混乱のなかから 1945−1953

 戦後のはじまり

 よく晴れた夏空がひろがっていた。暑い日だった。正午が近づくと、人びとはラジオの前に額を寄せあった。その時刻を期して天皇が放送を行うと、朝のラジオが告げていたからである。正午の時報が鳴った。アナウンサーの声のあと、スピーカーから耳慣れない声が聞こえ始めた。「朕、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し」と、雑音のせいもあって意味の汲みにくい朗読がつづいてゆく。人びとが初めて耳にする、それが天皇の声であった。
 1945年[昭和20]8月15日、昭和天皇が前夜録音した「終戦の詔勅」のレコードがラジオで放送され、太平洋戦争の終結が国民に知らされた。この月に入って広島と長崎に原子爆弾が投下され、戦争の帰結はすでに明らかだったとはいえ、「神州不滅」の日本が戦争に敗れたという事実は日本人に大きな動揺を与えた。あるいは動揺よりもまず、この国には奇妙な空白がもたらされたというべきかもしれない。作家の宮本百合子は網走刑務所にいた夫・宮本顕治にあてて、「十五日正午から二時間ほどは日本全土寂として声なしという感じでした。あの静けさはきわめて感銘ふこうございます」とこの日のことを書き送っている。
 その静けさにみちた空白のあと、日本は「戦後」の歩みをたどり始める。9月2日、東京湾上の米国戦艦ミズーリ号でポツダム宣言受諾にともなう降伏文書の調印が行われ、日本の降伏が正式に発効した。日本は連合国軍の軍事占領下におかれ、政治、経済、社会、文化の全般にわたる戦後改革がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の手で進められることになる。
 太平洋戦争が終わりを告げた8月15日は、日本が敗戦の混乱からめざましく復興し、奇跡的な経済成長を達成して、国際社会に確固たる地位を築くにいたった歩みの第一歩がしるされた日でもあった。私たちもこの日を起点として、名張文化の歩みを眺めることにしよう。
 1945年[昭和20]当時、名張市はまだ誕生していなかった。現在の市域にあったのは、戦争中の42年[昭和17]に薦原、蔵持、箕曲の3村を合併した名張町と、美濃波多、比奈知、国津、滝川、錦生の5つの村である。名張町が44年8月、名古屋市栄生小学校の児童307人の集団疎開を受け入れていたほか、45年6月に美濃波多村新田が焼夷弾で被災、7月には滝川村の近鉄赤目口駅が米軍機の銃撃を受けて32人の死者を出すなど、戦争による直接的な被害はこの山国にもおよんでいた。
 名張町丸之内で砲弾部品製造の軍需工場・興亜林材兵器を経営し、名張町議会議員もつとめていた北田藤太郎は、この日、工場の全従業員をラジオの前に集めて天皇の放送に耳を傾けた。放送直後の様子を、彼はこう記している。
 一瞬、全員はその場にたたずんだまま、ことばを発しようとするものはなく、うつろな表情で呆然としていた。私もその一人であったが、社長としての立場ではいつまでもそうしてはいられない。気を持ちなおして、一同に指示した。
 「いまの陛下のおことばから察するに、どうやら日本は敗けたらしい。いま造っている軍用品も不要になることだろうが、軍からの指示があるまでさしあたり八分通り出来たものは仕上げてしまい、それ以外はいっさい取りやめる。そのうちはっきりしたことがわかってくるだろう」
 結局のところ、広島と長崎に落とされた二発の原爆は第二次世界大戦の止めの一石となった。
 上野町長はさっそく町会を招集した。招集しても、何も相談することはなかった。きのうと打って変わった余りにも大きい情勢の変転に、何をどうしていいのか、かいもく見当がつかなかった。ことば少なく「町民が動揺しないよう努めよう」と語った。

 「何をどうしていいのか」という名張町長・上野芳松の困惑は、そのまま大半の日本人が抱いたものでもあっただろう。しかし、いつまでも茫然としていることはできなかった。占領軍による制度改革が、あわただしく指示され始めたからである。

