藤田まことてなもんや伝説

番犬敬白 2001年1月1日

 主人の連載「藤田まことてなもんや伝説」をひとつのページにまとめております。この連載に関するほかの方のおたよりも、関連箇所を抜粋して掲載させていただきました。なお、手前番犬の書き込みにおきましては、白い色が番犬の科白、この色が主人の科白この色が引用テキストであることを示しております。


平山雄一   2000年 1月18日(火) 22時 3分

先程放送していたテレビ東京の「なんでも鑑定団」で乱歩の書の掛け軸が登場しました。
ウォーター・デ・ラ・メイアの言葉だそうですが、内容は覚えてません。
乱歩の大きな書はめずらしいとのことで、80万円がつきました。
でも字はうまくないですね。


わるもの   2000年 1月18日(火) 23時 6分

>平山雄一さん
 わるものも観てました鑑定団。
 「…リアリズムから逸脱した世界…」という部分があったと思います。
 乱歩の直筆なんだ〜と思って恍惚としながら見てましたよ(笑)


人外境番犬   2000年 1月19日(水) 9時10分

 平山雄一様
 それから、『なんでも鑑定団』というテレビ番組は見ておりませんでしたが(もしかしたら当地では放映されていないかもしれません)、ウォーター・デ・ラ・メイアの言葉というのであれば、
 『わが望みは所謂リアリズムの世界から逸脱するにある。空想的経験こそは、現実の経験に比して更らに一層リアルである』
 ではないかと思います。これともうひとつポーの言葉を適当にアレンジしてできたのが、例の『うつし世はゆめ よるの夢こそまこと』です。これはまことの話です。まことまこと藤田まこと。いやー、朝から快調やな。

 などとまたまた馬鹿なことを申しておりますが、わるもの様は「てなもんや三度笠」なんてご存じありませんのでしょうね。
 ついでに乱歩の書に関してですが、石川九楊さんの『現代作家100人の字』(新潮文庫)に乱歩の書『宙を歩く白衣婦人や冬の月』がとりあげられていて、『少し気難しい顔付きの書だ』と評されています。どこが気難しいんだか、私にはさっぱり判りませんが。


わるもの   2000年 1月19日(水) 18時58分

>番犬スタちゃんさん
 「てなもんや三度笠」…ポッ(赤面)
 わるもの中学から高校にかけて藤田まことの大ファンでしたので
 勿論知ってますよ〜。懐かしの映像では必ずチェックしてました。


人外境番犬   2000年 1月20日(木) 8時32分

 わるもの様
 「てなもんや三度笠」をご存じの由、主人がびっくりしております。ただ、さきほど新聞で漫才作家、足立克己先生の訃報に接し、
 「きょうは喪に服そう」
 と申しておりますので、「てなもんや三度笠」に関するお話は自粛させていただき、別の機会を待ちたいと存じます。あしからずご了承ください。


人外境番犬   2000年 1月21日(金) 8時 0分

 わるもの様
 手前は寒さには強うございます。なにしろ母方に遠くロシアの血を引いております。きょうあたり当地にも雪が降るかもしれないそうで、いまから楽しみで仕方ありません。ところで、主人はこのように申しております。
 澤田隆治や香川登志緒の本を探し出してきて、暇なおりに『てなもんや三度笠』のことをお話しいたします。しばらくお待ちください。


大熊宏俊   2000年 1月21日(金) 20時28分

臼田さま
『地球の長い午後』、銀背でお持ちですか。うらやましいー(涎)。
私もオールディスの銀背は殆どもっていますが、『地球の長い午後』だけは文庫です。
昭和42年の刊行ですか?
今、本棚から銀背抜いてきましたが、
『暗い光年』昭和45年
『隠生代』昭和45年
『虚構の大地』昭和47年
『爆発星雲の伝説』昭和48年
あ、ぎ、『銀河は砂粒のごとく』がない! 誰や、返せへんヤツは(怒)。見つけたら、耳の穴から手エ突っ込んで、奥歯ガタガタいわしたるどォ!
それはともかく、臼田さんの方が読み出した時期が早いんですね。私が読み出した頃には『地球の長い午後』は、もう店頭にはなかったです。


第一回   2000年 1月22日(土) 9時51分

 わるもの様
 藤田まこと先生と「てなもんや三度笠」について、主人がちょこっとだけお話をさせていただくそうでございます。

 昭和32年 「びっくり捕物帖」
 昭和33年 「やりくりアパート」
 昭和35年 「天外の親バカ子バカ」
 昭和36年 「スチャラカ社員」
 昭和37年 「てなもんや三度笠」
 以上、草創期のテレビで人気を呼んだ大阪コメディの放送開始年です。
 「びっくり捕物帖」は、森光子が天満与力の妹に扮し、ダイマル・ラケットの目明かしを助けながら事件を解決するという時代劇。関西探偵作家クラブの雄、香住春吾が原作を執筆していたことは、中島河太郎先生の『日本推理小説辞典』にも記されています。
 「やりくりアパート」は、大村崑、佐々十郎、茶川一郎ら大阪コメディアンを売り出した現代コメディ。たぶんスポンサーはダイハツで、三輪自動車ミゼットのコマーシャルが流れていたように記憶します。
 「天外の親バカ子バカ」は、松竹新喜劇の渋谷天外と藤山寛美が親子を演じた家庭劇ですが、寛美のアホ役を強く印象づけた番組です。藤山寛美の物真似というと、たいていこのドラマから「もしもし、お父さん?」という電話シーンが採られるようになりました。
 「スチャラカ社員」は、公開録画による家庭劇ならぬ会社劇。ミヤコ蝶々が女社長に、名だたる漫才師やコメディアンが社員に扮して、アチャラカをくりひろげました。のちに東映やくざ映画の看板となる藤純子は、この番組のBG(ビジネス・ガールの略。オフィス・レディなんて言葉はまだありませんでした)役でデビューしています。
 ほかにも、芦屋雁之助、大村崑らの「番頭はんと丁稚どん」をはじめ、言及するべきコメディはいくつかあるのですが、手許の資料では放送開始年すらつかめませんでした。
 さて、こうした番組につづいて伝説の超人気番組、「てなもんや三度笠」が登場します。昭和37年6月に放送が始まり、昭和43年の春まで309回にわたって放映がつづきました。藤田まことが一躍スターダムにのしあがったのがこの番組なのですが、藤田まことは「びっくり捕物帖」にも「スチャラカ社員」にも出演しています。
 藤田まこと、本名・原田真、昭和8年4月13日、映画俳優・藤間林太郎の長男として東京・池袋に誕生……。
 などと書き出すといくらでも長くなりますから、本日はこれまでといたします。「てなもんや三度笠」以前の藤田まことのエピソード、もっとお話しした方がいいでしょうか?

 以上、中原弓彦さんの『日本の喜劇人』(昌文社)、澤田隆治さんの『私説コメディアン史』(白水社)を参考資料とさせていただきました。


大熊宏俊   2000年 1月22日(土) 23時29分

わるものさま、ご主人さま
「番頭はんと丁稚どん」は昭和34年ですね。『とんま天狗』は34年9月〜36年4月、少し検索してみました。

>船場の薬問屋を舞台に、三人の丁稚が繰り広げる涙と笑いの関西喜劇。三人の丁稚たち(大村昆、茶川一郎、芦屋小雁)が、番頭(芦屋雁之助)にいびられながらも、それをギャグで笑い飛ばす。そのドタバタと、そこに流れる大阪らしい反骨精神が共感を呼んで、同じ時間帯の人気番組『私の秘密』(NHK)を凌駕するヒット番組となった。→http://plaza8.mbn.or.jp/~60net/oronain.htm

>『スチャラカ社員』『番頭はんと丁稚どん』『てなもんや三度笠』『とんま天狗』 大阪に引越してびっくり。東京では見たことも聞いたこともない藤田まこと、大村昆、佐々十郎たちが大活躍。→http://www.surfline.ne.jp/mine/e030.html

このリストももなかなか興味深いです。→http://www.members.tripod.com/~goinkyo/tv.html


臼田惣介   2000年 1月23日(日) 0時36分

それはそうと、懐かしいTV番組が書き込まれて、いろいろ思い出すこともあるのですが、「番頭はんと丁稚どん」好きでしたねぇ。鬱々とした時期の清涼剤でした。
ただ、「私の秘密」も結構見た記憶があるので、時期が少しズレているのでしょうね。
でも、やっぱり絶対見たのは「私だけが知っている」でした。この頃はNHKも捨てたもんじゃなかったんですね。
今になってみれば、前田のクラッカーとかオロナイン軟膏とか、「琴姫七変化」のボン・カレーとか、子ども心のトラウマみたいになってますけど・・・・。


野村 恒彦   2000年 1月23日(日) 1時18分

 久しぶりに訪問してみると、またまたエラいことになってますね。
 「てなもんや三度笠」は見てました。確か日曜日の午後6時からの放映ではなかったでしょうか。あの前田製菓の名文句は今でも無意識に出ます。「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」ああ、またやってしまった。
 当然「とんま天狗」も見てました。「とんとん、とんまの天狗さん」良いですね。
 臼田氏の書かれた「番頭はんと丁稚どん」「私の秘密」「私だけが知っている」これも確実にみてました。「琴姫七変化」が最大のお気に入りでした。
 どうも昔話になるとうるさくなってしまう自分を感じます。


人外境番犬   2000年 1月23日(日) 9時36分

 わるもの様
 藤田まことネタ、ご要望があれば細々と継続いたしますので、お申しつけください。どうせまた、昔話で盛り上がる結果になることは眼に見えているのですが……。昔話の好きな人間なんて、ほんとにどーかと思いますけどね。はっはっは。
 と主人が申しております。


わるもの   2000年 1月23日(日) 13時 4分

はうぁ〜(恍惚)藤田まことに関することがいっぱい。
わるもの芦屋雁之助も好きなので、嬉しいぃっ。
これが中学・高校時代のコトだったら鼻血流して喜んでいるでしょう。
今は竹中直人にラブラブなわるもの。竹中直人に関する情報なんかあった日にはPCの前で泣きながら舞っているでしょう(さりげなく情報を募ったりして(汗))


わるもの   2000年 1月23日(日) 22時16分

皆さんの平均年齢は一体…(恐る恐る)
「てなもんや三度笠」等をリアルタイムでご覧になられていたのでしょうか?(汗)
それはさて置き、ありがとうございますーっ!
あんなに詳しく教えて頂いてホント嬉しいっす!
コピーしてフォルダに収めました。

>大熊さん
 臼田さんへのレスの
 >耳の穴から手エ突っ込んで、奥歯ガタガタいわしたるどォ!
 痛そう(;;)…でもそれ以前に死んじゃいます(汗)。


大熊宏俊   2000年 1月23日(日) 22時30分

ご主人さま
沓掛時次郎という名を耳にしたとき、「なんや、あんかけの時次郎みたいな名前やな」と思ったものでした(笑)。


大熊   2000年 1月23日(日) 22時45分

わるものさん
>耳の穴から手エ突っ込んで、奥歯ガタガタいわしたるどォ!
ってのは(私の記憶が確かなら)藤田まこと演じるあんかけの時次郎の常套句なんです。(細部ちょっと違うかも知れません。何せ見ていたのが6,7歳の頃なもんで(^ ^;)


第二回   2000年 1月24日(月) 8時33分

 わるもの様
 本日の藤田まこと先生ネタは次のとおりでございます。

 藤田まこと無名時代のネタです。
 昭和三十年、まだ「ひょろりとやせて色の青黒い時代遅れの長い顔をした若いタレント」であった藤田まことのエピソードを、澤田隆治さんの『私説コメディアン史』(白水社)から引用します。ちなみに澤田さんは往年のテレビディレクターで、てなもんややスチャラカの演出を手がけた人です。

 司会者──これが藤田まことの職業だったが、そのころの花形司会者は、ラジオの聴取者参加番組の司会で人気があった川上のぼる、大久保怜で、彼の司会者としての仕事は、もっぱら余興。それも売れっ子が廻りきれない仕事をやっとひろって歩くという程度で、いきおい地方へ出るドサの仕事が多かった。

 澤田さんは、ラジオの漫才番組で公開録音の司会者に起用した(といっても、司会の部分はオフレコですから放送はされません)藤田まことについて、《私に可能性を感じさせる目新しさも才気もなかった。しかも喋り方に明るさがなくステージが陰気になるのが致命的であった》と記しています。

 大熊様
 「耳の穴から…」のルーティン・ギャグ、私もそんなふうに記憶しています。ところで、時次郎の仁義の冒頭に『泉州は○○の生まれ』というフレーズがあったのですが、○○に該当する地名が思い出せません。ご近所のこととて、ご記憶ではありませんか?
 と主人が申しております。


大熊宏俊   2000年 1月24日(月) 22時22分

ご主人さま
あんかけの時次郎は「お控えなすって、早速お控え下すってありがとさんでござんす。手前泉州は信田(しのだ)の生まれ、あんかけの時次郎と申します」とかなんとか仁義を切るのですが、正確な口上思い出せません。のちに見たりした股旅ものの口上とごっちゃになってしまっているようです。この辺は諸賢兄の訂正を請いたいと思います。

さて時次郎が生まれた泉北郡信田村(現・和泉市)ですが、わが陋屋の前を通る古道熊野街道(地元では小栗街道といいます。浄瑠璃「小栗判官車街道」に由来)を3里ほど大阪方面へ戻った所にあります。
これも浄瑠璃「信田妻」の信田の森伝説で有名な所です。信太山という台地があり、戦前は陸軍演習場、戦後は自衛隊演習地になっており、兵隊を当て込んだ(かどうかは知りませんが)遊郭がかつてあり、現在もその名残をそこはかとなく(というかしっかりと)感じ取ることが出来ます(^ ^;。


柳生真加   2000年 1月25日(火) 10時27分

大熊さん、
>>時次郎が生まれた泉北郡信田村
ええっ、これは安部清明さまの…。あんかけ(藤田まこと?)と清明さまに共通する部分があるなんて、これも何かの陰謀なのか? このところ岡野玲子のコミックでまたまたブームですね、「陰陽道」。(SF作家でもある夢枕獏原作)


