさせる。 他に、 どれも甲乙つけがたい。すべて面白い。 ●リンド・ウォード 奴隷商人がアフリカから持ち帰った太鼓は何をもたらしたのか。書物に埋もれた生活を送る男を次々に見舞う恐るべき死と厄災。グロテスクな想像力にあふれた120枚の木版画で綴る運命奇譚。←帯惹句 木版画による(文字のない)小説の試みである。 タイトルの下に記されたA NOVEL IN WOODCUTSが示しているように、本書は「小説」として構想され、そのようなものとして完成されたものなのだから、読者の恣意的な空想の入り込む余地は原理上あり得ないはずなのだ。 読者は木版画の1枚1枚を目を皿のようにして眺め、否、凝視め、作者が表現しようとした「或る」ストーリーを、版画のなかに残された手がかりをもとに読みとらなければならない。 私が感じる「謎」は、しかしある意味作者と私の<距離>に比例している。 たとえばスフィンクスが描かれた書物の画のあとに、主人公が十字架を投げ捨てる画が並べられているのだけれど、このつながりが正直なところ私には掴めていない。 また望遠鏡の画→ハレー彗星の画→天文学の論文の草稿の画→天文台で学者がその草稿を読んでいる画は、主人公がキリスト教的な世界観から、近代科学的世界観へ目覚めた経緯を、私は現していると読んだのだが、科学者の顔はあざ笑っているようにも見え、そうすると天文学とは相容れない宇宙論なのかとも思えてくるのだ。 骸骨に女性が口づけしている本の画や、労働者の蜂起を促すパンフレットなども、あるいは当時の作者の教養体系のなかでは、自明の意味を担う記号なのかも知れない。 というわけで、本書はいまだに私の前に謎めいて聳え立っており、読み解くための鍵を調べる余裕は今のところ無いというのが正直なところ。 ●北杜夫 やっぱり<どくとるマンボウ>ものはいいですね。「雑文を集めた」<マンボウ>ものと、「一定のテーマに基づいて」集中的に書き上げられた、いわば長編エッセイである<どくとるマンボウ>ものは、著者のなかでも画然と区別されているらしいことが、「あとがき」に記されている。 「どくとるマンボウ追想記」以来17年ぶりの<どくとるマンボウ>ものである本書は、10年前の出版であるが、今までのところ一番新しい(おそらくは最後の)<どくとるマンボウ>ものであり、従って本書で、私もこのシリーズは完読したことになる。 もっとも、私の場合「追想記」を76年の出版時にリアルタイムで読んで以来なので、実に27年ぶり、何とまあ歳月の流れ去る疾さよ。 それにしても、なぜに27年ぶりなのか。実は80年代に量産された<マンボウ>ものの衰弱ぶりに、ある時期から読まなくなってしまったからに他ならない。 しかし、<どくとるマンボウ>ものである本書は、著者の20代後半、大学卒業後、慶応病院の医局に入局してからマンボウ航海に出発する前あたりまでをテーマとしており、その当時の資料(日記)に基づいて書かれているからか、毫も衰弱したところはなく、きびきびとした往年の名文が甦っていて実に面白かった。 内容的にも、医局記と銘打たれているように、精神科の医者としての若き日の著者の姿が、著者が出会った患者たちの姿と共に生き生きと描かれていて、ユーモアエッセイというよりも、真摯な一種精神科の病院論といった趣きがあるのだ。 「青春記」と並ぶ<どくとるマンボウ>シリーズの双璧といってよい好篇である。(実はどくとるマンボウものではないが、大学時代の日記が刊行されており、早くそれも読まねばと思っています。) |
●笙野頼子 「河南文藝文学篇」2003年夏号のインタビューで、著者自ら「SF純文学」(162p)という本書であるが、その創作動機を、私は3つの部面に整理してみたい。 1)女人国ウラミズモの制度を描写することにより、「今ここにある」この(日本)社会を支配している 無意識的な[男=人] 的認識の慣性をずらし顕在化して白日のもとにさらけ出すこと。 かかる認識の慣性系を、著者はウラミズモという国家を架構することによって系からずらし、顕在化しようとする。そのような価値のひっくり返しを、著者はこれでもかとグロテスクな笑いとともに見せつける。 2)ふたつめは、出雲神話を女の立場から書き換えること。作者は実在する出雲神話をよく読み込み、おそらく「男」が成立させたのであろう出雲神話の物語を、「女」という視座から、ストーリーの外枠は改変せず、しかしその意味するところを180度転倒させてしまう。