二山久は明智小五郎の
モデルなのか伝説

番犬敬白 2000年7月29日

 主人の連載「二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説」をひとつのページにまとめております。この連載に関するほかの方のおたよりも、関連箇所を抜粋して掲載させていただきました。なお、手前番犬の書き込みにおきましては、白い色が番犬の科白、この色が主人の科白この色が引用テキストであることを示しております。


SHADOW   2000年 3月29日(水) 22時37分

それから、またまた変な質問で申し訳ないのですが、平成元年に新潮社から新潮コミックとして「漱石事件簿」が出版されていますよね。(原作、古山寛、画、ほんまりう)
その中で、平井太郎すなわち江戸川乱歩の友人で明智小五郎のモデルとなった人物として、二山久なる人物が登場しています。あとがきの人物紹介のところで、「このモデルになった人物に書かれた作品は一つしか知らない。島田荘司氏の乱歩の幻影である。ただし、ここでは二山久の名が二川至になっている。わざと変えられたのか、あるいは使われた資料で,すでにそうなっていたのだろうか。」というコメントがあり、乱歩の幻影を読みましたところ、なるほど名前が変わっていました。
しかし、そのことはそれほど重要ではなく、一番不思議なことは、その二山久(二川至)の人物像が、漱石事件簿と乱歩の幻影ではまるで正反対であるという点なのです。
乱歩の幻影では、さすが明知小五郎のモデルになっただけあって頭脳明晰でやや風変わりに描かれているものの、切れる人」(今の若い奴らの切れるというのと違いますよ)という描き方がしてあるのですが、乱歩の幻影では、世間の常識というものを一切関せず、他人の迷惑も何とも思わぬ、プータローという印象を受けます。いや、それ以外には思われないのです。多分に作者の、解釈もあるとは思うのですが,あまりにも違いすぎるのであなたのご主人様のご意見を伺っていただきたいのです。
よろしくおねがします。
では。


人外境番犬   2000年 3月30日(木) 9時 3分

  SHADOW 様
 昨日のお尋ねに関しましては、
 二山久はむろん実在の人物で、乱歩が三重県の鳥羽造船所に勤務していた当時の同僚でした。乱歩が造船所を辞めて上京すると、二山もそのあとを追って東京で生活を始めます。しかし、『探偵小説四十年』には二山久に関する記述が四か所しか見られず、昭和六年の項に、

 【一月】小説資料集めの助手として、私の宅に同居していた旧友二山君と口論あり同君去る。

 とあるのを最後に、二山久は消息を絶ってしまいます。で、島田荘司さんの「乱歩の幻影」ですが、この作品の二山久像は、作中にも書かれているとおり、福島萍人(ふくしまひょうじん)という人の私家版の随筆集『続・有楽町』に収録された「江戸川乱歩の友人」に依拠しています。「乱歩の幻影」が収められた『網走発遙かなり』の巻末には参考文献四点が挙げられていて、そのなかにも、

 福島萍人著・「続・有楽町」(この随筆集は実在します)

 と記されているのですが、この『続・有楽町』という本はたしかに実在しています。ただし、「乱歩の幻影」に引用されていたように、二山久を「二川至」としているのかどうかは、『続・有楽町』にあたってみないことには判りません。私はこの随筆集のコピーを所蔵しているのですが、どこにしまい込んだのか判らなくなっていて、探し出してくるには少し時間がかかりそうです。ですから二山久に関しては、とりあえずそのコピーを確認したうえで、あらためてお答えしたいと思います。
 と主人が申しておりますので、もうしばらくお待ちいただきたいと存じます。


人外境番犬   2000年 3月31日(金) 9時33分

  SHADOW 様
 『続・有楽町』のコピー、まだ発見できておりません。どうも申し訳ございません。主人が次のように申しております、
 じつは私は『漱石事件簿』という漫画を知りません。そこでお聞きしたいのですが、『漱石事件簿』には巻末あたりに参考文献が掲げられているのでしょうか。というのも、二山久について書かれた文献は、私の知る限りでは福島萍人さんの『続・有楽町』だけですから、『漱石事件簿』が二山久をどういった人物に造形しているにせよ、ネタ元は『続・有楽町』か、でなければそれに依拠した島田荘司さんの「乱歩の幻影」か、そのいずれかだと思われます。もしもこれ以外に二山久に関する文献があるのなら、『漱石事件簿』がそれに基づいている可能性もあるわけで、そのあたり、同書に参考文献が明記されていれば確認できると思うのですが……。以上、『続・有楽町』のコピーを読んでからお聞きしようと思っていたのですが、探し出すのにちょっと手こずりそうなので、先にお聞きする次第です。それから、『漱石事件簿』には、乱歩のデビュー作が「二銭銅貨」ではなくて「D坂の殺人事件」であると書かれてませんでしょうか。かなり以前、そんなことを聞いたような聞かなかったような曖昧な記憶がありますので、できることなら確認したいのですが。


平山雄一   2000年 3月31日(金) 19時59分
http://www.parkcity.ne.jp/~hirayama/Jmain.htm

>島田荘司さんの「乱歩の幻影」か、そのいずれかだと思われます。

私の手許にあるのでは、参考文献一覧はのっていませんが、巻末の解説では島田荘司の本のみが典拠のようです。
私も「続・有楽町」について疑問に思っていたので、楽しみにしています。


SHADOW   2000年 4月 1日(土) 23時39分

人外境番犬さんへ。こんばんわ。
重ね重ねの,ご主人様の情報提供ありがとうございます。
さて、「漱石事件簿」ですが、平山雄一氏もご指摘のとおりで、出典は島田荘司氏の「乱歩の幻影」です。
このコミックは全部で四部構成になっており、各構成は次のとおりです。
 第一綴:黄色い探偵(前編 クマグス)
 第二綴:黄色い探偵(後編 金之助)
 第三綴:団子坂殺人事件
 第四綴:明治百物語
という構成になっております。
クマグスとは、いわずもがな南方熊楠、金之助は夏目漱石、この掲示板の主旨にはずれるので詳しいことは省略しますが、第三綴の団子坂殺人事件の冒頭に登場するのが、平井太郎すなわち江戸川乱歩であります。
この作品の(第三綴で)設定は、乱歩が親友である二山兄の下宿を訪ねるところから始まり、二山の下宿は夏目漱石の自宅の向かいという設定です。
第四綴で、明治44年、1月24日、東京・小日向 養源寺で百物語が催され、そこに森鴎外、永井荷風、金田一京助、野村胡堂、夏目漱石、寺田寅彦、岩田準一、宮武外骨、そして乱歩が登場ます。そこへ、二山久もいるわけですが、そこのページには「さらに、二山久が,乱歩の目の前から完全に姿を消すのは、この後,昭和6年になってのことである。これについて、乱歩は後に記している。
「同居していた旧友、二山久君と口論あり,同君去る。」これ以後の天才二山久については、断片的にわずかな事が知られているだけである。」とあるのみ。
だが、この二山久なる人物は、先日のメールでも言いましたように、この「漱石事件簿」と「乱歩の幻影」では、180度、人物像が異なるので、あなたのご主人様に伺った次第です。
なにか、情報がありましたらご連絡ください。
では。


人外境番犬   2000年 4月 2日(日) 10時43分

  SHADOW 様
 『漱石事件簿』のお知らせ、ありがとうございました。『続・有楽町』コピーの探索、いささか手が廻りかねております。申し訳ございません。もうしばらくお待ちくださいますよう、お願い申しあげます。


