いま蘇る田中善助 講演要旨

▲田中善助が明治32年、山渓寺住職に差し入れた九メートル四方の謝罪状

 田中善助と反骨精神
 きょうから始まった田中善助鉄城翁展に、善助の書いた謝罪状が展示されて、展示品のいわば目玉となっております。山渓寺という寺院に詫びを入れた文書ですが、縦横ともに九メートルという超特大のサイズです。この常識はずれな大きさには、善助の反骨精神がよく示されています。
 明治三十二年、新田開発のために溜池を築造していたとき、善助は工事現場に隣接する山渓寺所有の山林を損壊してしまいました。これが山渓寺檀徒総代のあいだで問題になりまして、善助に謝罪させようということで衆議が一決します。そこで住職が善助に会ってその旨を伝え、善助が山渓寺に謝罪状を差し入れる話がまとまりました。
 じつはこの工事にはかなり反対者があって、工事の中止を町長に願い出た人までありました。反対の理由はよくわかりません。とにかく善助は孤立無援の状態でした。そこへもってきて、謝罪状を書けという山渓寺からの要請です。それを申し出る山渓寺住職の背後に、善助はおそらく、上野の町衆の薄ら笑いをまざまざと見ていたはずです。
 善助は公共の利益のために溜池をつくっていたわけですが、それに引き替え上野の町衆には、公益などということには見向きもせず、むろん自分からは何ひとつ行動を起こそうともせず、ただ懐手をして高見の見物を決め込みながら、他人のやることにいろいろ難癖をつける、しくじりを見つけてはそれを言い募って嗤いものにする、そうした連中が存在していました。
 しかしこの場合、そもそも山林損壊の非は善助にあるのですからどうしようもありません。かといってむざむざ謝罪状を書くのも業腹です。ことあるごとに善助に反対し、鵜の目鷹の目であら探しをしようとしている町衆たちに、恰好の話題を提供することになるわけですし、工事の進捗そのものにも影響を及ぼしかねません。そこで善助は一計を案じて、あの超特大の謝罪状を書いたわけです。
 「こら上野のぼけども、おのれらまとめて眼にものみせたるわい、鼻あかしたるわい、度肝ぬいたるわい。えーい、これが田中善助のあやまりかたじゃッ。めんたまひんむいてようみさらせやこのぼけどもがくらぁーッ」
 と逆ギレしながら書いたのがあの謝罪状です。まかり間違っても、あの謝罪状の大きさには善助の誠意が示されているのだなどという誤解をなさってはいけません。受け取った側が扱いに困ってしまうような横紙破りな謝罪状に、いったいどんな誠意が汲み取れるでしょうか。アイロニーに充ちた反骨精神を私たち後代の人間が正しく読み取らなければ、田中善助も浮かばれないという気がします。
 この溜池工事だけでなく、善助の生涯には多くの反対者、敵対者が存在しています。善助自身、「自分は徹頭徹尾善事を尽くしているつもりであっても、田中氏には敵が多い、半分はそれだという人がある」と述べております。善助は独断専行の人でしたから、敵が多かったのも当然のことですが、もうひとつ、上野の町衆の気質というものも関係しているように思われます。
 滝本潤造さんが「『鉄城翁自伝』を読む」にお書きになっている文章を借りれば、善助に対して「上野町の人々の大きな協力があったとは思われない」ということです。ご当地上野は古い歴史のある町で、古い精神構造もまたそのまま受け継がれています。突出するものは抑えつけるという共同体の論理がいまだに根強く生き残っております。しかも善助は、商人としてのランクは決して高くありません。そうした人間が事業家として立ち、目立った動きを始めると、それを抑えようとする力が働きます。
 横並びによって安定を保つことが第一義とされる上野の町で、善助はかなり突出した存在でした。そして、自分を抑えようとする力に抗して意志を貫けるだけの気概や反撥心、反骨精神の持ち主でした。そうであったからこそ、上野のような町で、善助は次々に事業を興してそれを成功させることができたわけです。
 その善助の業績も、没後半世紀を経過して、すっかり忘れ去られた恰好になっていました。ところが昨年、前田教育会が『田中善助伝記』を発刊したのをきっかけに、善助再評価の機運が生まれました。私たちには、田中善助を再評価する機会が与えられているわけです。ただし、田中善助という事業家の業績を確認することが、そのまま善助の再評価であるということではありません。善助の再評価とは、地域社会で営まれる私たち一人ひとりの生に直接的なかかわりをもった作業であるはずです。
