太平記

軍記物語 南北朝時代後半(1370年代)成立 四十巻

 巻十六
  日本朝敵の事

 それ日本開闢の始めを尋ぬれば、二儀すでに分かれ三才やうやく顕れて、人寿二万歳の時、伊弉諾・伊弉冉のふたりの尊、つひに妻神・夫神と成つて天の下にあまくだり、一女、三男を生みたまふ。一女と申すは天照大神、三男と申すは月神・蛭子・素盞嗚尊なり。第一の御子天照大神、この国の主と成つて、伊勢国御裳濯川のほとり、神瀬下津岩根に跡を垂れたまふ。ある時は垂迹の仏と成つて、番々出世の化儀をととのへ、ある時は本地の神に帰つて、塵々刹土の利生をなしたまふ。これすなはち迹高本下の成道なり。ここに第六天の魔王集まつて、この国の仏法弘まらば魔障弱くしてその力を失ふべしとて、かの応化利生を妨げんとす。時に天照大神、かれが障碍をやめんために、われ三宝に近付かじといふ誓ひをぞなしたまひける。これに依つて第六天の魔王怒りをやめて五体より血をあやし、「尽未来際に至るまで、天照大神の苗裔たらん人を以つてこの国の主とすべし。もし王命に違ふ者有つて国を乱り民を苦しめば、十万八千の眷属朝にかけり夕べに来たつて、その罰を行ひその命を奪ふべし」と固く誓約を書いて天照大神に奉る。今の神璽の異説これなり。まことに内外の宮のありさま、自余の社壇には事変はつて、錦帳に本地を顕せる鏡をも懸けず、念仏・読経の声を留めて僧尼の参詣を許されず。これしかしながら当社の神約を違へずして、化属結縁の方便を下に秘せるものなるべし。
 されば天照大神よりこのかた、継体の君九十六代、その間に朝敵と成つて滅びし者を数ふれば、神日本磐余予彦天皇御宇天平四年に、紀伊国名草郡に二丈余の蜘あり。足手長くして力人に越えたり。綱を張る事数里に及んで、往来の人を残害す。しかれども官軍勅命をかうむつて、鉄の網を張り、鉄湯をわかして四方より攻めしかば、この蜘つひに殺されて、その身つだつだに爛れにき。また天智天皇の御宇に藤原千方といふ者有つて、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼といふ四つの鬼を使へり。金鬼はその身堅固にして、矢を射るに立たず。風鬼は大風を吹かせて、敵城を吹き破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺す。隠形鬼はその形を隠して、にはかに敵をとりひしぐ。かくの如く神変、凡夫の智力を以つて防くべきにあらざれば、伊賀・伊勢の両国、これがために妨げられて王化に従ふ者なし。ここに紀朝雄といひける者、宣旨をかうむつて、かの国に下り、一首の歌を読みて、鬼の中へぞ送りける。
  草も木もわが大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき
四つの鬼この歌を見て、「さてはわれら悪逆無道の臣に従つて、善政有徳の君を背きたてまつりける事、天罰遁るるところ無かりけり」とて、たちまちに四方に去つて失せにければ、千方勢ひを失つてやがて朝雄に討たれにけり。これのみならず、朱雀院の御宇承平五年に、将門といひける者東国に下つて、相馬郡に郡を立て、百官を召しつかうてみづから平親王と号す。官軍こぞつてこれを討たんとせしかども、その身皆鉄身にて矢石にも破られず、剣戟にも痛まざりしかば、諸卿僉議あつてにはかに鉄の四天を鋳たてまつて比叡山に安置し、四天合行の法を行はせらる。ゆゑに天より白羽の矢一筋降つて将門が眉間に立ちければ、つひに俵藤太秀郷に首を取られてんげり。その首獄門に懸けて曝すに、三月まで色変ぜず、眼をも塞がず、常に牙をかみて、「斬られしわが五体、いづれの所にか有るらん。ここに来たれ。首ついで今一軍せん」と夜な夜な呼ばはりけるあひだ、聞く人これを恐れずといふ事なし。時に道過ぐる人これを聞きて、
  将門は米かみよりぞ斬られける俵藤太が謀にて
と読みたりければ、この首からからと笑ひけるが、眼たちまちに塞がつて、その尸つひに枯れにけり。この外大石山丸・大山王子・大友真鳥・守屋大臣・蘇我入鹿・豊浦大臣・山田石川・左大臣長屋・右大臣豊成・伊予親王・氷上川継・橘逸勢・文屋宮田・恵美押勝・井上皇后・早良太子・大友皇子・藤原仲成・天慶の純友・康和の義親・宇治の悪左府・六条判官為義・悪右衛門督信頼・安倍貞任・宗任・清原武衡・平相国清盛・木曾冠者義仲・阿佐原八郎為頼・時政九代の後胤高時法師に至るまで、朝敵と成つて叡慮を悩まし仁義を乱る者、皆身を刑戮の下に苦しめ、尸を獄門の前に曝さずといふ事なし。されば尊氏卿もこの春八箇国の大勢を率して上洛したまひしかども、ひたすら朝敵たりしかば、数箇度の合戦に打ち負けて、九州を差して落ちたりしが、この度はその先非を悔いて、一方の皇統を立て申して、征伐を院宣にまかせられしかば、威勢の上に一つの理出で来て、大功たちまちに成らんずらんと、人皆色代申されけり。
 さる程に、東寺すでに院の御所と成りしかば、四壁を城郭に構へて、上皇を警固したてまつる由にて、将軍も左馬頭も同じくこれに籠られける。これは敵山門より遙々と寄せ来たらば、小路小路をさへぎつて縦横に合戦をせんずるたよりよかるべしとて、この寺を城郭にはせられけるなり。