その手際は実に見事という他はなく、この部分は本書において圧倒的に面白いところといえる。 3)三つめは、かかるウラミズモという国に亡命して来、そうして出雲神話を書き換える作業に携わる(著者自身であるらしい)主人公の小説女(小説家)が、その過程において自らを再発見していく部分である。ここにおいて主人公が何故、(今、在る)「女」に対して、愛憎二様のアンビバレンツな反応を示したのかが明らかになっていく。 本書が(小説内でも攻撃しているように)単なる女性擁護の学者フェミニズムと隔絶しているのは、かかる鋭利な刃のような思索の鋭さであろう。評論家的態度を排撃し、あくまで<私>に依拠する著者は、この思索の刃によって、ざっくりと<私>を切開し、その生々しい切り口を読者に開いてみせる。かかる「私」への固執こそ、まさに「SF純文学」の純文学たる部分であろう。 このように本書は、まさに「SF純文学」、あるいは「ニューウェーブSF」の成果といえるものであり、そのようなものとしては世界的レベルの傑作といえるのではないだろうか。 ●矢作俊彦 「奴はウィントン・ケリーの“ウィスパー・ノット”を全部口笛で奏(や)れた。(…)しかしな、俺だって“マイ・フェイバリット・シングズ”を口先だけで、一ヵ所も間違わずに真似できたんだぜ。“ビレッジ・バンガード”のコルトレーンだ。判るか?」(「リンゴォ・キッドの休日」115p) 表題作と「陽のあたる大通り」の2中編を収録。 表題作は1976年の話なのだが、本文中のどこにもこの数字はあからさまには出てこない。読者は作中に散りばめられた数字を足したり引いたりして、はじめて1976という数字を得ることが出来る。 その女がセイブルミンクの半コートを煌らせてバァに現れたとき、私は思わず天井を見上げた。彼女を正面から捉える数百キロのライトが、何処かにあるような気がしたのだった。(「陽のあたる大通り」200p) なんて、臭いといえばまったくその通りなのだけれど、通り一遍のSF作家にはちょっと書けない表現であるのは間違いない。 それから今回気づいたのは、庄司薫との類似。とりわけ表題作にそれを感じた。そうか、薫くんシリーズはハードボイルドだったんだ。 ●笹沢左保 3部作の第1巻。これは数ある著者の時代物シリーズのなかでも、とりわけすぐれたシリーズかも知れない。自由人・木枯らし紋次郎が、「関わりがない」といいながら、しかし自発的に関わっていくのに対し、本書の岡っ引き地獄の辰は、「或る理由」で組織の中にがんじがらめにからめ取られてしまっている。関わりたくなくても、関わらざるを得ないのだ。その結果、読者が受けるカタルシスも非常に屈折したものがあって重い。 短篇連作形式で、各篇出来にはばらつきがあり、それは設定の不自然さと相関している。どれもかなり無理な設定を契機としているのだが、そのなかで「水茶屋の闇を突く」が設定の無理が気にならず、抜群の出来である。次に「縁切り寺で女が死んだ」か。 ●笹沢左保 シリーズ第2巻。面白かった。エンドレスな木枯し紋次郎と違って、本シリーズはちゃんと結末が用意されている。 ●眉村卓 眉村卓の最新作(68枚)である。 主人公・岡村は60代後半、10年前に妻に先立たれて以降一人暮らし。いろいろな仕事に手を出して、今はしがない文具店で細々と生きている。 ところが、ある日、岡村は散歩で熱帯植物園へ向かう途中、くだんの同級生の、高校時代とそっくりな若者を見かける。植物園の園内で、ふと同級生の語った話が甦る。まさか! そう思いながらも、岡村はいろいろな花の香りで試してみる。すると── これは一種八百比丘尼テーマの変型である。あるいは最近の、不老不死の方に意識を向けたヴァンパイア小説と近いものといえるかも知れない。 ところで、植物園で若さを取り戻した瞬間の描写は、私にはとてもよく理解できた。おそらく5年前の私では納得できなかったかも知れない。 ●シオドア・スタージョン 「ミュージック」 「ビアンカの手」 「成熟」 実はスタージョンは、自分が何を小説で表現したいのか、あるいは今何を書こうとしているのかが、意識としてははっきり把握出来ていなかったのではないだろうか。自分自身のことがよく判っていないので、それを判ろうとする作業が、実に小説の執筆の原動力であったかも知れない。 