不定期連載 SF 伝説
大熊 宏俊
Ohkuma Hirotoshi
【 番犬敬白 】2000年3月27日
大熊宏俊様のご連載「不定期連載 SF 伝説」をひとつのページにまとめております。このご連載に関するほかの方のおたよりも、関連箇所を抜粋して掲載させていただきました。
第一回 2000年 2月16日(水) 22時42分
それはさておき、SFの範囲論です。
まず、SF作家が書いた作品がSFだという、状況論的には最も正解に近い考え方があります(むかし奇想天外に連載されたSF作家の放談が本になったとき、たしか『オレがSFだ』というタイトルが付けられたと記憶しています)。かかる作家の側からのSF規定は、ジャンル論としてはもちろんお話になりません。あくまSFというジャンルに内在する特質(他ジャンルとの差異性)について考えたいと思います。
SF読者は、任意の作品を読んで、これはSFだ(「お、SFだ」)と感じたり、あるいは感じなかったりするわけです。それはその人のSF体験の過程で殆ど無意識的に形成されたモノサシに依ります。このモノサシが<範囲>であります。
私のモノサシ(のひとつ)は前回示しました(通常このモノサシは、だれでも複数持っており、状況で使い分けているはずです)。
確かにSFは、『いくらでも間口を広げうるジャンル』です。100人いれば100通り、いやそれ以上のSFの範囲があり得ましょう。SFというのは拡がりすぎてその内部でも話が通じなくなっているのです。たとえて言えば中国語の北京方言の話者と福建方言の話者の間では会話が成立しないそうですが、SFもまさにそういう状況が発生しています。
SFの定義論が必ず不毛に終わるのはまさにそういう次第だからですが、それは実のところSFの動態的理解が欠けているからだと思われます。
確かに
>ひとつの定義を示すことは可能です。しかしこうして定義してしまうと、そこから洩れ落ちてしまうSF作品も少なくないのではないかと思われます。
という言い方も可能でしょう。しかしこの視点にはSFの「現状」がアプリオリに措定されているように愚考いたします。
逆に考えてみましょう。SFはここまで拡大してきたが、時代をさかのぼれば発生の原点に達するはずではないか。
SFの原初形態というものを想定すれば、それから2次的SFが発生し、3次的SFが発生し、どんどん雪だるま式に大きくなっていったともいえるのではないかと。
ちょっと先走りますが、センス・オブ・ワンダーというのも、管見ではSFから2次的に発見されたものであります。
今日はここまでとさせていただきます。
――BGM「ブラザーズ・アンド・シスターズ」(オールマン・ブラザーズ・バンド)――
第二回 2000年 2月18日(金) 23時13分
さて前回の続きですが、実は締め日の関係でパソコンの前に座る時間を捻出できません。以下は昔書きかけたSF論ですが、うまい具合にテーマがさほど離れてないと思いますので、少し抜粋してみます。
・・・SFの定義論の不毛は、動態的把握をなおざりにして、現状の、結果として隣接的な、ときには断絶的な複数の下位概念の雑居的集合(社会学概念の多衆Mengeに相似した)に他ならないSFを、単一の概念として把握しようとするところから結果される当然の帰結であるといえよう。
現在のSFは、分析概念としては全く不適当な概念なのであり、あたかも戦後日本の行政区画のように、実態のない虚構の概念といえる。
このような立場からいえば、統一的なSF定義の完成を企図している人がもしいるとすれば、それは観念的な錯誤(後述するように作品世界の舞台装置の共同に基づく血縁共同幻想に類似した思い込み)に由来する幻想でしかあるまい。
このような作品外在的な類似にもとづいて、私たちSF人(SF読者・出版人・作家)は、共同目標を異にする作品諸傾向を、ひとつの(疑似)概念の下に雑居せしめてきたのである。
それでは拡張されたSFにおける外見的類似性とは何であるのか。
SFはその発生点からして空間的・時間的・観念的に多元的な起源をもつものといわれてきたが、とはいえ事実上、SFと言う言葉は紛れもなく共同の目的を持った一群の小説を志向していた。それはとりもなおさず30年代、40年代の、(そしてイギリスのクラークらの出現により相当その屋台骨がぐらつき始めていたにせよ)50年代のアメリカSFに他ならない。即ちガーンズバックにより創始された[サイエンティフィクション]の系譜に連なる作品のみが、かかるSF(サイエンスフィクション)という名称を専有してきたのであった。と同時にこの時代、SFは確かに実体的な概念性を有していたのである。
これまで多くの論客によってSFの起源が語られ、数多の起源とされる作品のタイトルが挙げられてきた。ところが当然ながら、これらタイトルを挙げられた諸作品のどれひとつとして、発表当時からSFと呼称された作品は皆無なのである。形式的にいえば、これら起源とされる諸作品は[サイエンティフィクション→サイエンスフィクション]の成立後、あとから系譜的に引き寄せられたものに他ならない。この事実を閑却するわけには行かない。かかる起源論を成立させているのも、ある意味で血縁共同信念と舞台装置の共同という二契機に他ならない。・・・
今日はここまでといたします。
――BGM「アイ・イン・ザ・スカイ」(アラン・パーソンズ・プロジェクト)――
第三回 2000年 2月20日(日) 19時20分
前回、拙論の抜粋においてSFの原点をアメージング誌以降、20年代、30年代のアメリカSFとしました。
具体的にタイトルを挙げるならば、野田昌弘『SF英雄群像』にて紹介された諸作品、就中『スカイラークシリーズ』でありましょう。
それでは、『SF英雄群像』で取り上げられたこれらの作品(バック・ロジャース、アーコット・モーリー&ウェイド、ジェイムスン教授、ホーク・カース、N・Wスミス、キャプテン・フューチャーetc)をひとまとめにしている〈括り〉とは、一体何でしょうか。
