図説伊賀の歴史 昭和戦後

 桔梗が丘団地、桐ケ丘団地の造成

 昭和三〇年代に入って、大都市のドーナツ化が目立ち始めた。地価高騰や居住環境の悪化を理由に、都市の居住人口が郊外に移動する傾向が強まったのである。経済の高度成長にともなう宅地造成ブームが、これに拍車をかけた。都市周辺の宅地化が進み、通勤圏は鉄道を軸に拡大の一途をたどり始める。
 近鉄大阪線で大阪と直結され、緑と清流に恵まれた名張市にも、宅地化の波は急速に押し寄せた。名張は、関西圏の都市生活者がマイホームの夢を実現できる東限の地になったといえるだろう。江戸時代からつづく市街地を囲むように、丘陵や耕地があいついで住宅地に姿を変えた。
 名張市の宅地開発のさきがけとなったのは、近畿日本鉄道が手がけた桔梗が丘団地である。市域中央のやや北、近鉄線の東にひろがる丘陵に、大規模な造成が進められた。着工は昭和三八年(一九六三)。三九年には桔梗が丘駅が開設され、四〇年に入居が始まった。団地の名は、江戸時代に名張を治めた藤堂家が桔梗の花を家紋としたことにちなんでいる。
 桔梗が丘の造成区域は徐々にひろがった。学校をはじめとした公共施設が整備され、平成二年(一九九〇)には近鉄線西側にも宅地が完成した。計画中のものも含めれば、総区画数は約六、五〇〇。人口は同四年八月現在で一万三、〇〇〇人あまり。その大半が、大阪を中心とした関西圏から転入した新しい市民である。
 昭和四〇年代以降、大手開発業者による宅地造成はラッシュ状態を呈した。おもな団地の名と設町の年を列記すると、蔵持町緑が丘(四八年)、富貴ケ丘(同)、つつじが丘(五一年)、さつき台(同)、すずらん台(五四年)、百合が丘(五七年)、梅が丘(六〇年)。赤目口には赤目町新川(五二年)、美旗には美旗町(五四年)と、駅周辺の宅地化も見られた。平成四年七月の時点で、大小あわせて三二の住宅団地が造成を終え、その総面積は一、〇〇〇ヘクタールを超えている。
 住宅地開発はさらに東に進み、青山町にもおよんだ。近鉄線の南に位置する丘陵を大倉建設が造成し、昭和五八年、約二、五〇〇区画の桐ケ丘団地が完成した。団地の名は開発地域内にあった桐ノ木という小字名から名づけられた。平成四年六月現在の人口は三、二〇〇人で、町人口の三割に達している。近鉄線を軸として、宅地化の波は青山峠の手前まで迫ったことになる。
 住宅団地のあいつぐ誕生で、昭和二九年の市制実施時に三万人だった名張市の人口は、平成四年八月には七万五、〇〇〇人台に届いた。この人口急増は、名張市にさまざまな対応を迫り、変貌をもたらした。旧来の市街地と桔梗が丘の中間に市の区画整理事業が進み、昭和六二年、鴻之台という新しい町が生まれたのも、その変貌のひとつに数えられるだろう。同年、名張市役所が旧市街地の丸之内からこの鴻之台に移転されたことが、名張市の対応と変貌を象徴的に物語っている。

