いま蘇る田中善助改め
田中善助と地続きの思想

序章 田中善助の憤怒

 一九九九年五月十五日、私は上野市にある前田教育会館で「いま蘇る田中善助」と題した講演を行った。
 前田教育会館を運営する財団法人前田教育会は、九八年春に『田中善助伝記』を刊行した。それから一年後、発刊の記念行事として「田中善助 鉄城翁展」が催され、会期初日を飾る講演会に私が招かれたのである。世界でたった一人の田中善助評論家である私に白羽の矢が立てられたのは、けだし当然のなりゆきであっただろう。
 午後一時三十分、講演が始まった。その直後、
 (……重い……)
 と私は思った。なんと重い客なのだろう、と。
 私たちの高座は客席を探ることからスタートする。まず客のセンスや教養を把握し、それに合わせてその日のネタを組み立ててゆくのが私たちの常套なのだが、私には客席の重さがいきなりひしひしと伝わってきたのである。
 ところで、講演会の一週間ほど前、上野市の有線テレビ局から電話があった。講演内容を収録して放映したいから了解を得たいとの申し出であった。私は頭を抱えた。自分の姿が一時間以上もテレビに映し出されるなどということは耐えがたい。とはいえ講演を引き受けた以上、テレビ局の取材を拒否できる権利は私にはない。不承不承で承諾したのだが、ふと思いついて私はこうつけ加えた。
 「人の悪口がたくさん出てきますから、その点どうでしょうか……たとえば上野市長を批判するとかですね……」
 あ、そうなんですか、と電話はいったん切られ、しばらくしてふたたびベルが鳴った。講演全体を収録することはせず、最初の十分間だけをニュース用に撮影したいとの変更案が告げられた。私はほくそ笑みながら「はい、それで結構です」と答えたのだが、あとになってあることに気がつき、いささか狼狽せざるを得なかった。電話をかけてきてくれたテレビ局の女性が、まさにその上野市長と同じ姓を名乗っていたのである。
 (があぁぁぁぁん)
 と私は思った。もしもこのお二人が親子だか縁戚だかの関係にあるのなら、私は彼女に対してずいぶん失礼な仕打ちをしてしまったことになるではないか。
 そこで私はこの場をお借りしてお詫びしておきたいと思う。もしも心ならずもあなたに不愉快な思いを強いたのであれば、今岡さん、心からお詫びを申しあげます。どうも申し訳ございませんでした。
 とはいえ私は悪口が好きだ。
 悪口にはかなりの自信がある。
 悪口ならいくらでも喋れるのだ。
 高座の十八番もむろん悪口である。
 だから私はこの日も、さあばんばんばんばん悪口を喋りまくってやろう、悪口雑言罵詈讒謗の限りを尽くしてやろうと腕を撫しながら講演会に臨んだのだが、客の重さにたじろいでたちまち委縮してしまった。
 私たち芸人の世界では、なかなか笑ってくれない客のことを重い客と表現する。何より芸人から敬遠される客である。喋り始めてものの一分とたたぬうちに、私はこの日の客がまさにその重い客であることを痛感させられた。いくら渾身の爆笑ネタをかましても、客席には日向で埃が舞うほどの笑いがさざめくばかりなのである。私には眼の前に居並んでいるのが信楽焼の狸かとさえ疑われた。
 こうなると悪口どころの話ではない。ギャグの上滑りに困惑しながら、私は予定していた内容を追いかけるだけで手一杯になってしまったのである。始末の悪いことに、明らかに時間が足りないことも判明してきた。
 最後まで喋るには三時間は必要だろう。
 時間を延長して講演をつづけようか。
 いや、そんなことはやめておこう。
 いくら喋ってもギャラは同じだ。
 早く終わってとっとと帰ろう。
 そうした自問自答をくりかえしつつ、私は一時間半の持ち時間を喋りきった。熱心に耳を傾けてくださった聴衆のみなさんから、思いもかけず温かい拍手が寄せられた。私は彼らを信楽焼の狸かと疑ったことを恥じた。みずからの芸の未熟を恥じた。精神の傲慢を恥じた。さらに精進して芸に磨きをかけ、このみなさんの前でいつの日かもう一度高座を務めさせていただこうと心に誓った。
 だから私は、わざわざ講演会に足を運んでくださったみなさんに、この場をお借りしてあらためてお詫びとお礼を申しあげておきたいと思う。
 だが、拙い芸をお詫びしなければならぬ相手は、じつはもう一人いたのである。ほかならぬ田中善助である。善助翁はさぞやあの世で呆れ返り、下手をすれば激怒しているかもしれないぞと私は思い当たったのだ。
 (があぁぁぁぁん)
 と私は思った。いずれ私が神に召され、天国の門をくぐったとき、憤怒の形相で待ち構えていた善助翁から、
 「この大馬鹿者の役立たずめがッ。阿呆ッ。阿呆ッ」
 と思いきり叱り飛ばされてしまうのは必定であろうと判断された。
 そこで私は本誌編集者である北出楯夫さんにお願いし、予定していた講演内容をこうして寄稿させていただくことにしたのだ。泉下の善助翁も、これでなんとかご容赦くださるのではあるまいか。
 そういった次第で、以下に記すのは五月に行った講演の別ヴァージョンである。聴衆ではなく読者を念頭に置き、当初の構想に沿って新たにリトールドしたものだと思っていただきたい。タイトルを「いま蘇る田中善助改め田中善助と地続きの思想」としたゆえんもそのあたりにある。紙幅の都合もあるから余計な枝葉は省略し、ギャグもすべて割愛して、できるかぎり簡潔な誌上講演とする。
 試みに、講演に出てくる人名を余白の許す限り登場順に列記しておく。興味を抱かれた方は読み進められたい。
 川崎克、滝本潤造、マックス・ウェーバー、渋沢栄一、カール・マルクス、柳田國男、塚本学、南方熊楠、佐野眞一、鶴見和子、小松和彦、バルビーノ・ガルベス、メロス、エイトマン、ヨシノブ、レヴィ・ストロース……

