鉄城翁の道

田中善助伝記編集委員会 

 もう一人の
 伊賀上野で「翁」といえば、まず連想されるのは松尾芭蕉だろう。伊賀に生まれ、蕉風と呼ばれる新しい境地を確立して、俳句の世界に大きな進展をもたらしたこの偉大な先人を、私たちは親しみと畏敬をこめて芭蕉翁と呼びならわしている。
 明治時代以降の歴史に眼を転じると、私たちの前にはもう一人の翁が登場してくる。田中善助という人物である。水力発電をはじめとしたさまざまな事業を成功させ、伊賀に近代の開幕を告げた田中善助は、傑出した事業家であった半面、書画に堪能な趣味人としても知られ、みずから鉄城と号した。
 鉄城翁。これが、もう一人の翁の名前である。
 この二人の翁は、一方は文学、一方は実業というかけ離れた世界に大きな足跡をしるしたが、その生涯と事績もまた好一対の対照を見せている。芭蕉翁は伊賀から江戸に出てその才能を開花させ、旅を住みかとして多くの作品を残した。それとは正反対に、鉄城翁は終生伊賀にあって、郷土の産業や文化の振興に天与の才幹を発揮した。そして、芭蕉翁がいまや国際的な名声を得ているのに反して、鉄城翁の名前と業績は私たち伊賀の人間にとってもすでに縁遠いものになっている。
 しかし、幕末に生まれ、昭和二十一年(一九四六)に世を去った鉄城翁田中善助は、伊賀の近代化を一身に体現した人物であり、その恩恵は脈々と現代に継がれている。それは忘れられてはならない事実だろう。なぜなら、その事実を確認する作業によって、私たちは郷土の将来を展望するための指針を手にすることができるはずだからである。
 田中善助が、あたかも原野に道を切り開くようにしてなしとげた数々の事業を土台として、私たちの時代は築かれてきた。善助の生涯と業績を知ることは、私たちが郷土の未来を考えるうえで避けては通れない作業のひとつなのである。
 田中善助の生涯をたどるためには、『鉄城翁伝』という一冊の本をひもとく必要がある。昭和十九年(一九四四)七月、善助を敬愛する鉄城会の同人が編集と刊行を手がけた書物である。ときに善助は八十七歳、亀野夫人との金婚を記念した、おそらくは少部数の出版だった。
 私たちはこの『鉄城翁伝』を読むことで、本人の肉声によって語られた田中善助の生涯を知ることができる。のみならず、この本は伊賀の近代史を考察するうえで貴重な資料であり、地域研究の基本文献ともなっている。単なる事業家の自伝として片づけることのできない、郷土にとってかけがえのない書物といえるだろう。
 しかしいまでは、『鉄城翁伝』を気軽に読むことは難しい。昭和五十三年(一九七八)に上野ロータリークラブが発行した復刻版でさえ、眼にすることは稀になった。田中善助が私たちから遠ざかってしまった理由のひとつは、善助の生涯と業績を伝える『鉄城翁伝』が姿を消してしまったことに求められるのかもしれない。

 もう一冊の鉄城翁伝
 本書『田中善助伝記』は、鉄城翁田中善助の生涯と業績を現代に紹介する目的で刊行される。内容について簡単に記しておこう。
 本書の主眼は『鉄城翁伝』一巻を現代に蘇らせることにあるが、さらにもうひとつ、『鉄城翁伝』以外の善助の著述を集成することも大きな狙いとした。もとより数は少なく、刊行物としては『西嶋八兵衛伝』『大陸管見』『田中善助講演速記録』の三冊を数えるのみである。これらをあわせて収めることで、田中善助の人物像がより明確になるものと思われる。
 いっぽう、田中善助について記された文献を収録することも、本書が果たすべき役割のひとつであると判断された。善助の生涯と業績を多角的に肉付けすることが可能になるからである。とはいえ、その大半を占めるのは『鉄城翁伝』の記述に基づいただけの文献であるため、これらは巻末に列記するにとどめて、善助の同時代資料や『鉄城翁伝』への批評を含む文章のみを集めた。
 以上の観点から、本書はまず「田中善助著述文献」として善助の著述をまとめ、そのあとに「田中善助関連文献」を収録する構成を採用した。いずれも発表順に配列し、巻末に「解題」を付した。
 こうして完成した『田中善助伝記』は、田中善助に関する文献を一巻に編んで後世に伝えるための、いわばもう一冊の『鉄城翁伝』である。調査の不足や編集の杜撰は覆うべくもないが、この偉大な先達に対する尊敬の念だけはお汲み取りいただけるのではないかと愚考する。
 本書に洩れた資料に関するご教示など、読者のみなさんのご叱正を仰ぐ次第である。