「安っぽい勧善懲悪精神と月並みな人間関係」(野田、前掲書)で作られた活劇調のストーリーでしょうか。ホースオペラの二番煎じという意味合いを込めて、スペースオペラと名付けられたそのストーリー(最近読んだハリスンの『銀河遊撃隊』では、このようなストーリーをパロって面白がっていましたが)は、前代のダイムノベルを引き継いでいるもので、オリジナリティは主張できません。
結局これらの作品がオリジナリティを主張できるのは、舞台が宇宙であるか未来であるか、あるいはその両方であること、しかもその舞台は剣と魔法のファンタジー世界ではなく、あきらかに現実のこの世界の延長線上にあること、その一点においてのみです。つまり、これらの世界では〈今/此処〉と同一の物理学的法則が宇宙を律していることが暗黙の内に了解されており、たとえば魔法が現実の力となるような別の法則が支配する世界ではありません。
この一点において、SFは、ファンタジーでもなく、ホースオペラでもない独立性を主張できるのです。
つまりSFの原初形態とは、あろうことか、作品舞台が上のような世界であること、それのみであります。
スカイラークにはセンス・オブ・ワンダーがあるじゃないか? そうではない。スカイラークを読んだ読者がセンス・オブ・ワンダーを(作者の意図を越えて)感じたのです。
そして、スカイラークのセンス・オブ・ワンダーを再現しようとして(意図して)執筆された作品こそが、センス・オブ・ワンダー作品といいえるのです。先回、センス・オブ・ワンダーは二次的SFといったのはそういう訳です。
センス・オブ・ワンダーにも2種類あって、ヴォクトのように空間と時間の無限の広がりを描くことでそれを表現するもの、クラークのように科学的厳密性を持ち込むことで表現しようとしたもの、いずれにしろセンス・オブ・ワンダーは、スペースオペラと通称される原SFの作家たちが思いもしていなかった効果であり、読者が「発見」したところのものであると私は認識しているのです。かかる効果に気づいた読者のなかから新しい書き手が生まれ、次代のSFが形成されたのであります。このようにして最初の「拡大」が起こった。黄金期のSFの誕生であります。
また先走ってしまいましたが、今日はここまでといたします。
――BGM「ベスト・ワン」(スリー・ドッグ・ナイト)――
第四回 2000年 2月22日(火) 19時 9分
さて、前回分の訂正です。
「アメージング誌以降、20年代、30年代」は、「アメージング誌以降、30年代、40年代」です。単純な書きミスでした。
さらに前回書き足りなかったことがあります。それは原SFたるスペースオペラ作品の(疑似)科学性ないし(疑似)論理性についてです。
じつは言わずもがなであるかと思っていたのですが、やはり舌足らずかも知れませんので補足しておきます。
『SF英雄群像』からのひきうつしですが、たとえば鉱山事故で生き埋めになったバックロジャースは500年間眠り続け、未来世界に目覚めるわけですが、それは「おそらく放射能をおびたガスの作用のため」という「理屈」で説明されています。決して超自然的な作用の結果ではないのです。
アーコット・モーリー&ウェイドシリーズ第一作「空中海賊株式会社」で、海賊は「特殊な発振機を使って体の分子を共振させ、光がそのスキ間を透過できるようにして雲隠れの術を開発」します。そんなことは現実的に不可能だろうが、技術が進んだら可能になるかも知れないという暗黙の認識がここにはあります。つまりこれも魔法の類ではないのです。
以上のような意味合いにおいて「剣と魔法のファンタジー世界ではなく、あきらかに現実のこの世界の延長線上にある」「〈今/此処〉と同一の物理学的法則が宇宙を律していることが暗黙の内に了解されており、たとえば魔法が現実の力となるような別の法則が支配する世界ではありません」と書いたのです。判りづらいかと思いましたので補足しておきます。SFにおいては(理想的には)いかなる現実離れも超自然現象として説明されることはないのだ、ということです。
整理すれば、原SFを他のジャンルから差別化する契機は、作品世界におけるいかなる超越的事態も、超自然に由来するものとしては把握されず、それが実際起きているのだから自然現象であるという認識的前提から、科学的(疑似科学的)論理で説明してしまうところなのであります。
第五回 2000年 2月23日(水) 22時55分
次に起こった拡大は、ある意味でセンス・オブ・ワンダーの「自己認識」とでもいうべきものでした。
自覚と言い換えてもよいでしょう。そして自覚とは常に存在に対して遅れてやってくるものであります(自覚の後至性)。
黄金期のSFは、存分にセンス・オブ・ワンダーを発揮しました。それがいかなる意味を内包するものであるか無自覚なまま。
かかる黄金期のSFの読者のなかから、また新しいSF作家が育っていきました。
かれらはセンス・オブ・ワンダーが「価値の相対化」と「認識の異化作用」によって醸成されるものであることを自覚していた。
SFというものが<この時代/社会>とは異なった世界を描くことで、一種文明批評性を本来的に有すものであることに自覚的でした(目からウロコ)。
コーンブルースやポールを代表とするイフ誌系の社会SFの誕生であります。
ここに至りますと、原SFにおいて明確な基本的認識であった「作品世界と現実との連続性」はあまり重要ではなくなってきます。
認識の変革によるオフビートの快楽が主眼となるのですから、そのためには別に超自然が描かれても構わないわけです。
代表選手がシェクリーで、周知のようにこの作家のSFでは、悪魔や魔物などがお構いなしに登場します。
日本の第一期作家もこのグループに属しましょう。
こうなってくると、SFは、原SFからすれば随分かけ離れたものになってしまったといえると思われます。
――BGM「アメリカン・バンド」グランド・ファンク――
第六回 2000年 3月 4日(土) 21時41分
<SF伝説>つづきです。その前に前回「イフ誌云々」は「ギャラクシー誌」の誤りです。お詫びして訂正します。