 略解

 掲出は「日本朝敵の事」全文。底本は慶長八年古活字本に拠る。

 建武三年/延元元年(1336)、京を追われて九州に逃れた足利尊氏・直義兄弟は、大軍を集めてふたたび畿内に接近。後醍醐天皇の建武新政府は新田義貞と楠木正成に迎撃を命じた。五月、摂津兵庫の湊川一帯で足利軍と新田・楠木軍による「湊川の戦い」の火蓋が切られたが、新田軍が移動したため楠木軍は孤立。包囲する敵と十六度まで戦って精根尽き果て、正成は一族十三人、手の者六十余人とともに自害した。死の直前、正成・正季兄弟のあいだに「七生までただ同じ人間に生れて、朝敵を滅ぼさばや」との誓いがかわされる。
 新田軍も足利軍に撃破され、義貞は危うく虎口を逃れて帰洛する。元弘の乱ののち建武の新政が樹立されて三年、この年正月には楠木軍が足利軍を駆逐し、もはや朝敵の心配はあるまいと安堵したのもつかの間、正成の来襲に京の貴賎は慌て騒いだ。後醍醐天皇は義貞らとともに比叡山へ難を避けたが、対立する持明院統は京にとどまり、光厳院は尊氏の待機する東寺を訪れる。八月、光厳院の弟、豊仁が尊氏に擁立されて即位、光明天皇となる。
 以上の記述のあとに「日本朝敵の事」の段が置かれる。天地開闢以来の皇統の正統性を説き、朝敵は必ず「尸を獄門の前に曝」すという“歴史的事実”を示して、かつて朝敵だった尊氏も持明院統の皇統を奉じて理を獲得したことにより「大功たちまちにならんずらん」との世辞が都を駈けめぐったと記す。底本頭注はこの段を次のとおり説く。

『平家物語』五「朝敵揃」を下敷きにする。朝敵滅亡の先例を列挙すること自体に啓蒙的な意図がある。と同時に、今回の尊氏の行動が光厳院の院宣をえるから朝敵ではなく成功するだろうとするもので、『平家物語』の場合とは朝敵揃の意味が逆になっていて、そのため饒舌が目につく。

 南北朝の動乱期に書き継がれた『太平記』は、複雑な加筆や削除の過程を経て中世末には広く読まれるところとなり、謡曲、御伽草子、浄瑠璃などに多彩な題材を提供した。「日本朝敵の事」も藤原千方伝説のいわば原テキストとして流布し、謡曲「現在千方」などが生まれることになる。
 「日本朝敵の事」では、歴代天皇に叛逆を企てた朝敵のなかから、とくに名草の土蜘蛛、藤原千方と四鬼、平将門の三つの事例が来歴を添えて紹介されるが、時代順に並べるのであれば、孝謙天皇の時代の土蜘蛛より、天智天皇の時代の千方と四鬼の方が先に来るべきである。もっとも、千方伝説を天智天皇の時代に置くことにはそもそも無理があるだろう。
 底本頭注は、藤原千方を藤原秀郷すなわち俵藤太の孫(「尊卑分脈」によれば千常の弟)とする。だとすれば千方の故事は秀郷が将門を討伐した天慶三年(940)よりあとのことになるが、いずれにせよ秀郷の孫(あるいは子供)である藤原千方が伊賀・伊勢を本拠として朝廷に叛旗を翻した史実は存在しない。
 ちなみに「尊卑分脈」(新訂増補国史大系)には、