 伊賀の天地
 ここで、田中善助が生きた時代を確認しながら、『鉄城翁伝』への水先案内を務めてみよう。それには、時の流れを百四十年ほど遡る必要がある。時代は江戸末期。山国の城下町、伊賀上野にあった小さな下駄屋の子供として、善助は私たちの前に登場してくる。
 日米修好通商条約が締結された安政五年(一八五八)の十月五日、相生町に一人の男の子が生まれた。当主・竹内長兵衛は代々の下駄屋で、誕生した長男は覚次郎と名づけられた。のちの田中善助である。
 覚次郎少年が数え齢で十一歳を迎えた年、江戸城が開城され、時代は江戸から明治へと移った。明治新政府が樹立され、日本は近代的な統一国家として歩み始めた。山間の城下町にも、新時代の動きはあわただしく押し寄せる。明治四年(一八七一)には廃藩置県が実施され、伊賀の国は安濃津県に所属、翌五年には安濃津県と度会県が合併して三重県が誕生した。
 ちょうどそのころ、覚次郎少年の身のうえにも大きな変化が訪れることになった。
 覚次郎は紺屋町の士族・房川文太が開いた寺子屋に学び、明治二年(一八六九)に卒業していたが、いずれは家業を継いでくれるものと思いこんでいた父親に、ある日、思いがけない言葉を吐いた。
 「下駄屋の商売は厭や。下駄屋にはならへん」
 覚次郎の眼には、父親の仕事がどうにも情けない商売に映っていたのである。長兵衛がいくら叱りつけても、覚次郎はいうことをきかない。それどころか、東京へ行きたい、ロンドンへ行きたいと、途方もないことをいいだす始末だった。
 困り果てた長兵衛は、新町で金物屋を営んでいた義弟・田中善助に相談をもちかけた。話は意外な方向に進んだ。子供のいなかった善助が、「覚次郎を俺の家へ養子にくれんか」と申し出たのである。
 覚次郎は、「新町は金持ちやし、金物屋は下駄屋より美しいで」という父親の勧めを受けて、母親の弟である田中善助の養子となった。明治五年(一八七二)六月、十五歳のときのことであった。東京に出る夢をあきらめ、金物商・金善の跡取りとなって、商売のいろはを学んでゆく日々か始まった。
 明治初年に海外雄飛を夢見たというエピソードだけからも、田中善助が少年時代から凡庸ではない器量の持ち主であったことがうかがえるだろう。しかし、夢は夢に終わり、善助は長い一生を伊賀の地で送ることになる。
 善助を伊賀の天地にとどめたものは何であったのか。高久甚之助が「感想録」に記しているところによれば、高久は晩年の善助に、もしも日本や世界を相手にしていれば、もっと大きな事業がなしとげられたのではないかと質問した。善助はこう答えたという。
 「私は養子の身であるし、家にはある程度の財産もあったから、郷土にしばりつけられてしまった」
 たしかに、田中善助という稀有な才能をもった事業家にとって、伊賀という郷土が一種の束縛であったことは事実だろう。だが、郷土に腰を落ち着けることで、善助は善助なりに、事業というものの本質をいち早く体得できたと考えることも可能であるにちがいない。事業は地域の発展のためにあるという善助の信念は、郷土に深く根を降ろすことによって培われ始めたのではなかっただろうか。