さて前回、シェクリ−に至って「作品世界と現実との連続性」はあまり重要ではなくなってきた、と述べました。シェクリ−の作品世界には悪魔や魔物が遠慮なく闊歩しています。しかし、それでもなおシェクリ−作品は、ファンタジ−でもホラ−でもなく、紛れもないSFなのです。
実作に則して説明しましょう。
短篇集『人間の手がまだ触れない』収録の短編「悪魔たち」はこういう話です。
――身の丈10フィ−ト、赤い鱗に覆われ尻尾に刺を持つニ−ルスバブと自称する生物が、悪魔学を勉強し、ついにチョ−クで描いた五芒星形のなかに悪魔を出現させます。ところが現れたのは、なぜかア−サ−という保険の外交をしている人間だったのです。悪魔を呼び出したつもりのニ−ルスバブは、ア−サ−に黄金10万ポンド持ってくるように要求します。
なんとか猶予をもらったア−サ−は、必死で悪魔学の文献を読みあさり、自らも五芒星形を描いて悪魔を呼び出すことに成功します。現われた悪魔はニ−ルスバブではなかったが、身の丈15フィ−ト、姿形恐ろしく羽が生え、胸の穴から冷気を噴出するやつだった。
この悪魔に、ア−サ−は黄金10万ポンド持ってこい、さもなくば瓶に閉じ込めるぞと脅します。
悪魔は、自分は悪魔なんぞではなくしがない保険屋だといいながらも、とにかくいったん姿を消します。が、次に現われたとき、悪魔はニ−ルスバブを瓶に閉じ込めて持ってきていました。この悪魔も、必死で悪魔学を勉強したのでしょう(笑)。
黄金を調達できなかった言い訳をする悪魔に、ア−サ−はその瓶さえちゃんと保管するなら、黄金はもう要らないといいます。瓶の中で喚き叫ぶニ−ルスバブを横目に、二人の保険屋は、この業界の厳しさを嘆き合うのでした(^ ^;――
この話では、悪魔が悪魔学の作法に則って(超自然的に)召喚されるのですが、けれどもア−サ−が呼び出されてしまったように、あとの悪魔たちも、超自然的存在というよりも、どうも別次元の生物であることが暗示されています。しかし作者は、彼らの存在性に「科学的根拠」(現実との連続性)を与える気はさらさらないようです。とはいえ決して「超自然的存在」として描かれてないのは明らかです。
もう一つ、同じ短編集の中の「王様のご用命」に現れる魔物(正真正銘の魔物です)は、彼の世界の公務員(!)であると自らを語ります。
主人公の一人ジャニスは、いみじくも「そのお化けみたいな存在を実在の人間として扱うことに心を決め」ざるを得ないのでした。
かくのごとくシェクリ−描くところの(一見)超自然的存在は、しかし超自然的というより、むしろ人間界のアレゴリ−、人間社会を映す鏡として存在しているようです。
確かに科学的根拠(現実との連続性)は全然顧慮されていませんが、それでもアレゴリ−という〈理屈〉はちゃんとあるのです。SFと言いうる所以です。
SFは、もともと文明批評性を持たざるを得ない小説形式ですが、シェクリ−の方法論は、それを意図的、自覚的に行うことを可能にしたことで、SFの可能性を一挙に拡大しました。 ある意味SFの拡散はシェクリーに始まるといえるかも知れません。
日本の第一期作家がおしなべて文明批評的作風を有するのは、まさにかれらがシェクリ−から出発したことを端的に示しています。
――BGM「フィルモア・イースト・ライブ」(オールマン・ブラザーズ・バンド)――
大熊宏俊 2000年 3月12日(日) 13時23分
日夏様
ご連載、毎回興味深く拝読させてもらっています。
>「異端」と呼ばれる芸術は、ナチス時代の頽廃芸術に留まらず、既成の価値観を飛び越えたところに存在するものだと思います。
まさにおっしゃるとおり、中「人外」も日夏「頽廃」も田中「狂人」も同じ精神の志向性を表現しているように思います。かくいう小生「ヘテロ読誌」もお仲間に加えていただければ望外の喜びです。
そして私のなかでは「理想的なSF」もそうなのです。
それはそうと、村山塊多、連載の詩があまりに素晴らしいので、青空文庫へ行き「悪魔の舌」を読んでみました。いささか首を傾げました。
これはSFではないなあ、というのが第一印象でした。もちろんSFなんぞでは端からないのは承知していますが、私の読書は「読んでいる作品の中にSFを発見する」という読み方なのです。
「マグロマル」や「最高級有機肥料」はわたし的には紛れもないSFなのですが、この作品は違いました。SFではなく、むしろホラーに分類さるべき作品だったのです。
本作品は人肉嗜食を取り扱っているのですが、話者にワトソン的常識人(非・人外、非・頽廃、非・狂人)を配し、その友人の人肉嗜食をおぞましいと感じること(を描写すること)で読者に恐怖を喚起させるのですが、その友人自身はこの段階では自身を「人外」として自己認識しており、「異端」の側に留まっており、「常識」を根拠とするホラー的要素と「異端」的人物像が拮抗を保っており、読者を間然とさせません。
ところが最終場面で友人は自分が食した人肉の正体を知り、自殺してしまうのです。その動機がなんとまあ、ワトソン的常識人そのものなのでした。ここで私はがっかりした次第なのですが、そうか、SFは「既成の価値観を飛び越えたところに存在するもの(しなければいけないもの)」だけど、ホラーは「既成の価値観」を前提としたところに発現する恐怖を描く小説形態なのだなと、あらためて気づかされた次第です。で、私は「怪奇小説」という小説形態を妄想しているのですが、それはおいおいということで・・・
日夏 杏子 2000年 3月13日(月) 9時51分
大熊さま
大熊さまのSF観も、既成の価値観を飛び越え、新しい視点を造りだされておられるのではないかと思います。
妾はSFにあまり詳しくはないのですが、レイ・ブラッドベリは好んでおります。ヘテロ読誌にありました光瀬龍氏は『百億の昼と千億の夜』しか知りませんでしたが、最近、古本屋で『かれら、アトランティスより』を購入いたしました。『たそがれに還る』も読もうと思っております。
ヘテロ読誌に載っているもの以外のお薦めのSF作品を紹介していただけませんか?
