いま蘇る田中善助
ただし黒の着流しに身を包んだ刺客としてだっちゅーの

 名張市にお住まいの方であれば、上野盆地の田園地帯をのんびりと走る単線の鉄道、近鉄伊賀線のことはよくご存じだろう。だが、この伊賀線がかつては伊賀鉄道と呼ばれた独立経営の地方鉄道で、それが田中善助という上野の事業家によって開かれた鉄路だったという事実を知る人は、いまとなってはごく少数であるにちがいない。
 のみならず、上野や名張に水力発電の灯を点し、上野の町に下水道を整備し、齢八十にしてなお榊原温泉の復興に力を注いだ風雲児田中善助の多方面にわたる活躍もまた、いずれ戦前と称される遠い時代のできごとであってみれば、とうに語られなくなった伝説めいてすでに果敢ない。
 上野市の財団法人前田教育会が今春刊行した『田中善助伝記』は、そんな田中善助の生涯と業績を窺うに恰好の一冊である。
 まず装幀が眼を惹く。上の写真からもお判りのとおり、函も表紙も黒一色に統一し、表題だけを金箔で浮かびあがらせた『田中善助伝記』の造本は、かつて三島由紀夫が澁澤龍彦の『黒魔術の手帖』を評した「殺し屋的ダンディズム」という言葉を思い起こさせるほどの気品に充ちている。
 もっともこれは、スーツからソフトから全身黒ずくめのヘミングウェイ的殺し屋ではなく、黒い着流しの懐に白刃を呑んだ、往年の東映やくざ映画でいえば池部良演じる風間重吉のごとき刺客ではあるだろう。
 函から本を出してみよう。ノドの上下に覗く花ぎれは漆黒のイメージを手もなく覆して赤と黄のツートン、さらにスピンは緑と紫が一本ずつというめでたさで、扉には善助の手になる布袋像がにっこり微笑んでいる。

 一家に一冊善助伝記

 今度は内容に触れる番だが、これはメタリックな銀色の帯に記された惹句を引いておけば足りるだろう。

 田中善助という市民がいた
 発電や鉄道などの事業に天与の才幹を発揮して伊賀に近代の開幕を告げ/鉄城という号をもつ卓越した趣味人としても知られた鉄城翁田中善助
 その溌剌たる市民精神が現代に蘇る
 昭和19年刊行の自伝「鉄城翁伝」をはじめ「西島八兵衛伝」「田中善助講演速記録」など善助の著述と関連文献を収録

 じつに簡にして要を得た紹介で、つけ加えるべきことは何もないのだが、もう少しくわしく知りたいとおっしゃる方のために本書に収録された文献のタイトルを列記しておこう。

 1 風景保護請願理由書/2 西島八兵衛伝/3 大陸管見/4 田中善助講演速記録/5 鉄城翁伝
 6 公共事業と田中善助氏/7 田中善助君/8 田中善助さんの欠け茶碗/9 『鉄城翁自伝』をよむ/10 先賢を語る/11 テラコッタ

 1から5までが善助自身の著作で、中心をなす『鉄城翁伝』が全三百七十四ページのなかば以上を占める。6から11は善助以外の執筆者による関連文献で、紳士録の記述、善助の謦咳に接した経験を綴った随筆といったあたりが収められている。
 こうした入念な構成によって、本書は田中善助の人物像と功績とを立体的に浮き彫りにすることに成功しているといっていいだろう。写真を含めた丹念な資料収集、徹底した本文校訂と年譜の補訂なども特筆に値する。
 さらに丁寧なことに本書には別冊付録が挟み込まれ、『田中善助伝記』編集委員会が「鉄城翁伝」の一部をリライトした「鉄城翁の道」が掲載されている。田中善助なる一代の傑物をご紹介する手だてとして、「伊賀の天地」と題された章を引用してみよう。

 ここで、田中善助が生きた時代を確認しながら、『鉄城翁伝』への水先案内を務めてみよう。それには、時の流れを百四十年ほど遡る必要がある。時代は江戸末期。山国の城下町、伊賀上野にあった小さな下駄屋の子供として、善助は私たちの前に登場してくる。
 日米修好通商条約が締結された安政五年(1858)の十月五日、相生町に一人の男の子が生まれた。当主・竹内長兵衛は代々の下駄屋で、誕生した長男は覚次郎と名づけられた。のちの田中善助である。
 覚次郎少年が数え齢で十一歳を迎えた年、江戸城が開城され、時代は江戸から明治へと移った。明治新政府が樹立され、日本は近代的な統一国家として歩み始めた。山間の城下町にも、新時代の動きはあわただしく押し寄せる。明治四年(1871)には廃藩置県が実施され、伊賀の国は安濃津県に所属、翌五年には安濃津県と度会県が合併して三重県が誕生した。
 ちょうどそのころ、覚次郎少年の身のうえにも大きな変化が訪れることになった。
 覚次郎は紺屋町の士族・房川文太が開いた寺子屋に学び、明治二年(1869)に卒業していたが、いずれは家業を継いでくれるものと思いこんでいた父親に、ある日、思いがけない言葉を吐いた。
 「下駄屋の商売は厭や。下駄屋にはならへん」
 覚次郎の眼には、父親の仕事がどうにも情けない商売に映っていたのである。長兵衛がいくら叱りつけても、覚次郎はいうことをきかない。それどころか、東京へ行きたい、ロンドンへ行きたいと、途方もないことをいいだす始末だった。
 困り果てた長兵衛は、新町で金物商を営んでいた義弟・田中善助に相談をもちかけた。話は意外な方向に進んだ。子供のいなかった善助が、「覚次郎を俺の家へ養子にくれんか」と申し出たのである。
 覚次郎は、「新町は金持ちやし、金物屋は下駄屋より美しいで」という父親の勧めを受けて、母親の弟である田中善助の養子となった。明治五年(1872)六月、十五歳のときのことであった。東京へ出る夢をあきらめ、金物商・金善の跡取りとなって、商売のいろはを学んでゆく日々が始まった。

