村山槐多デカダンス伝説

番犬敬白 2000年4月2日

 主人の連載「村山槐多デカダンス伝説」をひとつのページにまとめております。この連載に関するほかの方のおたよりも、関連箇所を抜粋して掲載させていただきました。なお、手前番犬の書き込みにおきましては、白い色が番犬の科白、この色が主人の科白この色が引用テキストであることを示しております。


ジョニヒ   2000年 3月 3日(金) 0時59分

初めまして、お邪魔致します。
一寸お聞きしたい事が御座いまして、カキコ致しました。
村山かい多の詩集い覆匹噺世κ「呂△襪里任靴腓Δ@」
モノ凄く場違いな私ですが、御返事お願い致します。

それにしても素敵なペェジですね。
まだまだちっとも読めておりませんが、
その内にきっと読破させて頂きます。


人外境番犬   2000年 3月 3日(金) 9時10分

 ジョニヒ様
 せっかくおたよりをいただきましたのに、いきなりの文字化けで申し訳ございません。この掲示板には半角かなを使用すると文字化けするという不思議な特性があるらしく、ほとほと手を焼いている次第でございます。まことに恐れ入りますが、半角かなをご使用にならぬようご留意のうえ、もう一度おたよりを頂戴できないものでしょうか。よろしくお願い申しあげます。主人は次のように申しております。

 村山槐多の詩集に関するお尋ねかとお見受けいたしますが、とんだことでどうもすみません。というところで、名刺代わりに村山槐多ネタを一発。

 自分は、自分の心と、肉体との傾向が著しくデカダンスの色を帯びて居る事を十五、六歳から感付いて居ました。
 私は落ちゆく事がその命でありました。

 これは槐多の遺書の冒頭です。槐多には「第二の遺書」ってのもあって、これがまた凄絶。そんなことはともかく、再度のおたより、お待ちしております。


ジョニヒ   2000年 3月 3日(金) 22時24分

ご迷惑をおかけいたしました。済みません。
そうです、
槐多の詩集って云うものは存在するのでしょうか?
出版社とか色々教えて下さい。
他にももっと彼の事教えて欲しいのです。
無知なもので、済みません・・・


第一回   2000年 3月 4日(土) 11時59分

 ジョニヒ様
 おたよりありがとうございました。文字化けが解消されてほっといたしました。村山槐多の件、主人が次のように申しております。

 いや。これはまいったな。まいりましたけれども、ご要望をいただきましたので、「村山槐多デカダンス伝説」、喜び勇んで本日から連載いたします。
 まず最初に、新刊として容易に入手できる槐多のテキストには、鮎川哲也さんの編によるアンソロジー『怪奇探偵小説集1』(1998年、ハルキ文庫)収録の「悪魔の舌」があります。これは小説です。

 村山槐多(むらやま・かいた) 明治二十九年九月十五日、横浜市に生まれる。京都一中時代に早くも戯曲を発表した早熟児であった。本編もその文学青年時代の創作であったと思われるが、作家としての村山氏を論じた人も皆無に等しく、短編は幾本書かれているのかという最小限のことも明らかでない。大正八年二月二十日没。

 というのが、上記のアンソロジーで「悪魔の舌」に添えられた紹介文です。ここには触れられていませんが、槐多の本業は洋画家ということになっていて、なにしろ22歳で死んだものですから、「夭折の画家」などという紋切り型で紹介されたりします。ちなみに「ユリイカ」という雑誌が去年の6月号で槐多の特集を組んでおり、浜田雄介さんの「村山槐多の探偵小説──江戸川乱歩からの視覚」などが掲載されています。
 江戸川乱歩は自分より二歳年下になる槐多の絵と詩文をこよなく愛していて、「槐多『二少年図』」という美しい随筆を記しています。昭和八年、書斎に掲げるために乱歩が入手した『二少年図』は、いまは池袋の乱歩邸にはなく、たしか世田谷文学館にお預けになっていると、平井隆太郎先生からお聞きしたことがあります。
 余談ながら、若き日の乱歩と槐多がどこかで偶然会っていて……、なんていう“乱歩小説”が書かれることを、私はひそかに期待しています。