ともあれ自我の確立が弱かった(といわれる)スタージョンにとって、「成熟」というのは他の誰にもまして切実なテーマだったに違いない。彼が自身に対して持っていたイメージは、つきつめれば自分は他人とは違う、自分は社会の中で仲間外れであるという違和感だったようだ。 ところが、それが高じると、白痴が実は人類を超えるものだったという風に超人(あるいは醜いアヒルの子)テーマに変型してしまう。 ところが「ビアンカ」のようにことさらSFにしない作品では、読者をとまどわせるものは何もない。 「シジジイじゃない」 「本物の人間はそんなにたくさんはいないんだ(……)世界の多くは、ごく少数の人間の夢で占められているんだ。(……)世界全体についてなにがしか知っている人間がほんのわずかしかいないのは(……)人間の興味は限られていて、生活環境も狭いのは(……)大多数が人間なんかじゃないからだよ」(157p) アイデアストーリーといえども、スタージョンらしさは随所に認められる。上のアイデアなど、まさにスタージョンの「自分はまともな・一人前の人間(男)じゃない」という疎外意識(があったと私は思っている)」がつむぎ出した観念(妄想)ではないか。 すなわち本篇の核アイデア自体が、スタージョンの実存にその根拠を持っている。外的アイデアと内的世界が不可分であるからこそ、このシジジイ的コミュニオンへの憧憬と反発の物語は、客観的には綻びだらけのアイデアストーリーであるのにもかかわらず、読者を揺さぶり動かさずにはおかないのだと思う。 「3の法則」 バックに流れているのは、ピアノとベースとボーカルによるジャムセッション。そのような演奏シーンを描かせて、スタージョンの右に出るものはいないだろう。そういえばうまくいった時のジャムセッションの一体感・法悦感って、スタージョンが求めてやまなかったコミュニオンそのものといえるかも。 その意味で、本篇はまさに、倉阪鬼一郎が将来書くらしい「ダウナー系のニューウェーブSFであり、テクストそれ自体が音楽を志向しており、濃密な文体がエロスとイマージュを喚起する結晶体もしくは水晶球のような作品」(SFジャパン)を、まさに体現した作品ではないだろうか。ダウナー系というのは、ちょっと違うかも知れないが。 「そして私のおそれはつのる」 「墓読み」 とはいえ上の流れに沿わせれば、<墓読み>という技術も、会話コミュニケーションとは別のコミュニケーションの体系であり、それを修得することで、亡き妻とのディスコミュニケーションは解消され、それゆえ<墓読み>を行う動機も雲散霧消した、ということなのかも。 「海を失った男」 本篇もあるがままに味わえばよい作品であるが、あとがきに紹介された学生がいうような「さっぱり何が書いてあるのか判りませんけど」というような作品ではない。その小説世界はあくまで明瞭(本篇の中でもとりわけ明瞭な話かも)。 「墓読み」にしろ「海を失った男」にしろ、小説的に完成された作品では、作者のモチーフは背後に隠れてしまう。もちろん見えないところで作品を支えているのは間違いない。 ●テリー・ブルックス これ、出だしは「エイやん」と同じ。妻に先立たれ、生きる意味を失った弁護士が、有名デパートのカタログに見つけたのは、「魔法の国売ります」の広告。 弁護士の職を擲つためにしなければいけない諸々の契約解除とか1000万ドルを換金するための税理士との一悶着とか、現実に山積する問題が一つ一つ解決されていく。このあたりはまったくリアルフィクション。 そういう現実のしがらみをくぐり抜け、ようやく魔法の王国の入り口に達する主人公。ここまではまことに面白い。 さて、妻の死で、弁護士の仕事はおろかすべてに対して厭世的になった主人公が、現実逃避の目的で購入した魔法の王国だったが、現実の(!)その世界は生半可な気持ちではとても経営など出来ない所だった。 ここは表面上はファンタジーの王国かも知れないが、実際は現実の国だ――願望や無理な思いこみじゃ、問題の解決にはならない!(308p) 本書は、ある意味「司政官シリーズ」と同じテーマである。よその世界からやってきた主人公ベン・ホリデイが坐る王座は、つまるところ異星へ赴任した司政官と同じ機能を有するのである。 