大熊宏俊 2000年 3月15日(水) 1時38分
日夏様
>お薦めのSF作品
ブラッドベリがお好みですか。ならば、同じ幻想派でブラッドベリのライバルのシオドア・スタージョン『夢みる宝石』(ハヤカワ文庫)はきっとお気に召すでしょう。フェリーニ「道」のように移動サーカス団が舞台。
同じ作家の『人間以上』(ハヤカワ文庫)も名作中の名作。
あと書名を列記しますと、
『都市』 C・D・シマック(ハヤカワ文庫)は、パストラルSFの精華。
『火星のタイムスリップ』P・K・ディック(ハヤカワ文庫)
『沈んだ世界』J・G・バラード(創元文庫)
『結晶世界』J・G・バラード(創元文庫)
『グレイ・ベアド』B・W・オールディス(創元文庫)
『地球の長い午後』(ハヤカワ文庫)
以下、品切れですが、古本屋で探して下さい。
『334』T・M・ディッシュ(サンリオ文庫)は、わたし的にはSFの最高傑作。
『時は準宝石の螺旋のように』S・R・ディレーニイ(サンリオ文庫)は、最高の短篇集。
『パヴァーヌ』K・ロバーツ(サンリオ文庫)
『妊婦たちの明日』井上光晴(角川文庫)
とめどなく列記してしまいそうですが、とりあえずこんなところでいかがしょうか。
――BGM「魂の兄弟たち」(カルロス・サンタナ&ジョン・マクラグリン)――
日夏 杏子 2000年 3月16日(木) 8時42分
大熊さま
SFのすてきな作品を紹介して頂き、どうもありがとうございました。
光瀬龍氏の『たそがれに還る』は、昨日古本屋で買ってまいりました。今から読むのが楽しみです。紹介いただいた本もぜひ読もうと思っております。
SFは、中学生の頃にJ・P・ホーガンのN部作をN冊とも読んだのですが、(確か、『ガニメデの巨人』が入っており、三部作シリーズだったような気がいたします)どうも始めは馴染めませんでした。光瀬龍氏も、レイ・ブラッドベリも萩尾望都さんの作品で名前を知りました。ブラッドベリの『火星年代記』で、SFもすてきだな、と思い始めるまでは、ハヤカワ文庫の白い背表紙は私には縁のない世界でした。そこにはきっとすてきな世界が詰まっているはずなのに・・・と思いつつ。
私にとってミステリは、魅惑的な謎とトリック、収束にいたる論理の眩暈さえ誘うような美しさ、これらがあわさり、世界を反転させてしまうような力を持ったものなのです。(極上のミステリに限ります)論理の美しさでは、クイーン、有栖川有栖氏の学生アリスの3冊、眩暈さえ誘ったものは、島田荘司氏の『斜め屋敷の犯罪』、竹本健治氏の『匣の中の失楽』。『匣の中の失楽』は、世界を反転させてしまうような力があると思います。語り口の上手さ、全体のバランスとの点では、芦辺先生の作品が好きです。何より好きなものは、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』です。虫太郎は大好きで、全集でているものは全て読みました。(ミステリを思わず列挙してしまいました)
このように、自分なりのSF観をつくり、その世界で遊ぶことができればと思っております。
第七回 2000年 3月19日(日) 23時11分
忘れた頃にやってくる「SF伝説」です。
ブラウン、ブラッドベリ、シェクリーは石川喬司謂う所のSFの<F派>の3巨頭ですが、前回はシェクリーについて述べました。
フレドリック・ブラウンの作品も悪魔や天使という超自然的存在がよく登場します。しかし私は、(ショートショートは別にして)ブラウンほどSFらしいSFを書くSF作家もいないと思っています。
多元宇宙テーマの超傑作『発狂した宇宙』(1949)は、一人のSFオタクのかくあれかしと思うとおりの世界が描かれます。これはある面、そのSFオタクの内宇宙ともいえますが、ブラウンはただ(念ずれば花ひらく式の)「願望の現実化」すなわちファンタジーとして描くのではなく、ひとつの理屈を提出するのです。
それがかの有名なテーゼ、
――1本の針の頭にも無数の点があるのと同様に、無限数の宇宙が同時に存在している。ということは想像され得る全ての宇宙が存在するということであり、すなわちあらゆるものは、どこかで、実在していなくてはならない――
なのです。
架空の物語というのは不可能で、必ずどこかの宇宙ではそれが実際に起こっているはずであり、1人の内宇宙と見える世界も、一個の「客観的」現実世界であると説明されます。
この説明を読んだときは頭がクラクラしたものです。まさにセンス・オブ・ワンダーでありました。とはいえ、この説明はちっとも「科学的」ではなさそうです(もっとも最近はドイッチュのように量子物理学から並行宇宙の存在をみとめる立場もあるようですが)。
科学的装い(@アレクすてハンドルさん)がなくてもSFであるのは、いったいなぜなんでしょうか?
第八回 2000年 3月26日(日) 17時21分
<SF伝説>、今回もフレドリック・ブラウンです。
取り上げます作品は、中篇「みみず天使」(南山宏訳)なのですが、この作品のどこを探したって〈科学的装い〉など見つけることはできません。本篇が収録されている早川書房版〈世界SF全集16〉『スタージョン・ブラウン』の巻末解説で、稲葉明雄がいみじくも書いているように、「ブラウンの作風は、なるほど科学(自然科学)には鼻も引っかけない」(493頁)ものですけれども、私にはこれほどSFらしいSFはないと断言できます。
《チャ−リ−は結婚間近の青年。ある日曜の早朝5時前、釣りに行くためミミズを捕まえようとして、彼は呆然とします。何となれば彼がそれを摘まもうとした瞬間、ミミズは(直前までは普通のミミズだったそれが)羽をきらめかせながら上昇し、空のかなたに消え去ったからです。そうです、それが一連の奇妙な事件の始まりでした・・・
つづいて火曜の朝8時過ぎ、どしゃ降りのなか、彼は年老いた荷馬車馬を虐待している馭者を見つけ、烈しくこの馭者を憎悪します。その途端、(どしゃ降りにもかかわらず)彼は全身日焼けを起こして、軽い日射病で倒れてしまいます。
さらに木曜の11時半ごろ、博物館で中国貨幣の陳列ケ−スの(密閉された)ガラスのなかに、彼は野ガモが閉じ込められているのを見つけます。
お次は土曜の昼過ぎです、ゴルフ場の14番ロングホ−ルで彼が打ったドライブショットはスライスしてフェアウェイからそれてしまいます。ボ−ルを捜すが見つからない。ボ−ルが止まったと思われる当たりにはなぜか花輪(レイ)が落ちています。
そして月曜午後6時前、結婚指輪を受取りに宝石店の入口に入った途端、彼はエ−テルを吸い込んで気を失い、水曜の午後9時過ぎには、アルカリ粉末がル−マニア貨幣に変わるのを目の当りにします。
なぜこんな奇妙なことが、彼の身に立て続けに起こるのか、チャーリーは考えます。そして――
やがて彼は驚くべき真相に思い当たるのです。
それを確認すべく、チャ−リ−は、金曜日、ヘイヴィ−ンという町にやって来ます。時間を計り、零時15分にこの町に境界線を越えて町に入ると・・・フシギ、フシギ、そこは<天国>だったのです!
