折口信夫

明治20年2月11日−昭和28年9月3日(1887-1953)

死者の書

足の踝クルブシが、膝の膕ヒツカゞミが、腰のつがひが、頸のつけ根が、顳■〔需+頁〕コメカミが、ぼんの窪が──と、段々上つて来るひよめきの為に蠢いた。自然に、ほんの偶然強ばつたまゝの膝が、折り屈められた。だが、依然として──常闇トコヤミ

をゝさうだ。伊勢の国に居られる貴い巫女ミコ──おれの姉御。あのお人が、おれを呼び活けに来てゐる。
姉御。こゝだ。でもおまへさまは、尊い御
オン神に仕へてゐる人だ。おれのからだに、触サハつてはならない。そこに居るのだ。ぢつとそこに、踏み止トマつて居るのだ。──あゝおれは、死んでゐる。死んだ。殺されたのだ。──忘れて居た。さうだ。此は、おれの墓だ。
いけない。そこを開
けては。塚の通ひ路の、扉をこじるのはおよし。……よせ。よさないか。姉の馬鹿。
なあんだ。誰も、来ては居なかつたのだな。あゝよかつた。おれのからだが、天日
テンピに暴サラされて、見る々々、腐るところだつた。だが、をかしいぞ。かうつと──あれは昔だ。あのこじあける音がするのも、昔だ。姉御の声で、塚道の扉を叩きながら、言つて居たのも今インマの事──だつたと思ふのだが。昔だ。
おれのこゝへ来て、間もないことだつた。おれは知つてゐた。十月だつたから、鴨が鳴いて居たのだ。其鴨みたいに、首を捻ぢちぎられて、何も訣らぬものになつたことも。かうつと──姉御が、墓の戸で哭き喚
ワメいて、歌をうたひあげられたつけ。「巖石イソの上ウヘに生ふる馬酔木アシビを」と聞えたので、ふと、冬が過ぎて、春も闌け初めた頃だと知つた。おれの骸ムクロが、もう半分融け出した時分だつた。そのあと、「たをらめど……見すべき君がありと言はなくに」。さう言はれたので、はつきりもう、死んだ人間になつた、と感じたのだ。……其時、手で、今してる様にさはつて見たら、驚いたことに、おれのからだは、著こんだ著物の下で、■〔月+昔〕ホジゝのやうに、ぺしやんこになつて居た──。

カヒナが動き出した。片手は、まつくらな空クウをさした。さうして、今一方は、そのまゝ、岩牀ドコの上を掻き捜つて居る。

うつそみの人なる我や。明日よりは、二上フタカミ山を愛兄弟イロセと思はむ

誄歌ナキウタが聞えて来たのだ。姉御があきらめないで、も一つつぎ足して、歌つてくれたのだ。其で知つたのは、おれの墓と言ふものが、二上山の上にある、と言ふことだ。
よい姉御だつた。併し、其歌の後で、又おれは、何もわからぬものになつてしまつた。
其から、どれほどたつたのかなあ。どうもよつぽど、長い間だつた気がする。伊勢の巫女様、尊い姉御が来てくれたのは、居睡りの夢を醒された感じだつた。其に比べると、今度は深い睡りの後
アト見たいな気がする。あの音がしてる。昔の音が──。
手にとるやうだ。目に見るやうだ。心を鎮めて──。鎮めて。でないと、この考へが、復散らかつて行つてしまふ。おれの昔が、あり々々と訣つて来た。だが待てよ。……其にしても一体、こゝに居るおれは、だれなのだ。だれの子なのだ。だれの夫
ツマなのだ。其をおれは、忘れてしまつてゐるのだ。

両の臂は、頸の廻り、胸の上、腰から膝をまさぐつて居る。さうしてまるで、生き物のするやうな、深い溜め息が洩れて出た。

 略解

 「死者の書」は小説。当麻寺に入って蓮の繊維で曼陀羅を織りなしたという中将姫の伝説に材を取り、大正11年発表の未完の小説「神の嫁」のモチーフを継ぐ。
 時は奈良時代。主人公の藤原南家の郎女は彼岸の中日、二上山に沈む金色の落日に心を奪われ、夕闇に包まれてゆく雄岳と雌岳のあいだに荘厳な貴人の面影を幻視する。屋敷をあくがれ出た郎女は導かれるように西へ向かい、二上山の麓にある当麻寺へたどりつく。郎女を捜索して都をあとにした九人の修道者は、夜の二上山で郎女の魂に呼びかける。こう こう こう というその魂呼ばいの声は、二上山の墓所に眠る大津皇子の霊を呼び醒ました。
 掲出箇所は「彼の人の眠りは、徐シヅに覚めて行つた」で幕を開けた冒頭、大津が常闇のなかに眼醒めるシーン。記憶が徐々に鮮明になってゆき、大津は姉の大来皇女のことを想起する。

もゝつたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや、雲隠りなむ

 を辞世として死を迎える直前、眼にとめた郎女の面影に心を残した大津は、日の御子に弓を引いた天若日子の系譜に連なる叛逆者として蘇ったのである。当麻語部媼は語る。

「もゝつたふ」の歌、残された飛鳥の宮の執心シフシンびと、世々の藤原の一イチの媛に祟る天若みこも、顔清く、声心惹く天若みこのやはり、一人でおざりまする。

 「死者の書」執筆の経緯は昭和19年の「山越しの阿弥陀像の画因」(全集第廿七巻)に詳しい。草稿「死者の書 続篇」(全集第廿四巻)があるが、未完。
 なお、原文は段落冒頭に一字空きを設けず、地の文以外の会話や思惟などの箇所は段落全体を一字下げとしているが、ブラウザでは忠実に再現できない。二字にわたる仮名の踊り字(繰り返し符号)は「々々」で、傍点はアンダーラインで代用した。

 関連リンク

 折口信夫『死者の書』:松岡正剛 サイト:松岡正剛の千夜千冊。

 『死者の書』折口信夫著:岡野弘彦 サイト:産經新聞。「21世紀へ残す本残る本」に執筆。

 二上山──古代大和を歩く(1):和田萃 サイト:人文書院。「じんぶんメイト」に掲載。


掲載 2001年2月19日  最終更新 2002年 9月 19日 (木)