第一章 評価と再評価

 再評価の主役
 田中善助が明治時代なかばから昭和十年代にかけて活躍した上野の事業家であるということは、みなさんもよくご存じだろうと思います。水力発電所を建設したり、鉄道を引いたり、まさに伊賀近代化の立役者として獅子奮迅の活躍をした人物です。
 しかしながら田中善助の業績は、地元上野の人からも忘れられてゆく傾向にありました。善助さんが亡くなったのは昭和二十一年、もう五十年以上も前のことですから、それも致し方のないことなのかもしれません。
 ところが昨年の春、前田教育会が『田中善助伝記』というたいへん立派な本を出版しました。田中善助が昭和十九年に出した自伝『鉄城翁伝』を中心に、善助の著作や関連文献が豊富に収められていて、善助を知るには恰好の一冊となっています。
 この本の出版をきっかけに、昨年の暮れから今年一月にかけて、三重県立図書館で「田中善助展」という展示会が開かれました。前田教育会もきょうから十日間、この前田教育会館で「田中善助 鉄城翁展」を催します。
 こうした一連の動きは、田中善助の再評価が進んでいることを示すものであるといえます。
 ですから本日の私のお話も、田中善助の再評価を主題としたものになります。『田中善助伝記』の内容をかいつまんで紹介し、善助の業績を振り返るといったものではまったくありません。
 善助の業績なり生涯なりを知りたいとおっしゃる方は、どうぞ直接『田中善助伝記』をお読みください。お持ちでない方は前田教育会へお申し込みください。電話番号は0595・24・5511です。本体四千円で、まだまだたくさん売れ残っています。
 さて、田中善助の再評価ですが、そもそも誰が善助さんを再評価するのかということを、最初に申しあげておかなければなりません。善助を再評価するのは、じつはみなさんお一人お一人です。みなさんそれぞれが、田中善助という人物がいったい何を考えたのか、何をやろうとしたのかということをよく知り、そのうえで善助について考える。それが再評価ということです。
 では、なぜ善助を再評価する必要があるのかといいますと、私たちがいま直面している問題、とくに地域社会が直面している問題に対して、善助が貴重な示唆を与えてくれるからです。地域社会が進むべきひとつの方向性を示してくれるからです。地域社会でそれぞれに営まれているみなさんの生に対して、田中善助という過去の人間が重要なアドバイスを与えてくれるからにほかなりません。
 つまり田中善助の再評価というのは、善助の回顧や顕彰といった次元の話ではなく、私たちの生に直接的な関わりをもった作業です。善助を知ることによって私たちが力づけられる。それが再評価の本質だといえます。
 ですから本日の私の役目は、みなさんが善助を再評価するに際しての手がかりを提供するといったことに過ぎません。再評価の主役はあくまでもみなさんであるということを、まず最初に確認しておきたいと思います。

 資本主義の精神
 田中善助を再評価するためには、善助が過去においてどのような評価を受けてきたか、それを知っておくことも必要です。『鉄城翁伝』には善助の知人による感想録が収められていて、晩年の善助に寄せられた評価の一端をうかがうことができます。代表的なものとして、上野出身の代議士、川崎克の文章の一部をご紹介します。
 明治、大正、昭和の三時代にわたる伊山の事業界にもっとも偉大なる足跡を印したるものは鉄城田中善助翁である。その関するところは金融界に、また電気事業に、運輸窯業の方面に、あるいは開墾の事業に、さらに自治制の経営に八十有余年の生涯をして公的生活の面における活躍は、翁の事業史を繙けばもって伊山事業界の全貌を知悉し、これを把握することができる。
 感想録は自伝出版に対するご祝儀のようなものとして執筆された文章ですから、ある程度は割引きして考えなければなりませんが、川崎克はこのように善助を絶賛しています。ほかの執筆者の筆致も似たようなもので、つまり田中善助は伊賀を代表する事業家であるというのが、善助に対する一定した評価であったといえます。
 昭和二十五年になって、善助と接した人たちによる交友記とは明らかに一線を画した、新しい視点からの田中善助論が発表されます。『田中善助伝記』にも収録されていますが、上野市の滝本潤造さんがお書きになった「『鉄城翁自伝』をよむ」がそれです。伊賀郷土史研究会の会報に発表された短い論考ですが、これまでに書かれたなかで最良の善助論となっています。
 この文章で滝本さんは、田中善助を上野におけるただ一人の資本主義精神の具現者であると位置づけるとともに、善助が結局は商業資本にとどまって産業資本へと発展することなしに生涯を終えざるを得なかった、その限界についても考察していらっしゃいます。
 善助の限界はいくつか挙げられていますが、上野の町の人たちが善助に対して協力的ではなかったという点など、そうした町衆の気質はいまも脈々と受け継がれていますから、滝本さんの指摘はそのまま現代にも通じるものであるといわざるを得ません。
 くわしくは滝本さんの文章をお読みいただくとして、もうひとつだけ、滝本さんがドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの理論に依拠しながら、田中善助における資本主義精神の具現を明らかにしていらっしゃるところを見ておきます。
 「出来る限り利得するとともに出来るかぎり節約するものは、同時に出来る限り他に与えることによって、恩寵をまし加えられ」(M・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」邦訳二三五頁)と言う資本主義精神を育くんだ禁欲的プロテスタンティズムの職業論理は翁にもまた体現している。
 といったあたりがそれにあたります。ウェーバーはこの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、プロテスタンティズムの倫理という土壌のうえに資本主義の精神が開花したのだということを説いているわけですが、それと同質の倫理と精神の関係が田中善助にも見て取れると、滝本さんは指摘していらっしゃいます。
 プロテスタンティズムでは、職業はすべて神から与えられたものであり、禁欲的な日常生活を送りながら天職をまっとうすることが神の意に適う道であると考えています。勤労によって得た利得は浪費してはならない、進んで他に与えるべきであると、そのように教えています。それがプロテスタンティズムの倫理です。
 そうした禁欲的な宗教倫理からどうしてまた似ても似つかぬ資本主義の精神が生み出されたのか、そのあたりのことはマックス・ウェーバーの著作に拠っていただきたいと思いますが、とにかく滝本さんは、田中善助ができる限り節約し、同時にできる限り他に与える人であった、すなわちプロテスタンティズムと同じ倫理を生きた人であったという点に着目して、そこにこそ資本主義の精神は開花したのであると述べておられます。
 これは、マックス・ウェーバーの徒である滝本さんの面目躍如たる明快な論断です。みなさんも『田中善助伝記』をお読みになられる際、善助がいかに節約していたか、いかに他に与えていたかといった点に注意されると、単なる事業家にはとどまらない、いうならば倫理の人としての善助像が見えてくるはずです。善助は私たちに、倫理の大切さを再認識するよう迫っているようにも思われます。

 事業家の倫理
 マックス・ウェーバーに関連して、ふたつだけ申しあげておきます。ひとつは、いったい資本主義の精神はどうなったのかということです。ウェーバーによれば、資本主義はその発生ないしは勃興の時期において、たしかにプロテスタンティズムの倫理に裏打ちされていました。しかし資本主義は、いったんシステムとして確立されてしまえば、そうした裏打ちなしに機能し始めます。
 プロテスタンティズムにおいては、勤労の結果として金銭を手にすることは咎められません。しかし金儲けそのものを目的とすることは厳しく戒められています。ところが現代の資本主義社会では、まさに金儲けこそが究極の目的となっています。プロテスタンティズムの倫理を忘れた資本主義、それが現代の資本主義であるといえます。
 ですから、現代の資本主義が抱えているさまざまな問題を考える場合、マックス・ウェーバーの説くところに従って、プロテスタンティズムの倫理にまで立ち戻ってみることは、いまもある程度有効な手段であると思われます。あるいはもっと端的に、資本主義精神の具現者であった田中善助における倫理を思い起こすことも、同じく有効な手段であるはずです。
 『鉄城翁伝』には、田中善助が事業家としての倫理を説いた一節があります。こういう文章です。
 およそ事業の成否は採算利得に係るものでなく、事業の及ぼすところの公益性とその結果のいかんによるものと存じます。
 公益性とは、いかに多く他に与えるかということにほかなりません。元を取るとか利益を得るといったことではなく、いかに他に与えるか、どれだけ多くの人を幸福にできるか、それが事業の価値を決めるのだと善助は明言しています。これは至言と呼ぶべき言葉だと思います。
 事業家の倫理については、あとで渋沢栄一に関してお話するとき、もう一度触れることになりますから、いまはここまでとしまして、ウェーバーに関してもうひとつ、文明の単系的発展という問題について確認しておきます。
 文明の単系的発展というのは、ひとつの文明が、あるいは国家や社会といったものが、歴史を重ねて発展してゆく場合、その発展の道はたったひとつしかないという考え方です。これは現代にいたるまでかなり支配的な考えとして機能しておりまして、たとえば資本主義が十全に発達すれば自動的に社会主義に移行するというカール・マルクスの考え方なども、明らかにこの文明の単系的発展という世界観を基盤とするものです。
 しかしマックス・ウェーバーは、そうした考えとは別の立場に立っています。資本主義の発生にはプロテスタンティズムという特殊な場が必要であったという考えは、発展にはただ一本の道しかないとするのとは正反対の、文明の多系的発展という認識を基盤としています。
 文明が多系的に発展する、つまり発展にはさまざまな道があるのだという考え方は、田中善助を理解する際にもたいへん重要な考え方で、これについてもまたあとで触れることになりますが、いずれにせよここでは、発展ということを考える場合、単系的か多系的かというふたつの解釈があるという事実を指摘しておきたいと思います。