秀 郷 ─── 千 晴
         │
        千 春
         │
        千 国
         │
        千 種  ┌─ 千 方
         │   │
        千 常 ─┴─ 文 脩 

 という秀郷から千方への血の流れが記録されており、千方の名には「実者千常舎弟」との註記がある。

 底本頭注から朝敵に関する註を引く。

紀伊国名草郡に二丈余の蜘
「郡」を底本は「那」と誤る。現在の和歌山県海草郡。「日本磐余彦尊の御宇四年己未の歳の春、紀伊国名草郡高野の林に土蜘蛛ありき。身短く手足長くして力人に勝れたり。皇化に従はざりければ官軍を差し遣して是を攻めけれども、誅する事能はず、住吉大明神、葛の網を結ひて遂に覆ひ殺したまへり」(『源平盛衰記』十七・謀叛素懐を遂げざる事)。

藤原千方
藤原秀郷の孫。『尊卑分脈』は実は千常の弟だとする。天智天皇の御代とするのは合わない。『古今和歌集序聞書三流抄』に「又問、何ヲ以テ鬼神ノ歌ニ愛ヅルト言哉。答云、鬼神ノ歌ニ愛ヅル事、日本紀ニ見エタリ。天智天皇ノ御時、藤原千方将軍ト云人アリ。此人、伊賀・伊勢両国ヲ吾儘ニシテ天皇ニ随ハズ、仍テ時ノ将軍ヲ差遣ハシテ是ヲ責ケレドモ叶ハズ。彼千方ハ四人ノ鬼ヲ仕フ。所謂、風鬼・水鬼・金鬼・一鬼ト云。此鬼ドモ箭刀ヲ恐レズ。風鬼ハ風ト成テ敵ノ陣ヲ吹破リ、水鬼ハ水ト成テ敵ヲ流シ失フ。金鬼ハ身ヲ金ニシテ箭モ刀モタタズ。一鬼ハ数千騎ガ前ニ立テ勢ヲ立隠シ、各カクノ如ク徳アリ。然ル間、攻ル事力ニ及バズ。此時、紀朝雄中納言ヲ大将トシテ千方ヲ攻レドモ叶ハズ。朝雄思ヘラク、鬼神ハ極テ心直ナル者也。サレバ千方ガ梟悪ヲ真ト思フテ王命ヲ背ケリ。去バ真心ヲ知セント思ヒ一首ノ歌ヲ読テ彼鬼ドモノ中ニ遣ス。土モ木モワガ大君ノ国ナレバ何クカ鬼ノ宿ト定メン 其時、鬼ドモ千方ガ梟悪ヲ悟テ捨去リヌ。其時、千方ヲバ金淵城ヘ追ヒ籠テ打■〔己+十〕。是、鬼ノ歌ニ愛ル証拠也」とある。

将門
承平の将門の乱の首謀者。桓武平氏の祖、高望王の孫で、鎮守府将軍良将の息。下総の地を拠点として一門と戦い威を振ったが、中央政府から反逆者とされ平貞盛・藤原秀郷の軍に敗れて討死した。