わるもの   2000年 1月25日(火) 14時31分

いっきし(カトちゃん風くしゃみ)
皆さんインフルエンザにはご注意です…ゲホゲホッ。

>番犬スタちゃん&ご主人さま
 スタちゃんは風邪などひいてないでしょうか?
 わるものの愛犬「こあくとう」はどうやら風邪をひいているらしいです。
 (犬も風邪をひくのですね(汗))お気を付けください。
 藤田まこと情報嬉しい限りでございます。
 ご主人さまの持っている藤田まことネタが尽きるまで
 どうか続けて頂きたいです!よろしくお願いします。
 でもこの掲示板の主旨に添わなくなるようでしたらメールで、こそっと…。(今は毎日メールチェックするようになりましたから)


柳生真加   2000年 1月25日(火) 19時34分

いま、おかしいなーと思ったら、安倍晴明です。また人名を間違えてしまった。クビになってしまーう。(/_;)(;_;)


第三回   2000年 1月26日(水) 8時13分

 わるもの様
 お加減いかがでしょうか。お大事になさってください。こあくとう様にもよろしくお伝えくださいますよう。ところで、こあくとう様は、もしかしたら女の子? あ、恥ずかしいことをお訊きしてしまった。
 さて、前回にひきつづいて、無名時代の藤田まこと先生ネタでございます。

 藤田まことは十八歳でデビューしました。まだ藤田まことという芸名ではなく、タップ・ダンスという漫才コンビを組んで(ダンスが藤田まことです)、金沢は香林坊にあった立花座で初舞台に立ったといいます。デビューのきっかけは、いつかもお話ししたように藤田まことの父親は映画俳優だったのですが、その楽屋で顔見知りになった人物から誘われて、金沢公演に向かう一座に飛び込んだとのことです。
 タップ・ダンスはこの公演だけで解散しますが、藤田まことはドサ回りの司会者として芸道修行を積み、やがて声帯模写にも手を染めます。たぶん東海林太郎(しょうじ・たろう、と読みます。ご存じないでしょうね。歌手です)の真似なんかをやっていたのだと思います。藤田まことはのちに舞台で東海林太郎を演じることになるのですが、白髪、ロイド眼鏡でタキシードに身を包み、「そーりーのーすーずーさーえ、さびしくひーびーくー」なんて歌うと結構感じが出ていました。
 もっとも、澤田隆治さんは藤田まことの声帯模写について、こんなふうに記しています。

 彼の声帯模写は、自分の声が表面に出すぎてあまり似ないのと、彼の顔は誰の顔にでも似るというには不向きなくらい長かったので、はっきりいってあんまりパッとした芸ではなかった。ただその欠点をよく知って構成に工夫をこらしていたのが彼の声帯模写の特徴であった。

 藤田まことはたしかに声がよく、役者としての素質に恵まれていたといえます。おまけに歌も行けましたから、それが「てなもんや三度笠」でコメディアンとしての大きな武器になりました。むろん歌手デビューも果たしていて、最大のヒット曲は「十三の夜」だったと記憶します。「十三」は「じゅうそう」と読み、大阪にある歓楽街の名前です。「ねえちゃんー、ねえちゃんー、じゅーそーのねえちゃんー」というリフレインが印象的なご当地ソングでした。


大熊宏俊   2000年 1月26日(水) 23時38分

いま、おかしいなーと思ったら、「信太」です。間違えました。

わるものさま、ご主人さま
てなもんやネタですが、私は財津一郎が印象に残っています。たぶん途中から登場してきたのではないでしょうか。浪人だったと思いますが、はて役名を思い出せません。何でしたっけ?
最近もTVで「電話してチョーダイチョーダイ」なんてやってますけど、当時の化鳥のような声で叫ぶ「サビシーッ!」とか「○○して、チョーダイッ!」には異様なインパクトがありましたね。


第四回   2000年 1月27日(木) 9時 2分

 大熊宏俊様
 ATOKでちゃんと「信太」と出てまいりますものを、じつに不注意なことであった、と主人も反省しております。
 ワープロがいかに小説を変質させてしまったか、石川九楊さんが「文學界」かどっかに面白い論考を書いてるらしいんですが、うちの方ではそんな雑誌は売ってないので未読です。お暇でしたら立ち読みしてみてくれませんか。それから、怪優・財津一郎の役はニヒルな怪浪人・蛇口一角。へびぐちいっかく、と読みます。放送開始から四年後に登場した、てなもんやではダントツの名キャラクターです。お得意のギャグは「さびしい」よりは「非常にさびしい」とする方が正確で、右手を後ろに回して左側頭部を痙攣的にかきむしりながら「ヒッジョーニサビシー」と絶叫すると、それはもう日本中の人間が四畳半のたうち回って大爆笑したものでした。
 とのことでございまして、蛇口一角はいずれ「藤田まことてなもんや伝説」で取りあげたいと申しております。

 わるもの様
 例のものでございます。

 たった一人の読者のためにきょうもお届けする「藤田まことてなもんや伝説」。今回も無名時代篇です。
 昭和32年、藤田まことに大きな転機が訪れました。ときに二十四歳。藤田まことは大阪の北野劇場をホームグラウンドとする売れないコメディアンでした。
 前年暮れ、大阪最初の民間テレビである大阪テレビが放送を開始し、この年4月から「びっくり捕物帳」が放送されることになりました。人気漫才師の中田ダイマル・ラケットが目明かしに、森光子が天満与力・来島仙之助の妹に扮して、難事件怪事件を快刀乱麻で解決してゆくストーリーでしたが、来島仙之助に相応しい役者が決まりませんでした。新劇人を物色してもこれといった人材は見当たらず、結局新人を登用することになって、白羽の矢を立てられたのが藤田まことでした。
 澤田隆治さんはこう記しています。

天満与力という動きの少ない侍の役で、加うるに二枚目というに至っては、毎日が冷汗の連続であり、命縮まる思いであった。懸命に演じてはいるが、決してうまくもなく、作者はなるべくセリフを少なく動きを少なくしてボロを出さないように扱った。

 この「びっくり捕物帳」は、日曜お昼の番組ではなかったかと思います。三十分で一話完結だったのかそうではなかったのか、といったことなどなど、詳細はまったく憶えておりません。お寺の鐘が盗まれてさあ大騒ぎ、みたいな話があったようななかったような、かすかな記憶があるばかり。


第五回   2000年 1月28日(金) 9時 5分

 毎度おなじみ「藤田まことてなもんや伝説」でございます。

 「びっくり捕物帳」のレギュラー陣に加わったとはいえ、藤田まことは中田ダイマル・ラケット、森光子というスターの陰に隠れがちな存在でした。それを端的に示すエピソードを、澤田隆治さんが紹介しています。
 この番組で流される出演者のテロップは、最初にダイマル・ラケット、二番目が森光子と藤田まことという順番でしたが、テレビ女優として人気の出てきた森光子サイドから、二番目でいいから一枚テロップにしてほしいとの申し入れがありました。澤田さんは抗しきれず、森光子のテロップから藤田まことが追い出されて、《哀れレギュラーが脇役扱いになってしまった》のでした。
 《
文句をつけることも出来ず、私が「かんにんしてや」と了解をつけると「ええ」と弱々しくうなずいたが、その時、彼の表情を横切った暗いかげりを私は覚えていた》と澤田さんは回想しています。そして、のちに「てなもんや三度笠」の主役として藤田まことを抜擢した際、尻込みする藤田まことを澤田さんはこういって説得することになります。
 「まこちゃん、番組の出演タイトルのトップに、一枚タイトルで出るチャンスだよ」
 昭和33年、在阪の民間テレビ局が増えたのに伴い、この年から34、5年にかけて、大阪コメディが活況を呈しました。「やりくりアパート」「番頭はんと丁稚どん」「とんま天狗」といった番組が人気を呼び、上方お笑い界の立役は漫才師からコメディアンへと移行しました。
 もっとも、森光子が東京に進出し、レギュラーを降りてしまったせいで、「びっくり捕物帳」は次第に人気を失ってついに打ち切られてしまいます。

 本日はここまでとさせていただきます。


長瀬信行   2000年 1月29日(土) 1時26分

ついでに、「てなもんや三度笠」の話で盛り上がっているようですけど、白木みのるも忘れちゃ困ります。


第六回   2000年 1月29日(土) 10時18分

 さて、江戸川乱歩→よるの夢こそまこと→藤田まこと→てなもんや三度笠、という驚異のつながりのもとに営々孜々として綴られる「藤田まことてなもんや伝説」、本日分は次のとおりです。

 「びっくり捕物帳」の放送が終了したあと、藤田まことはCMタレントとして名を馳せ、やがてスターの一人になってゆきます。澤田隆治さんの『私説コメディアン史』から引きましょう。

 そのとっかかりとなったのが内服液のコマーシャルであった。薬をチュッとストローでのんで「あ、きいてきた」というコマーシャルは大いに当たり、人々は「あ、きいてきた」といいながら内服液をのみ、彼のコマーシャルは薬品界に内服液ブームをまねいた一因ともなり製薬会社を大いにもうけさせたが、それと同時に藤田まことをスターの片隅にのし上げた。彼がコマーシャルをしていた番組が、藤山寛美を一躍スターにした「天外の親バカ子バカ」であったことも彼に幸いした。町を歩く彼をみると、人々は「あ、きいてきた」と呼びかけ彼を照れさせ、コメディアン藤田まことはコマーシャル・タレント藤田まこととして世に出たのである。

 内服液というのは、当節でいえばリポビタンDや新グロモントといったたぐいの薬ですが、アンプルに入っていましたから、まずアンプルの先を折り、それから澤田さんのいうようにストローを突っ込んで服用しました。ところで、藤田まことが宣伝していたのがどのメーカーの何という薬であったのか、私にはどうしても思い出せません。ご存じの方はご教示ください。ああ、忘れようとして思い出せない。ぽてちん。鳳啓助でございます。


大熊宏俊   2000年 1月29日(土) 22時 3分

長瀬さん
「ウッドストック」・・・うらやましい。わが家は衛星TV見れないです。
白木みのる・・・こういう芸風というか、存在の芸人は、今日ではもはや出てこれないのでしょうか>タブー?


第七回   2000年 1月30日(日) 8時17分

 さて、どこまでつづくぬかるみぞ、おなじみの「藤田まことてなもんや伝説」はきょうもつづきます。

 これまでは澤田隆治さんの『私説コメディアン史』(1977年、白水社)に依拠して話を進めてきました。きょうは香川登志緒さんの『大阪の笑芸人』(1977年、昌文社)からネタを拾ってみましょう。香川さんは「てなもんや三度笠」の台本をお書きになった方ですが、この『大阪の笑芸人』にも「びっくり捕物帖」のことが記されています。
 ところで、澤田さんは「帳」、香川さんは「帖」を採用していて、どちらの表記が正しいのかはよく判りません。中島河太郎先生の『日本推理小説辞典』を開くと、香住春吾の項には「びっくり捕物帳」とあります。
 香川さんの記すところによれば、「びっくり捕物帖」は二回で一話という構成だったそうで、《前後二回にストーリーを分けた構成をとっているために、大ていの場合は後篇は、謎の解決にあわただしく、前篇ほどの興味はひかれず、笑いの要素も薄まっていた》とのことです。また、藤田まことが演じた天満与力・来島仙之助の役名は、難解な謎で視聴者を『苦しません』、つまり苦しませてやろうとのシャレだったといいます。
 で、香川さんの藤田まこと評はというと。

 はっきりいって藤田の場合は、それまで演劇の素質がなく、役としても役宅の縁側で、ダイマル・ラケットの報告を聞き、腕組をして考えるだけのシーンが多い……森の場合とは比較にならぬ損な役割だったのだが、持って生まれたマスクのよさと、カツラうつりのいいことが、関係者から注目されて、時代劇スターへの芽生えとなった。(「仕置人」シリーズの中村主水は、彼の成長した姿として、大いに意義があるわけだ)

 来島仙之助に始まって中村主水でひとつの結実を見た時代劇役者としての歩みには、さらにもうひとつ、「剣客商売」の秋山小兵衛という役どころが加わることになります。


きょえいあん   2000年 1月30日(日) 13時52分

すみません、藤田まこと話で出戻ってしまいました…。
必殺仕事人シリーズが大好きだったものでして。
先日新聞で「中村主水のフィギアが発売された」という記事を読んだ時には引っくりかえってしまいました。
十手も小判も付属物に入っていて、あぐらをかいて座らせたりも出来るものなのだそうでございます。
わるものさま、おひとついかがでしょう(笑)?