人外境番犬   2000年 4月 6日(木) 7時39分

  SHADOW 様
 長らくお待たせいたしました。過日お尋ねをいただきました二山久の件、主人がわあわあ大騒ぎしながら狭い書斎を右往左往し、福島萍人さん著
『続・有楽町』を引っ張り出してまいりました。肩で息をしております。「江戸川乱歩の友人」と島田荘司さんの「乱歩の幻影」とを照合したうえで、あらためて詳細をお知らせ申しあげたいとのことでございます。いましばらくお待ちいただければと存じます。


第一回   2000年 4月 7日(金) 9時18分

  SHADOW 様
 過日のご質問に基づきまして、主人の「二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説」、本日からお届けいたします。二回か三回程度の連載になる予定でございます。それにしても、語呂の悪いタイトルで申し訳ございません。

 二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説(第一回)

 島田荘司さんの小説「乱歩の幻影」に登場する『続・有楽町』と、そこに描かれた二川至(実名は二山久)という名の江戸川乱歩の友人について、以下に記します。
 まず、実在する随筆集『続有楽町』(実際の書名にはナカグロ=「・」=は使用されていません)をご紹介しておきましょう。といっても原本は手許になく、表紙や奥付などのコピーから拾ったデータなのですが、判型はほぼ B6 判の見当で、全303ページ。発行は昭和53年7月31日。「乱歩の幻影」で「Uプリント」とされている印刷所は、墨田区にある「(有)うぬまプリント」です。著者名と発行者名は、ともに福島萍人(ひょうじん)さん。つまり私家版、自費出版の本です。
 奥付の著者紹介によれば、福島さんは大阪のお生まれ。生年は明記されていませんが、

 戦後疎開先の長野県から上京、混乱の中で警視庁の通訳として終戦処理の大業に従事、昭和42年3月定年退職した。

 とありますから、定年が60歳だったとすれば、『続有楽町』刊行時には71歳ということになります。住所は「乱歩の幻影」に記されているとおり、足立区千住旭町です。
 さて、結論からいいますと、『続有楽町』(以下、「底本」と呼びます)に収録された福島さんの随筆「江戸川乱歩の友人」は、「乱歩の幻影」にそのまま転載されています。厳密には、「乱歩の幻影」収録にあたって、底本の脱字を補う、底本になかったルビ(ふりがな)を加えるなどの処理がわずかに施されていますが、それを除けば、「江戸川乱歩の友人」は底本そのままが全文「乱歩の幻影」に収められていることが判りました。
 「二山久」という実名を「二川至」に変更したのも、底本で行われた操作です。これはなんら異とするにはあたらず、実在の人物を随筆に書く場合、ごく普通になされる配慮だと思われます(実在のうぬまプリントを「Uプリント」とするようなものです)。底本では乱歩の本名も、同様の配慮からか「平井二郎」に変えられていますが、「乱歩の幻影」は実名の「平井太郎」に戻しています。
 つまり、二山久に関して記された文献は福島萍人さんの「江戸川乱歩の友人」だけであり、それはそのまま「乱歩の幻影」で読むことができるというわけです。ただし「乱歩の幻影」には、底本からは知り得ないことも記されています。作中で、主人公が『続・有楽町』という本の存在を知り、著者の福島さんに面会して質問するシーンが出てきますが、そこで福島老人が語った二川至に関する事実は、いうまでもなく底本には書かれていません。
 このあたりのことを推測してみましょう。島田さんの「乱歩の幻影」が発表されたのは、昭和62年2月でした。作品の冒頭に「三十年前」が「昭和三十年頃」だとする記述がありますから、作中の「現在」は昭和60年だとしておきます。昭和60年は底本刊行から9年後で、さっきの仮定に従えば福島さんは80歳の計算です。「乱歩の幻影」には、主人公が訪問すると、

 ほどなく福島萍人氏が現われ、私に小声で手短かに挨拶をすると、坐り机をはさんだ反対側へ、ゆっくりと腰を降ろした。八十歳くらいにみえた。

 という描写があり、このあたりはほぼ事実が描かれていると思われます。つまり島田さんは、福島萍人という実在の人物による実在の随筆を全文、小説のなかに使用したのですから、当然福島さんの了解を求める必要があったはずです。だからおそらく福島さんを訪問し、承諾を求める一方で、二山久に関する取材を行ったと考えられます。作中で主人公と福島老人が二川至をめぐってかわした会話は、実際に行われた島田さんと福島さんの会話に基づいているはずで、

 福島老人は(「D坂の殺人事件」における明智小五郎の描写の──引用者註)最初のあたりを読みながら、
 「ああ、ああ、二川のことを書いてるな……」
 と頷きながらそうつぶやいた。私は身を乗り出した。そして、老人が読み終るのを待ち、尋ねた。
 「似てますか?」
 「そう、まあ、似てるね」

 といったあたりから福島老人によって語られる二川至のエピソードは、島田さんの取材によって明らかになった「江戸川乱歩の友人」の“補遺”であるといえます。
 これらの会話がすべてフィクションであるという見方も可能ですが、島田さんが「江戸川乱歩の友人」のことで福島さんにコンタクトを取ったのであれば、そこに書かれた以上の情報を取材しようとしたのは間違いないと思われます。二川至が残したという写真の一件は虚構でしょうが、二川至の風貌や戦後の住居に関する情報は、福島さんとつきあいのあった二山久のそれがそのまま語られていると見ていいように思います。
 ただし、縁起でもないことですが、たとえば福島さんがすでに死去しており、島田さんは福島さんに会うことなしに「乱歩の幻影」を執筆したという可能性も否定はできません。上に記したのはあくまでも推測にすぎません。つづく。


第二回   2000年 4月 8日(土) 9時39分

 二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説(第二回)

 福島萍人さんの随筆集『続有楽町』収録の「江戸川乱歩の友人」には、たしかにはっきりと、

乱歩の作品の中に明智小五郎と名乗る人物は自分であると、かつて二川がつぶやいたことがあるが、

 と書かれています。この二川至、つまり二山久について、今度は乱歩がどう記しているかを見てみましょう。といっても、乱歩が二山久に関して残したのは、以前にも触れたとおり『探偵小説四十年』に散見される断片的な記述ばかりです。
 順を追って見てゆくと、まず最初は大正14年11月、乱歩は二山と旅をしています。当時、乱歩はまだ大阪に住んでいたのですが、上京したおり持病の扁桃腺炎をこじらせたため、長野県の温泉へ静養に赴きました。これを報じた読売新聞文芸欄「よみうり抄」の、

(二十一日)江戸川乱歩氏、長野県山田温泉山田旅館で静養中。

 という短信を引用したあと、乱歩は『探偵小説四十年』にこう記しています。

 前記「よみうり抄」にある山田温泉へは、本位田君ではなく、別の旧友二山君という人と二人で出かけた。【 中略 】私はこのころから、もう放浪癖を持っていた、泊ったのは山田温泉だけではなかったようである。方々歩きまわって、遂に無一文となり、その月の終わりか、翌月のはじめに、ようやく大阪に帰ったのだと思う。

 次に二山が登場するのは、大正15年9月24日午後5時から(なんてことまで乱歩は記録しているわけですが)読売新聞講堂で催された講演と映画、探偵寸劇の舞台です。この年1月、乱歩は大阪を引き払って東京に居を構えましたが、

 そのころ、私の筑土八幡町の家へ、毎日のように遊びに来る常連には、横溝、水谷の両君のほかに、私の鳥羽造船所時代の旧友、松村家武、二山久、本位田準一などの諸君があった。