第二章 地域社会の問題

 近代化の帰結
 田中善助がどのように評価されてきたかを大雑把に見てきましたが、現代の私たちには、たとえば滝本潤造さんの卓抜な善助論とはまたちがった視点から、田中善助を再評価することが要求されます。
 なぜでしょうか。それは私たちが、滝本さんの論考が書かれたときから五十年後の社会に生きているからです。私たちが生きているのは、近代化が達成されてしまったあとの社会です。明治維新以来、日本という国家が最大の目標とし、善助自身もごくわずかながらその一翼を担った近代化というものが、過去五十年のあいだに達成されてしまった、そのあとの社会に私たちは生きています。
 ですから私たちは、近代化がもたらした恩恵はもちろんのこと、近代化の負の側面と呼ぶべきものも目の当たりにしています。公害や環境破壊をはじめとした近代化の弊害に、日々接することを余儀なくされています。
 いまの日本社会はすっかり元気をなくしていますが、それは単に経済の低迷だけに帰する問題ではなくて、近代化という目標が達成されたあとの無力感や方向喪失感、あるいは近代化そのものへの懐疑、そうしたものがもたらすある種の寄る辺なさにも原因があるように思われます。
 そして、そうした社会に生きている人間の眼で田中善助を見てみると、伊賀が生んだ偉大な事業家であったなどという皮相な見方を超えた、新しい認識が生まれてきます。それこそが田中善助の再評価であり、善助が現代に貴重な示唆を与えてくれるということです。
 これからしばらく、日本の近代化がもたらした帰結のひとつとして、地域社会がどういった状況に置かれているのか、そして田中善助は地域社会とどういう関係を結んでいたのか、そういった点を確認してみたいと思います。
 私たちが住んでいる上野市や名張市、あるいは伊賀地域のみならず、日本中の地域社会はいま、本当に危機的な状況に置かれています。全国的な地方財政の悪化という経済的な問題もありますけれども、これはもっと根の深い危機であり、これもまた近代化における負の側面のひとつ、いわゆる都市と地方の地域間格差の増大がもたらした悲劇的な帰結であると思われます。
 日本の近代化は、具体的には中央集権システムを強力に確立することで推進されました。すべての権力が中央に集中される、産業も富も、人材も情報も文化もすべて中央にといった具合に、中央が地方を管理し、収奪することが当然のこととして行われてきました。地方の人口がどんどん都市に流出し、都市がますます大きくなるいっぽうで、地方はいよいよ衰退してゆきました。
 行政システムの面でいいますと、明治時代から太平洋戦争の敗戦まで、地方は徹底して中央に従属するものでありつづけました。たとえば都道府県知事などもすべて中央政府から派遣されてくるわけで、知事が公選されるのは戦後になってからのことです。
 ところが戦後、地方自治という考え方が一般に普及してからも、地方はやはり中央に統制されつづけます。昭和三十年代によく聞かれた三割自治という言葉は、そうした地方自治の実態を表現する言葉で、地方自治体がみずからの裁量で決められることは全体の三割しかないといった意味あいですが、具体的には機関委任事務と補助金というふたつのシステムによって、中央政府は自治体の権限と財源を束縛しつづけてきました。
 これを逆にいえば、地方自治体は国が敷いたレールのうえを、国が準備したメニューに従って走っていればよかったわけですし、首長や国会議員などの政治家にとっては、補助金の獲得や利益の誘導こそが腕の見せどころでした。地方自治体は中央政府の下請けであるといわれるゆえんもここにあります。

 家殺しと核家族化
 別の面から見ますと、地域社会の最小の単位であった家というものが、いまやどうにも立ち行かなくなっているという問題も、地域社会の現状として存在しています。
 民俗学者の柳田國男は、すでに明治四十年、人口が都市に集中することによって地域社会が崩壊してしまうことの危機を説いていました。地方の人間が都会に永住してしまうと、家の伝統が断ち切られ、祖先との結びつきが稀薄になる、故郷の家は廃屋と化してしまう。そうした事態を家殺しという物騒な言葉で表現して、柳田國男は厳しく戒めています。
 むろん日本の家というものが個人を頭から抑えつける制度であり、その抑圧からいくらかでも個人を解放してきた点に、じつは近代化のもたらした恩恵のひとつが認められるわけですが、だからといって家殺しが蔓延するのも望ましいことではないと思われます。
 私が住んでいる名張市の例で申しあげますと、旧来の市街地や農村部、いわゆる旧町や旧村で、家殺しは日常的に進んでいます。子供がすべて都会に住んでしまって、老夫婦だけが古い家に暮らしているというケースは珍しくありません。家殺しが進行した一因には、工業の高度な発達の陰で農業が壊滅的に衰退したという現実があるのですが、それもまた近代化の負の側面にほかなりません。
 地方にいては働く場所がない、個人が能力を発揮できない、高度な教育が受けられない、便利な生活が送れない、文化を享受できない。そういったさまざまな理由を背景として、家殺しはいまも進行しつつあります。
 そして名張市の住宅団地には、関西圏から転入してきた多くの市民が、家の伝統から完全に切り離された家族として生活しています。その家の子供が大きくなれば、よその土地の学校に進学し、そのままよその土地に働く場所を求めて、結局親とは別の土地に一家を構えるという核家族化の傾向も顕著になっています。
 つまり名張市には、田舎の問題と都会の問題が混在しているといえます。旧町や旧村では家殺しが進行し、住宅団地では核家族化が進行しています。早い時期に入居が始まった住宅団地では、旧町や旧村と同じく老夫婦二人だけの家、あるいは独居老人の世帯というものが、これからますます増えてゆくものと予想されます。
 さらにもうひとつの問題として、旧町や旧村でも、もちろん新しく造成された住宅団地ではとくにそうですが、居住している土地への愛着や、同じ土地に住んでいることから生まれる連帯感が急速に稀薄になってきているという現実も生まれています。
 まだあります。それは、名張だけではなく全国の地方において、何かしら漠然たる劣等意識が遍在しているという事実です。都市の便益や享楽といったものがマスコミによって全国津々浦々に伝えられますから、それに比べて田舎はもうどうしようもないといった印象を、私たちはついつい抱いてしまいがちです。
 そのあたりの事情を、歴史家の塚本学さんは、『都会と田舎』という著書でこんなふうに指摘しておられます。
 都会は進んだ世界であり、田舎はおくれた世界であるという感覚は、人生の成功者は都会に、そこでの競争に敗れたものが田舎にという構図をもともなって、ひとびとをとらえている。田舎の側だけでなく、都会の側の不幸も、進んだ都会とおくれた田舎観によっている。
 まさにそのとおりだと思います。これもまた近代化のもたらした帰結として、都会と田舎の双方がとらわれてしまった不幸な考え方であるといえます。