真相はこうです。実は天国にある個人の一生を記録する本(閻魔帳?)に、誤植が生じていたのです。
チャーリーが想像したとおり、天国の自動植字機は51時間10分(すなわち2日と3時間10分)で一回転するのでした。その時間に一回の割で不完全なeの字母が回ってきて、そのときオペレ−タ−がeのキイを打つと落ちるのですが、字母の耳がすり減っているからか、落ち方が早すぎるので、単語中の正しい位置より前にそれが入ってしまい、誤植が生じていたのです。
その結果ミミズAnglewormは、Angelworm(つまり天使虫!)になってしまい、憎悪HateはHeat(熱気)に、中国貨幣の両TaelはTeal(カモ)に、ゴルフボ−ルは悪い位置LieになるはずがLei(レイ=花輪)になってしまい、宝石店である〈そこ〉Thereに着くはずが、なんとeが4文字もずれてEther(エ−テル)を吸い込む羽目に、またアルカリ粉末Leyはル−マニア銅貨のLyeに変わってしまったのでした!
かかる事実に気づいたチャ−リ−は、時間を合わせてヘイヴィ−ンHaveenに入ることで、Heaven(天国)にやって来ることができたのでした。そうして天国の植字主任に誤植の訂正を要請し、彼はめでたく新婚旅行に出発します。めでたしめでたし》
――という粗筋なのですが、ミステリのトリックと違ってSFのアイデアは、事前に知ってしまったからといって鑑賞に差し障りが出ることはありません。寧ろより愉しめることになるはずです。ことにブラウンは一級のストーリー・テラーなんです。未読の方ご安心下さい。
さて、先に書きましたように、本篇をSFたらしめている契機は、もちろん「科学的装い」ではないことは明らかです。大体天国が存在する世界なんですから。それでは本篇はファンタジーでしょうか。
ところで本篇は、創元文庫版短編集『天使と宇宙船』にも収録されています(「ミミズ天使」小西宏訳)。この本の序文で、ブラウン自身が次のようなことを書いています。
「ファンタジ−は存在せぬもの、存在しえぬもののことを扱う。/SFは、存在しうるもの、いつの日か存在するようになるかもしれぬものを扱う。SFはみずからを、論理の領域の中の可能性に限定するのである。/SFでは彼ら(超自然的存在>大熊註)を自然の生物として描くことによって、超自然的なものを排するように説明される/われわれが知っている世界に関連するような形で説明される/つまり、もっともらしい説明を必要とする」
天国は「存在せぬもの」ですから、普通に書けばファンタジーにしかなりません。しかし「もっともらしい説明(理屈)をつければ、即ちHaveenのeがずれてHeavenとなったとき、Haveenが存在するのですから、当然Heavenも存在してしまう道理でありましょう。
論理を貫くことで非現実を実在化させる――そのときに生じる浮遊感は、「科学的装い」から生じるセンス・オブ・ワンダーの、直接の発展型であり、やはりセンス・オブ・ワンダーと呼ぶ他ないのであり、「みみず天使」はファンタジーではなく、実に堂々たるSFなのです。
第九回 2000年 4月 2日(日) 20時39分
ということで、<SF伝説>です。
ここ数日中にアップされるであろう「ヘテロ読誌」3月分に、私は『天使と宇宙船』の感想文を書いているのですが(ぜひお読み下さい)、この短篇集中の「ユーディの原理」が、おそらくSFの限界点、ファンタジーとの境界線でありましょう。
本連載の初回から順を追って書いてきたように、SFという言葉が意味する領域はどんどんと拡大してきたわけですが、しかしファンタジーとSFは現在においても截然と別種のジャンルであります。
今回はピーター・S・ビーグル『心地よく秘密めいたところ』を取り上げましょう。本書は正真正銘のファンタジーです。
主人公は所謂幽霊です。はっきり幽霊とは書いていませんが、とにかく主人公は死んだ後、埋葬された墓地でふとわれに返ります。いわば魂の存在として目覚めます。その墓地には同様の境遇の仲間がいます。
この本では、かれらはずっとその状態を維持するわけではありません。肉体を失った魂は時間と共に前世の記憶を忘れていき、やがては透明になって消えてしまいます。そして幽霊が見える生身の人間がおり、幽霊と交感できるカラスがいます。
このような舞台設定の中、暗闇の中でふるえるように燃える一本の蝋燭のような哀切な物語が語られるのです。
繰り返しますが、この作品はファンタジーです。なぜなら、幽霊の存在はアプリオリに措定されていて、存在の理由は説明されません。カラスが幽霊としゃべれる理由も示されません。この世界ではそうなのだと、読者は受け入れるしかありません。
この小説は傑作です(私が保証します)。とはいえ読中、私はずっと不満でした。「ああ、なぜ説明しない、こんなおいしい設定を」と・・・。
僭越ですが、この小説を私が書くなら、魂が前世を忘れていく理由について、たとえばメルロ・ポンティの身体=精神論に依拠して説明を加えるでありましょう。つまり魂があるなら、それは超越的にあるのではなく、ただの存在だとして、その理由を考えるのです。そうすればSFです。
もとより本書はSFとして書かれたものではなく、純然たるファンタジーです。したがって私の茶々はまさに見当外れも甚だしい改悪に違いありません――ファンタジーの見地からすれば。
そうなんです、SFとファンタジーの間には、かくのごとく火星のマリネリス大渓谷よりも深い断絶があるのです。SFはどんどん拡大してきたわけですが、だからといって無闇矢鱈と異分野を取り込んできたわけではないのです。その拡大には必ず或る連続性が、論理が、働いているのです。
――BGM<ホンキイ・トンク・ウィメン>ハンブル・パイ(「イート・イット」より)――
第十回 2000年 4月10日(月) 23時17分
SF連載、今回はスティ−ヴン・キングの220ペ−ジの長中篇「霧」(『骸骨乗組員』所収)を取り上げます。
キングといえば文字どおりキング・オブ・モダン・ホラ−。もっとも、小生は勉強不足にしてホラ−の何たるかを具体的には知りませんが、本篇がSFではないことははっきりわかります。
――7月の暑い夜、メイン州を襲った烈しい嵐のあと、ロングレイク湖畔は、向こう岸の方角から流れてきた奇妙な白く濃い霧に、たちまち覆い尽くされた。霧とともにやってきたのは身の毛もよだつおぞましい怪物たちだった。・・・
主人公と彼の息子は買い出しに出かけたス−パ−マ−ケットで、その霧に閉じこめられます。スーパーマーケットを襲う怪物、スーパーマーケットという孤島に閉じこめられた人々の葛藤・・・
キングの自在な筆力は、読者に巻を措かせません。私も十数年ぶりの再読でしたが、休んだのは一度きり、一気に読まされてしまいました。
本篇に登場する怪物たちは、<超自然的存在>ではありません。拳銃で撃たれれば死にますし、殺虫剤をぶっかけても効果があるようです。このあたりがモダン・ホラーのモダン・ホラーたる所以でしょうか。
「霧になかに潜んでいるのは、さほど化け物じみた生物でもなかった。(・・・)やつらはラブクラフトの小説に出てくる不死の生命を有する怪物などではけっしてなく、それなりに弱点を持った有機生物に過ぎない。」(317頁)
――あれ?