 さて、槐多の詩集その他、本の形になったものをざっと挙げてみると、こんな具合です。
 『槐多の歌へる』 山崎省三編 アルス発行 1920年(1927年改訂版を発行)
 『槐多の歌へる其後』 山崎路郎編 アルス発行 1921年
 『村山槐多全集』 全一巻 山本太郎編 彌生書房 1963年
 『村山槐多詩集』 彌生書房 1974年
 ネット上で読める槐多作品としては、「青空文庫」に「悪魔の舌」と「殺人行者」が掲載されています。上のリンクで「作家別本のリスト【ま】」→「村山槐多」とお進みください。この「青空文庫」によると、彌生書房の『村山槐多全集』は1997年に増補2版が発行されているようです。1996年は槐多の生誕百年でしたから、それにちなんだ出版だったのかもしれません。これなら新刊として入手できるはずですから、私も一冊買っておくことにいたします。
 それから、乱歩の「槐多『二少年図』は、ちくま文庫の『江戸川乱歩随筆選』、河出文庫の江戸川乱歩コレクション5『群集の中のロビンソン』あたりに収録されています。近年、乱歩はエッセイストとしても再評価されていますが、とくに同性愛や少年愛を題材としたエッセイには、いい作品が多いようです。
 さて、「村山槐多デカダンス伝説」の記念すべき第一回を終えるにあたって、槐多の詩
「どうぞ裸になって下さい」(1917年)をご紹介いたしましょう。

うつくしいねえさん
どうぞ裸になって下さい
まる裸になって下さい
ああ 心がをどる
どんなにうつくしかろ
あなたのまる裸
とても見ずにはすまされぬ
どうぞ裸になって下さい

 以上です。


ジョニヒ   2000年 3月 5日(日) 2時34分

有難う御座います。モノ凄く嬉しいです。
是非是非買って読んでみたいと思います。

私が槐多を始めて知ったのは、シャガール展でした。
シャガール展で同時に槐多の詩展が開かれていたのです。
でもその時は時間が無く少ししか見られ無かったのです。
それから暫くして「乱歩」と言う本を読んでいました所、
二少年図なる絵を発見致しまして、
夢中になってしまったのです。
更にそれから、「C」という漫画にも
少しですが出ているのを発見しまして、
気になってしまったのです。

村山槐多デカダンス伝説・・・
本当に有難う御座います・・・。
続きも凄く楽しみです。お願いします。


第二回   2000年 3月 5日(日) 9時40分

 ジョニヒ様
 本日発行の「朝日新聞」読書面に、窪島誠一郎さん(信濃デッサン館・無言館館主)の『鼎と槐多──わが生命の焔 信濃の天にとどけ』というご本が紹介されておりました。ご存じかとも思いますが、念のためにお知らせいたします。信濃毎日新聞社発行、389ページ、1800円。河谷史夫さんによる書評の一部を引用いたします。
 心に「火」を抱く人は何があっても生きていける。窪島誠一郎にとって槐多は「火」であった。窪島の人生も多難だった。槐多を飾るためにデッサン館を建てたのだと、むかし聞いた。いつかきっと槐多のことを書くと思っていた。これは、槐多を生涯励まし続けた従兄(いとこ)の山本鼎(やまもとかなえ)とからめた「評伝小説」である。

 本日の「村山槐多デカダンス伝説」、次のようになっております。

 この「村山槐多デカダンス伝説」は年譜形式でやってみます。

 ▼1896年(明治29年)
 9月15日、村山槐多は村山谷助、たま夫妻の長男として神奈川県横浜市神奈川町に生まれました。父・谷助は山形県出身で、槐多出生時は神奈川尋常高等小学校の訓導(先生のことです)をしていました。母・たまは愛知県の出身ですが、結婚前には森鴎外宅で女中奉公をしていたそうです。
 ▼1897年(明治30年)1歳
 谷助が高知県中学海南学校に赴任したため、一家は高知県土佐郡小高坂村に転居しました。
 ▼1900年(明治33年)4歳
 5月、谷助が京都府立第一中学校に赴任、一家は京都市上京区寺町通り荒神口上ル宮垣町に転居しました。