 占領と民主主義

 日本は連合国軍の占領下におかれたが、実質的にはアメリカ軍による単独占領が進められた。アメリカの占領政策の最大のねらいは、日本がふたたびアメリカの脅威とならないことにあった。そのため、国民のあいだの民主主義を復活強化させることが対日方針の基本とされた。非軍事化と民主化が、占領初期におけるアメリカ軍の2大目的となったのである。
 1945年[昭和20]10月、GHQの最高司令官ダグラス・マッカーサーは「婦人の解放と選挙権付与、労働組合の結成奨励、学校教育の自由主義化、専制政治の廃止、経済機構の民主化」という5大改革を日本政府に示し、政府はこれを受けて新しい政策を実施に移し始めた。財閥解体や農地改革をはじめ、労働、選挙、教育など多方面にわたる制度改革が民主化の名のもとに推進されていった。「民主主義、人権保障、平和主義」を基本理念として47年[昭和22]5月に施行された日本国憲法は、そうした民主化政策の総決算と呼べるものとなった。
 民主化の波は名張にも押し寄せた。1947年[昭和22]4月、初の公選で町長に選ばれた川北清一郎は、あいついで課せられる戦後改革に対処した。しかしもっとも切実だったのは、改革よりも食糧難の問題であった。「占領軍の軍政下で、”日本の民主化”を旗じるしに制度が次から次へと改革されていった。六三制、PTA、自治体警察、農地改革、米の供出等々、町長の仕事は多忙をきわめた。しかし、そういう行政上の問題以前に食糧難が目前によこたわっていた」と彼は回顧している。
 食糧難を解決するために政府は食糧増産と米の供出を強行した。米の供出は食糧難解決のため必要不可欠であるが、その割当は生産量を無視する苛酷なもので農家の苦しみは大きかった。私は県代表として北勢、中勢、南勢各地の委員とともに県知事、食糧課長らを同伴して食糧庁の会議に出席し供出量の軽減に努めた。県の割当会議でも名張町の割当軽減に努力した。町村長の一番の手柄といえば供出割当の軽減という、そんな時代であった。
 食糧難対策の苦心の一つ――カキの殻が石灰分があって肥効があることに着目し(肥料商をしていたのでこの方面の知識はある)、志摩の渡鹿野にカキ養殖業者を訪ね、カキ殻の粉末を入手し、これを農家へ持っていってジャガイモと交換し、町民に配給した。

 これが、川北町長が直面した食糧難の実態である。1945年[昭和20]から46年にかけて、食糧危機は国民の生存をおびやかすまでになっていた。名張町も47年7月、町食糧危機対策委員会を発足させ、困窮所帯や海外引揚者に馬鈴薯を特配するなど、混乱期を乗り切る手だてを講じた。
 終戦直後の名張の世相を、現存する資料からひろってみよう。まず『名張小学校百年史』には、1946年[昭和21]2月、「この頃の社会の秩序乱れ、土蔵破り等頻発し、深夜サイレンの鳴りひびき消防団の出動すること往々あり」という記述がある。『名張町沿革史』は47年当時、「戦後における社会秩序の混乱と経済事情の変調により道義の頽廃また憂慮すべきものあり、なかんずく昨年より引き続く食糧危機を脱し得ず、本年四月以降はさらにその不安深刻化し人心暗鬼をはらむ世相」であったと記している。
 食糧難は慢性化し、社会不安も治まる気配を見せていなかった。空襲で灰燼に帰した大都市ほどではなかったにせよ、名張の町も戦後の混乱のさなかにあった。しかしそうした世相にあっても、とくに若い世代のあいだには、文化活動を強く希求する動きが芽生えていた。その事実を物語るのは、名張の町で1946年[昭和21]に発刊された「暁鐘」という雑誌である。この誌面を手がかりに、戦後まもないころの文化的な状況を探ってみることにしよう。

 「暁鐘」の誌面から

 「暁鐘」創刊号はA5判、48ページ、粗悪な紙質の謄写版印刷で発刊された。奥付には発行日が明記されていないが、1946年[昭和21]3月の発行と見ていいだろう。編集人は小学校教師のかたわら音楽愛好団体を主宰していた東仁巳、表紙の装画は画家・萩森久朗が担当している。
 誌面には政治的な評論や随筆、実用記事から詩、短歌、俳句までを盛り、ほとんど無統一とすらいえる内容だが、敗戦まで自主的な活動を抑圧されていた若い世代が、論文であれ創作であれ、自由な発表の場をつくりえた喜びは素直に伝わってくる。
 たとえば東仁巳は、「暁鐘」と題したこんな巻頭の辞を寄せている。
 何にも言はないで
   あの鐘を聞かう。
 涙をふいたその面ざしには
   もう昨日の影はなくて
 日本の美しい山と美しい川と
 そして清浄な空とが映つてゐる。
 握捉とした日本はすでに脱皮した。さあ文化建設へ邁進しよう。
 暁鐘!! 暁鐘!
 希望に輝く
   あの暁鐘をきゝながら……

