折口信夫
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明治20年2月11日−昭和28年9月3日(1887-1953)
死者の書
足の踝クルブシが、膝の膕ヒツカゞミが、腰のつがひが、頸のつけ根が、顳■〔需+頁〕コメカミが、ぼんの窪が──と、段々上つて来るひよめきの為に蠢いた。自然に、ほんの偶然強ばつたまゝの膝が、折り屈められた。だが、依然として──常闇トコヤミ。
臂カヒナが動き出した。片手は、まつくらな空クウをさした。さうして、今一方は、そのまゝ、岩牀ドコの上を掻き捜つて居る。
両の臂は、頸の廻り、胸の上、腰から膝をまさぐつて居る。さうしてまるで、生き物のするやうな、深い溜め息が洩れて出た。 |
- 初出 「日本評論」昭和14年(1939)1月号−3月号
- 底本 『折口信夫全集 第廿四巻』中公文庫、昭和50年(1975)12月、中央公論社/p.133-135
●略解
「死者の書」は小説。当麻寺に入って蓮の繊維で曼陀羅を織りなしたという中将姫の伝説に材を取り、大正11年発表の未完の小説「神の嫁」のモチーフを継ぐ。
時は奈良時代。主人公の藤原南家の郎女は彼岸の中日、二上山に沈む金色の落日に心を奪われ、夕闇に包まれてゆく雄岳と雌岳のあいだに荘厳な貴人の面影を幻視する。屋敷をあくがれ出た郎女は導かれるように西へ向かい、二上山の麓にある当麻寺へたどりつく。郎女を捜索して都をあとにした九人の修道者は、夜の二上山で郎女の魂に呼びかける。こう こう こう というその魂呼ばいの声は、二上山の墓所に眠る大津皇子の霊を呼び醒ました。
掲出箇所は「彼カの人の眠りは、徐シヅかに覚めて行つた」で幕を開けた冒頭、大津が常闇のなかに眼醒めるシーン。記憶が徐々に鮮明になってゆき、大津は姉の大来皇女のことを想起する。
もゝつたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや、雲隠りなむ
を辞世として死を迎える直前、眼にとめた郎女の面影に心を残した大津は、日の御子に弓を引いた天若日子の系譜に連なる叛逆者として蘇ったのである。当麻語部媼は語る。
「もゝつたふ」の歌、残された飛鳥の宮の執心シフシンびと、世々の藤原の一イチの媛に祟る天若みこも、顔清く、声心惹く天若みこのやはり、一人でおざりまする。
「死者の書」執筆の経緯は昭和19年の「山越しの阿弥陀像の画因」(全集第廿七巻)に詳しい。草稿「死者の書 続篇」(全集第廿四巻)があるが、未完。
なお、原文は段落冒頭に一字空きを設けず、地の文以外の会話や思惟などの箇所は段落全体を一字下げとしているが、ブラウザでは忠実に再現できない。二字にわたる仮名の踊り字(繰り返し符号)は「々々」で、傍点はアンダーラインで代用した。
●関連リンク
折口信夫『死者の書』:松岡正剛 ▼サイト:松岡正剛の千夜千冊。
『死者の書』折口信夫著:岡野弘彦 ▼サイト:産經新聞。「21世紀へ残す本残る本」に執筆。
二上山──古代大和を歩く(1):和田萃 ▼サイト:人文書院。「じんぶんメイト」に掲載。
●掲載 2001年2月19日 ●最終更新