 「本をさがす」というホームページで槐多の著書を探しました。次の2点が新刊として入手可能のようです。
 『村山槐多』 解説:窪島誠一郎、画:村山槐多、編:日本アート・センター/1997年、新潮社、1068円
 『村山槐多全集』(増補版) 著:村山槐多、編:山本太郎/1993年、彌生書房、6800円

 きょうの槐多の詩は「無題(走る走る走る…)」(1918年)です。

走る走る走る
黄金の小僧ただ一人
入日の中を走る、走る走る
ぴかぴかとくらくらと
入日の中へとぶ様に走る走る
走れ小僧
金の小僧
走る走る走る
走れ金の小僧

 以上です。


第三回   2000年 3月 6日(月) 8時23分

 本日の「村山槐多デカダンス伝説」、次のとおりでございます。

 ▼1903年(明治36年)7歳
 4月、京都市立春日尋常高等小学校入学。まもなく一家は京都市上京区寺町通り今出川上ル五丁目西入ル桜木町に転居。6月、京都府師範学校付属小学校に転校。
 ▼1905年(明治38年)9歳
 槐多はこのころから絵を描くようになります。父・谷助は槐多に岩絵具、色鉛筆、画帳などを買い与えました。この年11月23日、母・たまは嶺田丘造あてに葉書を出していますが、通信面には槐多が水彩画を添えています。煙を吐いて海を行く汽船、その絵を一本の錨と鎖が丸く取り囲んで、その外側にたまの文章が綴られています。末尾には「これは槐多がかきました」と絵のことが説明されていますが、これが現存するなかでもっとも早い時期に描かれた槐多の絵のひとつです。ちなみに、子供が船を描くとたいていは船体を横から眺めた平板な絵柄になると思うのですが、槐多は船を正面から描くことによって絵に奥行きを与えています。槐多少年の非凡な画才が窺える気がします。
 ▼1907年(明治40年)11歳
 3月、京都府師範学校付属小学校を卒業。4月、同小学校高等科入学。
 ▼1908年(明治41年)12歳
 槐多は外国の冒険小説を読みあさり始めます。

 きょうの槐多の詩は「人々よ」(1916年)です。

われは心に数千の宝玉を貯はへ
身に黄金を装ひて
汝等の前に現はるべし
必ず現はるべし
その時汝等の驚ろきは
わが知る所ならず

 以上です。本連載の参考資料は連載最終回に記します。それにしても、いつ終わるのでしょうか、この連載。


玉川知花   2000年 3月 6日(月) 12時47分

少しご無沙汰している間に色々な連載が始まっていて驚きました。
なかでも「槐多デカダン伝説」が楽しみです。
ちょうど詩集を読んでいたところでしたので。


第四回   2000年 3月 7日(火) 9時46分

 本日の「村山槐多デカダンス伝説」、次のとおりでございます。

 ▼1909年(明治42年)13歳
 このころ、槐多は森鴎外、夏目漱石らの著作を読破し、とくに上田敏の訳詩集『海潮音』から強い影響を受けます。12月28日には、視察旅行の途中で京都に立ち寄った鴎外を、槐多は父・谷助らと京都駅へ迎えに行き、夜には母・たまとともに鴎外の宿を訪れています。たまが結婚前、鴎外宅で女中をしていたことは先に記しましたが、槐多の名付け親は鴎外であると、村山家では伝えられていたそうです。
 ▼1910年(明治43年)14歳
 7月、従兄弟の山本鼎が村山家に滞在し、近郊へ写生に出かけました。槐多も同行し、鼎から油絵道具一式を与えられて、絵の道に進むよう強く勧められます。