 といい、探偵寸劇の出演陣には二山久も名を連ねています。この「ユリエ殺し」という寸劇は講演と映画のあとに上演されましたが、映画上映の一幕に二山久が顔を出します。『探偵小説四十年』から引きましょう。

 さて、当夜、講演は無事にすんだが、映画では大いにとちった。私の旧友の二山久君が弁士役を買って出て、扇子片手にポーズだけは取ったのだが、いざ写真が写り出すと、一ことも物がいえない。全くの素人だし、予め映画を見て稽古しておいたわけではないのだから無理もなかったが、とちっているうちに映画はどんどん進んで行き、全くの立往生となってしまい、大穴があくところであった。しかし、見物席がざわめくころには幸い来合わせていた専門家の松井翠声君が助け舟を出し、自から説明の労をとって下さったので、事なきを得た。

 弁士、なるものを説明しておく必要があるかもしれません。当時は無声映画の時代ですから、映画の上映には、その内容を画面と同時進行で説明する人間が不可欠でした。これが弁士です。ただ不思議なのは、この催しのプログラム(なんてものまで乱歩は残していたわけですが)によると、上映された映画の弁士は、

【映画「極楽突進」】説明、甲賀三郎、松井翠声【映画「罪と罰」】説明、保篠竜緒

 と当然のことながら事前に決められており、二山久がしゃしゃり出る幕はなかったと考えられることです。甲賀三郎か保篠竜緒かが何かの事情で参加できず、二山久がそのピンチヒッターを買って出たのだという可能性は、まずないだろうといっておきましょう。というのも、『探偵小説四十年』にはこの寸劇のあとで撮影した集合写真が収録されており、そこには甲賀三郎も保篠竜緒もちゃんと写っているからです。そして奇妙なことに、この写真のどこを探しても、二山久の姿は発見できません。念のために、キャプションに書かれた人名と写っている人間の数を比較してみましたが、記載漏れはありません。もっとも、写真の左端には顔がごくわずかに覗いている人物がいて、これが二山久だった可能性は残されています。いずれにせよ、二山久がどういう人物であったのか、この臨時弁士のエピソードから、読者のみなさんにも推測していただきたいと思います。
 そして月日は流れ、昭和6年、『探偵小説四十年』には唐突に二山久の名が現れます。

 【一月】 小説資料集めの助手として、私の宅に同居していた旧友二山久君と口論あり同君去る。

 これを最後に、二山久は私たちの前からふっつりと姿を消してしまいます。つづく。


第三回   2000年 4月 9日(日) 8時34分

 二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説(第三回)

 江戸川乱歩の自伝『探偵小説四十年』から姿を消した二山久は、昭和53年になって、福島萍人さんの「江戸川乱歩の友人」にその孤影を垣間見せます。福島さんがこの随筆に書きとめた二山久の横顔は、むろん事実だと見ていいでしょう。福島さんの主観というプリズムを通し、記憶というフィルターを通過したものであることはいうまでもありませんが、等身大の二山久像がそこには提示されているはずです。
 ここで、「江戸川乱歩の友人」のなかの乱歩に関する記述を見てみたいと思います。ところで、読者のお手許には、島田荘司さんの「乱歩の幻影」がおありでしょうか。おもちでない方には、日下三蔵さん編の“乱歩小説”アンソロジー『乱歩の幻影』(ちくま文庫、本体1000円)をお薦めしておきます。詳細は「乱歩の幻影」で直接ご確認いただくとして、関連箇所を引用することにします。以下は『続有楽町』収録の「江戸川乱歩の友人」から引いたものです。

 折にふれて彼に聞き知ったところによると、彼が大学を出て鳥羽造船所に技師として奉職したとき、そこに平井二郎という白面の青年がいた、それが後年の乱歩であった。乱歩は当時月給十八円の身でありながら家賃十八円の家に住み、毎日酒を呑んでは文学を談じ、芸術至上主義を奉じて暇さえあれば寝ころんで「カラマゾフの兄弟」に読み耽っていた。また飽くなき青春の夢を満すためにお伽会というのを作って街の子供に童話などを聞かせているうちにそれが意外な反響を呼んで、全県下の小学校に招かれるまでになった。現夫人と結ばれたのもそうした頃の機縁により、二川が月下氷人の役を買ったのだそうである。
 その後乱歩は上京。五、六年の間に雑多の職業を転々し、大阪の実家と東京との間を繁く往復しながら書いた「二銭銅貨」が新小説の森下雨村に認められて文壇に出るまでのいきさつは乱歩の随筆「二十代の私」に詳しい。乱歩が作家として立つための背水の陣に傍ら下宿屋経営に踏み切らしたのも彼二川であり、続いて「一枚の切符」「D坂の殺人事件」「屋根裏の散歩者」「人間椅子」等を新青年、苦楽、婦人公論等にのせ始めた。乱歩の文名大いに高まるにつれて、雑用で仕事妨げられるのを防ぐためにもう一人の鳥羽の残党井上勝喜と二川が乱歩夫人経営の旅館緑館に篭って秘書の役を務め、井上が原稿整理と材料集め、二川が新聞雑誌社の折衝に当った。然し大正十五年頃には流石の乱歩も乱作の結果スランプに陥ちいり、筆を折る決意に至り一切の依頼原稿を二川が断る役目を引受けた。その方法として当時七円の乱歩の原稿料を二川は一躍十五円に吊上げた。ところがまさかと思った講談社にそれを受諾されてしまい乱歩は厭々ながら執筆をつづけたが結果としては乱歩の名声を更に高からしめることになった。
 やがて昭和初期の円本時代を迎え思わぬ大金を握った乱歩は、かえって自己嫌悪に落ち込み、何も書きたくなくなったのを幸いに二川を誘って関東一円の温泉地を半年も巡り歩るき終には豪勇疲れがしたということである。

 乱歩ファンの眼には、あれ、おかしいな、と思われる箇所が散見されることでしょう。つづく。

 二、三回で終了の予定だった「二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説」、もう少しかかりそうでございます。「村山槐多デカダンス伝説」、本日もお休みでございます。いやはや。


第四回   2000年 4月10日(月) 9時 9分

 二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説(第四回)

 きのうは、福島萍人さんの随筆「江戸川乱歩の友人」から、乱歩に関する記述を引きました。これは、福島さんが二山久から聞いた話に基づいて、乱歩の随筆も参照しながら記したものです。「二銭銅貨」の掲載誌が「新小説」であるとするなど、単純な事実誤認(これも、島田荘司さんの「乱歩の幻影」では訂正されています)は別にしても、ここには乱歩の経歴に関して、明らかな誤りが記されています。
 それはたとえば、大正15年、乱歩が筆を折る決意をしたことを受けて、秘書役だった二山久が原稿依頼を断るために原稿料を倍額以上につりあげたところ、講談社がそれを受諾したという記述です。乱歩が講談社の雑誌に連載を始めたのは昭和4年のことですから、この記述には時間的な齟齬があります。それにそもそも、原稿料の額は雑誌や新聞によって異なっていますから(当時、「新青年」の原稿料は一枚四円ほどだったと乱歩は記しています)、原稿料が七円で一定していたかのような記述も腑に落ちません。
 またそのあと、昭和初年の円本ブームで大金を手にした乱歩が、自己嫌悪に陥り、二山久を誘って関東一円の温泉地を半年も巡り歩いたとあるところも、どうも疑わしい。事実、乱歩は「パノラマ島奇談」と「一寸法師」の連載を終えて自己嫌悪に襲われ、昭和2年3月から放浪生活を送ってはいるのですが、その放浪に二山久という連れがあったとはどこにも記していません。むしろ、当時のことを綴った「放浪記」などの随筆からは、それが勝手気ままな一人旅であったという印象しか伝わってきません。あるいは、二山久が打ち明けたという乱歩との温泉旅行は、大正14年11月、乱歩と二山が長野県の温泉に遊んだ事実(連載第二回をご参照ください)が、何らかの理由で誤認されたものかもしれません。
 しかしながら、「江戸川乱歩の友人」には、乱歩と二山という当事者しか知らなかったはずの事実もまた記されています。それは、