 あるいは、萩森久朗が寄稿した文章はこう書き出されている。
 終戦と同時に各地に文化運動が活溌に展開されつつあるは、文化こそ再建日本の指標である事を物語るものであり、我々文化運動に携はる者は今こそ立ち上らなくては何時の日にか此の泥土と悖徳にまみれた日本を救ふ日があらうか?
 これらの文章を目にするだけで、彼らを包んでいた解放感と高揚感、彼らが「文化建設」や「文化運動」に寄せた期待と自負の大きさは十分に感じとれるだろう。それは「暁鐘」につどったメンバー全員の感慨でもあったにちがいない。これより少し遅れて1949年[昭和24]、角川書店社長・角川源義は角川文庫発刊に際して「第二次大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗北であった」と記すことになるが、終戦からの数年間、「文化」という言葉がいかに理想主義的な精彩を放ち、敗戦を経験した知識人の拠って立つ基盤となっていたかが、この3人の文章から明瞭にうかがえる。
 いささか煩瑣になるが、記録として残しておく意味からも、「暁鐘」創刊号掲載作品のタイトルと作者名を写しておく。
 教養欄 「政治はむつかしいものか?」烏野義夫、「人間性について」中村昇、「民芸について」鈴木主、「音楽を楽しむ」交響楽者、「女子教育の向上」田中みどり、「姿態美」夏秋房代、「或阿呆の譫言」泉久遠、「ハブ茶を貰って」美津子、「或会話」堀内直子、「食品保存に用いられる食塩濃度常識」田中みどり、「美の躾け」東仁巳
 文芸欄 「此の道」節、「物思うままに」米本一良、「詩」萩森久朗、「あまのじゃく」節、「短歌」伊藤千栄、「短歌」節、「去上海」東礼夫、「山女魚釣り」北森木好、「岩橋武夫先生を御迎えして」くれない、「手帖」東仁巳
 消息欄 「名張文化人倶楽部に寄す」萩森久朗、「名張町青年団の前進展開」椿野純吉、「Dawn Bell Club」Hitomi、「暁鐘会会規」

 創刊号巻末に設けられた消息欄の記事には、「暁鐘」発行にいたる経緯や当時の文化団体の動静が伝えられている。それらを総合し、構成してみよう。
 戦後初の新年を迎えた1946年[昭和21]1月3日、まだ国民学校と呼ばれていた名張小学校の講堂に、名張町の青年男子40人が集まった。前年12月に結成準備の始まった名張町青年団が、結団式を迎えたのである。敗戦までの青年団は軍事体制に即応した活動を強制されていたが、戦後の民主化の機運はその新生をもうながし、新たな青年団づくりが実現したのだった。
 青年団の結成より早く、紫紅会という婦人団体も誕生していた。会員は20代後半が中心で、学校の教師も多く加わっていた。民主主義を学び、婦人の自覚をたかめることを目的に、討論会、講演会、文化財見学会などの活動がつづけられた。1946年[昭和21]3月までに、関西学院大学教授・岩橋武夫を迎えて「これからの日本人の歩むべき道」をテーマにした講演会を主催したが、このときは会場となった名張小学校の講堂から人があふれ、窓の外にも人垣ができるほどの盛況だった。
 もうひとつ、新生会という文化団体も設立を見ていた。これら青年団、紫紅会、新生会の主要メンバーが1946年[昭和21]2月、医師・釜本正憲宅に集まった。中村昇、鈴木健一、藤野眞一、辰巳美績、大久保登美子、伊藤千栄、東仁巳といった顔ぶれである。彼らの目的は文化運動の推進にあった。熱心な話しあいの結果、志をおなじくする新生会と紫紅会を合同し、新しく暁鐘会という組織を発足させることが決まった。暁鐘会の目的は「会員の教養を高め、もって地方文化の高揚に資せんとす」に定められ、男性会員は新生部、女性会員は紫紅部として活動すること、会の事業として会誌の発行、教養図書の回覧、各種研究会、講演会、座談会、短歌会、俳句会などを行うことも、この日の会合で決定された。
 「暁鐘」は、この暁鐘会の会誌として発刊された雑誌である。しかし、ページ数は号を追って減少した。4月に出た第2号は26ページ、5月の第3号は20ページとなり、第4号はついに日の目を見ることがなかった。「暁鐘」は文字どおりの「三号雑誌」として廃刊を迎えたのである。3号の編集後記には「相変わらず原稿が少なく」との嘆きが見られるが、原稿不足が廃刊の最大の原因であった。人口1万6000人の名張町で、会誌とはいえ月刊誌を発行しつづけるのは、まず稿を寄せる人材の面で相当な困難をともなう作業であったことは想像にかたくない。
 「暁鐘」の誌面から知られるのは以上のような事実である。そして「暁鐘」の廃刊をきっかけに、暁鐘会そのものも自然消滅するにいたったらしい。だが、1945年[昭和20]暮れから46年春にかけての名張の町に、民主化の機運を背景として文化活動を希求し、文化運動のための団体を組織した人びとがあったことは、「暁鐘」の誌面が十分に証明しているといっていいだろう。
 その事実を傍証し、記録しておくためにも、「暁鐘」2号に掲載されている会員名簿を引いておこう。
 名誉会員 釜本正憲
 本会員新生部 市橋武助、岩脇武男、萩森久朗、米本一良、辰巳美績、高北一郎、副松嘉弘、中村昇、烏野義夫、上嶋紀二、松田敏郎、藤野眞一、東仁巳、柴原正實、森本高男、鈴木健一、丸仲浩、和田良一、高田正、田中浅一、福持通、寺島新一、寺島清四郎、木村清、辻某、関本利生
 本会員紫紅部 伊藤千栄、大岡初枝、大岡小夜子、岡秀、岡本ひで子、大久保登美子、大塚政子、田中みどり、辰巳智栄、津久井ひろ子、米澤ゆき子、堀内直子、田中雅子、吉岡ふみ子、杼村君子、夏秋房代、中野鈴子、中森みつ、中島静枝、黒田千代、上村清子、山中くに子、山本久子、山下あや子、山村ヤス子、山口澄子、藤野美音、松本美恵子、藤野八重、吉田喜美子、古川ますの、佐野しげ子、佐野喜代、東喜久、木村えい、高野香代子、宮崎光栄、角田まさ、雪岡花子、森内君子、亀山静