 市民の登場
 こうして見てきますと、地域社会の未来はどこにあるのかといった無力感を感じざるを得ません。
 むろん現在、地方分権や市町村合併によって新しい行政システム、新しい地域社会を目指そうという動きは出ています。伊賀地域でも市町村議会議員が市町村合併を話しあう会が結成されていますけれど、そうした動きは結局のところ、お役所内部のものでしかありません。
 そしてそれがお役所内部の動きにとどまる限り、見通しはけっして明るくありません。なぜなら、お役所ができることには限界があるからです。それは当のお役所自身が、最近になってはっきり認めていることでもあります。
 経済の高度成長期には、中央政府がすべてを主導し、地方自治体がその下請けとなって、地域社会の課題を実現してゆくことが一般的でした。地域住民は経済活動に専念する、それを支えるための家庭を維持する、地域社会のことは行政に任せっぱなしにする。ごく単純化していえば、それでよかった時代があったわけです。
 しかし経済成長が終息し、いわゆる右肩あがりの成長などは望めなくなってしまうと、そうした図式も機能しなくなります。いまおそらく、全国の自治体が、住民自治とか住民の自己責任、あるいは行政と住民の協働による地域づくりなどといった言葉を住民に呼びかけているものと思われますが、その背景には、行政サービスの限界がはっきり見えてしまったという事実が存在しています。
 中央と地方の関係でも、まったく同じことがいえます。地方分権の背景には、中央政府の分配能力の低下という要因があります。いまや中央政府には、地方自治体を強力に主導できるだけの目標もありませんし、財源もなければ発想もありません。まったく手詰まりの状態です。
 だからこそ、地方分権や市町村合併という問題は、単にお役所内部の話で終わってしまっては意味がありません。そもそもお役所内部だけで進められる話でもありません。まさに住民の参加、市民の登場が必要になってきているといえます。
 住民の側にも、こうした社会情勢に対応する動きは出てきています。現実問題に即応できない行政システムを補完するために、自覚的な地域住民が積極的に地域の問題に関わりあってゆくという動きは、いまや全国各地で見られるようになりました。
 先ほど申しました居住地域を媒介とした連帯という点でも、たとえば名張市の住宅団地の場合、別にその地で生まれ育った人たちではないのですけれども、たとえば地域の福祉活動に携わる、自然保護に携わる、住民運動に携わるといったことを契機として、居住地において新しい連帯が生まれていることも見逃せません。
 結局、地域社会のことを主体的に考えるのはその地域社会の住民でしかあり得ません。お役所任せは通用しなくなりますし、そのお役所自体、これからはもう中央政府をあてにはできなくなります。
 それが地域社会の現状です。地域社会で営まれるすべての生がより豊かなものとなるように、これからは住民自身が地域社会を築いてゆかなければならないというわけですが、これはごく当然のことでもあります。こんな当然のことに、私たちはようやく気がついたところです。
 しかし、いまから百年も前に、こうしたことを考え、実行に移していた一人の市民がいました。それが誰あろう、田中善助という人物です。

第三章 地続きの思想

 主体性の問題
 田中善助はいまから百年も前、自覚的な市民として地域社会の問題に主体的に関わっていった人物です。私たちが百年間の近代化を経てたどりついた地点に、善助は最初から立っていました。であるからこそ、私たちには田中善助を再評価する必要があるわけです。
 ここでは、善助が関わった月ケ瀬梅林の保護運動を手がかりに、善助が一人の市民として地域社会とどういう関係を結んでいたのか、それを見てみたいと思います。
 明治二十五年、善助三十五歳のときのことです。善助はまだ事業家としては知られていませんでしたが、善助の傑出した個性はこのエピソードにも発揮されています。
 ある日、善助のお母さんが津から宗匠を招いてお茶席を設けました。その席でつかった炭がたいへんいい匂いだったので、宗匠が善助にどこの炭かと尋ねます。善助は月ケ瀬の炭ですと答えます。
 しばらくして、善助が月ケ瀬の人に確認したところ、炭は梅の木からつくられていました。梅は烏梅と呼ばれる染料の原料だったのですが、化学染料の登場で需要がなくなってしまいました。だから梅の木を炭にすることで、月ケ瀬の人たちは現金収入を得ていました。
 月ケ瀬は古来、梅の名所として知られています。その梅の木を切って炭にすれば、美しい景観が損なわれてしまいます。それはとんでもない愚行である、何としても防がねばならないと善助は考えました。
 そこで善助は、単身月ケ瀬に乗り込みました。地元の県会議員や村長、あるいは奈良県知事とも語らって月ケ瀬保勝会を結成し、梅林の保護に乗り出します。保勝会の事務所は、善助が身銭を切って建設しました。もっとも、肝腎の月ケ瀬住民の協力を得ることができず、善助は最終的にはこの事業から撤退してしまうわけですが、梅林保護をめぐる善助の行動には、まさに地域社会に生きていることを自覚した一人の市民の明確な思想がうかがえます。
 これをかりに地続きの思想と呼びたいと思います。
 善助は上野の人間で、月ケ瀬はよその村、それも奈良県の村です。梅林の伐採はよその土地の問題です。おそらく当時、善助以外の上野の人間が、月ケ瀬で梅林の破壊が進んでいるという話を伝え聞いたとしても、それはよそごとであり他人ごとである、われ関せずと片づけてしまったにちがいありません。
 しかし善助は、月ケ瀬に足を運んで梅林保護に乗り出します。なぜか。上野と月ケ瀬は地続きだからです。地続きである以上、そこに何か問題が発生すればそれを主体的に考えなければならない。それが善助の思想です。
 もちろん上野は上野、月ケ瀬は月ケ瀬であり、それぞれ自立した町や村です。ふだんはお互いの主体性を認めあって、あれこれ干渉しないのは当然のことです。しかし月ケ瀬に大きな問題が起きたとしたら、しかも当の月ケ瀬ではまだその問題の重大さが認識されていないのだとしたら、上野の人間がその問題を指摘し、その解決に奔走するのは当然のことではないか。田中善助はそう考えます。
 地域社会の問題を考える場合、この地続きの思想が大きな鍵になるものと思われます。自分が生活している場から地続きのところで何かしら問題が発生した場合、善助はそれを他人ごととして片づけることをしません。自身の問題として引き受け、自分に何ができるかを模索します。それはそのまま、つねに地域社会全体の幸福を考えるという思想でもあります。それが地続きの思想です。