現夫人と結ばれたのもそうした頃の機縁により、二川が月下氷人の役を買ったのだそうである。

 という箇所です。乱歩は、鳥羽造船所時代に知り合った村山隆子と、東京での極貧生活のさなかにひっそりと結婚しますが、この結婚で「月下氷人」の役を買ったといえる人間は、おそらく一人しか存在しません。「妻のこと」という随筆から、乱歩が鳥羽造船所を辞めて上京した当時のことを引きましょう。

 そのさなかに、鳥羽造船所の旧友から手紙が来た。村山隆子が病気をして死にかけているというのである。狭い村のことだから、私としきりに文通していたことは、村中に知れわたっていた。隆子は私のラブレターによって、結婚におちつくものと信じていた。その相手の私が夜逃げをして、音信をたってしまったものだから、彼女にしては村に顔むけができない。つい気病みが嵩じて入院まですることになったのである。

 乱歩に隆子の病気を知らせた「旧友」は、二山久その人です。乱歩はただ「旧友」と記すだけで、二山久の名は明かしていませんが、乱歩の死後、一部が復刻されて公刊された『貼雑年譜』には、隆子の病気を乱歩に伝えた人物の名が、

私ハ鳥羽造船所ノ同僚二山久君カラコノコトノ知ラセヲ受ケタ

 と明記されています。この記述によって、東京の乱歩と鳥羽の隆子の仲をとりもった「月下氷人」は、まぎれもなく二山久であったことが確認されると思います。
 「江戸川乱歩の友人」には、前述の原稿料や放浪旅行など、乱歩ファンなら首をひねらざるを得ない記述が散見され、それがこの随筆に記された事実の信憑性を疑わせる結果を招いているのですが、当事者しか知り得ない「月下氷人」の件が明かされていることを考慮すると、二山久が福島さんに語った話には、ある程度の信憑性を認めうるものと判断されます。そして、福島さんがそれをそのまま「江戸川乱歩の友人」に記したらしいこともほぼ確実ですから、「江戸川乱歩の友人」に描かれていたのは、やはり二山久の等身大の像であったと見て差し支えないと思われます。つづく。


第五回   2000年 4月13日(木) 9時41分

 二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説(第五回)

 江戸川乱歩と二山久の義絶の理由は、よくは判りません。福島萍人さんの「江戸川乱歩の友人」には、

そして家庭内のこと、たとえば乱歩が二人の弟に対して甘すぎることに第三者の冷たい目で批判し、喙をいれるといったことが乱歩の母の逆鱗に触れた。
 「居候のくせに」この言葉を面と向って云われたのか或は間接に聞いたかして彼は憤然として乱歩の家を去った。
 

 と記されていますが、これはおそらくきっかけに過ぎず、二山と乱歩、あるいは二山と乱歩の家族とのあいだには、長く同居するうちに何らかの確執が形成されていたのだろうと思われます。二山久が「江戸川乱歩の友人」に描かれているような図々しくふてぶてしい人間であったのなら、「居候のくせに」といった程度の悪口雑言で憤然と乱歩邸を去ることはなかったように想像されます。
 ちなみに、乱歩が遺したスクラップブック『貼雑年譜』には、転居のたびにその家の間取り図や家族構成が記録されているのですが、昭和2年3月から3年3月まで住んだ家の記録には二山久の名はなく、3年4月から8年4月までの住居には、

同居人 二山久、本堂敏男(乱歩の実弟)
家族 母、玉子
(妹)、太郎(乱歩)、隆(妻)、隆太郎(長男)
女中 トキ、チエ、マツ、マサ
書生 宮本鉄吉

 とあって、二山はたしかに同居しています。そしてこの家で、二山と乱歩との(あるいは乱歩の家族との)確執が決定的なものになり、のちに乱歩が、

 【一月】 小説資料集めの助手として、私の宅に同居していた旧友二山久君と口論あり同君去る。

 と記すことになる義絶が訪れたわけです。それにしても、乱歩はどうして『探偵小説四十年』にこんな些細なことを書き込んだのでしょう。二山との義絶がそれだけ印象深いものだったからでしょうか。みなさんも考えてみてください。
 さて、この二山久は、はたして明智小五郎のモデルであったのかどうか。「江戸川乱歩の友人」に記された、

乱歩の作品の中に明智小五郎と名乗る人物は自分であると、かつて二川がつぶやいたことがあるが、

 という言葉を信じるなら、明智小五郎は二山久がモデルだったと考えていいでしょう。ただこの場合、これが二山久の独断なのか乱歩自身がそれを表明していたのか、つまり、二山が乱歩作品を読んで、「あ、この明智小五郎はおれがモデルだな」と独り合点で判断しただけの話なのか、乱歩が二山に向かって「明智のモデルは君だよ」と打ち明けるようなことがあったのか、そのあたりがやや曖昧なのですが、とりあえず明智のデビュー作である「D坂の殺人事件」を見てみたいと思います。
 乱歩ファンなら先刻ご承知のとおり、この作品では明智小五郎のモデルが次のとおり明かされています。

 年は私と同じぐらいで、二十五歳を越してはいまい。どちらかといえば痩せた方で、先にも言った通り、歩く時に変に肩を振る癖がある。といっても、決して豪傑流のそれではなく、妙な男を引合いに出すが、あの片腕の不自由な講釈師の神田伯竜を思い出させるような歩き方なのだ。伯竜といえば、明智は顔つきから声音まで、彼にそっくりだ──伯竜を見たことのない読者は、諸君の知っているところの、いわゆる好男子ではないが、どことなく愛嬌のある、そしてもっとも天才的な顔を想像するがよい──ただ明智の方は、髪の毛がもっと長く延びていて、モジャモジャともつれ合っている。そして、彼は人と話しているあいだにも、指でそのモジャモジャになっている髪の毛を、さらにモジャモジャにするためのように引っ掻き廻すのが癖だ。服装などは一向構わぬ方らしく、いつも木綿の着物によれよれの兵児帯を締めている。

 乱歩は実在の講釈師、神田伯竜が明智のモデルだと記しています。しかし、ここには何かしらミスディレクションめいた匂いが感じられます。乱歩はどうして、作中にわざわざモデルを明示したのでしょう。明智小五郎の人物像にアクチュアリティを付与する狙いはあったのでしょうが、著名な実在の人物をもちだして類比的に人物描写を行う小説作法は、乱歩作品においてけっして一般的ではありません。というか、明智小五郎の登場時だけに採用された手法ではないかと思われます(ということを、記憶だけに頼って書いております。勘違いかもしれません。間違っていたらご教示ください)。明智の真のモデルは別に存在していて、乱歩が何らかの理由から(あるいは無意識的な理由かもしれませんが)それを糊塗するために、敢えて神田伯竜という実在の人物をもちだしたのだと考えられなくもありません。
 以上に述べたのはむろん私の独断なのですが、みなさんはどうお考えでしょうか。ご意見をお寄せいただければ幸甚です。平たくいうと、どうぞ遠慮なくツッコミを入れてください。つづく。