第八回   2000年 1月31日(月) 8時25分

 きょえいあんさま
 藤田まこと先生のネタでここまで深みにはまっている掲示板は、世界広しといえどもめったにないであろうと自負しております。今後ともよろしくお願いいたします。

 さて、本日の「藤田まことてなもんや伝説」、次のようになっております。

 昭和36年、江戸川乱歩の『探偵小説四十年』が刊行された年に、コメディアン藤田まことの存在を全国に印象づけた「スチャラカ社員」の放送が始まりました。「スチャラカ社員」は澤田隆治演出、香川登志緒脚本という黄金コンビが送り出した大阪コメディの傑作ですが、澤田さんはこの番組の背景をこんなふうに説明しています。

 その年(昭和35年──引用者注)の夏ごろに、ふと気がつくと上方コメディは下火になっていた。マスコミは上方コメディの低調さを書きたて、番組はバタバタと消え去った。
 私と香川登志緒のコンビはこの退潮を少しでもくいとめようと、ダイマル・ラケット、蝶々、エンタツのベテランと、藤田まこと、川上のぼる、白木みのる、人見きよし、長谷百合といった若手とのかみ合わせを中心に、あらゆるコメディアンをゲストに加えていく上方コメディアンの総結集版「スチャラカ社員」を企画した。

 当時、上方漫才界の二枚看板といえば、中田ダイマル・ラケットとミヤコ蝶々・南都雄二でした。この二組はまだテレビで顔合わせしたことがありませんでしたが、『総結集版』をめざすスタッフの奔走によって、テレビ局からさえ不可能と見られていた二枚看板の共演が実現しました。もっとも、男前の雄さんこと南都雄二は、健康上の理由によって準レギュラーとしての参加になりました。
 漫才界の頂点にいたコンビに藤田まことら若手コメディアンを配したキャスティングについて、香川さんはこう記しています。

 いま考えてもこのメンバーは、その当時として望み得る最高だったと自負している。

 昭和36年4月、朝日放送の公開コメディ「スチャラカ社員」の放映がスタートしました。


柳生真加   2000年 1月31日(月) 18時 8分

中さん、
>>江戸川乱歩→よるの夢こそまこと→藤田まこと
すごいムチャクチャしてませんか? 人のことは言えないのですが…。


たかしま   2000年 1月31日(月) 21時28分

炸裂で「アセンション」という悲しさよ
炸裂は叙情の中にあり
今日はバラッドを聴きましょう


大熊宏俊   2000年 1月31日(月) 22時 7分

叙情は炸裂の中にあり。
「アセンション」ほど美しい演奏は他にないです。
しかし今日は「クルセ・ママ」にいたしましょう(笑)。


第九回   2000年 2月 1日(火) 7時43分

てなもんや三度笠研究所

 さて、本日の「藤田まことてなもんや伝説」、次のようになっております。

 海山物産。
 これが「スチャラカ社員」の舞台でした。澤田隆治・香川登志緒コンビが漫才師とコメディアンを総動員して大阪コメディの集大成を狙った「スチャラカ社員」は、海山物産のオフィスにセットを固定したシチュエーション・コメディとして、昭和36年4月から六年間にわたって放送されました。日曜正午からの三十分番組です。
 番組が成功した理由として、香川登志緒さんは、キャストの豪華さ以外に、公開録画の会場だった ABC ホールがオフィス街の中心にあった点を挙げています。

 〇時一五分からの収録のため、昼食をすませたサラリーマン諸氏が、大挙押しかけて来てくれて、彼らとしては身近な話題の(ある意味ではユートピア的な)オフィスを舞台としたコメディに共感の爆笑を送ってくれた。

 海山物産の青年サラリーマンに扮した藤田まことは、同じ職場のBG・長谷百合とのコンビで恋人役を演じました。藤田まことが長谷百合に呼びかける「ハセクーン」という科白は、やがて番組のルーティン・ギャグのひとつとなりました。
 ほかにも、たとえば人見きよしには「ほーんとー、ちーとも知らなかったわー」というギャグがありましたが、こんなことを延々と書いていては藤田まことネタからどんどん逸脱してしまいます。すべて割愛して話を進めましょう。
 当時の藤田まことについて、澤田隆治さんはこう記しています。

 昭和三十六年の藤田まことは、新家庭も落ちついて夫婦の愛情もこまやかで、健康は上々、どんな強行スケジュールにもへばることはなく、六十歳をすぎた父も松竹映画の渋い脇役からテレビタレントとして転身し、息子と同じ世界で、テレビに欠ける年代のタレントとして重宝されていたし、彼自身の言葉によれば、「仕事がおもろうて、おもろうて、寝るひまがないのも苦にならへん」という神風タレントぶりであった。

 しかし、藤田まことはまだ主役ではありませんでした。主役を張る機会はそれからさらに一年後、昭和37年に訪れます。それが伝説の超人気番組、「てなもんや三度笠」でした。
 ところで、「てなもんや三度笠研究所」というページがありましたので、お知らせしておきます。上のリンクからどうぞ。

 柳生真加様
 主人がかように申しております。
 炸裂も叙情も逸脱のなかにこそあります。逸脱こそまこと。まことまこと藤田まこと。それに私は、乱歩に関してはまだキャリア四、五年の駆け出しに過ぎませんが、漫才を中心とした大阪コメディに関しては二十年を超えるキャリアを誇っております。二十年を超えるキャリアにおいてブランクが二十年以上もつづいている点が、私という人間の弱点のひとつなわけですが。


第十回   2000年 2月 2日(水) 8時34分

前田のクラッカー

 修行僧のごとく孤高の道を歩む「藤田まことてなもんや伝説」、本日は数えて十回目となります。主人は、インターネットの検索機能を利用して「てなもんや三度笠」のことをどの程度まで調べられるか、それを試しているのだと申しております。ちなみに上のリンクは、その過程でぶつかりました「前田のクラッカー」のページ。「てなもんや三度笠」のスポンサーは前田製菓で、番組冒頭、藤田まことが悪役とからんで退散させ、「おれがこんなに強いのも」と懐からクラッカーの袋を取り出して、「当たり前田のクラッカー」と見得を切るシーンが毎回演じられました。

 「てなもんや三度笠」は昭和37年5月6日から43年3月31日まで、309回にわたって放送されました。先に「37年6月から」と記したのは、澤田隆治さんの『私説コメディアン史』巻末年表に拠ったのですが、これは間違いらしく、同書本文に図版で入れられた最終回のテロップに基づいて訂正しておきます。
 ついでですからそのテロップのデータを写しておきますと、平均視聴率は大阪37.5%、東京26.6%、最高視聴率は大阪64.8%、東京42.9%(ニールセン調査)であったといいます。
 当時、藤田まことは週八本のレギュラーをもつ売れっ子で、それなりに安定した時期を迎えていました。しかし、主役を張るとなると話は違ってきます。藤田まことが当初、「てなもんや三度笠」の話に尻込みしたのも無理はありません。主演した作品が失敗に終われば、脇役としての安定をも失ってしまうからです。
 結局、澤田隆治・香川登志緒コンビとのディスカッションを重ね、先に記した澤田さんの説得もあって、藤田まことは「てなもんや三度笠」への出演を決意します。となると、主役を演じる人間がほかの番組で脇役や端役に甘んじているわけにはゆかず、「てなもんや三度笠」に全力を傾注する意味からも、藤田まことはレギュラー番組を減らすことを余儀なくされました。朝日放送以外のテレビ局は激怒し、あとあとまで藤田まことをつかわなかった局もあったと、澤田さんは記しています。
 昭和37年5月6日、番組がスタートしました。

 一寸おっちょこちょいだが正義感の強い行動性のある男「あんかけの時次郎」は、それまでになかった藤田まことの新しい性格となった。「あんかけの時次郎」は人々に愛され「藤田まこと」も愛された。一人の三下やくざが江戸への旅で人生修業をするという『てなもんや三度笠』の設定は、彼のタレントとしての成長にもピッタリとして、彼は番組と同じ歩調で毎週人気の階段を一段ずつ昇って行った。

 と澤田さんが書いているとおり、藤田まことはてなもんや伝説の階段を一気に駈け昇ってゆきます。


わるもの@病み上がり   2000年 2月 2日(水) 21時52分

お久しぶりです。わるものです。
ご主人さま藤田まことネタ本当に有難うございます(涙)
わるもの、ほくほくです。(*^−^*)こうゆう感じ。
なんですがっ!いいんでしょうか(汗)このままこの
掲示板に書き込んで頂いて…ご好意にずっと甘えてきましたが…。
なんだか気になります。
ついでに愛犬「こあくとう」は男の仔です〜。


第十一回   2000年 2月 3日(木) 8時 1分

沓掛時次郎 遊侠一匹

 わるもの様
 ご平癒の由、何よりでございます。こあくとう様が男の子と承り、なんだか残念な気もいたしますが、ともあれよろしくお伝えください。それから、藤田まこと先生ネタにつきましては、どうぞお気になさらないようにお願いいたします。主人は、
 きっかけはどうあれ、これはいまや私の戦いである。それにだいたい、以前から何度も申しあげているとおり、「人外境だより」には何を書いてもらったっていいんです。テーマにも分量にもいっさい制限はありません。ということを開設者自身が身をもって示すためにも、まあ中には身をもって示し過ぎだとの声もあるにはあるんですが、私はライフワーク「藤田まことてなもんや伝説」に注力している次第です。ですからみなさんも、どうぞ好きになさってください。
 と申しております。

 というところで、上方漫才&大阪コメディモード全開で本日も綴ります、「藤田まことてなもんや伝説」その第十一回。

 台本を担当した香川登志緒さんは、「スチャラカ社員」と「てなもんや三度笠」とを比較して、前者のキャストがベテラン笑芸人の集団であったのに対し、後者は藤田まことや白木みのるといった新人を中心に据えた点、それから、前者がオフィスという固定した舞台設定であったのに対し、後者は毎回違ったセットで演じられる道中記であった点を、両者の差異として挙げています。
 キャストの面でいえば、「てなもんや三度笠」の新人たちには、《当人の持味に頼ったふくらみはほとんど期待は出来ず、「スチャラカ」以上に完成度の高い舞台台本を必要とする上に、可能な限りリハーサルにも時間をかけねばならなかった》というわけです。ここにおいて、台本の分厚さやリハーサルの入念さそれ自体がいまや伝説となっている「てなもんや三度笠」のコメディ作法が確立され、視聴者に受け容れられて、番組の驚異的な人気が形成されてゆくことになります。
 さて、「てなもんや三度笠」で藤田まことが演じたのは、あんかけの時次郎という青年やくざでした。いうまでもなく、長谷川伸の小説、というよりは、それを原作としてくりかえし上演上映された演劇や映画によって、股旅ものヒーローの代表となった沓掛時次郎の名をもじったものです。親分なしの子分なし、一本どっこの渡り鳥というキャラクターは、時代背景や設定をさまざまに変奏しながら再生産され、戦前戦後を通じて幅広い支持を集めつづけていますが、沓掛時次郎を一典型とするその系譜に、コメディ版キャラクターとしてあんかけの時次郎が加わったといえるでしょう。
 上のリンクは、「うつし世リンク」にある「日本映画データベース」で、名匠加藤泰が中村錦之助主演でメガホンを取った傑作「沓掛時次郎 遊侠一匹」(昭和41年)を検索してピックアップしたものです。昭和4年に始まる沓掛時次郎もの映画の一覧もご覧いただけます。
 ちなみに、小林旭が一躍日活無国籍アクションのヒーローに躍り出た斎藤武市「ギターを持った渡り鳥」は昭和34年、潮来の伊太郎という旅烏をデビュー曲の題材に選んだ橋幸夫「潮来笠」は昭和35年、対立するやくざ集団を三船敏郎演じる流れ者の武士が壊滅に導く黒沢明「用心棒」は昭和36年、勝新太郎が盲目のやくざという異色の役どころを得て人気を不動のものにした三隅研次「座頭市物語」は昭和37年、幼い子供の手を引いて飯場を渡り歩く男の哀愁を歌った一節太郎「浪曲子守歌」は昭和38年、全国を転々とする旅芸人の世界に材を取った水前寺清子「涙を抱いた渡り鳥」は昭和39年、中村錦之助に代わる新しい看板として高倉健を押し出した石井輝男「網走番外地」は昭和40年と、『てなもんや三度笠』の放送が始まった昭和37年前後、大衆的なメディアには流離する渡り鳥の影をいくらでも確認することができます。


第十二回   2000年 2月 4日(金) 8時45分

浪曲子守歌

 さてお次は、いまさらなんにも申しません。「藤田まことてなもんや伝説」、その第十二回をお届けいたします。

 合羽からげて三度笠 どこをねぐらの渡り鳥(雪の渡り鳥)
 と歌にもあるように、旅をするやくざの定番スタイルは道中合羽に三度笠でした。あんかけの時次郎もこれを踏襲しましたが、道中合羽は雨や寒さをしのぐものですから着用するシーンはそれほどなく、同様に三度笠も顔が隠れてしまいますから実際にかぶることは少なかったように記憶します。「てなもんや三度笠」のスチール写真を見てみると、三度笠と道中合羽、それに振り分け荷物を片手に携え、手甲脚絆に草鞋履き、着物は尻からげして帯に長脇差を落とし差し、というのが時次郎の旅のスタイルです。
 ところで、番組のタイトルにもつかわれている三度笠ですが、これはもともと三度飛脚が使用したもので、名称もそれにちなんでいます。江戸時代の渡世人が実際にかぶっていたかどうかは不明で、むしろ近代以降の映画や演劇の世界で、旅人をより旅人らしく演出するために付与された小道具であったのかもしれません。それがいつのころからか旅をする渡世人のシンボルとなり、街道を急ぐ三度笠の集団とか、決戦の火蓋が切られていっせいに空に舞う三度笠とかいったシーンが、映画の股旅ものではおなじみの光景になります。
 いずれにせよ、演劇や映画によって蓄積された股旅ものヒーローのイメージを背負って、あんかけの時次郎はブラウン管に登場しました。むろんコメディですから、時次郎はヒーローの倫理や行動原理をひとつひとつ覆してゆきます。たとえば、股旅ものヒーローは女性に対しておしなべて禁欲的な姿勢を貫きますが、時次郎は美女を見るとたちまちやにさがり、「ものすごきれいなねえちゃんやわー」などといいながらすり寄ってゆきますし、悪党相手に威勢のいい啖呵は切っても実戦になれば腕はからっきし、すぐに音をあげて客席の笑いを誘いました。
 さて、ここでひとつ訂正です。きのうの「藤田まことてなもんや伝説」のなかで、一節太郎の「浪曲子守歌」を「幼い子供の手を引いて飯場を渡り歩く男の哀愁を歌った」と紹介しましたが、この歌に登場するのは、
 逃げた女房にゃ 未練はないが お乳ほしがる この子が可愛い
 という歌詞からも明らかなとおり、まだ歩くこともできない乳飲み子です。ですから「幼い子供の手を引いて」というのは適切な紹介ではありませんでした。お詫びいたします。
 どうしてこんな間違いが生じたのかというと、「浪曲子守歌」は昭和41年、千葉真一主演で映画化されているのですが、そのなかに千葉真一が幼い子供と旅をするシーンがあったような記憶があり、それが「幼い子供の手を引いて」という文章を導いたものかと思われます。「日本映画データベース」の「浪曲子守歌」(上にリンクを掲げました)にも子役の名前までは書かれていませんから、いまのところ確認の手だてがなく、このシーン自体が記憶の捏造作用による贋の記憶であって、自分は「浪曲子守歌」など一度も観たことがないのではないか、という気もしてきているのですが。