 田中善助の再評価は、みなさんお一人おひとりによって進められるべき作業です。伊賀という地域社会に生きる一人の人間として、みなさんそれぞれが田中善助という人物に向かい合う、そうすることによってしか、善助の再評価はなし得ません。では、そのためには何が必要なのかというと、まずこの『田中善助伝記』をお読みになることです。お持ちでない方はお買い求めください。まだまだたくさん売れ残っております。

 田中善助と再評価
 田中善助を再評価するには、いくつかの視点が想定されます。その視点、つまりは再評価のポイントを、五点にわけてお話しします。
 まず一点目は、過去の評価を知るということです。善助の自伝『鉄城翁伝』の巻末には、善助の知己による「感想録」が収録されていて、善助に寄せられた評価の一端を読むことができます。そして善助の没後、昭和二十五年になって、先ほども触れました滝本潤造さんの「『鉄城翁自伝』を読む」が発表されます。これはいままでに書かれたなかでもっとも優れた善助論ですが、こうした過去の善助評価を、私たちはまず知っておく必要があります。
 二点目は、過去の評価を超えて善助を再評価するということです。滝本さんの卓越した善助論を超えて、私たちは田中善助を再評価しなくてはなりません。なぜなら、滝本さんの文章が書かれたときからすでに五十年が経過しているからです。この五十年のあいだに、日本社会は近代化を達成しました。むろん私たちの社会には、まだまだ前近代的な要素が数多く存在していますが、戦後の驚異的な経済復興によって、表面的には近代化が実現されています。そして近代化のマイナス面もまた、徐々に明らかになってきております。そうした時代に生きている人間の眼で善助を見ることが、私たちには要請されているわけです。
 三点目は、同時代人と比較してみるということです。一人の人間を他の人間と比べるのは、評価の有効な手法です。ここでは、善助より二十年ほど早く生まれた実業家の渋沢栄一と、善助より十歳ほど若い博物学者の南方熊楠をとりあげます。日本に近代的資本主義を確立した人物と、紀州の地にあって徹底した在野の精神で孤高の学問をつづけた人物、この二人と善助との共通点を見ることで、善助の個性がいっそう際立ってくるはずです。
 四点目は、地域社会を知るということです。善助は伊賀という一地域の近代化や発展のために尽力した人物ですが、地域社会の発展を考えるためには地域社会をよく知ることが必要です。その場合、風土や歴史にとどまらず、目には見えないもの、地域社会に潜在するものまで視野に入れることが大切です。ここでは排他性という要素を手がかりにして、地域社会の特性を考えてみたいと思います。
 最後の五点目は、日本の近代化を振り返るということです。明治以降、日本人はじつに勤勉に近代化というものを推し進めてきましたが、その近代化を根っこのところで支えていた考え方はどういったものであったのか。近代化のモデルとなったヨーロッパ諸国における帝国主義や植民地主義とも関連づけながら、善助自身もわずかながらその一翼を担った日本の近代化というものを、ここでもう一度確認しておく必要があるように思われます。
 以上五つの観点に立って考えてみると、田中善助という人間の本当の凄さがわかります。水力発電所の建設や地方鉄道の敷設といった事業家としての業績以上に、善助が真に偉大であったのは、日本の近代化のごく初期の段階で、近代化の方向性にはっきりと疑義を提出していたという点です。これがきょうのお話の眼目であり、田中善助再評価の主眼でもあります。
 善助があの山渓寺への謝罪状を書いたのは明治三十二年、西暦でいえば一八九九年ですから、ちょうど百年前のことになります。すでに百年前の時点で、善助は日本の地域社会が進むべき道を示していました。そしてそれから百年後、徹底した中央集権システムに基づいて近代化が進められ、そのあげくすっかり疲弊してしまった地域社会に、私たちは生きています。