 商人の道
 新しい時代を迎えたとはいっても、上野の町の経済は江戸時代とそれほど変わるところはなかった。
 江戸時代の上野では、城下町を東西に平行して貫く本町、二ノ町、三ノ町の三本の通りに、領主から免許を得た商人たちが看板を掲げていた。この三町は「三筋町」と呼ばれ、家臣や町人の消費を一手に引き受ける商業地として栄えた。三筋町の商人は特権的な身分を領主から保障され、多くは苗字帯刀を許されて士分の待遇を受けていた。
 いっぽう、三筋町以外の城下町は「枝町」と称され、商売は禁じられていたが、禁を破って商いをするものが現れるようになった。彼らは、こそこそと商売をするところから「こそ商」と呼ばれ、三筋町の商人が彼らの取り締まりを領主に陳情することもあった。いずれも零細で、農業を兼ねた家が多く、三筋町に比べれば社会的身分も財産も大きく見劣りがした。
 明治時代に入ると、枝町の商人に対する規制は消滅し、三筋町同様に商いができるようになったが、三筋町と枝町が競合することはなかった。三筋町の商人は古いのれんを守って江戸時代同様に生活必需品を扱い、枝町の商人は三筋町では売られていない商品を手がけたからである。明治以降、上野の商業を支えたのが、これら特権商人と新興商人というふたつのタイプの商人であった。
 覚次郎の養家となった金善は、新町に店を構えていた。名のとおり寛永年間(一六二四−四四)に新しく誕生したこの町には、酒造や醸造を手がける豪商も店を構えていたが、金善という金物商は三筋町の秩序からいえば新興商人の部類に属する一軒であった。
 養父の右腕となって働いていた覚次郎が金善の当主となる日は、予想外の早さでやってきた。明治十二年(一八七九)、養父が四十歳の若さで病没したのである。
 死の直前、養父は覚次郎を枕元に呼び、財産の目録を手渡して後事を託した。覚次郎はそれを見て涙を流し、
 「お父さん、ご安心ください。私は上野一番になってお目にかけます。これは冥土へ行かれるお父さんへの孝行です」
 と父親に誓った。
 上野一番になるという覚次郎の誓いには、当時の新興商人の意気込みが感じられる。米や醤油などの必需品は扱えなくても、才覚次第では三筋町の特権商人以上の商人になれる。覚次郎にはそうした自負があったのだろう。新しい時代の到来を、善助は身をもって実感していたにちがいない。
 覚次郎は二十二歳の青年だった。父親を見送って家督を受け継ぎ、田中善助として金物商を切り盛りすることになった。しかし父親の残した資産は意外に少なく、現金が三千円足らず、あとは家屋や田畑があるばかりだった。実父から「新町は金持ちやし」といわれた金善の思いがけない内情に善助は驚いたが、商人として大成することを改めて肝に銘じた。
 『鉄城翁伝』には、そのときの心境がこう語られている。
 「いまさら逃げ出すわけには行かぬ。何でも奮発して働こう。これからうんと勉強して資産を一万円にしたいと思い、一生懸命で働きました」
 こうして田中善助は、上野の町の片隅に商人の道の第一歩を踏み出したのである。