と、皆さんのなかには首を傾げられた方がおられるかも知れません。
――<超自然的>生物ではなく、<有機的>生物であるのなら、おまえの言い分に従えば、SFなのではないのか?
ところがどっこい、違うのです。
なぜなら、これらの怪物が、奇妙な霧も含めて、なぜ、今ここに存在しているのか、それがさっぱり説明されていないからです。作者に説明する気がはなからないのです。
なるほど軍の秘密計画「アローヘッド計画」との関連性が仄めかされてはいます。しかしこの計画が具体的にどういうものなのか、さっぱり判らない。
本篇「霧」に登場するのは、疑いなく超自然的怪物ではなく、撃たれれば死ぬこの<世界内存在>としての有機生物ではありますが、しかしながらそれらは、何の因果関係も不明なまま、突如小説世界に現れ、ついにその出自を明らかにすることはないのです。
本篇がSFに非常に近しいものであるのは確かですが、とはいえ明らかにSFとは断絶した作品であることもまた、確かなことなのであります。
第十一回 2000年 4月13日(木) 19時42分
<SF伝説>です。
ここのところ、アレクすてさんとメ−ルのやり取りをしているのですが、その過程で、ジャック・フィニィの「ゲイルズバ−グの春を愛す」は、あれはSFかファンタジ−か、という話になりました。
先々回、『心地よく秘密めいたところ』をとりあげ、ファンタジ−とSFの差異について述べたことに反応して下さったわけです。
私は「ゲイルズバーグ・・・」を未読でしたので、早速読んでみました。
結論から言えば、この懐旧の念に満ちた哀切な物語は、紛れもないSFです。私の感覚ではそうなります。
――イリノイ州ゲイルズバ−グは、古い美しい町だが、ご多分に漏れず近代化の波が迫ってきているのだった。開発という名の破壊の波が・・・。
100年来の町並みは壊され駐車場に、森や農場は工場に、散歩道は自動車道に、公園は高層アパ−トに作り替えられようとしています。
そのとき、奇怪な、理屈に合わない奇妙な現象が起こります。工場を建設しようとした資本家は、もはや存在しない(すでにレ−ルも取り外されて久しい)市電にはねられかけ、自動車道路を作るため並木を切り払おうとした土木技師は1900年代のクラシックカ−にひかれます。火事になった古い邸は、いずこともなく現れた馬に引かれた蒸気ポンプの消防隊によって消し止められます。・・・
前回の<SF伝説>で言及したキング作品における怪物や霧と同様、本篇に登場する市電やクラシックカーや、蒸気ポンプの消防隊は(馬の蹄や馬車の轍の跡が残されていることに示されるように)現実に存在したものとして描かれています。
これらは、所謂<謎>であります。
「霧」の怪物や霧も、「ゲイルズバ−グ」の市電やクラシックカーや蒸気ポンプの消防隊も、いずれも読者に対しては<謎>として提示されます。
にもかかわらず「霧」と「ゲイルズバーグ・・・」が決定的に違うのは、前回も書きましたように「霧」では、怪物や霧が「なぜ、そこに」存在しているのかに就いて、何の説明もない、すなわち<謎>解明がなされないのに対して、「ゲイルズバーグ・・・」ではかかる<謎>に対して「やみくもな近代化を嫌った過去が、時間の流れを逆流させ、すでに消え去ったはずの電車やクラシックカーやポンプ馬車の亡霊を呼び寄せて、現代の暴走を阻止しようとした」(訳者あとがき)という明確な解明がなされます。<超越的存在>の存在理由が因果を遡及して説明されるのです。
――もっとも、やみくもな近代化を嫌ったのは「過去」というよりも「ゲイルズバーグという町」そのものだと思います。それに「亡霊」というのは事実に反するのであって、私流に上の引用を言い換えるなら、「やみくもな近代化を嫌った<ゲイルズバーグの町>そのものが、時間の流れを逆流させ、すでに消え去ったはずの電車やクラシックカーやポンプ馬車を<現実>に呼び寄せて、現代の暴走を阻止しようとした」というのがより正しいのではないでしょうか――
すなわちこの小説世界に過去の市電その他が甦った<謎>に対して、本篇ではちゃんと理由が説明されるのです。もとよりその<謎>解明の論理は「科学的装い」とは全然別種のものであるかもしれないが、<謎>に「解明が与えられる」というそのことにおいて、本篇はまぎれもなくSFであると私は思います。
本篇のどこを探したって、科学のカの字も見つかりませんが、超越的現象を因果の糸で現実との連続性を設定する手法はSFそのものでありましょう。考えてみれば、かかる手法はSFとしては非常にポピュラーなものです。
たとえばSF作家としては不当に評価の低い田中光二の「怒り」シリーズの諸作品は、全てこの手法が用いられています(『裁きの日―怒りの巨樹』では人類に怒った縄文杉が、大暴れします!)。
本篇は(FT文庫に入っていることからも判るように)一見いかにもファンタジーっぽいお話ではありますが、実は典型的なSFであることに気づかされます。
アレクすてさんの適切な示唆によって、SFの範囲論はそれなりのかたちをととのえてきたのではないかと思います。
――BGM<ひとりごと>ポ−ル・サイモン――
アレクすて 2000年 5月 3日(水) 21時13分
皆さん、こんにちは。
今、徳間の
『SFジャパン』を読み終わりました。
SFの持つ『懐疑主義』がオレ的には(ここ重要)
苦しいのですが、作り手の『SFヘの思い』が
ビンビン伝わってきます。
ヒッキ−である私は、刺激に飢えてますので
『SFジャパン』はありがたいです。
ではでは。
第十二回 2000年 5月 4日(木) 19時 6分
アレクすて様
ヒッキーということなら私も負けてませんぜ。自慢じゃないですが、私の家から半径15キロ以内の書店で、SFMを置いている所は一軒もないです(トホホ)。
SFJapanは読んでないので、
>SFの持つ『懐疑主義』