第六回   2000年 4月14日(金) 10時27分

 二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説(第六回)

 もしも二山久が明智小五郎のモデルであったのだとしても、明智は顔つきから声音、歩き方まで神田伯竜にそっくりだと記されているのですから、明智と二山の共通点は容貌以外の点に求められるはずです。つまり乱歩は、外面は神田伯竜を、内面は二山久をモデルとして、明智小五郎を造形したことになります。明智が身なりに頓着しない点は、「江戸川乱歩の友人」に描かれた二川至(二山久)にも共通していますから、そこにも二山の性癖が反映されているのかもしれません。
 ここで、江戸川乱歩の小説作法を確認しておきたいと思います。つまり乱歩は、作中人物を造形するにあたってモデルをよく採用したのかどうか、という点の確認です。
 登場人物の名前に関しては、乱歩は“在るもの”で間に合わせるという手法をよく用います。デビュー作の「二銭銅貨」から「一枚の切符」「恐ろしき錯誤」まで、この三作には連続して「松村武」あるいは「松村」という人物が登場しますが、この名前が鳥羽造船所時代の友人、松村家武に由来するのはほぼ間違いのないところでしょう。明智小五郎の名前も明智光秀と桂小五郎を足して二で割ったものですし、そもそも江戸川乱歩というペンネーム自体、エドガー・アラン・ポーという“在りもの”の名前に漢字を当ててこしらえたものでした。
 そして、じつにこの“在りもの”を自在に読み替えることこそが、乱歩における小説作法の要諦なのでありました。退屈無惨な日常のなかに敢えて別世界を垣間見ようとすること、眼の前の現実世界を読み替えて、まったく異なる意味を見いだそうとすることこそが、乱歩という作家の常套であったのです。外国の人名を漢字で読み替えたペンネームの命名法には、そうした乱歩の作家的本質が端的に示されているように思われます。
 しかし、こうした“在りもの”を利用する小説作法は、作中人物の内面にまで及んでいたとは思われません。乱歩にとっては個人もまたいくらでも読み替え可能な存在であって、乱歩は個人の内面を確定することにさほど意を用いなかったように見受けられるからです。Aという人物がじつはBという別人であったというような個の不確定性がもたらす恐怖と愉悦は、初期作品から晩年の少年ものまで、乱歩作品に一貫して存在する底流だといっていいでしょう。さらにもうひとつ、とくに一連の通俗長篇に描かれた異常な心理をもつ犯罪者は、乱歩自身がモデルであったと判断されるということもつけ加えておきましょう(この段落、いささか説明不足かとは思われますが、とにかく先に進みます)。
 したがって、明智小五郎のデビュー作である「D坂の殺人事件」では、乱歩作品としては例外的にモデルが採用されていたことになります。何より乱歩が作中で神田伯竜というモデルを明かしており、それが外面のモデルでしかない以上、明智の内面もまた別の人間をモデルにしていた可能性は否定できません。そして福島萍人さんの「江戸川乱歩の友人」には、二山久が明智のモデルだと述べられているのですから、明智の内面が二山久のそれをなぞったものであった可能性は高くなります。その「江戸川乱歩の友人」では、二山久の内面、すなわち知能と性格とがこういうふうに紹介されています。

頭脳の回転は驚くべき優秀さがありながら、その日々の振舞いたるや荷風に伝わるある半面に似通った男、

 あるいは、こんなふうに。

彼は議論をすれば文字通り口角泡をとばし、詭弁と独善で忽ち相手を煙に巻くので大抵の者は辟易して逃げてしまう。 

 「D坂の殺人事件」における明智小五郎は、頭脳明晰ではあるものの、変わり者で、どこかいかがわしさを感じさせる青年です。そのいかがわしさは、作中の「私」が明智を殺人犯だと推理することにも示されています。名探偵明智小五郎は、もしかしたら殺人犯かもしれないといういかがわしさを帯びて、読者の前に登場していたのです。そうした設定は、「驚くべき優秀さ」をもちながらも「詭弁と独善で忽ち相手を煙に巻く」人物であったという二山久を、どことなく連想させるものです。
 というよりも、明智小五郎よりもさらに明瞭に二山久を連想させるある人物の姿が、あなたの脳裏に浮かんできてはいないでしょうか。「一枚の切符」で探偵役を務めた、あの青年の姿が。つづく。


SHADOW   2000年 4月15日(土) 8時21分

人外境番犬さん。お久しぶりです。
ニ山久の件、いろいろありがとうございます。
なるほど、言われてみれば、モデルとはいえ、そっくりそのまま、というよりあれこれ合成しているのが普通ですね。
うーむ。しかしながら、髪の毛もじゃもじゃ・・これは金田一じゃぁー(^^;

乱歩が作品の中で、モデルを明示した件ですが、あくまで私の所見としてお聞きください。
ご指摘のとおり、おそらくほかにモデルがいた。しかし、後々のことを考えてあらかじめ予防線を張っておいた。
その人物は、作品を読めば、「あっこれは自分だ。」と思うだろう。ところが、その人物の性格は、なんの断りもなく自分をモデルにして、モデル料をふんだくってやろうかい。というようなことを平気で考えるような輩だったのでは??
それが、ニ山久かどうかは別にして、乱歩の周囲にそのような人物がいた可能性があるのでは・・・
ご主人さまに、よろしくお伝えください。
では。


第七回   2000年 4月15日(土) 9時41分

  SHADOW 様
 ご無沙汰いたしました。お元気でいらっしゃいましたか。お申しつけの「二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説」、そろそろ終盤でございます。あすかあさってには完結の見込みでございます。では本日分、さっそく始めさせていただきます。

 二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説(第七回)

 江戸川乱歩の「一枚の切符」は、デビュー作「二銭銅貨」と同時期に執筆された短篇小説で、作品末尾の添え書きによれば、脱稿は大正11年の9月25日でした。「二銭銅貨」のそれは10月2日とされていますから、完成の早かった「一枚の切符」の方が実質的な処女作だといっていいのかもしれません。
 この作品には、いわゆる「自殺に見せかけた他殺」をひとひねりしたトリックが使用されています。レストランで食事する青年二人がその事件を話題にしたあと(レストラン・ディテクティヴ、とでもいいましょうか)、探偵役の青年が事件の真相を解明し、それを新聞に発表することによって、妻殺しの嫌疑をかけられていた一人の学者を救います。しかし、事件が落着したあと、一方の青年(彼の名は松村といいます)から、

 「しかし、君がこれほど優れた探偵であろうとは思わなかったよ」

 と言葉をかけられた探偵役の青年(彼の名は左右田です)は、じつに驚くべきせりふを口にします。

 「その探偵という言葉を、空想家と訂正してくれたまえ。実際僕の空想はどこまで突っ走るかわからないんだ。例えば、もしあの嫌疑者が、僕の崇拝する大学者でなかったとしたら、富田博士その人が夫人を殺した罪人であるということですらも、空想したかもしれないんだ。そして、僕自身が最も有力な証拠として提供したところのものを、片っ端から否定してしまったかもしれないんだ。君、これがわかるかい、僕がまことしやかに並べ立てた証拠というのは、よく考えてみると、ことごとくそうでない、他の場合をも想像することができるような、曖昧なものばかりだぜ。(以下略)