柳生真加   2000年 2月 4日(金) 16時27分

きょえいあんさん、
佐野史郎主演で京極夏彦の「百物語」(WOWOWだから私は見てない)をやっていて、中身はまるで「必殺仕事人」とのこと。あ、関係ないか…。


第十三回   2000年 2月 5日(土) 9時 9分

徹子の部屋

 それでは、そろそろ主人の錯乱タイムでございますので。

 立春も過ぎていよいよ快調、「藤田まことてなもんや伝説」の第十三回です。
 泉州信太生まれ、つまり現在の大阪府和泉市に生まれ、一人前の渡世人を夢見て草鞋を履いたあんかけの時次郎は、「てなもんや三度笠」第三回目の放送で珍念という少年僧に出会います。珍念は江戸の寛永寺へ使いにゆく途中でしたが、二人はすっかり意気投合しました。時次郎は背が高く顔が長く声が低く、珍念は背が低く顔が丸く声が高く、とお笑いコンビの古典的対照を見事に体現した二人組がここに誕生し、二人は番組終了まで六年間もの長きにわたり、番組挿入歌の歌詞にもあったように「なぜか気が合うウマが合う」名コンビとして旅をすることになります。
 白木みのるも藤田まこと同様、「てなもんや三度笠」で一気にスターの仲間入りをしたコメディアンです。てなもんやシリーズが終わったあと、昭和50年に松竹喜楽座を旗揚げし、座長としておばあさん役を専門に演じましたが、一年ほどで解散、最近はあまり消息を耳にしません。上のリンクは1997年5月、白木みのるが出演した「徹子の部屋」のダイジェストです(わるものさん。このページには藤田まことの写真も掲載されていますから)。
 ところで白木みのるは、おそらくは成長ホルモンに何らかの変調をきたしたせいで、成人しても容貌は少年のままというコメディアンでした。昭和34年、ミヤコ蝶々主演のコメディ「あっぱれ蝶助」に小坊主役で出演したときには「芝居の達者な子役」として注目されたそうですが、「てなもんや三度笠」の珍念役で非常な人気を博し、「白木みのる、人気絶頂(ニンキゼッチョ、と発音されました)」というギャグを連発していたころには、一般視聴者にも白木みのるがれっきとした成人であることは知られていました。
 この白木みのるの肉体的特徴に関して、大熊宏俊君が以前、「白木みのる……こういう芸風というか、存在の芸人は、今日ではもはや出てこれないのでしょうか>タブー?」とお書きでしたが、次回はこの話題からスライドしたネタをお送りします。


大熊宏俊   2000年 2月 5日(土) 17時 7分
The Room for Junkies of Mystery And Hissatsu

珍しく(?)乱歩ネタです(^ ^;
ミステリー作家貫井徳郎さんのHP(上からどうぞ)の《徒然なるエッセイ》のページに「乱歩の見た夢」という文章を見つけましたのでお知らせします。
この一文は、〈波(新潮社発行)95年3月号 ブックプレート〉に掲載された『魍魎の匣』の書評の由。
念のため『乱歩文献データブック』にあたりましたが、見あたらないようです。
内容は、『魍魎の匣』をもし乱歩が読んだら随喜の涙を流して喜んだに違いないとして、その理由を述べているのだけれど、貫井氏の乱歩理解は、天城さんのそれに非常に近いものです。そういう観点から乱歩に引き寄せた『魍魎の匣』評も説得力があると思いました。
なお、貫井さんは、「藤田まこと伝説」に、いずれ言及される(かも知れない)「必殺シリーズ」の中毒者らしい(笑)。


第十四回   2000年 2月 6日(日) 9時13分

お笑い人名辞典

 大熊宏俊様
 ご教示ありがとうございました。さっそくアクセスしてみましたが、なぜかつながりませんでした。のちほどもう一度試してみます。それから、藤田まこと先生ネタは「てなもんや三度笠」がメインで、必殺シリーズにはちょこっと触れるだけになるとのことでございます。

 というわけで、『藤田まことてなもんや伝説』、本日は第十四回でございます。

 きのうの白木みのるネタからスライドして、きょうはちょっとしたインテルメッツォとなります。
 往年の大阪コメディ「番頭はんと丁稚どん」に登場したあほこそが現代の放送界ではタブーに触れるのだというお話を、赤坂憲雄さんの『排除の現象学』(1995年、ちくま学芸文庫。親本は1991年刊)から引きます。「番頭はんと丁稚どん」は花登筺が台本を手がけた人気番組で、主演の大村崑は崑松という頭の足りない丁稚を演じました。その大村崑がタモリの『笑っていいとも』にゲスト出演したとき、赤坂さんはたまたまそれを視聴していたそうです。そして──

 当然のように、大村とタモリとのあいだでは、『番頭はんと丁稚どん』の少年役のことがひとしきり話題になった。その終わり近くであったか、たいへん印象深い会話が交わされた。すでに記憶は曖昧なのだが、大村はたしか、いくらか淋しげな表情でこんなことをふと洩らした、でも、いまはもう、あの役を演るのは無理ですねぇ、と。タモリはそれにたいして、そうですねぇ……と短く応じた。そして、二人はどこか感に堪えぬといった風情でうなずきあったのだ。ほんの十秒足らずの時間であったはずだが、テレビというメディアが思いがけず晒けだして見せた素顔として、あるいは、みずからの秘せられた歴史を言葉少なにものがたったひと齣として、わたしのなかに奇妙に尾を曳いて残った。
 大村崑という俳優にとっては、『番頭はんと丁稚どん』の少年役は俳優として自他ともに認知された、忘れがたい当たり役であったにちがいない。大村は俳優として、あの役柄にすくなからず誇りを抱いているはずだ。にもかかわらず、三十年という歳月を経て、それがもはや演じることを許されぬ異形の役柄となってしまったことを、ある切ない痛みとともに自覚している。そんなことを、私は勝手に想像した。当たっているのかいなか、むろん確認する術はない。
 頭の足りない、知恵遅れ、精神薄弱、知能障害……、なんと呼ぶべきなのか言葉を探しあぐねるが、とにかくちょっとした障害をもち側頭部にまあるい禿げのある少年は、そのとき愛すべき主人公(ヒーロー)であった。三十年足らずの昔のことだ。時代は大きく変わった。「ええ、毎度、馬鹿馬鹿しいお笑いを」という冒頭の切り口上が、馬鹿な人たちに悪いとかで敬遠され、テレビで古典落語を放送するのがむずかしくなりつつあり、つい最近では、「世の中、馬鹿が多くて疲れません?」と桃井かおりが呟くCMに、やはり馬鹿な人に申し訳ないと抗議電話が殺到して放映中止になってしまうという、この不思議の時代には、たしかに、あの頭の足りない無垢なる少年が輝かしい主人公の座を保つことはできそうにない。主人公の座どころではない。落語のヨタローも『番頭はんと丁稚どん』の少年も、テレビという日常の地平から永久追放されてしまったのだ。
 かれらの愛すべき姿は、わたしたちの視界のそとに、人々のヒューマニズムあふれる善意によって真綿にくるまれ、丁重に追いたてられた。わたしたちはもはや、誰ひとり、少なくとも表向きはかれらをいじめたり石つぶてを投げたりはしない。子どもだって、それがいけないことだというくらい承知している。と同時に、かれらはもはや、いかなる場合であれ主人公ではありえないし、子どもらの愉快な仲間や隣人ではない。

 以上、「終章 失われたヒーロー伝説」から「丁稚はんはどこへ行ったのか」の一部を引用しました。
 本日のリンクは、「ライブオン葡萄館」というページにある「お笑い人名辞典」の「お」のページ。大村崑が紹介されていて、大泉滉、大宮敏充、小野栄一なんて項目もあります。大泉滉とか、その父親の大泉黒石とか、ご存じの方は少ないでしょうけれど。


大熊宏俊   2000年 2月 6日(日) 13時25分
The Room for Junkies of Mystery And Hissatsu

urlに重複部分がありました。訂正しましたので、跳べると思います。失礼しました。


第十五回   2000年 2月 7日(月) 9時32分

60年代の TVCM

 さて、おなじみの「藤田まことてなもんや伝説」でございますが、主人はきのう忙しくしておりまして、ネタの仕込みが思うに任せなかったと言い訳しております。

 十五回目のきょうは、『60年代通信』というホームページをご紹介して責を塞ぐことにします。上のリンクは、そのページにある『60年代の TVCM』。いつかもお話しした『てなもんや三度笠』のオープニング、藤田まことが「おれがこんなに強いのも」と見得を切る CM が八枚の写真で紹介されています。わるものさんはじめ藤田まことファンにとってはまさにお宝画像でしょうし、当時を知る人にとっても「ああ、懐かしい」と思っていただけるページでしょう。ちなみに、藤田まことの相手役は原哲男だと判断されます。


第十六回   2000年 2月 8日(火) 8時24分

 つづきまして、「藤田まことてなもんや伝説」、第十六回をどうぞ。

 「てなもんや三度笠」の第一回放送は、関西での視聴率が7.7%だったといいます。5か月後には15%前後に伸びましたが、まだ広く全国に浸透するというほどではありませんでした。しかし、慧眼の視聴者のあいだでは、このまったく新しいタイプの大阪コメディは確実に注目を集め始めていました。
 当時、ミステリ小説をはじめB級映画やボードビルまで幅広いジャンルを対象に鋭い批評の目を注いでいた小林信彦さんは、「てなもんや三度笠」を正当に評価した最初の批評家であったと思われます。放送開始から5か月たった昭和37年10月8日の毎日新聞に、小林さんは中原弓彦名義でこんな文章を発表しています。

 朝日放送のアチャラカ“スチャラカ社員”は番組そのものも面白いが、藤田まこと・白木みのるという、二人の快タレントを世に送った。この二人が共演する朝日放送の「てなもんや三度笠」は、関西風のアチャラカとスラップスティック趣味がまじった、今のテレビ・コメディ中、最も笑わせる番組だ。ここで藤田まことは、アンカケの時次郎という渡り鳥にふんする。回によって出来不出来はあるが、作者とタレントが、劇のルテイン(約束事)を逆用して、自己批判をする部分が最も精彩を放つ。流行のコマーシャルのキャッチフレーズをもじったりして、往年のパラマウントの珍道中映画のような気分をかもし出す。ドタバタの立廻りで大衆を笑わせ、楽屋落ちでハイブロウな視聴者を笑わせるという二段作戦に成功しているのである。ここにテレビ・コメディの新しい芽がある。

 演出を担当した澤田隆治さんは、この記事に接したときのことを、

 これを読んだ時の、私が番組で狙っていることを的確に判ってくれる人がここにいるという思いが、どれほどの自信を私に与えてくれたことか。

 と記しています。小林さんは翌38年、『洋酒天国』1月号の『笑いの国の神様たち』でも渥美清と藤田まことをとりあげますが、澤田さんはその文章に関しても、

 まさしく中原弓彦は、藤田まことを発見したのである。十数年たったいま、この二人をとりあげている中原弓彦の批評眼の確かさに敬服するほかはないが、私も、その人に見いだされた幸せをしみじみと感じる。

 と、慧眼の批評家との幸福な出会いを振り返っています。


人外境番犬   2000年 2月 9日(水) 9時 9分

 おはようございます。名張には雪が残っております。きのうは名張の「えべっさん」、つまり名張市鍛冶町に鎮座します蛭子(えびす)神社のお祭りでございましたが、寒くて寒くてたいへんでした。この寒さは奈良・東大寺二月堂のお水取りが終わるまではつづくのだと、当地では古来いいならわされております。

 どうもあいすみません。主人じつは「えべっさん」で飲み過ぎまして、二日酔いでございます。「藤田まことてなもんや伝説」は、中原弓彦さんの『日本の喜劇人』をネタとしてお送りする予定でございましたが、本日はお休みとさせていただきます。申し訳ございません。


第十七回   2000年 2月11日(金) 9時 5分

 それでは、お休みがつづきました「藤田まことてなもんや伝説」、第十七回でございます。

 小林信彦さんが1972年、中原弓彦名義で出版した『日本の喜劇人』(晶文社)は、コメディやコントをはじめとした日本の「お笑い」を扱った類書のなかで、まず抜きん出た名著であると思われます。たとえばコント55号をとりあげて「イヨネスコ的世界」といとも明晰に喝破してしまう批評家を、私はほかに知りませんでした。私が芸人の道を志したのは、この本から受けた感銘がきっかけであったといっても過言ではありません。私はいまも、自分が所蔵している「日本の喜劇人」がどこの本屋にどのように並べられていたか、その光景をはっきりと記憶しているほどです。のちに増補を経て新潮文庫に入り、いまでも簡単に入手できるはずですから、興味がおありの方は直接あたっていただくとして、この名著にも「てなもんや三度笠」のことは記されています。「大阪の影──『てなもんや三度笠』を中心に」と題された第九章がそれにあたります。
 第一章は古川緑波、第二章は榎本健一と、小林さんが『間に合った』コメディアンの記述に始まった本書は、時代が進んで、小林さんがじかに接する機会のあったコメディアンを描写するあたりになると、いよいよ精彩を放ち始めます。小林さんは「まえがき」で、《私は、要するに、自分の眼で見たものしか信じられぬたちなのである》と書き、《芸人への賛嘆は、その芸人への幻滅の果てにくるものではないだろうか》とも記していますが、小林さんが自分の眼で確認した芸人たちの姿が、裏も表も含め、賛嘆も幻滅もともどもに、卓越した批評眼と平明達意な文章とによって、読者の前に生き生きと立ち現れてくるからです。この本のなかに自分が間に合った「スチャラカ社員」や「てなもんや三度笠」を発見した私は、それらの大阪コメディが放送されていた時代にタイムスリップしたかのような錯覚さえ覚えました。


人外境番犬   2000年 2月15日(火) 7時29分

 というところで、お休みがつづきました「藤田まことてなもんや伝説」でございますが、
 「うっかりしてネタ仕込むの忘れとった」
 と主人が申しておりますので、本日もお休みとさせていただきます。どうも申し訳ございません。
 「くーもといーっしょに、あのやまこーえーてー、やったかな、てなもんやの主題歌は、ゆけばかーいどーは」
 歌っております。