 きょうの槐多の詩は「君に」(1913年)です。

げに君は夜とならざるたそがれの
美しきとどこほり
げに君は酒とならざる麦の穂の
青き豪奢

すべて末路をもたぬ
また全盛に会はぬ
涼しき微笑の時に君はあり
とこしなへに君はあり

されば美しき少年に永くとどまり
その品よきぱつちりとせし
眼を薄く宝玉にうつし給へり
いと永き薄ら明りにとどまる

われは君を離れてゆく
いかにこの別れの切なきものなるよ
されど我ははるかにのぞまん
あな薄明に微笑し給へる君よ。

 以上です。


人外境番犬   2000年 3月 8日(水) 10時13分
がらんす倶楽部

 ジョニヒ様
 「村山槐多デカダンス伝説」、本日はお休みでございます。どうも申し訳ございません。主人は、終盤を迎えている「藤田まことてなもんや伝説」を終えてから、「村山槐多デカダンス伝説」を再開したいと申しております。なお、上のリンクの「がらんす倶楽部」は、槐多をメインテーマにしたホームページで、手前どものリンク集「うつし世リンク」の「眷属」にも近く追加する予定でございますが、取り急ぎお知らせ申しあげます。


日夏 杏子   2000年 3月10日(金) 11時24分

人外境番犬さま
 ご主人の『村山塊多デカダンス伝説』楽しく拝読させていただいております。
 昨年の『ユリイカ』6月号(村山塊多特集号)を購入しました。


大熊宏俊   2000年 3月12日(日) 13時23分

 それはそうと、村山塊多、連載の詩があまりに素晴らしいので、青空文庫へ行き「悪魔の舌」を読んでみました。いささか首を傾げました。
 これはSFではないなあ、というのが第一印象でした。もちろんSFなんぞでは端からないのは承知していますが、私の読書は「読んでいる作品の中にSFを発見する」という読み方なのです。
 「マグロマル」や「最高級有機肥料」はわたし的には紛れもないSFなのですが、この作品は違いました。SFではなく、むしろホラーに分類さるべき作品だったのです。

 本作品は人肉嗜食を取り扱っているのですが、話者にワトソン的常識人(非・人外、非・頽廃、非・狂人)を配し、その友人の人肉嗜食をおぞましいと感じること(を描写すること)で読者に恐怖を喚起させるのですが、その友人自身はこの段階では自身を「人外」として自己認識しており、「異端」の側に留まっており、「常識」を根拠とするホラー的要素と「異端」的人物像が拮抗を保っており、読者を間然とさせません。
 ところが最終場面で友人は自分が食した人肉の正体を知り、自殺してしまうのです。その動機がなんとまあ、ワトソン的常識人そのものなのでした。ここで私はがっかりした次第なのですが、そうか、SFは「既成の価値観を飛び越えたところに存在するもの(しなければいけないもの)」だけど、ホラーは「既成の価値観」を前提としたところに発現する恐怖を描く小説形態なのだなと、あらためて気づかされた次第です。で、私は「怪奇小説」という小説形態を妄想しているのですが、それはおいおいということで・・・


第五回   2000年 4月 2日(日) 10時43分

 それでは、「村山槐多デカダンス伝説」、再開させていただきます。バックナンバーもひとつのページにまとめ、左のフレームから直行できるようにいたしました。なお、連載第四回でご紹介いたしました詩「君に」は、全四聯のうち前半だけの掲載でございましたので、バックナンバー収録に際して後半二聯を増補いたしました。

 連載第四回、すなわち槐多が14歳だった1910年(明治43年)のあとを受けて、さっそく始めましょう。
 
▼1911年(明治44年)15歳
 京都府立第一中学の三年生になった槐多は、クラスメートと「毒刃社」というグループを結成、回覧雑誌を発行します。誌名を列記してみましょう。
  強盗
  空の間
  魔羅
  銅貨
  孔雀石
  アルカロイド
  青色廃園
  新生
 槐多の命名によるものかどうか、それは不明です。ただし、槐多的美意識の感じられる誌名であることは間違いなく、それに槐多は「青色廃園」と題した詩も残していますから、槐多がつけた誌名だと考えるのが自然かもしれません。槐多はこれらの雑誌づくりに熱中し、原稿の集まりが悪いときなど、一人で一冊分の原稿を書きあげたといいます。中学時代の槐多の詩、小説、短歌、戯曲の大半はこうした回覧雑誌に発表されたもので、つまり当時の槐多は、絵よりも詩文に情熱を注いでいました。学業優秀で級長を務めていたものの、いたずらが過ぎて辞めさせられたのもこのころのことです。
 