という語がSFJapanで、どのようなコンテクストにおいて用いられているのか知りませんが、その言葉を聞いて私の中に反応する部分があります。――ということで、ここから無理矢理SF伝説に持ち込みます。
SFとは、(これまで述べてきましたように)小説中に現れた「超越的な現象」の、そのよって来たる発生(発現)の理由を、仮説によって説明することをストーリーの根幹に持つ小説形式であると私は考えています。
仮説に基づく説明が不可欠であるということは、即ち小説上に現れた「超越的(⊃超自然的)現象」を、「そのままでは信じない、ア・プリオリには受け入れない、疑う」つまり「懐疑する」ことから出発するものであると言うことです。
通常SFでは、かかる「懐疑」は「科学的(疑似科学的)」に説明されるものとされているのではないかと思うのですが、私自身は説明の仕方に科学が援用されていなくても、説明に「論理(理屈)」があれば、「SF」として認識しているようです。
ここで私の頭に浮かぶのは、怪奇小説という言葉です。
たわむれに「怪」という漢字を漢和辞典(「詳解大漢和辞典」冨山房)で牽いてみますと、
《不思議に思う。いぶかる。疑う。「ー疑。ー訝。其事可レー》とあります。(註)レは返り点
同様に「奇」を牽くと、《○普通でない、すぐれている。○あたりまえでない。違う、異なる。○珍しい。○不思議である、不可解である。》とあります。
すなわち漢和辞典の字義に従って「怪奇」を読み下すと、「怪レ奇」つまり「奇ナルヲ怪シム」となります。意訳すれば「不思議なるものを懐疑する」というわけで、したがって怪奇小説とは「不思議な現象を理屈によって説明しようとする小説」ということになるのではないでしょうか?
もちろんこの解釈は、一般的な怪奇小説理解とは全然異なるものであるのは間違いないでしょう。
私がわざわざ怪奇という述語を持ち出したのは、SFにおけるサイエンスが、SFの成立期においてはどうであれ、現状ではSFにおける「理屈」(仮説)を形成する数ある方法のうちの(有力ではあるが)そのうちのひとつでしかないことを強調したいからに他なりません。
かつて都筑道夫が、ミステリマガジンの連載でこんなことを言っていたと思います。HMMはある時全部棄ててしまったので引用できないのですが、要旨に間違いはないと思います。
――怪奇小説とはどんな小説か。誰かが怨みをのんで死に、その幽霊が出てくる。出る理由がはっきり書いてある。そういう怪談は古くてつまらない。幽霊でなく、個人の感じる恐ろしさをえがく。狂気や孤独からくる人間の変質を、論理を越えた論理で描く。それが現代の怪談だ。そういうものでなければこの合理主義の現代に、怪談は生き残れない。――
しかし私は、この合理主義の時代に生き残れるような幽霊話もあり得るのではないか、と思っているのです。超自然現象を超論理的に描くのではなく、逆に因果関係を精緻化することで得られる小説の面白さがあるのではないでしょうか。・・・
そう、それがホラーでもファンタジーでもない、SFの面白さなのです。
――BGM「ごあいさつ」高田渡―
第十三回 2000年 5月13日(土) 16時40分
不定期連載<SF伝説>、今回は日本人作家篇です
小松左京の短篇集『時の顔』(角川文庫)の巻末解説で、都筑道夫がなかなか面白いことを書いています。要所を補強しつつ大意を述べます。
自分(都筑)と小松は非常に対照的な作家である。偶然同じアイデアで小説を書いたことがあり、それは都会の人間が自動車旅行の途中、過疎の村(というか廃村)へ迷い込み一夜を明かし、そこで怪異が起こるというモチ−フが共通しているのだが、自分の場合、なぜそんな怪異が起こるのか何の説明もない。ところが小松作品では作者の意図がはっきり表面に出してある。
すなわち、家というのは人が住むことによって完全なものになる(人が住んで初めて家は家となる。住む人に棄てられた家とは欠損状態である)。そこにたまたま一人の男が迷い込む。当然家は、(欠損を解消すべく)迷い込んだ男を放そうとしなくなる。男が逃げ出すと、家は追いかけてくる。云々。
上に挙げられた都筑作品は「過疎地帯」といい、短篇集『黒い招き猫』(角川文庫)に収められています。小松作品は「葎生の宿」というタイトルで短篇集『夜が明けたら』(ケイブンシャ文庫)に入っています。
この2作は、同じモチ−フを用いながら、書き上げられた作品としては、見事に互いに別のジャンルの作品となっています。
「過疎地帯」は純然たるホラ−ですが、「葎生の宿」は出だしはホラ−っぽいとはいえ、男が逃げ出してからは、俄然ハチャメチャになり、時速120キロで高速道路をぶっとばして逃げる男を、家が同様の速度で追っかけカ−チェイス(?)を繰り広げます(笑)。
どっちが完成しているかといえば、むろん[過疎地帯]ですが、「葎生の宿」は、作者自身が面白がってしまい緊迫感が失われたのが惜しまれますが、まさにSFとしか言い様がない作品です。科学的ではありません。むしろ非科学的(いや非現実)の極みでしょう。
それでも「葎生の宿」は、私にはSF以外のなにものでもないように思われます。家と車がおっかけっこするなんて、非現実も甚だしいなどと考えてはいけません。SFとは、<論理>が<現実>に勝ってしまう、「現実を犯してしまう」小説なんですから。
結局SFを成立させている契機は、科学自体に存するのではなく、科学そのものの根源的契機たる論理性にこそ求めるべきだと私は思います。すなわち仮設事項が科学的であればもちろんSFでありますが、例えそれがどんなに非現実的であろうと、論理に基づいた仮設であれば、科学的でなくてもSFたりうるということです。
超越的現象の裏に論理性を見つけようとする姿勢が、SFを生み出します。ところでかかる姿勢は本格ミステリの契機でもあります。「説明への嗜好」という座標軸で区切れば、SFとミステリは同じ象限に入ります。ファンタジーとホラーは当然別の象限です。
だとすればミステリとSFの違いは奈辺にあるのでしょうか?