第十八回   2000年 2月16日(水) 7時38分

おんがく日めくり

 おはようございます。久々の「藤田まことてなもんや伝説」、本日は第十八回でございます。

 いまにし思えば、昭和三七、八年は、テレビの黄金期だったようだ。

 小林信彦さんは『日本の喜劇人』にそう記しています。まさにそのとおり。少なくともお笑いに関しては、

 月曜の六時から『てなもんや』を見て、六時半から、これも当時、最高潮の『シャボン玉ホリデー』を見るというのが、流行であった。

 といった具合に、文字どおりのゴールデンタイムが現出されていました。ちなみに、てなもんやもシャボン玉もともに日曜の放送でしたから、上の引用に「月曜の六時から」とあるのは誤植だと思われます。
 「シャボン玉ホリデー」は、ハナ肇とクレージー・キャッツならびにザ・ピーナッツを擁して昭和36年に放送が始まり、クレージーのコントで人気を集めたバラエティ番組です。たとえば志村けんあたりはこの番組をギャグの水源のひとつとしており、彼が見せた「変なオジサン」ネタは、植木等が「シャボン玉ホリデー」で大当たりをとった「お呼び」ギャグのリメイクだといっていいでしょう。
 『日本の喜劇人』にはその「お呼び」ギャグのいくつかが記録されていますので、二、三ご紹介してみましょう。

 菊池寛の『父帰る』。息子たちにののしられた父親が、家を出るとか出ないとかで、一家総泣きのところに、ニュースショーの司会者(泣きの木島則夫)=植木等=が入ってくる。
 植木も泣き出して、
 「司会の私まで、思わず、貰い泣きしてしまいました。ご苦労なさったのですねえ。ソ連から引き揚げて十数年……」
 シラけた周囲にふと気づいて、
 「お呼びでないですネ? お呼びでない。こりゃ、また、失礼をいたしました」と頭を下げ、全員、ひっくりかえる。

 しかし、泣きの木島則夫とかソ連からの引き揚げとか、あるいは「父帰る」とか、ご存じない世代にはあまりピンと来ないかもしれません。それでは、時代背景やなんかあんまり関係のない「お呼び」ギャグ。

 台風シーズンで、停電。ザ・ピーナッツがようやくローソクをつけると、植木等が「ハッピイ・バースディ・トウ・ユウ」とうたいながら現われ、「いやー、お誕生日おめでとう」とロウソクを吹き消してしまい、「お呼びでない?」のせりふになる。

 もう一発。

 首吊りをしようとした男が木にナワをかけると、ターザン姿の植木が現われ、ナワにつかまって叫び声をあげ……以下、「お呼び」のせりふになる。

 うーん。こんなことばかりお話ししてると本当に押しも押されもせぬ「おっさんの泉」ですが、とにかくあの時代、お寺の鐘がごーんと鳴って観音開きの扉から藤田まことが登場する「てなもんや三度笠」のオープニングに始まり、ホーギー・カーマイケルの名曲「スターダスト」を歌うピーナッツ、その背後にハナ肇が登場し、テレビ視聴者に別れの挨拶をするが、最後はなぜかピーナッツをタヌキ呼ばわり、ムッと来たピーナッツに肘鉄を食らわされたハナ、ほっぺたを膨らませて眼を白黒させながら退場、という「シャボン玉ホリデー」のエンディングに終わる一時間は、まさしくテレビの黄金期を象徴するような時間帯であったかもしれません。
 と、しみじみしたところで、上のリンク「おんがく日めくり」でカーマイケルの「スターダスト」でもお聴きいただきましょうか。藤田まことには何の関係もない話題で、どうも申し訳ありません。


第十九回   2000年 2月17日(木) 8時 9分

 それでは、「藤田まことてなもんや伝説」第十九回でございます。

 小林信彦さんの『日本の喜劇人』に依拠しながら、「てなもんや三度笠」の出演陣を確認してみます。というのも、私自身の記憶はまったく頼りにならないことが判明したからです。番組のキャストやシーンを思い出そうと努めてはみたのですが、忘却の霧のなかからかすかに浮かびあがってくるのは、たとえばお祭りの宵宮の夜、名張市は丸之内にあった友だちの家で秋刀魚をご馳走になりながら「てなもんや三度笠」を観た思い出、みたいなのばっかりです。これではお話になりません。
 「てなもんや三度笠」は藤田まこと・白木みのるという新人コンビが主役ですから、脇役やゲストが番組の鍵を握ることになります。第一回の特別ゲストは伴淳三郎で、堺駿二も顔を出しました。《有名なコメディアンの出演が初めのうちは売り物であった》と小林さんは記しています。
 第三話で白木みのる扮する小坊主・珍念が加わり、時次郎・珍念のコンビが誕生。さらに、桂小五郎から江戸の西郷隆盛にあてた密書を託された三四郎と浪路が登場します。三四郎は入川保則、浪路は山東昭子が演じました。
 この番組における出演陣の妙について、小林さんはこんなふうに述べています。

 初めは、脱線トリオ(バラバラに出ていた)あたりが目玉だったのだが、やがて、(その年の秋ごろから)大阪のタレントを東京に紹介するという珍しさが番組の魅力になってきた。

 公開録画形式におけるスラップスティック喜劇の確立とともに、『てなもんや』の果した功績は、私たちが名も知らぬ関西の珍タレントをつぎつぎに紹介した点にある。

 本日はここまでといたします。


第二十回   2000年 2月18日(金) 9時 6分

 「藤田まことてなもんや伝説」第二十回をお送りします。

 藤田まこと・白木みのるとともに「てなもんや三度笠」に出演し、準レギュラー的な役どころでブラウン管を駆け回ったコメディアンたちを、小林信彦さんは次のように記録しています。

 脱線トリオ
 堺駿二
 石井均
 平参平
 浅草四郎・岡八郎
 ルーキー新一
 唄子・啓助
 芦屋雁之助・小雁・雁平
 財津一郎
 横山やすし・西川きよし
 てんぷくトリオ
 水前寺清子

 ほかに、中尾ミエ、いとし・こいし、平和ラッパ、漫画トリオ、佐山俊二など、「ちょっと出た」のまで含めると「きりがない」状態だそうです。
 コメディアンのみならず、当時の人気歌手を動員するのも「てなもんや三度笠」の手法でした。香川登志緒さんは《「てなもんや」三部作を通じて、わたしの残した足跡の一つに、《
異色タレントの交流による豪華なおもしろさ」があった》と振り返っています。そして、《「てなもんや」はそれまでのテレビコメディにはなかったバラエティ式要素があった》として、

 映画や舞台でおなじみの「傘と合羽の股旅もの要素」「ローレル=ハーディ的スラップスティックの要素」「ボブ・ホープとビング・クロスビーの珍道中もの的ミュージカル要素」エトセトラ、えとせとら、etc。
 この貪欲な各種の要素を、三〇分という枠内で、不充分ながらも表現したのが、成功の最大の要因である。

 と述べています。


第二十一回   2000年 2月19日(土) 9時51分

 さて、数えて二十一回目の「藤田まことてなもんや伝説」でございます。

 香川登志緒さんが指摘していたとおり、「てなもんや三度笠」のスタッフはコメディのさまざまな要素を貪欲にとりいれていました。その一例を、これは私が直接記憶していることではなく、笑芸作家の織田正吉さんからお聞きしたことなのですが、以下に記しましょう。
 あるときスタッフは、アメリカ式スラップスティックの定番ギャグ、パイ投げをやってみようと思いつきました。一人の人間の顔になぜかパイがぶつけられたのをきっかけとして、ついには登場人物全員が周囲の人間に誰彼かまわずパイを投げまくるという無政府状態を現出させるのがパイ投げです。
 しかし、幕末を舞台とした「てなもんや三度笠」にパイを登場させることには無理がありますから、かわりに蕎麦を用いることにしました。蕎麦投げです。たぶん蕎麦屋を舞台にした台本が書かれたのでしょう。公開録画の本番を迎え、ラストでは敵味方入り乱れて、ちぎっては投げちぎっては投げの蕎麦投げによる大立ち回りが演じられました。
 この回が放送された日、番組が終了すると同時に、テレビ局には視聴者からの電話が殺到したそうです。そしてそのいずれもが、
 「食べものを粗末にするな」
 という抗議の電話だったといいます。高度経済成長期のエピソードのひとつです。


第二十二回   2000年 2月20日(日) 10時 7分

藤田まこと

 名張は雪でございます。
 雪にも負けずつづきます「藤田まことてなもんや伝説」でございますが、このところ藤田まこと先生の出番が少ないではないかとおっしゃる皆様のために、上のリンクに先生のフィルモグラフィをご用意させていただきました。

 今でこそ、どのチャンネルを廻しても、歌手がコメディアンはだしでしゃべり、コントを演じたりしているが、「てなもんや」以前には(少なくとも大阪に関しては)人気歌手がコメディに登場して、芝居をするというようなことは、皆無といってよかったのだ。

 と香川登志緒さんは書いています。
 上方漫才からミュージカルまでバラエティの幅広い要素を貪欲にとりこんだ香川登志緒さんの台本と、それを的確に読み込んで出演者の芸を巧みに引き出してゆく澤田隆治さんの演出(小林信彦さんは「てなもんや三度笠」の成功に関して、《ローカリズムの芸が、演出によってインターナショナルなものにまで突き抜けたのである》と指摘しています)、そして藤田まこと・白木みのるの周囲に多彩なコメディアンを配した豪華なキャスト、さらには人気歌手のゲスト出演という新しい趣向まで盛り込んで、「てなもんや三度笠」は大阪コメディの新しいパターンを創造しながら全国的な人気を獲得してゆきます。
 「てなもんや三度笠」が大阪ローカルにとどまらず、東京の人間の目も急速に釘付けにしていった過程を、小林信彦さんの文章から引いておきましょう。

 私が『てなもんや三度笠』(朝日放送)というフシギな番組に気づいたのは、昭和三七年の初夏ごろであった。
 これは、なんというのだろう。藤田まこと(あんかけの時次郎)と白木みのる(珍念)の旅というのが、いちおうのストーリーとはいえるものの、主役というより司会者に近く、見せるのは、むしろ、ゲストのドタバタ芸と楽屋落ちであった。そのドタバタがスピーディなのが、大阪的でないように思われた。
 毎回、セットは一つなのだが、そのなかで、ときとして狂ったような光景が展開する。八波むと志の近藤勇、由利徹の国定忠治、南利明の鼠小僧が追っかけをやったときは、舞台がこわれんばかりであった。
 私のほかに、早くからこの番組に着目していたのは、ジャズ評論家の油井正一さんである。
 「おもしろいねえ。あれが関西のドタバタですよ」
 大阪出身であり、スラップスティック・コメディの通でもある油井さんは、あうごとに喜んでおり、葉書までくださった。


第二十三回   2000年 2月21日(月) 10時 3分

天才伝説 横山やすし

 さて、
 「あ。また雪やがな」
 と主人が驚いておりますが、お天気には関係なしに「藤田まことてなもんや伝説」、本日は第二十三回でございます。

 『日本の喜劇人』に収録された佐藤信さんとの対談で、小林信彦さんは日本の喜劇や喜劇人に関する資料のなさを嘆いています。

 資料というのが、まったく、ないんですね。大阪なんていうのは、実際、年譜をつくるだけでくたびれ果てちゃう。

 この状況には現在もあまり変化がなく、東京より大阪のほうがさらにひどいという事実も変わっていません。たとえば東京の「シャボン玉ホリデー」の関連書には、青島幸男さんの『わかっちゃいるけど…──シャボン玉の頃』、五歩一勇さんの『シャボン玉ホリデー──スターダストを、もう一度』といったところがありますが、大阪の『てなもんや三度笠』にはそれに類する本が見当たりません。澤田隆治さんや香川登志緒さんの著書の一部が、みずから演出や台本を手がけた『てなもんや三度笠』の記述にあてられているといった程度です。
 たとえば一か月前、漫才作家・足立克己さんの訃報が報じられましたが、朝日新聞(大阪本社発行)はその続報として、足立さんの遺稿に「秋田實外伝」があることを伝えていました。しかし、この遺稿を刊行するべく奔走する出版社も編集者も、いまの大阪には存在しないのではないかと思われます。
 いきなり私事にわたりますが、私は妙な行きがかりから名張市立図書館乱歩資料担当カリスマ嘱託を拝命し、四年あまりの日月を閲しました。もしも図書館の嘱託になっていなかったら、乱歩という作家にかくも深入りすることはなかったでしょうし、ホームページを開設することもなかったと思います。しかし、もしも自分が乱歩とは関係ない立場でホームページをつくっていたら、と仮定してみると、そのメインは江戸川乱歩データベースではなくて秋田實データベースになっていたはずです。もしかしたら私は、足立克己さんのご遺族になんとか談じ込んで、足立さんの遺稿をホームページで公開させていただくべく奔走していたのかもしれません。
 秋田實って誰? とおっしゃる方は、手近な辞書にあたってご覧になることです。もっとも、「秋田實」という項目を欠いた辞書がきわめて多いものですから私はまた腹が立つ。私が三省堂の『大辞林』を常用しているのは、『広辞苑』が黙殺した秋田實をきちんと立項しているという一事に拠っています。岩波のばーか。
 ともあれ、乱歩にここまで深入りしてしまったのですから、私が秋田實データベースに着手することは、少なくとも今生においては不可能でしょう。
 と、ここまで書いてからふと気になって、インターネットで「秋田實」を検索してみたところ、小林信彦さんの『天才伝説 横山やすし』を富岡多惠子さんが紹介するという三題噺めいたページが見つかりましたので、上のリンクに掲げました。ちなみに富岡さんには、現在のところ秋田實の唯一の評伝である『漫才作者 秋田實』という著書があります。
 あっ。
 いま、東の江戸川乱歩と西の秋田實、探偵小説と近代漫才の基礎を築いたこの二人のモダニストを、四の五のいわず名張人外境で一手に引き受けてしまおうか、という考えが一瞬頭をよぎり、私は水を浴びた犬のように大きく胴震いして、その考えを振り払ったところです。まったく、なーにとんでもないこと考えてんだか。
 思わぬ道草を食ってしまいました。つまり私が何を述べたいのかというと、「てなもんや三度笠」の出演者が「てなもんや三度笠」について語った資料もまた、私見の限りではまったくといっていいほど残されていないという事実です。ほとんどただひとつの例外ともいうべき由利徹の証言を、高平哲郎さんの『由利徹が行く』からご紹介しましょう。
 というところで、あすにつづきます。