 不易と流行
 話はちょっと横道にそれますが、この善助の地続きの思想には、どこか伝統的な作庭の作法を思わせるものがあります。げんに善助は作庭にも通じていました。荒廃して雑草が伸びるままに放置されていた上野公園を、庭園として整備したのも善助の功績のひとつです。
 作庭には借景という手法があります。風景を借りる、つまり周囲の景色も庭の構成要素として考える、景観と庭とをまさに地続きのものと見なしてしまう手法です。
 上野公園を整備するに際しても、善助は周囲の風景、眺望を取り入れています。中景に鬱蒼たる森林を置き、遠景には遥かに高旗山を望むといった具合に景観を大きくとらえ、そのなかに上野公園を調和させています。
 中景も遠景も、本来自分とは何の関係もない土地ではありますが、景観全体のなかでは自分のいる場所と分かちがたくつながっています。つまり地続きです。この考えをさらに進めますと、自分のいる場所もまた景観の一部であるという認識につながりますし、景観は共有の財産であるという認識にもたどりつきます。
 ですから地続きの思想とは、個人をつねに社会性のなかでとらえる思想であるといえると思います。いかなる個人も地域社会との関わりのなかでしか生きられない、人と地域社会はまさに地続きでなければならない。そういう認識を出発点としてすべてのことを考えてゆくのが、田中善助の地続きの思想です。
 ところで、善助の地続きの思想が作庭の考え方に通じているのは、偶然のことではないかもしれません。善助は有能な事業家であり、すぐれた趣味人としても知られていましたが、事業と趣味とは別々に存在していたのではなかったようです。そこにもまた地続きの関係が見られます。事業という流行の世界と趣味という不易の世界が自在に通じあって、善助の精神を支えていたと考えられます。
 それは、お茶席の話題から梅林保護がスタートし、作庭の理論がそのまま思考原理に重なっていたという表面的なことにはとどまりません。善助という一人の人間の内面において、一刻一秒を争う事業の世界と、悠久普遍の美を求める趣味の世界とが、完全な均衡を保っていたということです。善助は、一面的な価値観だけですべてを判断し、決定をくだしてしまう人間ではありませんでした。
 つまり田中善助は、単なる事業家としてものを見ていたわけではありません。いわば複眼の持ち主でした。事業を手がけるにあたっても、むろん現実的な採算や利得の計算はしますけれども、倫理という観点から事業を見る、趣味の世界で得た価値観に事業を照らしあわせる、要するに複数の基準で事業を評価することのできた人でした。そうした複数の視点が、田中善助という市民のなかで、まさに地続きとなって有効に機能していたのだといえます。
 そうした地続きの思想の表れを、今度は上野町の下水道工事に見てみたいと思います。田中善助は大正十三年、六十七歳で上野町長に就任しました。目的はただひとつ、下水道の整備でした。
 当時の上野の町は水はけが悪くて、夏になると大量に蚊が発生し、伝染病が猛威をふるいました。伝染病予防には下水道をつくることが必要だと善助は考えたわけですが、それは一介の事業家には不可能な大事業でした。
 そこで善助は、町長選挙に打って出ます。そして公約どおり下水道を完成させると、任期なかばでさっさと退任してしまいます。まことに天晴れな進退です。
 このエピソードからは、田中善助の地続きの思想が、つねに自分の立っている場所を明確に意識していて、その地面からけっして足が離れなかったこと、にもかかわらず、じつに柔軟に思想の及ぶ範囲を広げ得たこと、そういった事実がうかがえます。

 水平性の問題
 田中善助が生きていたのは、いうまでもなく国家主義の時代でした。国家がすべてに優先するという考え方が日本を覆い尽くしていました。それは、天皇制を中心原理とした国家支配システムを構築し、強力な中央集権体制を確立することで実現されました。国家を至高の存在とする大きなシステムをつくりあげ、ごく少数の指導者が、地面から遥かに仰ぎ見なければならないシステムの頂上で、すべてを支配するという時代がつづきました。
 これは明らかに、地続きの思想の対極にある思想です。たしかに善助は、町のシステムのトップである町長の座に身を置きました。しかし善助は、伝染病という地上の問題を解決するために、その最善の策として町長就任を選んだというに過ぎません。善助の足は地面に触れつづけていたといえます。
 誤解を恐れずにいえば、地続きの思想は自分が中心であるという思想です。とはいえ、世界が自分を中心に回っているという考え方ではありません。広大な世界はそれ自体そこにあって、そのなかの一点に自分の立っている場所がある。だから世界のことを考える拠点は、まさに自分が立っているこの一点しかないという考え方です。
 ですから善助は、つねに自分の立っている場所を明確に意識し、その拠点にしっかり足をつけていました。その場所で、たとえば下水道の整備が必要だと思いついたら、善助にとってそれは彼自身の問題にほかならなくなります。他人に頼るべきではない、みずから進んで解決するしかない問題です。つまり自分が中心であるということです。
 善助は自分の生きている場所、自分が立っている地点でものを考えました。こうした態度は独善に陥る危険性をはらんでいますが、だからこそ善助は、いっぽうで全国に足を伸ばして見聞を広め、知識や教養を深める努力もつづけています。そのうえで善助は、自分を育んだ伊賀の地に立って、自分に何ができるのかを考えつづけました。
 この地続きの思想は、拠点を中心として自在に広がりを見せるものでしたが、あくまでも水平に広がるものであった点にも注意が必要だと思います。善助は垂直性を求めなかった、つまりものごとを上下という関係性のなかで考えようとはしなかったということです。
 日常生活の場においても、たとえ相手が目下にあたる人間であっても、善助は礼を尽くして教えを乞うていたというエピソードが感想録に記されていますが、他者との関係を水平に保つのが善助の基本的な態度でした。それはそのまま、地続きの思想にもあてはまります。
 下水道整備のため町長に就任しても、それは善助にとって、位人臣をきわめるといったことではまったくありませんでした。地域社会の問題を解決する手っ取り早い手段であったというだけの話です。げんに善助は、町長でありながら毎日のように下水道の工事現場に通い、直接監督にあたっていたと回顧しています。
 つまり田中善助は、町長というひとつの権力機構における頂点の地位を、けっして上下関係という垂直性のなかでは考えていなかったということです。自分の立っている場所から自在に広がってゆく地続きの思想の、その水平性のなかでとらえていました。
 地続きの思想のこうした柔軟な水平性は、月ケ瀬梅林の保護運動をきっかけに、善助が提出した風景保護請願理由書に見ることができます。そこには、上野という一点を拠点にした地続きの思想が、まず近隣の月ケ瀬に広がり、さらに国家規模にまですみやかにくりひろげられてゆくさまが明瞭にうかがえます。そして善助の思想は、近代化批判という驚くべき相貌を明らかにしてゆきます。