 名張文化会と芸能祭

 戦後まもない時期に文化運動が急激なたかまりを見せたのは、名張だけの現象ではなかった。『三重県の百年』によれば、1945年[昭和20]の11月、松阪市役所で松阪文化協会結成準備委員会が開かれ、上野市では文化運動準備懇談会が催されている。年末までには志摩文化会、尾鷲文化協会も結成を見た。文化会や文化協会は、戦後の民主化運動をリードし象徴する組織として、多くの都市でいっせいに花を開いたのだった。
 もっとも、1946年[昭和21]5月に県下72団体で結成された三重県文化連盟は「あまりにも網羅的であったので、翌年には不活動におちいった」とも同書は伝えている。戦後の文化運動が百花斉放の観を呈したこととともに、ややもすれば短命に終わりがちであったという事実をも、私たちは記憶しておくべきであろう。
 文化会と名のついた団体は、名張の町でも結成された。その活動を伝えるのは、1947年[昭和22]3月、元町にあった芝居小屋・鴬座で催された「名張芸能祭」のプログラムである。「暁鐘」の誌面同様、この1枚の紙にもまた、戦後まもないころの名張文化の動きが克明に刻印されている。今度はこのプログラムから、戦後の名張文化を再現してみよう。
 最初に、名張芸能祭に携わった団体の名をプログラムからひろっておこう。名張で活動していた文化団体は、舞台発表の不可能なジャンルをのぞいて大半が網羅されていると見ていいだろう。
 主催 名張文化会
 後援 名張町役場
 協賛団体 学生会、紅林会、風車会、紫紅会、コンパル絵画会、楽団プラネット、向日葵童謡会、七孔尺八会、晃山流竹友会、藤間舞踊会、若葉舞踊会
 特別出演 名賀農学校、名張高等女学校有志、桔梗丘学園