 「探偵」と「空想家」は、いうまでもなく正反対の意味でつかわれています。事実を手がかりとして真相を解明するのが「探偵」であるとすれば、同じく事実を手がかりとしながらそれを恣意的に読み替え、真相とはまったく違うもうひとつの「真相」を生み出してしまうのが「空想家」です。左右田青年はいわば「反探偵」とでも呼ぶべき存在であり、江戸川乱歩はその実質的な処女作において、驚くなかれ反探偵の登場する反探偵小説を実現していたのだといったら、みなさんは奇異に思われるでしょうか。
 じつはこのあたり、「二銭銅貨」と「一枚の切符」を素材にして乱歩における合理主義の軋みを考える試みは、いつかもちらっと記しましたとおり、いずれ「江戸川乱歩モダニスト伝説」あるいは「江戸川乱歩ほんとは探偵小説に向いてなかった伝説」とでも題してご高覧をいただくことになるかもしれませんので、今回はあっさり流しておくことにいたしますが、「一枚の切符」で左右田青年が述べたところの「空想」、つまり眼前の事実を恣意的に読み替えてゆく作業は、乱歩の小説作法における要諦でもあったことを確認しておきたいと思います。
 そして私には、「D坂の殺人事件」における明智小五郎よりも、「一枚の切符」におけるこの左右田五郎という青年にこそ、遙かに濃く深く二山久の影が落ちているのではないかと想像される次第です。明智は結局のところ真相を解明してしまいますが、左右田は真相には興味を示さず、事実をいかに読み替えるかに腐心します。この態度は、「驚くべき優秀さ」をもちながらも「詭弁と独善で忽ち相手を煙に巻く」人物であったという二山久を、たしかに連想させずにはいないものです。そして、明智より左右田の方がさらにいかがわしい人物であったこと(つまりはそのいかがわしさにおいて、二山久により近い人物であったこと)は、たとえば、

ちょっとずるそうな笑顔を浮かべて相手の顔を見た。

 あるいは、

よく呑み込めないらしい相手の顔を眺めて、さもおかしそうにニヤリとした。

 といった左右田の描写にも示されています。しかも、明智と左右田が完全に無縁ではなく、左右田はどうやら明智の原型的人物であったらしいという事実は、両者ともにモジャモジャの長髪を指でかきまわす癖があることから知られると思います。以上、二山久が明智小五郎のモデルであるかどうかを考察した結果、むしろ左右田五郎のモデルこそが二山久であり、明智における二山との類似はその残像のようなものではないかという結論に至りました。
 その事実を、いささか強引に証明してみたいと思います。「一枚の切符」には左右田と松村という二人の青年が登場しますが、松村の名は鳥羽造船所時代の友人のそれをそのまま使用したものです。この作品の松村はいわば聞き役ですから、実名をつかうことに乱歩は抵抗を感じなかったと判断されます。しかし、同じく造船所時代の友人であった二山久が左右田のモデルであったのだとすれば、この作品に描かれた左右田の人物像にはかなり癖のある、いかがわしい印象がつきまとっていますから、乱歩が実名をはばかって得意の読み替えを行った可能性も考えられないではありません。そして、「二つの山」を意味する「二山」という表意文字を、同じく表意文字でさらに読み替えた場合、
 「二」→「左右」
 「山」→「田」
 という連想が働いて、「左右の田」という別の意味をもつ名前が浮かびあがってきたのかもしれないと考えるのは、それほど不自然なことでもないように思われます。ちょっと強引すぎるでしょうか。どうぞツッコミを入れてください。つづく。


第八回   2000年 4月17日(月) 9時21分

 二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説(第八回)

 この連載を始めたときには予想もしていなかったのですが、前回記したような結論に至ってしまいました。あの結論に基づきながら、以下にいささかの補足をいたします。
 まず、SHADOW さんがおっしゃっていた「予防線」の件ですが、私もおそらく、「D坂の殺人事件」で実在の人物がモデルとして明示されたことには、真のモデルの存在を隠蔽する意図が隠されているように思いますし、それはやはり二山久にほかならなかったと考えます。モデル料うんぬんはともかくとして、二山というのはどこか人に警戒心を抱かせてしまう人物だったと判断される次第です。
 それから、これは福島萍人さんの「江戸川乱歩の友人」の補足ですが、福島さんが乱歩と二川至(二山久)の再会を画策した際、同行することになった「H」という人物は、鳥羽造船所時代からの友人、本位田準一です。その再会はある年の9月26日に予定されましたが、関東地方を襲った台風のせいで実現されませんでした。この台風は昭和33年の台風22号(狩野川台風)であったかと推測されます。ちなみに後日、福島さんのもとに乱歩から贈られたという『わが夢と真実』は、昭和32年8月の発行です。
 「江戸川乱歩の友人」の結びを引きましょう。

 後日乱歩から私を犒う意味合いからか自著「わが夢の(ママ)真実」を受取った。二冊のうち一冊は二川え、とあり、同封の手紙には、折があったら二川を連れてきて貰えまいかとしたためてあった。しかも行間には二川に対する友情が劫々と波うっているのを感じたのだった。私はふと、これほどまでに二川を離さない乱歩の心底を流れているものは何であろうかと思ってみた。それは或は特殊作家としての怪奇性に根ざしており、これこそ乱歩のすべて探偵小説の真髄ともなっているエスプリではなかろうか、そして当事者以外にはっきり理解し得ない二川と乱歩の、或は乱歩の精神だけが求めている何かが二川の人間性の中に存在するのかも知れないと思ってもみた。乱歩の作品の中に明智小五郎と名乗る人物は自分であると、かつて二川がつぶやいたことがあるが、乱歩自身の影であるとしたなら、作家として二川への執念のような追慕は理由のないことではない。
 しかし二川自身はまた元のように螺の蓋を固く鎖してしまったのである。
   附記 乱歩はその後間もなく逝き、二川もまた老人ホームで病死した。

 乱歩が示した「執念のような追慕」の正体、つまり二山久の人間性のなかにある「乱歩の精神だけが求めている何か」は、いったい何であったのか。それは要するに二山久の「空想」であり、乱歩は二山に自分と同じ「空想家」の資質を認めていたのではないかと思われます(「空想」「空想家」という言葉の意味は、連載第七回をご参照ください)。まさしく二山久は、乱歩にとって、ユングのいう「影(shadow)」のような存在であったのかもしれません。
 shadow といえば、そもそも SHADOW さんのお尋ねは、「漱石事件簿」と「乱歩の幻影」に登場する二山久(二川至)が、同じ人物なのにどうして正反対の人物像に描かれているのかとのことでした。これは結局、両者ともに依拠した文献は「江戸川乱歩の友人」ただひとつなのですから、「乱歩の幻影」はそれを全面的に使用し、「漱石事件簿」は取捨選択して利用した、つまり素材の料理法が異なっているということだと思います。
 「乱歩の幻影」をお読みになった方のなかには、作中に登場する「江戸川乱歩の友人」という随筆が実在するのかどうか、半信半疑だった方が少なくないのではないかと想像されます。そうした方に、それがたしかに実在するのだということをお伝えできただけでも、この連載の意義はあったと私は自負しています。あとは、みなさんそれぞれが、「江戸川乱歩の友人」や『探偵小説四十年』に基づいて、乱歩と二山に関して自由に「空想」していただければと思います。
 さて、最後に打ち明けておきましょう。じつは私は、二山久にお会いになったことがあるという方を存じあげています。種を明かせばどうということもないのですが、「江戸川乱歩の友人」には、福島さんが乱歩夫人と電話で話したエピソードが綴られていて、乱歩夫人の言葉がこんなふうに紹介されています。