第四章 はしょれメロス

 さて、私はここまで快調に誌上講演をつづけてきたのだが、ひとつお断りしなければならないことが出てきた。この調子でゆくとこの講演、あしびきの山鳥の尾のしだり尾のごとく長々しいものとなってしまいそうなのだ。私にはどうも、ものごとを決められた時間や枚数に収める能力が根本的に欠如しているのかもしれない。
 私はこの原稿を二十ページにまとめる気でいたのだが、なんともう十五ページ目下段ではないか。
 最低でも四、五十ページは必要だろう。
 予定をオーバーして書きつづけようか。
 いや、そんなことをしても仕方がない。
 いくら書いたって原稿料は出ないのだ。
 さっさと書きあげてビールでも飲もう。
 そうした自問自答をくりかえした結果、あとは適当に端折ってつづけるしかないなと私は結論した。ここまでのところだけでも新たな観点からの田中善助論として結構の整ったものにはなっているのだから、あとを流したところで泉下の善助さんはそれほど怒らないにちがいない。
 だからこの章で、全面的に端折ることにした内容を簡単にご紹介しておく。小見出しは、同時代人との比較、地域社会に潜在するもの、といったことになるだろう。
 まず、同時代人との比較について。
 同時代人と比較してみるのも、田中善助を再評価する際の有効な手段だろう。二人の人物をあげておく。一人は実業家の渋沢栄一、もう一人は博物学者の南方熊楠である。興味のある方は、前者については佐野眞一さんの近著『渋沢家三代』(文春新書)を、後者については鶴見和子さんの名著『南方熊楠』(講談社学術文庫)をお読みになるのがよろしかろう。
 なお、前田教育会が現在、私の講演要旨も収録した「田中善助 鉄城翁展」の記録冊子を編集中なので、私が二人について喋ったことはそちらをご覧いただきたい。本誌が出るころにはできあがっているだろう。ただし、たいしたことを喋っているわけではないことをお断りしておく。
 つづいて、地域社会に潜在するものについて。
 地域社会の問題に主体的に関わるためには、何よりも地域社会そのものをよく知ることが求められる。地域の地理や歴史、風土、文化、特性といったことはもちろん、地域社会に潜在しているものを知ることも、これからの時代にはとくに重要になる。
 地域社会に潜在するものの一例として排他性をとりあげよう。外部から訪れた他者を排除しようとする秘められた傾向は地域社会に抜きがたく存在しており、地域社会の欠点として指摘されてもいる。
 もっとも、日本社会自体がひとつのムラ社会であり、蛸壷のごときムラ社会の集合体でもあるということは、たとえば昨年のプロ野球界におけるバルビーノ・ガルベスの追放劇を見るだけで充分に首肯できよう。村落共同体に潜在する異人への憎悪は、民俗学者の小松和彦さんによる指摘を俟つまでもなく、私たちにはすでに親しいものだ。
 身近なところで例を挙げれば、上野市が進めている一連の海外交流事業も、潜在的な異人憎悪の傾向が防衛機制的に反動形成として表れたものと見るべきだろう。だが、それだって構わない。とにかく地域社会には住民自身も自覚していないさまざまなものが潜んでいるのであり、反動形成であろうと何であろうと外部からやってきたものとの緊張関係を意識することで、地域社会に潜在する可能性が私たちの前に立ち現れてくるのである。排他性を手がかりとして可能性が開花するのだと申しあげておこう。
 じつは私は、共同体が外部のものを取り入れて発展してきたという歴史的事実を、当地でいまも使用されるケナリイ、すなわち羨ましいを意味する言葉の変遷を跡づけることで証明するという詐欺まがいのネタも仕込んであったのだが、それも端折らざるを得ない結果となった。
 以上、遺憾ながら端折らざるを得なかった内容を、はしょれメロス、はしょれエイトマン、はしょれヨシノブ、などとわめきながら走り書きで書き綴った。

第五章 近代化と伝統と

 単系か多系か
 ここで日本の近代化について考えてみます。日本の近代化がヨーロッパをモデルとして進められたことは、いまさら指摘するまでもないと思います。法律、軍備、教育、政治などなど、あらゆる面でヨーロッパに学び、ヨーロッパに追いつこうというのが明治政府の悲願でした。
 こうした方法論は、先にも触れました文明の単系的発展という考え方に基づいています。つまり文明が発展するにはたったひとつの道しかないと仮定してみると、後進国である日本は、先進国であるヨーロッパ諸国の最先端の文明をそのまま取り入れることによって、一挙に先進国の仲間入りができるはずだ。そういう考え方です。
 こうした考え方は、ヨーロッパ人のあいだにも広く浸透していました。だからこそ彼らには、あれほど恥知らずな帝国主義ないしは植民地主義を、アジアやアフリカに疫病のように蔓延させることが可能だったわけです。ヨーロッパ諸国による植民地支配は、彼らにしてみれば、アジアやアフリカの遅れた世界に、ヨーロッパがたどりついた先進的な文明の火をもたらしてやる行為にほかなりませんでした。その結果、多くの国家や民族がヨーロッパ諸国の支配と収奪のもとに疲弊してゆきました。
 こうした考え方への反省が生まれるのは、第二次世界大戦が終わったあとのことです。ヨーロッパ中心主義を相対化する視点が、ヨーロッパの内部に芽生えました。文明は単系的に発展するのではなく、多系的な発展というものがあるのではないかという見方も認められてきました。
 たとえばフランスの人類学者であるクロード・レヴィ・ストロースは、アマゾンの原住民の生活を観察して、そうした認識にいたりました。ヨーロッパの人間からみれば、彼らはたしかに未開の存在であるのですが、彼らの生活をよく分析してみると、そこにはひとつの文化があり、社会がある。その背後にはたいへん豊かな精神性というものが存在している。彼らを未開と呼ぶのは、はたして正当なことだろうかとレヴィ・ストロースは考えました。
 そしていまでは、文明と未開という二項対立的なものの見方も、すでに相対化されているといっていいかと思います。文明が単系的に発展するという世界観のほかに、文明は多系的に発展するのだという考え方もまた、それなりの支持を得て広がっています。
 もっとも、レヴィ・ストロースの考えは、社会にとって発展は重要なことなのかという点にまで、つまり歴史観の問題にまでたどりついてしまうのですが、それはきょうのお話の趣旨からは逸脱し過ぎたテーマとなりますので、機会があればまたあらためてお話いたします。
 ともあれ、日本の近代化もまた文明の単系的発展という考えに基づいて進められてきたわけですが、これは国のレベルのみならず、地方においてもまったく同様に、単系的発展という呪文が唱えられつづけてきました。
 一例だけ挙げておきます。上野市のメイン商店街は銀座通りと呼ばれていますが、これはいうまでもなく東京の銀座にちなんだ命名です。この命名に、銀座のように発展したいという願いがこめられていることはいうまでもありません。それは明らかに単系的発展であるといえます。
 銀座のようにという願いと、ヨーロッパのようにという願いは、発展に関する同質の認識のうえに立っています。こうしたごく日常的なレベルでも、私たちは単系的発展という考えにとらわれてきたわけです。