 主催団体の名張文化会がいつ結成されたのか、関係者の証言によっても確認はできなかった。暁鐘会の会員名簿に名張文化会のおもだった会員の名がふくまれているというから、暁鐘会の活動が行きづまったあと、主要メンバーが再スタートを図って名張文化会を結成したと考えるのが自然かもしれない。そして名張芸能祭は、おそらくは名張文化会の発足を飾る事業であったと思われる。
 プログラムにある協賛団体のなかにも、存続期間や活動内容を知りえないものが少なからずある。確認できた範囲内で紹介しておくと、学生会は名張町の学生有志が戦後結成した組織で、大学生、高等専門学校生、女子専門学校生が、多いときで30人ほど集まり、それぞれの学校から講師を招いた講演会やメンバーのコレクションをもち寄ったレコード鑑賞会などを開いていた。
 紫紅会は前述の女性団体だが、暁鐘会がなくなったあと、ふたたび単独で活動していたのだろう。コンパル絵画会は萩森久朗、市橋武助らの画家がこの年結成した美術団体で、名張芸能祭では舞台装置を担当した。向日葵童謡会は東仁巳の指導した児童合唱団。七孔尺八会は亀森和風が戦後結成し、日本舞踊の藤間舞踊会は終戦以前から活動していた。
 特別出演した3つの学校にもふれておこう。名賀農学校は1916年[大正5]、東町に開校した名賀郡立の学校で、22年[大正11]に県立となった。おなじく22年、名張尋常高等小学校に名張町立実科高等女学校が併設され、これが27年[昭和2]、町立名張高等女学校と改称、翌28年には小学校から分離して独立の校舎をもち、34年[昭和9]に県立となった。名張芸能祭の翌年にあたる48年[昭和23]5月、名賀農学校と名張高等女学校はGHQの指令による教育改革にもとづいて統合され、女学校の校舎は名張中学校に転用された。
 もうひとつの桔梗丘学園は、丸仲よしが丸之内の自宅に開設していた専修学校である。和洋裁を中心に戦前から若い女性を指導していたが、戦後の一時期は、関西大学でも教鞭をとっていた佐々木康雄が校長をつとめていた。『三重県の百年』は戦後、英語講座や英会話教室が各地で流行したと伝えているが、この桔梗丘学園にも一時、英会話教室が開かれていた。桔梗丘という名前は、丸之内一帯の高台が江戸時代に桔梗ケ丘と呼ばれたことにちなんでいる。
 名張芸能祭の会場となった鴬座は、戦前からつづいた芝居小屋である。元町の通りに建つ木造2階建ての本格的な劇場で、旅回りの一座や浪曲、人形浄瑠璃などの公演が人気を集めた。舞台上手には三味線など囃子の席、下手に花道、客席には枡席が設けられ、2階にも席があった。しかし戦後は経営が傾き、1949年[昭和24]8月、名張映画劇場(名張映劇)と改称して映画の常設館に生まれ変わることになる。
 その鴬座で、3月23日午後1時、名張芸能祭の幕があがった。楽団プラネットによる「おおスザンナ」を皮切りに、日本舞踊、ハーモニカ合奏、合唱、童謡斉唱、尺八と琴の合奏、長唄、七孔尺八、仕舞、独唱、朗読と、さまざまな発表がつづけられる。会場は満員の盛況で、2階席も鈴なりの状態だった。午後6時に夜の部が開幕し、昼の部と異なったプログラムが演じられたが、こちらも大入りになった。舞台には戦後初めて発表の場を得た出演者の喜びがあふれ、客席はひさしぶりで芸能を堪能する観客の熱気に包まれた。平和で自由な時代が訪れたことをあらためて実感させる、それは感動的なステージになったという。
 この日のプログラムには「芸能祭の主旨」と題した文章が載せられていた。名張文化会から名張町民にあてたメッセージである。
 名張の町を、平和日本の代表的な町として、明かるく、つつましく住みやすい町にして行こう。
 少くとも、暗いかげは、政治的にも、経済的にも、拭い去り、人々がみんな相互いに生活をたのしみ、よりよい郷土を作ろうと、お互いに励み合い助け合う気風に……生気みなぎった町にして行こう。
 こうした真の郷土愛の表象として全町民を網羅して明朗質実且品性豊かな芸能者の出演を求め平和名張町新発足の一歩を印しよう。

 このメッセージを発することが、名張文化会が名張芸能祭に託した第一の目的であった。文化団体が一堂に集まり、ステージを披露して「よりよい郷土を作ろう」と呼びかけること、文化運動によって「平和名張町」の建設を進めようと訴えることが、この日の出演者の願いだった。名張芸能祭は、終戦をきっかけとして名張の町に生まれた文化運動の機運が、ひとつの頂点に達したことを示す催しであったといえるだろう。
 しかし、名張文化会による芸能祭の試みは1度きりで終わってしまう。名張町青年団などがこのあと3、4回、鴬座で同様の催しを開いたことはあったが、それもつづかなかった。名張文化会は消滅したわけではなかったし、文化団体それぞれの活動もそのまま継がれていったはずであるが、それらが集まって大きな動きを見せることはなかった。それどころか名張の文化運動は、この名張芸能祭をピークとして退潮にむかったかのような観さえある。敗戦によってもたらされた若い世代のモラトリアムが数年のあいだに急速に終息してしまったという印象すら、私たちは抱いてしまうのである。