第二十四回   2000年 2月22日(火) 7時48分

 といったところで、「藤田まことてなもんや伝説」でございます。

 由利徹の「オシャマンベ」というギャグをご存じの方も、いまでは少なくなっていることでしょう。ビートたけしでいえば「コマネチ」に相当するネタです。オシャ、でいったん切り、マンベ、といいながら股をおっ開くときれいに決まります。一度お試しください。
 高平哲郎さんが由利徹の聞き書きをまとめた『由利徹が行く』(1981年、白水社)で、由利徹はこのギャグの由来をこんなふうに語っています。

 “オシャマンベ”ね、あれは健さんの『網走番外地』で長万部へ撮影に行ったでしょ。あそこは人もいいし旨いもんもあるし、いいところだなと思っているから、ちょっと宣伝してあげなきゃってわけで、オシャマンベ、オシャマンベってお世辞言ってたわけだよ。オシャマンベ(マンベに傍点──引用者註)とマンベを強く言うとなんとなく猥褻に聞こえる。

 なんとなく、どころではなくて、明確に猥褻でした。

 NHK ではね、つい最近またやってくれって言われたんでリハーサルでやってみたら「やっぱり地名は勘弁してくれ」ってことになって“北海道”ってやったの。面白くもなんともなくなっちゃった。

 世界最高峰のエベレストは、チベット語では「チョモランマ」と呼ばれます。どういう設定のコントであったかは忘れましたが、チョモランマ登山隊が頂上を征服したシーンにいきなり由利徹が登場し、「オシャ、マンベ」の要領で、
 「チョモ、ランマ」
 と股をおっ広げたのには腹を抱えました。
 ところで、エベレストはネパール語では「サガルマタ」と呼ばれます。これを「オシャ、マンベ」ふうに「サガ、ルマタ」とやってみてください。きょうの宿題です。

 本日は以上でございますが、主人はいったい何を考えておりますものやら、これではまるっきり「由利徹オシャマンベ伝説」ではございませんか。どうも申し訳ございません。


第二十五回   2000年 2月23日(水) 8時56分

 それでは、「藤田まことてなもんや伝説」の第二十五回でございます。

 きょうも由利徹ネタです。
 由利徹、八波むと志、南利明。この三人が脱線トリオでした。脱線トリオのブームはいったん下火になりますが、「てなもんや三度笠」で人気が再燃します。そのあたりのことを、由利徹はこんなふうに語っています。

 うーんウケたねえ。でも俺たちね、関西へ行くってのは他流試合だしね、緊張したね。行ってみて「なんだ、たいしたことない」って思ったけどね。「なんだ」って言うのはさ、キャリアあるから言えんだよ。ポッとテレビだけで売り出して大阪に行ったら、そりゃ恐いよ。
 香川登志緒さんの台本で、澤田隆治さんが演出してたんだよね。やっぱりテレビ・コードがさ、いまより楽じゃなかったからね。いまマンガにしろ何にしろ“ポコチン”だって平気。あの当時キツかった。俺たち、そのギリギリの線で行くのが上手かったんだな。あの当時、本当の芝居でギャグで笑わしてたから、お色気とかなんとかやらなくてもよかったんだよ。いま苦しまぎれに下ネタのほうへ行っちゃうけどね。あの頃は、ちょっと下ネタを言い出すと、三人のうち誰かが止める。その止める瞬間がおかしいんだよな。
 いや、しかし、俺は大阪弁てのは、あまり聞きなれなかったから、あの当時は辛かったよ。違う国に来て演ってるようなもんだったからね。

 「てなもんや三度笠」は、由利徹という傑出したコメディアンの長い芸歴のなかでは単なる出演番組のひとつに過ぎませんから、『由利徹が行く』における言及もごくわずかです。しかし、というか、それゆえに、由利徹はこの番組の成功の要因を短く鋭く指摘しています。

 やっぱり澤田さん、あの当時は天皇だったから、よく上手くさばいてくれたよ。台本はしっかりしてたよ。ストーリーもね。ネタがとにかくしっかりしてたからね。『てなもんや』に関しては、確かにしっかりしていたね。
 稽古稽古でリハーサルがきつかった。その日行って、夜七時頃着いて、朝の三時四時まで稽古びっしり。それで翌朝の七時半頃からリハーサルやって、十二時半頃から公開で見せる。一本撮りですよ。ビル街の昼休みだったんで客も良かったね。公開放送は客が良くないと、演るほうつまんないからね。だったら客がいないほうがズッといいよ。

 しっかりした台本と「天皇」による演出、入念な稽古と的確に反応する観客、コメディアンなら誰でも夢想するこうした要素を舞台上に実現したのが、「てなもんや三度笠」という大阪コメディでした。


第二十六回   2000年 2月24日(木) 8時 0分

財津一郎

 「やあ、みなさん、お元気ですかッ」
 と、主人はきょうも朝から意味もなく元気でございますが、例によって「藤田まことてなもんや伝説」をお届けいたします。

 由利徹のほかにも「てなもんや三度笠」を支えたコメディアンは数多く存在しますが、この番組で最も強烈な印象を残したのは吉本新喜劇出身の財津一郎でしょう。ニヒルな怪浪人・蛇口一角に扮し、オーバーで鋭角的な動きと「○○シテチョーダイッ」だの「ヒジョーニサビシイッ」だのというギャグで大受けしたコメディアンです。しかしこの蛇口一角は、あまりにも個性的なキャラクターゆえに好き嫌いが分かれたらしく、《のちに、香川登志緒は台本で毎回、彼を殺し、沢田隆治は毎回、生き残るように直した》と小林信彦さんは書いています。
 蛇口一角の登場は昭和41年6月で、放送開始から四年後、放送終了まで二年たらずという時期にあたっていました。特異なキャラクターの登場には、番組の活性化という狙いがあったのかもしれません。「てなもんや三度笠」は高い視聴率を維持し、番組の人気そのものは持続していたものの、内容はゆるやかな下り坂をたどりはじめていました。

 『てなもんや』がもっとも冴えていたのは、主要な人物が江戸に着くまでであったと思う。番組のラストの殺陣、屋台崩し、といったフォーマット(形式)はこの期間がすぐれ、流行歌手をやたらに登場させたころからは、内容が視聴率にふりまわされ始めた。
 それにしても、河内弁の多い会話の番組が、日本じゅうで愛されたというのは、稀有なことである。

 と小林信彦さんは述べています。
 上のリンクは財津一郎のフィルモグラフィです。どうもネット上には、『てなもんや三度笠』やそこに出演したコメディアンに関して、ろくな情報がないようです。


日夏 杏子   2000年 2月24日(木) 15時51分

はじめまして。
あれは、一昨夜のことでしたでしょうか。アレキセイ様が、電話で「人外境だより」の掲示板で今すごいものが連載されているとおっしゃってましたが、なんと、まあ。
妾は、ただただ、言葉をなくすのみです。
「鏡地獄」とSFの関係についっては、面白かったですが、なんなのでしょうか。この「・・・・・伝説」は。


人外境番犬   2000年 2月25日(金) 8時48分

 日夏杏子様
 どうもおたよりありがとうございました。
 開設以来四か月にして「あんな入りづらい掲示板は見たことがない」という不動の評価を頂戴しております「人外境だより」、ほかにも「おっさんの泉」ですとか「何かがうねってる」ですとか「ばーか」ですとか、さまざまなお言葉をいただいておりまして、穴があったら入りたい毎日でございます。
 それだけにご来信は何よりありがたく、しかしせっかくご覧いただきましたのにまあうちの主人が馬鹿なことを連載しておりまして、まことにどうも申し訳次第もございません。
 主人も次のとおりお詫びしております。
 いやどうもすみません。やっぱポコチンがいけなかったですか。いや、ポコチンだけの問題でもないか。うーん。困ったな。困ってしまいましたけど、「藤田まことてなもんや伝説」はそろそろ終盤ですから、もうしばらくのご辛抱です。ただ、先日なぜか「由利徹オシャマンベ伝説」が紛れ込んできたみたいな感じで、「藤田まことてなもんや伝説」から「秋田實モダニスト伝説」にスライドしてしまう可能性はあり、しかしそれよりもまず「江戸川乱歩モダニスト伝説」にもう少し筆を費やすべきかな、ああ、そうだ、「乱歩小説の定義と類別」も片付けなければならないんだ、と苦慮しております。それにしても、怒濤の二大連載を掲げた掲示板なんて、あんまり例がないんでしょうね。「人外境だより」がこの先どうなっていくのか、私自身にもまったく予想がつかなくて、それが楽しみでもあるのですが、日夏杏子さん、ひとつだけここにお約束しておきましょう。もう二度とポコチンとは書きません。いやどうもすみません。26日の大宴会で、あんまり私をいじめないでくださいね。

 「藤田まことてなもんや伝説」は、このまま終盤に持ち込むか秋田實先生のことに筆を進めるか、そのあたりを考えてみるために本日はお休みです、とのことでございます。まことにどうも申し訳ございません。


日夏 杏子   2000年 2月26日(土) 2時30分

人外境番犬さま
眠れぬ夜のつれづれにまかせ、バック・ナンバーを拝見させていただいておりましたが、なんと、まあ、色々なことがおこっている掲示板でございますね。
妾は、城下町金沢の出身なのでございますが、まさかあの「はぐれ刑事純情派」の印象しかなかった藤田まことが、金沢でデビューしていたとは・・・。
ますます目が、さめて参りました。
今晩は、くれぐれもよろしくお願いいたします。


第二十七回   2000年 2月26日(土) 9時13分

 さて、「藤田まことてなもんや伝説」でございます。

 晩年の秋田實は、口癖のように、
 「漫才ゆうのは、家族みなで見て笑えるものやないとあかんわけで」
 と口にしていました。秋田實の栄光と限界は、この一言に集約されているといってもいいでしょう。野卑で猥褻な、それこそ舞台で××××(この言葉はある事情によってきのう封印しました)を連発するような芸能であった漫才を、背広姿の演者が「僕」と「君」という人称で日常的な会話をかわす形式に改めたのは秋田實の功績であり、それを実践した横山エンタツ・花菱アチャコの漫才が近代的な上方漫才の出発点になっています。
 近代的な探偵小説の出発点はいうまでもなく乱歩の「二銭銅貨」であり、日本探偵小説史のスタート地点に置かれたこの一枚のコインこそ……
 いかん。話がこんがらがってきた。こんがらがったというか、江戸川乱歩→藤田まこと→てなもんや三度笠→秋田實→江戸川乱歩と来たのだから、話がもとに戻ったというべきか。それにしても無謀すぎる展開ではあります。もう少しすっきりと話を進めましょう。とりあえず本日はこれまでッ。

 <(_ _)>
 これは「すみません」でございます。


第二十八回   2000年 3月 1日(水) 7時36分

 辺境育ちの方には縁のないまま、それでもたまに読者の方から「私は初音礼子が好きでした」といったありがたいメールもいただきながらつづいております「藤田まことてなもんや伝説」、その……あれ、第何回だったかな、とにかくお送りいたします。

 不世出の漫才作者・秋田實についてはまた機会を改めることにしますが、秋田實による「家族みなで見て笑えるもの」という漫才の定義は、そのまま大阪コメディの基本でもありました。「てなもんや三度笠」もそれを踏襲していました。しかしテレビは、必ずしも家族全員で見るものではなくなりつつありました。
 昭和42年、というと「てなもんや三度笠」放送終了の前年ですが、その当時を振り返って、澤田隆治さんはこう記しています。

 そのころのテレビは上方コメディ全盛で、画面を占領している大阪のタレントは、人気絶頂の『てなもんや三度笠』の藤田まことにしろ、大村崑、茶川一郎を筆頭に、ルーキー新一、漫画トリオ、浅草四郎・岡八郎といった売り出しの連中にいたるまで、どこかオッサン風で、ヨメハンも子供もあって、とても若い女の子のあこがれの対象にはなりがたい存在であったのだ。

 昭和42年というと、グループサウンズが大ブームでした。この年、ブルーコメッツは「ブルー・シャトウ」を、ザ・タイガースは「君だけに愛を」をヒットさせ、テレビでは「ザ・モンキーズ」が放映されました。男の子は長い髪を資生堂の MG5 ヘアリキッドで整え、女の子はツイッギーばりのミニスカートで町を闊歩し、酔っぱらったおじさんたちは「これでいいのだ」とか「いろいろあらあな」とか叫んでおだをあげていました。

 そんなことには全く気がつかず、

 と澤田さんはつづけています。

 それでもザ・タイガースやザ・スパイダースなどをゲストに入れて『てなもんや三度笠』をつくったりしたが、それは新しいスターも必ずこの番組に出演していますという実績をつくりたかったからで、嬌声のため何を喋っているのかきこえないままの三〇分という番組が出来てしまって、投書が殺到、グループ・サウンズを使ってほめられたことは一度もなかった。
 当方の魂胆など若い人達にはみえすいていたのだろう。まだ私は高視聴率に守られて気がつかなかったが、もうこのころからヤングのテレビ離れははじまっていたのかもしれない。仁鶴のオールナイト放送がひそかに人気を集めていたのがそのきざしで、三枝が『ヤングタウン』に登場するや、一挙に噴出したのである。

 すでに一人で聴くものになっていたラジオの世界には、家族みなで聴いて笑える番組は必要ありませんでした。たった一人で深夜のラジオに耳を傾ける若い世代のために、新しい形式の番組が生まれつつありました(どなたか「眉村卓チャチャヤング伝説」、ご連載になりませんか)。その流れはやがてテレビのお笑い番組にも及びます。
 それにしても、『てなもんや三度笠』にタイガースやスパイダースが出演して、たとえばジュリーが、おっどっりにいこうよっ、とかマチャアキが、ごごごー、とか歌ったりしていたのでしょうか。私にはさっぱり記憶がありません。


柳生真加   2000年 3月 2日(木) 9時56分

ご主人さまは秋田實と乱歩の接点をお探しのようでしたが、そういえば私は秋田實の娘さん(童話作家)を知っているので、何か資料など必要ならお声をかけることができますよと、以前、伝えましたよね?