 田中善助は百年前、伊賀の歴史や風土、特性のうえに、伊賀独自の発展を方向づけようとした人物です。そして、それとまったく同じことが、いまの私たちに要求されています。これまでのように国が強力に地方を主導することは、もはや不可能だからです。中央政府にはそれだけの分配能力もなければ、明確な目標もありません。地域社会はこれまでよりはるかに主体的に、みずからの責任でもって地域社会のことを考え、地域社会を築いてゆかなければならない。そうした時代に私たちは生きています。
 だからこそ、私たちには田中善助を再評価することが必要なわけです。善助が伊賀のために何を考え、伊賀のために何をなそうとしたか、それを確認することで必然的に、私たちは私たち自身が何を考え、何をなすべきなのかという問題に直面します。地域社会で営まれている私たち一人ひとりの生に対して、善助が直接的な光を投げかけてくれることになります。それが再評価ということです。
 善助は伊賀の近代化に貢献した偉大な事業家であったなどという、ものごとの表面しか見ない善助評価はそろそろ終わりにするべきかと思います。善助は過去の人間ではなく、まさに私たちのすぐ横に立っている人物です。私たちの隣人としてよみがえった善助から、彼が抱えていた伊賀の発展という荷物を受け継ぐこと、善助の持っていたバトンを引き受けること、それが善助再評価の本質です。
 田中善助はどこによみがったのか。みなさん一人ひとりの胸の中によみがえりました。現代の時代的要請を背景として、よみがえるべくしてよみがえってきました。危機的な状況に追い込まれた地域社会に生きる私たちに、ひとつの方向性を示すために、田中善助はいま、私たちの胸によみがえってきたのだといえます。
 以上が本日のお話の概要です。お話しすべきポイントはすべて尽くせているかと思います。あとは時間の許す限り、補足説明を行います。

 田中善助と事業家の倫理
 評価と再評価の問題について、滝本潤造さんの「『鉄城翁自伝』を読む」をとりあげます。滝本さんはドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの理論に基づいて、善助その人にプロテスタンティズムの倫理を見ています。資本主義の精神は倹約を旨とするプロテスタンティズムの倫理のうえに花開いたのであるというウェーバーの説に立って、善助がプロテスタント同様の倫理をもっていた点に着目し、善助は上野町でただ一人、資本主義精神を体現し得た人物であったとするのが滝本さんの説です。
 滝本さんはウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』から、「出来る限り利得するとともに出来るかぎり節約するものは、同時に出来る限り他に与えることによって、恩寵をまし加えられ」といった文章を引用して、そこから善助の評価を導き出します。
 善助は商人であり事業家でしたから、むろんできるかぎり利得することを考えました。しかし同時に節約もしております。たとえば旅行に出かけて、お昼のお弁当を食べ残したら宿まで持ってゆきます。そして夕食時には、まず弁当の残りを食べるのが常でした。そうした節約に関するエピソードが、『鉄城翁伝』にはいくつか書かれているのですが、善助のこうした態度はプロテスタンティズムと同質のものであると滝本さんは見ておられます。
 善助はまた、他に与えることも生涯にわたってつづけていました。『鉄城翁伝』の見出しから拾いますと、日本赤十字社事業や上野町秀才養成奨学資金といったあたり、まさに他に与える行為の見本です。つまり善助は、儲けはしたけれども、つねに質素な生活を心がけ、儲けたお金は独占せずに社会に還元しました。
 善助はまさにプロテスタンティズムの倫理と同じ倫理を生きたのであり、だからこそ善助という個人に資本主義の精神が芽生えたのである。滝本さんはそのように述べていらっしゃいます。つまり善助は、資本主義社会に生きる私たちに、日常的な節約や他者への配分といった行為の重要性を再認識するよう迫ってもいるわけです。この点にも、私たちが善助を再評価するべき理由が存在しています。
 滝本さんのこの文章が書かれたときから、早くも半世紀が経過しました。日本社会は近代化を達成し、同時に近代化の負の側面も表面化しています。たとえば戦後の産業社会が産み出した公害の問題があり、高度工業化の裏で壊滅的に進んだ農業の衰退という問題があり、あるいは私たちの心の荒廃という問題もあります。