 文化運動のトーンダウン

 名張芸能祭以後の文化運動の歩みを、名張町が発行していた公報「名張町時報」に探ってみよう。すると、1949年[昭和24]3月号に掲載された「文化団体協議会への希望」という文章が目につく。筆者は本町、栄林寺の住職だった奥田誠好である。
 それによるとこの年2月、名張町社会教育委員会の提唱で各種文化団体の会合が催された。集まったのは文化会、紫紅会のほか、実践会、薫風会、共生会といった文化団体の代表である。お互いの協調連絡のための協議会をつくることが、この日の会合の目的だった。奥田誠好は議長をつとめたせいであまり意見を発表できず、そのため公報に稿を寄せたと前置きして、こんな意見を述べている。
 この町の文化運動として、その分野においてなされる事があり、また総合運動としてなされねばならぬことがある。その後者の方は、すなわち公民館運動だの図書館の整備、文化都市の建設等、これらは一団体がやるよりも総合された団体においてなされる方がより効率的であろうと思われる。
 各団体が自らの力を誇らんとして大きな問題を自ら独りでやろうとすることはそれ自体文化的でなく、もしそれが不結果に終われば、この町の文化向上を妨げる以外の何物でもないことを強く感じねばならないと思う。文化団体としての協調された事業の上に正しいあり方があるのではなかろうかと思う。

 それぞれの分野で活動している文化団体を一本化することが、文化施設の整備など総合的な文化運動に効果的だとするこの主張は、逆にいえば当時、文化団体が横のつながりを欠いていたことを物語るものでもあるだろう。しかも、暁鐘会や名張文化会が理想主義的に語っていた「文化」や「文化運動」という言葉が、ここではより具体的かつ事務的に、それゆえやや熱の冷めた印象で使用されていることにも気づかされる。ここにもまた、文化運動のトーンダウンとでも呼ぶべき傾向が見てとれるのである。
 もっとも、たぶんこの日の会合がきっかけとなったのだろう、名張町文化団体連絡協調会という団体が発足を見たのは事実である。会長には、名張駅構内で売店を経営し、画家としても活動していた市橋武助が就任した。1951年[昭和26]に刊行された紳士録『伊賀の人々』は、市橋武助の項に「名張町文化団体連絡協調会々長として二十三に及ぶ加盟文化団体の指導的立場にある」と記しているが、この会にどういう団体が所属し、この会がどんな活動をしていたのか、確認する資料は残されていない。わずかに1951年2月、名張小学校講堂で開かれた「新名張節」発表会を報じる「名張町時報」の記事に主催団体のひとつとして名をつらねているのが、この会の活動を伝える唯一の記録である。
 終戦直後の暁鐘会、それにつづく名張文化会、さらに名張町文化団体連絡協調会と、戦後の名張で文化運動をめざした団体の動静を跡づけることで、きわめて断片的であるにせよ、私たちは終戦から数年間の市民文化の流れをたどってきた。そこに浮かびあがったのは、これまでに「退潮」や「トーンダウン」といった表現で示してきた、高揚から鎮静へという拭いがたい印象である。文化団体それぞれのレベルでの活動はつづいていたとしても、それらがまとまって形成するムーブメントは、年とともに低調になっていったという観が否めない。
 げんに、当時の名張を知る人たちに尋ねてみても、文化運動が活発だったのは戦後3、4年間だけだったと、ほぼ一様な答えが返ってくるのである。あるいはこれを、戦争終結による解放感がもたらしたモラトリアムの産物、いわば一過性の狂熱と表現することも可能かもしれない。しかし私たちは、名張文化会や名張町文化団体連絡協調会がめざした文化団体結集の動きは、1978年[昭和53]の名張文化協会発足にいたる1本の連続線上に位置していると判断したい。
 というのも、終戦からこんにちまで、個人や団体個々のレベルでの文化活動は持続的につづけられてきたはずであり、文化運動が停滞していた時期があったとしても、何かのきっかけがあればムーブメントを形成できるだけの潜在的な力は、名張につねに存在していたと考えられるからである。のちに私たちは、たとえば市立図書館の建設運動によって、そうした力の存在を目のあたりにすることになるだろう。