「今大学の助教授をやっている倅は二川さんに数学でずい分世話になりました」

 「倅」とあるのは、むろん平井隆太郎先生のことです。二山が乱歩の家を去った昭和6年1月には、平井先生は小学四年生だったはずですから、先生はあるいは二山久のことをご記憶かもしれません。いずれ先生にお会いしたとき、そのあたりのことをお聞きして、その結果をこの「人外境だより」でご報告したいと思います。どうぞお楽しみに。
 それでは、「二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説」、一巻の終わりです。ご愛読を感謝します。


SHADOW   2000年 4月20日(木) 22時36分

人外境番犬さん、こんばんわ。
ニ山久の件、いろいろありがとうございました。
実在の人物を描くことの難しさを痛感した次第。
ヘミングウエイだかが言っているように、「事実を事実としてあったまま忠実に再現することはいかにおもしろおかしい架空の物語を作るよりはるかに困難である。」という言葉はまさに至言であります。


宮澤   2000年 4月23日(日) 1時 9分
探偵小説頁

 「二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説」は堪能させてもらいました。二山には以前から関心がありました。こういった形で取り上げていただけたのは嬉しいことです。「一枚の切符」についてもなるほど納得がいきました。続報も楽しみに待っています。


第九回   2000年 6月25日(日) 7時41分

 二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説(補遺)

 先日、平井隆太郎先生にお会いする機会を得ましたので、二山久のことをお聞きしてきました。ただし、いささか事情があってあまり長くお邪魔することができず、根掘り葉掘りお尋ねすることは適わなかったことをお断りいたします。
 前にも記しましたが、二山久が乱歩邸を去ったと「探偵小説四十年」に記録されている昭和6年1月には、平井先生は小学四年生でした。当時のことをご記憶かどうか、やや心配されたのですが、平井先生はよく憶えておいでで、二山久の印象は、
 「だらしない人でしたね」
 とのことでした。先生のおっしゃるだらしなさは、衣服や風采、日常の生活態度に関するものです。つまり、福島萍人さんの随筆「江戸川乱歩の友人」に、

身なりは夏冬通してボロ服一着の着づめに、垢じみたシャツはかつて水を通したことはない。

 と記された二山久の姿に重なります。しかし、言動にはとくに奇矯なところは見られず、どうということもない普通の人だったといいます。乱歩の家には食客、居候のたぐいがよく出入りしていたそうですが、二山久はそのなかで最も長く厄介になった人物で、乱歩の家族と衝突することも多く、乱歩との義絶も要するに「喧嘩別れ」だったそうです。
 「江戸川乱歩の友人」に、福島さんが乱歩夫人から「今大学の助教授をやっている倅は二川(山)さんに数学でずい分世話になりました」と聞かされたという点も確認したのですが、平井先生は、
 「そりゃ嘘です」
 と言下に否定なさいました。
 さて、二山久が明智小五郎のモデルだったのかどうか、そのことをお訊きすると、平井先生からは意外なお答えが返ってきました。
 「むしろ横溝さんの金田一耕助によく似てましたね」


第十回   2000年 7月13日(木) 10時 7分

 忘れもしない6月25日、近所の A さん宅でお葬式のあった日の朝に綴って以来、なんとなくそのままになっていたものを本日まとめることにいたします。

 二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説(補遺後篇)

 平井隆太郎先生の二山久評は、先述のとおり「だらしない人」というものでした。二山久が乱歩邸を去ったのは昭和6年1月ですが、当時小学四年生だった平井先生の眼には、二山の風采のだらしなさが印象深く映っていたようです。二山は乱歩の家族と衝突することも多く、乱歩との義絶も要するに「喧嘩別れ」であったというのが平井先生の証言ですが、案ずるに二山は、とくに奇矯な振る舞いに及ぶようなことはなかったものの、圭角の多い人物ではあったようです。
 そして、二山久が明智小五郎のモデルであった可能性について、平井先生はこうおっしゃいました。
 「むしろ横溝さんの金田一耕助によく似てましたね」
 二山久は、明智小五郎よりは金田一耕助によく似ていた……。
 初めて読者の前に姿を現したとき、金田一耕助は作者によって「
その年頃の青年としては、おそろしく風采を構わぬ人物なのである(本陣殺人事件)と紹介されています。風采のだらしなさという共通点によって、平井先生の頭のなかで二山久と金田一耕助とが結びつけられたのでしょう。とはいえ、ダンディな青年紳士に変身する以前は、明智小五郎もまた「服装などは一向構わぬ方らしく、いつも木綿の着物によれよれの兵児帯を締めている(D坂の殺人事件)とされていますから、二山久、金田一耕助、明智小五郎(初期の、と限定するべきですが)──この三者には風采の点で共通するものがあったことになります。
 したがって明智小五郎のモデルは、
  歩き方、顔つき、声音=神田伯竜
  風采=二山久
 ではなかったかという推測が成り立ちます。げんに、それならデビュー当初の明智小五郎は二山久に似ているのですか、とお訊きすると、
 「まあそうですね。服装やなんかはそうだね」
 と平井先生はおっしゃいました。
 しかし、かねて「二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説」で見たとおり、福島萍人さんの随筆「江戸川乱歩の友人」に描かれた二川至
(=二山久)の人物像からは、「一枚の切符」で探偵役を務めた青年紳士(ちなみにこの紳士は「身なり」が「端正」と描写されていますから、風采の点で二山久との共通性はありません)こそが、二山久その人の内面をモデルとして、乱歩自身の反探偵小説的資質をも反映しながら造形された「反探偵」であることが窺え、初期の明智小五郎にもその残像が認められるように思われます。乱歩が自伝のなかにわざわざ、

 【一月】小説資料集めの助手として、私の宅に同居していた旧友二山久君と口論あり同君去る。

 と記した背後にも、二山に対する乱歩の強い感情が存在していたはずで、それを自作に何らかの直接的影響を及ぼした人物への感情だったと見ることもできるでしょう。もっとも、その「反探偵性」で乱歩の興味を惹き、乱歩に愛憎二筋の複雑な感情を抱かせたとおぼしい二山久の内面に関して、小学生だった平井隆太郎先生の観察が深いところまで届いていたと期待するのは無理というものです。明智小五郎のモデルに関して、
  歩き方、顔つき、声音=神田伯竜
  風采=二山久
  内面=二山久(≒乱歩)
 という図式が成立するのかどうか、それは読者の方のご判断にゆだねたいと思います。
 最後に記しておくと、乱歩の家に同居していた友人連中には、二山久も含めて小説家志望の青年が多かったそうです。しかし二山は、平井先生によれば、
 「あの人は文章は駄目でしたね」
 とのことで、流行作家として天馬空を行く勢いの乱歩と、その家に寄食して鬱屈する小説家志望の二山久という対立を想定すると、二人の義絶にはまた新しい照明が当てられるのかもしれません。

 二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説(附記)

 もっと頻繁に平井先生のお宅にお邪魔し、乱歩のことを巨細洩らさずお聞きしておくべきかと判断される昨今ですが、一介の名張市立図書館嘱託の身ではそうもまいりません。乱歩作品で大儲けした講談社あたり、平井先生の聞き書きをまとめて本にするくらいのことをしても罰は当たらないでしょうし、せめて平井先生が乱歩に関してお書きになった文章を一巻に編むだけでも、たいへん貴重かつ面白い本ができあがるだろうと思われる次第ですが、そういうことを考える出版人編集者はどこにもおらんのかと立腹しながら擱筆します。倒産するまでに葉文館出版へ話を持ち込んでおけばよかった。あるいは、『貼雑年譜』の復刻よりは楽な仕事だから東京創元社あたりでなんとか実現してもらえないものでしょうか。え? 名張市立図書館が出せばいいではないかとおっしゃいますか。いや名張市はいま何かと物入りでして……。