 そして地域社会もまた、近代化の陰でさまざまな問題を抱え込んでいます。そうした問題を念頭に置きながら田中善助を再評価することは、現代の私たちにとってひとつの責務であるとさえ判断される次第です。
 つづいて、同時代人との比較に移ります。一人目は渋沢栄一ですが、これは埼玉県の出身で、徳川幕府の要員としてフランスに行っているあいだに日本が明治維新を迎えたという人物です。帰国後は大蔵省に入り、そのあと国立銀行を手始めに、製紙や紡績など近代的な産業を次々に興してゆきます。田中善助を全国的なスケールに拡大した人物だといってもいいかもしれません。
 渋沢栄一は渋沢財閥を形成して日本の経済界に君臨するわけですが、この財閥は「財なき財閥」と呼ばれておりました。なぜ財がなかったのかというと、儲けた財は次から次へ慈善事業や社会事業、教育事業に回していったからです。渋沢一族の手許には、財と呼べるものは残りませんでした。このあたり、田中善助と同じような他に与える精神のあらわれであり、プロテスタンティズムの倫理に通じるものを感じさせます。
 渋沢栄一が『論語』を倫理的バックボーンとしていたことは広く知られております。なかでも座右の銘にしていたのは「余りあるをもって人を救わんとすれば、人を救うときなし」という一節です。自分が充分に満ち足りてから、その余りを人に回そうなどと考えていては、いつまで待っても人に回すことはできないといった意味かと思います。事業家としてのこうした倫理も、明らかに田中善助に通じるものです。
 田中善助における事業家の倫理はどうであったのか。善助は『鉄城翁伝』のなかで、「およそ事業の成否は採算利得に係るものでなく、事業の及ぼすところの公益性とその結果いかんによるものと存じます」と述べています。どれだけお金を儲けたかではなく、どれだけ公益に寄与できたか、どれだけ多くの人の役に立てたか、それが事業の価値を決めるのだと断言しております。この信念は善助の生涯を貫くものでありました。
 そして善助もまた、渋沢栄一同様、余りあるをもって人を救わんとしていたわけではありませんでした。とくに事業家として声望を集めるまでには、かなりの辛酸も味わっております。その例を発電事業に見てみましょう。
 事業家田中善助の名を有名にしたのは、水力発電所の開設でした。明治三十七年、三重県初の電気の火を灯すことに成功し、一躍「電気の善助さん」として全国にその名が喧伝されました。この事業は善助が独力で着手し、確信犯的に法律まで犯して成功させた事業でした。
 善助は明治三十年ごろから水力発電の必要性を説き、そのための協力者を募ったのですが、結局協力者が手を引いてしまう、あるいは名を連ねても金を出そうとしない、そんなことがつづいて頓挫をくりかえしていました。そこで、誰にも頼らず一人で事業をやり抜こうと決意します。発電所建設地に選んだのは、上野市の岩倉峡でした。

 田中善助と景観保護
 発電所を建設するには、水利使用の許可を県から取り付けなければなりません。ところが、一年二年と待ってみても、いっこうに許可はおりません。県にとっても経験のないことですから、簡単には許可は出ません。前例のないことに尻込みするのは、現代にも引き継がれているお役所の度しがたい体質のひとつなのですが、そのうえ当時のお役人はいまよりさらに程度が悪くて、役人は住民の上位概念であると思っていましたから、いつまでも平気で待たせつづけます。
 しびれを切らした善助は、県の許可なしに内緒で工事を始めてしまいます。内緒といっても、ダイナマイトで岩盤を爆破するわけですから、大音響が遠くまで響いて、とても内緒とはいえません。すぐに話が伝わりまして、とうとうある日、県の係官が現場を検査にやってきました。
 結局は裁判沙汰になったのですが、公益のために行ったことだからと情状を酌量され、善助はごく軽微な罪を言い渡されるだけで済みます。そしてこれがきっかけになって正式に許可がおり、善助は勇躍工事を続行します。
 ところがもうひとつ、お金の問題がありました。当時の善助は、それまでの蓄えは開墾事業にすべてつぎこんだあととあって、まったくお金がありません。そのころの状況は、『鉄城翁伝』にこう書かれています。