▼1912年(明治45/大正元年)16歳
 7月、槐多に絵の道に進むことを強く勧めた従兄弟の山本鼎(かなえ)が渡仏します。鼎は1916年に帰朝しますが、槐多はフランス滞在中の鼎にデッサンや水彩画を次々に送りつけ、鼎の眼を見張らせます。鼎はフランスで、槐多の天才を守護することは自分の使命であると自覚したといわれます。そしてこの年、槐多は一人の美少年に恋をしました。相手は、一級下の稲生■( JIS 漢字に存在しない字のようです。さんずい偏に粲という字を書いて、きよし、と読みます)。上で触れた「青色廃園」という詩は、じつはこの稲生少年に捧げられたもので、槐多はこんな献辞を寄せています。
 
是等の詩はわが友なるあへかなる少年のそ
 の異名を PRINCE と呼ぶに捧ぐるなり

 きょうの槐多の詩は「血の小姓」(1913年)です。

虐殺せられし貴人の
美しい小姓よ
汝の主(しゆ)の赤に金に赤に金に
ぎらぎらとだらだらと滴たる血に
じつと見入る小姓よ

夜が来たぞ
人もないこの無慈悲な夕(ゆふべ)
誰かが泣き出した
狂した小姓よ汝も
泣け、血に愛せられて。

 以上です。世の中にはゆくりなくも、としか表現しようのないことがあるものですが、きょうの「血の小姓」などまさにゆくりなくも、日夏杏子さんの「妖姫サロメクラシック伝説〈頽廃の美学〉」とかたみに響き合っているような気がします。日夏さん、そうはお思いになりませんか?


第六回   2000年 4月 3日(月) 8時33分

 さて、「村山槐多デカダンス伝説」でございます。

 ▼村山槐多と稲生少年(と江戸川乱歩)
 村山槐多は、中学時代に恋をした(懸想した、と表現するべきか)一級下の美少年、稲生■(さんずい偏に粲を書いて、きよし)と、実際には二、三度話を交しただけだったといいます。しかし槐多の夢想の世界に、稲生少年はプラトン的憧憬に形を与えた美しい像として存在しつづけました。死の間際、槐多は稲生少年の名を呼んだとも伝えられていて、これはなんだか江戸川乱歩の長篇「孤島の鬼」のラスト、
 
「道雄は最後の息を引き取るまぎわまで、父の名も、母の名も呼ばず、ただあなた様のお手紙を抱きしめ、あなた様のお名前のみ呼び続け申候」
 というくだりを連想させるエピソードです。
 乱歩といえば、槐多は稲生少年をモデルにした水彩画「稲生像」を残していて、そこには和服を着た少年のうつむき加減の横顔が描かれているのですが、それがどうも少年時代の乱歩によく似ているように、私には見えます。というのも、乱歩の自伝『探偵小説四十年』の最初の方に、愛知県立第五中学一年生当時の乱歩の写真が収録されていて、和服姿の乱歩少年が雑誌を手にしながらこちらを向いているのですが、この少年を横から描くと「稲生像」になるような気がして仕方ないのです。
 ところで、明治41年の夏、12歳の槐多は三重県津市に一か月ほど滞在しています(このときの日記「磯日記」は槐多全集に収録)。教師だった父・谷助が臨海学校を引率したため、家族で同行したのでした。津には二見浦という著名な海水浴場があります。この年、乱歩は14歳、住居は名古屋、愛知五中の二年生でした。名古屋と津とは比較的近い距離にありますし、津は乱歩にとって父祖の地でもありましたから、乱歩がこの夏、二見浦を訪れなかったとは断言できません(前年の夏、乱歩は、というか平井太郎少年は熱海温泉に祖母と遊び、海水浴なども楽しんでいます)。となると、この夏、二見浦の海岸で、乱歩と槐多がお互いに滑るようなまなざしを投げかけながらすれ違っていた可能性がないわけでもなく、ということは、このネタで一本、“乱歩小説”が書けることになります。どなたか挑戦してみてください。
 さて、稲生少年は京都の神楽岡というところに住んでいたのですが、槐多はその神楽岡周辺をグロテスクな仮面をかぶったり、オカリナを吹いたりしながら彷徨したといわれています。槐多の奇行はこのころから顕著であったらしく、明治45年10月、東京・江ノ島方面への修学旅行では、教師の眼を盗んで突然海に飛び込んだりもしています。

