馬場あき子

昭和3年1月28日− (1928− )

鬼の研究

 三章 王朝の暗黒部に生きた鬼
  1 鬼として生きた盗賊の理由
   鬼使い千方

 鈴鹿の鬼といえば、しかし鈴鹿御前にはじまったことではなく、早く天智天皇時代の叛乱の伝承がある。藤原千方が〈四性の鬼〉を使って体制に叛いた話で、制圧にむかったのは紀友雄である。これも謡曲に「現在千方ちかた」という曲があり、千方は、風鬼・水鬼・火鬼・隠形鬼の〈四性の鬼〉を使って鈴鹿を防ぎ、鬼はそれぞれの名の示す、暴風・洪水・雨・猛火と、霧・霞に紛れ身を隠すことの可能な者を操り、派遣の兵を悩ましたという。いわば千方は鬼つかいの達人であったといえる。追討使の紀友雄はこうした鬼使いが生みなす鬼の〈性〉をよく理解していたというべきか、その思想的虚を衝くことによって千方に動揺を与えることに成功した。「草も木もわが大君の国なればいずくか鬼の栖すみかなるべき」という一首を詠じ入れたことにより、〈四性の鬼〉は千方を見捨てて天上に還ったと伝えられる。「大君の国」だという論理が所有権の主張となりえたか否かはともかく、また、強圧的な征夷の政策がどれほどの畏怖を与えたかどうかもわからないが、千方の、体制そのものへの叛意は、鬼どもの戦意阻喪によってかんたんに敗れ去った。

 略解

 『鬼の研究』は、古代から中世の歴史の闇に鬼の消息を探った名著。鬼の本質を「反体制、反秩序」に見て、体制的秩序に制圧され、駆逐され、姿を消していったさまざまな鬼に哀悼追慕の挽歌を捧げる書といえる。
 三章「王朝の暗黒部に生きた鬼」では、「王朝という、摂関貴族政治の背景には、その繁栄の数十倍の部厚さをもって犠とされた人と生活があったことはいうまでもない。〈鬼とは何か〉について考えるとき、第一に頭に浮かぶことは、むしろこうした暗黒部に生き耐えた人びとの意志や姿」であるとの観点から、大江山の酒呑童子に考察が加えられ、鈴鹿山の鬼伝説に眼が向けられて、坂上田村麿や鈴鹿御前、立烏帽子など鈴鹿峠に名を残す武将や女賊が言及される。
 掲出は「鬼使い千方」全文。「鈴鹿の鬼」として千方と四鬼が紹介されているのは、いささか解せない。謡曲「現在千方」では千方の拠った場所は明かされておらず、謡曲「田村」には千方の故事を引きながら「ましてや間近き鈴鹿山」とするくだりがあって、千方の本拠は鈴鹿山にほど近い場所と認識されていたことが知られる。著者の勘違いかと思われるが、それはこの名著の価値を損なうものではまったくない。紀朝雄に鬼の性への理解を見届けている点ひとつにも、著者が鬼へ投げるまなざしの確かさが感じられる。


掲載 2001年3月3日  最終更新 2002年 9月 19日 (木)