眉村卓が司政官シリーズを書き出した動機は、火星シリーズのように、単身異世界に乗り込んでいった一介の風来坊が、あんな風に活躍できるはずがない、組織を構築してはじめて経営が出来るのだ、というアンチ・テーゼの提出にあったわけだけれど、まさに本書の主人公ベン・ホリデイは、ジョン・カーターのように単身乗り込み、しかしジョン・カーターとは違って、失敗につぐ失敗、痛い目にあいつづける。 王国の現実を身にしみたかれには、ジョン・カーターのような自信はとてももてない。常にここへ来るという決断は間違いだったのではないか、と後悔しつづけ、もとの世界を懐かしみつづける。ぜんぜんヒーローではないのである。 しかしながら後悔すると同時に、来てしまったからには頑張ろうという向日的な精神の持ち主でもあるところは、眉村さんの描く主人公に似ているといえる。あまり人の意見を聞かず、成功しても失敗しても自分の判断を優先するところや、その結果に対しては自らがその責を負い、誰にも責任転嫁しないようなところなどもそっくり。 ただ後半はかなりご都合主義に流れはじめ、ごく普通の異世界ファンタジーになってしまったのはやや残念であった。とはいえ、敏腕の弁護士が魔法の国の王位について、四分五裂した国内を建て直すというコンセプトは、主人公を中年の社会人に設定したことも含めて、SF的見地からとても面白く、事実とても楽しく読み終えることができた。 ●C・L・ムーア 〈処女戦士ジゼルシリーズ〉。中村融編のヒロイックファンタジー傑作選に、「ヘルズガルド城」が新訳で収録されていて、結構面白かったので読んでみた。 まずは冒頭の表題作(ウィアード・テールズ誌1934,10)。 理由は文体。このような会話がなく、ひたすら主人公の行動を描写することに徹しなければならない話では、それを支え得るビロードのようにしなやかで勁い文体が要求されるのだが、どうもその描写が心許ない。作品世界を支えるだけの力がないように思うのだ。 これは翻訳が悪いのかも知れない。実際のムーアの原文はもっとしなやかでうるおいがあるのかも知れない。なんといってもシャンブロウの作家なんだから。といってもシャンブロウ読んだの大昔だからなあ。 「暗黒神の幻影」(同誌1934.12) 「魔法の国」(同誌1935.5) 「暗黒の国」(同誌1936.1) 「ヘルズガルド城」(同誌1939.4) 残りは「あとがき」にもあるように、「主人公のマゾヒスティックな精神的闘争を主眼として」おり、実際の行動は「地底の暗黒の地獄めぐりであり、暗黒の国の彷徨」だけしかなく、(ある意味ひとりよがりな)散文詩に近いものかもしれない。 処女戦士ジョイリーのジレルシリーズはこの5篇のみらしいが(中村アンソロジーによれば番外編が1編あるようだが)、こんにち読むに耐えるのは「ヘルズガルド城」と「暗黒の国」の2篇だけのような気がする。 ●E・R・バローズ 原書1917年刊。初出〈オール・ストーリー〉誌1912.2〜連載開始。 今回、特に気がついたのは、描写が実にあっさりしていること。こんなにあっさりだとは思わなかった。まるで作者自身が焦っているかのように物語がどんどん展開していく。ストーリーを滞らせるような心理描写や情景描写は一切なし。 290p、530枚程度の長編だが、最近の日本人作家だったらこの倍は書き込むだろう。最近のアメリカ作家なら3倍は書き込むかも。 でも実際のところ、この程度の書き込みで十分なのだろう。実にくっきりと、イメージが浮かんでくるのだから。 ●矢作俊彦 初出〈文學界〉97.6〜01.11を改稿。 月刊「潮」10月号に眉村さんが「顔写真を捜す」というエッセイを書いていらっしゃる。たしかに、たまに十代の頃の写真を見ると、当時の顔と現在の顔が(同一人物であるということは当然わかるとしても)ずいぶん面変わりしていて、若い頃はこんな顔してたんだな、と驚くことがある。 これを安部公房は、たしか〈微視的連続感〉に埋没して変化に気づかない状態、と表現していた。そしてかかる〈微視的連続感〉を切断する装置としてのSFの存在意義を高く評価していたはず(それは新潮文庫版「第四間氷期」のまえがきに書かれていたと記憶しているのだが、現在新潮文庫版が手許になく、同作品が収められた「安部公房全作品」(4)をあたってみたけれど、まえがきはカットされていて確認できなかった)。 じつは本書の方法論も、かかるSFの手法と同じと言ってよい。 30年前、主人公は過激派の学生で、警官殺人未遂ということもあって、当時文革のさなかの中国へ逃れる。