 きょうの槐多の詩は「四月短章」(1913年)です。

     

玻璃の空真(まこと)に強き群青と
草色に冷たく張らる
かくて見よ人々を
木偶(でく)の如そこここに酒に耽れる

しかして
美しき玉の月日に悦びて
ただひとりはなれし君は
いと深き泉に思ふ。

     二

銀と紫点打てる
川辺にめざめ立ちし子よ
いま日はすでに西にあり
青き夜汝(なれ)をまちてあり
行け朧銀の郊外を
あとに都に汝は行け。

     三

善き笛の冷めたき穴に
こもりたる空気をもれ
美しく歩み出でたる
君ひとり物のたまはぬ。

     四

血染めのラッパ吹き鳴らせ
耽美の風は濃く薄く
われらが胸にせまるなり
五月末日日は赤く
焦げてめぐれりなつかしく

ああされば
血染めのラッパ吹き鳴らせ
われらは武装終へたれば。

     五

春の真昼の霞に
鋭き明り点けたる小径あり
かたはらにたんぽぽのかたはらに
孔雀の尾の如き草生あり

そが小径にのがれて
さびしくいこふ京人あり
美しく幽けき面
小径がつけし明りの中に更に鋭き明りをつけたり。

 以上です。きょう一日、あなたの脳裏には、「血染めのラッパ吹き鳴らせ」というリフレインが呪文のように揺曳することでしょう。はっはっは(元祖)。


第七回   2000年 4月 4日(火) 8時35分

 さて、「村山槐多デカダンス伝説」でございます。

 ▼1913年(大正2年)17歳
 5月、槐多は京都府立一中講堂で開かれた弁論大会に参加し、「個人の発展」と題してニーチェ思想に言及します。11月には、図画担当教師・加藤卓爾の提案によって校内で催された図画展覧会に、作品9点を出品しました。そのうちの「王子」は稲生少年を描いたものといわれます。王子、すなわち PRINCE です。同じく11月、小説「鉄の童子」を執筆(未完)。絵の方では木版画も手がけ、一方で立体派や未来派などヨーロッパの前衛絵画の影響を受けて、唐紙に水彩画を描いたりもしました。12月、槐多には直接関係ないことですが、東京の帝劇で芸術座がワイルドの「サロメ」を初演しています。

 きょうは槐多の詩をお休みし、かわりに槐多が稲生少年に宛てたラブレターをご紹介します。

美しいあなたに、こんな手紙を書けるか
と思ふと嬉しくて耐らない。どうぞ読んで下さい。
白状しますれば僕は君が慕はしくて耐らない。
確に僕は君に戀して居ます。
少々滑稽だけど僕は君のことを考へるときつ
と眞赤になります。ひとりではづかしくなる。

あなたはあなたのおもかげは絶えまなく僕の物
思ひに上つて居る。美しい物を見た時の聯想はきつと
あなたです。
僕は君が大好きで世界で一番美しいと思つて居る。
何となれば君はオープレー・ピアズレーと云ふ畫人の
描く神経的な美人によく似て居るから。
そして僕はオープレーピアズレーが大好きだから。

あなたはほんとに御綺麗ですね。あなたはそして神
経質ではありませんか。どうか神経質になつて下さい。
君は多分私の様な粗野な百姓はおきらひでしやう。
僕だつて君の気に入る人間だとは思つて居ない。しかし
僕はいくら君が僕がきらひでも僕は君の事を思ひつづ
けますよ
一生思つてあげます。
僕はあなたの精神にも肉体にも戀して居ます。
僕と友達になつて呉れないか。

僕は外面的には恐ろしく汚ないが、内心には
君の友人として恥づかしくない実質を有つて居ますよ。
僕の友人になつて僕に君に始終手紙を出したりする
自由を許して呉れ給へ。