 「金にもずいぶん不自由をしました。それで家内なども苦労したものです。店のお客が十円札で金物代を払われると剰り銭がないことがあって、向かいの銀行へ両替に行くことも何度かありまして、まったくきわどいところまで行き詰まりました。ある日帰宅しますと、もう家には金が二円しかないということもありました。まあしっかりやろうと励まし合って、毎日照っても降っても汗みどろになって、一里半の道を草履履きで巖倉へ通うたものです」
 善助が余りあるをもって人を救わんとしていたのではないことが、こうした記述からもよくうかがえます。それでは、善助はこの行き詰まるところまで行き詰まってしまった経済的苦境を、いったいどのように乗り切ったのか。それはぜひ、『田中善助伝記』をお読みになって、みなさんそれぞれがご確認ください。
 つづいて南方熊楠についてお話しします。南方熊楠は若き日にアメリカに渡り、ついでイギリスで大英博物館の書記を務めたあと、日本に帰国した人物です。郷里の和歌山では、論文を書いたり標本をつくったり、孤高の学者として学究生活を送りました。生前はむしろ奇人変人として知られていましたが、現在は国際的な視野に立った立派な学者として評価されております。この南方熊楠が生涯にただ一度だけ、社会と直接かかわる運動に携わったことがあります。それが神社合祀反対運動です。
 神社合祀もまた、中央集権システム確立の一手段でありました。天皇制を中心原理とした中央集権体制をより強固なものにするため、明治政府は庶民の信仰を天皇家の信仰体系に組み入れてしまうことを画策しました。日本のすべての神社が、伊勢神宮を頂点とするピラミッドのなかに体系化されることになりました。神社はひとつの村にひとつだけと決め、地域内の残りの神社は全部その神社にあわせて祀ってしまう、それが神社合祀です。
 南方熊楠は神社合祀の反対運動に立ちあがります。神社がなくなり、鎮守の森が消えてしまうのは、ひとつの生態系が失われることです。また、神社は信仰上の拠点のみならず、住民が寄り合う自治の拠点でもありましたから、それがなくなると地域社会の破壊が進む可能性さえあります。そうした理由をいくつもあげて、南方熊楠は神社合祀に反対しました。明治四十年代のことです。
 それより早く明治二十五年、田中善助もまた自然を壊してはならないという訴えを行っています。生態系ではなく景観を守るという観点から、善助は経済開発に伴う自然破壊を批判しました。そして、景観を保護する制度を確立せよという請願を帝国議会に提出しました。『田中善助伝記』にも収められたこの「風景保護請願理由書」こそ、南方熊楠より早く自然破壊の弊を説き、同時に日本の近代化の方向にいち早く疑義を提出した貴重な文章です。
 善助を景観保護に走らせた直接の原因は、月ケ瀬で進行していた梅林の破壊でした。月ケ瀬のような県境を越えた土地であっても、善助はそこを自分が住むところから地続きの場としてとらえ、そこに発生した問題に主体的にかかわってゆきます。そして、その解決のために自分が何をなすべきかを考え、自分にできることがあればたとえ独力でも貫徹します。それが善助の行動原理であり、それはおそらく、私たちがこれからの地域社会に生きてゆこうとするうえで、もっとも必要なものであるとも思われます。
 時間になりましたのでここまでといたしますが、最初に要約しました内容に、きょうの講演のポイントは尽きております。あとはみなさんそれぞれが『田中善助伝記』をお買いあげになり、お読みいただいて、田中善助についてお考えいただければと思います。

(田中善助評論家、名張市在住、二黒土星)

 【筆者敬白】以上は「田中善助鉄城翁展」初日、前田教育会館で行った講演「いま蘇る田中善助」の要旨を、講演者自身が一部加筆を施しながらまとめたものであり、文責はすべて講演者に帰します。なお、一九九九年十一月発行の「伊賀百筆」第八号には、同講演の別ヴァージョン「いま蘇る田中善助改め田中善助と地続きの思想」が掲載されております。あわせてお読みいただければ、幸甚これに過ぐるものはございません。右お知らせまで。あらあらかしこ


初出 「田中善助鐵城翁展の記録」1999年12月1日、財団法人前田教育会発行、編=「蕉門ホール」郷土史ゼミナール
掲載 1999年10月21日、2001年3月9日(画像)