 経済復興と文化活動

 ここで、終戦後数年間の日本社会全体の動向に目をむけてみよう。名張という小さな町の文化運動といえども、日本社会全体の政治や経済の枠のなかに存在していることはいうまでもない。だとすれば、戦後社会の俯瞰図に名張の文化を位置づけてみる作業によって、私たちは名張の戦後文化が退潮し、トーンダウンした背景を知ることができるかもしれない。
 終戦から数年もたたないうちに、日本の戦後改革は大きな曲がり角を迎えていた。国際情勢の急変にともなう、それは急激な転換であった。名張芸能祭の翌年にあたる1948年[昭和23]、チェコスロバキアでは共産党のクーデターが発生し、ドイツではベルリン封鎖が行われた。こうした東西対立の激化、端的にいえばアメリカとソ連の冷戦構造の顕在化は、国際情勢を一気に緊張させ、アメリカの対日政策に大きな転換を迫ることになった。
 極東における自由主義陣営の有力なパートナーとして日本を自立させることが、アメリカの急務となった。その手段として、それまでの「非軍事化・民主化」から「経済復興」へ、アメリカの占領政策は重点を移動させる。ようやく実施段階に入った時点で、日本の民主化は方向転換を余儀なくされたのである。のちに「反動的修正」、あるいは「逆コース」「右旋回」と表現される転換が、戦後改革全般にもたらされたのだった。
 『ボクちゃんの戦場』などの著作で知られる児童文学者・奥田継夫は、1946年[昭和21]、小学6年生で名張町に戦後疎開し、中学3年生までを名張で過ごした。当時の体験をもとにした長篇小説は「名張3部作」としてまとめられているが、その1冊『続いていた青い空』のあとがきには、新制中学の1期生として感じとった戦後の空気がこう綴られている。
 題の由来は内容でふれた。戦争の意味、戦後の意味がわからなかった少年にとって、戦争中の空も戦後の空も、青く、続いていた、といった意味あいのみならず、八月十五日をもって”変わった”はずの青い空が、意味のつかめる大人たちにも、実は続いていたということ。
 例えば、天皇の戦争責任問題の雲散霧消。A級戦犯の釈放と同時に行なわれたレッド・パージ。軍隊の設置。財閥(企業)の復活。男性優位の封建制。等等。
 純粋戦後は、わずか、三、四年であったろうか?

 奥田継夫が「純粋戦後」と表現しているのは、「民主主義」や「文化」という言葉が理想主義的な響きを帯びていた時期のことだろう。そのわずか3、4年の理想主義の時代のあと、民主主義や文化は戦前から「続いていた」空によってふたたび覆われたのである。終戦から5年後の1950年[昭和25]には、共産主義者とその同調者が公職や民間企業から追放される大規模なレッドパージが行われた。のちの自衛隊に道を開く警察予備隊が設置され、再軍備が始まったのもこの年である。経済復興に主眼を移したアメリカの対日政策によって、財閥解体もまた竜頭蛇尾に終わった。
 日本経済も劇的な変化に見舞われていた。1949年[昭和24]2月、経済復興を主導するため、アメリカから日本へジョセフ・ドッジ公使が派遣された。ドッジは「ドッジライン」と呼ばれる一連の経済政策を指示し、インフレーションを収束させたものの、強硬なインフレ抑制策は深刻な不況を招き寄せた。大企業の大幅な人員整理と中小企業の休業・倒産があいつぎ、激しさを増した労使の対立を象徴するかのように、この年7月に下山事件と三鷹事件、8月には松川事件という怪事件のニュースが日本を駆けめぐった。
 しかし翌1950年[昭和25]、日本の経済は活況を呈し始める。6月に朝鮮戦争が勃発し、日本はアメリカ軍を中心とした国連軍の基地となった。物資調達や兵器修理などの特殊需要が生み出され、「朝鮮特需」と呼ばれる好況が訪れたのである。特需景気は企業のみならず消費者をもうるおし、52年[昭和27]から53年にかけては「消費景気」といわれるほどの好況がつづいた。朝鮮戦争は53年7月に終結し、特需景気も終息したが、戦後日本の経済復興はこの時期に軌道に乗ったと見ていいだろう。高度成長へつづく経済発展の基盤が、こうして築かれたのであった。
 占領政策の転換と朝鮮特需によって、日本には「経済」という新たな目的がもたらされた。経済復興は当初からアメリカ軍の占領プログラムに組みこまれていたし、朝鮮特需がなかったとしても復興はなしとげられたとする見方が一般的だが、戦後の日本社会には1950年[昭和25]前後、経済をテーマにしたきわだった転換があったというべきだろう。
 この大きな転換に、名張の文化運動も無縁ではありえなかったにちがいない。戦後の文化運動が3、4年で鎮静化した理由として、当時の名張を知る人びとが一致してあげるのは「文化活動に携わっていた人たちが仕事で忙しくなった」ということである。戦後の名張で希求された文化というテーマは、より具体的で生活に密着した経済というテーマの陰に、いつのまにか隠れてしまったと表現できるのかもしれない。

