懐風藻

漢詩集 天平勝宝三年(751)成立 撰者未詳 一巻

 大津皇子

 皇子は浄御原きよみはらの帝の長子なり。状貌魁梧じやうばうくわいご、器宇峻遠きうしゆんゑん、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属しよくす。壮なるにおよびて武を愛し、多力たりよくにしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩はうたうにして、法度はふどに拘かかはらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く附託ふたくす。時に新羅の僧行心ぎやうしんといふものあり、天文卜筮ぼくぜいを解す。皇子に詔げて曰く、「太子の骨法こつぱふこれ人臣の相にあらず、これをもつて久しく下位に在るは恐らくは身を全うせざらん」と。よりて逆謀ぎやくぼうを進む。この■〔言+圭〕くわいごに迷ひて遂つひに不軌を図はかる。嗚呼ああ惜しいかな。かの良才を蘊つつみて忠孝を以もつて身を保たず、この■〔女+女+干〕かんじゆに近づきて、卒つひに戮辱りくじよくを以もつてみづから終る。古人交遊を慎しむの意、よりておもんみれば深きかな。時に年二十四。

 略解

 『懐風藻』は日本最古の漢詩集。近江朝から天平末年まで八十余年にわたり、天皇、皇子をはじめとした貴人、高官、知識人ら六十四人の作品を収める。うち九人には伝記を附す。
 掲出は大津皇子の伝記の訓読文。大津の作品は大友皇子、河島皇子につづいて三人目に収録。底本は伝記本文を省略し、訓読文と現代語訳、語釈を載せる。語釈は次のとおり。

○浄御原の帝 第四十代天武天皇。飛鳥の浄御原に都をさだめたことによる。 ○状貌魁梧 身体容貌ともにすぐれてたくましいこと。 ○器宇峻遠 度量がすぐれていること。人品、器量が人にまさっていること。 ○文を属す 詩文を作る。属はつづるともよむ。 ○放蕩 勝手にふるまう。 ○法度に拘らず 規則にしばられていない。 ○節を降して 自分の身分を低くして。 ○士を礼す 人士をあつくもてなす。 ○附託 つき従う。よりたのむ。 ○行心 新羅から渡って来た僧ということになるが、以前僧であった者か、形だけ僧であったのかは不明。大津皇子との謀反で飛騨の国に流された。 ○卜筮 うらない。 ○骨法 骨柄、人相。 ○逆謀 むほん。 ○■〔言+圭〕 だまして行いを誤らせてしまうこと。 ○不軌を図る 規則によらない行動をするようにはかる。つまり謀反を計画する。 ○良才 立派な才能。 ○■〔女+女+干〕 わるがしこい小僧 ○戮辱 死罪。

 伝記は、大津の謀叛が行心という僧にそそのかされた結果であると説き、あたら才ある身が忠孝を守って身を保つことをしなかったせいで死罪を賜ったと惜しむ。大津の謀叛事件については、大津本人の意志に基づくものなのか、他人の使嗾があったのか、大津抹殺のための謀略だったのか、さまざまに説が立てられているものの、確証がないためいずれも推測の域を出ない。
 大津皇子の前には、大津の謀叛を内通したとされる河島皇子の伝記と詩一篇が収録されている。伝記と語釈を引く。

 河島皇子

 皇子は淡海帝あふみていの第二子なり。志懐温裕しくわいをんゆう、局量弘雅きよくりやうこうが、はじめ大津皇子と莫逆ばくぎやくの契りをなし、津の逆を謀るにおよびて、島すなはち変を告ぐ。朝廷その忠正を嘉よみし、盟友その才情を薄うすんず。議者いまだ厚薄を詳つまびらかにせず。しかも余おもへらく、私好しかうを忘れて公に奉ずる者は忠臣の雅事がじ、君親に背そむきて交を厚うする者は悖徳はいとくの流のみ。ただいまだ争友の益を尽さざるに、その塗炭とたんに陥おとしいるる者は余またこれを疑ふ。位浄大参じやうだいさんに終ふ。時に年三十五。

○志懐温裕 気持がおだやかでゆとりがある。 ○局量弘雅 心が広く高雅である。 ○莫逆の契り お互いに心の違うことなく、意気のあった者同士。 ○津 大津皇子、漢文流の記し方。 ○島 河島皇子、これも漢文流の記し方。 ○忠正 忠誠、正は正しいであるが君に真心をつくしたことをいう。 ○私好 私ごとにおけるよしみ。私的生活における友誼。 ○雅事 つねになすべき正しいこと。 ○悖徳 人の践み行うべき徳義にそむいていること。 ○流 末流、末輩の意。 ○争友の益 友人として忠告して善に導くこと。 ○塗炭 泥水と炭火、水火の苦しみ。 ○浄大参 天武天皇の十四年に制定された冠位で、親王・諸王に与えられた。大宝令の正五位上相当である。

 伝記執筆者の「余」は、大津が謀叛に走ったことを疑っていないが、朝廷に忠実だった河島の態度に批判的で、叛逆者たる大津には同情と共感を寄せているように見える。


掲載 2001年2月26日  最終更新 2002年 9月 19日 (木)