第二十九回   2000年 3月 3日(金) 9時10分

 そんなこんなで、「藤田まことてなもんや伝説」、きょうもお届けいたします。

 「てなもんや三度笠」の終了は昭和43年3月のことでした。後番組としてやはり藤田まこと主演の「てなもんや一本槍」が放送されましたが、この番組は押し寄せつつあったお笑い番組の新しい波を正面から浴びることになります。毎日放送が裏番組としてぶつけた「ヤングおー!おー!」が人気を呼び、日曜午後6時台の王者だった朝日放送の「てなもんや一本槍」は、ついに視聴率争いで一敗地にまみれてしまう結果となりました。
 「ヤングおー!おー!」は、「てなもんや三度笠」によって確立された大阪コメディの手法を否定することで成り立った番組でした。そこで人気を集めたのは、それまで大阪のお笑い界に君臨していた漫才師でもコメディアンでもなく、若い落語家たちでした。落語家としての技量は未熟な、それだけに若い世代の共感や親近感を獲得しやすい落語家たちが、落語を披露することではなくいわば“素”を見せることによって、お笑い番組の新しい形式を定着させてゆきました。「ヤングおー!おー!」という番組タイトルにも、「家族みな」で見る番組を敢えて目指さない新しさは示されています。


芦辺 拓   2000年 3月 4日(土) 4時46分

 秋田実氏の娘さんには、脚本家の藤田富美恵さんがおられます。何度かハガキを交換したり自著を送ったりしています。


人外境番犬   2000年 3月 4日(土) 11時59分

 芦辺拓様
 ご無沙汰いたしました。ご来信感謝申しあげます。藤田富美恵様のこと、主人はまったく存じあげませんでした。柳生様もおっしゃるとおり、こんなところで話題になって、なんだか申し訳ない気もいたしますが、おついでがございましたらよしなにお伝えください。秋田實先生のことで、何かのおりにはまた主人がお世話をいただくことになるかもしれません。よろしくお願い申しあげます。

 じつは昨夜、知り合いの若手陶芸家お二人が三重県上野市で作品展を開催されましたのを記念して、主人宅に関係者をお招きして大宴会を開催いたしました。そのせいで、主人二日酔いでございます。
 「ああ、もうお昼やないかっちゅうねんッ」
 と二日酔いの頭で茫然としている状態でございますので、「藤田まことてなもんや伝説」、本日はお休みさせていただきます。
 「ああ、ほとんど吐きそうやっちゅうねんッ」
 わめいております。


日夏 杏子   2000年 3月 6日(月) 11時54分

 人外境番犬さま
 「ヤングおー!おー!」は、語感が好きです。


人外境番犬   2000年 3月 9日(木) 10時27分

 「藤田まことてなもんや伝説」は、勝手ながらお休みとさせていただきます。まことに申し訳ございません。


第三十回   2000年 3月14日(火) 10時42分

 おはようございます。ご心配をおかけいたしておりますが、パソコンの調子が依然としてやや不安定で、主人はびくびくしながらパソコンに向かっております。本日はとりあえず「藤田まことてなもんや伝説」だけをお届けし、更新その他の作業はもう少し延期させていただきます。どうも申し訳ございません。

 3月12日夜のテレビ番組「知ってるつもり!?」のテーマは、なんと「喜劇人・由利徹」でした。私は放送が始まる直前までそのことを知らなかったのですが、由利徹がとりあげられるのであれば見逃す手はありません。司会者や出演者がごちゃごちゃ喋っている暇があるのならもっと由利徹の映像を見せてくれればいいのに、とは思いながらも全篇視聴した次第です。
 番組冒頭、由利徹が出演したテレビや舞台の映像がフラッシュパックで紹介されました。ひそかに期待した「てなもんや三度笠」はありませんでしたが、「スチャラカ社員」はたしかに映し出されました。上手から下手へ、じつになめらかなくねくねした歩き方(アチャラカを体現した、としか表現しようのない、「ああ、アチャラカが歩いてゆく」という感動さえ覚えさせる歩き方です)で由利徹が移動し、その向こうには事務机が並んで海山物産の社員たちが坐っている、なかに一人、髪を短く刈った痩せた青年が立っていて、それが若き日の藤田まことでした。画面に映ったのは一瞬でしたが、藤田まことファンにとってはお宝映像のひとつでしょう。
 余談ながら、この番組で三木のり平と八波むと志の当たり狂言、切られ与三のワンシーンを目にすることができたのは、文字どおり望外の喜びでした。八波むと志の歯切れのいいツッコミもさることながら、三木のり平の動きは想像していた以上のものでした。八波むと志が地べたにあぐらをかいて、三木のり平に玄冶店のせりふを手ほどきする場面、
 「ご新造さんへ、おかみさんへ、いやさお富、久しぶりだなあ」
 と喋りながら威勢よく前に進んだ三木のり平は、勢いあまって八波むと志の膝の上にちょこんと坐ってしまいます。しかしそれだけでは終わらない。坐った直後、のり平は跳びあがるようにしてぴょこんと立ちあがったのです(のり平が坐った瞬間、八波むと志がのり平の尻を両手で支えて押し出し、のり平の動きに勢いをつけていたのを私は見逃しませんでした)。膝の上に坐ることまでは予想できますが、それにつづく動きは運動の法則を無視したもので、観客の予想を完全に裏切っています。そしてそのことによって、客席の笑いは増幅されます。しかもその跳びあがり方は明らかに重力の存在を忘れてしまっており、三木のり平は人ではなく物と化して宙を跳んでいました。ベルグソンの理論の完璧な実践がここにあります。ここまで考え、ここまでやってしまうのが、本当のお笑い芸人というものです。
 桃屋のテレビ CM でしか三木のり平を知らなかった人には、それは残念でしたねと申しあげるしかありません。私もほとんど知らないのですが。

 どうも申し訳ございません。「藤田まことてなもんや伝説」が「由利徹オシャマンベ伝説」にスライドし、さらに「三木のり平切られ与三伝説」にスライドしてしまいました。どうぞご寛恕ください。


柳生真加   2000年 3月14日(火) 11時53分

ご主人さま、

お帰りなさい。

そういえば、うちのテレビにも『知ってるつもり!?』が映っていました。わたしは、たこ八郎のところだけ見ましたが、あとは深沢七郎の「みちのくの人形たち」を読んでいました。我ながらすごい食い合わせです、ほんと。


第三十一回   2000年 3月16日(木) 9時38分

 「藤田まことてなもんや伝説」、本日は次のようになっております。

 足の向くまま気の向くまま、当ても果てしもねえ旅に出るのだ、みたいな感じで綴ってきた『藤田まことてなもんや伝説』、まとまりのないままそろそろ終幕に入ります。
 昭和37年5月6日に放送が始まった「てなもんや三度笠」は、昭和43年3月31日に終了しました。放送回数は三百九回。後番組として、戦国時代を舞台とした「てなもんや一本槍」、ついで由井正雪の時代を背景に「てなもんや二刀流」(レギュラーとして由井正雪を演じたのは藤山寛美でした)、さらに現代劇の「スコッチョ大旅行」が放送されましたが、昭和46年秋、ついにシリーズのピリオドが打たれました。
 藤田まことは、「てなもんや一本槍」では足軽を、「てなもんや二刀流」では浪人を演じましたが、台本を担当した香川登志緒さんはこんなふうに記しています。

 足軽や浪人を主役にすると、「三度笠」の三下やくざほどには、主人公を無軌道に活躍させられず、さらには藤田がスターとしての貫禄がつきすぎたことなどあり、次第に筆が渋って行った。

 香川さんの筆が渋った理由としては、お笑い番組の質が急速に変わりつつあったことも挙げられるでしょう。「てなもんや一本槍」が裏番組の「ヤングおー!おー!」に視聴率争いで敗れ去り、そのあとは水をあけられる一方だったことはすでに記しましたが、「三木のり平切られ与三伝説」の例でいうと、勢いあまって八波むと志の膝に坐ってしまい、さらに飛び跳ねて立ちあがってしまう手練の芸よりも、安易で粗雑な、それだけに手間も費用もかからない、しかも視聴者にはそれなりに受け容れられてしまうお笑いが、テレビ制作の現場で重宝されるようになっていったという事情も、たしかに存在していたように思います。
 そしてもうひとつ、「てなもんや三度笠」が終盤、大きく調子を落とした理由として、澤田隆治さんと香川登志緒さんとの決定的な訣別が挙げられます。


第三十二回   2000年 3月17日(金) 7時18分

 それでは、本日の「藤田まことてなもんや伝説」でございます。

 澤田隆治さんとの訣別について、香川登志緒さんはこう記しています。

 (「てなもんや三度笠」の──引用者註)そうしたわたしの構想が、見事に成功を収めたかげには、ディレクターの沢田君がわたしと同じく、コメディが好きであり、股旅ものが好きであり、ミュージカルが好きであり、ある場合にはミーハー的素質を持っていた……という事実は決して見逃せない。しつこくいうが彼のことを、分身と呼ぶ所以である。
 珍重すべき、その分身も、サラリーマンである以上、社内人事の異動によって、他の部へ配属されてゆき二人のコンビも解消した。
 さらにスポンサーの事情もあって、「てなもんや三度笠」は発足以来三一九回(実際は三〇九回──引用者註)で終了した。

 一方の澤田隆治さんは、

 昭和四十三年三月『てなもんや三度笠』は三〇九回、平均視聴率三七・五%の記録を残して終わった。私はその年をドラマのプロデューサーとして過ごした。高田浩吉主演の『伝七捕物帖』からはじまったカラードラマの制作は、本格的なカラー時代劇の最初のものであっただけに、勉強の連続であった。

 と、これもまたごく事務的に「てなもんや三度笠」の終焉と自身の転属を説明しています。
 しかし、「てなもんや三度笠」の終盤、この二人が決定的に訣別してしまったという秘められた事実を、小林信彦さんは指摘しています。


第三十三回   2000年 3月18日(土) 10時20分

 本日の「藤田まことてなもんや伝説」、次のとおりでございます。

 小林信彦さんは『日本の喜劇人』第九章「大阪の影」の終幕近くで、「てなもんや三度笠」の終焉についてこう記しています。

 これからあとの部分を書くのは、私には、気のすすまないことである。だが記録者としては、めでたし、めでたしで終るわけにはいかない。
 香川、沢田コンビが心理的に決裂したのは、昭和四二年秋であり、半年後に番組は終った。
 この決裂の原因については、私は、私なりの考え(それはかなり客観性があると信じている)をもっているが、いっさい、書くまいと思う。香川登志緒は大阪の芸能に関して私に多くを教えてくれた人であり、沢田隆治は、いわば友人である。したがって、私は、口をつぐむほかない。
 それから数年たった今日、私には、どちらが正しかったというようなことは、ほとんど無意味に思われる。
 結論としていえば、この決裂は、大阪のコメディのために大きな損失であった。少なく見つもっても、大阪のコメディアンを全国に紹介する窓口は閉ざされた。それだけは誰しも認めねばなるまい。

 伝説の大阪コメディ「てなもんや三度笠」の終幕には、香川登志緒さんと澤田隆治さんの訣別という事実が潜んでいました。そしてその原因や経緯もまた、いまや伝説という名のとばりにすっぽりと包まれて、私たちには窺い知れなくなっているのです。


人外境番犬   2000年 3月24日(金) 10時25分

 なお、中断しております「藤田まことてなもんや伝説」、一応あすで最終回とさせていただき、そのあと、これまた中断しておりました「村山槐多デカダンス伝説」を再開させていただく予定でございます。
 それでは失礼いたします。


人外境番犬   2000年 3月25日(土) 12時 9分

 事情によりまして、「藤田まことてなもんや伝説」最終回はあすに延期させていただきます。事情、ったって、要するに主人が二日酔いでふうふういってるだけの話なのでございますが。


第三十四回   2000年 3月26日(日) 7時29分

 それでは、「藤田まことてなもんや伝説」でございます。

 さあ、最終回です。
 私にとって初の掲示板連載であったこの「藤田まことてなもんや伝説」は、とりとめもなく話題がスライドし、いっこうに腰が定まらず、一杯機嫌の花見客めいた足取りで酔漢さながらの戯れ言がえんえんとつづいただけのていたらく、自分の口からいうのも何ですが、ありていに評して眼を覆わしめんばかりな失敗作ではありますものの、失敗にさえ眼をつむればじつに堂々たる成功作であったと自負することも可能でしょう。また連載期間中、大熊宏俊君や日夏杏子さん、柳生真加さんの連載が始まったことを考えあわせれば、掲示板における連載というとんでもないスタイルを雄々しく開拓した点にも、わが「藤田まことてなもんや伝説」の意義はおおいに認められるかと思います。
 連載に関する反省点は多々あるのですが、なかんずく主役であった藤田まことの影が連載途中で薄くなってしまったのは、私のもっとも遺憾とするところです。しかし、そもそも「てなもんや三度笠」における藤田まことは、豪華多彩なゲスト陣を立てながらストーリーを進行させるという役どころでしたから、この連載で時としてたとえば由利徹がメインになってしまったりしたことは、いわば必然のなりゆきであったのかもしれません。それから、平参平やルーキー新一といった、いまではすっかり忘れ去られた、しかし忘れがたい印象を残している大阪のコメディアンたちに筆を費やすことも考えたのですが、ひとつには依拠すべき資料がほとんどないこともあり、今回は見送ったことを告白しておきます。
 さて、せめて最終回くらい、やはり藤田まことにスポットを浴びてもらうべきでしょう。藤田まことの現在ただいまの活躍ぶりは、ご存じの方も多いかと思います。むろん役者としての活躍です。つい最近放送が終了したテレビ時代劇「剣客商売」では老残の剣客を好演していましたが、あの飄々たるおかしみを感じさせる人物像(それが池波正太郎の原作に忠実な造型であるのかどうか、原作を読んでいない私には判断できません)には、どこかしら「てなもんや三度笠」におけるあんかけの時次郎の老境が重なるようでもあり、私にはたいへん興味深いものでした。
 コメディアンとしてひとたび盛名を得たあと、個性的な演技派役者への転身を図って悪あがきするタレントは昔も今もあとを絶ちませんが(小林信彦さんはそうした傾向を“森繁病”と名づけて批判しています。現今の例でいえば、片岡鶴太郎がその筆頭でしょう。一方、この“森繁病”とはまったく無縁に、アチャラカ一筋のコメディアン人生を見事にまっとうしおおせたのが、われらがオシャマンベ由利徹でした)、大方のコメディアンが夢想しているらしいこの転身を、ごく自然に果たしてみせたのが藤田まことであったといってもいいでしょう。もっとも、「スチャラカ社員」や「てなもんや三度笠」といった大阪コメディで名を馳せたとはいえ、藤田まことは当初から、コメディアンというよりはどこか古風な喜劇役者の風貌を垣間見せていたように思われます。
 小林信彦さんの言を引きましょう。