 市制実施への胎動

 1950年[昭和25]3月の「名張町時報」は、「生活に春来る」「インフレは最早や完全に終息した」という見出しを躍らせ、景気が回復のきざしを見せたことを伝えている。「春」を迎えた人びとは経済のために汗を流すことを選び、文化運動はしばらく忘れ去られる格好になった。急速なたかまりを見せた名張の戦後文化は、それだけに弱体で、生活に根を降ろしたものではなかったのである。
 もっとも、ムーブメントとしての文化は停滞におちいったとしても、いわゆる趣味や教養、娯楽として文化活動に携わる個人は少なくなかっただろう。地方紙「伊和新聞」の紙面から、そうした文化の断片をひろってみよう。
 1952年[昭和27]の名張町では、6月に日本舞踊若柳流の発表会、7月にコンパル絵画会の名賀美術展が開かれている。上野市では、恒例だった伊山夏期大学が8月に催され、講師には劇作家・木下順二、作家・佐多稲子、文芸評論家・福田恒存らが招かれた。11月には伊和新聞社が「伊賀芸能ベストテン」を開催、読者の人気投票でランキングを決め、入賞者の舞台を名張映劇、上野旭座で2日にわたって公演した。当時の芸能の実情を知る資料として、ベストテン入賞者をあげておこう。
 1.亀森和風(七孔尺八、名張・本町) 2.猪木妙子(川口流舞踊、上野・桑町)夏秋久代(若柳流舞踊、名張・新町) 3.三田村善八(義太夫、上野・愛宕町) 4.谷戸啓(アコーディオン、名張・本町) 5.福本竜一(新舞踊、名張・松崎町) 6.福森清一郎(義太夫、上野・桑町) 7.大田英一(ドラム、上野・福居町) 8.平木光義(声楽、上野・東忍町)瓦谷千春(バレエ、青山・阿保) 9.宮田宗保(竹保流尺八、上野・赤坂) 10.奥正己(アコーディオン、上野・佐那具)坂井昭(声楽、名張・新町)
 翌1953年[昭和28]は日本のテレビが本放送を開始した年である。5月には名張の小売店にもテレビが登場し、「大阪放送の電波が十四インチ画面に鮮明にうつり、伊賀路でも受信可能とわかった」と報じられているが、勤労世帯の平均月収が2万円台だった当時、1台20万円というテレビ受像機は庶民の手がとどくものではなかった。映画や芸能に娯楽を見いだし、個人や小さなサークルで趣味を楽しんでいたのが、一般的な市民文化の現状であったにちがいない。
 そのころ、名張町は町村合併という大きな課題を抱えていた。名張町からは1949年[昭和24]、戦争中の合併が非民主的なものであったことを理由に箕曲村が分村し、川北清一郎町長が引責辞任、あとを受けて町長に就任した北田藤太郎は、町村合併による市制実施を施政の基本方針として本格的な合併工作に乗り出した。
 まず1951年[昭和26]4月、名張町と美濃波多、錦生、比奈知の3村が合併し、名張町の人口は2万人を突破した。しかし、北田町長の目標はあくまでも市制にあった。この目標は中央政府の意向に沿うものでもあった。政府は53年[昭和28]、町村規模の適正化を図るための町村合併促進法を制定、人口8000人を基準とし、これ以下の小規模町村を合併して町村数を3分の1に減少させることをめざしていた。
 当時の町村合併には、自治体の規模を拡大することで財政基盤を強化し、行政需要の増大に対応できる体制を整備するねらいがあった。戦後、自治体は産業、土木、教育、福祉、衛生など多くの分野にわたって行政を進めるようになったが、そのための財政的な基盤は、従来の小規模な町村にはもはや期待できなくなっていた。国と県の積極的な働きかけによって全国各地で町村合併のプランが進行し、名張の町もまた市制実施への胎動のなかにあった。


初出 名張文化協会15周年記念誌『名張文化のあゆみ』1993年3月31日、名張文化協会
掲載 1999年10月21日