柳生真加   2000年 7月14日(金) 17時42分

ご主人さま、
「二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説」再開おめでとうございます。


人外境番犬   2000年 7月15日(土) 8時11分

 柳生真加様
 ご無沙汰いたしました。「二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説」、再開してすぐに完結してしまいました。愛想のない話で申し訳ございません。


人外境番犬   2000年 7月17日(月) 8時 9分

 主人が次のとおり申しております。

 「二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説(附記)」をお読みくださった方から、『貼雑年譜』の復刻版が出版されるのかとメールでお尋ねをいただきました。ここでお答えいたします。

 出るか出ないか『貼雑年譜』
 結論から記しますと、答えは「
どうもよく判りません」です。『貼雑年譜』復刻版は以前、東京創元社が一セット約20万円で予約を集めたのですが、予約数が少なくて企画は流れました。当時もいまも、事情に変わりはないと思います。同社が再挑戦したとしても、ハードルは依然として高いでしょう。当面は、講談社から江戸川乱歩推理文庫の特別補巻として出た『貼雑年譜』(貼雑帖のうち最初の二冊を復刻したもの)で我慢するしかないようです。これも現在では入手困難なのですが。
 平井隆太郎先生が講談社版全集(二十五巻本)の月報に連載された「乱歩の軌跡 父の貼雑帖から」から引用しましょう。

 貼雑帖は全部で八冊だが、そのうち、父が自筆で感想や解説を書き入れているのは最初の二冊だけである。月報(1)で紹介した序文も、昭和十六年に完成したこの二冊のまとめとして書かれたもので、後続の六冊は全く予定されていなかった。つまり貼雑帖は二冊で完結していたのである。
 これは、昭和十六年という時点を考えれば当然のことであった。当時の父は「もはや遊戯文学の時代ではない」と見きわめをつけ、「印刷物と文反古による貼りまぜ自伝」全二冊を子孫に伝えるべく作成したのである。それは作家生活に終止符を打つための遺書にほかならなかった。この二冊だけを祖母の古い帯地で自ら表装したのも、この意味で首肯されるのである。
 三冊目以降の貼雑帖が作られたのは戦後十年以上たってからのことであった。勿論、材料はその都度、保存してあったのである。

 ひとくちに『貼雑年譜』といっても、最初の二冊とそれ以降では、かなり性格が異なっています。前者は、平井先生によれば作家としての「遺書」であり、私はそこに乱歩の自己確認への意志をも見たいと思う次第ですが(ちなみに、昭和10年代は乱歩にとって、ひとことでいえば自己確認の時期でした)、三冊目以降は散文的なスクラップでしかありません。乱歩の書き込みがあるのは最初の二冊だけですから、乱歩の肉声に触れる妙味は講談社版『貼雑年譜』にほぼ尽きているといえるでしょう。
 私はかつて、名張市立図書館の『江戸川乱歩執筆年譜』をまとめる際、参考のため『貼雑年譜』全冊に眼を通す機会を頂戴したのですが、三冊目は戦争中の記録で埋め尽くされていた記憶があり、これはこれで貴重な記録だと実感しました。つまり豊島区の同時代史を裏づける貴重な資料でもあるわけですから、もしかしたら豊島区が乱歩記念館がらみで『貼雑年譜』をなんとかしてくれるかもしれないと期待しているのですが、これもやはり望み薄か。ちなみに今月下旬、豊島区の学芸員の方お二人が名張市立図書館へ調査においでになり、調査はともかくとして夜は乱歩ゆかりの清風亭で大宴会を催す計画になっておりますので、そのあたりのこともお聞きしてみようかと思っているのですが、たぶんお答えは「
どうもよく判りません」だと思います。
 ついでですから、平井先生の「乱歩の軌跡 父の貼雑帖から」から、眼についたところをもう少し。

 前記の文章の中で、父は「日記の書けない性格」であったと云っているが、これは父が日記をつけていなかったという意味ではない。若い頃からの日記が大量に残っていたのだが、死去の数年前、パーキンソン氏病で身体が不自由になった頃に全部焼却してしまった。筆者の家内が父の目前で焼くように命じられたのである。家人をも含めて、死後、他人に見られることを嫌ったのであろう。この頃の父は明らかに死を予感していた。日記の焼却は、いわば身辺整理の一環としての行動であったと思われる。

 ああ、もったいない、と私は思います。


宮澤   2000年 7月18日(火) 18時 1分
探偵小説頁

 ご主人さま、番犬さま、こんにちは。
 「二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説」をありがとうございました。また、貼雑年譜のことなどもとっても興味深いです。


第十一回   2000年 7月19日(水) 9時38分

 宮澤様
 主人が、
 現在、暇を見つけては乱歩の著書目録をつくっていて(それをこのホームページに反映させるまでには至っておりませんが)、乱歩の本と首っ引きの毎日なのですが、むかし読んだのにすっかり忘れていた文章に読み耽るみたいなことばかりくり返していて、なかなか作業が進みません。そんな感じできのう眼にしたネタを、「
二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説(おまけ)」として記しておきますと、1995年発行の講談社大衆文学館『明智小五郎全集』には、巻末に編者の新保博久さんによる「人と作品 江戸川乱歩」という解説が収録されており、二山久への言及があります。ご所蔵でしょうから詳しくは同書 p.441をお読みいただくとして、新保さんによれば、二山久は「乱歩の子息平井隆太郎氏から伺ったところでは、べつだん天才的な人物でもなかったらしい」とのことです。
 と申しております。


第十二回   2000年 7月26日(水) 9時 2分

 二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説(まだあるのか)

 ひつこいやっちゃな、といわれてしまいそうですけれど、昨日、例によって寸暇を惜しんで「江戸川乱歩著書目録」の作成作業をしておりましたところ、乱歩の書簡(江戸川乱歩推理文庫64『書簡 対談 座談』所収。1989年、講談社刊)に、二山久に関する記述があることを発見しました。お慰みまでに抜萃してご紹介します。

 ▼井上勝喜宛 大正十二年二月十六日付
いまだに、君の外には二山と本位位の話対手しか持たぬ俺は、ことさら淋しいことだ。たんまり金を持って、君と二人で芝居見物がしたいというのが、昨日二山への手紙にすら書いた私の近頃ののぞみだ。
 ▼同上
 二山という男は不思議にもまだ何もしないで生活している。家に金があるでなし、貯金といっても知れたもの、奴は怪しい男である。
 ▼三郎宛 大正十二年二月十八日付
二山は、相も変らず、あの家で寝たり起きたりしている。そうして何か書こうとしている。よく金が続くことだと感心している。あのみじめさと淋しさとつましさをこらえて飽迄も妥協しない所は、奴もえらいと思っている。

 井上勝喜は鳥羽造船所時代の同僚、三郎とあるのは野崎三郎で、これも鳥羽造船所で給仕をしていた青年です。二人はともに大正8年、乱歩を追って相前後して上京し、乱歩が経営していた古本屋に転がり込んでいます。上記二通の書状が出された大正12年2月中旬は、ちょうど「二銭銅貨」の予告を掲載した「新青年」3月号が書店に並んでいたころで、乱歩は書面で二人にその旨を知らせています。以上、取り急ぎお知らせまで。


掲載 2000年7月29日