 国道一六五号改修、名阪国道の開通と工業団地

 伊賀の南と北を、二本の幹線道路が東西に貫いている。奈良県から名張市に入り、青山町から青山峠を越えて津市にいたるのが国道一六五号。上野市、伊賀町を通過して亀山市に抜けるのが名阪国道である。どちらも昭和三〇年代以降、自動車交通の発達にともなって改修・建設が進み、伊賀の産業や観光に大きな役割を果たすことになった。
 南伊賀を経て大阪と伊勢を結ぶコースは古くから開かれていた。とくに江戸中期から明治なかばにかけては、伊勢参宮の初瀬街道として往還のにぎわいを見た。この街道は津市を起点とする県道大阪津線となり、昭和二八年(一九五三)には国道一六五号線に昇格したものの、路面は江戸時代と大差がなく、青山峠は自動車の通行もできない状態だった。
 国道一六五号の改修は東西両端から始められたが、伊賀は最終工区にあたっていた。三三年、名張市・青山町など関係市町村が改修促進期成同盟会を結成するなど、早期改修を望む地元の強い声を受けて、ようやく三八年一二月、奈良県側から東に向かって伊賀工区の工事がスタートした。初瀬街道に沿った新コースに、黒田大橋や新夏見橋、最大の難所とされた青山峠の青山トンネルなどが新しく建設され、竣工は四八年八月。国道昇格から二〇年後のことであった。
 四方を山に囲まれた伊賀の地に、中京地区と京阪神地区をつなぐ自動車専用道路として建設されたのが名阪国道である。昭和四〇年一二月に開通した国道二五号の亀山市―奈良県天理市間が、一般に名阪国道と呼ばれている。亀山以東は東名阪自動車道、天理以西は西名阪自動車道に連絡され、鈴鹿郡関町からは伊勢自動車道が南下。これらは名古屋・伊勢と大阪を最短距離で結ぶルートで、名神高速道路との機能分担を目的に、名古屋インターチェンジへの接続が予定されている。
 名阪国道は、伊賀の発展に欠かせない路線として待望ひさしい道路だった。三八年四月から一、〇〇〇日という異例の短期間を目標に工事が進められ、「千日道路」の異名が生まれた点にも、開通に寄せた地元の強い期待がうかがえるだろう。上野市に八か所、伊賀町に五か所と、沿線の地域振興を目的にインターチェンジも多く設けられている。五五年三月には四車線化が終了した。
 この二本の道路は、「陸の孤島」と呼ばれた伊賀の産業を名古屋や大阪とダイレクトに結ぶ動脈となった。「内陸を貫く名阪国道が、従来上野市を経済的に不利におかしめた立地条件を、一気に浮上させることになった」(滝本潤造氏著『上野市経済の素描』)とされる上野市では、昭和四五年以降、三田、小田町、白樫に工業団地が造成され、名阪国道南の丘陵には上野新都市の開発も始まっている。国道一六五号に沿う名張市では、四四年に蔵持、五八年に八幡の二つの工業団地が完成し、青山町伊勢路にも平成元年(一九八九)に工業団地が誕生した。