 藤田についていえば、(私の持論とは逆にひびくかもしれないが──)むしろ、ドタバタではなく、ねっとりした喜劇に脇で出たとき、出色のおかしさを見せる。『続・夫婦善哉』(東宝)で、森繁の道楽親父が、娘の縁談の相手の若者を偵察しに出かける。その若者(医者)が、まことで、別にコッケイなことはしないのにフシギにおかしく、『てなもんや』の次は、この方向だなあ、と思ったことがある。

 ちょっとお恥ずかしい話ですが、最終回は一回で終わらなくなりました。本日は『藤田まことてなもんや伝説』最終回の前篇ということで、ここまでといたします。


平山雄一   2000年 3月26日(日) 10時 1分
The Shoso-in Bulletin日本語版

>つい最近放送が終了したテレビ時代劇『剣客商売』では老残の剣客を
>好演していましたが、あの飄々たるおかしみを感じさせる人物像(そ
>れが池波正太郎の原作に忠実な造型であるのかどうか、原作を読んで
>いない私には判断できません)

ご主人様、
池波正太郎のエッセイなどによると、モデルは歌舞伎役者の中村又五郎だそうです。今でも時々吉右衛門の舞台のわき役で登場していますし、養成所の先生をつとめております。


第三十五回   2000年 3月27日(月) 8時40分

必殺シリーズ

 平山雄一様
 どうもお知らせありがとうございました。主人がかように申しております。
 藤田まことの秋山小兵衛、原作を読まれた方には違和感がありましたか。なるほど、そういうことは当然あるかと思います。だとするとあの番組、池波正太郎ファンには不評だったのでしょうか。ちなみに、私と池波正太郎との出会いは一年あまり前に遡ります。本屋に入っても買いたい本が一冊も見つからない、ということが名張ではよくあるのですが、その日もそんな感じで、何気なく手に取ったのが文春文庫『鬼平犯科帳』の第一冊目。植草甚一の解説を立ち読みすると、なんと乱歩の名前が出てくるではありませんか。あ、こりゃ乱歩文献だわ、と思ってその文庫本を購入しました。乱歩が取り持つ縁、とでも申しましょうか。むろん手練れの代表作ですから読めば面白く、二冊目、三冊目と読み進んだのですが、文庫本で二十四冊あるこの鬼平シリーズ、折り返しの十二冊で購入がストップしてしまいました。十三冊目を買いに本屋に入ったところたまたま在庫がなく、以来ご無沙汰している次第です。妙な縁というのは妙な切れ方をするものです。ところで、イギリスあたりのホームズの映像化においても、やっぱり役者によってかなり印象は違っているのでしょうか。日本における明智小五郎の映像化みたいに。

 さて、「藤田まことてなもんや伝説」最終回後篇でございます。

 当たり役を得た役者がその役の印象に縛られてしまうことはよくあります。藤田まことの場合、昭和37年5月から43年3月までの「てなもんや三度笠」で不動の人気を獲得し、つづく「てなもんや一本槍」「てなもんや二刀流」「スコッチョ大旅行」のシリーズでも似たような役どころを重ねたわけですから、シリーズの終了した46年秋以降が、あんかけの時次郎のイメージに妨げられて苦悩した時期であろうと推測されます。
 しかし実際には、中村主水を演じた必殺シリーズ第二弾「必殺仕置人」の放送は昭和48年4月に始まっています。てなもんやシリーズから必殺シリーズまでのブランクは二年に満たなかった計算です。私はこの高名な番組をまったく視聴していなかったのですが、ホームページ「うちだの世界」にある「必殺シリーズ」(上にリンクがあります)によれば、「必殺仕置人」における中村主水は北町奉行所勤めの同心ながら奉行所では「昼行灯」と呼ばれ、家に帰れば妻とその母から『種なしカボチャ』と馬鹿にされる不甲斐ない男で、悪を葬り去る「殺し」に唯一の生きがいを見つけてゆく役柄と解説されています。
 こうしたキャラクターは稼業や暮らしにおける表と裏の落差が大きいほど際立ちますから、同情や軽蔑まじりの笑いを誘う表の顔をもちながら、裏の顔では殺人者としてそれを手もなく裏切ってしまう中村主水の役どころは、てなもんやシリーズで定着したコメディアンとしてのイメージを背負った役者、藤田まことにうってつけのものであったと思われます。「うちだの世界」によれば「必殺仕置人」の主役は山崎努演じる念仏の鉄だったのだそうですが、中村主水はシリーズの進行につれて「必殺シリーズ」そのものの顔になってゆきます。コメディアンという出自を否定することではなく、それを巧みに生かすことによって、藤田まことはコメディアンから役者への転身を成功させ、役者として成長していったのだといえるでしょう。
 「藤田まことてなもんや伝説」、きょうが最終回後篇の予定でしたが、都合により本日は最終回中篇ということにいたします。


柳生真加   2000年 3月27日(月) 17時53分

こんにちは

うちの子が突然「あ〜やんなっちゃった、あ〜あァおどろいた」と大昔の歌をうたうので、もしや人外境だよりの「日本の喜劇人伝説」シリーズのたたりか、と驚いたら、CMにまきしんじ(漢字がわからない)が出ていました。


平山雄一   2000年 3月27日(月) 19時35分

ご主人様、

藤田まことが主役のところに、しつれいいたしました。
記憶はあやふやですが、たしか中村又五郎は舞台で小兵衛を演じていたとおもいます。大二郎は加藤剛だったとおもいます。加藤剛はテレビでも演じていたのではないでしょうか。私の感じでは渡辺篤の大二郎のほうがミスキャストでした。彼は時代劇をするには顔が小さすぎます。(藤田まことは大きさでいうと合格点ですね)
ちなみに鬼平犯科帳の長谷川平蔵は中村吉右衛門の父親、白鴎をモデルにしていたそうで、白鴎も白黒時代に鬼平を演じています。今の吉右衛門とそっくりです。

ホームズ役で定番といえば、古くはウイリアム・ジレット、ベイジル・ラズボーン。
新しくはNHKでやっていたジェレミー・ブレットです。
トンデモないホームズ役者といえば、チャールトン・ヘストンとかレナード・ニモイでしょうか?


人外境番犬   2000年 3月30日(木) 9時 3分

 「藤田まことてなもんや伝説」最終回後篇、都合によりまたまた延期させていただきます。どうも申し訳ございません。


第三十六回   2000年 4月 1日(土) 8時10分

藤田まことオフィシャルホームページ

 さて、「藤田まことてなもんや伝説」も最終回後篇を迎え、いよいよ感動のフィナーレでございます。

 世の中にはゆくりなくも、としか表現しようのないことがあります。きのうの夜、巨人広島戦をメインに他の二試合にも頻繁にチャンネルを切り替えながらセリーグ開幕三試合、テレビで観戦していたときのことです。チャンネル操作を間違えて野球を放送していない NHK に切り替えてしまった私は、まさにゆくりなくも、藤田まことが「てなもんや三度笠」を歌うシーンに遭遇してしまいました。藤田まことと小林幸子が組んだショー番組の一幕だったのですが、
 なんじゃこれは。
 と私は思い、しばらくは野球のことも忘れて、逆にすっかり忘れ果てていた「てなもんや三度笠」の歌詞は鮮明に思い出しながら、
 ああ、神も「藤田まことてなもんや伝説」のフィナーレを嘉したもうているのであろう。
 と感慨に耽ったものでした。それにしても、いきなり上原で負けてしまった。そんなことはどうでもいいのですが、「てなもんや三度笠」のあんかけの時次郎から「必殺仕置人」の中村主水へ、見事に転身を果たしたあとの藤田まことの活躍は、比較的若い世代にもよく知られていることでしょう。ここには、東建コーポレーションのホームページにある「藤田まことオフィシャルホームページ」(上にリンクがあります)から、藤田まことの「ヒストリー」を写しておきましょう。更新をさぼっているせいか、「剣客商売」のことは記されていません。

【 テレビ 】
『びっくり捕物帖』昭和32年(朝日放送)
『スチャラカ社員』昭和36年(朝日放送)
『てなもんや三度笠』昭和37年(朝日放送)
『必殺シリーズ』 中村主水
  昭和48年、『必殺仕置人』以来、平成4年2月まで20年間放送。
『はぐれ刑事純情派』 安浦吉之助
  昭和63年4月よりテレビ朝日にて放送開始。
  パート11が、1998年4月1日〜9月30日放送されました。
  平成8年度は26本放映。関西地区では、その内18本が視聴率
  30%を突破。これは民放のなかではトップとなっております。
  現在パート12が好評放映中です。

【 映画 】
『てなもんや三度笠』1963年6月9日封切り(東映)
  監督:内出好吉/脚本:野上竜雄/原作:香川登志緒
  出演:藤田まこと、白木みのる、平参平
『積木くずし』1983年11月封切り(東宝)
『必殺!』1984年6月封切り(松竹)
『必殺!ブラウン館の怪物たち』1985年5月封切り(松竹)
『必殺!3 表か裏か』1986年5月封切り(松竹)
『必殺4 恨みはらします』1987年5月封切り(松竹)
『必殺! 主水死す』1996年5月25日封切り(松竹)
  監督:貞永方久/脚本:吉田 剛/音楽:平尾昌晃
  出演:藤田まこと、三田村邦彦、菅井きん

 最後に、本連載でお世話になったおもな参考文献を列記して、謝意を表します。
『日本の喜劇人』中原弓彦、1972年、晶文社
『大阪の笑芸人』香川登志緒、1977年、晶文社
『私説コメディアン史』澤田隆治、1977年、白水社
『由利徹が行く』高平哲郎、1981年、白水社

 さて、いよいよ「藤田まことてなもんや伝説」のまとめです。たった一人の読者のためにスタートしたこの連載(たった一人の読者であったわるものさんは、お元気にしていらっしゃるのでしょうか)、予想外に長々とつづいてしまいましたが、未熟な芸におつきあいいただいたすべての方に心からお礼を申しあげ、さてどうまとめるのかというと、神の配剤に感謝しながら、ゆうべ藤田まことが歌っていた「てなもんや三度笠」の歌詞(作詞は香川登志緒さん)を書き写してまとめといたします。安易なまとめで申し訳ありません。なお、下記の歌詞は完璧に正確だといえるものではないことをお断りしておきます。ますます申し訳ない。

雲といっしょにあの山こえて
行けば街道は日本晴れ
おいら旅人 一本刀
「お控えなさんせ お控えなすって」
意地と度胸じゃ負けないけれど
なぜか女にゃちょいと弱い

捨てた故郷に未練はないが
忘れられない母の顔
おいら旅人 一本刀
「お控えなさんせ お控えなすって」
祭ばやしをしみじみ聞いて
男泣きすることもある

 それではみなさま、さーよーおーなーらー(なぜか最後は、かしまし娘)。

 ご愛読、まことにありがとうございました。主人はひきつづき、ジョニヒ様のご依頼で連載を開始しながら中断しておりました「村山槐多デカダンス伝説」、未熟ながらも鋭意高座を務めさせていただくと申しております。よろしくお願い申しあげます。


柳生真加   2000年 4月 1日(土) 10時14分

あと少しと思わせておいて、なかなかたどりつかなかった「藤田まことてなもんや伝説」最終回、おつなものですね。見習いたいものです。お疲れさまでした。でも、たこ八郎がからんでこなかったのが残念。番外編もきっとあるだろうと期待してます。


日夏 杏子   2000年 4月 1日(土) 17時46分

 人外境番犬さま
『藤田まことてなもんや伝説』非常に面白うございました。藤田まことが、NHKにでるのは知っていたのですが、見逃したのが後悔されてなりません。


人外境番犬   2000年 4月 2日(日) 10時43分

 柳生真加様
 「藤田まことてなもんや伝説」をご愛読いただき、ありがとうございました。主人は、
 たこ八郎ですか。うーん。由利徹が暴力沙汰を起こしたとき、いっしょになって相手をぼこぼこに殴りつけたという付き人はたこ八郎なんだろうと私は思ってました。ところが過日のテレビ番組「知ってるつもり?!」由利徹特集では、由利徹が三日ほど警察に留置されてから釈放されたとき、たこ八郎はずっと外で待ってたというエピソードが紹介されていて、え、たこ八郎は留置されてなかったの? と疑問に思った次第です。付き人たこ八郎は放免されて由利徹だけが警察にとっつかまったのか、それとも付き人はたこではなかったのか。しかし、由利徹の釈放をたこ八郎が待っていたというのであれば、やはりたこが付き人として暴行に加わったのだと考えるべきかも知れません。いずれにせよ、たこ八郎は本名斎藤清作、宮城県出身、元プロボクサー、十数年前に死去、というくらいのことしか私にはわかりません。これだけの知識で番外篇をやるとなると、やっぱり「由利徹オシャマンベ伝説」で行くしかないですね。そのうちやりましょう。ところで、異色ボクサー斎藤清作をご存じの方でも、まさか竜反町はご存じないでしょうね。はっはっは。
 と高笑いしております。

 日夏杏子様
 「藤田まことてなもんや伝説」をご愛読いただき、ありがとうございました。わずかお一人の読者のために始まった連載ではございましたが、最終的には六人の愛読者をゲットできたと主人は喜んでおりました。日夏様もその六人のうちのお一人であると主人は申しておりまして、とくに「てなもんや三度笠」が放送されていたころには地上に存在してもいなかった方にお読みいただけたのはとっても嬉しいと大喜びしております。


掲載 2001年1月1日