そうすればどんなに嬉しいでしやう。
あなたはいつまでも子供で居て下さい。僕だつて子供です
一生子供です。
僕は藝術をやるのです。二、三年のうちにはきつと僕の
作つた芝居が劇場で演ぜられましやう。(少々怪しい)
その時には一番先にあなたに見て頂だきたい。
ですからその時あなたに招待状をあげる為には
君と早く友人になつて置かなければならないと思
つてこんな下らない事を書いたのだ。
僕は貧乏ですからあなたにささげる眞心
には偽はありませんよ。
僕はつくづく書きながらもあなたの綺麗さを思つて
居ます。あなたはベルサイユ宮殿に住んでる人か
巴里人か 花火か 絵か 音樂か…何だか知らないが美
しい。 ご返事をお閑な時に呉れたまへ
お閑な時でよろしく
              さよなら
稲生きよし様
                村山槐多

 以上です。これが稲生少年の手に渡ったのかどうか、それは不明です。


第八回   2000年 4月 5日(水) 9時30分

 さて、「村山槐多デカダンス伝説」でございます。

 ▼1914年(大正3年)18歳
 3月、槐多は京都府立第一中学を卒業します。画家を志して上京を決意しますが、父・谷助はそれに反対しました。事情を知って助け船を出したのが、フランス滞在中の従兄弟・鼎でした。鼎は谷助を手紙で説得する一方、槐多を激励し、上京後は画家・小杉未醒を訪ねるようアドバイスを書き送ります。
 そして5月、槐多はいよいよ京都を離れ、まず長野県大屋に山本鼎の両親を訪ねて、二か月近く滞在します。このとき、学友だった山本二郎に宛てた手紙に、槐多はこう書き記しています。
 
僕はもう少し上京がのびるかもしれん
 それは僕はもう画学生の階段なしにすぐ芸術に突入する様になるかもしれんからだ、つまり本職に。
 僕はうぬぼれではないが自己の天分が少くとも普通のトルコ帽をかぶつた連中と教室で木炭をかむのには貴とすぎると信じて居るから。今日僕に小杉氏が手紙を呉れた、氏のをじさんへの手紙など見ると僕の画を見て
 「まれなる天分を有する少年」と見て呉れたらしいのだ(うぬぼれはせんぞ)
 これから僕の未来がトントン拍子に幸福に行くかどうか一寸面白いだらう、第三者なる君などにとつては見て居て呉れろ。うまくやるつもりだ、

 長野県滞在中、槐多は眼を悪くして治療を受けます。全快はしたのですが、槐多は一時、失明の恐怖を覚え、「僕は眼の為に神経を起して少し狂的になつた」と、やはり山本二郎宛の書簡で打ち明けています。同じ手紙には、
 
ああ、また自殺がしたくなつた。
 僕は此月になつてから実に変てこな気持で暮して居る。
 『死』『死』と叫びながら未来も過去も消え失せた。
 未来も過去も汚い汚い靄でかくされてしまつた。

 と「芸術に生きて行く人間が盲目になる」ことの絶望を書きつけた箇所もありますが、手紙の最後は、
 
僕は今ハツと気がついた処なのである。
 『未来へ行け未来へ行け』
 未来には恥がある、悲哀もある、失敗もある、苦痛もある、
 しかし生命がある、
 未来の生命にいけ、
 『生命の薔薇畑へ突入せよ花ととげとの中を』
 僕は苦痛も否定せぬ
 快楽はむろん是とみとめる
 生命があるといふその事がうれしいのだ。
 生命より死は安楽だ、しかし大きな生命のあとにこそ大きな安楽のあることを今知つた。
 僕はしつこく生きる、君も生きろ、
 生命だけはどんな恥を受けてもどんな苦痛を受けてもすてるな 生命にかじりつかねばダメだ、
 これでやめる お身体大切にして呉れたまへ。
        生命の鉱夫としての
                 槐多生、