いろいろ苦労し、30年後、蛇頭の手引きで日本に戻ってくる。 中国での生活がいろいろ描かれているとはいえ、それが主人公を変えてしまうことはない。これは不自然である。その結果、中国での描写が妙に現実感がないのだが、作者の意図が「1968年の目で現在の日本を視る」ことにある以上、仕方がない。なぜなら主人公は30年前のまま、この21世紀へやってこなければならなかったからだ(だからラストは唐突)。→(*) こうして30年前の視線が捉える21世紀トーキョーは、30年間微視的連続感の中で変化を意識化し得なかった読者に、その不連続面をまざまざとみせつけるのである。今、当たり前と感じている社会現象は、30年前の目には、全然当たり前のものではなかったのだ。「現在」は、明らかに30年前の(直線的な)「未来」ではない。 30年前の世界が想像した未来──それは鉄腕アトムに代表される未来だ。 以前にも書いたが、矢作は庄司薫の正統な後継者かもしれない。 私たちが10代に漠然と感じていた未来と、現実となった「未来」である現在が、違うものであることに、微視的連続感に埋没していた我々はなかなか気づかず、いつの間にかそれを受け入れてしまった。 昭和25年生まれの彼らに、私は少し「遅れてきた」世代であるが、作者の想いは、少なくとも私の世代には届いているだろう。 (*)この文章を書いた後に、ある方と『ららら科学の子』についてメールで話した。その際、 >ところで、『ららら科学の子』の、不思議な明るさは、矢作の未来感なのでしょうか? >むしろ未来に対する期待も何も、興味すら失った果ての、無責任から来る明るさではないでしょうか。本作品の矢作は終始後ろ向きだと思いました。そういうわけで、私はラストには違和感があります(唐突というかリアリティを感じられないんですよね)。 と返答したのだけれど、一晩寝て、それでは読めてないことに気がついた。 当初私は、主人公の中国での生活に現実感がなく、夢のような印象で、事実主人公は、中国でのある意味過酷な生活の過程で、考え方なり人生観が激変してもいい筈なのに、全く30年前のまま日本に戻ってくるところから、中国での30年に「タイムマシン」としての意味しか見出せなかったのだった。だがそんな単純なものではないことに気づいた。 おそらく主人公は、環境の激変に30年間アパシーのような状態で、あたかも離人症のように何をするにも生き生きとした現実感をもてずに暮らしていたのではないだろうか。現実に向かい合うことができず、(無意識ではすべてを拒否して)自分の中に閉じこもって30年を暮らしていたのではあるまいか。 したがって開拓したり結婚したりと、一応それなりの生活をしているわけだけれども、それを行っている当の自分を、自分自身のこととして捉える(直視する)ことができず、いわば他人を見るように、他人事のように感じていたに違いない。 その結果、基本的な人生観は中国逃亡の影響を殆ど被らなかった。(すなわち必然的にSF装置となった。私の当初の理解では、SF装置とするために操作的に中国へ行かせたとなり、文学的には「恣意的」な、不自然な手法ということになってしまう) 日本へ帰ろうと思えば出来たのに、行動しなかったと、主人公は作中で考える。その理由は、中国に生活する自分を、自分のこととして捉えることが出来なかったからなのではないか。 そうして主人公は、日本に帰り着く。そこで旧友の無私の友情に触れ、また旧友の部下やホテルの支配人、いまどきの高校生とふれ合ううちに、自我は急速に解凍され、妹と会話を交わすに至って、離人症的な状態を脱したのだ。 妻を連れて帰ってきてはじめて、主人公の自己回復は成就するのだ。それゆえ、広州に向けて出発するラストが「不思議な明るさ」をたたえているのは、したがってきわめて当然といえるのである。その意味で、ラストの広州行きは「唐突でリアリティがない」どころか、「こうでなければならない」必然的な行為だった、といえるだろう。 そう考えると、私の最初の理解は、根本的な部分を読解していなかったことになるだろう。 |
掲載●2003年9月28日、2004年7月28日(8月)、7月31日(9月)、8月8日(10月)、8月11日(11月) |
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