 表舞台へ
 善助は商売に専心した。金善の取り扱い商品を増やし、伊賀では販売されていなかった洋釘や洋鉄を京阪方面から仕入れるといった新興商人ならではの発想で、資産を順調に増やしていった。
 上野の経済界もまた、活況に向かって歩を進めていた。旧時代の秩序は色濃く残っていたが、商品経済の発展が農村部の購買力を増大させたことで、町の特権商人たちはおおいに潤い、善助たち新興商人もわずかずつながら力を蓄えていった。
 だが、障害もまた存在していた。四方を山に囲まれた伊賀の国の商業は、物資の運搬の面で大きな不利を背負っていたのである。上野の町の経済的発展は、京都や大阪とのあいだに流通の道を確保できるかどうかにかかっていた。
 当時、上野を中心とした交通は、津から加太峠を越えて上野に入り、さらに西に進んで京都府相楽郡大河原に至る大和街道が最大の動脈だった。上野から大阪への運送は、この大和街道と木津川の水運とを利用して行われた。
 上野から京阪方面へ出荷された米や茶、雑穀などは、まず大河原にあった船場か、そこからさらに四キロほど下流の笠置の舟問屋に運ばれることになる。道中の大和街道は険しい坂道で、荷物は牛馬の背に載せるしか方法がなかった。荷車さえ通れない峻険な山道だったのである。
 それから先は木津川、そして淀川の水路を経て、荷物はようやく大阪に到着する。大阪から入荷する商品も同様に淀川、木津川と遡り、笠置の問屋の倉庫にひとまず保管されたあと、牛馬によって上野まで運搬された。
 水運の速度は川の水量に左右されるうえ、笠置の倉庫で荷物が停滞してしまうことも少なくなかった。運送の遅れは商人にとって死活問題である。物資が増えてくると、牛馬に頼る旧来の運送手段ではとうてい追いつかなくなった。それに、牛馬が背負った荷物から人夫が中味をこっそり抜いてゆくことも日常茶飯事で、上野の商人たちを長く嘆かせていた。
 明治十五年(一八八二)四月、上野の特権商人たちは大和街道改良社を設立し、上野から笠置まで、荷車が通れる車道を開く事業に乗り出した。予算は一万一千八百七十五円。うち五千円は三重県から、そのほか上野の有力者からも資金を借り入れて、開鑿工事が始まった。借入金は、整備された道路の利用者から通行料を徴収して償還することが決まっていた。
 翌十六年八月、長田・笠置間に大和街道の新道が完成し、道路改良社の私設道路として利用され始めた。通行料は荷車が三銭五厘、歩行者は一銭五厘。長田村字三軒家と島ケ原の二か所に道銭取立所が設けられた。
 道路改良社は一年で二千百六十三円の通行料収入を見込んでいたが、通行料は徴収できなかった。荷車も人も、道銭取立所を避けて通ったからである。荷車の車夫は取立所の手前で旧道に入ると、険しい坂道をよじ登るようにして荷車を押してゆき、取立所から二、三百メートル過ぎたあたりでまた新道に姿を現した。
 有料道路の先駆的試みというべき大和街道道路改良社の構想は、スタートの時点で暗礁に乗りあげてしまった。そして、若き日の田中善助が上野の経済界の表舞台に登場し、その才覚で特権商人から認められたのは、まさにこのときのことであった。

 事業と風流
 善助自身、金物商として運送の不便に悩みつづけていた一人でもあったので、通行料収入が得られないと聞いて、ひとつの解決法を思いついた。
 道路で直接通行料を徴収するのではなく、運送店が荷物の運搬を請け負った時点で、運賃に通行料を加算するという方法である。三銭五厘のうち、五厘は手数料として運送店が取り、残る三銭を月末に合算して道路改良社に納付するシステムにすれば、問題は難なく解決するはずである。通行人の通行料は全廃してしまってもいいだろう。
 善助がこのアイデアを関係者に進言すると、さっそく道路改良社の会合が開かれた。善助もその場に呼ばれ、質問を受けた。
 「君のいうのは良案だが、道銭を負担するのは上野の商人だ。彼らの承諾を得なければならないが、その点はどうする」
 「上野の主だった商人を道路改良社に招いて、上野商会というものをつくります。その商会で協議していただいて、道銭の負担を決議してもらえればいいかと思います。商人を団結させることが必要です」
 「それはいい。君は若いが、なかなか旨いことを考える」
 善助の提案は全面的に採用された。明治十七年(一八八四)、上野商会が結成され、善助はその幹事に選ばれた。商会は運送店と契約を結び、これによって大和街道の通行料徴収問題は解決した。
 それから一年間、善助のアイデアが功を奏し、通行料収入で借入金の返済が進んだが、翌十八年、大和街道が県道となったため、道路改良社は解散することになった。
 当時、善助は二十七歳だった。金物商を営む一青年に過ぎなかったが、事業家としての才能と手腕はすでに明らかだった。三筋町の特権商人のあいだにも、善助の名前は印象深く記憶されたことだろう。とはいえこの時点で、善助はまだ事業家として立っていたわけではなかった。あくまでも金物商の経営者で、しかも病気がちな若者であった。
 病気といっても大病をするわけではないが、体長のすぐれない日がつづいた。善助は病院を訪ね、貧血と胃弱による衰弱だと診断された。養生が必要になった善助は、養母の許可を得て大阪で病身を養うことにした。北浜にあった千秋楼という旅館が宿になった。
 この宿で、善助は思いがけず書画骨董の世界に眼を開かれる。宿の主人の影響で、古道具屋回りの面白さを覚えたのである。別に寝ていなければならないわけではなく、まして二十代の青年である。時間がたっぷりあるのをいいことに、善助は運動かたがた大阪の町を歩き回り、古道具屋に飾られた茶碗、花器、掛軸などを眺めることで日を送った。
 いつのまにか書画骨董が趣味になり、鑑賞眼が養われていった。善助は後年、書画や骨董の世界で、商人の手すさびという域をはるかに越えた技量と批評眼を発揮することになるが、この大阪での体験が趣味人としての出発点になったのだった。
 だが、趣味の世界で造詣が深まりはしても、体調には変化がなかった。療養四、五年のあとにもなお、回復の兆しは見られなかった。善助は人生を達観し、一生結婚はせず、風流の道に生きようと考えるに至った。しかし善助の事業家としての才能は、彼を風流の世界に早々と隠棲させてはおかなかった。