 もうひとつの近代化
 田中善助はそうではありませんでした。善助はあくまでも、伊賀という地域社会が秘めた可能性を探り出し、それを発展に結びつけようと努力した事業家でした。
 善助の事業としてよく知られているものに水力発電がありますが、伊賀は山国だから川の流れが急である、その水の勢いこそが資本であると善助は述べています。地域の風土を発展に直結する考え方です。あるいは、伊賀には良質な土がある、それならそれを産業に結びつけよう。そう考えて、善助は窯業の振興に力を注ぎます。
 伊賀地域の独自の発展を方向づけるため、善助は伊賀の風土や歴史、特性に通暁することをみずからに課していましたし、そのいっぽうで最新の技術や最高の知識を身につける努力もつづけていました。
 上野公園の整備を例にとりますと、善助は全国の公園や庭園を訪ねて知識を身につけています。たとえば小堀遠州がどのように意を用いて庭をつくったのか、身をもって確かめたわけです。その知識のうえに、善助は上野公園にふさわしいデザインを考えます。地域の特性を基盤にしながら、しかし独善には陥らず、庭園の美という普遍性に通じた公園ができあがることになります。
 伊賀という地域社会の可能性を発見し、伊賀の風土のうえに発展の道を模索する善助の方法論は、日本という国を考える場合にもそのまま生かされました。それを物語るのが、『田中善助伝記』にも収録されている風景保護請願理由書という文章です。
 この文章は明治二十五年に帝国議会に提出されていますが、これはまさに善助が月ケ瀬の梅林保護に乗り出した年にあたります。全国で進行する景観の破壊を憂え、国が進んで風景の保護を手がけるべきであるという意見を、善助は文語調の格調高い文章で堂々と述べています。田中善助の地続きの思想は、月ケ瀬に端を発して、臆することなく日本全土へとくりひろげられてゆきました。
 この風景保護請願理由書は、じつにどうも驚くべき文章です。なぜなら、田中善助という人物が、日本の近代化が始まったごく初期の段階で、近代化の方向性に正当な批判を加えていたことが判るからです。それはまさに、ヨーロッパを模倣するのではなく、日本の風土や歴史に見あった近代化の道を探るべきであると訴える、文明の多系的発展という認識に立った鋭い近代化批判でした。
 その批判を具体的に見てみましょう。風景保護請願理由書のなかで、善助が土木工事について語ったところをご紹介します。
 善助はまず、土木工事が盛んに行われ、道路が四通するのは喜ばしいことであると述べます。しかし、道路工事によって山が崩され、谷が埋められ、風景が損なわれるのは残念なことである。道路のもたらす利便を求めながら、同時に風景の美を保つことは至難ではあるが、風景に意を用いることはできるはずだ、と善助は論を進めます。
 そして橋を例に挙げます。橋梁はこれからますます増えるだろうが、デザインに意を用いることが大切だ、というのが善助の意見です。批判されるべきなのは橋をつくる行為そのものではなく、洋風の橋をつくろうとする発想である。土地の景観にふさわしいデザインを採用すれば、橋梁がいくらあっても風景を損ずることはなく、むしろ風景に風致を添えさえするのであると善助は断言しています。
 昨年、京都にパリ風の橋をつくろうというプランが論議を呼び、結局は沙汰やみになってしまいましたが、あの鴨川歩道橋問題には、明治二十五年の時点で田中善助から批判が提出されていたのだといっていいと思います。

 伝統という拠点
 田中善助は、けっして近代化そのものを否定していたわけではありません。その方向性、つまり無批判なヨーロッパ化に意義を申し立てていたということです。
 風景保護請願理由書の別のところを見てみましょう。日本の風景について、善助は次のように述べています。
 風景の美は富国強兵には役立たない。しかし日本の山水の美は、国民の性情を優美にし、風俗を温雅にしてきたゆえんのものである。風景が日本人の美質を完成し、国民の心をひとつにしてきたのである。だが、いまやいたずらに殖産工業に汲々とし、風景の美に心を用いないために、日本人の美質も失われつつあるではないか。
 善助はそう指摘しています。つまり善助にとって、国家というのは風土に限定されたエリアだったわけです。風土という限定された自然が基盤となって、そこに住む国民の一体感や独自性を育んでゆく。それが善助の考える国家の姿でした。そしておそらく、文化や伝統と呼ばれるものの機軸もまた、風土という限定性のなかにこそ発見されるべきだというのが善助の認識でした。
 だとすると、異なった風土にはおのずから別の国が存在するわけであり、その風土に応じた文化や伝統が生まれることになります。それはそれとして尊重されなければならないと、善助は考えていたはずです。風土のなかの一点に人間の拠点を認めるのが善助の見方だからです。そしてお互いの差異を超えて共通の問題が発生すれば、善助の地続きの思想は国境すら超えて広がっていったはずです。
 善助の考えは、日本の植民地主義に拮抗し得るだけの視点をもっていたといえます。善助の水平的な思想は、やがて国家主義という垂直的な思想の前に、ともに地続きという共通項をもつがゆえに屈伏することになるわけですが、それはじつに残念なことであったというしかありません。
 それはともかくとして、善助は単に批判するだけではなく、日本の近代化はかくあるべきだというプランをも提示しています。日本の美しい自然や、長い伝統のうえに完成された美術や工芸を資源として、たとえばスイスのような観光立国の可能性を模索すれば、日本独自の発展の道が開かれるのではないかと述べています。
 善助のこの立場を、たとえば封建的矜持といった言葉で片づけてしまうのは慎むべきかと思われます。善助が考えていたのは、伝統というものにいかに向きあうか、伝統と現在とをいかに結びつけるか、つまりはいかにして両者を地続きにするかといった問題であったからです。
 善助にとって伝統は、そのまま受容するべき規範でもなければ、頭から否定し去る対象でもありませんでした。伝統を賦活化すること、いまの時代に即応したものとすることこそ、善助にとっての重要事でした。善助は風景保護請願理由書のなかで、日本の短所は捨て、西洋の長所は取り入れるべきだと主張していますが、伝統というものに対する柔軟な構え方がここにも表れています。
 私たちは、いわば伝統の最先端に立っています。世代から世代へ受け継がれてきた伝統は、好むと好まざるとに関わらず、私たちの背後に連綿として存在しています。田中善助は、伝統の最先端に拠点を置き、必要とあれば伝統に新しい何かを加えて時代に即応させました。逆に現在ただいまの問題を解決するために、時をさかのぼるようにして伝統をさかのぼり、古い知恵から新しい手がかりを見つけてくる作業も重ねました。
 つまり地続きの思想は、どこまでも水平に広がってゆく空間性と同時に、伝統や歴史に関わる時間的な広がりをももっていました。田中善助の地続きの思想は、空間と時間の両方に拠点を据えていたのだと表現できます。
 したがって日本の近代化が、日本の伝統とヨーロッパの近代とを無批判に接続しようとするものでしかなかった以上、善助が正面からそれに否をつきつけたのは当然のことであったと思われます。