大石山丸
『日本書紀』雄略十三年八月に春日小野大樹に討たれたと見える文石小麻呂の誤りか。

大山王子
応神天皇の皇子、大山守皇子。皇太子の位を狙ったが果さず、水死させられた。

大友真鳥
仁賢天皇の崩後、王位を狙い大伴大連に討たれた平群真鳥のことか。

守屋大臣
蘇我馬子らに討たれた物部守屋大連。

蘇我入鹿
皇極天皇四年六月、中大兄皇子らに討たれた。

豊浦大臣
入鹿が殺された後自刃した蝦子(入鹿の父)か。

山田石川
三国麿公に攻められ自刃した蘇我山田石川麿。

左大臣長屋
天武天皇の孫。高市皇子の息。讒言にあい自刃。

右大臣豊成
藤原武智麿の息。逆賊仲麿を弟に持ち処罰。

伊予親王
桓武天皇の第三皇子。藤原仲成の讒にあい自殺。

氷上川継
天武天皇の曾孫。反逆者として流されたが赦免。

橘逸勢
奈良麿の孫。承和の変に伊豆に流され途中病死。

文屋宮田
筑前守在任中、新羅と結んで叛乱を企てたと疑われ伊豆に流された文室宮田麿。

恵美押勝
底本は「江見」。道鏡の進出におびえ謀叛を起こし斬られた藤原仲麿の別名。

井上皇后
聖武帝の妹で光仁の后。謀叛の嫌疑で廃される。

早良太子
光仁帝の第二皇子。大伴氏らによる藤原種継暗殺事件に加わったと疑われ淡路へ配流の途中病死。

大友皇子
壬申の乱に敗れ自刃した、天智天皇の皇子。

藤原仲成
種継の息。妹薬子と平城帝の重祚を企て処刑。

天慶の純友
藤原良範の息。海賊として小野好古に討たれた。

康和の義親
源義家の息。九州で暴逆、平正盛に討たれた。

宇治の悪左府
保元の乱を起した左大臣藤原頼長。

六条判官為義
源義親の息。保元の乱に崇徳院に従い斬られた。

悪右衛門督信頼
藤原忠隆の息。平治の乱を起し敗れて処刑。

安倍貞任・宗任
陸奥の豪族。前九年の役を起し源頼義に討たれた。宗任は貞任の弟で太宰府に流された。

清原武衡
陸奥の豪族。後三年の役に源義家に敗れた。

平相国清盛
桓武平氏。太政大臣まで昇り暴逆を事としたが、源氏が挙兵する頃、熱病にかかって死去。

木曾冠者義仲
以仁王の令旨をえて挙兵、平氏を京から追い出したが暴逆を行い源義経の軍に敗れ討死した源義仲。

阿佐原八郎為頼
小笠原氏。正応三年(一二九〇)宮中に乱入、伏見天皇を殺そうとして果さず自害した。

高時法師
北条時政の九代の子孫。元弘の乱に敗れ、鎌倉幕府の滅亡とともに自刃した。

 「日本朝敵の事」の千方伝説から気にかかる点を挙げておくと、まず土蜘蛛、千方と四鬼、将門の三つの挿話にいずれも鉄のイメージが附与されている点である。ここには鉄ないし金属をめぐる戦いが暗示されているように見える。
 名草の土蜘蛛は鉄の網と鉄湯によって討伐されるし(底本頭注の『源平盛衰記』の記述には「鉄」は見えない)、千方に仕える金鬼は鉄のように硬い肉体をもち、将門もまた全身が鉄身であったという(将門の本拠地であった猿島の広江=茨城県=では1970年代、将門が管理した製鉄遺跡が発見されている)。
 さらにいえば、湊川の戦いで敗死した楠木正成が「金剛」や「朱砂」など金属に深いゆかりをもっていたことは、近年になって注目されている歴史的事実である。「日本朝敵の事」につづく「正成が首故郷へ送ること」で『太平記』巻十六は幕を閉じるが、正成の死を受けて綴られる「日本朝敵の事」には、鉄ないし金属をめぐる戦いに敗れ去った敗者たちへの密かな鎮魂がこめられていると見受けられないでもない。
 もうひとつ、四鬼と紀朝雄の関係も気になるところだろう。千方と四鬼は単なる主従関係にすぎないが、四鬼と朝雄には隠された類縁関係が感じられるからである。四鬼の本性を知っていればこそ、朝雄は歌によって鬼を駆逐することができたのだろう。紀朝雄の名は正史にはまったく見えないが、通俗史学では「紀」は「鬼(き)」に通じる姓とされる。

 追記[2001年3月5日]

 岩波古典文学大系35『太平記 二』(1961年6月、岩波書店、校注=後藤丹治、釜田喜三郎)の「日本朝敵事」(p.166-169)から、藤原千方伝説に関連する頭注と巻末の補注を引く。

藤原千方(補注)
尊卑分脈によると、秀郷─千常─千方の系図で、「実者千常舎弟」と注し、鎮守府将軍とする。秀郷流系図(続群書類従所収)の白河結城系図などにも、秀郷の孫に智方(或は知方)があるが、秀郷の孫では時代が合わぬ上に叛逆を企てたことは正史に見えぬ。謡曲「田村」に「昔もさるためしあり。千方といひし逆臣に仕へし鬼も、王位をそむく天罰にて千方をすつれば、忽ち亡びうせしぞかし」とあるのは太平記から出たのであろう。謡曲拾葉抄の「田村」の注解に菊岡如幻の「伊水温故」が引かれ、類話を載せるが、これも太平記が原拠らしい。逆臣千方伝説は秀郷の孫千方の事として起ったらしいが、拠るところがわからぬ。或は秀郷の滅した将門などから逆に作為されたものか。(志田義秀博士「日本の伝説と童話」一八−二四頁参照)

紀朝雄(頭注)
不明。紀氏系図その他に見当らぬ。想像上の人物か。

 関連リンク

 足利軍、京都へ サイト:肩がこらないページ 開設者:柳田俊一。『太平記』の現代語訳を掲載するサイト。「日本朝敵の事」は「足利軍、京都へ」に収録。[2001年2月19日]


掲載 2001年2月10日  最終更新 2002年 9月 19日 (木)