 青蓮寺ダムの建設──青蓮寺国営総合農地開発事業

 「湯水のようにつかう」という表現があるほど、日本は水に恵まれた国である。しかし、水利用といえば農業用水がほとんどだった時代が過ぎ、都市化・工業化が進展すると、生活用水や工業用水の需要が急増し始めた。そうした新たな水需要に対応し、水資源の総合的な開発と合理的な利用を図ることを目的に、昭和三六年(一九六一)に公布されたのが水資源開発促進法である。その規定に基づいて、主要な河川の水資源開発が、水系の上流から河口までを一貫して進められることになった。
 三七年、利根川と淀川の両水系が最初の開発水系に指定され、同じ年に設立された水資源開発公団の手で事業がスタートした。伊賀から流れ、京都盆地南部で淀川に合流する木津川も、淀川水系の開発基本計画に組み込まれた。その一環として三九年に計画決定されたのが、名張市の青蓮寺〔しょうれんじ〕ダムである。
 建設地は、名張川にそそぐ青蓮寺川の下流、支流折戸川との合流点。四一年に工事が始まり、四五年四月、高さ八二メートル、堤頂の長さ二七五メートル、総貯水量二、七二〇万立方メートルのアーチ式コンクリートダムが竣工式を迎えた。洪水調節をはじめ、名張市および阪神地区への水道用水の供給、名張地区一二五ヘクタールと木津川沿岸三、三〇〇ヘクタールの既成農地および青蓮寺国営農地開発地区の農業用水の確保、三重県企業庁による青蓮寺発電所での発電を目的とした多目的ダムである。事業費は七三億七、〇〇〇万円。建設にともない、家屋四四戸と明治四二年(一九〇九)から稼働していた青蓮寺川発電所がダム湖に沈んだ。
 このダム建設に連動して、青蓮寺国営総合農地開発事業が構想された。上野市南部から一部名張市にかけての、木津川と名張川に東西をはさまれた広大な丘陵を農地として開拓し、青蓮寺ダムから農業用水を供給するプランである。四三年、上野市の法花・白樫・大内・予野・古山・桂などを含む丘陵地に開発の手が入れられ、完成は六一年三月。一九〇億円の事業費をかけて、畑地五二五ヘクタールの造成と灌漑、二七〇ヘクタールにわたる水田の区画整理が進められ、周辺の既存水田六一八ヘクタールへの農業用水の供給態勢も整えられた。
 青蓮寺ダムの建設は観光開発の一翼をも担う結果となった。形成されたダム湖は青蓮寺湖と名づけられ、その緑に囲まれた美しい景観は、赤目四十八滝・香落渓〔かおちだに〕に隣接する新しい観光資源となったのである。湖の周辺には地元農家の手でぶどう狩り、いちご狩りの観光農園が開かれ、ホテルやレストランも進出した。
 淀川水系の開発計画では、青蓮寺ダム以外にも二つのダムが伊賀に建設されることになっている。名張市では名張川の比奈知ダムが四七年に計画決定され、平成四年(一九九二)一二月にダム本体に着工、同一〇年を事業の最終年度として、総貯水量二、〇八〇万立方メートルの多目的ダム建設が進められる。青山町では昭和五七年(一九八二)、前深瀬川の川上ダムが計画決定を見た。

 室生・赤目・青山、国定公園に指定

 昭和四五年(一九七〇)一二月、室生赤目青山国定公園が指定された。面積二万六、三〇八ヘクタールは三重・奈良両県でほぼ等分し、三重県側は名張市・青山町など二市四町三村にまたがる。奈良県側には、公園のほぼ中央に倶留尊〔くろそ〕山・鎧岳・兜岳がそびえる室生火山群、西に女人高野で知られる室生寺があり、三重県側は火山群の北側に赤目四十八滝と香落渓の景勝、北東部に青山高原の眺望を擁する山岳自然公園である。南部には両県をへだてる高見山地がつらなっている。
 赤目四十八滝は修験道の道場として開かれたとされる渓谷で、江戸末、名張の儒学者・鎌田梁洲の紀行文『観瀑図誌』によって初めてその風光が紹介された。明治三一年(一八九八)、地元有力者が赤目保勝会をつくり、遊歩道整備に乗り出したのが観光開発の第一歩である。大正から昭和初年にかけての鉄道の開設が観光地化を大きく前進させ、昭和二五年(一九五〇)、毎日新聞社の「日本観光地百選」瀑布の部一位にランクされたことで広く知名度を得た。
 四十八滝の名の通り大小さまざまな滝がかかるが、なかでも不動滝・千手滝・布曳滝・荷担〔にない〕滝・琵琶滝が五瀑と呼ばれる。春の新緑、夏の納涼、秋の紅葉、冬の氷瀑と、四季おりおりの風情を求める行楽客は年間三〇万人を数える。渓谷一帯は独特の植生をもち、特別天然記念物のオオサンショウウオが生息することでも知られる。昭和五七年、世界から集めた両生類を飼育・展示する日本サンショウウオセンターが滝入口に完成した。
 赤目滝からハイキングコースが開かれている香落渓は、青蓮寺湖から上流にさかのぼった渓谷である。室生火山群の柱状節理が斧で刻みつけたような断崖となり、清流沿い約八キロにわたってそびえている。新緑や紅葉と鮮やかなコントラストを見せる黒い岩肌には、天狗覗き岩・屏風岩・天摩嶺・鬼面岩などの名をもつ奇岩がつづき、奈良県に入った小太郎岩から先は奥香落と称される。香落渓の観光地化は大正七年(一九一八)の曽爾〔そに〕街道開通を契機として始まった。名張の町とその商圏であった奈良県奥宇陀地方を結ぶルートの開設は、同時に香落渓の観光にも道を開き、「赤目・香落」と併称される行楽地になった。
 伊賀と伊勢をわける布引山地のうち、笠取山から青山峠にかけての尾根は約二〇キロにわたってなだらかな高原をかたちづくっている。これが青山高原である。高原の南端にあたる青山峠は初瀬街道の難所のひとつだったが、いまでは近鉄大阪線と国道一六五号によって東西が結ばれている。昭和三六年、近鉄が青山高原ハイキングセンターを設置したのをきっかけに、一帯の観光開発が本格化した。東西の麓に東青山・西青山の両駅が開かれていたこともハイキングコースとして脚光を浴びる要因となり、年間三五万人を超える観光客が訪れる。全山を彩る春のつつじ、高原を埋めつくす秋のすすきがとくに名高い。