SFとミステリでは、その論理的嗜好を振り向ける対象(あるいは方向)が違うのだと思います。ミステリは舞台が「この現実」であることが前提的に所与でなければ成立しません。もとよりミステリも、最初は非現実な現象、不可解な犯罪(謎)が提示されます。しかしそれが論理の要請にしたがって解きほぐされたとき、一見非現実であった謎は、結果として現実に収束・解消されなければなりません。
フィニィがファンタジーとの境界に、マシスンがホラーとの境界に、SFの偏奇なる居城を建てたように、ミステリとの境界に立って四囲を睥睨する作家が京極夏彦ではないでしょうか?
嵐山薫さんがご自身のHP館の日誌の5月10日(水)に、<SFのパワーって凄いですねえ。なんせ、『鉄鼠の檻』(京極夏彦/講談社ノベルス)すらSFのカテゴリーに入れようとしてるんだから(笑)。>と書き込まれていました。
ところで、私も実はそのように思っている一人なんです(笑)。
『姑獲鳥の夏』はまさしくミステリ領に建てられた堂々たる城塞でありますが、『鉄鼠の檻』や『絡新婦の理』という巨城は、SFの領域に建てられていたように記憶しています。
読んだ当時のメモをみると、『鉄鼠の檻』は、<仏教のタームを多用したハードSFである? ありえない禅寺が主人公である。最後の成長しない童は圧巻である。脳髄内存在としての人間というテーマは京極作品をあまねく照らす黒体輻射・通奏低音である云々>と記していますし、『絡新婦の理』は、<本書と『たそがれに還る』は、実に構成要素は違うが、同じ構造――理――の物語なのだ。収束するのがミステリなら、本書はミステリではない。SFにお馴染みの、あの感覚と同種のものだ云々>(どちらの記事も「ヘテロ読誌1996」に所収)と書いていますから、当時の私はSFとして認識していたようです。
本来なら読み返して確認すべきでしょうが、あの厚さですからねえ(^ ^;。
<SF伝説>、いよいよニューウェーヴを取り上げます。
バリ−・N・マルツバ−グのごく短い短篇「三面鏡」は、ジャンルNWの典型的作品として非常によくでき上がった秀作だと思います。
比較的最近、SFM97年10月号(496号)に掲載されたものなのですが(初出F&SF誌69年7月号)、往時のNWの雰囲気が横溢していて、とても懐かしく、嬉しく感じたものでした。
月面に足跡を残し、地球への帰途に就いたアポロ宇宙船が舞台です。
――宇宙船は管理されている。テレビ中継の間はクル−は、わいせつな言葉や下品な言葉を避け、身だしなみに気をつけ視聴者に不快感を与えてはならない。視聴者に清潔で規律に満ちた宇宙を演出すること、それが宇宙開発プロジェクトを推進させるのだ。
だが、実際の宇宙船には――シラミはいるし、トイレが完備しているわけではないから糞尿の臭いが常時充満している。それが現実。
搭乗クル−は三名。船長のトマスは管制センタ−の意向に忠実、「この畏敬に満ちた宇宙を眺めていると、戦争や紛争は想像もつかない。人類の子供たちが平和と調和のうちに生きることができないなどとは想像もつかない」。
挑戦的なミラ−は、「逆噴射ロケットが点火しなければ、おれは地球にいるすべてのやつらに、胸のうちを洗いざらいぶちまけて、人生の最後の1週間を過ごしてやるつもりだ」「中継している時にいってやりたいことがあるんだ」。
わたしは互いに口をきかなくなった二人の間の意思疎通を仲介する。そうする時間はたっぷりある。表向きの発表と異なり、われわれ宇宙飛行士の仕事は、ごく少ないのだ。
ミラ−はいう。50年後には、想像もつかない困窮と人口過剰が地球を覆うだろう。宇宙はそれを解決するか? 否。惑星や衛星にはご清潔なコロニ−ができるだろう。しかしそれは地球にとって全く無価値なのだ、と……
――逆噴射ロケットは無事点火する。トマスとミラ−が談笑し始め、わたしは悟る。ふたりともストレスを転嫁していたのだ。ただ転嫁の方向が全く正反対だっただけ。つまり両者ともただの人間だったということ。
結局我々は、それほどばらばらだったわけではなかったのだ、これから戻っていく38万キロという距離に比べれば……。
だが、我々はどこに戻ろうとしているのだろう?
いい話でしょう。
前回も申しましたが、NW−SFとは、既存SFの支配的傾向である<進歩史観>もしくは<進化論>に対しては<構造主義的反歴史主義>もしくは<エントロピー論>を反措定し、<科学的合理思想>に対しては<錬金術的反合理思想>を反措定するものであります。
具体的には<驚異の宇宙>ではなく<退屈な宇宙>を、<支配階級>ではなく<被支配階級>を……意識的に反定立する、非常にソフィスティケーテッドな雰囲気を共有する作品群です。
本篇にはNWをNWたらしめている上記契機がすべて備わっています。
たとえば本篇には、薔薇色の未来像に対するアンチ、完全無欠な人間像に対するアンチ、科学信仰に対するアンチが明瞭に窺えます。
即ち進歩史観(既存SFの根底的前提)に対する反措定が作中に溢れ返っているのです。いわばこれまで本連載で取りあげてきたSFの条件がすべて否定されているわけです。
それでは本篇はSFではないのでしょうか?
私はSFであると断言します。
失念してはいけないのは、本篇が<既存SFという前提的観念なしには成立しない>ということです。いわばSFが倒立しているというか、裏返って存在しているといえましょう。
そういうわけで、典型的NW作品である本篇は、アンチSFということにおいて(いわば裏返しに)SFとつながっているといえるのです。
[BGM]LED ZEPPELIN(1969)