第六章 田中善助のバトン

 示唆と励まし
 田中善助という一人の市民の傑出した個性を、かりに地続きの思想と名づけた視点から見てきました。もちろん善助自身は、自分の思考や行動が明確な思想に立脚していたとは思っていなかったでしょう。善助はあくまでも、自分が考えるべきことを考え、なすべきことをなしたに過ぎません。しかし現代の私たちが善助を再評価する場合、たとえば地続きの思想というひとつの視点を仮定してみることは、それなりに有効な手法だと思われます。
 地続きの思想とは何か、簡単にまとめてみますと、それはまず、広大な世界の一点に自分の拠点を定め、拠点についてよく知ることから始まります。拠点において主体的であることが要請されます。そしてその拠点から、知識や情報を世界に求め、必要な関係性を世界に広げます。拠点と世界は自在に結ばれ、地続きとなります。地続きは伝統にも及びます。古い伝統を価値あるものに更新し、伝統がもつ知恵を現代に生かすのも地続きの思想です。
 この地続きの思想は、おそらく百年前の日本社会の人間より遥かに深い孤立感や無力感のなかで生きているであろう私たちを、その豊かで柔軟な関係性によって解放してくれる思想でもあります。
 むろんそれぞれの拠点において、人はおしなべて孤独です。孤独であるがゆえに、みずから考え、行動しなければなりません。しかしその拠点から関係性を広げてゆけば、そして何かしら共通の問題を媒介として、相互の主体性を認めながら連携すれば、新しい関係を築くことが可能であるとするのが地続きの思想です。当世風の言葉でいえば、横のつながりによる自由なネットワークを構築しようとする意志、それが地続きの思想の重要な側面です。
 地続きの思想は、日本の近代化が始まったごく初期の時点で、田中善助という一人の市民が地域社会と主体的に向きあった過程で体現されたものです。そして私たちは、善助が懸念した方向で近代化が達成されたあと、中央集権システムが大きく破綻した日本社会で地域社会がいかにあるべきかを模索しています。つまり私たちは、善助が実現しようとしたことをいま、私たち自身の手で実現しようとしているところです。善助の場所と私たちの場所は、まさに地続きの関係にあるのだといえます。
 先にも触れた地域社会の問題に眼を転じても、地続きの思想が有効であることが判ります。善助の事業には、一人でできることは一人でやる、できない場合は必要な協力を求める、それでも無理な場合には町長になる、あるいは国に意見を訴えるというように、自身に主体を置きながら柔軟にものごとに処してゆく態度が一貫しています。
 この考えは、最近よく耳にする市町村の広域連携や広域連合といった手法に重なるものです。つまり、上野市が単独でできるものは上野市がやる、無理な事業は近隣の市町村と協力してことに当たる、それでも無理な場合は県や国の協力を要請する、そうした地域主体の考え方に移行することの必要性が、ここへ来てようやく一般にも認識されてきたわけですが、それはもう百年も前に、善助が考え、実行していたことに過ぎません。
 いずれにせよ、地域社会の問題においても、地域社会で営まれる個々の生について考える場合でも、田中善助は私たちに重要な示唆と力強い励ましを与えてくれます。田中善助はそのために蘇ったのだといえます。私たちがなすべきなのは、善助が偉大な事業家であったなどという皮相な評価を離れて、私たちと同じ地点に立っていた人物として善助を再評価することです。地域社会の発展に身を挺した田中善助の手から、直接そのバトンを引き継ぐことです。それこそが田中善助の再評価です。
 以上、充分に意を尽くせたとはいえない内容ですが、冒頭にも申しましたように、私の役割はみなさんが田中善助を再評価するための手がかりを提供することであり、具体的には私の眼から見た田中善助像をお話することでしかありません。その責任だけは、これでなんとか果たせたように思われます。
 あとはみなさんお一人お一人が、それぞれの眼で田中善助の再評価を進めていただきたいと思います。

 内発的な発展
 最後に、社会学者の鶴見和子さんが提唱していらっしゃる内発的発展論をご紹介することで、きょうのお話をしめくくりたいと思います。
 この理論は、ヨーロッパをモデルとした近代化論に対抗して、近代化がもたらしたさまざまな問題を解決するために考えられたものですが、地域を主体として地域社会を考えてゆく場合にもきわめて重要なものとなります。田中善助の地続きの思想にも、たいへん大きな関わりをもっているように思われます。
 西欧をモデルとした近代化のパラダイムは、「通常科学」、あるいは「支配的パラダイム」と呼ぶことができます。そして、内発的発展論は支配的パラダイムに対する「対抗モデル」の一つということができます。どういう点で違っているかと申しますと、たとえば近代化論は単系発展モデルですが、内発的発展は複数モデルです。近代化論は国家、全体社会を単位として考えていますが、それに対して内発的発展は私たちが暮らしている具体的な地域という小さい単位の場から、地球的規模の大問題をとく手がかりを捜していこうという試みです。
 私は内発的発展を、「それぞれの地域の生態系に適合し、地域の住民の生活の基本的必要と地域の文化の伝統に根ざして、地域の住民の協力によって、発展の方向と筋道をつくりだしていくという創造的な事業」と特徴づけたいと思います。
 近代化と違うもう一つの大事な点は、近代化の最も大事な指標が経済成長であるのに対し、内発的発展論が人間の成長(human development)を究極の目標としている点です。それぞれの人が持って生まれた可能性を十分に発揮できるような条件を創っていくという、人間の成長に重きを置いているのです。
 もしかしたら田中善助は、鶴見さんのおっしゃる内発的発展を、この伊賀の地で志向し、実現しようとした人物であったと位置づけることさえ可能かもしれません。
 もっとも、それはみなさんお一人お一人がお考えになることです。そのためにまず必要なことは何か。それは『田中善助伝記』をお読みになることです。お持ちでない方は前田教育会へお申し込みください。電話番号は0595・24・5511です。本体四千円で、まだまだたくさん売れ残っています。
 それでは、ここまでといたします。どうもご静聴ありがとうございました。お気をつけてお帰りください。ご祝儀は控え室で受け付けさせていただきます。

終章 あまりにもまっとうな

 まっとうな、あまりにもまっとうな話題をまっとうに論じることには気恥ずかしさがつきまとう。だから私の芸は悪口やギャグの支えなしには成立しないのだが、今回ばかりはそれらの助けなしに、終盤かなりの駆け足ではあったものの、私はなんとか誌上講演を終えることができた。
 じつは私は、この終章で禁断症状に耐えかねて悪口とギャグの椀飯振舞に及ぼうかとも考えていたのだが、いまはもう一刻も早くビールを飲みたいという気がする。
 だからこれでよしとしよう。
 とにかくビールを飲むのだ。
 なお、講演中に引用したテキストは、『田中善助伝記』のほか、塚本学『都会と田舎』(平凡社選書)、コレクション鶴見和子曼陀羅9『環の巻 内発的発展論によるパラダイム転換』(藤原書店)に拠っている。
 講演の機会をいただいた前田教育会と、敗者復活戦の場を提供してくださった本誌関係者、おつきあいいただいた読者の方にお礼を申しあげる。
 さあビールを飲んでこよう。
 とにかくビールを飲むのだ。

(田中善助評論家、名張市在住、二黒土星)


初出 「伊賀百筆」第八号、1999年11月、伊賀百筆編集委員会発行
掲載 1999年10月21日