 以下まだまだつづくが、これ以上は本書を購入してお読みになられたい。伊賀に住む人、伊賀のことを知りたい人には一家に一冊必携の書で、そうでない人にも造本の美しさを愛でる愉しみは約束されている。
 ところで、八十五歳当時の善助はこんな顔をしていた。
 海外雄飛を夢見た少年が禿頭白髯の老人となるまでの長い長い日月は、まさしく伊賀の天地を開明に導くための不撓不屈の活躍に費やされたのであり、それをつぶさに知ることのできる出色の一冊として、われわれはここに『田中善助伝記』を得たのである。
 千五百部を発行し、これだけの造本と内容でわずか四千円(税別)というのだから、なんと良心的な出版であることかと三歎これを久しくせざるを得ない。購入をご希望の方は前田教育会(電話0595・24・5511)へ申し込まれたい。
 ちなみにこの前田教育会は、高度経済成長期に一代で財をなした上野市出身の事業家、前田維氏が郷土のために私財を投じて設立した財団で、上野市内に開設した「蕉門ホール」の開館五周年を記念して本書の発刊を企画したのだという。月並みなイベントでお茶を濁すことなく、記念事業としてきわめて有意義な出版を実現した見識は高く評価されるべきだろう。

 所有と処分の諸問題

 もうひとつだけ述べておこう。それは、『田中善助伝記』巻末の委曲を尽くした解題「田中善助と地域主義」にも記されているとおり、読者はこの本から「現代に直結したテーマ」をいくらでも発見することが可能だということであり、本書出版の最大の意義もその点に認められるはずである。
 たとえば冒頭の「風景保護請願理由書」は明治二十五年、善助が帝国議会に提出した文書で、全国的な景観破壊の進行を嘆き、それを防止する制度を確立せよと訴える内容だが、景観保護という視点がきわめて現代的なものであることはいうまでもないだろう。
 善助を景観保護に奔走させた直接のきっかけは、奈良県にある月ケ瀬梅林の破壊だった。その事実を知った善助は現地に赴いて実態を確認し、月ケ瀬保勝会を組織して梅林の保護に乗り出すが、所有と処分の問題に直面して結局は蹉跌する。
 梅林が月ケ瀬村民の所有である以上、彼らが梅の木を伐採して処分することは誰にも規制できない。同様に、梅林の景観にそぐわない家屋の建築をとどめるすべもない。これが善助を頓挫させた所有と処分の基本原理であり、それゆえ善助は景観を保護する制度の必要性を訴えたのである。
 問題は現代においても克服されていない。われわれの住む日本社会は、善助が「風景保護請願理由書」で強く懸念していた無批判な西洋崇拝と無秩序な開発の延長線上にこそ成立しているのであり、それは要するに、有形であれ無形であれみずからの所有物を身勝手に処分し、新しい所有物を無分別に求めつづけることで形成された社会にほかならない。
 京都における鴨川歩道橋の問題を持ち出すまでもあるまい。名張市や上野市の現状を考えてみれば、景観に関する善助の批判はそのまま現代にも、いやむしろ現代においてこそ痛切であることが実感されてくるだろう。
 そして厄介なことに、問題は個人のレベルにまで及んでいる。つい最近のバブル経済の時代、所有と処分の際限もない循環によって拝金主義を肥大させる快楽が日本人を狂奔させたことでそれは明らかだし、あの時代に物心ついた子供たちのなかには、拝金主義的所有のために自身の肉体を援助交際という名で処分してしまう少女が登場するにさえ至っているのである。
 どうやらわれわれは、個人の内面が善助の時代よりはるかに貧しくなった時代に生きているらしい。善助の主張の根本には景観の破壊が精神の荒廃を招くという一見非科学的な認識が存在しているのだが、その認識がじつは正鵠を射ているのではないかと思えてしまうほど、われわれの時代的精神は脆く貧しく病み衰えている。
 だとすれば田中善助は、やはり黒の着流しに身を包んだ一人の刺客として蘇ったのにちがいない。懐の白刃をわれわれの肥え太った咽喉元に突きつけるために。

(田中善助評論家)


初出 「四季どんぶらこ」第9号、1998年9月1日、どんぶらこ協和国発行
掲載 1999年10月21日