 伊賀の工業の発達――森下弁柄と高北農機

 和傘と組紐。この二つが昭和初期までの上野を代表する産業であった。和傘づくりは江戸時代に下級武士が手がけた内職を起源とし、大正なかばから昭和初年にかけての最盛期には、約二百軒の業者が年間三〇〇万本を生産した。組紐も和傘同様、近代以前からの伝統を継ぐ家内工業として発達した。
 つまり伊賀地方には、昭和に入っても近代的な工業はほとんど成立していなかったのである。運送の不便、用水の不足、資本の弱体などの要素が工業化の進展を阻んでいた。とはいえ、伊賀で創業して全国に名を知られるにいたった企業も存在する。上野の森下弁柄と名張の高北農機が、その双璧だろう。
 弁柄は酸化第二鉄の粉末で、赤色顔料として古代から使用されていた。古くは天然の鉱石を精製し、江戸時代以降は磁硫化鉄鉱の鉱石から製造されていたが、大正七年(一九一八)、森下元良が硫酸鉄を原料とした製造方法を発明、四十九に工場を開設して工業生産に乗り出した。これが森下弁柄工業の創業である。社業は順調に伸び、大正末期に研磨材用、近年は磁性材料用など新たな開発を重ねて、塗装用以外にも酸化鉄の多様な用途を開拓している。
 高北農機は明治四五年に創設された。金物店に奉公しながら農機具改良を志していた高北新治郎が、従来よりも深く耕せる犂〔すき〕を完成させ、丸之内に高北農具製作所を開いて独立した。大正一二年に木屋町に移転したが、当時の生産量は年間五万台、販路は中国大陸から朝鮮半島、東南アジアにもおよんでいた。昭和四八年(一九七三)に蔵持工業団地に移り、六三年に社名をタカキタに改称。農業機械以外に電器・音響部品の輸出なども手がけている。
 「森下の弁柄」や「高北の犂」として全国的なシェアを獲得した二社の歩みは、創業者の発明が立地的不利をよく克服し、伊賀に根ざしながら一流メーカーに成長した点で好一対をなしている。森下元良は謡曲や俳句をたしなむ趣味人でもあり、紅柄と号して句集『べんがら』を遺した。高北新治郎は全国を回って農機具使用の指導にも携わり、昭和三九年、名張市初の名誉市民に選ばれた。
 大正から昭和一〇年代にかけて、上野市にはほかにも企業の創立・進出が見られた。おもなところをあげると、大正七年に日本耐火窯業、八年に上野中外医薬、一〇年に伊賀窯業、昭和二年に上野ガス、一二年にエビス釦〔ボタン〕工業、一四年に立川ペン先、一八年にサッポロ巻本舗、旭ダイヤモンド工業、一九年に豊田式織機。これ以外に、上野商工会議所の『二十五年の歩み』は、同時期の立地工場として野島鉄工、筒中セルロイド、愛知時計、日の本足袋の名をあげている。
 戦後は、昭和二四年(一九四九)に安永鉄工所が誕生し、三八年には愛知県常滑市で大正一三年(一九二四)に創業した伊奈製陶が進出するなどの動きがあった。しかし、上野を中心とした伊賀の近代的工業は、昭和四〇年の名阪国道開通によってようやく幕開けを迎えたというべきだろう。