 時代の子
 病気療養中に善助は三十歳を迎えた。
 そのころ、養母が茶道を始めた。津から招いていた裏千家の宗匠が、ある日、茶席でつかっていた炭の芳香に気づいた。どこの炭かと聞かれた善助は、「月ケ瀬から買ってきたものです」と答えた。あとで調べてみると、炭の原料には梅の木が使用されていた。
 奈良県の月ケ瀬村は古来、梅の名所として聞こえていた。梅は烏梅という紅染めの材料に使用されていたが、鉱物染料の登場で需要が減ったため、月ケ瀬では梅の老木を切り倒し、かわりに桑や茶を植えて生計の足しにしているという。伐採された梅が炭に焼かれていたのである。善助はこれを知って、梅の木を保護することの必要性を痛感した。
 古くから知られた月ケ瀬の梅林を復興すれば、観光客の往来によって上野の町にも潤いがもたらされるだろう。つまり梅林の保護は、月ケ瀬という小さな村だけではなく、もっと大きな公益のための事業なのである。
 そう考えた善助は、月ケ瀬村の村長らに働きかけ、梅林保護を主眼とした月瀬保勝会を結成した。保勝会発足の費用や事務所の建設費にも、進んで私財を投じた。ときに明治二十四年(一八九一)、善助は三十四歳になっていた。
 しかし、月瀬保勝会の趣旨は村民には理解されなかった。梅林はいずれも村民の私有地で、梅の木の伐採を禁止する権限すら、保勝会にはなかったのである。往時の名勝を復活させたいという善助の願いは叶えられず、保勝会結成から十年後、善助は月ケ瀬からの撤退を表明するに至る。
 だが、失敗に終わったとはいえ、月瀬保勝会の結成には田中善助の才覚と力量が鮮やかに示されている。その特質を列記してみると、こんな具合になるだろう。
 まず、炭という日常の断片から事業のヒントをつかみだす感覚であり、事業をつねに公益に重ねて考える見識であり、必要と思われる人材に働きかけて組織化を進める手腕であり、公益のためには私財を投じることを厭わない度量である。
 そしてもうひとつ、つねに風景の保全を念頭に置いていた点にも、田中善助という事業家の先見性が認められる。善助は明治二十五年、帝国議会に「風景保護請願」を提出しているが、風景に関するこうした思索と行動からは、善助が事業家である以前に一人の市民として高い識見をもっていたことがうかがえるだろう。
 いまや私たちの前には、事業家として、そして市民として、揺るぎなく自己を確立した田中善助が立っているのである。
 少年期から三十代なかばまでの善助の歩みには、すでに天与の才幹が発揮されていた。郷土愛に基づく強い信念も養われた。いま善助の前に開かれているのは、事業家としての自己を実現してゆく道にほかならない。
 明治二十二年(一八八九)四月、善助三十二歳の年に、市制・町村制が実施され、上野の城下町一帯は上野町となっていた。新興商人の一人であった田中善助は、しかしすでに商人の枠を超え、いわば時代の子として、上野を中心とした伊賀の天地に天馬空を行くような活躍をくりひろげることになる。
 その活躍をつぶさに伝えるために、『鉄城翁伝』は私たちの前に置かれているのである。


初出 「鉄城翁の道」(『田中善助伝記』別冊付録)1998年3月28日、財団法人前田教育会発行
掲載 1999年10月21日