 と力強い言葉で結ばれています。
 6月25日、小杉未醒から未醒邸に下宿することの了解をとりつけて、槐多は上京します。

 きょうの槐多の詩は「にぎやかな夕ぐれ(K.Iに)」(1914年)です。

「にぎやかな夕ぐれやおへんか
ほんまににぎやかやおへんか」
何がにぎやか、何がにぎやか
薄青い濃い夕ぐれ

美しい空が東山に
紫の珠が雨みたいに東山に
星が血のりめいて酒びたりの春の空に
紫に薄くれなゐに

「ほんまににぎやかやおへんか」
たどりゆくは女の群
宝玉でそろへた様な多情な群
美しいお白粉にきらきらと

燈が燈が燈が加茂川の岸べに
金色に、アークランプも桜色に
「ほんまににぎやかやおへんか
きれいな夕ぐれやおへんかいな」

わたしはたどる紫の貴い薄紫の
神楽岡の裾を浮き浮きとした足どりに
たらりたらりと酒が滴たる
あざみ形の神経から

「にぎやかやおへんかいな」
わたしは答へるうれしさに
「そうどすえなあ」
美しい女の群に会ふや数々

「にぎやかな夕ぐれどすえな
ほんまににぎやかな
あの美しいわたしの思ふ子は
此頃どないに綺麗やろえな」

近衛坂を下れば池の面に
空がうつる薄紫の星の台が
ほのかにもるゝ銀笛の響は
わが思ふ子の美しい家の窓から

「にぎやかな夕ぐれやおへんか
ほんまににぎやかやおへんか」
この時泣いて片恋のわれはつぶやく
「そやけどほんまはさびしおすのえなあ」。

 以上です。これもまた稲生少年に捧げた詩です。少年の住む神楽岡を彷徨した体験から生まれた作品だと思われます。


第九回   2000年 4月 6日(木) 7時39分

 さて、「村山槐多デカダンス伝説」でございます。

 ▼槐多の片恋
 
村山槐多は1914年、京都を離れ、東京に居を定めました。となると、京都府立第一中学における一級下の美少年、稲生少年への槐多の思慕(きのうの詩「にぎやかな夕ぐれ」に倣えば「片恋」)はどうなってしまったのだろう、とお思いの方もいらっしゃるでしょう。いささか補足しておきます。
 きのうご紹介した山本二郎宛の書簡(「僕はもう少し上京がのびるかもしれん」で始まる方)に、槐多はこんな戯れ歌を書いています。
   
○歌一首    恋稲法師
 ◎失恋し、ひとり街をばさまよひて
        鯛焼五疋喰みてつばはく、

 「恋稲法師」という名には、いうまでもなく稲生少年への片恋が託されています。しかしその一方、山本二郎に出した別の手紙では、美少年や美少女と知り合いになって、「この山国でもすでに三箇の恋を発掘した」なんて槐多はしれっと報告していますし、別の書簡でも、
 
稲生の一件もうおれは思切つた。
 実はあいつに手紙をやつたんだ、しかるに生意気にも返事をくれない。
 僕はあんな小ぽけな奴、人形に等しい奴に屈服するのはいやだ。もうあきらめた。

 と、これは槐多の強がりと読めなくもないのですが、とにかくそんなふうに宣言しています。そして上京後には、
 
稲生の事心配しなくとももうすつかり忘れたから大丈夫だ。
 いま僕の Chigo san 十五才になる天分ある少年画家だ。

 と山本二郎に書き送っていて、稲生少年の面影は槐多の胸から完全に消え去ったかのような印象を抱かせます。
 もっとも、以前に記したとおり、槐多は死の間際に稲生少年の名を口にしたとも伝えられていますから、片恋はついに槐多の胸底を去ることがなかったのかもしれません。あるいは死の床の、夢ともうつつともつかぬ意識の混濁のなかで、槐多は懐かしい少年時代に立ち戻り、稲生少年と二人、春の庭にでも遊んでいたのだと考えるべきでしょうか。かつて描いた「二少年図」さながらに。

 きょうの槐多の詩は「血に染みて」(1913年)です。

血に染みて君を思ふ
五月の昼過ぎ
赤き心ぞ震ふ
あはれなるわが身に

はてしらぬ廃園に
豪奢なる五月に
君が姿立てる時
われはなくひたすらに

わが血は尽きたり
われは死なむと思ふ
華麗なる残忍なる君をすてゝ
血に染みて死なん。

 以上です。


掲載 2000年4月2日