 伊賀のリゾート開発

 池田内閣が所得倍増政策を打ち出した昭和三五年(一九六〇)を起点として、日本は「経済大国」への道を歩み始めた。のちに諸外国から「日本の奇跡」と呼ばれることになる、経済の高度成長の幕開けである。しかしその歩みは、「既存の伝統文化や社会関係、生態系をいちじるしく破壊する」結果を招き、日本人の生活や意識に劇的な変化をもたらして、「私的生活の享楽〔エンジョイ〕を追求することが第一」という価値観を定着させたとも指摘される(色川大吉氏『昭和史世相篇』)
 この説にそって述べるなら、三六年に始まった全国的なレジャーブームは、「享楽」追求の端的なあらわれだといえるだろう。各地の観光地が家族づれや若者、団体客でにぎわいを見せ、四〇年代には別荘ブームとゴルフブームが生まれるにいたった。そうした世相は青山高原にもおよび、整備が進みつつあった国道一六五号の南側、一志郡白山町地内に、民間業者の手でゴルフ場や別荘地を含むリゾート地が造成される構想が進められた。
 ところが、業者が倒産してプランは頓挫した。放置された造成予定地の開発を望む地元の声を受け、三重県は一帯のリゾート開発を地域開発計画に組み入れることを決定。四七年、県企業庁が青山高原保健休養地として造成に乗り出した。完成は五一年三月。開発面積一一四・五ヘクタールのうち、六割がプールやテニス場など公共用地、四割が七九九区画の分譲用地として整備された。四八年に始まった分譲は平成元年(一九八九)に終了し、購入者の府県別構成は、大阪が五四パーセント、三重が二五パーセント、以下、奈良、兵庫、愛知などとなっている。
 保健休養地の造成に歩調を合わせて、青山高原公園線の整備も進められた。青山町伊勢路の国道一六五号から北に分岐し、青山高原の最高峰である笠取山にいたる延長一〇・七キロの道路である。もとは昭和四二年(一九六七)、陸上自衛隊久居部隊に委託して敷設されたルートだったが、県企業庁はこれを有料の観光道路として整備し、五〇年六月、「青山高原パークライン」の名で供用を開始した。しかし交通量は見込みほど伸びず、維持管理の赤字が累積したため、五九年四月には無料開放される結果となった。
 経済成長の時代にレジャーブームがあったように、昭和六〇年以降の空前の好況時にはリゾートブームが起き、「バブル経済」の終息とともに急速に鎮静化した。自然保護・生態系保全を求める世論の高まりも、やみくもなリゾート開発の歯止めとして働いている。経済開発と自然保護の対立のなかで、日本人の価値観はふたたび大きく動揺しているのである。三重県が平成二年(一九九〇)にまとめた第三次長期総合計画は、伊賀の地域振興の方向として「都市近郊型の観光・レクリエーションゾーンとしての整備」をあげているが、この整備が「享楽」という価値のみを基本とするべきではないことは、昭和三五年以来の日本の歩みが明確に示しているといえるだろう。


初出 久保文武監修『図説伊賀の歴史 下巻』1992年11月19日、郷土出版社
掲載 1999年10月21日
番犬追記 下巻に収録された「昭和戦後」全十二篇のうち後半六篇にあたります。